スーパーマーケットの自動ドアを通り抜けて外に出た瞬間、ものすごい力で鞄を引っ張られて店の中に連れ戻された。

ああついにばれたんだ、と思いながら相手をうかがうと、私の鞄を乱暴に掴んで店内に導いていたのは、スーパーマーケットの店員ではなくスーツを着た男だった。それも赤の他人ではなく、よく知った人間で、どうしてあなたが、と、ようやく自分の中で動揺が走る。

男は、客の途切れたレジまで私を連れて行くと、そこにいた年老いた女の店員に、すみません、と声をかけた。

それは、いつも耳にしている無機質な声音だった。捕まった相手は予想外であったものの、結局のところ今から自分の罪が明るみに出て私は今日終わるのだろう、そう覚悟して男が私のしたことを店員に告げるのを待つ。

だけど、男の口から出たのは全く違う言葉だった。

「妹が、間違えて会計もせずに商品を外に持ち出してしまったみたいです。申し訳ないです。ほら、出して」

妹。間違えて。出して。言葉はひとつひとつが独立して耳に届き、私の脳は、出して、だけをきちんと処理する。

鞄の中から、棒付きのキャンディーを取り出す。それをおずおずと店員に差し出すと、「あら、間違えちゃったの。大丈夫ですよお」とどこまでも善良な顔つきで彼女は私からそれを受け取った。

間違えても、大丈夫でも、ない。感情というものは遅れてついてくるもので、今日の罪を手放してしまったあとになって、ようやく手がぷるぷると震えだす。

そんな私の隣で男は、「それ、買います」と店員に告げて、98円を支払い、罪を正しい売買に強引に変えた。

「申し訳ないですが、彼女、ちょっとぼんやりしているところがあって。これからも、間違えて持って行ってしまうかもしれないので、少し注意していただけると助かります。本当に申し訳ございませんでした。ほら、君も、謝りなさい」

淡々とした口調で謝罪を促されては、実はそうではなくて、と店員に切りだせるわけもなく、私はゆっくりと頭を下げる。

「ごめんなさい、気を付けます」
「いいのよお、また買いにいらしてくださいね」

最後まで、店員は優しく、あたたかい態度で接してくれた。

この人の子どもだったらこんなことにはきっとなっていない、そういうことを思いながら、また男に引きずられるようにして店の外へ出た。

外気に触れた瞬間、我に返って素早く男から距離をとる。男の目にはあまり光量が含まれておらず、それは昼間見ている時とほとんど同じであるのに、学校の外と中ではどこか違った人間に見えた。

よそゆきの自分像が、私にはしっかりとあった。だけど現場をおさえられた後では、取り繕うのも難しくて、嫌悪感を隠すことなく、男を見上げる。

「あの、日月先生」

悪いことをしていたのは自分なのに、思いの外、強く怒っているような声になってしまい自分でも驚いた。

「何なんですか?」

右手には黒色の鞄を、左手には正当な手続きを経て手に入れた棒付きのキャンディーを持った彼は、乏しい表情のまま、「それはこちらのセリフです」と返してきた。

「私、退学ですか」
「どうでしょうね。退学にはならないんじゃないですか。しかも、間違えて持ち出したことになってますし」
「それは先生が」
「淋代さん、僕はね、今までこの店で二度見逃しました。仏の顔も三度までって言葉はご存じですか」
「……先生が仏ってことですか」

無性に苛立ちながら尋ねると、彼はにこりともせずに、「そういうことになりますかね」と冗談なのか本気なのか全く分からない返事をよこして、私にキャンディーを差し出してきた。

別に欲しくもなかった、身体に悪そうな色をしたキャンディー。盗む価値もない。だから、それは私に選ばれたのだ。奪うように受け取ると、彼は背を屈めて、私と目線を合わせながら薄い唇を震わせた。

「淋代さん、少し話せますか」



はい、とペットボトルの水を渡されて、芝に座ったままそれを受け取った。

話せるかと聞かれて恐る恐る頷くと、彼は、どこかへ行こうとするので、私は一定の距離をあけて彼についていった。

そしてたどり着いたのは、大きな河川の向こうに工業地帯の眩い光が散らばって見える河川敷だった。

彼は人が二人ほど入るくらいの距離をあけて、私の隣に腰をおろした。

河川の向こうを眺める彼の横顔はどこまでも静かで、だから余計に怖くなった。昼の校舎で見る彼は、生きがいもなさそうな態度で、面白くもなんともない数学の授業を行って、生徒に干渉もせず媚びも売らず息をしているような、つまらない大人だった。だから私は、鞄を引っ張られて店に連れ戻されながら、あなたは他人のためにこんなにも力を出すことができるのか、と少し驚いたくらいだった。

「いつからですか。はじめてではないことは、知ってます。少なくとも僕は、今日の分もいれて三回見ましたし、初めて見た時も慣れている印象を受けました」

私を見ないまま、彼が言う。

「家、近くなんですか」

はぐらかすと、彼は浅く頷いて、「そうですね」と答えた。

せせらぎの音が徐々に不安を薄めてくれて、私も河川の向こうの光を見つめながら、「春くらいからです」と伝える。

ここは、静かで穏やかな絞首台なのだと思った。

優等生だと他人からよく言われる。現に、学校ではそういう自分を生きていた。だけど、彼にしてみれば、私はもう、棒付きキャンディーを会計を済ませずに店の外に持ち出した子供なのだからなんだっていいだろう、そう思った。

自棄になりながら、ほっとしてもいて、何だかもうよく分からない気持ちだった。

「理由は、聞いてもいいですか」

責めるような声ではなかった。本当に興味があるのかどうかもいまいち判断がつかなかったけれど、どちらでもいいなと思った。隠すことでもない。それに、彼は私を強くしかりつけたりはしないはずだ。そういう活力がある人には、今も見えなかった。

「はじめは、叱られたくてやってました。だけど、成功してしまって、くせになってるんだと思います。ばれたら叱られると思うと、ぞくぞくするんです。その時だけは、憂鬱が全部消えるから。スリルが、欲しいんです。……でも、あのお店ではもう無理ですね。先生があんなことを店員さんに伝えてしまったから」

ふざけたことを言っている自覚はあった。だけど、なぜ、盗るのか。自分が手にしている理由が丸ごと本当かどうかは自分でも分からないけれど、スリルが欲しくてたまらない。それだけは確かだった。

「万引きは、犯罪ですよ」

どんな言葉が返ってくるのだろうと少し身構えていたのに、当たり前のことを言われて拍子抜けしてしまう。そんなことは十分理解していた。はじめて他人に理由を渡したのに蔑ろにされたように感じて、少し腹が立った。

「先生、大切に思う人とかいるんですか」
「急に、何?」
「いや、いなさそうだなと思って」

当てつけのように嫌みを言う。でも、言ったそばから、いたところで何になるのだと思う自分もいて、「いなくても生きていけると思ってはいます」と付け加えた。

「いません。他人をどう大切にすればいいのか僕にはわかりません。結婚とかそういうことも、ありえないですし」

彼はそう言って、三角座りを崩して、芝の上に手をついた。彼の瞳の中にあった光が動く。その動きをじっと見ていたら奇妙な衝動に襲われて、「万引きなんて手段です。そんなことより私は。どうして自分が生きているのか、分からないんです」、自分の内側をひらいてしまう。

なぜ、ひらいてしまったのか、自分でも理解できなくて、ひらいてから、戸惑う。だけど、中途半端なところで口を噤むのも嫌で、この際、言いたいことは言ってしまおうと思った。

「私の家は、お金には困っていないんです。むしろありすぎるくらいなんです。大きすぎる家に父と母と三人で住んでいるけれど、二人ともほとんど帰ってこないから。余っている部屋が、私、怖くて。なぜ、一緒にいようとはしないのに、産むことにしたんだろうと思います。両親の顔なんて、もう一週間以上見てません。不在の臭いがずっとしてるんです。家は。自分からも、するんです。しつこいくらい、臭う。それを誤魔化すために、小さな悪事を繰り返すようになりました。それがエスカレートして今です。私には保つべき私の像があるから、成績も下げられないし、誰とも問題を起こしてはいけない。優秀でいなければいけない。それは別に難しいことではないです。でも、先生、そんなものは、すべて幻なんです」

はじめて自己開示をする相手が、こんな大人でいいのかとは思った。覇気のない横顔。姿勢だって悪い。でも、だからこそ、遠慮なく押し付けることができたような気もした。

「私、また、万引きすると思いますよ」

言いながら、笑ってしまう。

「まるで他人事みたいに言うんですね」

彼が、私の方に顔を向ける。

目の中の炎。そういうものが全くない大人なのだと思っていた。だけど、ある。あったということを、今、目を合わせて、理解する。彼のは、燃えているのではなく、凍っているのだ。今まで他人から感じたことのない情熱を彼から見出してしまって、少し狼狽えた。

「だって、私なんて両親が勝手に産んだ人間に過ぎないじゃないですか」
「それはどういう理屈ですか」
「……意味なんてないです」
「まあそうだね、他人が勝手に産んだに過ぎない人間しか、この世にはいませんよ。でも、そういう自分だからこそ、自分の人生を生きるべきだとは思いますよ。生まれるという、一番重要な決定権をほかに譲っているのだから、それ以外は、勝手にやればいい。でも、犯罪は悔しくないですか。法を犯すと、自分のゲームが滞る」
「ゲーム?」
「自分が手綱を握って全うする人生のことです。自分以外の誰にもその手綱を握らせてはいけない」
「……ひとまず、私は、どうすればいいんですか」
「そうですね。別のスリルに置き換える、とか、その気になって探せば、方法なんて山ほどありますよ」
「別のスリル? あ、先生と恋愛しているふりとか? ばれたら何かしらの制裁が加えられるはずですし、ちょうどいい気がしますね」

ほとんど冗談だった。彼のポーカーフェイスが少しは歪めばいい。そういう幼稚なことを考えていた。

だけど、彼はしばしの逡巡の後、提案する前と同じ表情で、あっさりと頷いた。

「君がそうしてみようと考えたなら、いいですよ。淋代さん、僕には恋愛感情が存在しない。だから、もしも誰かに疑われても、それはどこまでいっても誤解の範疇をこえませんから。安心です」

普通の感覚を持っている教師ならば、速攻で破棄するべき提案だったはずだ。そもそも、万引きを見つけた時点で、謝罪させて親に連絡して担任に共有して私に何らかの処分を下すというプロセスを用意するべきだったはずだ。

彼は、おかしい。でも、彼がはじめてだった。たとえそれが教育的ではないのだとしても。正しくないのだとしても。私に指導をしようとした教師は。幻ではない私をしっかりと両目にうつしてくれたのは。

その後、彼は、誰もいない家まで一緒に帰ってくれた。私は、キャンディーを舐めながら、いつもよりものんびりと歩いた。会話は何もしなかった。だけど、不思議と心地がよかった。