翌々日、二限目の英語の授業が、英語教師の体調不良で急遽、自習に変わった。
英語教師のかわりに教室に来たのは日月で、やつが入ってきてすぐに、クラスの女子が、「なんで、せんせーなの」とタメ口で尋ねる。
日月は誰も使っていない椅子を教卓のところまで持っていきながら、「このクラスの副担任だからですかね。僕、ちょうど授業も入っていませんでしたし」と愛想のかけらもない顔で答えて、すぐに質問したやつから目を逸らした。
この色のない表情のまま。この冷めた眼差しのまま。日月は淋代さんに触れるのだ。悪事を隠したまま、何でもないってふりをして、こいつはのうのうと生きのびている。
どうして、それがお前は許される?
やる側とやられる側。許される側と許されない側。笑う側と笑われる側。搾取する側と搾取される側。自分がどの立場に置かれるかは、自分では決められない。
でも、誰かを優位な場所から引きずり下ろすことは、まれに、できてしまう。
少なくとも、今の俺は、できるはずだった。
日月が強く叱ることは絶対にない。だから、みんな、日月のことは舐めきっていて、自習時間は日月が来たことでただの自由時間に変わった。九十九と草間は授業開始のチャイムが鳴るとすぐに、教室の中央列の前方にある矢野の席に向かったから、俺も自分の椅子だけ持って、急いでそこへ行く。
「針生くると、せめーんだけど」
なぜか矢野は俺にだけ少し嫌な顔をみせたけれど、いつものいじりだと受け取って、ごめんごめんとへらへら笑ってかわす。
なんで俺だけ、とか、そういうことは自分のために思わない方がいい。許される側と許されない側、俺は許されない側にいることがほとんどだけど、最近ようやく、現実を受け止める忍耐力がついてきたと思う。
許されなくてもいいから、ひとりになりたくなかった。
授業が始まって最初の方は、スケボーの話題で三人は盛り上がっていて、俺は全く分からないから適度に相槌を打ちながら、ふへへへと、とにかく笑っていた。
しばらくすると話題が尽きたのか、「つまんねーな」と草間が少し不機嫌な声で言って、椅子の背もたれに背をつけて王様みたいな姿勢で座り直した。俺は内心びくつきながら草間の様子を注視していたけれど、幸運にもその時の草間の眼中には俺はないようだった。
常に自分の退屈をしのげる玩具を探している。それが草間だった。
玩具は使い捨てでも何でもよくて、壊れたら強度の足りない玩具が悪い。草間は、きっとそういう風に考えている。
教室にいるひとりひとりを値踏みするみたいに眺める草間に、俺の胃が、ほとんど条件反射的に少しだけ痛みだす。
それから数秒後、草間は教壇のところに視点を定めたかと思ったら、座って何やらパソコンを見ている日月に、ためらいもなく声をかけた。
この時、どうして、日月が選ばれたのかは分からない。別に理由なんてそんなものはなかったと思う。
「日月せんせー、暇?」
草間の声に、日月がパソコンの画面から顔をあげて俺らの方を見る。
日月が答えるよりも先に、「せんせーに質問あるんだけど、いいっすか? 百の質問コーナー的な」と草間が言った。
「百はやばいって」
「ユーチューブかよ」
矢野と九十九は草間のノリを素早く掴むことができるから、羨ましい。俺は少し出遅れて、確かに、と笑う。
日月は、自分の右腕にはめた腕時計の位置をずらしながら、間をおいて、「何?」と草間に返した。
自分が玩具になろうとしていることに気づいていないのか、気づいていてそれなのか。いつもと違わず、日月は生気のない顔をしている。ただその視線は真っ直ぐ草間に向けられていた。
草間は仰け反るように座ったまま、挑発するように首を傾げて、日月に向かって再び口を開く。
「質問な。教師ってどんくらい給料もらえてるんすか。ふつうに気になってたんだよな。せんせーとか特にだけど、ちょー慎ましく暮らしてる感じあるし」
「給料は言えませんね」
「えー、給料って働くうえで大切なことじゃん。生徒の好奇心、無下にすんの?」
「気になるなら、ご自分で調べてみたらどうですか。僕に答えてもらえないくらいでなくなる好奇心なんて、あってないようなものですよ」
「……そのくらい教えればいーだろ。つーか、せんせーって毎日何が楽しくて生きてるんすか? つまんなさそーだけど。生きてて楽しいっすか?」
矢野が、俺の隣で、「日月が生きてて楽しいわけなくね」と嘲笑交じりに小さく呟く。小声とはいえ、本人にも聞こえるくらいの声量だった。でも、日月はちらりとも矢野に視線を向けない。楽しいってことが何なのか、俺はもうよく分からないけど、うんうんうんと大袈裟に首を振る。
「別に、楽しくはないですね。草間君の場合は毎日が楽しくないとまずいんですか。僕の人生とは違いますね。人間は、楽しくなくても生きられるし、毎日がつまらなくても生きてていいんですよ」
「はは、ウケる。教師がそんなんでいいの? 生徒に夢とか希望とか与えないとちゃんと」
「ワンパターンの夢と希望だけ与えて、何になるんです」
周りにいるクラスメイトも、草間と日月のやり取りを徐々に気にし始めているのが、みんなの視線の動きからうっすら分かった。数学の言葉や副担任としての連絡事項以外を話す日月なんて、今までほとんど目にしたことがなかったからだと思う。俺もそれは同じだった。
日月は、一時的に草間の玩具に選ばれたくせに、全然、玩具らしく振舞おうとはせず、淡々と草間に言葉を返していく。
許されない側にいなければいけないやつが、本来なら俺と同じ側に立っているべきやつが、俺とは違って、草間に会話の主導権を完全に握らせることなくやり過ごそうとしている。俺とは生きてきた年数も違うし当然なのかもしれない。でも俺は、いつもの自分といまの日月の立ち振る舞い方の差に妙に苛立って、どうやってこいつを引きずり降ろしてやろうか、そういうことを考え始める。
「てか、せんせー結婚ってしてんの?」
草間が始めた質問コーナーに、急に、九十九が割って入る。でも草間は特に嫌な顔もせず、「それまじで気になるわー」と加勢した。
「答えません」
「家族は? まさか実家暮らし?」
矢野が、煽るような口調で質問を重ねる。俺だけはまだ参加するタイミングが掴めなくて、ふへへへへと、とりあえず笑う。
「答えません」
「つーか、彼女とかちゃんといます?」
「答えないですって」
「今まで、彼女できたことありますか?」
「どうですかね」
「まさか、童貞?」
「どうなんですかね」
「まじ? 何歳だよせんせー、俺からのアドバイスな。そろそろ経験しといたほうがいいっすよ」
「そうですか」
日月は、草間、九十九、矢野、三人のどの質問にも動じることなく淡々と返事をしていく。
彼女がいるかどうかも、童貞かどうかも、何もやましいことなどないのだという顔で、答えないとだけ吐き捨てて。本当は、お前、隠れてだめなことをしているくせに。納得できなかった。
「まじで、童貞なの?」
草間が割と大きめの声で、もう一度日月に確かめる。
教室には、引いたような顔をして、俺らと日月の方を見ているクラスメイトが何人かいた。そんな中で、淋代さんは、窓際の席で机の上のノートに視線を落としたまま、俺らとは別の世界にいるような感じで勉強を続けている。
自分だって、日月の悪事の片棒を担いでいるくせに、まったく私は当事者ではないという面だった。
その横顔に、無性に腹が立って、俺の中にあった理性が半分ほど吹っ飛ぶ。
引きずり降ろしてやろう。どちらも。そう、強く思った。
息を深く吸いこんで、唾を呑みこむ。心臓が早鐘を打っていた。草間たちが、汚い声で笑っている中で覚悟を決める。次の質問に移ってしまう前に言う必要があった。いまだ、と思うタイミングで、口を開く。
「淋代さんとか、先生のタイプなんじゃないですか」
力んだせいで、予想以上に大きな声になってしまう。
声量を間違えたと、言った瞬間に分かった。でも、引き返すことなんてできなかった。
「淋代さんとか、先生、好きそうじゃん」
もう一度言い直す。草間も九十九も矢野も加勢するつもりはなさそうだった。笑ってもくれなくて、あ、失敗だ、と理解する。でも、もう、どうしたって引き返せない。続けるほかなかった。
日月から淋代さんに視線をずらす。淋代さんは、自分の名前が出たからか、顔をあげてほんの少しだけ動揺しているように見えた。
でも、俺の方を見ようとはしない。
俺に二度も密会を見られているくせに、お前が危機感がないことしていたくせに、馬鹿だろ。心の中で罵りながら、もっと動揺すればいいのにと思った。
淋代さんに視線を固定したまま、「淋代さん、先生の彼女だったりして」とさらに言う。
淋代さんは、俺を見ない。
握りたかった。俺だってその場の主導権を一度くらい握ってみたかった。自分以外のだれかを引きずり降ろしてやりたかった。
だけど、気がついた時には、教室中がしんと静まり返っていた。
どうして、自分だけが、草間たちのようにはいかないのだろう。
「ふへへへへ」
いつものように情けない音で笑ってみる。だけど、誰もそれに続いて笑ってくれはしない。自分ではもう収拾がつかなくて、だから、行けるところまで行こうと自棄になるしかなくて、さらに言葉を続ける。
「先生、童貞も淋代さんで捨てたんじゃないんですか。え、てか、淋代さんのどこに惹かれたんですか。未成年だけど、やばくないっすか。え、え、やばくないっすか。やばいって。え、淋代さんと結婚とかするんですか。そういう感じですか。えっ、えー、やばいって」
俺の声だけが教室に響く。自分の声なのに自分の声ではないみたいに、俺の耳を刺す。
ふへへへへ。ふへへへへ。とにかくだらしない笑みだけはたやしてはならなかった。でももう続ける言葉もなくなって、俺の閉口と共に教室は重い沈黙に包まれる。
みんな俺を宇宙人でも見るような目で見ている。確認しなくても分かっていた。死にたいって、久しぶりに、強く、思う。
「君たちは、さして慮ることなく他人に個人的なことを聞きますけれど」
そんな中で、沈黙を破ったのは、日月のひんやりとした声だった。
「なぜ、自分が手にしているもの、見えているものが、当然、相手も手にしていて、見ているのだと思うのですか。その想像力のなさは、生きてて楽しいってことの代償か?」
いつもと同じ淡々とした口調だった。語気も強くない。だけど、どこか怒っているようにも聞こえた。俺には、話を逸らすことで淋代さんをかばっているようにも思えた。
まだ教室はしんとしている。みんなの視線が俺から日月に移ったのを感じて、俺は少し安堵する。
日月は教卓の上で指を組み、そこに目線を落としたまま、さらに続ける。
「なぜ、誰かに簡単に話すことができる父親、母親、兄弟、姉妹、祖父母、子供、そういう存在が全ての人間に揃っていて、恋愛感情というものが全ての人間にあって、今回の場合はそうだな、全ての人間が異性を好きになるということを前提にして、話をすすめようとするんですか。君たちは、同性婚も認められていないような国で、結婚しているのかどうか、相手の性的指向に考えを及ばせる前に、簡単に聞いてしまえるし聞いてもいいと思える。性交を嫌う人間はいないものとして、童貞を捨てた方がいいとオープンな場で冗談みたいに言えてしまえる。そういうのはね、はっきりいって、よくない甘えです。子供だろうが大人だろうが、そんなことは関係ない。相手が自分と同じ価値観を共有していて、自分と信じているものも同じだとして、乱暴なコミュニケーションを図ろうとする。そういう人間とまともに会話をしてくれるのは、そういう人間か、そういう人間を可哀想だなと見下して甘やかすことができる立派な人間だけですよ」
日月が、一、二、と静かに瞬きをした。それから、視線をあげて、矢野の席、俺たちの方を見た。
でも、俺は日月とは目が合っていないような気がした。空洞を観察するような日月の目が、ほんのわずかに揺れる。
「家族は、僕が大学を卒業してすぐに離散しました。離散って分かりますか。散り散りになって、終わったということです。そういうこともね、ある人にはあるんですよ。生まれた時から、家族がいない人だっている。人にとって家族というものの捉え方はばらばらだし、必要な人も必要ではない人もそれが足かせになっている人だっている。もちろん、家族関係に幸せを感じている人もいるでしょう。恋人は、いません。いたこともないし、これからもできないと思いますよ。性交の経験もないです。結婚するつもりも一切ありません。おおかた聞かれた質問には答えましたけど、これで満足ですか」
日月が口を閉ざす。教室には、最悪な空気が流れていた。
どうしよう。どうすればいいんだ。なんなんだよ。
俺は崖っぷちまで追い込まれているような気持ちになりながら、ただ椅子に座っていた。
誰も何も話さない中で、口火を切ったのは草間だった。
「針生」
草間が俺の名前を呟く。草間の方に顔を向けると、草間は笑うのを必死にこらえている時の顔をしていた。それは、俺が今までもよく見てきた顔だった。
「謝れよ」
「……なんで」
「淋代を巻き込むとか、お前、ありえねーって。冗談になってねえもん。せんせーも、怒ってんじゃん。生徒ではじめてなんじゃね? 日月せんせーまじで怒らしたのとか、謝んないと」
草間の言葉で、今この状況を作り出しているのも悪いのも全部俺だという感じになる。違うじゃん、と思う。だけど、草間に俺は言い返すことなんてできない。
「謝ったほうがいいよ」
草間が、くいっと顎で日月を示して、俺をたしなめるような口調でもう一度言う。俺はそれまで色んなことを考えていたはずなのに、もう何を考えても意味なんてないのだと思って、のっそりと立ち上がる。
「すみませんでした」
日月に謝った。
「淋代にも謝んないと」
草間が言うから、「すみませんでした」、淋代さんにも謝った。
淋代さんは、俺の方なんてもう一切見ていなくて、窓の方に顔を向けていた。
二人に謝り終えて、もう一度椅子に座ったタイミングで、すぐそばから、ぷ、と吹きだす音が聞こえる。九十九だった。肩を痛いくらいの力で抱かれる。俺は俺が本当に骨折でもしたらいいのにと思う。
「まじでさ、いちいち針生ってずれてるんだよな。なんで与ちゃんが出てくるんだよ。空気とか行間とかはちゃんと読まないと」
教室に、少しの騒がしさがじわじわと戻り始める。
俺は、死にたい。俺の肩を抱いたままの九十九が、俺の耳元に顔を近づけてくる。耳から、死んでしまいたいと思った。
「そんな目立ちたいならさ、いつものあれやっちゃっていいよ。一発ギャグ」
一発ギャグ。一発、ギャグ。それは、やっていいじゃなくて、やれってことじゃん。ただの命令じゃん。
「やった、ラッキー」
俺は作り笑顔を必死に浮かべながらわけの分からないことを吐いて、再び立ち上がる。それから、教壇のところまで歩いて行って、「おわびに一発ギャグやらしてください」ってさっきと同じくらい大きな声でみんなに言う。
誰とも目を合わせないまま、いつもと同じつまらない一発ギャグを高速でやって、黙る。そうしたらまた、教室には沈黙が戻ってきた。すべるのは、もう慣れてる。だけど、今回は、いつもよりもクラスメイトの俺を軽蔑する視線がぐさぐさと刺さった。
俺は、縋るように、日月に視線を向けてしまう。
日月はただ真っ直ぐに俺を見ていた。何を考えているのかは全く分からなかった。だけど、俺だけをじーっと見ていた。
次に淋代さんの方をうかがうと、彼女は俺なんてここにはいないみたいに窓の外を眺めていた。
にわかに、俺の中で爆発が起こる。
淋代さんは。というか、みんな。日月だって。みんな、みんな。どうせ、馬鹿にしてるんだろ。生きる価値もない。哀れだって。情けないって。本当にろくでもない人間だって。弱いって。でも俺がそうであるのは俺のせいか? 全部、俺のせい?
爆発で生じた火の粉は、あらゆる感情に一瞬にして燃え移る。そして、瞬く間に、全てが怒りになった。
どいつもこいつも馬鹿にしやがって。死ね。どうして俺だけがいつもいつも自分の思い通りに何も上手くいかない。どうして、俺だけがいつも辱めを受ける。俺だけが軽蔑される。ただひとりになりたくないだけなのに、どうしてもいつも負傷してばかりいる。
日月も、淋代さんも、引きずりおろすことだってできなかった。でも、いい。
だったら、直接、刺してやる。
今の俺にはもう、それしかないように思えた。



