視界一杯に広がる青い空は澄んでいて、雲一つない。
 そこを横切る飛行機は無粋にも一文字に白い雲を作りながら飛んでいく。
 そこへもう一機が交わるように飛んでいき、空には大きな記号が現れたかのように二条の雲が交わる。
 河原の枯れた草の上に座ってそれを眺めていた彼女は、隣の少年に声をかけた。
「バツだ。大きなバツができた」
 彼女の言葉に、彼はくすっと笑う。
「そこでバツっていうところに深層心理が表れてるよね」
「じゃあ、ほかになんだっていうの?」
 不満そうな彼女に、彼はにこっと笑った。
「Xだよ。未知数、可能性、希望、なんでも代入できるX」
「なんでもっていうなら、正体不明も絶望も代入可能ね」
「ま、そうなるね」
 気にした様子もなく彼は肯定する。
「ロマンティックに語る人もいるけどさ、飛行機雲なんてしょせん排気じゃんね。大気汚染」
「事実かもだけど、それもまた悲観的すぎる発言かと思うなあ」
「悲観的って、なんか違くない?」
「じゃあなに? 厭世的とか?」
「知らない」
 彼女はぷいっと顔を背ける。
 飛行機雲を眺めては憂鬱にため息をつく。
 自由の象徴にも見えるそれは、実際には人が不自由であることを語る証拠にしかならない。
 鉄の塊。たくさんの人の整備。パイロットは決められたコースにしか行けない。自由なんてなにもない。
 乾燥した冬の空は高く澄み渡り、雲はしだいにぼやけていった。



 彼と知り合ったのは、二年生のクラス替えのあとだった。
 ただのクラスメイトが友人になったのは、放課後の図書館で窓から外を見ていたときのことだった。
 その日も彼女は調子が悪くて、うんざりと椅子に掛けてテーブルにうつ伏せ、窓の外を見ていた。
 飛行機がやけに低く飛んでいて、それをながめる。尾翼の文字まで見えるほどの低空なんてめったにないと思いながら。
「すごい低空飛行だね」
 かけられた声に、彼女はふりかえる。
 隣に立って窓の外を見ていた彼も彼女を見て、にこっと笑う。
 どきっとしてしまって、つい目を逸らした。
 目が合ったとき、自分はつい目をそらしてしまう。こうして笑顔を向けることのできる彼はコミュ強に違いないと思った。
「低空飛行してるのを見ると、なんだかわくわくしない?」
「しないよ」
 彼女は即答した。
「僕はわくわくするんだけど」
「私もいつも低空飛行だけど、ぜんぜんわくわくなんかしない」
 よろよろと、なんとか飛べている程度。いつ墜落するかわからない不安定な自分。
 墜落したらどういう結果になるのだろう。自分が墜落するというのは、どういう状況なのだろう。
 わからないけれど、ろくな状態でないことだけは確かだとわかる。
「低空飛行って、飛行技術が求められるんだよ。すごいことなんだよ」
「へえ……」
 だったら自分もすごいのだろうか。すごいといいな。
 
「調子悪いのに頑張ってるってことだよね。充分すごいよ」
 彼女はのろのろと顔を上げて彼を見た。
「病気でもないのにだるいなんて、怠けてるだけだって言われてる」
「誰に?」
「親」
「それは悲しいね」
「もう慣れた」
 実際、病院に行っても原因不明と言われて、(成長すれば治るでしょうみたいな)自律神経がどうのとか曖昧なことで濁されて来た。大きな病院に行けば違うのかもしれないが、彼女も親もそこまでの症状だと思ってないから行ったことがない。そうして、彼女にとっては大きな病院に行くのは怖いことでもあった。体調が悪いのに原因がないとなれば、自分が本当に怠け心からだらけているだけだと宣告されてしまいそうで。
 彼は無人のカウンターに入り、勝手に本の返却と貸し出しの手続きを終えていた。
「同じクラスだったよね」
「そうかもしれない」
「あ、ひど。じゃあ今日、僕のこと覚えてよ。風間晴翔(かざま はると)
仁科莉乃(にしな りの)
「仁科さん、またね」
 言って、彼は図書室を出て行く。
 莉乃はうなだれたまま、それを見送った。



 翌日の放課後も彼は図書館に来た。
 だらっとテーブルに垂れるようにうつぶせて、彼女はそれを出迎える。
「今日も疲れてる感じだね」
 からかうように言われて、莉乃はため息を返す。
 授業を受けるだけで疲れて、だから帰る前に、帰る気力を養うために図書室に来ている。教室だと残っている人たちが騒がしいし、保健室に行くほどではない。ここなら誰もいないから、ゆっくり休んでいられる。
「ほっておいて」
「そっか。ごめん」
 突き放す言葉に、彼は平然と謝罪して本の受付を済ませる。
 その様子をぼうっと眺めながら、ちょっと冷たかったかな、と反省する。だけど、彼と話しているのを誰かに見られたくない。
 ちょっと男子としゃべっただけでつきあってるかどうかだのと話をされるのは嫌だ。
 小学生じゃないんだから、そんなことでいちいち言わないでほしい。
 結局、自分のコミュ力に原因があるのだろう。
 男子とよくしゃべっている人はいちいちそんなことを言われない。めったに男子としゃべらない自分がしゃべっているからそう言われるのだろう。
 だけど、自分が誰とつきあおうか、関係ないはずなのに、どうして気になるんだろう。
 そんなことを思う自分は、なんか人からずれている。ずれているのはわかるのだけど、どうずれているのか自分ではわからない。
 だから気が付けば人を避けていた。なるべく話しかけないように、話しかけられないようにして過ごす。
 ただでさえ、生きているだけですべての力を使い果たしているように思えるのに、これ以上の負荷はほしくない。
 ましてや恋なんていう得体のしれないものに捕まりたくはなかった。
 イケメンも不細工もよくわからない。
 わかるのは怖い顔と優しい顔、くらいだ。
 彼は優しい顔をしてるな、と眺めながら思った。
 目は少し細くて、髪はサラサラで整髪料は使っていなさそうだ。飾り気がなくて素朴な感じがする。
「本はよく読むの?」
 気が付けば聞いていた。自分から話しかけるなと言ったのに。
「そうだね。学校の図書室は普段はこないんだけど」
 彼は苦笑しながら答えた。
「どうして?」
「あんまり好きそうな本がなかったから。でも市の図書館においてない本がこっちにあったから」
「へえ……」
 莉乃はあまり本を読まないから、市の図書館にもここにも来る彼が不思議だった。
「君は本はよく読む?」
「あんまり。疲れるから」
「そっか」
 彼はにこっと笑った。
「またね」
 そう言って、彼は去っていく。
 莉乃は頭を横にしているから、彼の去る背中もまた横を向いて見えた。



 そうして放課後の図書室で会うたびに言葉を交わし、彼と話す時間が増え、彼が隣の席にすわるようになり、彼と面と向かって話すようになった。
 教室ではまったく他人のように過ごすのに、図書室でだけ仲良く話すのは不思議な感じがした。ふたりだけの秘密を抱えているようで、なんだかわくわくもした。
「ああ、死にたい」
 あるとき、ふとこぼしてしまって莉乃は慌てた。
 こんな言葉を聞きたい人なんていない。
「うんうん、わかるよ。幸せになりたいよね」
「なに聞いてたの。死にたいって言ったのに」
 莉乃は驚いて聞き返す。
「しにたい。つまり『し』あわせ『に』なり『たい』の略だよね」
「どういう頭してんのよ」
「死にたいは生きたいの裏返し。本当に死にたい人なんていないし、幸せだったら死にたいなんて思わない」
「それはそうかもだけど」
 答えながら、莉乃はすこしうれしかった。
 中学のころ、同じようにふとこぼしてしまったことがある。
 そのときの友達は猛然と怒った。
「そんなこと言わないで! 死にたいなんて、死ぬ病気にかかって苦しんでる人に失礼!」
 その勢いに押されて、莉乃はもうなにも言えなくなった。
 特に大きななにかがあったわけではない。
 だけどずっと生きるのが苦しくて、いっそ死んだら楽なのかな、という考えが頭に張り付いて離れないのだ。
 彼は「死にたい」を否定しなかった。
 莉乃が思っていることとはちょっと違うことを言い出したけれど、それでもやっぱり、否定はしていないのだ。
「死にたいって言うと、たいてい、そんなこと言うなって言われるじゃない? 言論の自由はどこへ行ったのって思う」
「言うなって言うのも言論の自由の一環だと言われたりして」
「人には言論封殺しておいて自分は言論の自由で逃げるってずるくない?」
「すごい矛盾だよね」
 彼はくすくすと笑う。
「あなたって私より大人だよね。人間の転生、何回目なの?」
「転生かあ。仏教の概念だよね」
「ぐるぐる何度も生まれ変わってゴールがない」
「一応あるよ。悟りを開いて仏になるっていう」
 初めて聞く内容に、莉乃は眉を上げた。
「いつ開けるのよ。開いてなんのメリットがあるの」
「……幸せになれるんじゃない?」
「誰も知らないのに、適当なこと言ってるよね」
「知らないから言うんじゃない?」
 適当な回答に、莉乃は苦笑する。
「そもそも仏教を開いた仏陀ってほんとうにいたの?」
「タイムマシンで見に行かないと信じないっていう勢いだね」
 彼はまたくすくすと笑う。
「タイムマシンがあったところで行かない。めんどくさいもん」
「俺はタイムマシンより飛行機に乗りたい」
「飛行機、好きなんだ?」
「そう。パイロットを目指してる」
 そう答える彼の目はきらきらしている。
「へえ……すごいね」
 将来の夢なんて自分にはない。
 せめて、と思う。この重い体がもっと自由に思うように動いてくれたら、自分だって前向きになれるのに。