「ナパル、と言いましたか。……あなた、人間ではないでしょう?」
ヨミの部屋を追い出され、部屋の扉の前で再び呼ばれるまで待機していたナパルは、不意に隣に並び立つ翡翠に声をかけられた。
「……どうして、そう思うのです?」
突然の問いかけに困惑し、ごまかすように微笑むナパル。翡翠はそれに見向きもせず、「気配です」と答える。
「わかるんですよ。私には。人ならざるもの、ナランの蛮族と共に暮らす精霊たちと同じ気配がします」
「……」
黙り込むナパルを横目で睨み、翡翠は小さく舌打ちした。
「何が目的か知りませんが、雹藍様や宮廷の他の者に手出しをする事は許しませんよ」
「私は……」
誰も、傷つけたくない。
本当はそう願っているのに、先の言葉が口に出せなかった。
ヨミがナランを立つ直前、ナパルはトキから二人の計画を聞かされ、言われたのだ。
「ヨミの暗殺を手伝え。ヨミが失敗しそうになった時はお前がやれ」と。
ヨミが蒼龍国の皇帝を殺したいほど憎んでいるのは知っていた。ヨミが剣の鍛錬をしていたのもいつか彼を殺す為だという事も知っていた。
けれどナパルはヨミの行動に、心から賛成していた訳ではない。
もしも皇帝を殺すことができたとして、その先彼女が、そしてナランの地が、どうなるかは明白だったから。
何百年と生きる中、何度も何度も大切な人が刃に貫かれ、戦火に呑まれて死んでいった。
もうこれ以上、なにも失いたくはなかったのに、自分につけられた見えない枷が思いのままに進む事を許さない。
「私は誰も傷つかなければいいと願っています。ヨミさんが、大切なので」
首元に手をあてがい、俯きながら己の願望をナパルは呟く。ささやきほどの小さな声だったが、しかし翡翠の耳には届いていた。
彼はナパルを横目で睨み、吐き捨てるように言った。
「そんな台詞でごまかせると? 私は知っているのですよ。あなたたちの凶暴性を。人など小蝿程度にしか思っていない癖に」
その言葉に思わずナパルは顔を上げて翡翠を睨み、大声を上げた。
「そんな事はありません! 私はすべての命が大切だと……!」
そこで、言葉を切る。瞳を、大きく見開いた。
ナパルを睨む彼の瞳には、炎が湛えられていた。怒りと憎悪で染め上げられた、黒い炎。それはヨミの瞳と同じ色をしていた。
「翡翠さん……もしかして、あなたも十年前に……」
「両親が、あなたたち精霊に殺されました。死体も残らないほど、ばらばらに切り刻まれて。蒼龍国には、そのような境遇の人間はたくさんいますよ」
そう言って翡翠はナパルからそっと目を逸らす。その横顔は、どこか痛々しいものに思えた。
沈黙が流れた。
ナパルは翡翠から目をそらして俯いた。
ヨミ、トキ、翡翠――そして恐らくあの皇帝も。
ナランと蒼龍国の因縁に囚われ、胸に葛藤を抱きながら、それぞれの思いを遂げようと行動している。
きっとこの一月で、誰かが傷ついてしまうのだろう。
けれど、自分はそれを止めることはできない。
未来を想像したナパルは、首元を撫ぜながら瞳を閉じた。
その時部屋の扉が開き、中から雹藍が静かに外へと歩み出てきた。
翡翠とナパルは慌てて彼に頭を下げる。
「翡翠、片付けを頼む」
「はい。承知しました」
「先に、戻っておく」
そう言い残して、雹藍は靴音もなく静かに廊下を歩いていった。
翡翠はすぐに部屋へ入って片付けを始め、入れ替わりで難しい顔をしたヨミがナパルの隣にやってきた。
「お話、どうでしたか?」
「話、したのかな……」
部屋の中にいる翡翠を気にして、ヨミは小さな声で話す。
「ほんっとに何にもしゃべらなかったよ、あいつ。側近の翡翠は挨拶しに来るって言ってたけど、それもなかった」
「そ、そうなんですか……」
口をへの字に曲げるヨミにナパルは苦笑いをする。
「でも、それなりの時間、二人だけでいたじゃないですか。全く何もしゃべらなかった訳ではないでしょう?」
「まあ、一応話はしてたけど……。でも、自分の名前とか、あたしを選んだ理由は顔だったとか、そんな話しかしてないよ。しかも、話を切り出したのは全部あたしだったし」
ヨミは先程の会話を思い返しつつ、大きなため息をつく。
雹藍がヨミを選んだ理由の話をしたあとも、結局話が弾むことはなく、茶と菓子がつきるまでほとんど無言で過ごしたのだった。
「無表情で何考えてんのかわかんないし、二人だけで一緒に過ごすのも疲れちゃうし。ほんと、あれじゃ氷帝って呼ばれても仕方ない……」
突如、ばん、と背後で勢いよく扉が開く。
驚いた二人が振り向くと、そこには翡翠が一人、片付け後の茶器も持たずに立っていた。その顔には、怒りの感情が滲み出ている。
「貴様ら……」
彼はヨミ達を睨みつけ、右手を突き出しながら叫んだ。
「これはどういうことだ!?」
その手に握られていたのは、寝台の中に隠していたヨミの短剣だった。
まずい。
額に汗を感じつつ、咄嗟にヨミは笑みを浮かべる。
「ひ、翡翠様、寝台を探ったのですか? いくら陛下の信頼を得ている方とはいえ、女性の寝台を探るのは……」
「そんな事は今関係ない。やはり貴様ら、何か企んでいるのだろう! 雹藍様を殺す気なのか!?」
「殺すだなんて、まさか。その剣は護身用ですよ。ナランの民は護身用にいつも剣を持ち歩いているので、その癖でつい……」
「黙れ!」
翡翠はヨミの襟元を左手で掴み、辺りに響き渡る程の大声で怒鳴る。たまたま通りがかった女官が一人飛び上がり、そそくさと逃げていった。
「貴様らのような人の皮を被った獣の戯れ言など誰が信用する!? 雹藍様に手を出す前に、今この手で私が貴様らを……!!」
翡翠の両手の力が強くなる。息苦しさを感じ、ヨミが腕を解く方法を考え始めたとき、後ろから冷たく鋭い声がした。
「翡翠」
見ると戻っていったはずの雹藍が、いつの間にか二人の横に立っていた。
翡翠はヨミの短剣を雹藍に見せて、彼に訴える。
「雹藍様! この者、短剣を隠し持っていました! 今すぐ牢に入れなければ……!!」
雹藍は差し出された短剣をしばし見つめたのち、静かな声で言った。
「ヨミ殿から手を離せ、翡翠」
「しかし……!!」
反論しようとする翡翠に、雹藍は冷たく鋭い視線を向ける。
「離せ。命令だ」
「はい……」
翡翠は大人しくヨミの襟元から手を離すと、一歩下がって俯いた。雹藍は彼と彼の持つ短剣を見比べた後、ヨミの方を振り向いた。
「何故、短剣を?」
「……護身用です」
まっすぐ雹藍の顔を見て告げる。
彼はヨミの表情を推し量るかのように見つめた後、静かに「そうか」と言った。
「翡翠、短剣をヨミ殿に返すのだ」
「……」
翡翠は憎々しげな瞳で睨みながら、短剣をヨミの胸へと押しつける。
ヨミがそれを受け取った後、雹藍は軽くヨミに頭を下げた。
「すまない、ヨミ殿。不快にさせたようだ」
「いえ……。ありがとうございます」
取り上げられるかと思っていたヨミは、驚きながらも頭を下げる。
雹藍は一瞬目を伏せた後くるりと三人に背を向けた。
「ヨミ殿とナパル殿は部屋に戻っているといい。茶の片付けは、誰か別の者に行かせよう。翡翠は共に来るように」
「はい、雹藍様……」
歯をかみしめながら俯く翡翠を置いて、雹藍はその場を再び去って行った。
「ヨミさん、私たちは戻りましょうか……」
ナパルに促され、ヨミは部屋の中へと戻る。程なくして侍女が二人部屋を訪れ、茶器と皿を片付けていった。
すべてが終わった後、寝衣に着替えたヨミは寝台の上にどさっと腰を落とした。
「どうしよう……。まさか短剣が見つかるなんて……」
「初日そうそう、ですね。けれどあの陛下の反応はどういう事なのでしょうか? ヨミさんの台詞でごまかせているとは思えませんし、普通なら翡翠さんの言っていた通り、今すぐ捕まって死刑、のような気もするのですが。まさか短剣まで返すなんて」
小鳥の姿に戻り膝の上で首を傾げるナパルに、ヨミはうなだれながら答えた。
「わかんない……。一旦安心させておいて、後から捕まえてどん底に突き落としてやろうって魂胆かも。処刑するには回り道だけど、相手はあの氷帝だし」
ヨミは寝台の上に仰向けに倒れ込む。天蓋の複雑な文様が、ぐるぐると回っているような気がした。
良くて死刑。悪くて死刑。どのみち死刑だ。
油断させて隙を狙う計画だったのに、これではすべてが台無しである。
皇帝を殺そうと決めた時から死ぬ覚悟はできていたが、まさかこんなに早くその状況に陥るとは。
しかしこうなった以上、死ぬ事ばかりを考えていても仕方がない。
奇跡的に、短剣はこの手の中に戻って来たのだ。
「処刑される前に殺すか、道連れにするか……。計画を変えなきゃいけないなぁ……」
目を閉じて呟くヨミ。その横で、ナパルが僅かに曇らせていた。
しかし翌日も、その翌日も、ヨミとナパルが咎められることはなく、更には短剣を持っていたという噂も一切広まっていなかったので、二人は面食らってしまったのである。
「こら! 寝ないでください!」
怒号と共に、ヨミの部屋にばしんと机を叩く音が響き渡る。
「うう、すみません……」
「もう一度説明しますからね! 三十七行目を見てください!」
重い瞼をなんとか開きながら、ヨミは目の前の巻物とその向こうで長々とした説明を続ける女官を見比べた。
ヨミが蒼龍国に来てから約半月が過ぎたが、初日の短剣事件については相変わらず罪に問われてはいなかった。
部屋の外に四六時中見張りの兵が二人付いており、部屋の外に出るときも彼らとともに出なければならなかったが、監視と言うより単に警護の為のようだった。
雹藍と翡翠は警戒しているのか初日以来全く顔を合わせていなかったが、半月もの間牢に放り込まれていない事実から、きっとあの件は不問になったのだろう。理由は良く分からないが。
命だけは繫がって一安心しているヨミだったが、煩わしいことは多くある。
例えば見張りのせいで皇帝暗殺計画をなかなか実行できないこと。例えば至る所から「蛮族が」と蔑む声が聞こえてくること。例えば後宮の他の后達が毎日嫌がらせをしてくること。そして蒼龍国についての勉強もそうだ。
皇后になるためには、この国の事を知らねばならない。
そう言われてヨミは礼儀作法から、琴や裁縫、昨日は宮廷内の人事や後宮のあれこれまでを学ばされた。
そして、何故後宮の他の后や女官達から目の敵にされているかをようやく理解できたのである。
曰く後宮には現在ヨミ以外に六人の后がいるのだが、彼女達にも優劣があり、皇帝の后である皇后が一番高い位となる。そして本来新たに入った后は一番下の位になる筈なのだが、雹藍は諸々の手続きをすっ飛ばして新参のヨミに最高位を与えようとしていたのだ。
どんな理由があるのかは知らないが、それはさすがに后達も怒って然りの状況である。
そして后達の嫌がらせを受けるヨミにとっても、迷惑なことこの上ない。彼女達の手によって、日々窓から部屋に投げ込まれる虫や蛇や蛙たちの片付けは、蒼龍国に来てからのヨミの日課になってしまった。
「はい、次はこっちの巻物ですからね!」
今は歴史の勉強中。教育係の女官は、尖った声で言いつつヨミに新たな巻物を差し出した。彼女のとげとげしい態度も、きっと嫌がらせの一環なのだろう。
「一行目からです。我が蒼龍国は建国以来……」
ヨミは女官の声を聞き流しつつ、巻物の上に綴られた文章を始めから一文ずつ読んでいく。
蒼龍国とナランの民の先祖は同じだったとか、蒼龍国が国としてできあがっていくに従って精霊たちが姿を消したとか、北の肥沃な土地は本来蒼龍国の土地であり戦いによってナランから奪い返したのだとか、大体そんなことが書いてあった。
そこまで読んで女官の説明に意識を戻すと、彼女はヨミが読んだ部分よりずっと先の事を話しており、ヨミは小さくため息をついた。
文字は嫌いだ。
ナランの民は、基本的に読み書きができない。語り継ぐべきものは口伝で足りていたし、遠い場所にいる人間とやりとりする時は精霊に言伝を頼むため、生活の中で字を必要としていないのだ。
それでもヨミが辛うじて蒼龍国の文字を読めるのは、首長の家系故、両親に無理矢理覚えさせられたからである。
幼い頃、嫌だ嫌だと叫びながら、長時間紙と向かい合わせになっていた記憶が蘇る。
あの頃は慣れない勉強が辛くて両親を恨んだが、今となってはもう永遠に取り戻せない時間なのだ。
じわりと目尻が熱くなる。正面で何かを延々話し続けている女官にばれないように、ヨミは必死に涙を堪えた。
「……はい。では今日はここまで」
ぱん、と女官が手を叩き、ヨミは思い出から現実に引き戻される。
慌てて椅子から立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げると、女官はヨミを一睨みして軽く会釈をしてヨミの部屋を出て行った。
ヨミは目の前の巻物をくるくると巻いていく。その横に、ことりと湯飲みが置かれた。
「お疲れ様です、ヨミさん」
「ありがとう、ナパル。……ほんと、勉強なんてつまんないよ。文字を読むのは疲れるし、歴史なんて全く興味ないし。そもそも蒼龍国の歴史だからか、やけに蒼龍国贔屓なんだよね。あの土地は元々あたしたちの土地なのにさ」
「ナランでは過去の歴史を詳細に記録したり、それを勉強したりすることはありませんしね。それに蒼龍国も元から文字を持っていた訳ではないでしょうし、建国時の歴史が正しく記されているとは限りません。どこかで本当の歴史から逸れていったのでしょうね。それはナランの口伝も同じですし、真実を知る人間は誰もいないのでしょう」
「でも、ナパルは何百年も前からナランの民と一緒にいるんでしょ? 本当の事知ってるんじゃないの?」
「ええ、勿論。ですからこの記録が間違っていることは分かりますよ」
「なら本当はどうだったのか教えてよ」
「ふふ、今は秘密です」
「ええー」
盛大にため息をついて机の上に突っ伏すヨミに、ナパルはくすりと笑った。
「いつか、機会があればお話しますよ。……今は、きっと言わない方がいいでしょうから」
ヨミは「ふぅん」と鼻を鳴らしながら彼女をしばし見つめた後、話題を変えるように明るい声を上げた。
「ところで、今日はもう予定はないんだっけ?」
「あ……、そうですね。歴史の勉強で終わりだったかと思います」
「なら、ちょっと今の状況を整理しておこうかな。最近忙しくて全然把握しきれてなかったし」
そういってヨミは勉強の為に使っていた紙を一枚取り出し、後宮の見取り図を書いていく。
北側には宮廷敷地内の最北端に位置する北門。
すぐ内側には紫玉園と呼ばれる庭園があり、その西側にヨミの住まう白虎宮がある。そして皇帝の住まう麒麟殿は白虎宮の東隣、北門から庭園を挟んで正面にある建物だ。
白虎宮と麒麟殿、紫玉園内の楼閣や廟、堂等はすべて渡り廊下で繫がれている。
「あたしの部屋の前には見張りが二人。窓の外には見張りはいないから、そこから庭に出ることはできる。でも麒麟殿には入り口だけじゃなくて窓にも見張りがついているから、入ることは難しい、だったっけ?」
「はい、そうです。夜でも見張りがいるので、夜中にこっそり侵入して……というのも難しいと思いますね」
「そっかぁ……。うーん。なかなか良い方法が見つからないなぁ……」
ヨミは筆の後ろで自分の頬をつつきながら唸る。
これまでナパルの手も借りながら後宮の内部を調べ、暗殺の計画を立てていた。しかしいくら考えてもうまく雹藍に接触する術がない。
彼が自分の元に来ない以上、こちらから彼に近づくしかないのだが、何度頭で想像しても見張りに見つかって復讐を遂げることができずに牢に放り込まれる結末にしかならないのだ。
「せめてこの部屋の側を通る時が分かれば、部屋から飛び出して捕まる前に心臓をひと突きなんてできるけど、毎日同じ時間に麒麟殿を出てる訳じゃないんでしょ?」
「ええ。かなり時間差がありますね。自室で職務を行うことも多いようですし」
「うーん……。どうしたものか……」
ヨミが腕を組んで唸ったその時、部屋の扉がこんこんと叩かれた。
「ん? 誰だろ。ナパル、出てくれる?」
「わかりました」
ナパルが扉を開くと、そこには十数日振りに見る顔が二つ並んでいた。
「へ、陛下。それに翡翠様も。お久しぶりです」
まさに噂をすればなんとやら。
ナパルは慌てた声を上げ、ヨミは机の上の見取り図を握りつぶして立ち上がり、二人同時に頭を下げた。
今まで放置しておいて、一体何をしに来たのだろう。
まさか今更、短剣を持っていた事を咎めるつもりなのだろうか。
ヨミの額から、つうと冷たい汗が伝う。
雹藍の気配が自分の元に近づく度に、心音が大きく鳴り響いた。
「頭を、あげるといい」
その声に従いそろりと顔を上げると、目の前には氷の如く冷たい表情をした雹藍と、心底不機嫌そうに眉間に皺を寄せている翡翠の顔が並んでいた。
内心焦りを感じながらも、ヨミは平静を保った振りを装う。
「半月振りですね、雹藍。お元気でしたか?」
しかし雹藍はそれには応えない。代わりに一言何の感情も見えない声でこう言った。
「今、時間はあるか」
「あ、ええ。先程今日の用事は終わりましたので、以降は特に何も……」
「では、これに着替えてほしい」
戸惑うヨミに、雹藍は翡翠から何かを受け取り、ヨミとナパルに差し出した。
「服、ですか?」
ヨミは首を傾げつつ、受け取った服を手で撫ぜる。それは麻で作られた衣で、今身につけている絹の衣と比べると格段に品質が劣るものだった。
「まさか、これを着て牢に入れってこと……」
「違います」
思わず漏れた心の声を、翡翠が即座に遮った。
「私としてはすぐにあなたたちを牢に叩き込んでやりたいのですが、雹藍様が先日の事は不問にするとおっしゃっているので」
舌打ち混じりに吐き捨てて、ヨミたちから目をそらす翡翠。
正式に彼の口から不問にするとの言葉が出て、ヨミは心の中で安堵する。雹藍の方に向き直り、深く頭を下げて感謝の言葉を口にした。
「ありがとうございます、雹藍」
しかし牢に入れと言うのでなければ、この服は一体何の為に渡したのだろう。
ヨミが頭に疑問符を浮かべていると、雹藍がおもむろに口を開く。
「それを着て誰にも見つからないよう北門の外まで来て欲しい。ナパル殿も一緒に」
「北門? しかも外ですか? 一体何をするのです?」
「職務だ」
それだけ言うと、雹藍と翡翠は部屋を後にした。
ヨミは口をへの字に曲げながら、二人の消えた扉を見つめる。
「相変わらず、わかんないな……」
呟きつつ、受け取った服を寝台に広げて確認する。
袖の広い上衣に、大きめの脚衣。その形はジウォンと通っていた市で蒼龍国の商人が着ていた服に似ていた。
そこで、ヨミはある事を思い出す。
蒼龍国では、男女で着る服の形態が全く異なるのだ。
「……これ、男物だよね」
ヨミは思い切り眉にしわを寄せる。隣のナパルも「そうですね」と言いながら苦笑いを浮かべていた。その手に持っている服は簡素な青色の裳だった。
「どういう意味? ナパルは女物なのに、なんであたしは男物の服なの? あたしが男っぽいってこと?」
「そ、それは違うと思いますが……。ここではヨミさんも女らしくしてらっしゃいますし……」
「そう言うといつもは女っぽくないって言ってるみたいだけど……。じゃあどういう意味なの、これは」
「分かりませんね……。とりあえず、言われたとおりにして見ましょう」
ナパルはいまだ不服そうな顔を浮かべているヨミに着替えるよう促した。
絹の衣を脱ぎ、渡された脚衣をはいて上衣を羽織り、腰帯を巻く。髪飾りを外して団子状に結んだ髪を一度解いて一つにまとめた。股の内側に布が当たる感覚が懐かしい。
「……まぁ、悪くはないか」
着替え終わって呟いたヨミは、寝台の下に隠した短剣を引っ張り出し、腰帯に差した。
それを見たナパルは、眉をひそめる。
「ヨミさん、この前揉めたのに、短剣持って行くんですか? しかもそんなに堂々と……」
「だってせっかくの好機なんだよ。何をやるのかは知らないけど、やっと皇帝に近づけるんだ。あの件は不問にしたのにこの半月間全然会いに来なかったんだから、ちょっと愛想良くしたところで会いに来るようになるとは思えないし、手っ取り早くグサッとやっちゃった方がいいでしょ? それにこの前の件も護身用って言って不問になってるんだから、堂々と持っててもおかしくはないと思うんだ。むしろ堂々としてたほうが怪しまれないかも」
自信ありといった感じで語るヨミを、ナパルは不安げな瞳で見つめる。
「そうでしょうか……? 陛下はともかく、翡翠様はごまかせない気が……」
「大丈夫。どうせ二人一緒に来るんだろうし、捕まりそうになる前に殺すから」
ヨミはそう言って頷いた後、言葉を続けた。
「で、ナパルは着替えないの?」
変わらず女官の衣装のままだったナパルは、ヨミの問いに「ああ」と声をあげて、一瞬で小鳥の姿に戻る。
「私は一旦精霊の姿で行く事にします。この方が見つかりにくいですから。外に出て、もう一度人間の姿を取った時に、渡された服を真似ることにします」
「そっか。まあその方が良いかもね。見つかりにくいし」
頷くヨミの肩にナパルが飛び乗る。僅かに掛かるこの重さも、久しぶりの感覚だ。
「じゃあ、行こっか」
「ええ」
二人は窓から外を確認しつつ、そろりとそこから忍び出る。そして手近にあった植え込みに素早く身を隠した。
後宮は、昼夜問わず部屋にいる者が多いので、人通りは多くない。更に紫玉園内は木々や茂みが多く、隠れる場所はいくらでもある。故に、北門付近まで進むのは容易だ。
問題は、北門をどうやってくぐり抜けるかである。
北門の目の前まで辿りついたヨミは、茂みに隠れたまま、門外で左右に立ち並ぶ衛兵を見て腕を組んだ。
「普通に出て行ったら間違いなくばれて、不審者が出てきたって捕まっちゃうよね。かといって、注意を逸らす方法も……」
ヨミがぶつぶつ呟いていると、ヨミの肩に止まっていたナパルが「ああ」と声を上げた。
「私があの人達の注意を逸らしましょう」
「え? どうやって?」
「まあまあ見ててください」
ナパルは楽しそうにそう言うと、小鳥の姿から子羊大の姿に変わる。そして石を一つくちばしにくわえて北門の向こうに飛んでいった。
ナパルの姿が見えなくなってすぐ、衛兵達が騒ぎ始めた。
「なんだ、あの鳥は! あんな美しい鳥、これまで見たこともないぞ!」
「ああ。捕まえて、陛下に献上するんだ!!」
兵士達は鳥の姿の彼女を捕まえようと北門から持ち場を離れる。
その隙を見て、ヨミは全力で北門の向こうへと走り抜けた。
「ふぅ、なんとか出れた……」
北門から塀沿いにしばらく走った後、ヨミは大きな息をつく。
ナパルがいたからできたものの、一人では絶対に不可能だった。初日の事は不問にするといっておきながら、実は恨みを抱えているのではなかろうか。
赤い塀にもたれかかり、心の中で悪態をつきながら休んでいると、その横に、小鳥の大きさに戻ったナパルが舞い戻る。
「お疲れ様です、ヨミさん」
その小さな身体を右手の人差し指に乗せ、ヨミは弱々しく微笑んだ。
「ありがと、ナパル。お陰で助かったよ」
「いえいえ。元のあの姿、蒼龍国の人の人目を引くのは知っていたので、もしかしたら使えるかと思いまして。うまくいって良かったです」
そうやって二人で話していると、門とは反対側の方向から足音が聞こえてきた。
「やはり、ですか……」
見るとそこにはヨミと同じような服を着て、腰に長剣を差し、苦々しげな表情をした翡翠が立っていた。その視線は、ヨミの腰の短剣に向けられている。
「先に来て正解でした。やはりあなたは信用ならない。さあ、その短剣をこちらに渡してください」
手を差し出す翡翠。
雹藍と翡翠、当然二人一緒に来ると思っていた。
だからもし短剣を奪われそうになってもその前に雹藍を殺してしまえば良いと思っていたのに、翡翠が先に来たのは予想外だった。
今短剣を取られては、せっかくの好機が消えてしまう。かといって目の前の翡翠を斬れば、皇帝の側近を殺した罪で、今度は即刻に死刑になるだろう。それに彼は剣を持っている。打ち合いになれば北門の兵に気付かれてこれまた雹藍を殺す前に捕まってしまいそうだ。
ヨミは守るように短剣へ手をあてがいながら、慎重に口をひらく。
「この剣は護身用なのですよ。どこに連れて行かれるかも分からない中、渡してしまえば何かあった時に身を守れない」
「護身用……雹藍様の話を聞いた後だと、それが本当かどうかも怪しいですがね」
そう吐き捨てた後、翡翠はあざ笑うかのように言葉を続けた。
「安心してください。あなたの身は雹藍様と一緒に私がこの剣で守りますので」
「……信用できません」
「私とてあなたのような蛮族、進んで守りたいとも思いませんよ。しかしこれは雹藍様の命令。主君が正しい道を進む限り、私にとってその命令は絶対です。違えば命を絶つ覚悟もできている」
「……」
「さあ、それを渡してください。護身用として、あなたが短剣を持つ理由はなくなったはずです。後で返してさしあげますから」
ヨミは奥歯を噛みしめながら長剣に手をあてがう翡翠を睨む。
ここで短剣を渡さなければ護身用とは別の目的で短剣を所持していると言っているようなもの。前回は雹藍も不問にしたものの、次はどうなるか分からない。これ以上想定外の状況に陥り、余計に雹藍に近づけなくなることは避けたかった。
「わかりました」
ヨミは腰帯から短剣を外して翡翠に渡す。彼はそれを受け取ると、懐に入れてもう一度ヨミを睨んだ。
二人が沈黙したまま睨み合っていると、もう一つの足音が聞こえてくる。
「翡翠、それにヨミ殿。遅くなって済まない」
「わっ。えっ、雹藍!?」
突然現れた雹藍に驚いたヨミは、その姿を見て二度飛び上がった。
彼の服はいつものきらびやかな衣ではなく、ヨミが着ているものと同じ麻の簡素な衣だった。長い髪には髪飾り一つ見当たらず、頭の横でゆるりと結ばれ、胸の前に垂らしている。
どこにでもいる庶民のような格好の雹藍に、ヨミはぽかんと口を開いた。
「どうされたのですか、その格好……」
「これからの職務の為だ。……ところで、ナパル殿はどこへ?」
「あ……」
ヨミは辺りを見回し塀の上にいる小鳥の姿のナパルを見つける。
どうしよう。精霊である事が明らかになれば、ナパルが追い出されてしまうかもしれない。
ヨミの額から冷たい汗が流れ落ちる。
しかしその心配をよそに、ナパルはぱたぱたと雹藍とヨミの間に舞い降りると、躊躇もせずに言葉を発した。
「こちらの姿では初めまして、ですね。陛下、翡翠様」
「し、ナパル!? ちょっと! それは駄目だって……いや、駄目ですって!」
ナパルは慌ててくちばしを掴もうとするヨミの手をひょいとよけると、「大丈夫ですよ」と笑う。
「だって、お二人とも、私が精霊って事を知ってらっしゃると思うのです」
「え!?」
ヨミが雹藍の顔を見上げると、彼はこくりと頷いた。
「翡翠から聞いた。元はそのような姿なのだな」
「本当はもう少し大きいのですが、普段は勝手が悪いのでこうして小鳥の姿になっているのですよ。けれど……」
ナパルは飛び上がり、ヨミの横で宙返りをする。たちまち鳥の姿は消え、代わりに夜闇のような暗い青の髪色をした少女が現れた。その身に纏っているのは、先程雹藍に手渡されていた青色の裳である。
「皆さんとご一緒するなら、この姿の方がいいでしょう?」
にこにこと笑うナパル。ヨミは小さくため息をつき、翡翠は目を丸くしている。雹藍はというと、相変わらずの無表情だ。
彼は三人をぐるりと見渡した後、小さく頷く。
「……皆、準備はできたようだな。では、行くぞ」
「どこへ、でしょう?」
ヨミが首を傾げると、雹藍はそれを横目に一言答えた。
「都だ」
「へぇ……こんなに人が……」
人の行き交う西城の都。宮廷の正門から南にまっすぐ伸びる大通りの両側には、商店や飲食店が建ち並び、大勢の人が行き交っている。
蒼龍国建国当初から発展を続けてきたこの場所は、都の中で随一の繁華街になっていた。
短剣を奪われ皇帝殺害のことが一旦頭の端に追いやられてしまったヨミは、西城の光景を見て素直に感心する。
並ぶ建物も、行き交う人々の服装も、すべてがナランの民とは全く違う蒼龍国の人々の暮らし。
自然から離れて生きる生活は、噂を聞いている限りはそんなに良い物ではないと思っていたが、実際にその中で暮らす人々の生き生きとした表情を見ると、敵国ながらこういう生き方があっても良いのかもしれないと思えてくる。
「ちょっとだけナランにいたころに見た市に似てるな。……あ、あっちは肉を焼いてる。この匂いは、鳥かな?」
雹藍がいる事も忘れ、ヨミは素に戻って大通りをあちこち見回す。すると隣から、ぽつりと声が落ちてきた。
「……やはり、そうしている方が君らしい」
雹藍の言葉に、はっとヨミは我に返る。そして彼に向かってわざとらしい笑みを見せた。
「な、な、何の事でしょう!? ふふふふ………」
すると雹藍の眉間に、微かにしわが寄せられた。それに気付いたヨミはどきりと心臓が跳ね上がる。
何か怒らせてしまったのだろうか。
短剣を奪われた今、この場で雹藍を殺すことはできない。だから今の自分にできることは、雹藍へできるだけ良い印象を与えてなんとか接触の機会を増やすことだ。なのに怒らせてしまっては意味がない。
ヨミは雹藍の機嫌を取ろうと、知恵を絞って言葉を探す。
その時ふと豪華な店構えの建物が目に入り、咄嗟にそこを指さした。
「あ、あの! 雹藍! あれ、あのお店に行ってみたいです!!」
雹藍はヨミの差した店を見て目を瞬かせた後、何故か視線を横にそらす。
「ヨミ殿。あの店は……、その……、娼館なのだが」
「え? 何ですか、それ?」
ヨミがこてんと首を傾げると、雹藍は再び瞬きをした。
そして直後に口角をあげ、くすりと笑ったのだ。
その表情に、ヨミ、そして少し離れて後ろを歩いていた翡翠とナパルは、三人同時に目を丸くする。
「君は、面白いな」
雪解けのような明るい雹藍の笑顔に、ヨミは心の中で「えええ!!!」と悲鳴に近い声を上げた。
氷帝とまで言われた無表情かつ無感動の雹藍がこんな風に微笑むなんて、誰が想像できただろうか。
「雹藍も……笑うのですね……」
ぽかんと開いた口からそんな失礼な言葉が溢れ出る。
それを聞いた雹藍は、動揺したのか顔を真っ赤に染め上げた。これまた彼の印象からは想像できなかった表情だ。
「僕は……笑っていたのか……?」
「ええ。自分でも気付かなかったのですか? ……というか『僕』って。確か初めて蓮華殿で顔を合わせた時は、『私』って言ってませんでしたっけ」
「あれは職務中だったから……。あ、いや、今も職務中なんだが、翡翠以外の臣下がいないときはそう話している……。変、か……?」
「変と言いますか……」
呟きながら、ヨミは目の前でまごついている雹藍をまじまじと見る。
もしやこの皇帝は、無感情なのではなく、単に感情を表に出すのが苦手なだけなのではなかろうか。口数が少ないのも、口下手故なのかもしれない。更に、素の一人称は「僕」ときた。
そう考えると。
「なんだか、かわいいですね」
「かっ……、かわいい……!?」
耳の先まで真っ赤に染める雹藍。そして告げた本人であるヨミも、口を押さえて俯いた。
どうしてこんな相手のことを、かわいいなどと思ってしまったのだろう。
ちらり、と目の前の雹藍の顔を一瞥する。
顔を赤らめてヨミから目をそらす彼は、間違いなく十年前に両親を殺した者を率いていた将軍だ。
冷たい瞳に残忍な行為。
冷酷な獣のようだと思っていたのに、こんな顔を見せられてしまったら調子が狂う。
乱れた心を戻そうと、ヨミは顔を上げて話題を変えた。
「それで……あの……。雹藍は何故都に来たのですか? それも庶民の格好をして」
その問いに、雹藍は「ああ」と再び歩を進めながら話し始めた。
「宮廷でも、臣下たちから都の様子は話に聞く。けれど、こもってばかりでは、実際の様子は分からないだろう? だから月に一度か二度、密かにこうして直接見に来るのだ」
「そうなのですね。では私とナパルを連れてきた理由は?」
「二人にも、見ておいて欲しいと思ったからだ。蒼龍国はナランとは随分と様子が違うからな。それにその……君は皇后になるのだから」
改めて彼の口から「皇后」という単語を聞き、ヨミは僅かに目を見張る。
「私が未来の皇后だという認識は、一応あったのですね」
「……それは、どういう意味だ」
眉をひそめ、下唇を僅かにあげる雹藍。表情の変化が乏しいだけで、よく見ればこの皇帝は意外にも感情豊かな事に気付く。
「いえ。いろいろ思う所はありましたので。今日着るようにと渡された服も男物でしたし」
ちょっとした皮肉のつもりだったが、雹藍には随分と効いたらしい。彼は眉尻を下に向け、ヨミの横で心なしか小さくなっている。
「その……気分を害していたなら、すまない。ナランの民は、女でも脚衣を穿くだろう。だからヨミ殿には男物の方が良いと思った。ナパル殿については人間ではないと分かっていた故、ナランの服は着たことがないのではと思い、裳を渡したのだ」
「そうだったのですか……」
呟きながら、今日は驚く事ばかりだと心の中でヨミは思う。冷酷な皇帝だと思っていた雹藍は、想像以上にいろいろな事を考えているらしい。
「では、半月一度も会いに来てくださらなかったのは? 短剣の件を不問にされたという事は私達を疑っていた訳ではないのでしょう?」
「それは……君、言っていただろう。一緒に過ごすと疲れる、と……」
「あ……。それは、申し訳ありませんでした」
思い出して、ヨミは唇の片側をぎこちなく上げる。
雹藍はどこかに行ってしまったかと思っていたから他にもいろいろ口走ってしまった気もするが、もしやそれもすべて聞いていたのか。
「……でも、あれは雹藍も悪いのですよ」
こみ上げる後悔と羞恥をなすりつけるように、ヨミは雹藍を見て口を尖らせる。
「挨拶に来ると聞いていたのに、何もお話にならないのですから」
「……何を言って良いのか、分からなかったのだ。話すのはあまり得意ではなく……」
「そうは言ってもです。話さなければ、互いのことなんて何も分からないし、伝わりません。あなたが会いに来てくれなかった理由も、私に男物の服を渡した理由も、今話してくれなければ私はあなたに馬鹿にされているのかと勘違いするところでしたよ」
事実、服に関しては馬鹿にされているのかと思ったが、それは言わないでおいた。
「……」
ヨミの訴えに、雹藍は黙ったまま悲しそうに目を伏せる。
そこにいたのは冷酷な皇帝でも、残忍な将軍でもない。ただの、ひどく叱られた一人の青年だった。
「ふふ……、あはははっ!」
彼の姿に、ヨミは我慢しきれず吹き出した。
「この国の頂点に立つ人なのに、どうしてそんな顔しているのですか」
「それは……、君が……」
「そんなことを思うのならば、あなたの言葉をちゃんと聞かせてください。今からでも遅くないですから」
ヨミは一歩前に出ると、雹藍の袖を引っ張って歩み始める。身体の均衡を崩した雹藍は、前のめりに躓《つまづ》いた。
「よ、ヨミ殿……!?」
ヨミは驚く彼を振り向き微笑む。
「ヨミ、と。そう呼んでください」
***
人混みの中、ナランの民と蒼龍国の頂点の二人が、互いの因縁を忘れて駆けていく。
それを後ろで見ていたナパルは、彼らの姿に微笑んだ。
もしかしたら、彼ならヨミを闇から救い出し、未来へと導くことができるかもしれない。
そんなことを思っていた時、隣から冷たく鋭い声がした。
「何故そんなに雹藍様を見ているのです。あなたも何か武器を持っているのですか」
目を向けると、翡翠が警戒心剥き出しの瞳でナパルを睨んでいた。腰の剣に手をかけて、今にもその柄を掴んで引き抜いてしまう勢いだ。
ナパルは彼の問いに首を振る。
「武器なんて持っていませんよ」
「……ああ、そうですね」
翡翠はナパルから視線を外して嘲笑した。
「精霊は人智を超えた力を持っているのですよね。武器など使わなくても人くらい簡単に殺せるというわけですか」
「……翡翠様、この際なので明かしておきますが、私の力は自らの血で他者の傷を癒やすことです。あとはこうして別の生き物の姿を真似るとか。素手で人を傷つけることなんてできませんよ。多少身体能力が高いかもしれませんが、それも豪腕な人間には劣りますし」
「それが真という証拠はないでしょう。あなたたちには初日の短剣の件がある。容易に信用する訳にはいきません」
「そうですか……。怪我人でもいれば治療するのですが、今はそういうわけにもいきませんし……」
静かな怒りと恨みを浮かべる翡翠の横で、ナパルはそっと目を伏せた。
真実を彼に言っても信用してもらえない。
先日の短剣の件と、彼が抱えている闇を考えれば、それくらいは明らかな事。しかしここまで復讐心を顕わにされるとなかなか堪えるものがある。
ナパルは前を行くヨミの背中に目を移す。
彼女は蒼龍国を恨んでいても、雹藍を殺すという目的の為に彼へ歩み寄ろうという姿勢を取っている。そしてその結果、雹藍とはうまく会話ができているようだ。
しかし翡翠にはそれがない。相手に近づこうとする意思の一つで、こんなにも結果が変わるものなのか。
「考えてみれば、あの頃にあって今はないものはそれなのかもしれませんね……」
ぽつりとそんな言葉が口から出る。心の中に浮かぶのは、数百年前、まだ蒼龍国が国として成立していない頃の国境付近の光景だった。
あの頃は良かった。
「国」という境目が曖昧だったあの頃は、遊牧民と農耕民、そして自分たち精霊が、あの場所で共に暮らしていた。互いの違いを理解し、それぞれの持つ力を他者に貸し与え、諍いが起こった時は皆で対話して力に頼らず平穏に解決していたのだ。
一度争い合った間柄、以前と同じとまでは困難だと分かっている。しかし今のナランの民と蒼龍国の人間の中にも、少しでもあの頃のような相手を理解しようとする心があれば、今の両者の関係も少しは良い方向に進んでいたのかもしれない。
「何をぶつぶつ呟いているのですか」
隣の翡翠が眉根を寄せて訝しげに尋ねてくる。
そんな彼に、ナパルは首元を人差し指で掻きながら無意識のうちに呟いた。
「あなたも少しだけで良いので、私たち精霊の事を知ろうとしてくれれば良いのですが……」
「は?」
翡翠の上げた低い声で、ナパルは自らの思いを声に出していたことに気付く。そして首を横に振り、困ったように微笑んだ。
「いいえ、なんでもありませんよ」
蒼龍国には、ナランにない文化が多くある。
定住。農業。貨幣。
そして飲食店も、その中の一つだ。
都の中をぐるりと一周したヨミたちは、宮廷からほど近い飲食店の片隅にいた。二人がけの長椅子が両端に並んだ机の上には、様々な料理が大皿にのせられて並んでいる。
羊の肉を串に刺して焼いたもの。鶏肉と野菜を一緒に蒸して味付けしたもの。一抱えある大きな魚を香草と一緒に焼いたもの。それから果物の入った皿と、目の前には黒い液体が杯に入っておかれていた。
宮廷で出る料理に比べると随分質素なものだったが、登り立つ湯気と香ばしい香りに食欲がそそられる。
「雹藍様、すべて問題ありません」
毒味を終えた翡翠が囁くと、隣の雹藍は頷き食べ物を口に運び始めた。続いて、翡翠やナパルも食事を始める。
ヨミが綺麗な手つきで食事を進める雹藍を見つめていると、視線に気付いた彼がこちらに向かって首を傾げる。
「食べないのか? ここの店、都にくる度に来ているが、結構うまいぞ」
「あ、いえ、食べます」
まさか食べる姿に見とれていましたなどと言えるはずもなく、ヨミは慌てて目の前の杯を持って一気に飲む。そして盛大にむせた。
「な、なに、これ!? 果実の汁かと思ったのに!」
酸っぱいような、渋いような味が口いっぱいに広がって、ヨミは杯を睨みつける。その様子を見て、雹藍は愉快そうに口角を上げた。
「ナランの民は酒を飲まないのか?」
「これ、お酒なのですか? こんな酒、飲んだことない……。変な味がします……」
「ナランにもお酒はありますが、このような黒い液体ではないのですよ」
苦々しい顔をしているヨミの代わりにナパルが答える。彼女は涼しい顔で杯を持ち、少しだけ液体を口にした。
「ナランのお酒は、馬の乳を発酵させて作るのです。あれも酸味が強いですが、このお酒の味とはまた少し違いますね」
「ああ、もしかして馬乳酒ですか? 蒼龍国にもありますよ。万人受けする味ではないうえ、蒼龍国ではあまり大量に作れるものではないので、飲む人はあまりいませんが」
ナパルの言葉に、翡翠は肉を口に運ぶ手を止めて言った。それを聞いたヨミは、目を輝かせて雹藍を見る。
「そうなのですか? お酒……馬乳酒が蒼龍国でも手に入るのですか?」
「まあ……そうだが。……飲みたいのか?」
「勿論ですよ」
答えながらヨミは、羊肉の串を大皿から取ってかぶり付いた。鳥や牛より堅い肉質に、鼻の奥をくすぐる独特の臭み。故郷の味がヨミの喉に染み渡る。
蒼龍国の料理が不味いとは言わない。鳥も、魚も、米も、野菜も、きっと美味しいのだろう。自分がそれらの食材に馴染んでさえいれば。
休戦となって十年。商人たちの手により、ナランの民も野菜を時々口にするようになっていたが、それでもやはり主食は羊なのだ。
宮廷でも一度羊が出てきたが、基本的には雹藍の好みなのか魚中心。半月程度ではまだ口慣れしていない。
「たまには故郷の味を口にしたくなるというやつです」
「そうか……。ならば、今度用意して……」
雹藍が言いかけたその時、後ろの方で、ばん、という大きな音とともに、大音量の罵声が響いてきた。
「まったくよ! 噂は本当だったってことか!」
「ああ。式典の話を聞く限りはな。ちっ……皇帝陛下が、あろう事かナランの女を后にするなんて」
見るとヨミ達の三つ後ろの席に、柄の悪そうな男が二人座っている。一人は痩せぎす、もう一人は太った片腕の男だ。彼らは酒を飲み、羊の串焼きをかじりながら、雹藍とヨミの事をあることないこと言っている。
一瞬、自分たちがここにいることがばれたのかとも思ったが、こちらを一切見ない事から、どうやらそういうわけではないらしい。
男達の話の内容と言えば、よく聞く悪口だ。
ナランは野蛮だ。ナランは醜い。ナランは……。
ヨミは、彼らを無視して食事を続ける。
そんな事、宮廷内で何度も言われ続けていた。それが少し大きな声で騒がれている、ただそれだけのこと。
蒼龍国に来た直後は怒りや悲しみを多少感じてはいたものの、今ではもう、すっかり言われ慣れてしまった。彼らは自分に面とむかって言っている訳ではないし、いつものように適当に聞き流していれば済む話だ。
ヨミがそんな事を思っていると、太った男が再び杯で机を叩いた。
「本当に、十年前のあの時は最悪だった! 俺の腕も、あの戦いでナランと奴らの操る精霊にやられていっちまったんだ! あのずる賢い蛮族め! 奴らなど、人間じゃない! 獣だ!」
「ヨミさん……」
「大丈夫。慣れていますから」
獣はお前らだと心の中で悪態をつきながら、ヨミはナパルに微笑み再び肉の串を口に運ぶ。
その時、隣の雹藍が突然席から立ち上がった。
「雹藍? どうしたのですか?」
ヨミの問いに答えることはなく、彼は黙ったまま二人組の席まで歩いて行く。
「あ? なんだ、兄ちゃん」
二人の男は突然現れた雹藍を鋭い視線で睨みつける。その相手がまさかこの国の皇帝だとは思いも寄らずに。
「なんか俺たちに用でもあんのかよ」
太った男に唸るような声で問いかけられても、雹藍は眉一つ動かさない。彼らの机の上を一瞥し、そして静かに口を開いた。
「その肉、うまいか?」
「あ?」
突然の問いかけに、男達は目を瞬かせる。そして自らの取り皿の上に置いた食べかけの肉を見た。
痩身の男が答える。
「ま、まあ、うまいけどよ……。それがなんだってんだ」
「そうか。では、それが何の肉か分かっているか?」
「羊だろ? 品書きにもそう書いてあるじゃねぇか」
「では、その羊の肉が、どこから来たものか知っているか?」
「……」
男達は黙り込む。その答えを、二人は口にすることができなかった。
雹藍はそんな二人を見比べて、そっと目を閉じた。
「我が蒼龍国の作物はうまい。けれど、その作物を育てる為に、我が国の土地の多くが使われている。育てられるといえば、場所を取らない鶏か、農耕の役に立つ牛くらいだ。食用の羊を飼える程の場所はない」
雹藍はそこで言葉を切り、瞼を開いて男達を見た。しかし彼らは苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、口を堅く閉じているだけ。
「……確かに、我が国は建国以来、ナランの民と何度も争ってきた。しかし休戦後、取引を始めた事によって、既に彼らは我が国に欠かせない存在となっている。恨むなとは言わないが、それを忘れない方がいい」
雹藍はそう言い残し、ヨミたちの席に戻ってくる。そして机の上に金を置き、ヨミの腕を掴んだ。
「出るぞ」
「あ、ちょっと……」
否定する暇もなく、ヨミは雹藍に引っ張られて店を出る。その後を、翡翠とナパルが追いかけた。
店から出て、雹藍は大通りを宮廷に向かって無言で歩いて行く。しばらく歩いたところでふと彼は立ち止まり、ヨミの方を振り向く。
「すまない。不快な思いをさせた」
「……」
目を伏せる雹藍を見ながら、ヨミは店での出来事と彼の言った言葉を思い出す。
この皇帝の事が、余計に分からなくなってしまった。
彼は十年前の戦いでナランを襲った将軍。けれど先程の店での発言は、ナランの事をかばうような言葉に聞こえた。
確かに言葉の通り、蒼龍国の利益の事もあるのかもしれない。けれど、あの場を収めてくれた理由はそれだけではない気もする。
しかし雹藍の僅かな感情表現から、彼の真の思いを読み取ることはできなかった。
一体彼は、ナランの民である自分の事をどう思っているのか。その疑問が胸の中に湧き上がり、思わず口から言葉が溢れ出る。
「雹藍は、私の事をどう思っているのですか」
突然の問いに、雹藍は眉をぴくりと動かし、顔を背ける。
その耳が真っ赤に染まっているのを目にして、ヨミは間違えた、と口を押さえて俯いた。
訂正しようと口を開こうとしたその時、雹藍の口から微かな言葉が聞こえてきた。
「それは……、もちろん……」
「え?」
ヨミは顔をあげ、目の前の雹藍を見た。彼は頬を真っ赤に染めて、口元を片腕で隠している。
自分の顔が熱くなるのを感じた。雹藍に腕を掴まれたままという事実を、妙に意識してしまう。
「もちろん、なんですか……?」
おそるおそる、ヨミは尋ねた。周りに人が大勢いるのに、目の前の青年しか目に入らない。
「もちろん……」
雹藍が口を開く。静かな声は、微かに震えていた。
「君を……好いて、いる」
ぽん、と。
何かが弾けると同時に、心の中に小さく温かいものが生まれるのをヨミは感じた。
早朝の紫玉園は、薄い靄が掛かっていた。草木は朝露に濡れ、起き上がる時を静かに待っている。空は薄い雲に覆われて、白い景色をより一層引き立たせた。
紫玉園の端、小さな堂の中に座ってその景色を見るヨミは、一人寒さを感じて肩掛けを引き寄せる。
ヨミが蒼龍国に来てから、半月と七日が経っていた。目的を成し遂げる事ができないまま、式典が七日後に迫っている。けれどヨミは、焦っていると同時に迷っていた。
「あたし……、どうしちゃったんだろ……」
七日前、西城の視察に行った日から、再びいくらか状況が変わった。
まずは見張りの兵のこと。部屋の前の見張りは相変わらずだが、こうして外に出る時は雹藍に頼んで一人で出歩けるようにして貰った。
そして雹藍はほぼ毎日ヨミの元を訪ねるようになっていた。言葉が少ないことは相変わらずだが、それでも自分の考えや感情を伝えようと一生懸命話してくれる。
無表情だと思っていた彼の表情も、日を追うごとに感情が読み取れるようになっていき、今ではどうしてあの男が無感情と思っていたのか分からないと思う程だった。
「それでも、あいつは父さんと母さんの敵に違いない。あたしはあいつを殺す為に生きてきて、あいつを殺す為にここにいるのに」
自由に行動できる範囲が広がり、そして二人きりになる時間も増えた。その気になればいつでも喉元に剣を当てられる。なのに剣をとろうとすると、「本当にそれでいいのか」と、心の中から別の声が聞こえてくるのだ。
「これも、あの男があんなことを言ったせいだ……」
――好いて、いる。
その言葉を思い出し、ヨミは頬が熱くなるのを感じた。
耳まで真っ赤にしながら、震える声でそう告げた雹藍。表情からも態度からも、冗談ではなく本心で言っているのだという事は伝わってきた。
面と向かって男から好きと言われたのは初めてだった。いくらヨミでも、告白をされて意識しない訳がない。
「別に、絆されたりなんかはしてないよ。あいつのことなんて別に好きじゃない、と思うし……。今でもちゃんと敵だって思ってるし、殺そうと思えば殺せるんだ……」
そう。最後の一押しが足りないだけ。その何かさえあれば、自分は前に踏み出せる、はずだ。
ため息をつきながら俯くと、ふと腰帯に差した笛が目に入った。
「久々に、笛でも吹こうかな……」
思考以外に意識が向けば、少しは気が紛れるだろう。
ヨミは呼龍笛を腰帯から引き抜くと、吹き口に唇を当て、静かに息を吹き込んだ。
軽やかな音色が堂の中に響き渡る。音は窓から外に出て行き、紫玉園中に広まっていく。大気に、地面に、草木や花に。そしてヨミの心に響いていった。
笛の音に願いを乗せて奏でれば、精霊たちがそれを叶えてくれる。
幼い頃、母はそう言ってヨミに何度も笛の音を聞かせてくれた。
もし本当に精霊たちが助けてくれるなら、自分の背中を押して欲しい。
そうすれば、きっと自分は前へと進んでいけるだろうから。
そんな事を思った時、突如堂の外に一陣の風が吹く。驚いたヨミは演奏をやめ、窓の外に身体を乗り出した。
つむじ風だったそれは、徐々に人の形を取っていく。しかしその影から感じるのは、人ならざる者――精霊の気配だった。
「ナパル……、じゃない。なら、誰……?」
もしかして、本当に精霊が願いを叶えにやってきてくれたのか。
そんな事を思いながらヨミは目の前の風をじっと見つめていると、やがてそれは十三歳程度の少年の姿になった。
ナランの民の服を着たその少年はしかし、肌には所々白いうろこが浮いており、尻からは蛇に似た長い尾が生えている。
「誰?」
「バラン。風龍だ」
首を傾げるヨミに、少年は大きな金色の瞳をくるりと動かしてみせた。白い尾が、ゆったり左右に揺れている。
「風龍……。にしては、まだうろこも小さいね。生まれてあんまり時間が経ってないんだ」
彼はヨミの言葉には応えない。しばし無言でこちらを見た後、一言告げた。
「伝言がある。トキからだ」
バランが来たのは笛の力だと思ったが、ただのトキからの伝言だったらしい。ヨミは心の中で密かに気を落としつつ、彼に尋ねる。
「トキ兄は何だって?」
「まだ実行していないのか。早くしろ、と」
「……トキ兄の馬鹿」
確かに兄から連絡が来ると言えばそれしかなかったが、それにしたってあまりにも折りが悪すぎる。
唇をとがらせ、不快の意をあらわすヨミを、バランはしばらく見つめていたが、やがて「トキに伝言は」と口を開いた。
「うるさい、馬鹿兄。やろうとしてる、って伝えて」
「……。わかった」
つんとした態度のヨミにも、バランは眉一つ動かさない。
蒼龍国に来た頃の雹藍と同じくらいに無表情かつ無感情だが、ただ表現が下手なだけ出会った彼と違って、バランは本当にそうなのだろう。精霊には人間と同じような感情を持たないものも時々いると聞く。
「じゃあ、俺はこれで」
「うん。お願いね」
言い終わるより先に、バランは再び風となってその場から消えてしまった。
ヨミはぼんやりと紫玉園を見渡した。朝靄は大分晴れていたが、空に掛かる雲のせいでどこか空気が重い。
背中を押されても、大して感情は動かなかった。相変わらず迷いはあるし、剣を取ることができるかどうかも微妙な所だ。
けれど、早くしろ、と言われてしまった。ならば迷いがあってもやるしかない。
「うん、今夜かなぁ……」
いつも通りであれば、今夜も雹藍はヨミの部屋に来るはずだ。
復讐を果たすこと、それがヨミの生きる意味。雹藍を殺す事は、間違いなんかじゃないはずだ。
堂から出て後宮に繋がる渡り廊下を歩きながら、ヨミはそう心に念じるのだった。
「え、今夜ですか?」
「そう。いい加減、片をつけないと」
ナパルに計画を実行することを伝えたのは、夕食後、部屋に戻って寝衣に着替えた後だった。
ヨミは寝台に腰掛け、横に控えるナパルに、バランに出会った事やトキからの伝言の話をする。
「なら早めに教えていただければ、私もなにかお手伝いできたのに……」
「……言う機会がなかったんだ。忙しかったし」
嘘だった。本当は、今夜実行すると決意した後も、心のどこかに迷いがあった。だから、なかなかナパルに話し出す事ができなかった。
「大丈夫。多分今日もあいつは来るから。二人きりになった時に隙を見て剣をあいつの胸に突き立てるだけ。ナパルは、翡翠を引きつけててくれればいいよ。なんだか最近仲良いみたいだし」
「いえ、別に仲が良いと言うわけではないですが……」
ヨミと雹藍が毎夜部屋で会話をしている間、ナパルと翡翠は追い出された者同士、部屋の扉の前に立っていた。
翡翠は口を開けば復讐心剥き出しの言葉が溢れ出ていた以前と違って、その日の天気だとかナパルの好きな物だとか、そういう他愛もない会話を持ちかけてくる。
その変化を素直に喜ぶ反面、自分の立場ではいつか彼を裏切ることになるのだと心苦しく思っていた。
悲しげな表情で目を伏せたナパル。ヨミはその心中に抱いているであろうものを見えない振りをして、脇に置いた短剣を懐に入れる。
「とにかく、お願いね。いつも通りなら、もうすぐ雹藍が……」
その時、聞き慣れた音で誰かが部屋の扉を叩いた。ヨミはその音に寝台から立ち上がる。
「噂をすれば、だね。ナパル、おねがい」
「……わかりました」
ナパルが部屋の扉を開けると、雹藍と翡翠が部屋の中へと入ってきた。
「ヨミ。今宵も、問題ないか?」
「ええ。私もお待ちしておりました」
無表情だった雹藍は、ヨミの言葉にうっすらと微笑みを浮かべる。そしていつも通りに部屋の椅子に腰掛けたので、ヨミも彼の反対側へと座った。
二人向かい合って席に着いたところで、翡翠が持ってきた菓子や茶を机の上に並べ始める。
「今宵は、君の喜びそうなものを持ってきた」
「あら、何でしょう? 楽しみです」
ヨミは笑いながら、目の前の彼を見る。
皇帝として職務をこなしている時とは異なり、今の彼は髪飾りを外して長い髪を下ろしている。白地に襟口が空色の落ち着いた衣が、雹藍の美しさを引き立てていた。
正直いつもの赤と黒の衣よりよく似合っている。こっちの方が好きかもしれない。
そこまで考えたヨミは「なにいってんだ、あたし!」と心の中で、自分の呟きにつっこみを入れる。
この皇帝は、今夜自分が殺す相手。
内の感情をすべてなくして冷酷にならねばならないというのに、服が似合っているなどと思うのは論外だ。
「ん? どうした?」
雹藍が首を傾げてこちらを見ている。何か妙な表情でも浮かべていたのかもしれないと思いつつ、ヨミはごまかすように微笑んだ。
「いえ、なんでもありませんよ」
「そうか。なら良いが。……それで、持ってきたものというのがこれだ」
雹藍が翡翠に目配せすると、彼はヨミと雹藍の前に白い液体の入った杯を置く。蒼龍国にはない、独特で懐かしい臭みがヨミの鼻をつく。
「これ……、もしかして……」
「馬乳酒。手に入ったのでな。持ってきた」
あの店で話した事を覚えていてくれたのか。
胸に再び温かいものがこみ上げてくるのを感じて、ヨミは慌ててそれに蓋をする。そしてあくまで平静を保ちながら、「ありがとうございます」と彼に告げた。
「準備は、終わりましたので私達は失礼します」
翡翠、それにナパルが、軽く頭を下げて、二人で部屋を退出する。ヨミがナパルに目配せすると、彼女は小さく頷いた。
「ヨミ。飲んでくれるか?」
「もちろん。雹藍が私の為に用意してくれたものですから」
ヨミは杯を手にすると、白い液体に口をつけた。酸味が舌の上を滑り、喉の奥へと落ちていく。ナランで飲んでいたものよりも発酵が浅かったが、それでも故郷を思い出す懐かしい味だ。
「ん……。おいしいです」
「それはよかった。蒼龍国で作られたものと聞いていたから、満足してもらえなかったらどうしようかと思っていたのだ」
そう言って雹藍は自分の杯をくるくる回したのち、おもむろに馬乳酒に口をつける。しかしほとんど杯を傾ける事なく再び机の上に置いた。
「……雹藍、もしかして馬乳酒はあまり得意ではないのですか?」
「……」
雹藍は返事の代わりに目を横に泳がせた。つまり、そういうことなのだろう。
「なら、自分の分まで用意されなくてもよかったのに」
「しかし、君が好きなものを、共に味わいたかったのだ……。君と一緒に口にすれば、飲めるかもしれないと思ったから……」
語尾を小さくさせながら、雹藍は杯を掴んだまま肩を下げて俯いている。これが相当落ち込んでいる時の反応だという事を、ヨミはここ数日で学んでいた。
彼の姿にゆらゆらと胸の中が揺れ動く。三度目のそれに気付いたヨミは、心の中で自分の頬を叩いた。
これ以上こうしていたら、決心が鈍る。
だからもう、終わらせなければいけない。この時間を、この復讐を。
ヨミは馬乳酒の杯から手を離し、雹藍に気付かれないようにそろりと懐に手を入れる。
「しかし、やはり駄目だったようだ……。ヨミ、よければ僕のも……」
顔を上げた雹藍は、胸に突きつけられた剣の切っ先を見て目を細めた。
「……ヨミ」
「動かないでください」
ヨミは雹藍に短剣を突きつけたまま、静かな声で告げた。
「動けば、今すぐその心臓を貫きます。……まぁ、動かなくても少し寿命が延びるだけですが」
ヨミの言葉に、雹藍は黙って短剣とヨミの顔を見比べる。
「それを選んだ、か」
呟く雹藍の表情からは、彼の感情は読み取れない。ヨミがだまって様子を窺っていると、彼は静かにこう言った。
「殺せばいい。君がそうしたいなら」
「命乞いは、しないのですね」
「したところで無駄だろう。君は本気だ。……ただ、そうだな」
「……?」
「死ぬ前に二つ、頼みがあるのだ。それくらいは、構わないだろう?」
「……なんです?」
雹藍は短剣を突きつけたまま眉をひそめるヨミに言った。
「一つ。死ぬ前に紫玉園にある廟へ行きたい。そして二つ目は、君のその話し方をやめて欲しい」
「私の話し方、とは?」
「君本来の話し方に戻して欲しい、という意味だ。最後くらい、構わないだろう」
静かな夜空のような瞳が、じっとこちらを見つめている。雹藍は今の状況を拒まずに、すべて受け入れているようだった。
部屋の外に出れば、翡翠に助けを呼びに行かれ、復讐を果たせず捕まってしまう可能性もある。
しかし何故か目の前の雹藍が、それらを許すとは思えなかった。
「……わかった。二つとも、受け入れてあげる」
「ありがとう」
雹藍は満足したように微笑んだ。
「なら、立って。早く廟へ」
「ああ。向かおう」
雹藍は椅子から立ち上がる。そして静かに二人で部屋の外へ出た。
***
「ああ、終わったのですね。……って、は!?」
部屋を出てきた主がヨミに短剣を突きつけられているのを見た翡翠は、目を皿のようにして大声を上げた。
「貴様……! やはりそういうつもりで……!!」
腰の長剣に手を伸ばす翡翠の身体を、ナパルが後ろから羽交い締めにする。
「離せ!!」
翡翠はナパルに向かって吠え、自由を得ようともがいたが、ナパルの力は強く、振りほどくことは叶わない。彼にできたのは、次第に離れて行く彼の背中を見つめることだけだった。
「雹藍様!」
翡翠が名を叫んだその時、雹藍が翡翠の方を振り向き目配せをした。その心配するなと言うような瞳に、翡翠は暴れるのをやめてその場にずるりと座り込む。
しばし俯いて床を見つめたのち、ナパルに右手を拘束されたままあざ笑うように呟いた。
「結局、こうなるのですね。あなたが歩み寄って欲しいと言ったから、少しでも心を開こうと努力したのに」
「あれは……。すみません、私の立場であんなことを口にするべきではなかった……」
「本当に、その通りです」
翡翠は声を落とすナパルを見上げて吐き捨てた。
「あなたは一体何がしたいのですか? 誰も傷つかなければ良いと、自分たちを理解して欲しいと言いながら、こうやって誰もが傷つく道を選ぶ。蒼龍国の皇帝を殺せばあなたの主もナランの民もどうなるか分かっているはずでしょう? ヨミ様より、あなたの方がよっぽど分かりませんよ」
「私は……」
自分だってこんなことはしたくない。
けれどそれを口に出せば、枷は自分の首を締め付ける。
望むままに行動した時には、きっと命を奪われてしまうだろう。
苦渋の表情を浮かべるナパルに、翡翠は容赦なく言葉を告げる。
「主の進む道を側で守り抜き、そして主が間違った道へ進もうとしているのならば、命を賭してでも止める。それが臣下の役目です」
「……っ!」
「もう一度、問いましょう。あなたは一体何がしたいのですか? あなたの主は、あなたの思う正しい道を進んでいるのですか? あなたが今、真にやらなければならないと考えていることは何ですか?」
「私がやりたい事……」
望まれない言葉を思い浮かべた瞬間に、喉の奥が締め付けられる感覚がした。それから逃れようとするように、ナパルは空いた手で首元を掻く。
「私は……こんなことなんてしたくない……。人を助ける為という約束で数百年間力を貸していたのに、どうして人を傷つけないといけないのですか……! 私だって、ヨミさんを止めたい……」
ナパルはそこで言葉を切って咳き込んだ。翡翠の拘束を解き、両手で首元を押さえて床に屈み込む。
「ナパルさん……?」
急なナパルの変化に、翡翠は驚き困惑する。そしてナパルの首元に、赤い文様が首輪のように浮かび上がっていることに気づき、目を見開いた。
「その首は……」
「行って……ください……」
戸惑いを浮かべて自分を見つめる翡翠に、ナパルは喉の奥から絞り出すような声で囁いた。首を絞めつけられる苦痛により、瞳から涙がこぼれ落ちる。
「別れ際の陛下の顔……、きっと、何か考えがあるのだと思います……。今ならまだ間に合うかもしれない……」
「しかし……」
「私は大丈夫……。トキさんはこれくらいで私を殺しませんから……。だから、早く行ってください……」
一言彼に囁いた後、ナパルは安心させるように笑顔を作る。
その苦しげな微笑みに一瞬心を揺らがせた翡翠だったが、すぐに立ち上がり廊下の向こうへ駆けて行った。
月明かりだけの、暗い夜の中。ヨミと雹藍は渡り廊下を進んで行く。
紫玉園の西の端に佇む金の屋根と赤い柱の絢爛な廟は、あまり大きくはないものの暗闇の中でも堂々とした存在を保っていた。まだ作られてからそれほど年月は経っていないのだろう。まだ塗装が落ちていない真新しい扉の錠前に、雹藍は小さな鍵を差し込んだ。軽快な音がして鍵が開かれ、重い扉が軋みながら開かれる。
「入るといい」
ヨミは雹藍に促されて慎重に中へと足を踏み込む。彼は中心の燭台へ歩いて行くと、蝋燭に明かりを灯した。
途端に、廟の中がぼうと明るく照らされる。廟の中には燭台を中心として左右に二つ大きな像が置かれていた。黄金を貼り付けられたそれらの像は、同じく金色の花に囲まれながら、静かにヨミたちを見つめている。
「これは……」
ヨミが呟くと、背を向けていた雹藍が静かにこちらを振り向いた。
「もう一度、君の名前をここで聞かせてくれ」
「ヨミ・ウル。ナランの民の首長、トキの妹。そして……お前が殺した前首長の娘だ」
ヨミが告げると、雹藍は満足そうに口角を上げる。そして再びヨミに背を向け、二つの像を仰ぎ見た。
「これは、父と兄だ」
「……お前、兄がいたのか」
「ああ。十年前、君たちとの戦いが起こる前に死んだ。名は、麗藍。聞いた事はないか?」
「蒼龍国に来た時に、噂で」
そう答えたものの、何かが引っかかっていた。「麗藍」という名を、ヨミは蒼龍国に来る前から知っている気がする。
黙り込むヨミ。すると雹藍が再び静かに口を開く。
「兄は、北部統治調整官という肩書きの、将軍だった。君たちナランとの戦いに備えて作られた軍だ。あるとき、兄は一月ほど北部の国境地帯にとどまり、周囲を監視する任務を受けた。そして指令通り北部に向かい……」
雹藍はそこで言葉を切り、左側の像を見て目を細めた。
「そのまま、戻ってこなかった」
「……」
「巡回中、誤ってナランの土地を踏み、民と戦闘になったらしい。そしてほとんどの兵士が殺されて、兄は捕らわれ首長の所に連れて行かれた。なんとか逃げ延びた兵士から、僕たちはそう聞いている」
その言葉に、過去の記憶が蘇る。
まだヨミが幼い頃、ある侵入者が父の元に連れて来られた事があった。侵入者は年に数人いるが、そのほとんどは数日の後に放たれる。しかしその日に捉えられた侵入者は、名前を言うなりすぐに首を切られて殺された。
確か、その侵入者の名が「麗藍」だった。
雹藍はさらに言葉を続ける。
「兄が帰ってこなかった故、父は激怒した。皇位継承者だということもあったが、それ以上に、父は兄の事を気に入っていたからな。僕は兄の後任となり、ナランに出兵するよう命じられた。そして始まったのが、君もよく知るあの戦いだ」
「……つまり、戦いはあたし達ナランの自業自得だって言いたいわけ」
「いや、違う」
雹藍は再びヨミの方に顔を向けた。蝋燭の炎を映してもなお、黒く冷たい彼の瞳は、ただまっすぐにヨミの姿を見つめている。
「僕はあの戦いで、多くのものを見た。蒼龍国の兵士の、そしてナランの民の、ひどく大きな憎しみを。その声が聞こえない振りをして、僕は無心で命令通りに敵を一掃していった。ようやく兄を殺した首長たちを捕らえさせ、部下に命令し首を落とした。そしてすべてが終わり、彼らの首を箱に収めた後、視線を感じて横を見ると、まだ幼い子供がいた」
それは、ヨミもよく知っている。あの凄惨な光景も、冷たい瞳も、一度も忘れた事はない。
ぎゅっと、短剣を持つ手に力が加わり、切っ先が僅かに上を向く。しかし雹藍はそれに動じず、淡々とした声で話し続ける。
「その子供の瞳には、恨みと憎しみの炎が湛えられていた。自分に向けられた感情を見て、兄が死んだと聞いた時の父の姿を思い出した。その時、僕は気づいたのだ。この戦いはもう、土地の奪い合いではないことに」
「じゃあなんだって言うのよ」
「今の戦いは、復讐の輪廻に囚われている。憎しみを込めて相手を害し、傷つけられた者がその恨みを込めて相手に返す。だからこれまでと同じ事を繰り返しても、この輪廻は断ち切れず、ナランと蒼龍国の戦いは永遠に終わりはしないと僕は悟った。これ以上苦しむ人を出さないためには、争わずして両者の関係を和平に導かねばならないと」
「……」
「休戦ののち、僕はそれを成し遂げる為、一層勉学に励んだ。風の噂でナランの前首長の子が首長の座を継いだと聞き、それから数年たった去年。父が崩御し、僕が皇帝の座を継いだ。そして即位式典の最中に君を見つけた時、すぐにあの時の子供だとわかった」
「気付いてたの」
低い声でヨミが問うと、雹藍は何故か微笑んだ。
「ああ。瞳の色も、向けられた激情も、全く同じだったからな。この少女は必ず僕を殺しにくる。十年前の戦いで感じた予感があの時確信にかわった。けれど同時に……、何故かは分からないが、君が欲しいと思ってしまったのだ」
「はぁ?」
突然の展開に、ヨミは思わず頓狂な声を上げる。驚きのあまり短剣を取り落としそうになった。
「何の冗談?」
「冗談ではない。成長した君を、その恐ろしくも美しく、そして気高い瞳の色を見た瞬間、身体に衝撃が走った。運命とはこういうものかと、僕があの時君を見たのは必然であったのだと感じたのだ。そして身に危険が及ぶと分かっていても、僕は君を手に入れたいと思ってしまった。その時に、思い浮かんだのだ。その……婚約により和平をもたらす手段を」
目をそらし、耳の端を僅かに染める雹藍に、つられてヨミの顔も熱くなる。
何かとてつもなくすごい事を言われている気がしたが、混乱で頭がうまく回らない。
「だ、だからいろんな規則をねじ曲げてでもあたしを皇后にしようとしたの? ただ瞳が気に入ったって理由だけで、まともに話した事もないのに?」
「そうだ。……知っていたのか」
「馬鹿じゃないの? 近くに置けば、あたしに殺されるって考えなかったわけ!?」
混乱で半分叫ぶように声を上げる。
雹藍はそんなヨミに、真剣な瞳を向けた。
「考えた。僕が殺される事も、その後で何が起こるかも。けれど、これは賭けだったのだ」
雹藍が、一歩ヨミに近づいた。はっとヨミは我に返ると、短剣の刃先をまっすぐ彼へと向ける。
しかし彼は歩みを止めず、短剣の切っ先が自分の胸に当たるところまで近寄ってきた。
雹藍は静かにヨミを見ていた。その黒く静かな瞳に得体の知れない恐怖を感じ、ヨミは手を震わせる。
「ヨミ」
名前を呼ばれ、ヨミの身体がびくりとはねた。
「君が僕を殺したいのであれば、それでも僕は構わない。君にはその権利があるし、未来に向かう道は一つではないからな。君がそうしたいと願うなら、それも一つの選択なのだろう。ただ、僕の考えだけは最後に聞いておいて欲しかったのだ」
「あたしは……」
ヨミは雹藍から目を逸らして呟く。
頭の中に巡るのは、自分の恨みの記憶と雹藍の言葉。そしてここ数日の、彼と過ごした日々の事。
不意に、目頭が熱くなる。それから堰を切ったかのように、涙と共に感情が一気にあふれ出した。
「あたしは……!!」
目の前の男を、殺す為に生きてきた。この命と引き換えにしてでも、必ず殺さなければならないと思っていた。
けれどヨミは知ってしまった。ナランが殺した雹藍の兄が、戦のきっかけに繋がった事を。
ここでヨミが雹藍を殺せば、間違いなく自分の復讐を遂げることはできるだろう。けれどその先はどうなるか。これまでの話から、未来は十分に予想ができた。
ヨミの手から、短剣が離れていく。それは床の上に落ち、からん、と軽い音をたてた。
「殺したい、殺したいんだ。それなのに……」
ヨミは床にとさりと崩れ落ちる。「殺したい」と何度も何度も繰り返しながら、涙を流した。
「ヨミ……」
雹藍はヨミの前に膝をつき、その震える肩を両腕でそっと包み込む。
押し当てられた彼の胸に、自分と同じ悲しくも温かい鼓動が響いているのを、意識の端でヨミは感じた。
***
「復讐の輪廻、か」
追いかけてきた翡翠は、出て行こうとしたところを雹藍に視線で止められて、廟の外から二人の様子を窺っていた。
ヨミが自分を殺すかどうか。それを見極めたい。
彼女が蒼龍国に来た初日、ヨミの寝台から短剣を見つけた夜に、雹藍は翡翠にそう言った。
勿論、翡翠は反対した。
いくら主の意思だろうとも、雹藍はこの国の頂点に立ち皆を導く者。先導者を失った国は混乱に陥り、破滅の道へと向かってしまう。
けれど、雹藍は言った。もし彼女が自分を殺すことを選択したなら、自分の理想は叶えられないだろうから、と。ならば自分が皇帝を続ける意味はない、と。
彼の強い意志を受け、翡翠は雹藍に同意してしまったのだ。代わりに自分の手が届く限りは決して雹藍に手を出させないようにと常に長剣を携え、何かあった時にはすぐに対処できるように振る舞ってきた。
初めは翡翠も、主の考えは理想論に過ぎないと思っていた。自分の胸に燃える憎しみの炎が消える日が来るとは、到底思えなかったから。
しかしここ数日間、精霊のナパルと会話している時に、精霊に対して抱いていたはずの憎しみが少なからず薄れていた。それを思えば、雹藍の理想も不可能ではないのかもしれないと思えてくる。
「そういえば、ナパルさんは……」
置いてきたナパルの事がふと頭に浮かんだ。ヨミの事を止めたいと言った途端、首を押さえて倒れ込んだ彼女の事が。
トキはこれくらいで自分を殺さない。そう彼女は言っていた。
嫌な、予感がする。
首に浮かび上がったあの赤い文様は、まるで彼女の意思を制御しようとしているようだった。その予感が確かなら彼女の思いをねじ曲げ、操ろうとする者が他にいるということになる。
その者がいる限り、例えこの先最終的にヨミが雹藍を殺さない道を選んだとしても、雹藍の命が消えてしまうことになるかもしれない。
その時は、雹藍も、ヨミも、そしてナパルも望まない、最悪の結末になるだろう。
「本当は、ヨミ様を止めたい、ですか……」
別れ際に見たナパルの表情。望まない道を行くことを定められているのであれば、きっと彼女も苦しんできたのだろう。おそらくは、この国に来てからずっと。
「今までのあなたの言葉、全部本心だったんですね……」
月光の下、ナパルの心の内を思いながら、翡翠は一人呟いた。
時が経つのはあっという間だ。
ヨミは紫玉園の中心にある池のほとりで、僅かに顔を出した朝日を見ながらそんな事を思う。
蒼龍国に来てから丁度一月。予定通り、正午からヨミと雹藍の婚姻式典が開かれる。
宮廷内はその準備で朝から宦官や女官達がばたばたと忙しなく働いており、後宮の他の姫達は嫉妬のあまり癇癪を起こす寸前だった。
今も後ろを振り向けば、大きな箱を二つ抱えて走って行く若い男が目に入る。
準備は滞りなく進んでいるようだ。ヨミの心を置き去りにして。
池の水面を見れば、飾り気のない薄桃の裳を纏った自分の姿が目に映る。その表情にはいまだに迷いの色が浮かんでいた。
数日前、雹藍に刃を向けた事もやはり不問となっていた。どうやら彼は、本気でヨミに命を委ねるつもりらしい。
あの夜、廟で「構わない」と言った雹藍の顔が脳裏に焼き付いて離れない。以来ヨミは今日まで彼と会うことを避けていた。
そんな中、昨晩再びバランがやってきて、兄からの言葉を伝えていった。
「まだ殺せていないのか。式典は明日だろう。ここまで来たら、式典の最中に殺すんだ。その混乱に乗じて、俺たちが攻撃を仕掛けるから」
追い打ちをかけるような兄の言葉を、ヨミはナパルと共に聞いていた。
心の波は、より一層高くなる。
殺したい。けれど殺せない。
自分と兄の事だけを考えれば、答えは当然決まっている。しかし雹藍の話を聞いても尚そうできる程、ヨミは自分本位になれなかった。
ナランの地も、ナランの民も愛していた。青空と草原に囲まれて、羊を抱きしめ、馬で地を駆け、精霊と遊ぶ、あの生活が好きだった。けれど同時に雹藍と見た、西城の店や人々、彼らの文化も、興味の対象になっていた。
その二つが、ヨミの選択次第で壊れてしまうことに気付いてしまった。
朝日は金の光を増しながら、地上へと上っていく。ナランの地ではいつも待ちわびていた輝きは、今のヨミにとっては眩しすぎた。
「そろそろ戻ろう。着付けとか、化粧とか、準備がたくさんあるって聞いてたし……」
ヨミは池に背を向け顔を上げると、そこには一人の人物が立っていた。
「雹藍……」
「久しぶり、だな」
いつからいたのか、雹藍は少し離れた場所に佇んで、静かにヨミを見つめていた。
着ているのは白に近い青の生地に、翡翠色の襟の衣。腰も襟と同じ色の帯で止めている。頭の飾りがついていない所を見ると、どうやら彼もまだ準備をする前らしい。
「こんなところでどうされたのですか? 式典の準備もあるのでしょう?」
「部屋から、君の姿が見えたから」
雹藍は相変わらずの無表情で静かに答えた。数日会わなかった間に、彼の表情の変化が再び分からなくなってしまったように感じる。
「……話し方、戻さなくてもよいというのに。あちらの方が君らしい」
「あの時が最後だからという約束でしたから。……結局、最後にはなりませんでしたが」
目を伏せ自嘲するヨミに、雹藍は一拍おいて口を開いた。
「君は、どうするつもりなのだ」
「どうするつもり、とはどういうことでしょうか」
「式典で、僕を殺せと言われたのだろう。……翡翠が調べていたらしい。その……、すまない」
雹藍はそう言って肩を下げる。しかしヨミは驚かなかった。むしろ今まで、監視されていなかった方がおかしかったのだ。
「……雹藍は、私の瞳が好きと言っていましたね。復讐に燃える暗い瞳が」
「あ、ああ」
突飛な質問に雹藍の声が揺れたが、構わずヨミは言葉を続けた。
「もしも私があなたを殺さない選択をすれば、あなたが好きになった私はいなくなることになりますよ」
「それは……」
明らかな混乱と戸惑いを滲ませる雹藍。何度も口を開閉し、その度に耳が赤く染まっていく。そして更に数秒後、ようやく雹藍は己の思いを口にした。
「それでも勿論……、君を好きでいるに決まっている……。それほど強い信念を持つ君が、隣にいてくれれば……きっと心強い……」
「そうですか」
「それに……初めはそうだったが、今はもうそれだけではないのだ……。共に過ごした時間……君の笑顔が、僕を幸せにしてくれた……。だから、これから先も……僕の側に、いて、欲しいと……」
消え入るような声で、雹藍は告げる。白い肌を真っ赤に上気させて俯く彼を、ヨミはじっと見つめた。
別の文化、別の考えを持つ者同士が和平を築くには、侵略し、争いの後、一方が他方を屈服させるしかない。
蒼龍国に来てから学んだ歴史からも、一つの国が他国を軍事力で制圧してこの国ができたと学んでいたし、ナランが広い土地を得る事ができたのも、他の民族をすべて力で取り込んだからだと物語で聞いている。
それを思えば、争わずしてナランの民と蒼龍国の和平を築くという雹藍の考えは幻想に過ぎないのだろう。
けれど、もしそんな事ができるなら。
ヨミが口を開こうとした、その時だった。
「陛下、こんな所にいたのですか! 早く来てください!!」
見ると渡り廊下から、臣下の一人が大声を上げて雹藍の事を呼んでいた。
「雹藍、呼ばれているみたいですね……」
「あ、ああ……。では、また後ほど……」
雹藍はくるりと踵を返し、急いで臣下の元に向かう。
ヨミはその背中が見えなくなるまで、じっと彼を見つめていた。
部屋に戻ると、ヨミが紫玉園に向かう前にはなかったものがたくさんそこに置かれていた。
大きな衣装掛けに掛かった上衣に裳、羽織。どれも真朱の生地を基調とし、金や緑で草花を模した刺繍が入っていた。そしてどこからか運ばれてきたであろう台座には、金の帯と薄桃の帯留め、そして花をあしらった髪飾りが置かれている。
眩しくて目を閉じてしまいそうになる程の煌びやかな衣装の数々。普段ででさえ豪華な衣装なのに、目の前のものはそれ以上だ。
「これ……あたしが着るの?」
「当たり前じゃないですか。その為にさっき部屋に運び込まれたのですよ。蒼龍国ではおめでたいことがある時はこんな服を着るのだと聞きました」
「おめでたいこと、ねぇ……」
微笑むナパルからヨミは僅かに目をそらし、そのまま両手を開いた。それを合図にナパルはヨミの服を脱がし始める。
「……ナパル、こんなすごい服、着付けできるの?」
「見た目は派手ですが、構造はいつもと同じですよ。だから大丈夫です。もうここに運ばれる荷物もないですし、しばらく誰も来ません」
「そっか……」
一枚、二枚と服を着て、前で襟を交差させ、下半身に裳を巻き付ける。そして裾の長い羽織を着せた後、ナパルは壁際の鏡台の前にヨミを促した。
「ねぇ、ナパル。あたし、どうしたら良いかな」
ヨミは髪を結い上げられながら、鏡を見つめてナパルに問う。鏡に映ったナパルは一瞬手を止めたが、すぐに小さく微笑んだ。
「自分のしたいようにすればいいですよ。ヨミさんにはそれができるのですから」
「ナパル……」
ヨミはそっと目を閉じる。
ナランの地でも蒼龍国に来てからも、彼女はずっと側にいてくれた。
不意に落とす影がヨミの行動を是とは思っていないことを示していたが、それでも自分を尊重してくれようとする彼女に、ヨミは心の中で感謝を送る。
そして、告げた。
「……ナパル、あたし、決めたよ」
目を開き、まっすぐに前を見つめる。鏡に映る自分の顔には、もう迷いの色は存在しなかった。
「ナパル。寝台の枕の下にあたしの短剣と笛がある。それを取ってくれない?」
「……はい」
髪を止め終わった彼女は寝台に向かい、ヨミの言葉通りに短剣と呼龍笛を取り出し持ってくる。
ヨミはそれらを受け取ると、笛はお守りとして腰帯に差し、そして短剣は目的のために懐に入れた。
「ありがとう、ナパル。どうなるかわかんないけど、迷惑かけたらごめん」
「いえ……」
ナパルは静かに俯いた。しばしの後、彼女は顔を上げて笑顔を見せた。
「私、準備が終わったと知らせてきますね」
「うん。分かった」
ヨミが頷くと、ナパルは足早に部屋を出て行った。
***
「翡翠さん」
ヨミの部屋を後にしたナパルは、麒麟殿から出てきた翡翠に声をかけた。
手に服や髪飾りを乗せているのを見ると、どうやら彼も主人の着付けをしていたらしい。
逆方向へ歩いて行こうとしていた翡翠は、ナパルの姿を認めると、踵を返して歩み寄ってきた。
「ナパルさん、お久しぶりですね。その……身体は、大丈夫ですか」
「……ああ、大丈夫ですよ。あれは一時的なものなので……」
ナパルは小さく微笑んだ後、言葉を続けた。
「ヨミさんの準備が終わったので知らせにきました。……それと、言いたいことがあって」
「昨夜の件ですか」
翡翠は静かにそう言った。その言葉には、動揺一つ見当たらない。
「知っていたのですね」
「私の方でも、少し探らせて貰いました。昨日の件は、雹藍様にもお伝えしています。……それに関して、ヨミ様の答えが出たのですか?」
「ええ、ヨミさんは短剣を持っています。私に言えるのは……これだけです」
俯きながら首を掻くナパル。その姿を翡翠は迷うような表情で見つめた。
「意思を遂げる、と。そういうことですか」
「おそらくは……」
「そうですか。しかし、何故あなたがそれを私教えてくださるのです?」
「それは……」
ナパルは首に手をあてがい、僅かに顔を歪めながら言葉を続ける。
「私、決めたのです。翡翠さんのお陰で、自分のやりたい事をやり遂げる覚悟ができたので。だから……」
「……」
何もいわない翡翠に、ナパルはにこりと微笑んだ。
「万が一の時は、ヨミさんをよろしくお願いしますね」