多い勝ちで、草間と九十九と矢野がチョキ、俺がグーを出したから、四人分のパンを一人で購買まで買いに行くことになった。
みんなひとの奢りだと決まると、購買パンの中でも三百円以上するような値段の張るものをリクエストするから、俺の財布から千円札二枚が一気に消える。
金欠なのにな、と切ない気持ちになりながらも、痛いよりも惨めよりも切ないのはまだましだから、俺は三人のリクエストを忠実に守って、へらへらした顔のまま三人にパンを渡す。自分の分は、一番安いシュガートーストにした。
それぞれパンを頬張りながら、くだらない話で盛り上がる。
今日は、九十九が他校生の彼女と別れそう、というのがメイントピックだった。
九十九は、俺が買ったパンをたいして味わうことなく食べ終えた後、「放課後、毎日会うとか、学校違ったら普通に無理じゃね? それができないなら別れるとか、正気じゃねーだろ」、やー、でも別れたくねーんだよなー、と嘆き、それに草間と矢野がげらげらと笑う。
俺はこういう時、笑うべきか笑わないでいるべきか分からなくて、とにかく他のやつらの真似をする。でも、コピーっていうのは、本物とは違うから、実際のところ、うまくいかないことの方が多い。
嘆き続ける九十九に、ふへへへ、と俺が笑い続けていると、それまで情けない顔をしていた九十九が、まわりに草間と矢野もいる中で、急に俺のほうだけをじっと睨んで、「何笑ってんだよ」と鋭い声で言った。
あ、俺、失敗した。
すぐにそう分かったけれど、あからさまにまずいって顔をすると、失敗に失敗を重ねることになるから、だらしなく笑った顔のままで、ごめんごめん、と謝った。
「えー、やだ、傷ついたし」
すぐにいつもの九十九の声の感じに戻ったものの、目だけが全然笑っていないから怖くなって、ごめんって、ともう一度謝罪する。
だけど、九十九は、パンが入っていたビニール袋をぐしゃぐしゃと丸めながら、首を横に振って、それを俺の方に投げつけてから、それはそれは愉快そうに口を開いた。
「ごめんって思うなら、針生、俺のために何か面白い事してよ。教壇のとこで一発ギャグとか」
あ、それが狙いだったのか。
こういうノリは、別にはじめてってわけじゃない。仲間内ならよくあることだ。きっとそのはずだ。日本中のどこの高校でだってある。絶対にそう。するとしないだったら、しない方が嫌な結末を迎えると思う。
だから、俺は、あーもう仕方ねーなと笑って、渋ることなく素直に教壇のところまで行く。
それからの数分間だけ、心を殺す。もう慣れてはいた。クラスメイトがちらばって昼食をとっている中で、黒板の前に立って、「一発ギャグやりまーす」と大きな声で言う。その瞬間に、みんなの冷めた視線が一斉に俺へ向く。
その中には淋代さんのものもあった。俺は淋代さんに視線を固定したまま、もう擦り切れるほどやって一度だってウケたことがない一発ギャグをやる。
俺の閉口とともに、教室は、一、二、三秒、しーんと静まり返り、四秒目で、九十九が吹きだして笑った。
「相変わらずつまんねーんだよ」
九十九の満足げな声を耳にいれながら、俺はまだ淋代さんを見ている。
淋代さんはにこりともせず、うんざりするものを見させられたとでも言うような冷淡な表情を俺に向けていたけれど、瞬きをした後、あっさりと俺から目を逸らした。その瞬間に、俺の心は生き返って、腹の底でふつふつと怒りが湧いて出る。
お前だって日月とこそこそ気持ち悪い事してるくせに。お前だけは俺に正しい顔して白い目を向ける資格なんてねーだろ。
「はよこっち戻って来いって、針生」
「やばい、今また新しいギャグひらめきそうになってた」
「あほだろ、どんな根性してんのまじで針生最高」
八つ当たりだって分かっている。
だけど、隠れていけないことをしているのは淋代さんの方だから、自分の八つ当たりは、正当なものだって俺は思う。
◇
この日の数学の時間も、淋代さんは日月のことをじっと見ていた。
日月のどこがいいのか。リスクを冒してまでなぜ日月なのか。俺には全く理解できないし理解したくもなかった。
ただ、日月に視線を注ぐ淋代さんを見ながら、お前だけは俺の一発ギャグに嘘でも何でもいいから笑えよ、と昼のことを蒸し返して、俺はひとりでまた少し腹を立てていた。
放課後は、近くの駅の駐車場でスケボをやるからといって草間と九十九と矢野は三人で帰って行った。
そういう楽しいだけの健全な遊びに自分は誘われたことがない。嫌な遊びでしか、三人は俺を誘ってくれない。仕方ないと半分諦めてはいるけれど、どうしたら今の状況から脱却できるのかは永遠と考えてしまう。
帰りのホームルームが終わって数十分後には、教室に人があまりいなくなる。クラスメイトが前方の扉から退出していくのを、自分の席でぼんやりと眺めていた。
放課後のひとりぼっちはまだ平気だ。むしろ安心すらする。でも、退屈の凌ぎ方が、俺はいまいちわからない。暇だと嫌なことや痛いことばかり思い出す。
今日はどう過ごせばいいのか。退屈しのぎの候補を捻りだそうとしていたところで、ちょうど淋代さんが教室を出ていこうとしていて、それを見た俺は、思いつくよりも先に立ち上がっていた。
机の横に引っかけていたリュックをむしるように手に取って、歩き出す。
今日は淋代さんを尾行しよう。
熟考する理由もなかった。他の候補もないから、その案は、俺の中で一発で採用される。淋代さんが教室を出て行った数秒後に、俺も静かに教室を後にした。
これでも、誰かを尾行しようと思ったのは人生で初めてのことだった。
相手が悪い事をしている人間なのだから、尾行くらいはしてもどうってことない気がした。小さな罪は大きな罪の前ではないに等しい。俺の世の中は、俺の意思とは関係なく、そういう風に動いている。罪は罪だろって、なぜ俺だけが言わないといけない?
高校を出た後も、一定の距離をあけて淋代さんの背中を追う。
淋代さんは、相変わらず姿勢が良い。でも今は、俺の中にある彼女に対する感心は、よくそんなに背筋を伸ばしていられるよなという嘲笑を大いに含むものだった。
淋代さんは、高校の最寄りの駅に入り、手際よく改札を通過した。俺は電車通学ではないから、ICカードをリュックから出すのに手間取ってしまったけれど、なんとか淋代さんの姿を見失ってしまう前に改札の中に入ることができた。
淋代さんは、電車を待っている間もスマホを触ることなく、線路の向こう側をぼんやりと眺めていた。それを、俺は、はなれたところから観察していた。
五分ほど待つと電車が到着して、淋代さんが乗ったから、俺も隣の車両に乗り込んだ。淋代さんは、電車に揺られている時もつり革につかまって、ぼんやりと遠くを眺めていた。
何処まで行くつもりなんだろう。自分のICカードの残高を俺は少し気にしていたけれど、彼女は一駅であっさりと電車から降りて出口まで歩いて行った。
駅を出て、駅前に立ち並ぶ飲食店の前の通り過ぎて、少し進んだところにある小さな公園。淋代さんはその中に入っていき、遊具のそばのベンチに腰掛けた。俺は、公園のそばにあった自販機の陰に入り、淋代さんの様子をうかがった。
しばらくすると、淋代さんが入ったのとは別の入口から誰かが公園に入って来た。
「(……日月だ)」
一駅分はなれているからといって、このあたりの街からうちの高校に通っているやつらだっているだろう。ここは誰に見られているかも誰が来るかも分からない、開放的な場所だ。
それにも関わらず日月は、何の変装もせず萎れたスーツ姿のまま、制服を着た淋代さんの方へすたすたと歩いて行って、彼女の隣に腰かけた。
二人が顔を見合わせて、何か話し始める。少し距離があったから何を話しているかは全く聞こえなかったけれど、大して盛り上がっている様子もなかった。姿勢の良い淋代さんの隣に並んでるのを見て、俺ははじめて日月が猫背であることに気がつく。
淋代さんが何か言って、日月が浅く頷いた。それから淋代さんが、きょろきょろとあたりを見渡し始めたから、俺はあわてて自販機の陰に顔をひっこめて、数秒後にまたそっと公園の中をうかがう。
すると、ちょうど、淋代さんが日月に顔を近づけているところだった。
日月は、淋代さんをじっと見下ろしている。ポーカーフェイスを気取っているくせに、内心では未成年の女子に対して興奮してるのかと思うと、吐き気がした。
日月に対する嫌悪感が俺の中で渦巻いて、ごくんと唾を呑みこむ。その音が体内でいやに響いた。
何でこういうやつらはのうのうと生きていられて、俺の毎日だけはいつも汚いんだろう。
こいつらは何も悪い事なんてしてないって顔で今日も平和に高校で過ごせているのに、俺だけが購買で高いパンを買わされて、みんなの前でウケないと分かっている一発ギャグをやらされたんだろう。
淋代さんと日月が重なる。俺の目には、また、はっきりとそううつる。二度目だった。
今日の昼に、白い目で俺を見ていた淋代さんの顔が頭に浮かぶ。
高揚感と苛立ちと嫌悪感とどろどろとした加害心。それらがぐちゃぐちゃになって、マグマのように勢いよくせり上がっていく。
気がつけば、俺は、スマホで二人を撮影していた。
拡大して、日月と淋代さんの顔まではっきりとうつす。
下品な告白をした男の様子を撮影していた草間と、自分の像がぴったりと重なる。あいつはこういう気持ちだったのか、と少し分かって、なぜか少しだけ安心する。
数秒後、淋代さんが、俺のスマホの画面の中で日月から顔を遠ざける。それから二人は一言二言、言葉を交わして、日月だけ立ち上がった。そこで俺は動画を止めて、しっかりと録画されているかだけ確かめてから、スマホを制服のポケットにしまった。
座ったままの淋代さんを置いて、日月が去っていく。その様子をじっとうかがっていると、ふいに日月がこちらに顔を向けたような気がした。
俺はあわてて自販機の陰に隠れる。
再び顔を出した時にはもう、日月は公園の外に出ており、駅の方へ向かっていた。
淋代さんは、まだベンチに腰掛けたままで、曇った空を仰ぎ見ている。日月とのキスの余韻にでも浸っているのだろうか。
気持ち悪い。淋代さんも、日月も。気持ちわりーんだよまじで。破滅しろよ。心の中で思いきり詰る。
こんなところでキスをしているくらいなのだから、どうせ最後までしているのだろう。やる気も一切ない教師のくせに、生徒に手を出して。品行方正を装っているくせに、教師に手を出されて。
淋代さんを、遠くから、睨みつける。俺は今、確かな嫌悪感を抱いている。
でもそれがすべてではなかった。
恥ずべきことなのだろうけど自分でおさえられるものでもないから、仕方がなかった。
顔を下に向けて、自分の股間部分を確かめる。見なくても分かっていたけれど、あえて確認すると、制服のズボンが不自然に盛り上がっていた。勃起だ。
二人の動画を撮影していた時から徐々に芯を持ち始めて、今、自分の性器が完全にかたくなっているのをはっきりと感じていた。
それがなぜかは分かっていた。
はじめて、自分以外の人間を掌握できるという予感。はじめて、自分が弱みを握る側に立っているという実感。そういうものに、今、安心する以上に興奮してしまっているからだ。



