「だからお前、死んでくれ」
呼び出された座敷で投げかけられた父の言葉に、彼女は目を見張った。
その言葉が衝撃的すぎて、直前までの話は頭から吹き飛んでしまった。
実の娘に言うことだろうか。
さきほどまで、自分は家族に愛されて育ったのだと信じて疑わなかった。病弱な妹が優遇されているのは気付いていはいたが、だとしても自分だってちゃんと愛されて育ったのだと思っていた。
だが今、父は自分の死を願う言葉を吐いた。
「どうして……」
がんがんとなにかが鳴り響く頭を抱え、彼女はたずねる。
「言っただろう、お前の婚約者が戦死したと。だからお前は死なねばならん」
「そんな……」
彼女は五歳上の婚約者がいた。
結婚したら彼女の家に婿養子に来る約束になっている。
彼は士族で、彼の父は商業で成功している。
次男である彼は士官学校を出たあとはそのまま陸軍に入隊した。見習い士官として勤務し、 一カ月ほどまえ、戦地へ送られた。
そうして戦死の報が届いたのが今日。
見合いで婚約した彼とは数度しかあっておらず、愛はおろか情を持つほどですらない。
だが、婚約者となった彼が死んだという知らせはショックだった。
その直後、さらにこんなショックことを言われるなんて。
基本的にこの家では父の命令は絶対だ。逆らえば激しい折檻が待っている。
折檻は嫌だ。とはいえ、死を命令されて従えるわけがない。断ったら殺されるのだろうか。だが、せめて理由だけでも聞いておきたい。
「なぜ、死ななくてはならないのですか」
「婚約者の後追い自殺をした、こんな美談はないだろう?」
彼女は青ざめた。そんなことのために自分は命を終えるのだろうか。
「そうなれば、我が家への援助はこれからも続くだろう。家のために死ね」
父の命令に、彼女はただ呆然としていた。
彼女が遺書を残して自ら命を断ったという知らせが走ったのは、翌日のことだった。
享年16歳。短い命だった。
***
宇佐木葵は調理場で包丁を握り、じゃがいもの皮をむきながらため息をついた。
かまどにはまだ火が入っていない上にひとけがないので空気は冷えており、剥き出しの土間が見た目にも寒々しい。
着物の袖はたすけがけにしてまとめているため、腕はひじまで露出していて、それも寒さの要因のひとつだった。
「じゃがいもって美味しいけど、めんどくさいのよね」
水で洗ったあとだというのにまだ泥っぽくて、芽をえぐるのもめんどくさい。煮崩れしやすいのも短所だ。
今日だけで何個のじゃがいもを向いただろう。
このあとは玉ねぎの皮をむいて、にんじんも……。
下処理をするのが自分の仕事だとはいえ、自分が食べるものでもないのに延々と皮をむくのは苦痛だ。
だが、これでも生きるためだ。料亭の下働きとして住み込みで雇ってもらえているのだから、文句を言えない。
「あんた、まだじゃがいもの皮むいてるのかよ」
「すみません」
通り掛かった料理人のひとりに声をかけられ、葵は謝った。
「さっさとやってくれよ。ここに来て一年もたつだろ、そんなんじゃ一人前の料理人になれないぞ。絶対に仕込みには間に合わせろよ」
「はい……すみません」
謝罪にためいきをつき、男は調理場を出て行く。
この量をひとりでやらせるなんて、という文句は言えなかった。ここを追い出されたらどうやって生きていけばいいのかわからない。
自分は一年前まで、お嬢様だった。
婚約者が死んだあと、父親に死んでくれと頼まれたときには絶望した。
その後に続いた説明に、彼女は承諾した。
死んだという体裁にして、自分はよそへ行く。ほとぼりが冷めたら戻ってもいいということだった。
戻るときに問題があるのではないかと思ったが、そこはうまくやってくれるという。
それで家のためになるならと了承した。なにより、父は本当に自分の命を奪いたかったわけではなかったとわかって安堵した。
そうして雛形葵から宇佐木葵へと名を変えてここで働いている。
彼女の家は祖父の代は裕福ではあったが一年前の時点では没落していた。
名ばかりの華族であり、父は事業がうまくいかず、焦っていた。
婚約者の小柳行正の家は士族出身ながら商才に恵まれたらしく、いくつもの店を持ち、そのすべてを繁盛させている。
彼の家にとっては華族との縁をつなぐため、父にとっては事業の支援を受けるため、双方に利のある結婚だった。
婚約後は事業の支援を受けていたが、売上は回復せず、援助を受ける一方になっていたらしい。
そこへ行正の死だ。
援助の打ち切りは目に見えていた。
だが、もし彼女が後追い自殺をしたなら。
そこまでの情を見せられ、援助を打ち切ることなどできないだろう。なんて冷たい、と世間にそしられるのが目に見えている。客商売をしている彼らには世間の評判はなにものにも代えがたい。
だから彼女は家族のために自分の死を了承した。
あれから一年が経つ。自分は十七歳になった。行正がまだ生きていたなら、もう結婚していたはずだ。
いったん思い出すと、記憶があふれて止まらなくなる。
女学校の友達に別れを告げることなどできなかった。自分の死の知らせは彼女らを悲しませてしまっただろうことが申し訳なかった。
自らの存在を消してまで家のために……父のために『死』を受け入れたのだ。手紙のひとつもないが、少しは自分を気に掛けてくれているだろうか。
妹は病弱だが、元気な日には一緒に折り紙を折ったりお手玉をしたりして遊んだ。
ふだんは妹の世話にかかりきりの母は、そのときは自分にもかまってくれた。ふたりにおやつをくれて、妹と一緒に折ったものを見せて褒めてもらった。
父だっていつも怒っていたわけじゃない。機嫌がいいときには話を聞いて頭を撫でてくれた。
みんなに会いたい。
元気でいるかな。
一歳下の妹にも縁談が来ている頃だろう。
自分はこんなことになってしまったが、妹には幸せな結婚をしてほしい。
そうだ、今度休みをもらって帰ってみよう。遠くから様子を見るくらいなら許してもらえるよね。
そんなことを思いながら、次のじゃがいもを手に取って皮をむき始めた。
一か月後の日曜日、休みをもらった葵は普段着となった粗末な着物を身に纏い、汽車に乗った。
汽車に乗るのは一年ぶりだ。
知り合いの誰かに見つかったらどうしようかと思いもしたが、それでも一度家族を思うと止められなかった。
髪型も変えたし、着物も自分の好みではないものを着ている。たとえ友達に会ってもパッと見にはわからないはずだ。
そう思いながら駅を降りて自宅だった家へと向かう。
懐かしい街並みに胸が締め付けられ、足は自然と早くなる。
脳裏に浮かぶのは温かな食卓。四人で卓を囲んで温かなご飯をいただくのは格別だった気がする。ふだんは厳しく怖い父もそのときはお酒も入り、上機嫌だったように思う。
思い出だから美しくなっているだけだろうか。里心から良いように思うだけだろうか。
父は自分に死んでくれと言いながら、本当に死なせたりはしなかった。きっと娘への愛情ゆえだ。だからきっと、この思い出だって間違いじゃないはずだ。
そうだ、もしちゃんと帰ることができたら今度は私が料理をふるまおう。
いまだに下処理しかやらせてもらえないけれど、帰るまでには料亭で料理を教えてもらって、たくさん作ってみんなで食べよう。
わくわくしながら歩いていると、家のすぐそばまで来てしまっていた。
いけない、さすがに近寄りすぎたかしら。
葵は焦る。が、ここで引き返しても、誰かに見られていたときに怪しまれるかもしれない。
通り過ぎてしまおう。そして、門が開いていたらさりげなく中を見てみよう。
そう思って門に近づいたときだった。
門が開いて、妹の沙代が現れた。
あ、と声が出そうになって慌てて両手で口を塞ぎ、木の陰に隠れた。
自分は死んだことになっているのだから、声をかけてはいけない気がした。死体もなく死んだと言われて妹がそれを信じたのかどうかはわからない。事情をきちんと説明したうえで妹も秘密を共有しているのかもしれない。そこは父からは説明されなかった。急かされるように翌日に家を出てそれっきり父とも連絡をとっていなかった――とらせてもらえなかった――から、わからない。
懐かしさで声をかけたくてたまらなくて、だけどじっとこらえていると、もうひとり、男性が扉から出て来た。
葵は驚愕した。
そこにいたのは死んだはずの婚約者、小柳行正だった。
「どうして……」
思わずこぼれたつぶやきは小さくて、彼等には届かない。
「若旦那様、奥様、行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
沙代が笑顔を見せ、使用人に答える。行正は会釈だけで応じた。
どうして若旦那様と奥様と呼ばれているのだろう。まるで結婚したかのようだ。
ふたりが去るのを待ってから、葵はよろよろと歩き出す。
閉められた門を叩くと、しばらくして中から開けられた。
「なにか御用でしょうか?」
知らない顔の使用人だった。
「あの……父……こちらの旦那様にお会いできますか?」
「お約束は?」
「ありません……あお」
葵、と言いかけ、慌てて言い直す。
「宇佐木が来たと言っていただければ、伝わるかと思います」
「かしこまりました。少々お待ちください」
父はどうやら家にいたようだ。
ほっとして待つこと少々、葵は家の中に案内された。
そこはいつか、父に死んでくれと言われた座敷だった。
すでに父は待っていて、葵は中に入って障子を閉め、下座について深々と頭を下げる。
「なにしに来たんだ」
冷たい声に、葵はビクッと震えた。とても愛があるようには思えない。
「懐かしくなって、我慢できずに来てしまいました」
「連絡するまで来るなと言っておいただろう」
「申し訳ありません」
葵は落胆した。懐かしいとか会いたかったとか、そのような言葉を貰えると思っていたから。
「わかったらさっさと帰れ」
そう言って父は立ち上がる。
「待ってください!」
葵は思わず止めていた。
「まだなにかあるのか」
冷たい声が突き刺さる。
胸には直前に見た光景が浮かび、手には脂汗が浮かぶ。
「先ほど沙代を見ました。奥様と呼ばれていて……行正様によく似た方が若旦那様と呼ばれていました」
よく似た別人なのだろうが、確認せずにはいられなかった。
「見たのか」
驚愕を含んだ声に、葵は頷く。
「……誤報だったのだ」
苦々しい吐露に、葵は眉根を寄せた。心臓がばくばくと早鐘をうち、落ち着かない。
「誤報、とは」
「戦死の報告だ。あれから彼は生きて帰った」
「そんなことが……喜ばしいことです」
誤報はごく稀にあると聞いている。死んだと思っていた彼が生きていた、彼の家族はどれほど喜んだことだろう。
「戻ったとき、お前は死んだことになっていた。だから沙代と彼が結婚した」
葵は言葉を失った。
若くして配偶者や婚約者が亡くなったとき、その兄弟、もしくは姉妹と結婚する話はたまに聞く。だが、まさか自分がそうなるとは予想もしなかった。……しかも、亡くなった側の立場として。
「沙代はお前が本当に死んだと思って幸せに暮らしている。もう二度とここに来るな」
「そんな!」
「お前にも今の生活があるだろう。それを大事にして生きていけ」
「お父様はそれでいいのですか」
泣きそうになりながら葵は父を見る。親子の縁を切る、そう言われているのに等しいのに。
「お前はもう私の娘ではない。つまり私は父ではない」
はっきりと宣言され、葵の心が凍り付いた。
「……わかりました。今まで……いえ、一年前まで、ありがとうございました」
葵は涙をこたえて頭を下げた。せめてもの嫌味が通じればいい、と願いながら。
屋敷を出た葵は、そのまま帰る気にはなれず、とぼとぼと街を歩く。
知り合いになど遭遇することもなく、誰からも声をかけられないことに悲しくなった。
誰も自分のことなど気付かない。
彼らにとっては生きていても死んでいてもかまわない他人なのだ。
友達や親戚に生きていると知らせたらどうなるのだろう。
父は非難を受けるだろうか。
そして……婚約者だった人は、私をどう思うのだろうか。
「お母さん、おだんご買って!」
声がしたほうを見ると、小さな男の子が母の手を引いてだんごやの屋台を指さしている。
「ごはん前だから、お母さんと半分ずつね」
「やったあ!」
男の子は喜んでかけて行き、母親は笑顔でその後ろを追う。
葵はため息をついた。
あんなふうに無邪気に甘えられる子どもがうらやましく、甘えを許す母がうらやましい。
父は家の中で絶対だった。
逆らえば容赦なく張り手が飛んできて、恐怖の対象でしかなかった。母は父の言いなりで妹の世話に忙しく、甘えることなどできなかった。
来るなという言いつけに逆らえば、今度はなにをされるだろう。本当に殺されたらどうなるだろう。表向きは死んでいるのだから、警察も動かず、ひっそりと打ち捨てられるのだろうか。
だったら、まだあの料亭でこき使われて生きた方がマシだ。
思った直後、ぽろぽろと涙が溢れて来た。
自分はいったいなんだったのだろう。
いつも沙代が優先で自分は後回しにされていた。
それで最後は父に殺された。
親ならなにをしてもいいというのだろうか。子どもなど所有物にしか思えないのだろうか。
だが、ほかの家庭ではそんな話をきかない。
もっと愛にあふれ、幸せそうだ。さきほどのあの母子のように。
考えても無駄なことだ。
本当に命を奪われたわけではない。せめて最後の一線には親子の情はあったのだと、そう信じたい気持ちがあった。
葵はためいきをつき、顔を上げた。
そこには立派な赤い鳥居があって、首をかしげた。
鳥居の柱は太く、二階よりも高くそびえている。
こんなところに神社があっただろうか。
今日は思いがけずつらい思いをしてしまった。不意打ちの辛苦は深く胸を貫く。
厄払いのためにもお参りしてから帰ろうかな。
そう思い、一礼してから鳥居をくぐる。一瞬、ぐにゃりと視界が歪んだ。
たたらを踏んで立ち止まり、目元を押さえてからまた目を開く。
眩暈は止まったようだが、あまりの景色の違いに葵はまばたきを繰り返す。
先ほどまで無人だったように見えた境内にはたくさんの人がいて、祭りのように屋台が立ち並んでいた。祭囃子とともに楽し気な人々の喧騒が耳に届く。
「え、なにこれ?」
きょろきょろと周りを見回し、通りがかった女性のふたり連れに声をかける。
「すみません、今日はなんのお祭りなんですか?」
「あなた、もしかして人間なの?」
女性に質問で返され、葵はきょとんとした。
「運がいいのか悪いのか……。今日は年に一度の所縁の君……縁結びの神様のお祭りよ。このあとに行われる餅撒きで当たりの餅を手に入れればなんでもひとつ、願いをかなえてもらえるの」
「へえ、楽しそうですね」
餅撒きは参加したことはないが、聞いたことがある。
「人間でも平等に願いをかなえてもらえるから、参加してみるといいわ。もし当たったら「家に帰りたい」って言った方がいいわ。でないと帰れないからね。餅撒きは拝殿前で行われるわよ」
「ありがとうございます」
帰れないなんてことないだろうに、からかわれたのだろうか。
だけど餅撒きなんて、なんだかわくわくする。ぜひ参加してみようと思った。
家にいるときは、庶民のやることだと行かせてもらえなかった。
どうせ自分は家族ではなくなったのだ。これくらい自由にさせてもらってもバチは当たらないだろう。父の言いつけに逆らうのもわくわくする。
屋台を冷やかしてから餅撒き会場に着くと、すでに待っている人たちがいた。
気合入ってるのね。
どきどきしながらその人たちに紛れて餅撒きの時間を待つ。
時間になると神職の白い着物と袴を着てお面をかぶった人たちが現れた。手には大きな籠を持っている。中に餅が入っているのだろう。
いつの間にか拝殿の前にはたくさんの人たちでおしくらまんじゅうをするかのように込み合っている。
どーん、どーん、どーん、と太鼓が三回鳴らされた。
鳴り終わるのと同時に白い装束の人たちが一礼し、籠から丸餅を投げ始める。
投げられた餅を受け止めようとする人、落ちた餅を拾おうとする人。我先にと手を伸ばし、人々が右往左往する。
葵も一緒になって餅を拾った――否、拾おうとした。
だが、落ちた餅は隣の人にさっと拾われ、投げられた餅を受け取ろうにも手に当たってどこか見知らぬ場所に跳ねていく。
神職は次々と餅を投げ終え、中が空であることを示して籠を床に降ろす。
終了の太鼓とともに神職は一礼し、籠を持って去っていく。
「あー、今年は三個だった」
「俺は五個だ。でも当たりが拾えなかったんだよな」
人々が楽し気に会話しながら立ち去っていく。
拝殿前の広場にぽつんと残され、葵はため息をついて空の両手を見た。家族も良縁も、餅すらも手に入れることができないなんて。
仕方がない。そういう運命なんだ。
花嫁にもなれないし、今の職場で料理人として立つこともできない。
そもそも料理人になりたいと思ったことなんてないのだ、生きていけるならずっと下働きでも問題ない。
ふと見ると、何人かが残って生垣の下を覗きこんでいる。
転がった餅を探しているのだろう、と気が付いて葵も少し離れた生垣の下を覗きこんでみる。
そこにはひとつの餅が落ちていた。
「やった!」
葵は喜んで手にとる。
今日はさんざんだった。
このお餅を持って帰って、砂糖醤油でいただこう。みたらしのような甘辛い味を想像すると、それだけで唾液が出て来る。
ひっくり返してみたとき、心臓がどきん、と大きく脈打った。
「当たり……!?」
餅には『当』の焼き印が押してあった。
なんだか嬉しくなって、餅を両手で包み込む。
当たりなら願いをかなえてもらえると言っていた。なにか欲しい賞品でももらえるのだろうか。誰に言えばいいのだろうか。神社の人を見つけなくては。
ほくほくと歩き始めたときだった。
白い上下の装束を着た人たちが連れ立って歩くのを見かけた。先頭を歩く男性は黒髪で、それに続く白髪の人は立派な装束を身に着けていた。前のふたりはお面をしていなかったが、残りの人たちは先程の餅撒きの人たちと同じお面を被っていた。
葵はその一団に駆け寄る。きっと神社の人に違いないから。
「あの、すみません」
声をかけると、彼らはくるっと振り向いた。
白髪の人物はご老人だと思っていたのに、顔立ちが若くて驚いた。三十歳手前ほどだろうか、ひどく美しい男性だが、赤い瞳が人間離れして見えた。
その彼と葵の間に、彼を守るようにして黒髪の男性が立った。精悍な顔立ちをしていて剣でも持たせたら似合いそうな逞しさがある。鋭い黒い目に見据えられると、それだけでなにかを暴かれるような落ち着かない気持ちになった。
「娘、何用か」
黒髪の男性が言う。
「あの……」
思わずひるむ葵の耳に、通りすがりの母娘の声が耳に入る。
「お母さん、お餅拾えなかった」
「残念ね、仕方ないわ。あの中に入るのも危なかったもの」
まだ小さい娘は大人たちの間に入ると踏みつけられる可能性があったのだろう、遠くにいることしか許されず、ひとつも餅を拾えなかったようだ。
「ごめんなさい、なんでもないです」
一団に謝罪をしてその場を離れ、葵は走って親子を追いかける。
「お嬢ちゃん、待って」
声を掛けると、親子は振り返った。
「よかったらこのお餅もらってくれない?」
当たりを見せないようにひっくり返してお餅を差し出す。
「そんな、申しわけないです」
「ひとつだけ持って帰っても家族とわけられないから」
今となっては家族がいないのだが、葵はそう言って笑って見せた。
「まあ……ありがとうございます」
母親は深々とお辞儀をして餅を受け取る。
「よかったね、お餅もらえたよ」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
娘はぱあっと顔を輝かせる。
なんども礼を言い、母子はその場を立ち去った。
当たりのお餅だと知ったら、びっくりするかな。
ふふ、とひとり笑みをこぼしながら葵も帰路につく。
遠慮するかもしれないから、あえて当たりを隠したのだ。
いいことをしたな、と思いながら鳥居をくぐる。
と、なぜかまた境内にいた。
「あれ?」
葵はまた鳥居をくぐる。
と、また境内にいる。
「どうして……」
疑問には思うが、理由など思いつくはずもない。
そうして、最初に出くわした女性の言葉を思い出す。
『もし当たったら「家に帰りたい」って言った方がいいわ。でないと帰れないからね』
変なことを言うな、と思ってはいた。
あれはこのことだったのだろうか。
そういえば、もしかして人間なのか、とも聞かれた。
この祭りは人間ではない存在たちの祭りなのだろうか。
「そんな、なんで……?」
なんども必死に鳥居をくぐる。
だが、なんどやっても元の場所に戻るだけだ。
「どうしよう……」
頭を抱えたときだった。
「ここにいたか、娘」
かけられた声に振り返ると、さきほどの黒髪の男性がいた。
「お前……人間だな」
鋭く睨まれて、葵は後退った。
「こっちに来い」
命令されて、葵はとっさに逃げ出した。
「待て!」
制止を振り切り、走ったのだが。
その先には仮面の白装束の人たちがいて、葵は足を止める。
気がつけばすっかり囲まれていて、逃げ場がない。
ゆったりと黒髪の男が近づいてきて、葵の前に立つ。
「手間をかけさせるな。一緒に来てもらうぞ」
男性の言葉に、葵はがくりと肩を落とし、自分の運の悪さを呪った。
大勢の白装束たちに囲まれ、罪人のようにとぼとぼと歩く。
なにも悪いことなんてしてないはずなのに、どうしてこんなふうに捕まらなくてはならないのだろう。本当の罪人と違って縄をかけられてないだけましかもしれない。
連れていかれたのは神社の拝殿の中だった。畳が敷かれた奥、祭壇の前に高座が設けられ、白髪に赤い瞳の男性があぐらをかいて座っていた。
その手前には先ほど餅をあげた母子が座っている。
葵は白装束の人たちに肩を押さえられ、座らされる。彼女が座ると、彼らはすぐに手を離して席を外した。
「連れて参りました」
黒髪の男性はそう告げてから脇に控えるように正座する。
「そなたら、この娘で間違いないか」
「はい、間違いありません」
母が答える。
この人たちが言い付けたのだろうか。どうしてそんなことをしたのだろう。
恐怖に震えながらうなだれていると、白髪の男性のくつくつと笑う声が聞こえてきた。
「なにをした、怯えておるではないか」
「私は連れて来ただけです」
黒髪の男性はムッとしたように答える。
「愛想のないことだ」
白髪の男性はまた笑う。
「娘、怯えるでない。悪いようにはしない」
葵はけげんに思って顔を上げた。
「我はこの社の神。縁を結ぶのが仕事だ。これなるは人の子でありながら我が下僕、そなたらの世界で神主をしておる。名を因幡吉野と言う。そなたの名は?」
「宇佐木葵です」
彼女は困惑しながら答える。今この人は神を自称したような。そして黒髪の男性は神主だと言う。
「良い名だ。我と因縁浅からぬ響きがある。そなたにはこの女人の申し出により、来てもらった」
葵が母親の女性を見ると、彼女はにこっと笑った。
困惑してまた神を見る。
「この者が、当たりはそなたの権利だというのでな、探し出して連れて来てもらったのだ」
葵は驚いた。お餅の当たりのことなのだろう。
「わざわざそのために……」
「だって、当たりは特別なんですよ。なんでも願いをかなえてもらえるんですから。私の娘はお餅がほしいっていう願いをもうかなえてもらったのですから、このうえさらにあなたの権利を奪うなんてことはできません」
女性が勢いこんで言う。
権利を戻すように自ら申し出るなんて、なんていい人なのだろう。葵は疑った自分を恥じた。
「そなたはなにを欲する? 金か? 名誉か? 我が得意なのは縁を結ぶことゆえ、良縁にするか? そなたくらいの人間の娘は幸せな結婚を夢見るものであろう?」
「結婚……」
今日はそれに絶望してきたばかりだ。まさか婚約者が妹と結婚していたなんて。
「幸せな結婚などあるのでしょうか」
葵はうつむいた。
「ほう?」
面白そうに神は続きを促す。
「私は婚約者が死んだと言われて、後追い自殺をしたふりをしてよそへやられました。実家に戻ったら、婚約者は生きていて妹と結婚したと言われました。家族から捨てられた私が幸せな結婚なんてできる気がしません」
「あと追い自殺のふり……人間は奇妙なことをするものだな」
神は面白そうに呟く。
「神様って、なんでもできるんでしょう? なんでこんなことが起きるようになってるんですか? なんで私は幸せになれないんですか?」
「さて、それへの回答をそなたの望みとするか?」
聞かれて、葵は口をつぐんだ。かなえてくれる望みはひとつだけだと言っていた。
だったら慎重に望みを考えなくてはならない。
いや、ここに来て最初に会った親子連れは、「帰りたい」と望むようにと助言してくれた。
「望みは……」
帰りたい。
そう言うべきだとわかっている。
だけど、帰ってどうするというのだろう。
帰る場所なんてない。料亭だって本当の自分の居場所ではない。
「……幸せな結婚をください」
葵は顔を上げ、真っ直ぐに神を見た。
「死ぬまでずっと幸せでいられる結婚をください!」
「ふむ……つまりはそなたを幸せにする夫がいれば良いのだな?」
「はい」
そんなこと、できるわけがないだろう。葵は冷めた気持ちでそう思う。
神を名乗っているだけで、彼だってきっと普通の人なのだろうから。見た目は少し変わっているのだが。
「今日は気分が良い。そなたに良い縁をやろう」
彼はそう言ってくつくつと笑う。
なにかを企んでいそうな笑いだ、と葵は警戒する。
「吉野」
「はい」
名を呼ばれ、黒髪の男性が答える。
「そなた、独身だったな。この者と結婚しろ」
「……お戯れを」
彼は顔をしかめる。
嫌がられたことに、葵はムッとした。自分だって嫌だが、だからといってあからさまにこんな顔をされたら腹が立つ。
「良縁を組んでやったのだ、喜べ」
「お断りします」
「そう言うな、まずは一緒に暮らしてみろ。巫女が欲しいとも言うておったろうが」
「人手は欲しいですね。では、我が社で雇うことにいたしましょう」
「そんな勝手に!」
葵は思わず抗議の声を上げるが、神はくつくつと笑う。
「もう決まった。我はそなたの縁を結んだ。こやつはそなたが思うより良い男だぞ。より強く縁を結ぶも断ち切るも、あとは好きにするが良い」
思わず吉野を見ると、ぎろりと睨み返され、びくっとした。
こんな怖い人と幸せな夫婦になんて、なれる気がしない。
目の前の男性を紹介して、楽して願いを叶えたふりをしているようにしか思えない。なんでも願いをかなえるなんて、やはり嘘だったのではないだろうか。
そこへ、ばたばたと人が駆け込んでくる。
「大変です、縁食いが逃げました! 人の世に入り込んだようです!」
「またか」
神はあきれたようにつぶやく。
「申し訳ございません、管理は厳重にしていたのですが……」
「客人の前ぞ」
吉野が駆け込んできた人を睨み、彼はびくっと肩を竦める。
「きつく叱るな、それほど慌てていたのだろう。あれは人の縁が大好物だからな。——吉野」
「はい」
「また頼む」
「かしこまりました」
「嫁を娶らせた直後に申し訳ないが……いや、待て」
にやりと神は笑い、葵はなんだか悪い予感に眉を寄せる。
「縁食いの捕獲にはその娘も連れていけ」
「は?」
思わずといったように吉野が声を上げる。
「お前がその娘との縁で、縁食いのほうからやってくるやもしれぬ」
「囮にしろと。了解いたしました」
「なんでそんな勝手に決めるんですか!」
葵は思わず抗議したが、吉野に睨まれて口をつぐむ。
「協力することは仲を深めるにはちょうど良い。では頼んだぞ」
「かしこまりました」
吉野が頭を下げ、駆け込んできた人も頭を下げる。居合わせた母子も一緒に頭を下げた。
葵だけが頭を下げず、むっとした表情で神を見る。
神は面白そうに葵を見返し、にやりと笑って退室した。
神の姿が見えなくなると、女性が葵に頭を下げた。
「当たりのお餅だとは知らずいただいてしまい、申し訳ございません」
「いいんですよ、私があげたかっただけなので」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
娘がにこっと笑って言うので、葵もつられて笑った。
「挨拶はそれくらいにしろ。行くぞ」
声をかけられ、葵はびくっとした。
振り向くと立ち上がった吉野がいて、見上げるその顔は険しく怖い。
「吉野様、お会いできまして光栄でございます。どうぞお気をつけて」
母のほうが言い、頭を下げる。
「ああ」
吉野はぶっきらぼうに答え、顎をくいっと動かし、葵を急かす。
「では、お元気で」
葵は母子に言い、立ち上がった。
今度はどこへ連れていかれるのか、不安しかなかった。
彼は早足で拝殿を出て鳥居に向かう。
葵は小走りで後を追った。
彼とともに鳥居をくぐると、なぜか見知らぬ街の宿屋の前に立っていた。
「え? なんで?」
葵は戸惑うが、吉野は平然と宿屋の暖簾をくぐる。
いらっしゃいませ、と宿屋の人が現れる。
「ふたりだ、部屋を用意できるか」
吉野の言葉に宿屋の人は頷く。
「はい、ご夫婦でいらっしゃいますか?」
「そうだ」
「え!?」
葵は驚きの声を上げてしまった。
まだ夫婦ではない。
吉野はかまわずに宿泊の手続きを済ませてしまい、二階の部屋に案内される。
そこは洋室で、大きなベッドがひとつ、用意されていた。
「同じ部屋なんて……」
「夫婦ならば同室でかまわないだろう」
さっきは神様の前で夫婦になることを拒否していたのに。
葵は戸惑い、大きなソファに目を止めた。
「私はこっちのソファで寝ますから」
言った直後、吉野にぎろりと睨まれて葵は硬直した。
つかつかと歩いて来た彼は、いきなり葵を抱きしめる。
「なにするの、離して!」
「夫婦とはこうするのではないのか?」
「そ、それは、正式に夫婦になった人の話でしょ! 私たちはまだ夫婦じゃありません!」
言われた吉野は驚いて手を離し、距離をとった。
「そうか、それは悪かった。半ばあちらの世界で育ったので、人の世の習いには疎いのだ」
正直に謝られて、葵は意外さに戸惑う。
「お前、俺が怖いか」
問われて、葵は固まった。どう答えるのが正解なのだろうか。
「俺はよく、怖いと言われる。俺自身は怖くしようとは思っていないのだがな」
「えっと……それなら笑顔でいらっしゃればいいのではないでしょうか?」
言われた彼は目を吊り上げ、葵は悲鳴を上げそうになった。
「……これでどうだ」
笑っているつもりだったのか、と葵は驚くとともに安堵の息を吐いた。
「まったく笑っているように見えません。それなら無表情でいらっしゃったほうがマシです」
「そんなにひどいのか」
眉を寄せた顔がまた険しい。
そもそも、怖く思えるのは顔のせいだけではない。言動が冷たく斬り捨てるようで、それが怖さに拍車をかけていたのだから。
「怖がられるせいで人が近寄らん。わずらわしさは減るが、差しさわりが出るときもある」
そうだろうな、と葵は思う。怖そうな人に自ら近寄りたい人はいないだろう。
だが、言動のちぐはぐさから考えると、そう悪い人でもなさそうだ。
そう思って、気が付く。
「……怖がらずに縁を結べた人は、きっと本当のあなた様を見て下さる方なのではないですか? そう考えると、強面も悪くないのかもしれません」
「そうか……そうだな」
彼はふっと口元を緩める。
急に彼の周りの空気がほどけて、優し気な雰囲気が現れた。
思いがけず、葵はどきっとした。
「どうした?」
「なんでもありません」
急に鼓動を早くする胸を押さえて、葵は答える。
別の意味で、彼は笑顔ではいないほうがいいかもしれない。
そんなこと、彼に言えるわけがなかった。
「夫婦になるのはお嫌だったのではないのですか」
尋ねると、吉野はため息をもらした。
「ああ、妻などめんどくさそうだからいらない。だが縁食いを捕らえるためだ。お前には協力してもらわなくてはならない」
「縁食いとはどういうものなのですか?」
「文字通り縁を食らうあやかしの獣だ。男女に限らず人の良縁を特に好む」
そんな獣は聞いたことがなくて葵は首をかしげる。
「食われるとどうなるのですか?」
「縁が切れる。ケンカになったり急に音信不通になったりもする」
葵は顔をしかめた。恋人にしろ友人にしろ、せっかく仲良くなった人との縁が切れるなんて、そんな悲しいことはないのではないだろうか。
もしかして、父との縁が切れたのも縁食いのせい?
思って、首を振る。絶縁を宣言されたとき、まだ縁食いは逃げてはいなかったはずだから。
「縁を結ぶ神とは相容れない獣だ。先年も逃げ出して人の良縁を食らいまくっていた。罰として牢に入れていたのだが、隙をついて逃げ出したようだ」
「迷惑な。早く捕まえた方が良さそうですね」
言ってから、はたと気が付く。
勢いにのまれて一緒に来てしまったが、協力する義理はないのではないだろうか。
明日も料亭の仕事があるのだ。
人間の世界に戻れたようだから、あとは自力でも現在の住まいに帰れるのではないだろうか。
「私、料亭の仕事があるのですが」
「そちらはやめるか休むかしてくれ。連絡が必要なら電話をするか、電報を打とう」
「はあ!?」
そんな勝手な話があるものだろうか。
「急に休んだらみんなに迷惑がかかります」
「縁食いのせいで縁を切られる人がいるのはかまわないと?」
「そんな話、信じられません。それにお手伝いしたとして、お給金ももらえなさそう」
「夫の仕事を手伝うのに給金がいるのか?」
「都合のいいときだけ夫婦になろうとしないでください!」
葵の言葉に、彼はちっと舌打ちする。
舌打ちって、と葵は呆れた。
「ここから帰るだけの金も持ってないんじゃないのか? 終わったら送るから協力しろ」
正直なところ、お金は少しでも節約したい。現在地も把握できていない。今の住まいから遠いのか近いのか、さっぱりわからない。
「……お手伝いの給金もいただけますか。もちろん、料亭よりも高いお給金ですよ」
「それで協力してくれるなら」
彼が承諾してくれたので、葵はほっとした。
呼び出された座敷で投げかけられた父の言葉に、彼女は目を見張った。
その言葉が衝撃的すぎて、直前までの話は頭から吹き飛んでしまった。
実の娘に言うことだろうか。
さきほどまで、自分は家族に愛されて育ったのだと信じて疑わなかった。病弱な妹が優遇されているのは気付いていはいたが、だとしても自分だってちゃんと愛されて育ったのだと思っていた。
だが今、父は自分の死を願う言葉を吐いた。
「どうして……」
がんがんとなにかが鳴り響く頭を抱え、彼女はたずねる。
「言っただろう、お前の婚約者が戦死したと。だからお前は死なねばならん」
「そんな……」
彼女は五歳上の婚約者がいた。
結婚したら彼女の家に婿養子に来る約束になっている。
彼は士族で、彼の父は商業で成功している。
次男である彼は士官学校を出たあとはそのまま陸軍に入隊した。見習い士官として勤務し、 一カ月ほどまえ、戦地へ送られた。
そうして戦死の報が届いたのが今日。
見合いで婚約した彼とは数度しかあっておらず、愛はおろか情を持つほどですらない。
だが、婚約者となった彼が死んだという知らせはショックだった。
その直後、さらにこんなショックことを言われるなんて。
基本的にこの家では父の命令は絶対だ。逆らえば激しい折檻が待っている。
折檻は嫌だ。とはいえ、死を命令されて従えるわけがない。断ったら殺されるのだろうか。だが、せめて理由だけでも聞いておきたい。
「なぜ、死ななくてはならないのですか」
「婚約者の後追い自殺をした、こんな美談はないだろう?」
彼女は青ざめた。そんなことのために自分は命を終えるのだろうか。
「そうなれば、我が家への援助はこれからも続くだろう。家のために死ね」
父の命令に、彼女はただ呆然としていた。
彼女が遺書を残して自ら命を断ったという知らせが走ったのは、翌日のことだった。
享年16歳。短い命だった。
***
宇佐木葵は調理場で包丁を握り、じゃがいもの皮をむきながらため息をついた。
かまどにはまだ火が入っていない上にひとけがないので空気は冷えており、剥き出しの土間が見た目にも寒々しい。
着物の袖はたすけがけにしてまとめているため、腕はひじまで露出していて、それも寒さの要因のひとつだった。
「じゃがいもって美味しいけど、めんどくさいのよね」
水で洗ったあとだというのにまだ泥っぽくて、芽をえぐるのもめんどくさい。煮崩れしやすいのも短所だ。
今日だけで何個のじゃがいもを向いただろう。
このあとは玉ねぎの皮をむいて、にんじんも……。
下処理をするのが自分の仕事だとはいえ、自分が食べるものでもないのに延々と皮をむくのは苦痛だ。
だが、これでも生きるためだ。料亭の下働きとして住み込みで雇ってもらえているのだから、文句を言えない。
「あんた、まだじゃがいもの皮むいてるのかよ」
「すみません」
通り掛かった料理人のひとりに声をかけられ、葵は謝った。
「さっさとやってくれよ。ここに来て一年もたつだろ、そんなんじゃ一人前の料理人になれないぞ。絶対に仕込みには間に合わせろよ」
「はい……すみません」
謝罪にためいきをつき、男は調理場を出て行く。
この量をひとりでやらせるなんて、という文句は言えなかった。ここを追い出されたらどうやって生きていけばいいのかわからない。
自分は一年前まで、お嬢様だった。
婚約者が死んだあと、父親に死んでくれと頼まれたときには絶望した。
その後に続いた説明に、彼女は承諾した。
死んだという体裁にして、自分はよそへ行く。ほとぼりが冷めたら戻ってもいいということだった。
戻るときに問題があるのではないかと思ったが、そこはうまくやってくれるという。
それで家のためになるならと了承した。なにより、父は本当に自分の命を奪いたかったわけではなかったとわかって安堵した。
そうして雛形葵から宇佐木葵へと名を変えてここで働いている。
彼女の家は祖父の代は裕福ではあったが一年前の時点では没落していた。
名ばかりの華族であり、父は事業がうまくいかず、焦っていた。
婚約者の小柳行正の家は士族出身ながら商才に恵まれたらしく、いくつもの店を持ち、そのすべてを繁盛させている。
彼の家にとっては華族との縁をつなぐため、父にとっては事業の支援を受けるため、双方に利のある結婚だった。
婚約後は事業の支援を受けていたが、売上は回復せず、援助を受ける一方になっていたらしい。
そこへ行正の死だ。
援助の打ち切りは目に見えていた。
だが、もし彼女が後追い自殺をしたなら。
そこまでの情を見せられ、援助を打ち切ることなどできないだろう。なんて冷たい、と世間にそしられるのが目に見えている。客商売をしている彼らには世間の評判はなにものにも代えがたい。
だから彼女は家族のために自分の死を了承した。
あれから一年が経つ。自分は十七歳になった。行正がまだ生きていたなら、もう結婚していたはずだ。
いったん思い出すと、記憶があふれて止まらなくなる。
女学校の友達に別れを告げることなどできなかった。自分の死の知らせは彼女らを悲しませてしまっただろうことが申し訳なかった。
自らの存在を消してまで家のために……父のために『死』を受け入れたのだ。手紙のひとつもないが、少しは自分を気に掛けてくれているだろうか。
妹は病弱だが、元気な日には一緒に折り紙を折ったりお手玉をしたりして遊んだ。
ふだんは妹の世話にかかりきりの母は、そのときは自分にもかまってくれた。ふたりにおやつをくれて、妹と一緒に折ったものを見せて褒めてもらった。
父だっていつも怒っていたわけじゃない。機嫌がいいときには話を聞いて頭を撫でてくれた。
みんなに会いたい。
元気でいるかな。
一歳下の妹にも縁談が来ている頃だろう。
自分はこんなことになってしまったが、妹には幸せな結婚をしてほしい。
そうだ、今度休みをもらって帰ってみよう。遠くから様子を見るくらいなら許してもらえるよね。
そんなことを思いながら、次のじゃがいもを手に取って皮をむき始めた。
一か月後の日曜日、休みをもらった葵は普段着となった粗末な着物を身に纏い、汽車に乗った。
汽車に乗るのは一年ぶりだ。
知り合いの誰かに見つかったらどうしようかと思いもしたが、それでも一度家族を思うと止められなかった。
髪型も変えたし、着物も自分の好みではないものを着ている。たとえ友達に会ってもパッと見にはわからないはずだ。
そう思いながら駅を降りて自宅だった家へと向かう。
懐かしい街並みに胸が締め付けられ、足は自然と早くなる。
脳裏に浮かぶのは温かな食卓。四人で卓を囲んで温かなご飯をいただくのは格別だった気がする。ふだんは厳しく怖い父もそのときはお酒も入り、上機嫌だったように思う。
思い出だから美しくなっているだけだろうか。里心から良いように思うだけだろうか。
父は自分に死んでくれと言いながら、本当に死なせたりはしなかった。きっと娘への愛情ゆえだ。だからきっと、この思い出だって間違いじゃないはずだ。
そうだ、もしちゃんと帰ることができたら今度は私が料理をふるまおう。
いまだに下処理しかやらせてもらえないけれど、帰るまでには料亭で料理を教えてもらって、たくさん作ってみんなで食べよう。
わくわくしながら歩いていると、家のすぐそばまで来てしまっていた。
いけない、さすがに近寄りすぎたかしら。
葵は焦る。が、ここで引き返しても、誰かに見られていたときに怪しまれるかもしれない。
通り過ぎてしまおう。そして、門が開いていたらさりげなく中を見てみよう。
そう思って門に近づいたときだった。
門が開いて、妹の沙代が現れた。
あ、と声が出そうになって慌てて両手で口を塞ぎ、木の陰に隠れた。
自分は死んだことになっているのだから、声をかけてはいけない気がした。死体もなく死んだと言われて妹がそれを信じたのかどうかはわからない。事情をきちんと説明したうえで妹も秘密を共有しているのかもしれない。そこは父からは説明されなかった。急かされるように翌日に家を出てそれっきり父とも連絡をとっていなかった――とらせてもらえなかった――から、わからない。
懐かしさで声をかけたくてたまらなくて、だけどじっとこらえていると、もうひとり、男性が扉から出て来た。
葵は驚愕した。
そこにいたのは死んだはずの婚約者、小柳行正だった。
「どうして……」
思わずこぼれたつぶやきは小さくて、彼等には届かない。
「若旦那様、奥様、行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
沙代が笑顔を見せ、使用人に答える。行正は会釈だけで応じた。
どうして若旦那様と奥様と呼ばれているのだろう。まるで結婚したかのようだ。
ふたりが去るのを待ってから、葵はよろよろと歩き出す。
閉められた門を叩くと、しばらくして中から開けられた。
「なにか御用でしょうか?」
知らない顔の使用人だった。
「あの……父……こちらの旦那様にお会いできますか?」
「お約束は?」
「ありません……あお」
葵、と言いかけ、慌てて言い直す。
「宇佐木が来たと言っていただければ、伝わるかと思います」
「かしこまりました。少々お待ちください」
父はどうやら家にいたようだ。
ほっとして待つこと少々、葵は家の中に案内された。
そこはいつか、父に死んでくれと言われた座敷だった。
すでに父は待っていて、葵は中に入って障子を閉め、下座について深々と頭を下げる。
「なにしに来たんだ」
冷たい声に、葵はビクッと震えた。とても愛があるようには思えない。
「懐かしくなって、我慢できずに来てしまいました」
「連絡するまで来るなと言っておいただろう」
「申し訳ありません」
葵は落胆した。懐かしいとか会いたかったとか、そのような言葉を貰えると思っていたから。
「わかったらさっさと帰れ」
そう言って父は立ち上がる。
「待ってください!」
葵は思わず止めていた。
「まだなにかあるのか」
冷たい声が突き刺さる。
胸には直前に見た光景が浮かび、手には脂汗が浮かぶ。
「先ほど沙代を見ました。奥様と呼ばれていて……行正様によく似た方が若旦那様と呼ばれていました」
よく似た別人なのだろうが、確認せずにはいられなかった。
「見たのか」
驚愕を含んだ声に、葵は頷く。
「……誤報だったのだ」
苦々しい吐露に、葵は眉根を寄せた。心臓がばくばくと早鐘をうち、落ち着かない。
「誤報、とは」
「戦死の報告だ。あれから彼は生きて帰った」
「そんなことが……喜ばしいことです」
誤報はごく稀にあると聞いている。死んだと思っていた彼が生きていた、彼の家族はどれほど喜んだことだろう。
「戻ったとき、お前は死んだことになっていた。だから沙代と彼が結婚した」
葵は言葉を失った。
若くして配偶者や婚約者が亡くなったとき、その兄弟、もしくは姉妹と結婚する話はたまに聞く。だが、まさか自分がそうなるとは予想もしなかった。……しかも、亡くなった側の立場として。
「沙代はお前が本当に死んだと思って幸せに暮らしている。もう二度とここに来るな」
「そんな!」
「お前にも今の生活があるだろう。それを大事にして生きていけ」
「お父様はそれでいいのですか」
泣きそうになりながら葵は父を見る。親子の縁を切る、そう言われているのに等しいのに。
「お前はもう私の娘ではない。つまり私は父ではない」
はっきりと宣言され、葵の心が凍り付いた。
「……わかりました。今まで……いえ、一年前まで、ありがとうございました」
葵は涙をこたえて頭を下げた。せめてもの嫌味が通じればいい、と願いながら。
屋敷を出た葵は、そのまま帰る気にはなれず、とぼとぼと街を歩く。
知り合いになど遭遇することもなく、誰からも声をかけられないことに悲しくなった。
誰も自分のことなど気付かない。
彼らにとっては生きていても死んでいてもかまわない他人なのだ。
友達や親戚に生きていると知らせたらどうなるのだろう。
父は非難を受けるだろうか。
そして……婚約者だった人は、私をどう思うのだろうか。
「お母さん、おだんご買って!」
声がしたほうを見ると、小さな男の子が母の手を引いてだんごやの屋台を指さしている。
「ごはん前だから、お母さんと半分ずつね」
「やったあ!」
男の子は喜んでかけて行き、母親は笑顔でその後ろを追う。
葵はため息をついた。
あんなふうに無邪気に甘えられる子どもがうらやましく、甘えを許す母がうらやましい。
父は家の中で絶対だった。
逆らえば容赦なく張り手が飛んできて、恐怖の対象でしかなかった。母は父の言いなりで妹の世話に忙しく、甘えることなどできなかった。
来るなという言いつけに逆らえば、今度はなにをされるだろう。本当に殺されたらどうなるだろう。表向きは死んでいるのだから、警察も動かず、ひっそりと打ち捨てられるのだろうか。
だったら、まだあの料亭でこき使われて生きた方がマシだ。
思った直後、ぽろぽろと涙が溢れて来た。
自分はいったいなんだったのだろう。
いつも沙代が優先で自分は後回しにされていた。
それで最後は父に殺された。
親ならなにをしてもいいというのだろうか。子どもなど所有物にしか思えないのだろうか。
だが、ほかの家庭ではそんな話をきかない。
もっと愛にあふれ、幸せそうだ。さきほどのあの母子のように。
考えても無駄なことだ。
本当に命を奪われたわけではない。せめて最後の一線には親子の情はあったのだと、そう信じたい気持ちがあった。
葵はためいきをつき、顔を上げた。
そこには立派な赤い鳥居があって、首をかしげた。
鳥居の柱は太く、二階よりも高くそびえている。
こんなところに神社があっただろうか。
今日は思いがけずつらい思いをしてしまった。不意打ちの辛苦は深く胸を貫く。
厄払いのためにもお参りしてから帰ろうかな。
そう思い、一礼してから鳥居をくぐる。一瞬、ぐにゃりと視界が歪んだ。
たたらを踏んで立ち止まり、目元を押さえてからまた目を開く。
眩暈は止まったようだが、あまりの景色の違いに葵はまばたきを繰り返す。
先ほどまで無人だったように見えた境内にはたくさんの人がいて、祭りのように屋台が立ち並んでいた。祭囃子とともに楽し気な人々の喧騒が耳に届く。
「え、なにこれ?」
きょろきょろと周りを見回し、通りがかった女性のふたり連れに声をかける。
「すみません、今日はなんのお祭りなんですか?」
「あなた、もしかして人間なの?」
女性に質問で返され、葵はきょとんとした。
「運がいいのか悪いのか……。今日は年に一度の所縁の君……縁結びの神様のお祭りよ。このあとに行われる餅撒きで当たりの餅を手に入れればなんでもひとつ、願いをかなえてもらえるの」
「へえ、楽しそうですね」
餅撒きは参加したことはないが、聞いたことがある。
「人間でも平等に願いをかなえてもらえるから、参加してみるといいわ。もし当たったら「家に帰りたい」って言った方がいいわ。でないと帰れないからね。餅撒きは拝殿前で行われるわよ」
「ありがとうございます」
帰れないなんてことないだろうに、からかわれたのだろうか。
だけど餅撒きなんて、なんだかわくわくする。ぜひ参加してみようと思った。
家にいるときは、庶民のやることだと行かせてもらえなかった。
どうせ自分は家族ではなくなったのだ。これくらい自由にさせてもらってもバチは当たらないだろう。父の言いつけに逆らうのもわくわくする。
屋台を冷やかしてから餅撒き会場に着くと、すでに待っている人たちがいた。
気合入ってるのね。
どきどきしながらその人たちに紛れて餅撒きの時間を待つ。
時間になると神職の白い着物と袴を着てお面をかぶった人たちが現れた。手には大きな籠を持っている。中に餅が入っているのだろう。
いつの間にか拝殿の前にはたくさんの人たちでおしくらまんじゅうをするかのように込み合っている。
どーん、どーん、どーん、と太鼓が三回鳴らされた。
鳴り終わるのと同時に白い装束の人たちが一礼し、籠から丸餅を投げ始める。
投げられた餅を受け止めようとする人、落ちた餅を拾おうとする人。我先にと手を伸ばし、人々が右往左往する。
葵も一緒になって餅を拾った――否、拾おうとした。
だが、落ちた餅は隣の人にさっと拾われ、投げられた餅を受け取ろうにも手に当たってどこか見知らぬ場所に跳ねていく。
神職は次々と餅を投げ終え、中が空であることを示して籠を床に降ろす。
終了の太鼓とともに神職は一礼し、籠を持って去っていく。
「あー、今年は三個だった」
「俺は五個だ。でも当たりが拾えなかったんだよな」
人々が楽し気に会話しながら立ち去っていく。
拝殿前の広場にぽつんと残され、葵はため息をついて空の両手を見た。家族も良縁も、餅すらも手に入れることができないなんて。
仕方がない。そういう運命なんだ。
花嫁にもなれないし、今の職場で料理人として立つこともできない。
そもそも料理人になりたいと思ったことなんてないのだ、生きていけるならずっと下働きでも問題ない。
ふと見ると、何人かが残って生垣の下を覗きこんでいる。
転がった餅を探しているのだろう、と気が付いて葵も少し離れた生垣の下を覗きこんでみる。
そこにはひとつの餅が落ちていた。
「やった!」
葵は喜んで手にとる。
今日はさんざんだった。
このお餅を持って帰って、砂糖醤油でいただこう。みたらしのような甘辛い味を想像すると、それだけで唾液が出て来る。
ひっくり返してみたとき、心臓がどきん、と大きく脈打った。
「当たり……!?」
餅には『当』の焼き印が押してあった。
なんだか嬉しくなって、餅を両手で包み込む。
当たりなら願いをかなえてもらえると言っていた。なにか欲しい賞品でももらえるのだろうか。誰に言えばいいのだろうか。神社の人を見つけなくては。
ほくほくと歩き始めたときだった。
白い上下の装束を着た人たちが連れ立って歩くのを見かけた。先頭を歩く男性は黒髪で、それに続く白髪の人は立派な装束を身に着けていた。前のふたりはお面をしていなかったが、残りの人たちは先程の餅撒きの人たちと同じお面を被っていた。
葵はその一団に駆け寄る。きっと神社の人に違いないから。
「あの、すみません」
声をかけると、彼らはくるっと振り向いた。
白髪の人物はご老人だと思っていたのに、顔立ちが若くて驚いた。三十歳手前ほどだろうか、ひどく美しい男性だが、赤い瞳が人間離れして見えた。
その彼と葵の間に、彼を守るようにして黒髪の男性が立った。精悍な顔立ちをしていて剣でも持たせたら似合いそうな逞しさがある。鋭い黒い目に見据えられると、それだけでなにかを暴かれるような落ち着かない気持ちになった。
「娘、何用か」
黒髪の男性が言う。
「あの……」
思わずひるむ葵の耳に、通りすがりの母娘の声が耳に入る。
「お母さん、お餅拾えなかった」
「残念ね、仕方ないわ。あの中に入るのも危なかったもの」
まだ小さい娘は大人たちの間に入ると踏みつけられる可能性があったのだろう、遠くにいることしか許されず、ひとつも餅を拾えなかったようだ。
「ごめんなさい、なんでもないです」
一団に謝罪をしてその場を離れ、葵は走って親子を追いかける。
「お嬢ちゃん、待って」
声を掛けると、親子は振り返った。
「よかったらこのお餅もらってくれない?」
当たりを見せないようにひっくり返してお餅を差し出す。
「そんな、申しわけないです」
「ひとつだけ持って帰っても家族とわけられないから」
今となっては家族がいないのだが、葵はそう言って笑って見せた。
「まあ……ありがとうございます」
母親は深々とお辞儀をして餅を受け取る。
「よかったね、お餅もらえたよ」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
娘はぱあっと顔を輝かせる。
なんども礼を言い、母子はその場を立ち去った。
当たりのお餅だと知ったら、びっくりするかな。
ふふ、とひとり笑みをこぼしながら葵も帰路につく。
遠慮するかもしれないから、あえて当たりを隠したのだ。
いいことをしたな、と思いながら鳥居をくぐる。
と、なぜかまた境内にいた。
「あれ?」
葵はまた鳥居をくぐる。
と、また境内にいる。
「どうして……」
疑問には思うが、理由など思いつくはずもない。
そうして、最初に出くわした女性の言葉を思い出す。
『もし当たったら「家に帰りたい」って言った方がいいわ。でないと帰れないからね』
変なことを言うな、と思ってはいた。
あれはこのことだったのだろうか。
そういえば、もしかして人間なのか、とも聞かれた。
この祭りは人間ではない存在たちの祭りなのだろうか。
「そんな、なんで……?」
なんども必死に鳥居をくぐる。
だが、なんどやっても元の場所に戻るだけだ。
「どうしよう……」
頭を抱えたときだった。
「ここにいたか、娘」
かけられた声に振り返ると、さきほどの黒髪の男性がいた。
「お前……人間だな」
鋭く睨まれて、葵は後退った。
「こっちに来い」
命令されて、葵はとっさに逃げ出した。
「待て!」
制止を振り切り、走ったのだが。
その先には仮面の白装束の人たちがいて、葵は足を止める。
気がつけばすっかり囲まれていて、逃げ場がない。
ゆったりと黒髪の男が近づいてきて、葵の前に立つ。
「手間をかけさせるな。一緒に来てもらうぞ」
男性の言葉に、葵はがくりと肩を落とし、自分の運の悪さを呪った。
大勢の白装束たちに囲まれ、罪人のようにとぼとぼと歩く。
なにも悪いことなんてしてないはずなのに、どうしてこんなふうに捕まらなくてはならないのだろう。本当の罪人と違って縄をかけられてないだけましかもしれない。
連れていかれたのは神社の拝殿の中だった。畳が敷かれた奥、祭壇の前に高座が設けられ、白髪に赤い瞳の男性があぐらをかいて座っていた。
その手前には先ほど餅をあげた母子が座っている。
葵は白装束の人たちに肩を押さえられ、座らされる。彼女が座ると、彼らはすぐに手を離して席を外した。
「連れて参りました」
黒髪の男性はそう告げてから脇に控えるように正座する。
「そなたら、この娘で間違いないか」
「はい、間違いありません」
母が答える。
この人たちが言い付けたのだろうか。どうしてそんなことをしたのだろう。
恐怖に震えながらうなだれていると、白髪の男性のくつくつと笑う声が聞こえてきた。
「なにをした、怯えておるではないか」
「私は連れて来ただけです」
黒髪の男性はムッとしたように答える。
「愛想のないことだ」
白髪の男性はまた笑う。
「娘、怯えるでない。悪いようにはしない」
葵はけげんに思って顔を上げた。
「我はこの社の神。縁を結ぶのが仕事だ。これなるは人の子でありながら我が下僕、そなたらの世界で神主をしておる。名を因幡吉野と言う。そなたの名は?」
「宇佐木葵です」
彼女は困惑しながら答える。今この人は神を自称したような。そして黒髪の男性は神主だと言う。
「良い名だ。我と因縁浅からぬ響きがある。そなたにはこの女人の申し出により、来てもらった」
葵が母親の女性を見ると、彼女はにこっと笑った。
困惑してまた神を見る。
「この者が、当たりはそなたの権利だというのでな、探し出して連れて来てもらったのだ」
葵は驚いた。お餅の当たりのことなのだろう。
「わざわざそのために……」
「だって、当たりは特別なんですよ。なんでも願いをかなえてもらえるんですから。私の娘はお餅がほしいっていう願いをもうかなえてもらったのですから、このうえさらにあなたの権利を奪うなんてことはできません」
女性が勢いこんで言う。
権利を戻すように自ら申し出るなんて、なんていい人なのだろう。葵は疑った自分を恥じた。
「そなたはなにを欲する? 金か? 名誉か? 我が得意なのは縁を結ぶことゆえ、良縁にするか? そなたくらいの人間の娘は幸せな結婚を夢見るものであろう?」
「結婚……」
今日はそれに絶望してきたばかりだ。まさか婚約者が妹と結婚していたなんて。
「幸せな結婚などあるのでしょうか」
葵はうつむいた。
「ほう?」
面白そうに神は続きを促す。
「私は婚約者が死んだと言われて、後追い自殺をしたふりをしてよそへやられました。実家に戻ったら、婚約者は生きていて妹と結婚したと言われました。家族から捨てられた私が幸せな結婚なんてできる気がしません」
「あと追い自殺のふり……人間は奇妙なことをするものだな」
神は面白そうに呟く。
「神様って、なんでもできるんでしょう? なんでこんなことが起きるようになってるんですか? なんで私は幸せになれないんですか?」
「さて、それへの回答をそなたの望みとするか?」
聞かれて、葵は口をつぐんだ。かなえてくれる望みはひとつだけだと言っていた。
だったら慎重に望みを考えなくてはならない。
いや、ここに来て最初に会った親子連れは、「帰りたい」と望むようにと助言してくれた。
「望みは……」
帰りたい。
そう言うべきだとわかっている。
だけど、帰ってどうするというのだろう。
帰る場所なんてない。料亭だって本当の自分の居場所ではない。
「……幸せな結婚をください」
葵は顔を上げ、真っ直ぐに神を見た。
「死ぬまでずっと幸せでいられる結婚をください!」
「ふむ……つまりはそなたを幸せにする夫がいれば良いのだな?」
「はい」
そんなこと、できるわけがないだろう。葵は冷めた気持ちでそう思う。
神を名乗っているだけで、彼だってきっと普通の人なのだろうから。見た目は少し変わっているのだが。
「今日は気分が良い。そなたに良い縁をやろう」
彼はそう言ってくつくつと笑う。
なにかを企んでいそうな笑いだ、と葵は警戒する。
「吉野」
「はい」
名を呼ばれ、黒髪の男性が答える。
「そなた、独身だったな。この者と結婚しろ」
「……お戯れを」
彼は顔をしかめる。
嫌がられたことに、葵はムッとした。自分だって嫌だが、だからといってあからさまにこんな顔をされたら腹が立つ。
「良縁を組んでやったのだ、喜べ」
「お断りします」
「そう言うな、まずは一緒に暮らしてみろ。巫女が欲しいとも言うておったろうが」
「人手は欲しいですね。では、我が社で雇うことにいたしましょう」
「そんな勝手に!」
葵は思わず抗議の声を上げるが、神はくつくつと笑う。
「もう決まった。我はそなたの縁を結んだ。こやつはそなたが思うより良い男だぞ。より強く縁を結ぶも断ち切るも、あとは好きにするが良い」
思わず吉野を見ると、ぎろりと睨み返され、びくっとした。
こんな怖い人と幸せな夫婦になんて、なれる気がしない。
目の前の男性を紹介して、楽して願いを叶えたふりをしているようにしか思えない。なんでも願いをかなえるなんて、やはり嘘だったのではないだろうか。
そこへ、ばたばたと人が駆け込んでくる。
「大変です、縁食いが逃げました! 人の世に入り込んだようです!」
「またか」
神はあきれたようにつぶやく。
「申し訳ございません、管理は厳重にしていたのですが……」
「客人の前ぞ」
吉野が駆け込んできた人を睨み、彼はびくっと肩を竦める。
「きつく叱るな、それほど慌てていたのだろう。あれは人の縁が大好物だからな。——吉野」
「はい」
「また頼む」
「かしこまりました」
「嫁を娶らせた直後に申し訳ないが……いや、待て」
にやりと神は笑い、葵はなんだか悪い予感に眉を寄せる。
「縁食いの捕獲にはその娘も連れていけ」
「は?」
思わずといったように吉野が声を上げる。
「お前がその娘との縁で、縁食いのほうからやってくるやもしれぬ」
「囮にしろと。了解いたしました」
「なんでそんな勝手に決めるんですか!」
葵は思わず抗議したが、吉野に睨まれて口をつぐむ。
「協力することは仲を深めるにはちょうど良い。では頼んだぞ」
「かしこまりました」
吉野が頭を下げ、駆け込んできた人も頭を下げる。居合わせた母子も一緒に頭を下げた。
葵だけが頭を下げず、むっとした表情で神を見る。
神は面白そうに葵を見返し、にやりと笑って退室した。
神の姿が見えなくなると、女性が葵に頭を下げた。
「当たりのお餅だとは知らずいただいてしまい、申し訳ございません」
「いいんですよ、私があげたかっただけなので」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
娘がにこっと笑って言うので、葵もつられて笑った。
「挨拶はそれくらいにしろ。行くぞ」
声をかけられ、葵はびくっとした。
振り向くと立ち上がった吉野がいて、見上げるその顔は険しく怖い。
「吉野様、お会いできまして光栄でございます。どうぞお気をつけて」
母のほうが言い、頭を下げる。
「ああ」
吉野はぶっきらぼうに答え、顎をくいっと動かし、葵を急かす。
「では、お元気で」
葵は母子に言い、立ち上がった。
今度はどこへ連れていかれるのか、不安しかなかった。
彼は早足で拝殿を出て鳥居に向かう。
葵は小走りで後を追った。
彼とともに鳥居をくぐると、なぜか見知らぬ街の宿屋の前に立っていた。
「え? なんで?」
葵は戸惑うが、吉野は平然と宿屋の暖簾をくぐる。
いらっしゃいませ、と宿屋の人が現れる。
「ふたりだ、部屋を用意できるか」
吉野の言葉に宿屋の人は頷く。
「はい、ご夫婦でいらっしゃいますか?」
「そうだ」
「え!?」
葵は驚きの声を上げてしまった。
まだ夫婦ではない。
吉野はかまわずに宿泊の手続きを済ませてしまい、二階の部屋に案内される。
そこは洋室で、大きなベッドがひとつ、用意されていた。
「同じ部屋なんて……」
「夫婦ならば同室でかまわないだろう」
さっきは神様の前で夫婦になることを拒否していたのに。
葵は戸惑い、大きなソファに目を止めた。
「私はこっちのソファで寝ますから」
言った直後、吉野にぎろりと睨まれて葵は硬直した。
つかつかと歩いて来た彼は、いきなり葵を抱きしめる。
「なにするの、離して!」
「夫婦とはこうするのではないのか?」
「そ、それは、正式に夫婦になった人の話でしょ! 私たちはまだ夫婦じゃありません!」
言われた吉野は驚いて手を離し、距離をとった。
「そうか、それは悪かった。半ばあちらの世界で育ったので、人の世の習いには疎いのだ」
正直に謝られて、葵は意外さに戸惑う。
「お前、俺が怖いか」
問われて、葵は固まった。どう答えるのが正解なのだろうか。
「俺はよく、怖いと言われる。俺自身は怖くしようとは思っていないのだがな」
「えっと……それなら笑顔でいらっしゃればいいのではないでしょうか?」
言われた彼は目を吊り上げ、葵は悲鳴を上げそうになった。
「……これでどうだ」
笑っているつもりだったのか、と葵は驚くとともに安堵の息を吐いた。
「まったく笑っているように見えません。それなら無表情でいらっしゃったほうがマシです」
「そんなにひどいのか」
眉を寄せた顔がまた険しい。
そもそも、怖く思えるのは顔のせいだけではない。言動が冷たく斬り捨てるようで、それが怖さに拍車をかけていたのだから。
「怖がられるせいで人が近寄らん。わずらわしさは減るが、差しさわりが出るときもある」
そうだろうな、と葵は思う。怖そうな人に自ら近寄りたい人はいないだろう。
だが、言動のちぐはぐさから考えると、そう悪い人でもなさそうだ。
そう思って、気が付く。
「……怖がらずに縁を結べた人は、きっと本当のあなた様を見て下さる方なのではないですか? そう考えると、強面も悪くないのかもしれません」
「そうか……そうだな」
彼はふっと口元を緩める。
急に彼の周りの空気がほどけて、優し気な雰囲気が現れた。
思いがけず、葵はどきっとした。
「どうした?」
「なんでもありません」
急に鼓動を早くする胸を押さえて、葵は答える。
別の意味で、彼は笑顔ではいないほうがいいかもしれない。
そんなこと、彼に言えるわけがなかった。
「夫婦になるのはお嫌だったのではないのですか」
尋ねると、吉野はため息をもらした。
「ああ、妻などめんどくさそうだからいらない。だが縁食いを捕らえるためだ。お前には協力してもらわなくてはならない」
「縁食いとはどういうものなのですか?」
「文字通り縁を食らうあやかしの獣だ。男女に限らず人の良縁を特に好む」
そんな獣は聞いたことがなくて葵は首をかしげる。
「食われるとどうなるのですか?」
「縁が切れる。ケンカになったり急に音信不通になったりもする」
葵は顔をしかめた。恋人にしろ友人にしろ、せっかく仲良くなった人との縁が切れるなんて、そんな悲しいことはないのではないだろうか。
もしかして、父との縁が切れたのも縁食いのせい?
思って、首を振る。絶縁を宣言されたとき、まだ縁食いは逃げてはいなかったはずだから。
「縁を結ぶ神とは相容れない獣だ。先年も逃げ出して人の良縁を食らいまくっていた。罰として牢に入れていたのだが、隙をついて逃げ出したようだ」
「迷惑な。早く捕まえた方が良さそうですね」
言ってから、はたと気が付く。
勢いにのまれて一緒に来てしまったが、協力する義理はないのではないだろうか。
明日も料亭の仕事があるのだ。
人間の世界に戻れたようだから、あとは自力でも現在の住まいに帰れるのではないだろうか。
「私、料亭の仕事があるのですが」
「そちらはやめるか休むかしてくれ。連絡が必要なら電話をするか、電報を打とう」
「はあ!?」
そんな勝手な話があるものだろうか。
「急に休んだらみんなに迷惑がかかります」
「縁食いのせいで縁を切られる人がいるのはかまわないと?」
「そんな話、信じられません。それにお手伝いしたとして、お給金ももらえなさそう」
「夫の仕事を手伝うのに給金がいるのか?」
「都合のいいときだけ夫婦になろうとしないでください!」
葵の言葉に、彼はちっと舌打ちする。
舌打ちって、と葵は呆れた。
「ここから帰るだけの金も持ってないんじゃないのか? 終わったら送るから協力しろ」
正直なところ、お金は少しでも節約したい。現在地も把握できていない。今の住まいから遠いのか近いのか、さっぱりわからない。
「……お手伝いの給金もいただけますか。もちろん、料亭よりも高いお給金ですよ」
「それで協力してくれるなら」
彼が承諾してくれたので、葵はほっとした。



