草間は、血肉を切り刻むような怖い音を立てて笑う。実際に聞いたことはないけれど、これは血肉を切り刻む音と同じだと分かる。
スマホを横にして両手で持って、「やっぱり、これが最近で一番おもしれーんだよなあ」と、画面上で流れている動画の音声ボリュームをあげた草間。後ろからその動画を覗き込むように見ている、九十九と矢野と俺。
画面の中では、恋愛なんかよりも他に夢中になっていることがありそうな冴えない後輩の女の子と、背が低くて貧弱そうな体躯の男がいる。
好きです、僕と付き合ってください、てゆーか、僕とセックスしてください! 棒切れのような身体を震わせて、男が後輩の子に向かって叫ぶ。中庭の隅にいるところを、近くの二階の窓から撮っている画角だ。
こいつは何で言えって言った通り言っちゃうかなーやばすぎだろ、と動画の撮影者である草間の声が入り込む。卑猥な告白をされた彼女は恐怖心からか青ざめて、きょろきょろとあたりを見渡し、もうとても耐えきれないという顔を作った後、勢いよく頭を下げてその場を去っていった。
ぎゃはぎゃははと、草間とあと数名の男の笑い声が入り込んで、振られた男の顔がズームでうつされる。男は後輩の子の後ろ姿を見つめている。じーっと。何を考えているかはその男にしか分からない。男が二階の窓を見上げようとする。動画は、そこで終わる。
これで見るのは、十一回目だった。
動画を停止した草間は、後ろにいる俺たちを見て、「でも、このクソださ女も告られることなんて、もうなさそうだし、相手が誰であっても、いい思い出にはなったんじゃん?」と歌うように聞ていくる。
セックスしてください、セックスしてください、俺の頭の中にはその声と、そう言われて青ざめた女の子の顔ばかりが浮かんでいて、きりきりと胃が痛んだ。だけど、九十九と矢野は、草間の問いかけに対して当然のように頷いて、「それはそうなんだよな」「てかまじでこの動画は永久保存版だわ。この子にもあげるべき」と言い合うから、俺は、ふへへへ、と笑う。
草間は動画の最後のあたりの、振られた後の情けない男の顔を拡大させて、もう一度、俺たちに見せてくる。俺はそいつをじっと見ながら、ふへへへとまた笑って、「もういいんじゃね」とやんわり拒否の言葉を口にして目を逸らす。
九十九が、「いやまだまだこれは飽きないっしょ」と俺の肩に手を回していう。
九十九は力が強くて所作の一つ一つが荒い。俺は九十九が物理的な接触をしてくるたびに、身体を強張らせてしまうけれど、やめろよなんてとても言えないから、ふへへへと笑って耐える。
もう一回だけみよーぜ、と矢野が言って、草間は再び動画を再生しようとした。だけどそこでちょうど休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。
それが助け船となった。俺は、自分の席にそそくさと戻る。
次の授業は、数学だった。チャイムが鳴り終わるよりも先に、俺らのクラスの副担任でもあり数学教師でもある日月が教室に入ってくる。
その瞬間に、俺の意識は、動画の中で卑猥な告白をして振られていた罪深き男から、日月にスライドされる。
日月は、教卓の前に立つや否や、まだスマホをしまわず操作していた草間に向かって、「それ禁止されていますよね、しまえませんか」と覇気のない声で注意した。他の教師だったら没収くらいするはずだが、日月はしない。それを草間も分かっているから、スマホから目をはなさずに、「さーせん」と棒読みの舐めた謝罪を口にして、数秒経ってからようやくスマホを机の引き出しにしまった。
チャイムが鳴り終わると、日月は、教室に入って来た時と同じ、空洞を観察するような乏しい表情のまま教材を開いて、「今日は、教科書の54ページ、微分積分の続きからです」と淡々と言う。
俺は、日月の薄い唇が動くのを凝視する。
誰も知らないだろう。当事者を除いては。でも、俺は知っている。こいつの唇が、何に触れたのか、触れられたのか。きっと、俺だけが知っている。
日月は、俺が通っている高校では珍しく、二十代半ばの若い男の教師だった。
清潔感もあって、高身長で顔も悪くない。それにも関わらず、生徒からの人気は全くといっていいほどない。ひどく嫌われているわけではない。でも好かれてもいない。いてもいなくても同じ。そういう残念なタイプだった。
ただ淡々と授業を行い、副担任としての仕事をこなしているだけ。生気も情熱もないような、学園ドラマからは一発退場を食らうような、冷めた教師。
俺だけではなく、きっとほとんどの生徒が日月をそう評価しているはずだ。自ら生徒と関わろうとしているところは見たことがなかったし、教師としての自分に誇りもなさそうな日月は、俺にとって、社会に出たら何らかの職に就くしかないから、仕方なく教師になるしかなかったんだろうなと思ってしまうような大人だった。
だけど、先日、日月の評価はそれだけではなくなった。
今の俺は、日月に対して、軽蔑の眼差しだって堂々と向けることができる。その資格が、自分には十分ある、と思う。
黒板にグラフを書き始めた日月の背中を、シャーペンを握る手に力を入れながら睨む。それから、視線をずらして、一番前の窓際の席にいる、クラスメイトの淋代さんに向けた。
淋代与さん。
ぴんと伸びた背筋に、後ろでひとつに結わえられた艶やかな黒髪。美しい横顔に、以前はよくこっそりと見惚れていた。清廉潔白、品行方正、秀才、優等生、そういう上等な言葉だけを身体に詰め込んで生きているような人だった。はずなのに。
今、彼女の視線は、一心に日月に注がれている。どうしたって、俺にはそう見える。
彼女は、教室の中で、いや学年の中でも、いわゆる「高嶺の花」と呼ばれる存在だった。セックスしてください、なんて酷い言葉を投げる相手には到底選ばれない、男の方もそういう告白をしてもいいとは考えもしない女子生徒。
でも、今の俺は、知っている。
淋代さんの醜い秘密を。露呈したら、高嶺の花が一瞬で枯れてしまうような悪事を。日月の軽蔑されて非難されるべき愚行を。
黒板にグラフと問いを書き終えた日月が振り返った。
日月は冷めた顔で教室のはしからはしまでゆっくりと見渡す。何の感情の色ものせられていないような日月の視線は、淋代さんで止まった。視線の終点。
二人が一秒にも満たない間、低温でじっと見つめ合うのを、俺は見逃さなかった。
お前ら危機感が足りてねーんだよ、と思う。草間の撮った動画を眺めた休み時間に強く感じた胃の痛みは、他人の秘密を掴んでいるという高揚感によって少しマシになってきた。
おそらく。いや、間違いないだろう。
「十分ほど時間をとりますので、解けるところまで解いてください。その後、解説しますから」
――日月は、淋代さんに手を出している。
◇
俺が、”それ”を見たのは、中間考査の最終日の放課後、忘れ物を取りに戻った日だった。ちょうど一週間前のことだ。
テストが終わってから一度は家に帰ったものの、スマホの充電器を置いてきてしまったことに気がついて、コンビニに行くついでに家を出て、途中で学校に寄ることにした。
テストが終わった解放感からか、学校に残っている生徒はほとんどいなくて、校舎の中はしんとしていた。自分の歩く音が廊下に響くのが不快で、俺は床にスリッパの底を滑らせて、なるべく音を立てないようにして歩いた。
教室には誰もいないものだと思っていたけれど、学年廊下を進んでいくと人の話し声が聞こえてきた。
後ろの扉の窓から教室の中をそっとうかがうと、教卓のところに男の姿があった。日月だった。そのことに、俺はまず軽く目を見張った。
日月の前には、教卓をはさんで女子生徒が座っていた。ちょうど俺に背を向けるようにして座っていたから生徒の顔は見えなかったけれど、姿勢の良さ、綺麗な髪から、淋代さんじゃないか、と見当がついて、日月に対して控えめに笑ったその声で、淋代さんだ、とはっきりと分かった。
日月が特定の生徒と話し込んでいるところなんて今までに一度も見たことがなかったし、そもそも放課後の教室に来るような教師ではなかったから、俺はなんだかまやかされているような気分になっていた。
それでも、この時点では、二人のことなんて気にせずに、忘れ物を取りに教室へ入るべきか入らないべきか迷う余裕はまだあったのだ。
だけど、入ろうと意を決して扉に手をかけた矢先のことだった。
淋代さんが、す、と日月に手を伸ばす。俺は、彼女の動作に釘付けになってしまって、自分の中にあった余裕は瞬く間に消え去った。
彼女は、日月に触れるか触れないかのところで手を止めた。日月は微動だにせず、淋代さんをじっと見ていた。空洞を観察するようなそういう寂しい顔つきの日月だったけれど、いつも俺たちに向けているものよりは、幾分かましに思えた。
音を立てずに淋代さんが椅子を引いて、お尻を浮かせる。小さな花がひそりと開くときのように、淋代さんのスカートがほんの少しだけかたちを変える。淋代さんは机に手をついて前のめりになって、日月に顔を近づける。
俺は、瞬きも呼吸の仕方も忘れて、それを見ていることしかできなかった。
二人の影が重なる。その時の俺の目にはそううつっていた。
数秒後、淋代さんは日月からゆっくりと顔をはなして、また椅子に座り直した。
時としては数秒のことだったのに、永遠にも一瞬にも感じられた。自分の胸骨のあたりが妙にくすぐったくて、心臓の音がいやにうるさかった。結局、俺は教室には入らずに、忘れ物をそのままにして踵を返した。
校舎を出たところでようやく脈は落ち着きはじめたけれど、誰もいない教室でなされていた日月と淋代さんの秘密のやり取りは、生々しい映像としてくっきりと頭に残ったままだった。
それは、一週間が経ってもなお、俺の中に焼き付いてはなれない。当然だ。気持ちが悪い。
教師と生徒がそういう関係になって、教師側が処分を受けたり、生徒側が転校したというニュースや噂は、今までにも何度か、耳にしたりテレビで目にしたりしたことはあった。だけど、それはどこまでも他人事で、まさか自分がその現場をおさえることになるなんて思いもしなかった。
生きがいもなさそうなまま萎れた毎日を送っている数学教師と、欠点なんてどこにもない孤高の華のような女子生徒。
まさかこいつと彼女が、と二人のことを知っている全員が思うだろう。二人にあえて共通点を見出すとすれば、飄々としたところだけだ。淋代さんの場合はいい意味で、日月の場合は悪い意味で。でも、もうどちらも悪い意味に変わってしまった。
放課後の教室での光景を目にしてから、想像は何度もした。
俺が、日月との関係を知っていると伝えたら、淋代さんはどういう風に表情を歪ませて取り乱すのだろうか。
完璧だった彼女の像は俺の中では瓦解していて、そのことに対して、淋代さんと日月に憤る気持ちもわずかにあった。ひっそりと見惚れて癒された時間を返してほしい。
日月に対しては、期待もしていなかったくせに大いに失望した。教師としての矜持も感じられない。生気もないくせに、生徒に手を出す、気持ちの悪い大人。
今、俺は、淋代さんと日月、ふたりの弱みを握っている。
誰かを脅すというのはどういう気持ちになるのだろうか。追い詰めて、服従させる。自分の思い通りに人を動かす。それで王様のように高々と笑う。相手との関係の主導権を握る。堂々と正論を並べたり、うまい言葉を組み立てたりして、相手を責めて、窮地に陥らせる。
俺は、そういう側に立ったことが生まれてから一度もない。
でも、その側に立つことができたら、自分がつるんでいる草間たちの気持ちも、もしかしたら理解できるのかもしれないと思った。
誰かを思い通りに動かして、玩具みたいに扱う。そういうことは楽しいことだから簡単にやっちゃっても仕方ない。やるかやられるかは大した問題ではなくて、神か何かの采配で、たまたま立場が分かれるだけ。そういう風に考えて心からの納得をする。
そしたらきっと俺は、今よりもましな気持ちで息ができる。



