窓に結露ができている。今日も外は寒いらしい。
電車が通り過ぎる音がした。
近くの幼稚園から子供たちの元気な声が聞こえる。
今日も昨日と変わらない日常が始まる。
そしてこれからもなんの変哲もない平坦な日常が続く、はずだった。
アラームに起こされて、重たい瞼をもちあげた。
カーテンの隙間から滑り込む光が目にしみる。
温い布団から出られない。出なくちゃ。出なくては。
大きく深呼吸をして一気に起き上がる。外の寒さが床を這う。
なるべく冷たい床に触れぬようにとつま先立ちで洗面所に行き、
ボサボサの髪と無精ひげを整える。
顔に冷水を浴びせると頭が目覚め始めた。
鏡の中に写る自分を見ていると老けたなと感じる。
夢、というより断片的な思い出を見たからだ。登場人物は私ともう一人、よーくんだった。
よーくんの家はキレイだった。
初めてよーくんちに入った時のドキドキを今でも覚えている。
同じ団地の同じ階に住んでいるよーくんは
私が小学生になると同時に団地に引っ越してきた。
私の苗字は渡辺で、よーくんが山田で、
席が前後だったし同じ団地だとわかって仲良くなるまでそんなに時間はかからなかった。
よーくんちのお父さんは商社の営業をしていて、
お母さんも私の家とは違って家具のデザイナーとして働いていた。
学校が終わると一人で家にいることが多かったよーくんを想ってか
彼の両親はよーくんの欲しがるものを買い与えていた。
私の持っていないおもちゃもゲームもよーくんは持っていた。
羨ましくも憧れてもいた。
だからよーくんにおうちで遊ぼうと誘われたときは嬉しかった。
母親の仕事柄もあってか玄関の置物やソファー、
カーテン一つとっても洗練されていて、
部屋に満ちる匂いも五感で感じる全てが別物だった。
うちと間取りが同じだったから異世界、とまでは言わないが、
でも全く別の場所に来たようで私は高揚していた。
中学を卒業してからよーくんとは会っていない。
大学生時代は新潟に盆と正月は帰っていたが
社会人になってからと言うもの年に一度帰れれば良い方だった。
自然と地元の友人たちとも会う機会は少なくなり、今では疎遠状態となっている。
年末年始は仕事も休みではあったが、ただ新潟まで行くのが億劫だったからだ。
移動が面倒、というのもあるが何より交通費が馬鹿にならない。
週五日医療機器メーカーの営業として働いて、
土日は寝て過ごして、生活費を払って、生かさず殺さずの日々。
客に、上司に怒鳴られ、愚痴られて。
身じろぎすれば名前も知らないオヤジに睨まれる満員電車。
そんな毎日のストレスを時々友人と飲みに行って発散する。
こんな生活をいつまで続けなければいけないのか。
単調で退屈な生活の中で、
だからこそ、そんな日常に少しでも刺激が欲しくてつい魔がさしてしまったのだと思う。
私の部屋は六〇七号室、隣の六〇八号室には同じ年くらいの女性が住んでいる。
私が社会人一年目の時に彼女は引っ越してきた。
彼女もどこかの企業に勤めているようでスーツ姿でいる彼女を時々見かけた。
特に交流はなく言葉のない挨拶を交わす程度。
ある日、彼女が両手にゴミを抱えてエレベーターの前に立っていた。
狭いエレベーター内に私と彼女の二人だけ。
当時女性と話す機会があまりなかった私は何か彼女とご縁ができればなと、
もしこれを機に彼女とご飯なんか行って、付き合ったりしたら、
隣人と恋人なんて何か萌えるものがあるなと、下心が満載だった。
だがそんなこと彼女にばれたら確実に軽蔑されるだろう。
だから『まぁ毎日顔を合わせる隣人のよしみ』みたいな顔で
エレベーターのボタンを押してやり、ごみ置き場の扉をあけてやった。
彼女は「ありがとうございます」とはにかんだ。
彼女の声も笑顔も初めて見た。笑ったときに目じりにしわができた。
私の目は彼女の右目の横にあるホクロに吸い込まれ、その瞬間、完全に射抜かれた。
次は彼女と話したいな、と朝扉を開けるたびに思い、
彼女が部屋から出てくるのを期待していた。
だがそんな期待もすぐに打ち砕かれた。
彼女には男がいた。私よりも背が高く、スーツのよく似合う男だ。
冬になってから彼女たちは同棲を始めたらしく、その頃から男がよく出入りしていた。
私が住むこのマンションは築浅で鉄筋造りなので
隣との騒音トラブルがないのが良い点だった。
だがここに来て、それが裏目になるとは思わなかった。
どれだけ耳を澄ましても彼女の甘い声は聞こえず、
枕元に置いたティッシュが暖房の風に虚しく揺られ、代わりに上の階の物音が耳に響いた。
壁は厚いとはいえ、音がしないわけではない。思いっきり壁を殴れば隣にも響く。
ゴー、ドン、ドン、ドン。上に何が起こっているのかわからないが、
決まって夜中になると聞こえてくる。なにかものを移動させているような音にも聞こえ、
引っ越しの準備でもしているのかと思っていた。
だが音は数日続いた。騒音に眠りを妨げられ、明け方ごろに睡魔がやってくる。
満員電車では足を踏んだオヤジに舌打ちされる。
お得意先には機器の価格が高いと愚痴交じりに詰め寄られ、
上司には未達を責められる。隣には相変わらず男が出入りしている。
また天井から音がする。ゴー、ドン、ドン、ドン。
カーテンの隙間から薄い光が忍び寄るころに、瞼が重くなってくる。
開かない。もう開きたくない。頭もいたい。
熱だ。これは絶対熱だ。休む。今日は絶対休む。
いつの間にか静まり返った天井に向け、念じていると携帯が鳴った。上司からの電話だった。
こんな朝早くからなんだ、常識はないのか、死ね、と心でつぶやいた。
画面で光る上司の名前をにらみつける。
鳴りやまない携帯を壁に放り投げようとして、カレンダーが目に入る。今日の日付。
ぼーっとする頭で電話を取る。「今日の準備はできてるよな」と第一声。
今日の昼からお得先との大事な商談があることを思い出した。今日は休めない。休みたい。休めないよな。
「はい、大丈夫です。」
しわがれた声で答えた。
今日は眠れていなかった。
相手が不機嫌だった。
上司が余計なことを言った。
だから仕方ない。私のせいじゃない。商談が上手くいかなかったのは私のせいじゃない。
運が悪かったんだ。本当にそれだけか。いや私の準備が足りなかった。なんで私は。
マンションの扉の前で私は項垂れていた。
電車の通る音、迎えを待つ子供の声、車のクラクション、街の喧騒が暗闇から響く。
外界の音がぼやけて聞こえた。
廊下には誰もいない。
扉に手をかけようとしてやめた。帰って何をするわけでもない。
眠ってもまた退屈な明日が待っているだけ。外界の音を追って廊下の外、暗闇を覗き込む。
高い。落ちたらきっと無事ではいられないだろう。最悪死ぬ。死ぬ。死ぬ。高い。死ぬ。
一瞬、地面に叩きつけられる瞬間を、弾ける自身の脳しょうを想像して、ぞっとした。
唾を飲み込み、暗闇から顔をあげ退く。また音が遠ざかっていく。
振り返ると短い廊下に扉が八つ。その一つ一つに人がいて、生活をしている。
みんなどうして生きているのだろう。
隣の家の扉を見る。隣人の顔が思い浮かんだ。
くっきりとした二重。
柔らかそうな唇。
艶やかな黒髪。
パンツスーツの上からでもわかる丸い尻。尻。尻。
私の中でふつふつと湧き上がる欲望がつま先をそちらに向けた。
ちょっと覗くだけだ。犯罪だ。でも知りたくないか、あのスーツの下を。
もし彼女がいたらどうする。何ていう。顔は知られてるんだぞ。いいじゃないか。
どうしてそんなことしたのか。そう問われれば『魔が差した』と答えるほかない。
鍵はかかっていなかった。誰かいるのか。扉に耳を当てて、中の音を聞く。
物音一つない。
緊張を帯びた喜びが私を埋め尽くした。
扉が開くと暗闇の中から甘い女性らしいルームフレグランスの香りが鼻孔をくすぐった。ゆっくりと玄関に入ると電気がついた。
ぎょっとして息を殺した。
いや自動で電気がつくのか、と玄関横のスイッチを見て胸をなでおろす。
私の部屋と同じだ。
冷静さを取り戻し、明るくなった玄関を見るとパンプスやサンダル、スニーカー、女ものの靴が乱雑に放り出されていた。
清楚な見た目をして案外雑な性格なのか、いいな。
落胆よりも得も言われぬ興奮が沸き立った。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。
間取りはワンルーム、玄関を入って右側が独立洗面台付きの洗面所で、左側がトイレになっている。
私はまず洗面所の扉を開けた。
入って正面に洗面台、左に洗濯機、右に浴室。
玄関からの光を背中に浴びながら浴室を開ける。シャンプーとリンスーの残り香。
それを吸い込むと体の中の何かをぞわぞわと毛だたせた。
その何かに任せるまま、私は振り返り洗濯機に手をかけた。
鼻息が荒くなる。もしかしたらここに。
パンツスーツに張り付いたはち切れんばかりの尻が頭の中を支配し、洗濯機を開けさせた。
中は空だった。落ち込んだ心にまだチャンスはある、と言い聞かせ洗面所を出た。
また玄関の光がぱっと点いた。
玄関の正面、部屋に通じる扉にはガラスがはめ込まれていて、
今は真っ暗で、それがまた私の好奇心をそそった。
このブラックボックスの中には彼女の生活が入っている。
彼女は一体どんな部屋でどんなふうに過ごしているのだろうか。
他人の部屋を覗くという背徳感。知らない場所に足を踏み入れる興奮。
久しく忘れていた記憶がよみがえってくる。
扉が開くと匂いがより色濃く香る。玄関からの薄明りに部屋の全貌がうっすらと浮かんだ。
壁際に置かれたベッド、テレビに向かって中央に置かれたソファ、ハンガーラック、
そこにかけられた白いコートとスーツ、全てが私のものと違った。
同じ間取りですべてが違った。
まるで別世界に冒険に来たようなワクワクが私を支配した。そう魔が差した。
扉の横に鞄を置き、こざっぱりとしていた部屋を進み、私は迷わずベッドに向かった。
ベッドの上には男物の靴下や下着、ワイシャツが綺麗にたたんで置かれていた。
下着がここに置いてあるということは。私はベッドの下の収納を開ける。
ピンクや水色、紫に黒、白。
ツルツルと光る下着の群れが絡まり合うように押し詰められていた。
ムワっと音が聞こえてきそうだ。
紫色の下着を手に取る。すべすべしている。
股が当てはまる白い裏地が少しだけ黄ばんでいた。ドッドッ。耳の奥で心臓がなる。
私はその黄ばんだ裏地を思いっきり吸い込んだ。布と柔軟剤の匂いしかしない。
だがその匂いが全身を甘い痺れのように駆け巡った。
吸い込んだ息を天井に吐くと横目にカーテンの隙間から射し込む光がゆらゆらと揺れていた。立ち上がり、カーテンの隙間を覗いた。
外に洗濯物が干してあった。
ワイシャツに黒い靴下、白い肌着、なんだ全部男物じゃないか。
私は肩を落とした。振り返り、ベッドの枕に目を落とした。
いや、あの男が使ったかもしれないからな、と自身を諫める。
枕の上に置いてある時計を見るとすでに七時半。
そろそろ男が返ってくるかもしれない。
私は急いで、自身の鞄をひっとり部屋を後にした。
廊下に出るとエレベーターが止まる音がした。
私は自分の部屋まで走った。扉が開く音がした。
足音、息、自身が発するあらゆる音を殺して、
扉が開くころには何事もなかったかのように自身の部屋の前に立っていた。
扉を開けるふりをしてエレベーターを見やるとあの男が現れた。
助かった。
私は扉に手をかけようとして、止めた。
私の右手にすべすべとした布の感覚があったから。
慌てて懐に右手を隠す。男の方を横目で盗み見る。
男は隣の部屋に目をやり、それから私に小さく会釈をした。
にっこりと笑う彼に私も同じように笑った。引き攣っているのが自分でもわかる。
大丈夫。大丈夫。誰が部屋に侵入されたなど想像できるだろうか。大丈夫。
自分に言い聞かせて、ごく自然に、何事もなかったかのように、扉を開ける。
扉の隙間を縫うようにするりと部屋に入った。
鍵を閉め、廊下の音を聞く。かちゃりと扉に鍵を閉める音がした。
それ以降物音はしない。私は大きく息を落とし、玄関の壁に背中を預けた。
それから数週間、生きた心地がしなかった。
もしかしたら他の住人に見られていたのではないか。
あの男に気づかれたのではないか。
下着がなくなったことに女性が気づいたのではないか。
帰ったら警察が私の家の前にいるのではないか。
家にいても、仕事をしていてもそんな考えが永遠に脳内をめぐる。
ドン。ドン。相変わらず響く天井の音が敏感になった神経をさらに逆なでする。
文句を言いにいこうか、と思いはあったが
私は小心者なので、もし怖い人がでてきたらどうしようとか
波風たてることに抵抗があったので、
管理会社に連絡を入れるにとどまった。
時間が経つにつれて、バレていないのだと思い始め、
次第に心配は薄れていった。また上の階の音も管理会社に連絡を入れたからか
ぴたりと止んだ。
私を苛むものは何もなくなった。
すると押し込まれていた衝動が再び湧き上がってくる。
もっと見たい。次は別の人の家が見たい。
出来れば女がいい。
紫色のパンツはもうイカの匂いしかしない。
会社帰りに一つの習慣ができた。
駅を降り、自宅に向かう道、大通りから小道に入ると正面が私の住むマンションだ。
道沿いに真っすぐ行けばエントランスに入れるのだが、
私はあえてわき道にそれ、自販機の陰にマンションの正面玄関を見張るように隠れた。
簡単に言ってしまえば品定めだ。最初は同じ時間で行っていたが、
それでは人に偏りが出てしまうとわかった。
日ごとに微妙に時間をずらし、観察していく。
品定めをしてから、こんな人が住んでいたんだとか、
朝の駅のホームであの人同じマンションの人だ、いつもこの時間なんだとか
新たな発見ができて、私は嬉しかった。
幼い頃、森の中で友人と裏山を探検した時を思い出した。
木の上に昇って初めて気が付く。いつもの帰り道がどこに続いているのか、
下から見上げることしかできなかった雑居ビルの屋上がどうなっているのか、
自分の家が小さいこととか。
日々目にするものはその視点を変えるだけで
こんなにも新鮮なのか。
私の中に眠る童心が躍り出すのを感じた。
品定めを初めて二週間。私は独りの女性に目を付けた。
髪を金髪に染め、濃い化粧の女。年は二十代くらいで恐らく大学生だ。
月曜日と水曜日は一限があるのか決まって朝が早く、大きなリュックを背負って
マンションを出ていく。チアリーディング部に所属している。
以前、チームのジャージを着ているのを見た。
大学生で一人暮らし、しかも私の住むマンションはワンルームとはいえ、
駅から徒歩五分、新宿駅まで二駅の好立地だ。
当然、家賃も学生が簡単に払えるものではない。
恐らく実家が太いのだろう。
彼女は七階に住んでいる。彼女がマンションに入るのを見計らい、
彼女を追って乗ったエレベーターの行方を確認した。
あとは彼女が何号室に住んでいるかだ。
品定めが終了してから二日後、
私の部屋の前に大きな段ボールが置かれていた。
何も頼んだ覚えはなかった。
実家から仕送りがあるとは思えない。
私の両親は自分のことは自分でやれ、が口癖で
大学生の頃、私が一人暮らしをしたいと願い出ると
自分の金でするなら、と軽くあしらわれた。
なので玄関の前に置かれた段ボールは恐らく配達員が
間違えておいたものだろうと気が付いた。
段ボールを持つ。意外と軽く、振ると中から布と段ボールがこすれる音がした。
住所を確かめてみると、やはり部屋番号が違っていた。
七〇七号室。一個上の階だ。
少し私は期待した。もしかしたらこれはあの女のかもしれない。
差出住所を見る。新潟になっていた。同郷だ。
あの女は上京してきて、親の仕送りでこのマンションに住んでいる。
あり得る。
上の階から聞こえてくる騒音はチアの練習をしていたのではないか。
テレビで見たことがある。確かに飛んだり跳ねたり、
あの騒音がでるのも無理はない。
これを上の階に持って行って、話のきっかけをつくる。
新潟なんですか、実家?私もなんですよ。
そういって距離を詰めていく。
心細い東京のマンション暮らし。
近くに話の出来る人間がいるのは願ってもないはずだ。
そして段ボールを手渡す。
音から察するにきっと中身は衣類、もしかしたら下着かもしれない。
赤面する彼女に私はにっこりと笑いかける。
大丈夫。これならいける。
大学生と付き合うのか。少し体面が気になるが、
女は若いに越したことはないだろう。それにチアリーディングをしている。
きっといい尻をしているはずだ。
行くなら夜がいいだろう。
互いにたっぷりと時間があるはずだ。
水曜日の夜がいいだろう。
次の日彼女は昼から授業のはずだ。
決行の日、私はまずシャワーを浴びた。
入念に体を洗い、ムダ毛を剃り、化粧水を贅沢に使った。
パジャマは無印で買った質のいいコットン生地。
自分でもわかるほどナチュラルな匂いが体中から香る。よし。
意を決し、七階へあがる。七〇七。私の部屋のちょうど上。
指さし確認。咳払いをして、インターフォンを押した。
ピンポーン。空洞に虚しく響くように音は消えていった。
耳を澄まし、部屋の音を聞くが中から人の気配がしない。
外界の喧騒が遠く、独り廊下に立ち尽くしていた。
自分の体から発せられる匂いは自分でも惚れ惚れしてしまうほど
いい匂いであった。
あの女はもっといい香りがするのかもしれない。
この中はもっと私を興奮させてくれるのかもしれない。
段ボールを床に置いて扉に手をかける。鍵は。
開いている。全く不用心だな。
付き合ったらこういうところは。
玄関に入ると中から酸っぱいような鉄の臭いが漂ってきた。
思わず、うっと口元を抑える。なんだこの匂い。ゆっくりと背後で扉が閉まる。
カチ。扉が閉まった。玄関は薄暗い。奥の部屋のカーテンから月明かりが射し込む。
異臭の元は奥の部屋だ。進むごとに臭いが濃くなっていく。
行ってはいけない。だが見ずにはいられない。知りたい。
好奇心と本能の警報が扉にかけようとする手を震わせる。
扉が開いた。
封をあけたように閉じ込めていた匂いが私を覆った。
その臭いが血であるとすぐに理解した。部屋の中央から床に破線状に広がったそれが
青白い月明かり照らされて、黒く浮かび上がった。
血の中心には人が座っていた。
手足を椅子に縛られて、
項垂れているそれは長い黒髪と胸につけたブラジャーで女と分かった。
全身に生々しい切り傷が無数につけられ、項垂れたボサボサの髪の毛にも
血が付着し、もう何日も、いや何か月も経っているのか、黒く固まっていた。
私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
吐き気を抑えるために口を抑えていた手は、今は叫び声を押し殺すために力を込めた。
誰が。どうして。一瞬、女子大生が殺されたのかと思い、
エレベーターで見た彼女の顔を思い出す。
震える足で広がる血線を避けるように椅子の女に近づいた。
近くで見てわかった。女の傷もその周りに散った血も冷たく全部渇いていた。
呼吸が聞こえない。死んでいる。女は死んでいる。
恐る恐る女の髪をかきわけて、顔を覗き込む。
ひっ。声が漏れた。閉じた目の上には青黒いこぶ。
括り付けられた猿ぐつわ代わりのタオルは噛みしめた部分が黒くなっている。
顔全体がかさぶたのようにかさついた黒い赤が覆っていた。
一瞬、誰だかわからなかった。女子大生に似ている。だが違う。
私は何度も彼女を観察していた。だからわかる。
この女はあの女子大生じゃない。では。
右目の下にホクロがあった。嘘だ。嘘だ。なんで彼女がここに。
今、そこに座っているのは、死んでいるのは隣の家の女だった。
ゴー、ドン、ドン、ドン。天井から聞こえていた音が頭の中で響いた。
女の足は血だらけだった。足の近くに黒ずんだくぼみと椅子を引きずった跡。
あの音がどのように鳴っていたのか。猿ぐつわは強く噛みしめられていた。
足を踏み鳴らし、椅子を引きずる女の心情、顔。
瞬間的に想像した光景に吐き気を催した。だがそれは瞬時に引っ込んだ。
カチ。
玄関の扉が開く音がした。
絶叫しかけた声を食い殺した。全身が泡立つ。
全部がスローモーションになる。
脳だけが高速で動き、考えるよりも先に私はクローゼットの扉をあけて飛び込んだ。
クローゼットを閉めると同時に誰かが入ってきた。
靴を置いてきたままであることを思い出し、冷や汗が止まらない。
バレた。誰が入ってきた。どうする。戦うか。
いやそれよりどうやって逃げる。なんて言い訳する。
クローゼットの隙間から血にまみれた女が見えた。
言い訳なんて通じる相手なのか。戦って勝てる相手か。
自慢じゃないが私はスポーツも格闘技も経験のない。友人と殴り合いのけんか何て
今のいままでしたことない。私に人を殴る度胸はない。
どうする。どうする。
玄関から足音が近づいてくる。
両手で口を抑え、今にも叫び出しそうな声を、息を殺した。
人の影が女に近づいた。青白い光の中にシルエットが浮かび上がった。
影は女の前にしゃがみこむと女の髪をなでた。
ジャケット姿の背中がすっと立ち上がり、電気のスイッチに手をかけた。
パッと点いた明かりに照らされて、人の影はその姿をあらわにした。
それは男だった。スーツのよく似合う男だった。
昨日まで私と挨拶をかわし笑顔で隣人の部屋に入っていた、
隣人の同棲相手だと思っていたあの男。
なんであいつがここに。
男はゆっくりと周りを見渡した。
まるで何かを探すように。
震えが止まらない。息が苦しい。視界が涙でぼやけていく。
一歩、また一歩と男は歩き出す。
一歩、また一歩とクローゼットに近づいてくる。
私の頭の中にはもう逃げることしかなかった。
戦うなどと言う選択肢はすでにない。
クローゼットの前に男が立った。隙間から男の顔が覗いている。
逆光をあびた男の表情は真っ黒でわからない。
ただその口元には真っ白な歯が覗いているのだけがわかった。
ガッ。
瞬間、椅子を引きずるような音がした。
男が振り返る。椅子へ向き直り、歩き出した瞬間。
私は叫び、クローゼットを突き破るように飛び出した。
男を跳ね除け、今にももつれてしまいそうな足を踏ん張り、
息を切らし、玄関へかけた。
扉を押しのけて廊下に出る。助けて。助けて。
声にならない呻きをあげながら、
私は廊下の突き当りにある非常階段を目指した。
走った。両足を回し、体制が崩れ四つん這いになりながら走った。
階段で一個下に下がり、扉を開けて、自分の部屋へ飛び込んだ。
震える手で上下の鍵を閉め、チェーンをかけた。
その後の記憶は曖昧だった。
朝、起きると窓には結露ができていた。
今日も外は寒いらしい。鳥の鳴き声が聞こえる。
車が通り過ぎる。小学校のチャイムが遠くで響いていた。
新しく、けれど平坦な日常が始まる。そしてこれからも変わらぬ日常が続いていく、はずだ。
そう願いたい。
私は逃げるように家も会社も変えた。
逃げる、とは比喩表現であって、
私自身それを逃げているとは思わない。
ただ恐怖やストレスを遠ざけるためだ。私の心と体のためだ。
ひいては将来のためだ。
私は心境でテレビを見ていた。
テレビにはあの男と隣人の女性の顔が映し出されていた。
事件の経緯、女性の顔、そして男の動機をニュースキャスターが読み上げる。
警察の取り調べに対し、男はこう答えた。
『魔が差した』と。
私はテレビを消した。
電源の切れたテレビはまるで黒い鏡のように
茫然と画面を眺める私を映し出していた。
電車が通り過ぎる音がした。
近くの幼稚園から子供たちの元気な声が聞こえる。
今日も昨日と変わらない日常が始まる。
そしてこれからもなんの変哲もない平坦な日常が続く、はずだった。
アラームに起こされて、重たい瞼をもちあげた。
カーテンの隙間から滑り込む光が目にしみる。
温い布団から出られない。出なくちゃ。出なくては。
大きく深呼吸をして一気に起き上がる。外の寒さが床を這う。
なるべく冷たい床に触れぬようにとつま先立ちで洗面所に行き、
ボサボサの髪と無精ひげを整える。
顔に冷水を浴びせると頭が目覚め始めた。
鏡の中に写る自分を見ていると老けたなと感じる。
夢、というより断片的な思い出を見たからだ。登場人物は私ともう一人、よーくんだった。
よーくんの家はキレイだった。
初めてよーくんちに入った時のドキドキを今でも覚えている。
同じ団地の同じ階に住んでいるよーくんは
私が小学生になると同時に団地に引っ越してきた。
私の苗字は渡辺で、よーくんが山田で、
席が前後だったし同じ団地だとわかって仲良くなるまでそんなに時間はかからなかった。
よーくんちのお父さんは商社の営業をしていて、
お母さんも私の家とは違って家具のデザイナーとして働いていた。
学校が終わると一人で家にいることが多かったよーくんを想ってか
彼の両親はよーくんの欲しがるものを買い与えていた。
私の持っていないおもちゃもゲームもよーくんは持っていた。
羨ましくも憧れてもいた。
だからよーくんにおうちで遊ぼうと誘われたときは嬉しかった。
母親の仕事柄もあってか玄関の置物やソファー、
カーテン一つとっても洗練されていて、
部屋に満ちる匂いも五感で感じる全てが別物だった。
うちと間取りが同じだったから異世界、とまでは言わないが、
でも全く別の場所に来たようで私は高揚していた。
中学を卒業してからよーくんとは会っていない。
大学生時代は新潟に盆と正月は帰っていたが
社会人になってからと言うもの年に一度帰れれば良い方だった。
自然と地元の友人たちとも会う機会は少なくなり、今では疎遠状態となっている。
年末年始は仕事も休みではあったが、ただ新潟まで行くのが億劫だったからだ。
移動が面倒、というのもあるが何より交通費が馬鹿にならない。
週五日医療機器メーカーの営業として働いて、
土日は寝て過ごして、生活費を払って、生かさず殺さずの日々。
客に、上司に怒鳴られ、愚痴られて。
身じろぎすれば名前も知らないオヤジに睨まれる満員電車。
そんな毎日のストレスを時々友人と飲みに行って発散する。
こんな生活をいつまで続けなければいけないのか。
単調で退屈な生活の中で、
だからこそ、そんな日常に少しでも刺激が欲しくてつい魔がさしてしまったのだと思う。
私の部屋は六〇七号室、隣の六〇八号室には同じ年くらいの女性が住んでいる。
私が社会人一年目の時に彼女は引っ越してきた。
彼女もどこかの企業に勤めているようでスーツ姿でいる彼女を時々見かけた。
特に交流はなく言葉のない挨拶を交わす程度。
ある日、彼女が両手にゴミを抱えてエレベーターの前に立っていた。
狭いエレベーター内に私と彼女の二人だけ。
当時女性と話す機会があまりなかった私は何か彼女とご縁ができればなと、
もしこれを機に彼女とご飯なんか行って、付き合ったりしたら、
隣人と恋人なんて何か萌えるものがあるなと、下心が満載だった。
だがそんなこと彼女にばれたら確実に軽蔑されるだろう。
だから『まぁ毎日顔を合わせる隣人のよしみ』みたいな顔で
エレベーターのボタンを押してやり、ごみ置き場の扉をあけてやった。
彼女は「ありがとうございます」とはにかんだ。
彼女の声も笑顔も初めて見た。笑ったときに目じりにしわができた。
私の目は彼女の右目の横にあるホクロに吸い込まれ、その瞬間、完全に射抜かれた。
次は彼女と話したいな、と朝扉を開けるたびに思い、
彼女が部屋から出てくるのを期待していた。
だがそんな期待もすぐに打ち砕かれた。
彼女には男がいた。私よりも背が高く、スーツのよく似合う男だ。
冬になってから彼女たちは同棲を始めたらしく、その頃から男がよく出入りしていた。
私が住むこのマンションは築浅で鉄筋造りなので
隣との騒音トラブルがないのが良い点だった。
だがここに来て、それが裏目になるとは思わなかった。
どれだけ耳を澄ましても彼女の甘い声は聞こえず、
枕元に置いたティッシュが暖房の風に虚しく揺られ、代わりに上の階の物音が耳に響いた。
壁は厚いとはいえ、音がしないわけではない。思いっきり壁を殴れば隣にも響く。
ゴー、ドン、ドン、ドン。上に何が起こっているのかわからないが、
決まって夜中になると聞こえてくる。なにかものを移動させているような音にも聞こえ、
引っ越しの準備でもしているのかと思っていた。
だが音は数日続いた。騒音に眠りを妨げられ、明け方ごろに睡魔がやってくる。
満員電車では足を踏んだオヤジに舌打ちされる。
お得意先には機器の価格が高いと愚痴交じりに詰め寄られ、
上司には未達を責められる。隣には相変わらず男が出入りしている。
また天井から音がする。ゴー、ドン、ドン、ドン。
カーテンの隙間から薄い光が忍び寄るころに、瞼が重くなってくる。
開かない。もう開きたくない。頭もいたい。
熱だ。これは絶対熱だ。休む。今日は絶対休む。
いつの間にか静まり返った天井に向け、念じていると携帯が鳴った。上司からの電話だった。
こんな朝早くからなんだ、常識はないのか、死ね、と心でつぶやいた。
画面で光る上司の名前をにらみつける。
鳴りやまない携帯を壁に放り投げようとして、カレンダーが目に入る。今日の日付。
ぼーっとする頭で電話を取る。「今日の準備はできてるよな」と第一声。
今日の昼からお得先との大事な商談があることを思い出した。今日は休めない。休みたい。休めないよな。
「はい、大丈夫です。」
しわがれた声で答えた。
今日は眠れていなかった。
相手が不機嫌だった。
上司が余計なことを言った。
だから仕方ない。私のせいじゃない。商談が上手くいかなかったのは私のせいじゃない。
運が悪かったんだ。本当にそれだけか。いや私の準備が足りなかった。なんで私は。
マンションの扉の前で私は項垂れていた。
電車の通る音、迎えを待つ子供の声、車のクラクション、街の喧騒が暗闇から響く。
外界の音がぼやけて聞こえた。
廊下には誰もいない。
扉に手をかけようとしてやめた。帰って何をするわけでもない。
眠ってもまた退屈な明日が待っているだけ。外界の音を追って廊下の外、暗闇を覗き込む。
高い。落ちたらきっと無事ではいられないだろう。最悪死ぬ。死ぬ。死ぬ。高い。死ぬ。
一瞬、地面に叩きつけられる瞬間を、弾ける自身の脳しょうを想像して、ぞっとした。
唾を飲み込み、暗闇から顔をあげ退く。また音が遠ざかっていく。
振り返ると短い廊下に扉が八つ。その一つ一つに人がいて、生活をしている。
みんなどうして生きているのだろう。
隣の家の扉を見る。隣人の顔が思い浮かんだ。
くっきりとした二重。
柔らかそうな唇。
艶やかな黒髪。
パンツスーツの上からでもわかる丸い尻。尻。尻。
私の中でふつふつと湧き上がる欲望がつま先をそちらに向けた。
ちょっと覗くだけだ。犯罪だ。でも知りたくないか、あのスーツの下を。
もし彼女がいたらどうする。何ていう。顔は知られてるんだぞ。いいじゃないか。
どうしてそんなことしたのか。そう問われれば『魔が差した』と答えるほかない。
鍵はかかっていなかった。誰かいるのか。扉に耳を当てて、中の音を聞く。
物音一つない。
緊張を帯びた喜びが私を埋め尽くした。
扉が開くと暗闇の中から甘い女性らしいルームフレグランスの香りが鼻孔をくすぐった。ゆっくりと玄関に入ると電気がついた。
ぎょっとして息を殺した。
いや自動で電気がつくのか、と玄関横のスイッチを見て胸をなでおろす。
私の部屋と同じだ。
冷静さを取り戻し、明るくなった玄関を見るとパンプスやサンダル、スニーカー、女ものの靴が乱雑に放り出されていた。
清楚な見た目をして案外雑な性格なのか、いいな。
落胆よりも得も言われぬ興奮が沸き立った。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。
間取りはワンルーム、玄関を入って右側が独立洗面台付きの洗面所で、左側がトイレになっている。
私はまず洗面所の扉を開けた。
入って正面に洗面台、左に洗濯機、右に浴室。
玄関からの光を背中に浴びながら浴室を開ける。シャンプーとリンスーの残り香。
それを吸い込むと体の中の何かをぞわぞわと毛だたせた。
その何かに任せるまま、私は振り返り洗濯機に手をかけた。
鼻息が荒くなる。もしかしたらここに。
パンツスーツに張り付いたはち切れんばかりの尻が頭の中を支配し、洗濯機を開けさせた。
中は空だった。落ち込んだ心にまだチャンスはある、と言い聞かせ洗面所を出た。
また玄関の光がぱっと点いた。
玄関の正面、部屋に通じる扉にはガラスがはめ込まれていて、
今は真っ暗で、それがまた私の好奇心をそそった。
このブラックボックスの中には彼女の生活が入っている。
彼女は一体どんな部屋でどんなふうに過ごしているのだろうか。
他人の部屋を覗くという背徳感。知らない場所に足を踏み入れる興奮。
久しく忘れていた記憶がよみがえってくる。
扉が開くと匂いがより色濃く香る。玄関からの薄明りに部屋の全貌がうっすらと浮かんだ。
壁際に置かれたベッド、テレビに向かって中央に置かれたソファ、ハンガーラック、
そこにかけられた白いコートとスーツ、全てが私のものと違った。
同じ間取りですべてが違った。
まるで別世界に冒険に来たようなワクワクが私を支配した。そう魔が差した。
扉の横に鞄を置き、こざっぱりとしていた部屋を進み、私は迷わずベッドに向かった。
ベッドの上には男物の靴下や下着、ワイシャツが綺麗にたたんで置かれていた。
下着がここに置いてあるということは。私はベッドの下の収納を開ける。
ピンクや水色、紫に黒、白。
ツルツルと光る下着の群れが絡まり合うように押し詰められていた。
ムワっと音が聞こえてきそうだ。
紫色の下着を手に取る。すべすべしている。
股が当てはまる白い裏地が少しだけ黄ばんでいた。ドッドッ。耳の奥で心臓がなる。
私はその黄ばんだ裏地を思いっきり吸い込んだ。布と柔軟剤の匂いしかしない。
だがその匂いが全身を甘い痺れのように駆け巡った。
吸い込んだ息を天井に吐くと横目にカーテンの隙間から射し込む光がゆらゆらと揺れていた。立ち上がり、カーテンの隙間を覗いた。
外に洗濯物が干してあった。
ワイシャツに黒い靴下、白い肌着、なんだ全部男物じゃないか。
私は肩を落とした。振り返り、ベッドの枕に目を落とした。
いや、あの男が使ったかもしれないからな、と自身を諫める。
枕の上に置いてある時計を見るとすでに七時半。
そろそろ男が返ってくるかもしれない。
私は急いで、自身の鞄をひっとり部屋を後にした。
廊下に出るとエレベーターが止まる音がした。
私は自分の部屋まで走った。扉が開く音がした。
足音、息、自身が発するあらゆる音を殺して、
扉が開くころには何事もなかったかのように自身の部屋の前に立っていた。
扉を開けるふりをしてエレベーターを見やるとあの男が現れた。
助かった。
私は扉に手をかけようとして、止めた。
私の右手にすべすべとした布の感覚があったから。
慌てて懐に右手を隠す。男の方を横目で盗み見る。
男は隣の部屋に目をやり、それから私に小さく会釈をした。
にっこりと笑う彼に私も同じように笑った。引き攣っているのが自分でもわかる。
大丈夫。大丈夫。誰が部屋に侵入されたなど想像できるだろうか。大丈夫。
自分に言い聞かせて、ごく自然に、何事もなかったかのように、扉を開ける。
扉の隙間を縫うようにするりと部屋に入った。
鍵を閉め、廊下の音を聞く。かちゃりと扉に鍵を閉める音がした。
それ以降物音はしない。私は大きく息を落とし、玄関の壁に背中を預けた。
それから数週間、生きた心地がしなかった。
もしかしたら他の住人に見られていたのではないか。
あの男に気づかれたのではないか。
下着がなくなったことに女性が気づいたのではないか。
帰ったら警察が私の家の前にいるのではないか。
家にいても、仕事をしていてもそんな考えが永遠に脳内をめぐる。
ドン。ドン。相変わらず響く天井の音が敏感になった神経をさらに逆なでする。
文句を言いにいこうか、と思いはあったが
私は小心者なので、もし怖い人がでてきたらどうしようとか
波風たてることに抵抗があったので、
管理会社に連絡を入れるにとどまった。
時間が経つにつれて、バレていないのだと思い始め、
次第に心配は薄れていった。また上の階の音も管理会社に連絡を入れたからか
ぴたりと止んだ。
私を苛むものは何もなくなった。
すると押し込まれていた衝動が再び湧き上がってくる。
もっと見たい。次は別の人の家が見たい。
出来れば女がいい。
紫色のパンツはもうイカの匂いしかしない。
会社帰りに一つの習慣ができた。
駅を降り、自宅に向かう道、大通りから小道に入ると正面が私の住むマンションだ。
道沿いに真っすぐ行けばエントランスに入れるのだが、
私はあえてわき道にそれ、自販機の陰にマンションの正面玄関を見張るように隠れた。
簡単に言ってしまえば品定めだ。最初は同じ時間で行っていたが、
それでは人に偏りが出てしまうとわかった。
日ごとに微妙に時間をずらし、観察していく。
品定めをしてから、こんな人が住んでいたんだとか、
朝の駅のホームであの人同じマンションの人だ、いつもこの時間なんだとか
新たな発見ができて、私は嬉しかった。
幼い頃、森の中で友人と裏山を探検した時を思い出した。
木の上に昇って初めて気が付く。いつもの帰り道がどこに続いているのか、
下から見上げることしかできなかった雑居ビルの屋上がどうなっているのか、
自分の家が小さいこととか。
日々目にするものはその視点を変えるだけで
こんなにも新鮮なのか。
私の中に眠る童心が躍り出すのを感じた。
品定めを初めて二週間。私は独りの女性に目を付けた。
髪を金髪に染め、濃い化粧の女。年は二十代くらいで恐らく大学生だ。
月曜日と水曜日は一限があるのか決まって朝が早く、大きなリュックを背負って
マンションを出ていく。チアリーディング部に所属している。
以前、チームのジャージを着ているのを見た。
大学生で一人暮らし、しかも私の住むマンションはワンルームとはいえ、
駅から徒歩五分、新宿駅まで二駅の好立地だ。
当然、家賃も学生が簡単に払えるものではない。
恐らく実家が太いのだろう。
彼女は七階に住んでいる。彼女がマンションに入るのを見計らい、
彼女を追って乗ったエレベーターの行方を確認した。
あとは彼女が何号室に住んでいるかだ。
品定めが終了してから二日後、
私の部屋の前に大きな段ボールが置かれていた。
何も頼んだ覚えはなかった。
実家から仕送りがあるとは思えない。
私の両親は自分のことは自分でやれ、が口癖で
大学生の頃、私が一人暮らしをしたいと願い出ると
自分の金でするなら、と軽くあしらわれた。
なので玄関の前に置かれた段ボールは恐らく配達員が
間違えておいたものだろうと気が付いた。
段ボールを持つ。意外と軽く、振ると中から布と段ボールがこすれる音がした。
住所を確かめてみると、やはり部屋番号が違っていた。
七〇七号室。一個上の階だ。
少し私は期待した。もしかしたらこれはあの女のかもしれない。
差出住所を見る。新潟になっていた。同郷だ。
あの女は上京してきて、親の仕送りでこのマンションに住んでいる。
あり得る。
上の階から聞こえてくる騒音はチアの練習をしていたのではないか。
テレビで見たことがある。確かに飛んだり跳ねたり、
あの騒音がでるのも無理はない。
これを上の階に持って行って、話のきっかけをつくる。
新潟なんですか、実家?私もなんですよ。
そういって距離を詰めていく。
心細い東京のマンション暮らし。
近くに話の出来る人間がいるのは願ってもないはずだ。
そして段ボールを手渡す。
音から察するにきっと中身は衣類、もしかしたら下着かもしれない。
赤面する彼女に私はにっこりと笑いかける。
大丈夫。これならいける。
大学生と付き合うのか。少し体面が気になるが、
女は若いに越したことはないだろう。それにチアリーディングをしている。
きっといい尻をしているはずだ。
行くなら夜がいいだろう。
互いにたっぷりと時間があるはずだ。
水曜日の夜がいいだろう。
次の日彼女は昼から授業のはずだ。
決行の日、私はまずシャワーを浴びた。
入念に体を洗い、ムダ毛を剃り、化粧水を贅沢に使った。
パジャマは無印で買った質のいいコットン生地。
自分でもわかるほどナチュラルな匂いが体中から香る。よし。
意を決し、七階へあがる。七〇七。私の部屋のちょうど上。
指さし確認。咳払いをして、インターフォンを押した。
ピンポーン。空洞に虚しく響くように音は消えていった。
耳を澄まし、部屋の音を聞くが中から人の気配がしない。
外界の喧騒が遠く、独り廊下に立ち尽くしていた。
自分の体から発せられる匂いは自分でも惚れ惚れしてしまうほど
いい匂いであった。
あの女はもっといい香りがするのかもしれない。
この中はもっと私を興奮させてくれるのかもしれない。
段ボールを床に置いて扉に手をかける。鍵は。
開いている。全く不用心だな。
付き合ったらこういうところは。
玄関に入ると中から酸っぱいような鉄の臭いが漂ってきた。
思わず、うっと口元を抑える。なんだこの匂い。ゆっくりと背後で扉が閉まる。
カチ。扉が閉まった。玄関は薄暗い。奥の部屋のカーテンから月明かりが射し込む。
異臭の元は奥の部屋だ。進むごとに臭いが濃くなっていく。
行ってはいけない。だが見ずにはいられない。知りたい。
好奇心と本能の警報が扉にかけようとする手を震わせる。
扉が開いた。
封をあけたように閉じ込めていた匂いが私を覆った。
その臭いが血であるとすぐに理解した。部屋の中央から床に破線状に広がったそれが
青白い月明かり照らされて、黒く浮かび上がった。
血の中心には人が座っていた。
手足を椅子に縛られて、
項垂れているそれは長い黒髪と胸につけたブラジャーで女と分かった。
全身に生々しい切り傷が無数につけられ、項垂れたボサボサの髪の毛にも
血が付着し、もう何日も、いや何か月も経っているのか、黒く固まっていた。
私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
吐き気を抑えるために口を抑えていた手は、今は叫び声を押し殺すために力を込めた。
誰が。どうして。一瞬、女子大生が殺されたのかと思い、
エレベーターで見た彼女の顔を思い出す。
震える足で広がる血線を避けるように椅子の女に近づいた。
近くで見てわかった。女の傷もその周りに散った血も冷たく全部渇いていた。
呼吸が聞こえない。死んでいる。女は死んでいる。
恐る恐る女の髪をかきわけて、顔を覗き込む。
ひっ。声が漏れた。閉じた目の上には青黒いこぶ。
括り付けられた猿ぐつわ代わりのタオルは噛みしめた部分が黒くなっている。
顔全体がかさぶたのようにかさついた黒い赤が覆っていた。
一瞬、誰だかわからなかった。女子大生に似ている。だが違う。
私は何度も彼女を観察していた。だからわかる。
この女はあの女子大生じゃない。では。
右目の下にホクロがあった。嘘だ。嘘だ。なんで彼女がここに。
今、そこに座っているのは、死んでいるのは隣の家の女だった。
ゴー、ドン、ドン、ドン。天井から聞こえていた音が頭の中で響いた。
女の足は血だらけだった。足の近くに黒ずんだくぼみと椅子を引きずった跡。
あの音がどのように鳴っていたのか。猿ぐつわは強く噛みしめられていた。
足を踏み鳴らし、椅子を引きずる女の心情、顔。
瞬間的に想像した光景に吐き気を催した。だがそれは瞬時に引っ込んだ。
カチ。
玄関の扉が開く音がした。
絶叫しかけた声を食い殺した。全身が泡立つ。
全部がスローモーションになる。
脳だけが高速で動き、考えるよりも先に私はクローゼットの扉をあけて飛び込んだ。
クローゼットを閉めると同時に誰かが入ってきた。
靴を置いてきたままであることを思い出し、冷や汗が止まらない。
バレた。誰が入ってきた。どうする。戦うか。
いやそれよりどうやって逃げる。なんて言い訳する。
クローゼットの隙間から血にまみれた女が見えた。
言い訳なんて通じる相手なのか。戦って勝てる相手か。
自慢じゃないが私はスポーツも格闘技も経験のない。友人と殴り合いのけんか何て
今のいままでしたことない。私に人を殴る度胸はない。
どうする。どうする。
玄関から足音が近づいてくる。
両手で口を抑え、今にも叫び出しそうな声を、息を殺した。
人の影が女に近づいた。青白い光の中にシルエットが浮かび上がった。
影は女の前にしゃがみこむと女の髪をなでた。
ジャケット姿の背中がすっと立ち上がり、電気のスイッチに手をかけた。
パッと点いた明かりに照らされて、人の影はその姿をあらわにした。
それは男だった。スーツのよく似合う男だった。
昨日まで私と挨拶をかわし笑顔で隣人の部屋に入っていた、
隣人の同棲相手だと思っていたあの男。
なんであいつがここに。
男はゆっくりと周りを見渡した。
まるで何かを探すように。
震えが止まらない。息が苦しい。視界が涙でぼやけていく。
一歩、また一歩と男は歩き出す。
一歩、また一歩とクローゼットに近づいてくる。
私の頭の中にはもう逃げることしかなかった。
戦うなどと言う選択肢はすでにない。
クローゼットの前に男が立った。隙間から男の顔が覗いている。
逆光をあびた男の表情は真っ黒でわからない。
ただその口元には真っ白な歯が覗いているのだけがわかった。
ガッ。
瞬間、椅子を引きずるような音がした。
男が振り返る。椅子へ向き直り、歩き出した瞬間。
私は叫び、クローゼットを突き破るように飛び出した。
男を跳ね除け、今にももつれてしまいそうな足を踏ん張り、
息を切らし、玄関へかけた。
扉を押しのけて廊下に出る。助けて。助けて。
声にならない呻きをあげながら、
私は廊下の突き当りにある非常階段を目指した。
走った。両足を回し、体制が崩れ四つん這いになりながら走った。
階段で一個下に下がり、扉を開けて、自分の部屋へ飛び込んだ。
震える手で上下の鍵を閉め、チェーンをかけた。
その後の記憶は曖昧だった。
朝、起きると窓には結露ができていた。
今日も外は寒いらしい。鳥の鳴き声が聞こえる。
車が通り過ぎる。小学校のチャイムが遠くで響いていた。
新しく、けれど平坦な日常が始まる。そしてこれからも変わらぬ日常が続いていく、はずだ。
そう願いたい。
私は逃げるように家も会社も変えた。
逃げる、とは比喩表現であって、
私自身それを逃げているとは思わない。
ただ恐怖やストレスを遠ざけるためだ。私の心と体のためだ。
ひいては将来のためだ。
私は心境でテレビを見ていた。
テレビにはあの男と隣人の女性の顔が映し出されていた。
事件の経緯、女性の顔、そして男の動機をニュースキャスターが読み上げる。
警察の取り調べに対し、男はこう答えた。
『魔が差した』と。
私はテレビを消した。
電源の切れたテレビはまるで黒い鏡のように
茫然と画面を眺める私を映し出していた。
