今は特別な事情がある場合を除き入ってはならないとされている■■■山であるが、かつてはそこにも集落があった。そこから人が消えるきっかけとなったのは、ある年の秋に周辺一帯を襲った地震だと言われている。
地震自体の被害は、少なくともその集落においてはさほど大きいものではなかった。しかし地震の直後から、集落内の井戸が枯れてしまったのである。
■■■山には川が流れており、池もある。井戸が枯れたからといって、水源が無いというわけではない。しかしそうは言っても、集落内で水が手に入るのと、わざわざ川や池まで汲みにいかなくてはならないのとでは利便性は大違いである。人々は、なんとか再び井戸を使えるようにできないものかと考えた。
地震の直後から井戸が枯れたということは、地震によって地下水脈の流れか何かに影響が出たのだろう――とまでは当時の人々は考えなかったと思うが、それでも地面の下で何かがあったに違いないというところまでは想像できたのだろう。一人の男が、井戸の底に降りてどうなっているかを見てくると言い出した。
皆が気になっていることを誰かが確かめてきてくれるというのだから、止める理由は無い。人々は井戸の周囲に集まって、男が縄を伝って井戸を降りていくのを見送った。
元々は、さほど深くはなかった井戸である。男はすぐに戻ってくるものと思われた。
だが、その日、日が暮れても男は戻らなかった。村人達は、男は死んだのだろうと思った。途中で手を滑らせて落下し、打ちどころが悪くて首を折るなりしてしまったのだろう、と。
だが、翌日の昼過ぎになって、男は井戸から這い出てきた。しかも、見たこともない光る石を携えていた。
村人達に対し、男は語った。
曰く、井戸の底に水は無かったが、その代わり、洞窟に繋がっていた。そして、その洞窟の先には桃源郷があった。あそこなら、皆が何の憂いも無く幸福に暮らせる。
そういう話であった。
村人達は男の話を信じなかったが、男は人々が止めるのも聞かず、再び井戸を降りていってしまった。しかも、今度は妻と幼い我が子も連れて行った。
「家族揃って、桃源郷で幸せに暮らす」
男は最後に、そう言った。そして、二度と戻ることはなかった。
やがて、冬が来た。その年の冬は例年になく厳しい寒さで、獣もあまり獲れなかった。
その過酷な状況に耐えかねたのか、ある日、一人の貧しい男が言い出した。
「本当にあの井戸が桃源郷に通じているのか、確かめに行く」
周囲の人々はやはり止めたが、年老いた母親と二人暮らしのその男は、「このままでは母は冬を越せない。桃源郷ならきっとこんなに寒くはないだろうし、食べ物も豊富にあるだろう」と言って、井戸に潜っていった。
今度の男は、三日戻らなかった。
母親を捨てて一人で桃源郷に行ってしまったのではないか。
いやいや、あいつはそんな男ではない。きっと死んでしまったのだ。前に井戸に入った一家もそうに違いない。やはり井戸の先に桃源郷などないのだ。
人々はそう噂し合ったが、三日目の夕刻になって、ようやく男は井戸から這い出してきた。
だが、戻ってきた男は様子がおかしかった。
男はひどく怯えており、最初は口もきけないほどであったという。
村人達がどうにか男を落ち着かせて聞き出したところによると、井戸の底は確かに洞窟に通じていたが、その先にあるのはけっして桃源郷などではなかった。むしろ、化け物達が住まう地獄であったというのである。
話の内容自体は、桃源郷と同じくらい信じ難いものであった。だが、男の怯えようは尋常ではなかったし、村人達にはもう一つ、男の話を出鱈目と切って捨てられない理由があった。男の首から、男自身の頭とは別に、見たこともない不気味な獣の頭が生えていたのである。
その頭は、日増しに膨れ上がっていった。それと共に、まるで中身を獣の頭に吸われているかのように、男自身の頭の方は萎んでいったという。
男の母親は懸命に看病し、神仏に祈りもしたが、いっこうに収まる気配はなかった。そしてある時、周囲の家の者達が言葉にし難い不気味な絶叫とそれに続く女の悲鳴に驚いて男の家に駆けつけると、そこには既に事切れた男と、その傍で腰を抜かしてへたり込んでいる母親の姿があった。男自身の頭はすっかり萎みきっていたが、奇妙なことにあれほど膨れ上がっていたもう獣の頭の方も、中身がすっかり抜けてしまったかのように平たくなっていたという。
駆けつけた者達は、呆然としている男の母親に対し、いったい何があったのかと尋ねた。
男の母親曰く、大きく膨らんだ獣の方の頭が、突然叫びながら破裂したのだという。
この話を聞いた人々は恐れ慄き、井戸の奥の桃源郷を探そうと考える者が出なくなったのはもちろんのこと、井戸を再び使えるようにしようという話もすっかりしなくなった。
更に、井戸の底、そこから続く洞窟の先には化け物の住まう地獄があるという男の話も真実味をもって受け止められるようになり、人々は新たに悪いものが這い上がって来ないよう、井戸を封じたのである。
だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
男の母親、それに近隣に住む者達の首から、新たな頭が生えてきたのである。それは、あの死んだ男の頭だった。
人々は男の魂が成仏できずこの世に災厄をもたらしているのだと考え、神仏に祈ったが、やはり効果は無かった。
新たに生えてきた男の頭は、かつてその男の首から生えていた獣の頭と同様に、叫びながら破裂した。その絶叫は、件の男の声のようだったという。
男の頭が生えていた者達は全員、その頭が破裂すると同時に絶命した。中には生えてきた頭を切り落とそうと試みた者もいたが、頭は傷つけられると膨らみ切った時と同様の絶叫をあげて破裂し、その後の顛末は膨らみ切ってから破裂した場合と同様であった。
その後も、悲劇の連鎖は続いた。
人々は最初、二つ目の頭が生えてしまった者達を、通常は人が踏み入らいない山の奥深くへと追いやることにした。追いやられることに納得しない者は、木などに縛り付けて置き去りにした。
当初は、これで問題は解決したかに思われたが、今度は二つ目の頭が生えた鳥や獣が度々現れるようになった。そうした鳥や獣を見つけてしまった人の中からまた二つ目の頭が生えてしまう者が現れ、人々は、山奥への追放は問題の解決にはならないと悟った。
二つ目の頭が生えてしまったものと触れると駄目なのか、それとも見るだけで駄目なのか――人々は最初、どうすれば厄災が伝播を防げるのか分からなかったが、やがて、生えてきた頭が破裂する際にあげる絶叫を聞いてはいけないのだと気づいた。
二つ目の頭が生えてしまった者は、その頭が膨らみ切って破裂する前に殺すしかないという話になったが、実際にそのようにしたところ、生えていた頭は宿主が絶命すると同時に絶叫をあげながら破裂した。まだ大して膨らんでおらず、また頭自体には傷をつけていなかったにも関わらず、である。
放っておくと膨らみ切って厄災を振り撒くが、かといってそうなる前に切り落としたり宿主ごと殺したりしても同じことが起こる。いったいどうすれば良いのか。
人々は途方に暮れた。
そんな時、一人の男が言い出した。
「地獄から来たものは、地獄に帰すべきだ」
生えてくる頭は井戸の底の世界から来たものなのだから、山奥へ追い払うのではなく井戸の底の世界へと追い返すのが筋だ――そう説いたのである。
人々はそれをもっともだと感じ、二つ目の頭が生えた者が現れた場合にのみ井戸の封印を解き、その者を井戸の底へと降ろしてからまた封をすることにした。
自らの足で降りることを拒んだ者、それに鳥や獣の場合は、縛り上げて井戸の底へと落とした。
以後、集落の人間が原因で別の人間に二つ目の頭が生えることはなくなった。
だが鳥や獣の場合は、人知れず森の中で二つ目の頭を破裂させ、その際に他の鳥や獣に叫びを聞かれてしまうことが多かったのだろう。その後もしばしば、二つ目の頭が生えた鳥や獣が集落に迷い込んできたり、狩りや水汲みの際に出会ってそれらと出会ってしまうことが起こった。
もはやその山は、安全に生活できる場ではなくなってしまったのである。
その頃には既に人数もかなり少なくなってしまっていた集落の人々は山を捨て、谷底に新たな集落を作った。そして、件の山全体を禁足地としたのである。
地震自体の被害は、少なくともその集落においてはさほど大きいものではなかった。しかし地震の直後から、集落内の井戸が枯れてしまったのである。
■■■山には川が流れており、池もある。井戸が枯れたからといって、水源が無いというわけではない。しかしそうは言っても、集落内で水が手に入るのと、わざわざ川や池まで汲みにいかなくてはならないのとでは利便性は大違いである。人々は、なんとか再び井戸を使えるようにできないものかと考えた。
地震の直後から井戸が枯れたということは、地震によって地下水脈の流れか何かに影響が出たのだろう――とまでは当時の人々は考えなかったと思うが、それでも地面の下で何かがあったに違いないというところまでは想像できたのだろう。一人の男が、井戸の底に降りてどうなっているかを見てくると言い出した。
皆が気になっていることを誰かが確かめてきてくれるというのだから、止める理由は無い。人々は井戸の周囲に集まって、男が縄を伝って井戸を降りていくのを見送った。
元々は、さほど深くはなかった井戸である。男はすぐに戻ってくるものと思われた。
だが、その日、日が暮れても男は戻らなかった。村人達は、男は死んだのだろうと思った。途中で手を滑らせて落下し、打ちどころが悪くて首を折るなりしてしまったのだろう、と。
だが、翌日の昼過ぎになって、男は井戸から這い出てきた。しかも、見たこともない光る石を携えていた。
村人達に対し、男は語った。
曰く、井戸の底に水は無かったが、その代わり、洞窟に繋がっていた。そして、その洞窟の先には桃源郷があった。あそこなら、皆が何の憂いも無く幸福に暮らせる。
そういう話であった。
村人達は男の話を信じなかったが、男は人々が止めるのも聞かず、再び井戸を降りていってしまった。しかも、今度は妻と幼い我が子も連れて行った。
「家族揃って、桃源郷で幸せに暮らす」
男は最後に、そう言った。そして、二度と戻ることはなかった。
やがて、冬が来た。その年の冬は例年になく厳しい寒さで、獣もあまり獲れなかった。
その過酷な状況に耐えかねたのか、ある日、一人の貧しい男が言い出した。
「本当にあの井戸が桃源郷に通じているのか、確かめに行く」
周囲の人々はやはり止めたが、年老いた母親と二人暮らしのその男は、「このままでは母は冬を越せない。桃源郷ならきっとこんなに寒くはないだろうし、食べ物も豊富にあるだろう」と言って、井戸に潜っていった。
今度の男は、三日戻らなかった。
母親を捨てて一人で桃源郷に行ってしまったのではないか。
いやいや、あいつはそんな男ではない。きっと死んでしまったのだ。前に井戸に入った一家もそうに違いない。やはり井戸の先に桃源郷などないのだ。
人々はそう噂し合ったが、三日目の夕刻になって、ようやく男は井戸から這い出してきた。
だが、戻ってきた男は様子がおかしかった。
男はひどく怯えており、最初は口もきけないほどであったという。
村人達がどうにか男を落ち着かせて聞き出したところによると、井戸の底は確かに洞窟に通じていたが、その先にあるのはけっして桃源郷などではなかった。むしろ、化け物達が住まう地獄であったというのである。
話の内容自体は、桃源郷と同じくらい信じ難いものであった。だが、男の怯えようは尋常ではなかったし、村人達にはもう一つ、男の話を出鱈目と切って捨てられない理由があった。男の首から、男自身の頭とは別に、見たこともない不気味な獣の頭が生えていたのである。
その頭は、日増しに膨れ上がっていった。それと共に、まるで中身を獣の頭に吸われているかのように、男自身の頭の方は萎んでいったという。
男の母親は懸命に看病し、神仏に祈りもしたが、いっこうに収まる気配はなかった。そしてある時、周囲の家の者達が言葉にし難い不気味な絶叫とそれに続く女の悲鳴に驚いて男の家に駆けつけると、そこには既に事切れた男と、その傍で腰を抜かしてへたり込んでいる母親の姿があった。男自身の頭はすっかり萎みきっていたが、奇妙なことにあれほど膨れ上がっていたもう獣の頭の方も、中身がすっかり抜けてしまったかのように平たくなっていたという。
駆けつけた者達は、呆然としている男の母親に対し、いったい何があったのかと尋ねた。
男の母親曰く、大きく膨らんだ獣の方の頭が、突然叫びながら破裂したのだという。
この話を聞いた人々は恐れ慄き、井戸の奥の桃源郷を探そうと考える者が出なくなったのはもちろんのこと、井戸を再び使えるようにしようという話もすっかりしなくなった。
更に、井戸の底、そこから続く洞窟の先には化け物の住まう地獄があるという男の話も真実味をもって受け止められるようになり、人々は新たに悪いものが這い上がって来ないよう、井戸を封じたのである。
だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
男の母親、それに近隣に住む者達の首から、新たな頭が生えてきたのである。それは、あの死んだ男の頭だった。
人々は男の魂が成仏できずこの世に災厄をもたらしているのだと考え、神仏に祈ったが、やはり効果は無かった。
新たに生えてきた男の頭は、かつてその男の首から生えていた獣の頭と同様に、叫びながら破裂した。その絶叫は、件の男の声のようだったという。
男の頭が生えていた者達は全員、その頭が破裂すると同時に絶命した。中には生えてきた頭を切り落とそうと試みた者もいたが、頭は傷つけられると膨らみ切った時と同様の絶叫をあげて破裂し、その後の顛末は膨らみ切ってから破裂した場合と同様であった。
その後も、悲劇の連鎖は続いた。
人々は最初、二つ目の頭が生えてしまった者達を、通常は人が踏み入らいない山の奥深くへと追いやることにした。追いやられることに納得しない者は、木などに縛り付けて置き去りにした。
当初は、これで問題は解決したかに思われたが、今度は二つ目の頭が生えた鳥や獣が度々現れるようになった。そうした鳥や獣を見つけてしまった人の中からまた二つ目の頭が生えてしまう者が現れ、人々は、山奥への追放は問題の解決にはならないと悟った。
二つ目の頭が生えてしまったものと触れると駄目なのか、それとも見るだけで駄目なのか――人々は最初、どうすれば厄災が伝播を防げるのか分からなかったが、やがて、生えてきた頭が破裂する際にあげる絶叫を聞いてはいけないのだと気づいた。
二つ目の頭が生えてしまった者は、その頭が膨らみ切って破裂する前に殺すしかないという話になったが、実際にそのようにしたところ、生えていた頭は宿主が絶命すると同時に絶叫をあげながら破裂した。まだ大して膨らんでおらず、また頭自体には傷をつけていなかったにも関わらず、である。
放っておくと膨らみ切って厄災を振り撒くが、かといってそうなる前に切り落としたり宿主ごと殺したりしても同じことが起こる。いったいどうすれば良いのか。
人々は途方に暮れた。
そんな時、一人の男が言い出した。
「地獄から来たものは、地獄に帰すべきだ」
生えてくる頭は井戸の底の世界から来たものなのだから、山奥へ追い払うのではなく井戸の底の世界へと追い返すのが筋だ――そう説いたのである。
人々はそれをもっともだと感じ、二つ目の頭が生えた者が現れた場合にのみ井戸の封印を解き、その者を井戸の底へと降ろしてからまた封をすることにした。
自らの足で降りることを拒んだ者、それに鳥や獣の場合は、縛り上げて井戸の底へと落とした。
以後、集落の人間が原因で別の人間に二つ目の頭が生えることはなくなった。
だが鳥や獣の場合は、人知れず森の中で二つ目の頭を破裂させ、その際に他の鳥や獣に叫びを聞かれてしまうことが多かったのだろう。その後もしばしば、二つ目の頭が生えた鳥や獣が集落に迷い込んできたり、狩りや水汲みの際に出会ってそれらと出会ってしまうことが起こった。
もはやその山は、安全に生活できる場ではなくなってしまったのである。
その頃には既に人数もかなり少なくなってしまっていた集落の人々は山を捨て、谷底に新たな集落を作った。そして、件の山全体を禁足地としたのである。

