蒼龍国には、ナランにない文化が多くある。
定住。農業。貨幣。
そして飲食店も、その中の一つだ。
都の中をぐるりと一周したヨミたちは、宮廷からほど近い飲食店の片隅にいた。二人がけの長椅子が両端に並んだ机の上には、様々な料理が大皿にのせられて並んでいる。
羊の肉を串に刺して焼いたもの。鶏肉と野菜を一緒に蒸して味付けしたもの。一抱えある大きな魚を香草と一緒に焼いたもの。それから果物の入った皿と、目の前には黒い液体が杯に入っておかれていた。
宮廷で出る料理に比べると随分質素なものだったが、登り立つ湯気と香ばしい香りに食欲がそそられる。
「雹藍様、すべて問題ありません」
毒味を終えた翡翠が囁くと、隣の雹藍は頷き食べ物を口に運び始めた。続いて、翡翠やナパルも食事を始める。
ヨミが綺麗な手つきで食事を進める雹藍を見つめていると、視線に気付いた彼がこちらに向かって首を傾げる。
「食べないのか? ここの店、都にくる度に来ているが、結構うまいぞ」
「あ、いえ、食べます」
まさか食べる姿に見とれていましたなどと言えるはずもなく、ヨミは慌てて目の前の杯を持って一気に飲む。そして盛大にむせた。
「な、なに、これ!? 果実の汁かと思ったのに!」
酸っぱいような、渋いような味が口いっぱいに広がって、ヨミは杯を睨みつける。その様子を見て、雹藍は愉快そうに口角を上げた。
「ナランの民は酒を飲まないのか?」
「これ、お酒なのですか? こんな酒、飲んだことない……。変な味がします……」
「ナランにもお酒はありますが、このような黒い液体ではないのですよ」
苦々しい顔をしているヨミの代わりにナパルが答える。彼女は涼しい顔で杯を持ち、少しだけ液体を口にした。
「ナランのお酒は、馬の乳を発酵させて作るのです。あれも酸味が強いですが、このお酒の味とはまた少し違いますね」
「ああ、もしかして馬乳酒ですか? 蒼龍国にもありますよ。万人受けする味ではないうえ、蒼龍国ではあまり大量に作れるものではないので、飲む人はあまりいませんが」
ナパルの言葉に、翡翠は肉を口に運ぶ手を止めて言った。それを聞いたヨミは、目を輝かせて雹藍を見る。
「そうなのですか? お酒……馬乳酒が蒼龍国でも手に入るのですか?」
「まあ……そうだが。……飲みたいのか?」
「勿論ですよ」
答えながらヨミは、羊肉の串を大皿から取ってかぶり付いた。鳥や牛より堅い肉質に、鼻の奥をくすぐる独特の臭み。故郷の味がヨミの喉に染み渡る。
蒼龍国の料理が不味いとは言わない。鳥も、魚も、米も、野菜も、きっと美味しいのだろう。自分がそれらの食材に馴染んでさえいれば。
休戦となって十年。商人たちの手により、ナランの民も野菜を時々口にするようになっていたが、それでもやはり主食は羊なのだ。
宮廷でも一度羊が出てきたが、基本的には雹藍の好みなのか魚中心。半月程度ではまだ口慣れしていない。
「たまには故郷の味を口にしたくなるというやつです」
「そうか……。ならば、今度用意して……」
雹藍が言いかけたその時、後ろの方で、ばん、という大きな音とともに、大音量の罵声が響いてきた。
「まったくよ! 噂は本当だったってことか!」
「ああ。式典の話を聞く限りはな。ちっ……皇帝陛下が、あろう事かナランの女を后にするなんて」
見るとヨミ達の三つ後ろの席に、柄の悪そうな男が二人座っている。一人は痩せぎす、もう一人は太った片腕の男だ。彼らは酒を飲み、羊の串焼きをかじりながら、雹藍とヨミの事をあることないこと言っている。
一瞬、自分たちがここにいることがばれたのかとも思ったが、こちらを一切見ない事から、どうやらそういうわけではないらしい。
男達の話の内容と言えば、よく聞く悪口だ。
ナランは野蛮だ。ナランは醜い。ナランは……。
ヨミは、彼らを無視して食事を続ける。
そんな事、宮廷内で何度も言われ続けていた。それが少し大きな声で騒がれている、ただそれだけのこと。
蒼龍国に来た直後は怒りや悲しみを多少感じてはいたものの、今ではもう、すっかり言われ慣れてしまった。彼らは自分に面とむかって言っている訳ではないし、いつものように適当に聞き流していれば済む話だ。
ヨミがそんな事を思っていると、太った男が再び杯で机を叩いた。
「本当に、十年前のあの時は最悪だった! 俺の腕も、あの戦いでナランと奴らの操る精霊にやられていっちまったんだ! あのずる賢い蛮族め! 奴らなど、人間じゃない! 獣だ!」
「ヨミさん……」
「大丈夫。慣れていますから」
獣はお前らだと心の中で悪態をつきながら、ヨミはナパルに微笑み再び肉の串を口に運ぶ。
その時、隣の雹藍が突然席から立ち上がった。
「雹藍? どうしたのですか?」
ヨミの問いに答えることはなく、彼は黙ったまま二人組の席まで歩いて行く。
「あ? なんだ、兄ちゃん」
二人の男は突然現れた雹藍を鋭い視線で睨みつける。その相手がまさかこの国の皇帝だとは思いも寄らずに。
「なんか俺たちに用でもあんのかよ」
太った男に唸るような声で問いかけられても、雹藍は眉一つ動かさない。彼らの机の上を一瞥し、そして静かに口を開いた。
「その肉、うまいか?」
「あ?」
突然の問いかけに、男達は目を瞬かせる。そして自らの取り皿の上に置いた食べかけの肉を見た。
痩身の男が答える。
「ま、まあ、うまいけどよ……。それがなんだってんだ」
「そうか。では、それが何の肉か分かっているか?」
「羊だろ? 品書きにもそう書いてあるじゃねぇか」
「では、その羊の肉が、どこから来たものか知っているか?」
「……」
男達は黙り込む。その答えを、二人は口にすることができなかった。
雹藍はそんな二人を見比べて、そっと目を閉じた。
「我が蒼龍国の作物はうまい。けれど、その作物を育てる為に、我が国の土地の多くが使われている。育てられるといえば、場所を取らない鶏か、農耕の役に立つ牛くらいだ。食用の羊を飼える程の場所はない」
雹藍はそこで言葉を切り、瞼を開いて男達を見た。しかし彼らは苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、口を堅く閉じているだけ。
「……確かに、我が国は建国以来、ナランの民と何度も争ってきた。しかし休戦後、取引を始めた事によって、既に彼らは我が国に欠かせない存在となっている。恨むなとは言わないが、それを忘れない方がいい」
雹藍はそう言い残し、ヨミたちの席に戻ってくる。そして机の上に金を置き、ヨミの腕を掴んだ。
「出るぞ」
「あ、ちょっと……」
否定する暇もなく、ヨミは雹藍に引っ張られて店を出る。その後を、翡翠とナパルが追いかけた。
店から出て、雹藍は大通りを宮廷に向かって無言で歩いて行く。しばらく歩いたところでふと彼は立ち止まり、ヨミの方を振り向く。
「すまない。不快な思いをさせた」
「……」
目を伏せる雹藍を見ながら、ヨミは店での出来事と彼の言った言葉を思い出す。
この皇帝の事が、余計に分からなくなってしまった。
彼は十年前の戦いでナランを襲った将軍。けれど先程の店での発言は、ナランの事をかばうような言葉に聞こえた。
確かに言葉の通り、蒼龍国の利益の事もあるのかもしれない。けれど、あの場を収めてくれた理由はそれだけではない気もする。
しかし雹藍の僅かな感情表現から、彼の真の思いを読み取ることはできなかった。
一体彼は、ナランの民である自分の事をどう思っているのか。その疑問が胸の中に湧き上がり、思わず口から言葉が溢れ出る。
「雹藍は、私の事をどう思っているのですか」
突然の問いに、雹藍は眉をぴくりと動かし、顔を背ける。
その耳が真っ赤に染まっているのを目にして、ヨミは間違えた、と口を押さえて俯いた。
訂正しようと口を開こうとしたその時、雹藍の口から微かな言葉が聞こえてきた。
「それは……、もちろん……」
「え?」
ヨミは顔をあげ、目の前の雹藍を見た。彼は頬を真っ赤に染めて、口元を片腕で隠している。
自分の顔が熱くなるのを感じた。雹藍に腕を掴まれたままという事実を、妙に意識してしまう。
「もちろん、なんですか……?」
おそるおそる、ヨミは尋ねた。周りに人が大勢いるのに、目の前の青年しか目に入らない。
「もちろん……」
雹藍が口を開く。静かな声は、微かに震えていた。
「君を……好いて、いる」
ぽん、と。
何かが弾けると同時に、心の中に小さく温かいものが生まれるのをヨミは感じた。
早朝の紫玉園は、薄い靄が掛かっていた。草木は朝露に濡れ、起き上がる時を静かに待っている。空は薄い雲に覆われて、白い景色をより一層引き立たせた。
紫玉園の端、小さな堂の中に座ってその景色を見るヨミは、一人寒さを感じて肩掛けを引き寄せる。
ヨミが蒼龍国に来てから、半月と七日が経っていた。目的を成し遂げる事ができないまま、式典が七日後に迫っている。けれどヨミは、焦っていると同時に迷っていた。
「あたし……、どうしちゃったんだろ……」
七日前、西城の視察に行った日から、再びいくらか状況が変わった。
まずは見張りの兵のこと。部屋の前の見張りは相変わらずだが、こうして外に出る時は雹藍に頼んで一人で出歩けるようにして貰った。
そして雹藍はほぼ毎日ヨミの元を訪ねるようになっていた。言葉が少ないことは相変わらずだが、それでも自分の考えや感情を伝えようと一生懸命話してくれる。
無表情だと思っていた彼の表情も、日を追うごとに感情が読み取れるようになっていき、今ではどうしてあの男が無感情と思っていたのか分からないと思う程だった。
「それでも、あいつは父さんと母さんの敵に違いない。あたしはあいつを殺す為に生きてきて、あいつを殺す為にここにいるのに」
自由に行動できる範囲が広がり、そして二人きりになる時間も増えた。その気になればいつでも喉元に剣を当てられる。なのに剣をとろうとすると、「本当にそれでいいのか」と、心の中から別の声が聞こえてくるのだ。
「これも、あの男があんなことを言ったせいだ……」
――好いて、いる。
その言葉を思い出し、ヨミは頬が熱くなるのを感じた。
耳まで真っ赤にしながら、震える声でそう告げた雹藍。表情からも態度からも、冗談ではなく本心で言っているのだという事は伝わってきた。
面と向かって男から好きと言われたのは初めてだった。いくらヨミでも、告白をされて意識しない訳がない。
「別に、絆されたりなんかはしてないよ。あいつのことなんて別に好きじゃない、と思うし……。今でもちゃんと敵だって思ってるし、殺そうと思えば殺せるんだ……」
そう。最後の一押しが足りないだけ。その何かさえあれば、自分は前に踏み出せる、はずだ。
ため息をつきながら俯くと、ふと腰帯に差した笛が目に入った。
「久々に、笛でも吹こうかな……」
思考以外に意識が向けば、少しは気が紛れるだろう。
ヨミは呼龍笛を腰帯から引き抜くと、吹き口に唇を当て、静かに息を吹き込んだ。
軽やかな音色が堂の中に響き渡る。音は窓から外に出て行き、紫玉園中に広まっていく。大気に、地面に、草木や花に。そしてヨミの心に響いていった。
笛の音に願いを乗せて奏でれば、精霊たちがそれを叶えてくれる。
幼い頃、母はそう言ってヨミに何度も笛の音を聞かせてくれた。
もし本当に精霊たちが助けてくれるなら、自分の背中を押して欲しい。
そうすれば、きっと自分は前へと進んでいけるだろうから。
そんな事を思った時、突如堂の外に一陣の風が吹く。驚いたヨミは演奏をやめ、窓の外に身体を乗り出した。
つむじ風だったそれは、徐々に人の形を取っていく。しかしその影から感じるのは、人ならざる者――精霊の気配だった。
「ナパル……、じゃない。なら、誰……?」
もしかして、本当に精霊が願いを叶えにやってきてくれたのか。
そんな事を思いながらヨミは目の前の風をじっと見つめていると、やがてそれは十三歳程度の少年の姿になった。
ナランの民の服を着たその少年はしかし、肌には所々白いうろこが浮いており、尻からは蛇に似た長い尾が生えている。
「誰?」
「バラン。風龍だ」
首を傾げるヨミに、少年は大きな金色の瞳をくるりと動かしてみせた。白い尾が、ゆったり左右に揺れている。
「風龍……。にしては、まだうろこも小さいね。生まれてあんまり時間が経ってないんだ」
彼はヨミの言葉には応えない。しばし無言でこちらを見た後、一言告げた。
「伝言がある。トキからだ」
バランが来たのは笛の力だと思ったが、ただのトキからの伝言だったらしい。ヨミは心の中で密かに気を落としつつ、彼に尋ねる。
「トキ兄は何だって?」
「まだ実行していないのか。早くしろ、と」
「……トキ兄の馬鹿」
確かに兄から連絡が来ると言えばそれしかなかったが、それにしたってあまりにも折りが悪すぎる。
唇をとがらせ、不快の意をあらわすヨミを、バランはしばらく見つめていたが、やがて「トキに伝言は」と口を開いた。
「うるさい、馬鹿兄。やろうとしてる、って伝えて」
「……。わかった」
つんとした態度のヨミにも、バランは眉一つ動かさない。
蒼龍国に来た頃の雹藍と同じくらいに無表情かつ無感情だが、ただ表現が下手なだけ出会った彼と違って、バランは本当にそうなのだろう。精霊には人間と同じような感情を持たないものも時々いると聞く。
「じゃあ、俺はこれで」
「うん。お願いね」
言い終わるより先に、バランは再び風となってその場から消えてしまった。
ヨミはぼんやりと紫玉園を見渡した。朝靄は大分晴れていたが、空に掛かる雲のせいでどこか空気が重い。
背中を押されても、大して感情は動かなかった。相変わらず迷いはあるし、剣を取ることができるかどうかも微妙な所だ。
けれど、早くしろ、と言われてしまった。ならば迷いがあってもやるしかない。
「うん、今夜かなぁ……」
いつも通りであれば、今夜も雹藍はヨミの部屋に来るはずだ。
復讐を果たすこと、それがヨミの生きる意味。雹藍を殺す事は、間違いなんかじゃないはずだ。
堂から出て後宮に繋がる渡り廊下を歩きながら、ヨミはそう心に念じるのだった。
「え、今夜ですか?」
「そう。いい加減、片をつけないと」
ナパルに計画を実行することを伝えたのは、夕食後、部屋に戻って寝衣に着替えた後だった。
ヨミは寝台に腰掛け、横に控えるナパルに、バランに出会った事やトキからの伝言の話をする。
「なら早めに教えていただければ、私もなにかお手伝いできたのに……」
「……言う機会がなかったんだ。忙しかったし」
嘘だった。本当は、今夜実行すると決意した後も、心のどこかに迷いがあった。だから、なかなかナパルに話し出す事ができなかった。
「大丈夫。多分今日もあいつは来るから。二人きりになった時に隙を見て剣をあいつの胸に突き立てるだけ。ナパルは、翡翠を引きつけててくれればいいよ。なんだか最近仲良いみたいだし」
「いえ、別に仲が良いと言うわけではないですが……」
ヨミと雹藍が毎夜部屋で会話をしている間、ナパルと翡翠は追い出された者同士、部屋の扉の前に立っていた。
翡翠は口を開けば復讐心剥き出しの言葉が溢れ出ていた以前と違って、その日の天気だとかナパルの好きな物だとか、そういう他愛もない会話を持ちかけてくる。
その変化を素直に喜ぶ反面、自分の立場ではいつか彼を裏切ることになるのだと心苦しく思っていた。
悲しげな表情で目を伏せたナパル。ヨミはその心中に抱いているであろうものを見えない振りをして、脇に置いた短剣を懐に入れる。
「とにかく、お願いね。いつも通りなら、もうすぐ雹藍が……」
その時、聞き慣れた音で誰かが部屋の扉を叩いた。ヨミはその音に寝台から立ち上がる。
「噂をすれば、だね。ナパル、おねがい」
「……わかりました」
ナパルが部屋の扉を開けると、雹藍と翡翠が部屋の中へと入ってきた。
「ヨミ。今宵も、問題ないか?」
「ええ。私もお待ちしておりました」
無表情だった雹藍は、ヨミの言葉にうっすらと微笑みを浮かべる。そしていつも通りに部屋の椅子に腰掛けたので、ヨミも彼の反対側へと座った。
二人向かい合って席に着いたところで、翡翠が持ってきた菓子や茶を机の上に並べ始める。
「今宵は、君の喜びそうなものを持ってきた」
「あら、何でしょう? 楽しみです」
ヨミは笑いながら、目の前の彼を見る。
皇帝として職務をこなしている時とは異なり、今の彼は髪飾りを外して長い髪を下ろしている。白地に襟口が空色の落ち着いた衣が、雹藍の美しさを引き立てていた。
正直いつもの赤と黒の衣よりよく似合っている。こっちの方が好きかもしれない。
そこまで考えたヨミは「なにいってんだ、あたし!」と心の中で、自分の呟きにつっこみを入れる。
この皇帝は、今夜自分が殺す相手。
内の感情をすべてなくして冷酷にならねばならないというのに、服が似合っているなどと思うのは論外だ。
「ん? どうした?」
雹藍が首を傾げてこちらを見ている。何か妙な表情でも浮かべていたのかもしれないと思いつつ、ヨミはごまかすように微笑んだ。
「いえ、なんでもありませんよ」
「そうか。なら良いが。……それで、持ってきたものというのがこれだ」
雹藍が翡翠に目配せすると、彼はヨミと雹藍の前に白い液体の入った杯を置く。蒼龍国にはない、独特で懐かしい臭みがヨミの鼻をつく。
「これ……、もしかして……」
「馬乳酒。手に入ったのでな。持ってきた」
あの店で話した事を覚えていてくれたのか。
胸に再び温かいものがこみ上げてくるのを感じて、ヨミは慌ててそれに蓋をする。そしてあくまで平静を保ちながら、「ありがとうございます」と彼に告げた。
「準備は、終わりましたので私達は失礼します」
翡翠、それにナパルが、軽く頭を下げて、二人で部屋を退出する。ヨミがナパルに目配せすると、彼女は小さく頷いた。
「ヨミ。飲んでくれるか?」
「もちろん。雹藍が私の為に用意してくれたものですから」
ヨミは杯を手にすると、白い液体に口をつけた。酸味が舌の上を滑り、喉の奥へと落ちていく。ナランで飲んでいたものよりも発酵が浅かったが、それでも故郷を思い出す懐かしい味だ。
「ん……。おいしいです」
「それはよかった。蒼龍国で作られたものと聞いていたから、満足してもらえなかったらどうしようかと思っていたのだ」
そう言って雹藍は自分の杯をくるくる回したのち、おもむろに馬乳酒に口をつける。しかしほとんど杯を傾ける事なく再び机の上に置いた。
「……雹藍、もしかして馬乳酒はあまり得意ではないのですか?」
「……」
雹藍は返事の代わりに目を横に泳がせた。つまり、そういうことなのだろう。
「なら、自分の分まで用意されなくてもよかったのに」
「しかし、君が好きなものを、共に味わいたかったのだ……。君と一緒に口にすれば、飲めるかもしれないと思ったから……」
語尾を小さくさせながら、雹藍は杯を掴んだまま肩を下げて俯いている。これが相当落ち込んでいる時の反応だという事を、ヨミはここ数日で学んでいた。
彼の姿にゆらゆらと胸の中が揺れ動く。三度目のそれに気付いたヨミは、心の中で自分の頬を叩いた。
これ以上こうしていたら、決心が鈍る。
だからもう、終わらせなければいけない。この時間を、この復讐を。
ヨミは馬乳酒の杯から手を離し、雹藍に気付かれないようにそろりと懐に手を入れる。
「しかし、やはり駄目だったようだ……。ヨミ、よければ僕のも……」
顔を上げた雹藍は、胸に突きつけられた剣の切っ先を見て目を細めた。
「……ヨミ」
「動かないでください」
ヨミは雹藍に短剣を突きつけたまま、静かな声で告げた。
「動けば、今すぐその心臓を貫きます。……まぁ、動かなくても少し寿命が延びるだけですが」
ヨミの言葉に、雹藍は黙って短剣とヨミの顔を見比べる。
「それを選んだ、か」
呟く雹藍の表情からは、彼の感情は読み取れない。ヨミがだまって様子を窺っていると、彼は静かにこう言った。
「殺せばいい。君がそうしたいなら」
「命乞いは、しないのですね」
「したところで無駄だろう。君は本気だ。……ただ、そうだな」
「……?」
「死ぬ前に二つ、頼みがあるのだ。それくらいは、構わないだろう?」
「……なんです?」
雹藍は短剣を突きつけたまま眉をひそめるヨミに言った。
「一つ。死ぬ前に紫玉園にある廟へ行きたい。そして二つ目は、君のその話し方をやめて欲しい」
「私の話し方、とは?」
「君本来の話し方に戻して欲しい、という意味だ。最後くらい、構わないだろう」
静かな夜空のような瞳が、じっとこちらを見つめている。雹藍は今の状況を拒まずに、すべて受け入れているようだった。
部屋の外に出れば、翡翠に助けを呼びに行かれ、復讐を果たせず捕まってしまう可能性もある。
しかし何故か目の前の雹藍が、それらを許すとは思えなかった。
「……わかった。二つとも、受け入れてあげる」
「ありがとう」
雹藍は満足したように微笑んだ。
「なら、立って。早く廟へ」
「ああ。向かおう」
雹藍は椅子から立ち上がる。そして静かに二人で部屋の外へ出た。
***
「ああ、終わったのですね。……って、は!?」
部屋を出てきた主がヨミに短剣を突きつけられているのを見た翡翠は、目を皿のようにして大声を上げた。
「貴様……! やはりそういうつもりで……!!」
腰の長剣に手を伸ばす翡翠の身体を、ナパルが後ろから羽交い締めにする。
「離せ!!」
翡翠はナパルに向かって吠え、自由を得ようともがいたが、ナパルの力は強く、振りほどくことは叶わない。彼にできたのは、次第に離れて行く彼の背中を見つめることだけだった。
「雹藍様!」
翡翠が名を叫んだその時、雹藍が翡翠の方を振り向き目配せをした。その心配するなと言うような瞳に、翡翠は暴れるのをやめてその場にずるりと座り込む。
しばし俯いて床を見つめたのち、ナパルに右手を拘束されたままあざ笑うように呟いた。
「結局、こうなるのですね。あなたが歩み寄って欲しいと言ったから、少しでも心を開こうと努力したのに」
「あれは……。すみません、私の立場であんなことを口にするべきではなかった……」
「本当に、その通りです」
翡翠は声を落とすナパルを見上げて吐き捨てた。
「あなたは一体何がしたいのですか? 誰も傷つかなければ良いと、自分たちを理解して欲しいと言いながら、こうやって誰もが傷つく道を選ぶ。蒼龍国の皇帝を殺せばあなたの主もナランの民もどうなるか分かっているはずでしょう? ヨミ様より、あなたの方がよっぽど分かりませんよ」
「私は……」
自分だってこんなことはしたくない。
けれどそれを口に出せば、枷は自分の首を締め付ける。
望むままに行動した時には、きっと命を奪われてしまうだろう。
苦渋の表情を浮かべるナパルに、翡翠は容赦なく言葉を告げる。
「主の進む道を側で守り抜き、そして主が間違った道へ進もうとしているのならば、命を賭してでも止める。それが臣下の役目です」
「……っ!」
「もう一度、問いましょう。あなたは一体何がしたいのですか? あなたの主は、あなたの思う正しい道を進んでいるのですか? あなたが今、真にやらなければならないと考えていることは何ですか?」
「私がやりたい事……」
望まれない言葉を思い浮かべた瞬間に、喉の奥が締め付けられる感覚がした。それから逃れようとするように、ナパルは空いた手で首元を掻く。
「私は……こんなことなんてしたくない……。人を助ける為という約束で数百年間力を貸していたのに、どうして人を傷つけないといけないのですか……! 私だって、ヨミさんを止めたい……」
ナパルはそこで言葉を切って咳き込んだ。翡翠の拘束を解き、両手で首元を押さえて床に屈み込む。
「ナパルさん……?」
急なナパルの変化に、翡翠は驚き困惑する。そしてナパルの首元に、赤い文様が首輪のように浮かび上がっていることに気づき、目を見開いた。
「その首は……」
「行って……ください……」
戸惑いを浮かべて自分を見つめる翡翠に、ナパルは喉の奥から絞り出すような声で囁いた。首を絞めつけられる苦痛により、瞳から涙がこぼれ落ちる。
「別れ際の陛下の顔……、きっと、何か考えがあるのだと思います……。今ならまだ間に合うかもしれない……」
「しかし……」
「私は大丈夫……。トキさんはこれくらいで私を殺しませんから……。だから、早く行ってください……」
一言彼に囁いた後、ナパルは安心させるように笑顔を作る。
その苦しげな微笑みに一瞬心を揺らがせた翡翠だったが、すぐに立ち上がり廊下の向こうへ駆けて行った。
月明かりだけの、暗い夜の中。ヨミと雹藍は渡り廊下を進んで行く。
紫玉園の西の端に佇む金の屋根と赤い柱の絢爛な廟は、あまり大きくはないものの暗闇の中でも堂々とした存在を保っていた。まだ作られてからそれほど年月は経っていないのだろう。まだ塗装が落ちていない真新しい扉の錠前に、雹藍は小さな鍵を差し込んだ。軽快な音がして鍵が開かれ、重い扉が軋みながら開かれる。
「入るといい」
ヨミは雹藍に促されて慎重に中へと足を踏み込む。彼は中心の燭台へ歩いて行くと、蝋燭に明かりを灯した。
途端に、廟の中がぼうと明るく照らされる。廟の中には燭台を中心として左右に二つ大きな像が置かれていた。黄金を貼り付けられたそれらの像は、同じく金色の花に囲まれながら、静かにヨミたちを見つめている。
「これは……」
ヨミが呟くと、背を向けていた雹藍が静かにこちらを振り向いた。
「もう一度、君の名前をここで聞かせてくれ」
「ヨミ・ウル。ナランの民の首長、トキの妹。そして……お前が殺した前首長の娘だ」
ヨミが告げると、雹藍は満足そうに口角を上げる。そして再びヨミに背を向け、二つの像を仰ぎ見た。
「これは、父と兄だ」
「……お前、兄がいたのか」
「ああ。十年前、君たちとの戦いが起こる前に死んだ。名は、麗藍。聞いた事はないか?」
「蒼龍国に来た時に、噂で」
そう答えたものの、何かが引っかかっていた。「麗藍」という名を、ヨミは蒼龍国に来る前から知っている気がする。
黙り込むヨミ。すると雹藍が再び静かに口を開く。
「兄は、北部統治調整官という肩書きの、将軍だった。君たちナランとの戦いに備えて作られた軍だ。あるとき、兄は一月ほど北部の国境地帯にとどまり、周囲を監視する任務を受けた。そして指令通り北部に向かい……」
雹藍はそこで言葉を切り、左側の像を見て目を細めた。
「そのまま、戻ってこなかった」
「……」
「巡回中、誤ってナランの土地を踏み、民と戦闘になったらしい。そしてほとんどの兵士が殺されて、兄は捕らわれ首長の所に連れて行かれた。なんとか逃げ延びた兵士から、僕たちはそう聞いている」
その言葉に、過去の記憶が蘇る。
まだヨミが幼い頃、ある侵入者が父の元に連れて来られた事があった。侵入者は年に数人いるが、そのほとんどは数日の後に放たれる。しかしその日に捉えられた侵入者は、名前を言うなりすぐに首を切られて殺された。
確か、その侵入者の名が「麗藍」だった。
雹藍はさらに言葉を続ける。
「兄が帰ってこなかった故、父は激怒した。皇位継承者だということもあったが、それ以上に、父は兄の事を気に入っていたからな。僕は兄の後任となり、ナランに出兵するよう命じられた。そして始まったのが、君もよく知るあの戦いだ」
「……つまり、戦いはあたし達ナランの自業自得だって言いたいわけ」
「いや、違う」
雹藍は再びヨミの方に顔を向けた。蝋燭の炎を映してもなお、黒く冷たい彼の瞳は、ただまっすぐにヨミの姿を見つめている。
「僕はあの戦いで、多くのものを見た。蒼龍国の兵士の、そしてナランの民の、ひどく大きな憎しみを。その声が聞こえない振りをして、僕は無心で命令通りに敵を一掃していった。ようやく兄を殺した首長たちを捕らえさせ、部下に命令し首を落とした。そしてすべてが終わり、彼らの首を箱に収めた後、視線を感じて横を見ると、まだ幼い子供がいた」
それは、ヨミもよく知っている。あの凄惨な光景も、冷たい瞳も、一度も忘れた事はない。
ぎゅっと、短剣を持つ手に力が加わり、切っ先が僅かに上を向く。しかし雹藍はそれに動じず、淡々とした声で話し続ける。
「その子供の瞳には、恨みと憎しみの炎が湛えられていた。自分に向けられた感情を見て、兄が死んだと聞いた時の父の姿を思い出した。その時、僕は気づいたのだ。この戦いはもう、土地の奪い合いではないことに」
「じゃあなんだって言うのよ」
「今の戦いは、復讐の輪廻に囚われている。憎しみを込めて相手を害し、傷つけられた者がその恨みを込めて相手に返す。だからこれまでと同じ事を繰り返しても、この輪廻は断ち切れず、ナランと蒼龍国の戦いは永遠に終わりはしないと僕は悟った。これ以上苦しむ人を出さないためには、争わずして両者の関係を和平に導かねばならないと」
「……」
「休戦ののち、僕はそれを成し遂げる為、一層勉学に励んだ。風の噂でナランの前首長の子が首長の座を継いだと聞き、それから数年たった去年。父が崩御し、僕が皇帝の座を継いだ。そして即位式典の最中に君を見つけた時、すぐにあの時の子供だとわかった」
「気付いてたの」
低い声でヨミが問うと、雹藍は何故か微笑んだ。
「ああ。瞳の色も、向けられた激情も、全く同じだったからな。この少女は必ず僕を殺しにくる。十年前の戦いで感じた予感があの時確信にかわった。けれど同時に……、何故かは分からないが、君が欲しいと思ってしまったのだ」
「はぁ?」
突然の展開に、ヨミは思わず頓狂な声を上げる。驚きのあまり短剣を取り落としそうになった。
「何の冗談?」
「冗談ではない。成長した君を、その恐ろしくも美しく、そして気高い瞳の色を見た瞬間、身体に衝撃が走った。運命とはこういうものかと、僕があの時君を見たのは必然であったのだと感じたのだ。そして身に危険が及ぶと分かっていても、僕は君を手に入れたいと思ってしまった。その時に、思い浮かんだのだ。その……婚約により和平をもたらす手段を」
目をそらし、耳の端を僅かに染める雹藍に、つられてヨミの顔も熱くなる。
何かとてつもなくすごい事を言われている気がしたが、混乱で頭がうまく回らない。
「だ、だからいろんな規則をねじ曲げてでもあたしを皇后にしようとしたの? ただ瞳が気に入ったって理由だけで、まともに話した事もないのに?」
「そうだ。……知っていたのか」
「馬鹿じゃないの? 近くに置けば、あたしに殺されるって考えなかったわけ!?」
混乱で半分叫ぶように声を上げる。
雹藍はそんなヨミに、真剣な瞳を向けた。
「考えた。僕が殺される事も、その後で何が起こるかも。けれど、これは賭けだったのだ」
雹藍が、一歩ヨミに近づいた。はっとヨミは我に返ると、短剣の刃先をまっすぐ彼へと向ける。
しかし彼は歩みを止めず、短剣の切っ先が自分の胸に当たるところまで近寄ってきた。
雹藍は静かにヨミを見ていた。その黒く静かな瞳に得体の知れない恐怖を感じ、ヨミは手を震わせる。
「ヨミ」
名前を呼ばれ、ヨミの身体がびくりとはねた。
「君が僕を殺したいのであれば、それでも僕は構わない。君にはその権利があるし、未来に向かう道は一つではないからな。君がそうしたいと願うなら、それも一つの選択なのだろう。ただ、僕の考えだけは最後に聞いておいて欲しかったのだ」
「あたしは……」
ヨミは雹藍から目を逸らして呟く。
頭の中に巡るのは、自分の恨みの記憶と雹藍の言葉。そしてここ数日の、彼と過ごした日々の事。
不意に、目頭が熱くなる。それから堰を切ったかのように、涙と共に感情が一気にあふれ出した。
「あたしは……!!」
目の前の男を、殺す為に生きてきた。この命と引き換えにしてでも、必ず殺さなければならないと思っていた。
けれどヨミは知ってしまった。ナランが殺した雹藍の兄が、戦のきっかけに繋がった事を。
ここでヨミが雹藍を殺せば、間違いなく自分の復讐を遂げることはできるだろう。けれどその先はどうなるか。これまでの話から、未来は十分に予想ができた。
ヨミの手から、短剣が離れていく。それは床の上に落ち、からん、と軽い音をたてた。
「殺したい、殺したいんだ。それなのに……」
ヨミは床にとさりと崩れ落ちる。「殺したい」と何度も何度も繰り返しながら、涙を流した。
「ヨミ……」
雹藍はヨミの前に膝をつき、その震える肩を両腕でそっと包み込む。
押し当てられた彼の胸に、自分と同じ悲しくも温かい鼓動が響いているのを、意識の端でヨミは感じた。
***
「復讐の輪廻、か」
追いかけてきた翡翠は、出て行こうとしたところを雹藍に視線で止められて、廟の外から二人の様子を窺っていた。
ヨミが自分を殺すかどうか。それを見極めたい。
彼女が蒼龍国に来た初日、ヨミの寝台から短剣を見つけた夜に、雹藍は翡翠にそう言った。
勿論、翡翠は反対した。
いくら主の意思だろうとも、雹藍はこの国の頂点に立ち皆を導く者。先導者を失った国は混乱に陥り、破滅の道へと向かってしまう。
けれど、雹藍は言った。もし彼女が自分を殺すことを選択したなら、自分の理想は叶えられないだろうから、と。ならば自分が皇帝を続ける意味はない、と。
彼の強い意志を受け、翡翠は雹藍に同意してしまったのだ。代わりに自分の手が届く限りは決して雹藍に手を出させないようにと常に長剣を携え、何かあった時にはすぐに対処できるように振る舞ってきた。
初めは翡翠も、主の考えは理想論に過ぎないと思っていた。自分の胸に燃える憎しみの炎が消える日が来るとは、到底思えなかったから。
しかしここ数日間、精霊のナパルと会話している時に、精霊に対して抱いていたはずの憎しみが少なからず薄れていた。それを思えば、雹藍の理想も不可能ではないのかもしれないと思えてくる。
「そういえば、ナパルさんは……」
置いてきたナパルの事がふと頭に浮かんだ。ヨミの事を止めたいと言った途端、首を押さえて倒れ込んだ彼女の事が。
トキはこれくらいで自分を殺さない。そう彼女は言っていた。
嫌な、予感がする。
首に浮かび上がったあの赤い文様は、まるで彼女の意思を制御しようとしているようだった。その予感が確かなら彼女の思いをねじ曲げ、操ろうとする者が他にいるということになる。
その者がいる限り、例えこの先最終的にヨミが雹藍を殺さない道を選んだとしても、雹藍の命が消えてしまうことになるかもしれない。
その時は、雹藍も、ヨミも、そしてナパルも望まない、最悪の結末になるだろう。
「本当は、ヨミ様を止めたい、ですか……」
別れ際に見たナパルの表情。望まない道を行くことを定められているのであれば、きっと彼女も苦しんできたのだろう。おそらくは、この国に来てからずっと。
「今までのあなたの言葉、全部本心だったんですね……」
月光の下、ナパルの心の内を思いながら、翡翠は一人呟いた。
時が経つのはあっという間だ。
ヨミは紫玉園の中心にある池のほとりで、僅かに顔を出した朝日を見ながらそんな事を思う。
蒼龍国に来てから丁度一月。予定通り、正午からヨミと雹藍の婚姻式典が開かれる。
宮廷内はその準備で朝から宦官や女官達がばたばたと忙しなく働いており、後宮の他の姫達は嫉妬のあまり癇癪を起こす寸前だった。
今も後ろを振り向けば、大きな箱を二つ抱えて走って行く若い男が目に入る。
準備は滞りなく進んでいるようだ。ヨミの心を置き去りにして。
池の水面を見れば、飾り気のない薄桃の裳を纏った自分の姿が目に映る。その表情にはいまだに迷いの色が浮かんでいた。
数日前、雹藍に刃を向けた事もやはり不問となっていた。どうやら彼は、本気でヨミに命を委ねるつもりらしい。
あの夜、廟で「構わない」と言った雹藍の顔が脳裏に焼き付いて離れない。以来ヨミは今日まで彼と会うことを避けていた。
そんな中、昨晩再びバランがやってきて、兄からの言葉を伝えていった。
「まだ殺せていないのか。式典は明日だろう。ここまで来たら、式典の最中に殺すんだ。その混乱に乗じて、俺たちが攻撃を仕掛けるから」
追い打ちをかけるような兄の言葉を、ヨミはナパルと共に聞いていた。
心の波は、より一層高くなる。
殺したい。けれど殺せない。
自分と兄の事だけを考えれば、答えは当然決まっている。しかし雹藍の話を聞いても尚そうできる程、ヨミは自分本位になれなかった。
ナランの地も、ナランの民も愛していた。青空と草原に囲まれて、羊を抱きしめ、馬で地を駆け、精霊と遊ぶ、あの生活が好きだった。けれど同時に雹藍と見た、西城の店や人々、彼らの文化も、興味の対象になっていた。
その二つが、ヨミの選択次第で壊れてしまうことに気付いてしまった。
朝日は金の光を増しながら、地上へと上っていく。ナランの地ではいつも待ちわびていた輝きは、今のヨミにとっては眩しすぎた。
「そろそろ戻ろう。着付けとか、化粧とか、準備がたくさんあるって聞いてたし……」
ヨミは池に背を向け顔を上げると、そこには一人の人物が立っていた。
「雹藍……」
「久しぶり、だな」
いつからいたのか、雹藍は少し離れた場所に佇んで、静かにヨミを見つめていた。
着ているのは白に近い青の生地に、翡翠色の襟の衣。腰も襟と同じ色の帯で止めている。頭の飾りがついていない所を見ると、どうやら彼もまだ準備をする前らしい。
「こんなところでどうされたのですか? 式典の準備もあるのでしょう?」
「部屋から、君の姿が見えたから」
雹藍は相変わらずの無表情で静かに答えた。数日会わなかった間に、彼の表情の変化が再び分からなくなってしまったように感じる。
「……話し方、戻さなくてもよいというのに。あちらの方が君らしい」
「あの時が最後だからという約束でしたから。……結局、最後にはなりませんでしたが」
目を伏せ自嘲するヨミに、雹藍は一拍おいて口を開いた。
「君は、どうするつもりなのだ」
「どうするつもり、とはどういうことでしょうか」
「式典で、僕を殺せと言われたのだろう。……翡翠が調べていたらしい。その……、すまない」
雹藍はそう言って肩を下げる。しかしヨミは驚かなかった。むしろ今まで、監視されていなかった方がおかしかったのだ。
「……雹藍は、私の瞳が好きと言っていましたね。復讐に燃える暗い瞳が」
「あ、ああ」
突飛な質問に雹藍の声が揺れたが、構わずヨミは言葉を続けた。
「もしも私があなたを殺さない選択をすれば、あなたが好きになった私はいなくなることになりますよ」
「それは……」
明らかな混乱と戸惑いを滲ませる雹藍。何度も口を開閉し、その度に耳が赤く染まっていく。そして更に数秒後、ようやく雹藍は己の思いを口にした。
「それでも勿論……、君を好きでいるに決まっている……。それほど強い信念を持つ君が、隣にいてくれれば……きっと心強い……」
「そうですか」
「それに……初めはそうだったが、今はもうそれだけではないのだ……。共に過ごした時間……君の笑顔が、僕を幸せにしてくれた……。だから、これから先も……僕の側に、いて、欲しいと……」
消え入るような声で、雹藍は告げる。白い肌を真っ赤に上気させて俯く彼を、ヨミはじっと見つめた。
別の文化、別の考えを持つ者同士が和平を築くには、侵略し、争いの後、一方が他方を屈服させるしかない。
蒼龍国に来てから学んだ歴史からも、一つの国が他国を軍事力で制圧してこの国ができたと学んでいたし、ナランが広い土地を得る事ができたのも、他の民族をすべて力で取り込んだからだと物語で聞いている。
それを思えば、争わずしてナランの民と蒼龍国の和平を築くという雹藍の考えは幻想に過ぎないのだろう。
けれど、もしそんな事ができるなら。
ヨミが口を開こうとした、その時だった。
「陛下、こんな所にいたのですか! 早く来てください!!」
見ると渡り廊下から、臣下の一人が大声を上げて雹藍の事を呼んでいた。
「雹藍、呼ばれているみたいですね……」
「あ、ああ……。では、また後ほど……」
雹藍はくるりと踵を返し、急いで臣下の元に向かう。
ヨミはその背中が見えなくなるまで、じっと彼を見つめていた。
部屋に戻ると、ヨミが紫玉園に向かう前にはなかったものがたくさんそこに置かれていた。
大きな衣装掛けに掛かった上衣に裳、羽織。どれも真朱の生地を基調とし、金や緑で草花を模した刺繍が入っていた。そしてどこからか運ばれてきたであろう台座には、金の帯と薄桃の帯留め、そして花をあしらった髪飾りが置かれている。
眩しくて目を閉じてしまいそうになる程の煌びやかな衣装の数々。普段ででさえ豪華な衣装なのに、目の前のものはそれ以上だ。
「これ……あたしが着るの?」
「当たり前じゃないですか。その為にさっき部屋に運び込まれたのですよ。蒼龍国ではおめでたいことがある時はこんな服を着るのだと聞きました」
「おめでたいこと、ねぇ……」
微笑むナパルからヨミは僅かに目をそらし、そのまま両手を開いた。それを合図にナパルはヨミの服を脱がし始める。
「……ナパル、こんなすごい服、着付けできるの?」
「見た目は派手ですが、構造はいつもと同じですよ。だから大丈夫です。もうここに運ばれる荷物もないですし、しばらく誰も来ません」
「そっか……」
一枚、二枚と服を着て、前で襟を交差させ、下半身に裳を巻き付ける。そして裾の長い羽織を着せた後、ナパルは壁際の鏡台の前にヨミを促した。
「ねぇ、ナパル。あたし、どうしたら良いかな」
ヨミは髪を結い上げられながら、鏡を見つめてナパルに問う。鏡に映ったナパルは一瞬手を止めたが、すぐに小さく微笑んだ。
「自分のしたいようにすればいいですよ。ヨミさんにはそれができるのですから」
「ナパル……」
ヨミはそっと目を閉じる。
ナランの地でも蒼龍国に来てからも、彼女はずっと側にいてくれた。
不意に落とす影がヨミの行動を是とは思っていないことを示していたが、それでも自分を尊重してくれようとする彼女に、ヨミは心の中で感謝を送る。
そして、告げた。
「……ナパル、あたし、決めたよ」
目を開き、まっすぐに前を見つめる。鏡に映る自分の顔には、もう迷いの色は存在しなかった。
「ナパル。寝台の枕の下にあたしの短剣と笛がある。それを取ってくれない?」
「……はい」
髪を止め終わった彼女は寝台に向かい、ヨミの言葉通りに短剣と呼龍笛を取り出し持ってくる。
ヨミはそれらを受け取ると、笛はお守りとして腰帯に差し、そして短剣は目的のために懐に入れた。
「ありがとう、ナパル。どうなるかわかんないけど、迷惑かけたらごめん」
「いえ……」
ナパルは静かに俯いた。しばしの後、彼女は顔を上げて笑顔を見せた。
「私、準備が終わったと知らせてきますね」
「うん。分かった」
ヨミが頷くと、ナパルは足早に部屋を出て行った。
***
「翡翠さん」
ヨミの部屋を後にしたナパルは、麒麟殿から出てきた翡翠に声をかけた。
手に服や髪飾りを乗せているのを見ると、どうやら彼も主人の着付けをしていたらしい。
逆方向へ歩いて行こうとしていた翡翠は、ナパルの姿を認めると、踵を返して歩み寄ってきた。
「ナパルさん、お久しぶりですね。その……身体は、大丈夫ですか」
「……ああ、大丈夫ですよ。あれは一時的なものなので……」
ナパルは小さく微笑んだ後、言葉を続けた。
「ヨミさんの準備が終わったので知らせにきました。……それと、言いたいことがあって」
「昨夜の件ですか」
翡翠は静かにそう言った。その言葉には、動揺一つ見当たらない。
「知っていたのですね」
「私の方でも、少し探らせて貰いました。昨日の件は、雹藍様にもお伝えしています。……それに関して、ヨミ様の答えが出たのですか?」
「ええ、ヨミさんは短剣を持っています。私に言えるのは……これだけです」
俯きながら首を掻くナパル。その姿を翡翠は迷うような表情で見つめた。
「意思を遂げる、と。そういうことですか」
「おそらくは……」
「そうですか。しかし、何故あなたがそれを私教えてくださるのです?」
「それは……」
ナパルは首に手をあてがい、僅かに顔を歪めながら言葉を続ける。
「私、決めたのです。翡翠さんのお陰で、自分のやりたい事をやり遂げる覚悟ができたので。だから……」
「……」
何もいわない翡翠に、ナパルはにこりと微笑んだ。
「万が一の時は、ヨミさんをよろしくお願いしますね」
宮廷の敷地の中心にある龍水殿は、敷地内の中で最も大きな建物である。
重要な儀式や祭祀を行う建物内は、赤を基調とした派手な装飾で彩られていた。いくつ並ぶ扉を開くと、宮廷に仕える臣下たちが並ぶには十分すぎるほどの石畳の広場がある。今日、ヨミはこの場所で雹藍と婚姻を結ぶ事になるのだ。
龍水殿内部で婚約の儀を住ませた後、門から外に出て広場にいる臣下とナランからの客人達の前で皇后の位を賜り祝福を受ける。そういう段取りになっていた。
位の高い臣下が数人、ヨミと雹藍の従者の二人が殿内の儀式に参加している。周囲は衛兵で囲まれているが、その人数がやけに多いのは、この建物の広さ故だろうか。
「ヨミ。こちらへ」
長々とした口上を数十分二人並んで聞いた後、雹藍はヨミに手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
ヨミは雹藍の手を取って、床に敷かれた赤い絨毯の上を、彼について歩いていく。扉から差し込む外の光が大きくなるごとに、心臓の鼓動が早くなった。
懐の短剣に手をあてがい、そっと雹藍を横目に見る。黒地に金の龍が刺繍施された豪奢な衣装は、いつも以上に彼の印象と不釣り合いだった。こんな時でなければきっとヨミは吹き出してしまっていたに違いない。
雹藍は、何を考えているのだろう。
彼も昨夜の事を知っていた。ならばこの門から外に出れば何かが起こることは予想できるのに、雹藍の表情は静かな水面のように動かない。
けれど、今は彼の心は関係ないと、ヨミは考えを頭の中から振り払う。
自分は自分が選んだ未来を切り開くだけ。
視線を映し、まっすぐ正面を見る。門の脇に控えて頭を下げているナパルと翡翠の横を通り抜け、二人は外へと足を踏み出した。
一瞬、光に目をくらませた。すぐに視界が戻ったヨミは、外の様子を見て目を見張る。
門から出て、数十段の階段の先。白い石造りの広場には、何百という人間、そして龍や麒麟、豹など、様々な姿をした精霊たちが座って頭を下げていた。服の様子を見るに、正面から右側にいるのが蒼龍国の臣下達、左側にいるのがナランの人間だろう。
「面を上げよ」
隣に立つ雹藍が、その場にいる人々全員に向かって命令する。さほど大きくはなかった筈なのに、その凜とした声は広場中に響いていった。
全員が顔を上げた後、雹藍は皇帝として言葉を発する。
「私はこれより、ナランの首長の妹であるヨミ・ウルを、正式に皇后として迎える事とする」
雹藍の宣言に、蒼龍国側もナラン側も、誰も口を開かなかった。
それも当然。自分達の長が争いあってきた相手の長と婚姻を結ぶのだ。手放しで祝福できる者などこの場にいる筈がない。
ヨミはちらりと広場の左側に目を向ける。最前列にはトキがいた。それ以外にも、並んでいるのは見知った顔ばかりだ。後ろの方にはジウォンの姿も見える。
雹藍が、小声でヨミに声をかけた。
「次は君の番だ」
「……そうでしたね」
雹藍の言葉に対し、謹んで受けるとヨミが宣言する。そこで、この式典は終了だ。
ヨミは雹藍の方に身体を向ける。雹藍もヨミに向かい合った。
しばしの間、視線を交える。それは男女の間で交わされる甘い類いのものではない。互いの意思を探り合い、確認しあう眼差しだ。
そして、次の瞬間。
「おおお……!!」
「なんということだ……!!」
広場の臣下達がどよめきをあげる。焦りと、困惑と、怒りが、一瞬でその場を支配した。
ヨミは懐から短剣を取り出し、雹藍に向かって大きく振り上げていたからだ。
翡翠は腰の長剣に手をかけて、ナパルはヨミの名を呼び彼女に駆け寄ろうとする。衛兵達が舞台に集まりヨミの身体を拘束しようとした。
しかし雹藍はすべてを制止し、ヨミの目をまっすぐ見つめる。
「ヨミ……」
雹藍が、ヨミの名を呼ぶ。悲しみも、怒りも、そこにはなかった。
「その選択をしたのか。私を……僕を殺すと」
皇帝から「雹藍」に戻って問いかける彼。
ヨミはそれには答えなかった。意思の籠もった瞳で雹藍を見つめ、勢いよく短剣を振り下ろす。
広場がどよめきと叫び声が沸き上がった。
しかし、雹藍の胸から鮮血が吹き出すことはなかった。
「ヨミ……?」
驚きに満ちた表情で、雹藍はヨミを見つめる。
振り下ろされたはずの短剣は横に倒され、雹藍へと差し出されている。そしてヨミは、彼の目の前に跪いていた。
「皇帝陛下」
戸惑う人々を差し置いて、ヨミは俯いたまま声を上げた。
「この短剣は、過去十年間、私と共にありました。必ず果たすと誓った強い思いが、この刃には込められています」
ヨミはそこで言葉を切り、顔を上げた。口元に浮かべられた笑みを見て、雹藍が目を丸くする。
「この剣を、あなたに預けましょう。過去は消える訳ではありませんが、それを乗り越えてより善き未来に歩まなければならない。私は陛下の行く道の先を、共に見てみたくなったのです」
「……いいのか?」
驚く雹藍に、ヨミは「ええ」と頷く。
「これが、私の選択。だから……」
ヨミが促すと、雹藍は微笑みながら短剣を受け取った。
ヨミは彼にもう一度頭を下げ、宣言する。
「ナランのヨミ・ウル、皇后の位、謹んでお受け致します」
喝采が上がった。
それは祝福よりも、安堵に近い。しかし皇帝がヨミを皇后とし、ヨミがそれを受け入れたことに対するものには違いなかった。
蒼龍国の臣下達の拍手や歓声が広場からも龍水殿の中からも聞こえてくる。
皆が式典の成功を祝っている、その時だった。
「どういうことだ!!」
雷のような怒号が、辺りに沈黙をもたらした。
ヨミは声のした方を振り返ると、鬼のような形相のトキが鋭い瞳でこちらを睨みつけていた。
「トキ兄……」
「ヨミ。お前、ここに来た目的はなんだ!? そいつは俺達の両親の仇。そしてナランに攻め入る侵略者だ! お前も必ず復讐すると言っていただろう! そこの男に絆されたのか!?」
「違うよ! あたしは自分の意思でこの選択をしたんだ! トキ兄も聞けばそう思うはず!!」
ヨミは舞台上からトキを説得しようとしたが、彼は一切聞き入れない。
「お前がやらないなら、俺がやる!」
トキは腰に差した長剣を鞘から抜き、雹藍に向かってまっすぐ構える。同時に、他のナランの民数人が剣を抜き、控えていた精霊達が戦闘態勢に入った。
「トキ兄、やめて!」
「全員、戦闘態勢にはいれ! 陛下をお守りするのだ!!」
ヨミの叫び声と共に蒼龍国の将軍の怒号が響く。蒼龍国の兵士達がトキ達に向かって走り出し、広場にいた臣下達は逃げ惑う。そしてすぐに、その場は戦場と化した。
「雹藍様、ヨミ様、早く中へ!」
龍水殿の中にいた翡翠が叫ぶ。雹藍はその声に従ったが、ヨミは足を進めることができなかった。
怒号、悲鳴、そして剣の打ち合う音。耳を塞ぎたくなるような音が広場中に響いていた。
トキを初めとするナランの民は、高原で鍛えた身のこなしで、鋭い剣技を繰り出していく。対する蒼龍国の兵士も、洗練された動きでナランの剣を打ち返していた。
両者の力は互角。しかしそれは、人間同士でだけであればの話だ。
「うぁあ!!」
「ひ、卑怯な!!」
悲鳴を上げ、倒れていく蒼龍国の兵士達。あるものは火炎に飲まれ、あるものは風に切り裂かれる。それらを操るのは、ナランの民が従える精霊たちだ。
彼らの操る自然の力の前に、何の対策もしていなかった蒼龍国の兵士達は、為す術もない。
階段を上らせまいと集まる兵士達も、一人、また一人と次第にその数を減らしていった。
そしてトキとナランの民は、じりじりと階段を進んで来る。
このままでは、雹藍はトキに殺される。そうなれば、雹藍が望んだ戦わずして和平を得る未来は、更に遠くなる。復讐の輪廻が、止まる事なく回り続けてしまう事になるのだ。
それは、絶対に避けなければ。
ヨミは必死に頭を巡らせた。どちらかが死に絶えるまでは終わらないこの戦いを、今すぐ止める方法を。
そしてふと、腰帯に差した呼龍笛の事を思い出す。
もし、本当に呼龍笛で精霊たちを操れるならば、彼らをナランの地に返すことができるかもしれない。
そうなれば、蒼龍国とナランの民の戦力は互角。失敗しても状況は何も変わらないだけ。やらないよりやった方が断然いい。
「ヨミ! 早くこっちに!」
雹藍はヨミに向かって叫ぶ。しかしヨミはそれを無視して、腰帯から呼龍笛を抜き、吹き口に唇をあてがった。
澄んだ、高らかな音が広場に響く。その場にいた者全員が戦いの手を止めヨミの方を振り向いた。
争っている精霊たちが戦いを止め、ナランの地へと帰ってほしいと。
精霊たちに思いが届くことを祈りながら、ヨミは笛の音を奏で続ける。
やがて、変化は起こった。
蒼龍国の兵士達に対峙していた精霊たちの瞳から、戦意の炎が消え失せた。そして一体、また一体とその姿が消えていく。混乱する人々の間を、龍の精霊が風に乗って通り過ぎ、その場のすべての武器を空へと巻き上げた。
そのままヨミの目の前までやってきたかと思うと、垂直に天へと昇り、北の方角、ナランの地へと去って行く。
その場に残された人間は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「うまく、いった……」
ヨミは笛から口を離すと、小さく息をついた。そして後ろの雹藍に軽く微笑む。
そんなヨミを、トキは憎々しげな目で睨みつけた。
「ヨミ……! 邪魔をするな……!」
階段の中腹にいたトキは、いまだに呆然としている兵士達を押しのけ、まっすぐにヨミの――その後ろにいる雹藍の元へと走ってくる。
その手に光るものが握られている事に気付いたヨミは、雹藍が持つ短剣を素早く奪った。
がきぃん、と。
二つの刃が交わった。
「どうして意思を変えた!? ヨミ!!」
「この男を殺してあたしたちの復讐を遂げても、復讐の連鎖が続いていくだけだ! それを終わらせない限り、あたしたちみたいな思いをする民はいなくならない! だから復讐なんて駄目なんだよ!」
「笑わせるな! 奪うか奪われるかのこの世で、復讐など消せる訳がない! そんなこと戯れ言にすぎん!」
打ち合う度に、二人の思いがぶつかり合う。ナランの地で何度も繰り返してきた兄妹喧嘩とは違う、止められない争いがそこにはあった。
「ヨミ!」
「トキ兄!」
名前を叫び合い、再び眼前で刃が止まる。二人の全体重を受けた刃は、互いの身体を押しのけた。
双方の手から短剣がはじけ飛び、一つは遠く広場に落ちて、もう一つはナパルの目の前に転がって行く。
衝撃でトキとヨミは均衡を崩して倒れ込んだ。
「ナパル、殺せ!!」
トキは即座に身体を起こし、遅れたヨミの身体を押さえつけながらナパルに怒鳴る。
大丈夫。皆を思うナパルなら、兄の言う通りにはしないはず。
きっといつもみたいに、こんなことはやめろと怒ってくれる。
願いと信頼を込めた瞳で、ヨミはナパルの方に視線を向けた。
しかし。
ナパルは震える手で、その短剣を拾い上げたのだ。
「ナパル!?」
「ヨミさん……。翡翠様……。私は……」
ナパルは雹藍と向い合い、苦しげに顔を歪ませる。その首には、ぼう、と赤い紋様が浮かび上がっていた。
「その首……、トキ兄がやったの!?」
ヨミが頭上のトキに怒鳴ると、彼はヨミを拘束する手に力を加えながら答えた。
「俺じゃない。あれを施したのは初代首長だ。ウル家の初代首長はナランの民を護る為に、治癒の力を持つ精霊のナパルと協力関係を結んだが、その約束が違えられることのないように、呪具を使ってナパルを縛ったのさ。この鳳令輪でな」
言いつつトキは右手首に目を遣った。そこには金に光る腕輪がはめられている。
「だから……ナパルは鳳令輪を持つウル家の首長と共にあった……」
「そうだ。これは精霊を従わせる為の呪具。縛った相手の精霊が鳳令輪を持つ者の命令に反する意思を持つとその首を絞めて、最後には殺す。縛られた精霊は呼龍笛でも操ることは不可能だ」
だから、ナパルはここにいるのか。思えば呼龍笛を使った時、精霊であるにも関わらず彼女だけがこの場に残っていた事を不信に思うべきだった。
「さあ、ナパル。早くやれ」
「私は……」
ナパルは片手で首を掻きながら、絞り出すような声を上げた。
「私は……陛下を殺す為に短剣を取ったのではありません……。ナランの皆さんを救うため……トキさんに短剣を握らせない為に取ったのです……」
「何だと? 逆らうつもりか? 抵抗すれば、お前が死ぬんだぞ」
トキはナパルを鋭い眼光で睨みつけるが、彼女は怖じけず言葉を続ける。
「良いのです……。『主が間違った道へ進もうとしているのなら、命を賭してでも止める』……。それが仕える者としての役目だと、気付かせてくれた方がいましたから……。この命を失ったとしても、ヨミさんとトキさんを止めると決めたのです……」
ナパルはそこで強く咳き込むと、近くにいた翡翠に微笑んだ。彼は痛ましげな表情で彼女の視線を受け止める。
トキは咳き込みながらも辛うじて立っているナパルへ、憎々しげな目を向けた。
「ちっ。ナパルめ……」
「トキ兄、終わりだよ。もう諦めて」
ヨミはトキに押さえつけられたまま、彼に告げる。
しかしトキはその言葉に、にやりと唇を歪めた。
「誰が終わりと言った?」
「……!? どういうこと!?」
「鳳令輪の力は、契約した精霊の首を絞めるだけじゃないと言うことだ。」
それを聞いたナパルは、絶望の表情を浮かべた。
「そんな……!? 聞いた事がありません……!!」
「当たり前だ。代々首長だけに受け継がれてきた秘術だからな」
トキが言い終わると同時に、彼の手首にはめられた鳳令輪が怪しい光を放つ。それに呼応するかのように、ナパルの首の文様の輝きが増した。
「あああっ!」
ナパルが短剣を持ったまま、片手で頭を押さえて崩れ落ちる。
彼女は何かを振り払うように強く頭を振っていたが、やがてその動きはぴたりと止まった。
そしてゆらりと立ち上がり、雹藍の前で剣を振り上げる。
その瞳は、何者をも映していない。
「ナパル!?」
ヨミの叫びも彼女の耳には届かなかった。ヨミは身体の上のトキに問う。
「ナパルに何をしたの!?」
「鳳令輪は各代で一度だけ、精霊の意思に関わらず強制的に命令を聞かせることができる。とはいえこれまで一度も使われたこともなく、俺も本当は使わないつもりでいたんだが、こうなっては仕方ないからな」
トキはナパルに顔を向けて叫んだ。
「さあ、ナパル、『その短剣で目の前の奴を刺せ』!」
「ああああああ!!」
ナパルは悲痛な声を上げながら、我を失ったように短剣を振りかざす。
「ナパル! やめて!」
ヨミの制止も効果はなく、彼女は目の前の雹藍の胸に向かって短剣を勢いよく振り下ろした。
ざしゅ、と、刃が肉を貫く音がその場に響く。
鮮血が溢れ、ナパルの頬を返り血が濡らす。
正面から短剣を胸に刺され、その場に崩れ落ちたのは。
ナパルの目の前に飛び込んできた翡翠だった。
「翡翠!」
「翡翠さん!」
雹藍、そして命令を実行し正気に戻ったナパルが同時に叫ぶ。
彼女は瞳に涙をため、崩れ落ちる翡翠の肩を抱き起こした。
「どうして……! 陛下を守るなら、その腰の剣で私を刺して殺せば良かったのに……!」
「ふふ、確かに。どうして、でしょうね……」
翡翠は喘ぎながら微笑んで、ナパルの涙を指で拭う。
「精霊なんて、やっぱり憎い存在ですが……雹藍様だけでなく、あなたも助けたいと思ってしまったのです……。ねえ、傷を治して見せてくださいよ……。前に言っていたでしょう……? そうすれば、あなたの事をもっと知ることができそうな気がする……」
「でも、こんな傷、私の力では……!」
傷口からは血がとめどなく溢れ出し、ナパルの膝を濡らしていく。その傷の深さでは彼女の血でも防ぎきれるかは分からない。
しかし翡翠の信頼するような眼差しに気付き、ナパルは首を振る。
「……いえ、やらなくては」
翡翠の胸に刺さった短剣を引き抜き、自分の腕を傷つけた。
彼女の腕から流れ出した血が翡翠の胸に零れ落ちると、彼の傷口から溢れる血が僅かに止まる。
それを感じたのか微笑みながら気を失った翡翠。ナパルは彼を抱えたまま、自分の裳の裾を引き裂き手当を始めた。
その様子を見ていたトキは、ヨミの上で呟いた。
「そんな……、失敗だと……?」
「そうだよ!」
「うわっ!」
うろたえる彼の隙を見て、ヨミが拘束を振りほどき、形勢を逆転させる。身体の下にトキを組み敷き、その右腕から鳳令輪を奪い取って自分の腕にはめた。
「これでもうナパルを苦しめることはできない。今度こそ終わりだよ、トキ兄」
ヨミはトキの身体を解放しつつ静かに告げる。
トキは立ち上がってヨミ達と相対しながら「そのようだな」と吐き捨てた。そして踵を返し、大人しく階段を降りつつ言葉を発した。
「ヨミ。俺は、お前と縁を切る。もうお前は、俺と何の関係もない」
「トキ兄……」
「蒼龍国と和平など結ばない。俺はナランの地に帰って力を蓄え、そして必ず戻ってくる。皇帝を殺し、蒼龍国を奪うためにな」
そう言い残し、トキはナランの民を引き連れ宮廷の外へと消えていった。
「失敗、しちゃったかな。和平どころか、もっと溝が大きくなっちゃった……」
自分のことで頭がいっぱいだったが、兄を裏切ればこの結末は当たり前。やはり争いなしで和平を手に入れるのは無理なのだろうか。
「あたしがこの選択をした意味って……」
ヨミが俯いたその時。
「そうでもないよ」
聞き慣れた、懐かしい声が聞こえる。顔を上げると、いつの間にやってきたのか、ジウォンがこちらを向いて立っていた。
「ジウォン? みんなトキ兄と一緒に戻ったんじゃ……」
「ううん。よく見てよ、ヨミ」
ジウォンに促され、ヨミは広場の方に顔を向ける。
そして、目を見張った。
そこには、式典に来ていたナランの民の約半数が、遠くの方からこちらを向いて立っていたのだ。
「僕、ヨミが蒼龍国にいってから、君の為に何ができるか考えてたんだ。ナランにはまだ蒼龍国を恨んでいる人がたくさんいる。だから、蒼龍国について僕が取引で知った情報をみんなに話してまわったんだ。和平を結んで、互いに交流できるようになった時、すぐに打ち解けられるように。そして、意外にもみんな蒼龍国に興味を持ってくれたんだ」
君たちの計画は知らなかったけど、とジウォンは苦笑いをする。
「今日の式典への出立前、トキさんから話を聞かされて驚いた。蒼龍国は敵で、侵略すべき。トキさんはそう言って僕たちに剣をとるよう指示していたけど、式典の時の君の言葉を聞いて気付いたよ」
ジウォンはそこでヨミの手を取り微笑んだ。
「ヨミ。ここにいる以外にも、蒼龍国と和平を結びたいと考えている人はたくさんいるよ。そしてトキさんはその人達もヨミと同じようにナランから追い出そうとするかもしれない。だからそうなる前に僕はその人達をまとめて移動しようと思ってる。それで……僕たちだけでも蒼龍国と和平を結びたいんだ。……できるかな?」
「ジウォン……」
ジウォンの言葉に、ヨミは目を瞬かせる。そしてあることを思いつくと、ジウォンの手を離して雹藍の方を振り向き頭を下げた。
「皇帝陛下。皇后となるに際し、お願いがございます」
雹藍はヨミとジウォンを見比べた後、僅かに口を尖らせて呟いた。
「ヨミ。いい加減……、僕に対しても普通に話してくれないか」
「……そうだね」
ヨミは顔を上げ、雹藍に告げる。
「頼みたいことは二つ。一つ目は、蒼龍国との和平を願う彼らとの、交流の許可を。そしてもう一つは、ナランに関わることについて、当面あたしが請け負うことを許して欲しいの。ナランのことを分かってるあたしがやる方が、喧嘩にならなくてすむだろうし」
「……ああ。もちろんだ」
雹藍の答えに、ヨミは微笑む。雹藍も、ぎこちない笑みを見せた。
ナパルも翡翠を支えたまま、ヨミと雹藍の表情を見て口元を緩める。
向き合い笑う二人の笑顔には、輝かしい未来が浮かんでいた。
式典での騒動から数日後の夜、ヨミは自室の机の上に突っ伏してうめき声を上げていた。
「ナパル、あたしもう無理……」
机の上には資料の山。
式典の際トキが起こした騒動の始末をつけ終わり、宮廷内でのナランの悪評もようやく沈静化してきたばかりと言うのに、間を置かず別の仕事に取りかからなければならない状況なのである。
「あらあら。けれど、むしろやるべきことはこれからでしょう?」
人の姿を取ったナパルはくすくす笑いながらヨミに茶を差し出す。その手首には、金の腕輪がはめられていた。
「うう……ナパルも昨日牢から解放されたばっかりでしょ」
皇帝の殺害未遂と翡翠への傷害罪で、ナパルはしばらく牢に閉じ込められていた。
本来なら死刑になる所だったが、雹藍がナパル自身に罪はないと証言したこと、そして刺された本人である翡翠がナパルを牢から出せと激怒したことで、数日ぶりにヨミの元へ戻ってくる事ができたのだ。
「雹藍はともかく翡翠がそんなに怒るなんてね。仲が良いなとは思ってたけど、さすがにそこまでとは思ってなかったよ」
「本当に……。お二人には感謝しかありません」
ナパルは自分の分の茶を口に含み、ほう、と小さく息をついた。
「これから、いろんなことが変わっていくのでしょうね」
「そうだね……」
式典の後、ナランは南北二つに分裂した。
北はトキを始めとする蒼龍国を敵視する者達。南は蒼龍国と友好的な関係を望む者達。
まとめる者がいなかった南のナランの新たな首長となったのは、なんとあのジウォンである。
蒼龍国は彼と交渉し、南のナランと友好関係を結ぶ事を約束した。争いの発端となった土地の扱いについても、両国で話し合いながら決めていく予定だ。
そして式典での約束通り、ヨミはナランに関わる業務すべてを担うことになった。南ナランとの最初の交渉は雹藍にも同行して貰ったが、以後は一人で行うこととなる。
その為に今は外交の勉強中というわけだ。幼なじみのジウォンも頑張っているというのに、自分がここで折れる訳にはいかない。
勉強を始めた時はそう決意した。
しかし、である。
「でも、もう疲れたよ……。やりたくない……」
「けれどヨミさんがやると言ったのでしょう?」
「皇后に仕事が山ほどあるなんて知ってたらそんなに簡単に決めてなかったよ……。いままでみたいにちょっと勉強する以外は部屋でのんびりできると思ってたんだもん」
正式に皇后となったことで、外交に接待にと宮廷内の仕事が一気に増えた。
特に大変なのが後宮の事。
後宮の他の六人の姫達とも正式に顔合わせをし、後宮内の秩序を保つよう言われたが、彼女たちはいまだナラン出身で成り上がりの皇后が認められないらしく、文句や陰口、嫌がらせは止まらない。
更には女官達まで結託して何もやっていないと主張するので、ヨミは彼女たちを管理するのは無理だと半分諦めかけていた。
「こんなにやることがあるなら、最初から教えておいてくれたらよかったのに……」
机に顎を乗せたまま、ぶつぶつぼやくヨミ。
そこへ、部屋の扉が叩かれる。怠惰な声で「どうぞ」と声をかけると雹藍が中にはいってきた。
続いて後ろから翡翠もやってくる。どうやらもう歩いて問題ない程に回復しているらしい。
雹藍はヨミの横まで近づいてきて、机上の巻物に目を向ける。
「今日も、大変そうだな」
「あたしには、無理かもしれない……。けど、なんとか頑張るよ……」
「そうか。……ところで、今宵は月が綺麗だ。だから、その……散歩にでも、いかないか。……よければ、だが」
明後日の方向に目を向けながらもごもごと告げる彼。ここ最近、雹藍から散歩の誘いを受けるようになったが、いまだに誘い文句に慣れていないらしい。
そんな彼にヨミはくすりと笑って「いくよ」と答える。
「丁度勉強が辛くなってきた所だったんだよね。気晴らしによさそう」
椅子から立ち上がり、少しだけ背伸びをする。それから雹藍とともに、紫玉園へと向かった。その後ろを、ナパルと翡翠がついてくる。
外は既に暗く、大きな月が静かに世界を照らしていた。
ヨミたちは紫玉園に面した渡り廊下を、蝋燭の明かりを頼りに歩いて行く。あちこちから心地よい虫の音が響き、風にざわめく木々の向こうには、赤い柱と黄色い屋根の建物が僅かに見えていた。
「なんだか、あの時みたいだね」
ふと、ヨミが声を上げると、雹藍が首を傾げた。
「あの時、とは……?」
「あたしが雹藍を殺そうとしたとき」
「ああ……。そういえば、君とこの道を通るのはあれ以来だな」
雹藍はそう呟いて目を閉じる。そして、一言「よかったのか」とヨミに尋ねた。
「ん? どういうこと?」
「君は皇后になる選択をしたことで、トキ殿と仲違いをしてしまった。それに、今も職務が大変そうだ」
「あー……。それはそうだけど……」
ヨミは歩きながら月を見上げた。
確かに兄とは仲違いをしてしまった。けれど、ヨミが力を尽くして職務を行い、争うことなく南ナランとの関係を維持すれば、兄も分かってくれる気がしていた。
「あたしは、この選択が正しかったと信じてる。だから大丈夫だよ」
そう言って雹藍に笑いかけると、彼も安堵したような表情を浮かべた。しかし次の瞬間、何かを思い出したのか耳を赤くして目をそらす。
「どうしたの?」
「あ、いや……その……。まだ、聞いていないことがあったと……」
「そうなの? なに?」
首を傾げるヨミに、雹藍はしどろもどろになりながら問いかける。
「君は……皇后になってくれたわけだが……二つに一つだったから選んでくれただけだろう……? 故に、結局僕の事を、どう思っているのか、と……。君の気持ちは、聞いていなかったから……」
足を止めて俯く雹藍。蝋燭の明かりがゆらゆら揺れて、赤く染まった彼の顔を映し出す。
どう思っているのか、か。
その問いの意味が分からない自分ではない。ヨミは足を止めて、雹藍の顔をじっと見つめる。
世では氷帝と呼ばれる程、無口無表情無感情と思われている彼。しかし本当は感情豊かで、こんなにも様々な表情を見せる。そしてその心の中では、かつての戦いの事を憂い、誰も争わずして和平を手に入れる事を願っているのだ。
ヨミは雹藍から空に浮かぶ月に視線を移した。
その輝きは静かで冷たく、されど優しく地上を照らす。まるで隣に佇む彼のように。
「まだ、秘密」
困惑を浮かべる雹藍に、ヨミは意地悪っぽく微笑みながら心地良い月の光を感じていた。
(了)