数学教師・宮苑花蓮。
通称『花蓮様』にはふたつの顔がある。
華やかな容姿に抜群のスタイル、確かな指導力と人たらしな性格で同僚教師や生徒、保護者までも虜にする表の顔。そして――。
「えっ! これ小粒じゃん。うっわ、冷蔵庫にもないし。市子ー! いーちーこー! いっちゃーん! 私、納豆はひきわり派だって言ったじゃん。しっかりしてよー」
私のご主人様としての裏の顔だ。
「そうだ、市子。あの人死んだから」
十二月下旬。まもなく冬休みが始まる頃、キッチンの換気扇の下でタバコをふかしながら母は言った。
「……死んだって、誰が?」
「クズ男。あんたの父親。昨日の夜、クソ女から連絡が来たの」
クソ女。父と不倫関係にあった女を母はいまだにそう呼んでいる。
「お葬式、お母さんは行かないけど市子は好きにしていいよ」
「好きにって……」
「あーもう、これから相続だなんだで連絡取らなきゃいけないのかなぁ。面倒すぎるんだけど」
だるい。面倒くさい。疲れる。
散々ぼやいた母は「それじゃあ仕事行くわ、あんたも遅刻しないようにね」と私の横を通り過ぎてさっさと出かけてしまった。
「えぇ……?」
私がようやく動けたのはバタン、と玄関のドアが閉まってからだった。
私が三歳のときに両親は離婚した。
幼すぎたこともあってか父の記憶は曖昧だ。
もっとも、覚えていたとしてもあまりいい思い出ではなかっただろう。なんせ父は、私が「元旦生まれだから」という理由だけで「市子」と名付けたような人である。「一子」でなかっただけまだいいかもしれないが、いくらなんでも安直すぎる。
離婚原因は父の不倫だった。相手女性は職場の年下の部下で、不倫発覚当時、妊娠していた。父は離婚してくれるなら母の出す条件を全て呑むといい、母は相場の五倍以上の慰謝料をふっかけ離婚を承諾したらしい。
私はそれを小学三年生のときに教えられた。しかも、母が酔った勢いで。
『不倫がわかったときは頭に来て思わず平手打ちしちゃったわ。それだけじゃ気が済まないから顎をグーパンして、倒れたところをヒールで踏み潰したの。本当はあそこを潰してやろうかと思ったけど、腹で我慢したんだから偉いわよね、私』
悪態をつく姿は、表の母の顔とはまるで別人だった。
美容師の母は、都内で複数の美容院を経営する『美人経営者』としてメディアにもそれなりに顔を知られている。確かに見た目は贔屓目なしに可愛い。でも可愛いのは見た目だけで、中身はとんでもなく破天荒でフリーダムな人だ。
彼氏はしょっちゅう変わるし、酒も飲むしタバコも吸う。でも、家事は一切しない。
『仕事以外で手を使いたくないの。だってお金にならないし』
それらは週に三回契約しているお手伝いさんの仕事だった。学校の行事に顔を出したことなんて数える程度しかない。
『私に迷惑をかけなきゃ好きにやっていいわよ』
それが母の口癖だ。要するに母は自分が一番大好きで、娘の私には関心がないのだ。
別にそれでもよかった。生活に必要なものは全て買ってくれるし、多すぎるくらいのお小遣いも渡される。手を上げられたこともない。
でも、不満がないわけじゃなくて。
家にいるとき、私はひとりだ。お手伝いさんは家族じゃない。母と顔を合わせてもほとんど会話はないし、そもそも家で会うこと自体少ない。
だからだろうか。
――寂しい。
ふとしたとき、そう思わずにはいられなかった。
そんな日々を何年も続けた高校三年生の十二月。指定校推薦で早々に大学合格を決め、受験から解放された私を待っていたのは、父の突然の死だった。
悩んだ末に葬儀に参列することにした。
理由はふたつ。自分と母を捨てた男の顔を見てみたかったのと、顔を見たら何か昔の――まだ両親が仲が良かった頃の記憶を思い出すかもしれないと思ったから。
でも、結果は散々だった。
『市子ちゃんよね? 悪いけど通夜振る舞いは遠慮してね。あの人はうちの子の父親で、もうあなたの父親じゃないから』
後妻は私の顔を見るなり吐き捨てたのだ。
その後は居心地が悪いなんてものじゃなかった。
声を震わせて喪主の挨拶をする後妻。『おとうさん!』と泣きじゃくる、初めて顔を見た腹違いの妹。そして、それらに涙を誘われる参列者たち。
それらを私はひどく冷めた気持ちで見つめていた。
『彼は最高の夫であり父親でした』
職場不倫して後輩の女を妊娠させた男が? ウケる。
『夫はとても家族思いの人で、我が家は笑顔の絶えない幸せな家庭でした』
家族思いな男は不倫しないって。だいたい、その人のせいでうちは笑顔のない家庭になったんですけど?
人の家庭に土足で踏み込んで、壊して、その上に成り立つ家庭が「幸せ」?
「――ふざけんなっ!」
怒鳴ると同時に鼻から煙を吸い込んで、私は思わずえずいた。苦いタバコの香りに顔が歪む。
「けほっ……! うぇ……」
くさいし、気持ち悪い。先端に火をつけただけでこれだ。とてもじゃないが口に咥えることなんてできなかった。
誰もいない昼休みの体育館裏で、私は自分の情けなさにため息をつく。
(……先生に見られたら即停学だろうなぁ)
未遂とはいえ喫煙しようとしたのだから、退学もありうる。いうまでもなく指定校推薦は取り消しだろう。別にそうなってもいいとは思えなかった。むしろそうなったときのことを想像すると、お腹のあたりがぎゅうっと捻られたように痛くなる。
母はどんな反応をするだろう。さすがに驚くだろうか。それとも、怒りもしない……?
(考えたくない)
母の反応を考えると気分はますます凹む。
「……ほんと、馬鹿みたい」
私がタバコを吸っても両親の離婚はなかったことにならないし、父は生き返らない。自由人な母が常識人になることもない。そんなのわかってる。わかっていても、他に方法が浮かばなかった。
だって、こんなこと友達には言えない。
言ったところで困らせるか噂話のネタにされるだけだ。そもそもの話、腹を割って話せる友達なんて私にはいない。所属しているグループはあるし、ひとりになることはないけれど、学校の中だけでの付き合いだ。
仮に私が退学になったところで、泣いて悲しんでくれる子はひとりもいないだろう。
私も、いなくなって悲しい友達はいない。
虚しいな、と思った。
同時に苛立って仕方ない。妻子を捨てた父も、葬儀の場でマウントを取ってくる後妻も、自由人かつ娘に無関心すぎる母も、うんざりだ。
でも一番嫌なのは、どんなにむかついても、怒っていても、それを表に出すことができない自分自身。
根はビビりのくせに非行ぶってる今の現状はとてつもなくダサくてみっともない。しかもタバコを自分で買う勇気もなくて母のものを拝借しているのだからダサさの極みだ。
でも、こんなふうに不良の真似事をするくらいしか、今の私には心の鬱憤を晴らす方法がわからなかった。無意味で馬鹿なことをしてでも何かに反抗したかったのだ。
「あーーーもうっ!」
殴りたい。蹴りたい。叫びたい。
「私だってだるいし疲れるし面倒だよ、ふざけんな!」
ここには誰もいない。だから、私は腹の底から叫んだ。
学校での私は成績優秀の真面目な生徒で通っている。今まで問題らしい問題を起こしたこともない。自分で言うのもなんだが、私ほど手のかからない生徒はいないだろう。
でも、勉強なんて好きでしてたわけじゃない。
優等生というポジションを得られれば学校生活はそれなりに過ごしやすい。それに、人あたりよく振る舞っていればひとりにならなくて済む。
家でもひとりなのに学校でもぼっちなんて嫌だ。だから、そうしていただけ。
叶うことなら学校なんて行かずに一日中自分の部屋に引きこもってだらだら過ごしたい。でも、私はそうするだけの度胸も覚悟も持ち合わせていなかった。
――嫌いだ。
母も、父も、後妻も、私も、大っ嫌い。
「私もみんなも消えちゃえ、ばーーーかっ!」
中途半端に火のついたタバコを地面に投げ捨て思いっきり足で踏みつけた、そのとき。
「こっわ……」
声が、聞こえた。バッとそちらを見た私は「終わった」と思った。
「宮苑先生……」
体育館の影から現れたのは数学教師の宮苑だった。
宮苑花蓮。生徒からのあだ名は『花蓮様』。この学校でいろんな意味で一番有名な教師である。
――いったいいつから見られていたのか。
頭に登っていた血が一気に引いていく。足元から震えが走って、背中に氷を入れられたような悪寒が走った。
三年の私と一年の数学を担当する花蓮様とは直接の関係はない。
私は彼女を知っているが、多分向こうは私を知らない。でも、教師である以上目の前で生徒が喫煙をしていたら黙ってはいないはず。停学、退学、親の呼び出し、内申点――一気にいろんな単語が頭の中を巡る。
「あの、私――」
「あーもう最悪。そういう面倒なことは他でやってよ」
私の言葉を遮ったのは、深すぎるため息と耳を疑う言葉だった。
「っつーかなんでここにいるわけ? 私しか来ない場所で気に入ってたのに、だるっ!」
花蓮様のぼやきは止まらない。その様子はまるで母を見ているようだ。
予想と全く違う展開に少しだけ落ち着きを取り戻した私は、あることに気づく。花蓮様の右手には吸いかけのタバコがあった。
「もしかして花蓮さ――宮苑先生もタバコを吸いに来たんですか……?」
あだ名で呼びかけた私は慌てて言い直す。花蓮様は不愉快そうに眉根を寄せた。
「文句ある?」
問題はあるだろう。学校の敷地内は屋内外ともに禁煙だったはずだ。もちろん未遂でも喫煙するつもりでいた今の私が言えたことではないけれど。
そう思いながらも私は、花蓮様が「木村さん」と呼んだことに驚いた。
花蓮様と私は真逆の人間だ。
花蓮様はとにかく可愛くて綺麗。その上見た目だけではなく授業もわかりやすいと評判で生徒からも慕われている。
『花蓮様』というあだ名も、思わずそう呼びたくなるような人だからだろう。
対する私はといえば、中肉中背、身長は百五十八センチ、顔は悪くもなければ良くもない、せいぜい「愛嬌があるね」と言われる程度である。
「先生、私のこと知ってるんですか?」
それが意外すぎて、停学の危機にあることも忘れて質問する。
「知ってるわよ。木村さんのお母さん、有名人だし。そんなことより吸い終わったなら場所を譲ってくれない?」
「あ……えっと、一応未遂です、これ」
「どっちでもいいから。どくの? どかないの?」
「あっ、はい。どきます」
私が急いで場所を譲ると、花蓮様は「どーも」と気だるげに答えてタバコを咥える。煙を一瞬吸い込んだだけでギブアップした私とは違い、「ふぅ……」と紫煙をふかす姿はとても様になっている。
「何? 用がないなら早く戻りなよ」
だるそうに言われて、私は答えた。
「えっと、何もないんですか?」
「何もって?」
「注意とか、お説教とか……?」
花蓮様は勘弁してよと言わんばかりに顔を顰めた。
「しないわよ。別に木村さんがタバコを吸おうと吸わないと私には関係ないし」
花蓮様はあっけらかんと言い放つ。その態度に思わず私は自分が指導される側であることも忘れて言ってしまった。
「なんか……先生、いつもと別人すぎませんか?」
「こっちが素よ。仕事中は作ってるだけ。でも今は猫を被る必要ないでしょ? だって私、木村さんの弱みを握ったばっかりだし」
花蓮様はニヤリと笑う。
「さっきのことをバラされたくなかったら私がここで吸ってたことも、今のやりとりも他の人には言わないでね。まあ、言ったところで信じる人はいないと思うけど」
確かにこれだけの演技力があれば、私が第三者に何を言おうと信じてはもらえないだろう。でも、この様子では停学も退学にもならなそうだ。
(なんか、気が抜けた……かも)
花蓮様の意外な一面を見てしまったからだろうか。
喫煙未遂がバレたことに対する動揺や恐怖はいつの間にか消えていた。
と、同時に強張っていた体から一気に力が抜けて、私はその場にヘナヘナと崩れ落ちる。 地面にスカートをつけてペタンと座り込むと、花蓮様はぎょっとしたようにこちらを見た。
「は? 今度は何?」
「すみません、なんだか腰が抜けちゃって……」
動けません、とヘらりと答える。直後、花蓮様は「チッ」と思いきり舌打ちをする。
「ほんっとに面倒ね。ていうか鈍臭い。手は貸さないわよ」
「あ……はい」
それについては初めから期待していない。花蓮様にそんな優しさがないことはこの数分間のやり取りだけですぐにわかった。その代わり、私はひとつだけお願いをしてみることにした。
「先生」
「何よ」
「その……少しだけ時間をくれませんか? タバコ一本分の時間だけでいいので」
数分間。私が立てるようになるまでだけでいい。くだらない、私の話を聞いてほしい。
きっと、喫煙未遂の生徒を「面倒」と一蹴する花蓮様ならどんな話でも適当に流してくれる。そう思った。
「……一本分だけよ」
皮肉なくらい晴れた空に紫煙が溶けていく。寒空の下で美女が煙を吐く様はとても絵になった。整ったその横顔を前に私は「ありがとうございます」と礼をいい、思いつくままに言葉を吐き出した。
不倫した父が死んで葬儀に行ったけれど、後妻と初めて会う妹の姿にたまらなく叫びたくなったこと。娘に興味を持たない自由人の母にうんざりしていること。面倒だから優等生ぶっているだけで本当は勉強なんて大嫌いなこと。ひとりなのが寂しいこと。そんな自分が大嫌いなこと――。
息継ぎするのも惜しくて心の中のもやもやを一気に吐き出す。堰を切ったように言葉は溢れ出た。
ひとりになるのは嫌だ。でも、母の顔は見たくない。
「なんかもう、全部がどうでもよくて……家に帰りたくないんです」
「なら家出でもすれば?」
震えた声で溢した泣き言に返ってきたのは、身も蓋もない言葉だった。
「行くあてがないなら、首から『ご主人様募集中』って書いた板でもぶら下げて繁華街に立ってみな。五分で変態のご主人が釣れるから」
「ご主人様って……」
このアドバイスはさすがに予想の斜め上すぎた。教師以前に人としてしてはいけない助言ではないだろうか。呆気に取られていると、吸い殻を携帯灰皿に入れた花蓮様がやっと私の方を見る。
「はい、終わり。タバコ、吸い終わったから」
「あ……はい。ありがとうございました」
途中で「うるさい」「やっぱり面倒」と言われることも覚悟していたが、意外にも花蓮様はきっちり一本分、どうでもいい生徒のくだらない自分語りに耳を傾けてくれた。
「――ねえ」
そのとき、花蓮様は意外な行動を見せた。さっさと立ち去るものかと思っていたのに、無言で私をじいっと見てきたのだ。
「木村さんって料理はできる?」
突然すぎる質問に私が目を丸くすると、すぐさま「どっち」とピシャリと言い返される。
「できなくはないですけど……」
お手伝いさんの料理は美味しいが、たまに自分で好きなものを作るときもある。料理女子を語れるほどの腕はないけれど人並み程度のものは作れるはずだ。でもそれがいったいなんなのか。意味がわからず呆けていると、花蓮様は「ふぅん」と呟き、目を細めた。
「掃除は?」
「料理と同じで普通にはできるかと……」
「……そ。ならいいか」
いいって、何が?
「――冬休みの間だけ」
「え……?」
「それでいいなら、木村さんのこと飼ってあげる。どうする?
花蓮様は唇の端を上げてニヤリと微笑んだ。
「私を、飼う……?」
ぶっ飛び発言にぽかんとする私に、花蓮様は最近まで友人とルームシェアをしていたが、少し前に解消したのだと語る。
「で、家事関係は全部元ルームメイトがしてたから今かなり困ってるの。その子の代わりに木村さんが家事をしてくれるなら、次の同居人が見つかるまで……そうね、冬休みの間くらいはうちに置いてあげてもいいけど、どうする?」
――冬休みの間、花蓮様の家にお邪魔する……?
普通なら断るべきなのだと思う。今日初めて言葉を交わしたばかりの教師とふたりで長期休みを過ごすなんてどう考えても普通じゃない。でも。
「お願いします」
断った方がいい。頭ではそうわかっているのに、口から出たのは真逆の言葉だった。
どうしてそう答えたのか自分でもわからない。ただ、今の私は何かに縋りたかった。『普通じゃない』ことがしたかった――花蓮様の提案に激しく心が揺さぶられた。
「決まりね。木村さんの親には私から話を通しておくから」
「なんて言うんですか?」
「ま、先生に任せときなさい」
初めて教師らしいことを花蓮様が言ったその日の夜。帰宅した母は、私を見るなりうんざりしたように眉間に皺を寄せる。
「今日、学校でタバコ吸おうとしたんだって? 宮苑先生から私に電話があったよ。クズ男……じゃなくて、あの人のことで悩んでたからってそれはダメでしょうが」
指導も報告もしないと言っていたのに、花蓮様はあっさり私のダサい悪事を母にばらしてしまったらしい。でも、「話が違う」と絶望したのは最初だけだった。
「……まあ、私に相談したくないのもわかるけど」
――ん?
内心首を傾げていると、母は花蓮様と電話で交わした内容を教えてくれた。
日頃から私のことを気にかけていた花蓮様は、私の喫煙未遂を知ってとても心配になった。本来なら学校に報告しなければならない案件だが、未遂ということもあり今回は自分の中だけに留めておく。母さえよければ学校側には内密に、冬休みの間だけ私を預かろうか。
そう提案されたらしい。
「そんなご迷惑はかけられませんってお断りしたけど、『困っている生徒を放ってはおけませんから』って。今どきこんな生徒思いの先生がいるなんて思わなかったわ」
感心した様子の母に私は開いた口が塞がらなかった。カケラも思ってない嘘をスラスラ言える花蓮様はさすがすぎる。
「それで、市子はどうしたいの?」
「どうって……」
「宮苑先生のとこに行くなら別に止めないわよ。でも、迷惑はかけないようにね」
母の顔には『面倒だ』とありありと浮かんでいる。見慣れたその表情に私はすうっ……と心の色が褪せていくのを感じた。
初めから焦る必要なんてなかった。面倒なことを酷く嫌う母が、面倒なことを引き起こしたばかりの私と離れられるなら許可するに決まってる。
こうして私はなんの障害もなく、花蓮様のお世話になることが決まったのだった。
翌週、冬休み開始日の十二月二十六日。
スーツケースを持った私は花蓮様の家の前にいた。
目の前にはよく言えばレトロな、率直に言えばかなり年季の入った一軒家がある。
なんとなく花蓮様はお洒落なマンションに住んでいると思っていたから、正直ちょっと信じられない。
でも、事前に教えられた住所と地図アプリの矢印はぴたりと一致している。とにもかくにもこのまま突っ立っているわけにもいかず、私は恐る恐るインターホンを押す。返事はすぐに返ってきた。
『はい?』
『あの、木村です』
『……ああ。ちょっと待ってて』
緊張しながら花蓮様の登場を待つ。あの人は私を『飼う』と言った。言葉の綾とわかっているが、もしも少しくらい本気だったらどうしよう。その場合、今日から花蓮様をなんと呼べばいいのか。
「ご主人様とか……?」
「ちょっとやめてよ変なこと言うの」
呟いた直後にうんざりした声が聞こえてハッとする。私が俯いてあれこれ考えている間に玄関のドアが開いていたらしい。花蓮様がジト目でこちらを見ている。
「ご近所さんから変な目で見られちゃうでしょ」
「す、すみません」
間の抜けた返事になってしまったのは、花蓮様の格好があまりに予想外すぎたから。
だぼだぼのグレイのスウェット、下ろしたぼさぼさの髪、そして黒縁眼鏡。スウェットは毛玉だらけだし、だるんだるんの襟元からは黒のインナーが覗いている。
はっきり言って、ダサすぎる。
「とりあえず入って」
スーツケースをガラガラと引いて玄関に入ると、花蓮様は呆れたような顔をした。
「すごい荷物。海外旅行に行くんじゃないんだから」
「何を持ってきたらいいのかわからなくて……」
「ふーん。ま、いいか。とりまそのでかい荷物は玄関に置いといて。家の中を案内するから。って言ってもそんなに部屋数があるわけじゃないけど」
「お願いします」
「ふぁ……ねむ……」
今起きたばかりなのだという花蓮様は、大きくあくびをするとスタスタと歩き出す。私は慌ててその後に続いた。
この家は、もともとは花蓮様の祖父母が住んでいたらしい。
二階建ての建物で、一階は台所と居間、四畳半の和室、水回りがある。
二階は六畳の和室がふたつあって、短い廊下を挟んで向かい合っている。階段を登って正面に向かって右側が花蓮様の、左側が今回私が滞在することになる部屋なのだとか。
花蓮様は説明しながら部屋のドアを開ける。
(うわぁ……!)
そこはとても雰囲気の良い部屋だった。
和モダン、と言うのだろうか。
部屋の中央には丸いこたつがある。他にも足の低いベッドや文机、薄型テレビもあった。照明はレトロなシャンデリア風でなんとも風情がある。
文句なしのとても雰囲気のいい部屋だ。元ルームメイトの方はさぞや趣味のいい人だったのだろう。
「そうだ、初めに言っておくけど、うちで過ごすのに細かい決まりとか特にないから。風呂も食事も寝るのも好きなときにして。私が家主だから風呂を先に入っちゃダメ、なんてこともない。むしろそういう気を遣われる方がだるいから、余計な気は回さないで。基本、お互い干渉しないようにしましょ」
「わかりました。入らないほうがいい部屋とか、触らない方がいいものはありますか?」
「私の部屋には入らないで。それ以外は特になし。あ、でもひとつだけ絶対に守ってほしいことがある。私、朝はご飯派だから。それと納豆はマストね」
「は……?」
「というかそれさえあれば大丈夫。でも、納豆はひきわりね。それだけはよろしく。それ以外は好き嫌いもこだわりもないから、レトルトでもウーバーでもいいよ。洗濯も色分けとか気にしないし、適当に洗って干してくれれば大丈夫。掃除も気が向いたらやって」
朝はご飯と納豆があればいい。夜も手料理にはこだわらず、洗濯も掃除も適当でいいなんて、私に都合が良すぎる。家事をするという条件で置いてもらうのに、そんなに適当でいいのだろうか。
疑問をぶつけると、花蓮様は眠そうに右手で腹をぼりぼりとかきながら「いーのよ」と答えた。
一瞬見えた腰は、きゅっとくびれていた。
「木村さんはまだ若いからわかんないだろうけど、本当に疲れてるときって寝起きで納豆混ぜるのもだるいのよ。極論、食べるって行為自体が億劫なの。朝だって本当は何もしないで家を出たいけど、仕方ないから化粧して髪を巻いてるだけ」
「そういうものなんですか……?」
「そういうものなの。訳あり生徒を少しの間家に住まわせるだけで家事しなくていいなんて、こんな楽な話ないわけ。それで、他に質問がないなら二度寝したいんだけど」
大丈夫です、と答えかけたところでハッとする。一番大切なことを忘れていた。私は肩から下げていたバッグから封筒を取り出し、「母から預かりました」と花蓮様に差し出した。
中身の想像がついたのか、花蓮様は嫌そうに顔を顰める。
「お金なら預かれないわよ。木村さんのお母さんにも『いらない』って言ってあるし」
「でも、そんなわけには……」
「私がいいって言ったらいーの。その代わり家事全般はやってもらうから、悪いと思うなら体で返して」
――体で。
言葉だけ聞いたらやっぱりご主人様だ。そんなことをぼんやりと思っていると、花蓮様は「そういえば」と話題を変えた。
「木村さんって下の名前はなんていうの?」
ふいに質問される。というかこの人、私の名前も知らずに預かるなんて言ったのか。
「市子です」
「どう書くの?」
「市場の『市』に子どもの『子』」
「ふぅん、今どき珍しい古風な名前ね」
「よく言われます」
「ちなみに名前の由来は?」
「……元旦生まれだから、それでいいだろうって父親が」
「何それ、ウケる」
お父さん適当すぎるでしょ。そう言って花蓮様は小さく噴き出した。
「市子、ね。それじゃあ名前で呼ぶわ。あ、私のことは『先生』って呼ばないでね。学校にいるみたいで嫌だから」
「それならなんて呼べばいいですか?」
「先生以外ならなんでもいいよ」
そんなことを言われたら浮かぶ呼び名はひとつしかない。
「……じゃあ、花蓮様で」
心の中ではもうずっとそう呼んでいるから、今さらそれ以外はしっくりこない。これに花蓮様は「それじゃあ本当にご主人様みたいじゃない」と顔を顰めたけれど、嫌々ながらも受け入れてくれたのだった。
花蓮様の家に来て三日目、十二月二十八日土曜日の朝。
私の一日は朝食作りから始まる。
六時過ぎに部屋を出た後は、花蓮様を起こさないように足音を忍ばせて階段を降りるのだが、築年数のせいなのかぎしっと板が軋む音はしてしまう。
築六十年近いこの家は、真冬の今は空気は底冷えするように冷たい。特に早朝の今なんて厚着をしなければすぐに凍ってしまいそうだ。
台所の続きにある居間の石油ストーブをつけてしばらく待つと、ようやく体が温まり始める。台所は使い込んだアルミ製シンクで、IHではなくガスコンロだ。
私は冷蔵庫から卵とハム、納豆を出し、耐熱の平皿を取り出す。ハムを皿に乗せてその上に卵を割り、黄身の部分を楊枝で二、三回刺してからラップをかけ、レンジで一分。なんちゃってハムエッグの完成だ。
納豆は小皿に移してスーパーで買った小ネギを乗せるだけ。味噌汁はインスタントでいい。
正味五分もかかっていない手抜き朝食が完成すると、「おはよー」と眠そうな声が後ろから聞こえる。振り返るとスウェット眼鏡姿の花蓮様がいた。
「ご飯できたぁ……?」
眠気のせいか少し舌ったらずに聞いてくる。それがなんとも可愛らしい。高校生かつ女の私がドキッとするくらいなのだら男の人ならイチコロだろう。頭の片隅でそんなことを思いながら「おはようございます」と返す。
「今できたところです。でも、本当にこれでいいんですか?」
「いーよ。目玉焼きがあるだけ上々」
今はすっかりオフモードの花蓮様だが、朝食後は三十分以上かけて皆が知る『花蓮様』へと変わる。私ならその時間があるなら眠っていたいが、『皆大好き花蓮様』を作るにはそういうわけにはいかないらしい。
私がご飯をよそっている間、花蓮様はストーブの前に体育座りをして暖を取っていた。
(猫みたい)
そんな花蓮様の横を通り過ぎて廊下に出る。そして洗濯をしに脱衣所に向かおうとした、そのとき。
「えっ! これ小粒じゃん。うっわ、冷蔵庫にもないし。市子ー! いーちーこー! いっちゃーん!」
その声に慌てて台所に戻るとムッとした顔の花蓮様がいた。
「私、納豆はひきわり派だって言ったじゃん」
「あ、ごめんなさい。でも冷蔵庫にもうなくて」
「しっかりしてよー」
すみません、と一応は謝るが、心の中で少しだけ反論する。昨日の朝は確かにひきわり納豆が二パック残っていた。それを昨夜一気に食べたのは花蓮様だし、今彼女が食べようとしているのは私用に買っておいた小粒納豆のラス1だ。
「今日スーパーに行って、買ってきます」
「うん、そうして」
なおもひきわりが良かったのに、とぐずぐず言いながら小粒納豆を混ぜる花蓮様をおいて私は今度こそ脱衣所に行き、縦型洗濯機から洗濯物を取り出したのだった。
初めはどうなるかと思った花蓮様との生活は、拍子抜けするくらい緩かった。
私がすることは朝と夜の食事作りと洗濯、掃除。そのどれも適当でいいというのだから、花蓮様は本当に懐が広い。
日中、花蓮様と顔を合わせることはほとんどない。
初日は有給を取っていた花蓮様だが、二日目は普通に出勤していった。
三日目の今日は土曜日だが仕事があるとかで、ギリギリまでストーブの前で『行きたくない』『だるい』『週休四日がいい』とごにょごにょ駄々をこねていたが、最終的には『今日が終われば八連休! 寝正月!』と無理やり自分でテンションを上げて家を出ていった。
つくづく、学校とのイメージが違う人である。
花蓮様を見送って諸々の家事を済ませた私は、1階の和室でごろんと寝転んだ。
十二時を過ぎたばかりの今、南向きの窓からは雲ひとつない晴れ渡る冬の空が見える。ちょうど真上にある太陽の光は眩しくてたまらないが、かえってその日差しが温かかった。
花蓮様が学校にいる間、私はここで過ごすことが多い。
さらさらとした畳の感覚がとても気持ちいいのだ。
残念ながらイグサの香りはほとんどしないけれど、畳に寝転んで何をするでもなくぼぅっとするこの時間がたまらなく好きだと気づいたのは、ここに来た翌日のことだった。
この部屋にいると時間の流れがとても緩やかに感じる。
家にいるときはスマホを眺めているとあっという間に何時間も経っていたのに、今は見ようとも思わない。それは今、二階の部屋に置いたままだ。
この家で退屈しないようにと持ち込んだタブレットや携帯ゲーム機はこの三日間触ってすらいない。
ストーブのジイっ……という音だけが聞こえる空間にいると、不思議とSNSもネットサーフィンをしたいという気持ちも起こらなかった。
(うちとは全然違う……)
私の住んでいるマンションは、全館空調でどの部屋にいても温かい。それに比べてこの家はどこもかしこもガタが来ている。
階段は上り下りするたびにギシギシと音が鳴るし、台所は隙間風が吹いている。お風呂に追い焚き機能はないし、洗濯だって外干しだ。ストーブをつけていない部屋はめちゃくちゃ寒い。
それなのに不思議だ。
ひとりなのは今も同じ。でも、この家は住み慣れたマンションよりもずっと居心地がいい。
ひとりなのに、寂しくない。
冬日和の気持ちの良い昼、畳に横になっていると自然と瞼が重くなってくる。
親戚関係も希薄な家庭で育った私は、いわゆる『おばあちゃんの家』と言うものを知らない。それなのに畳がやたらと落ち着くのはなんでだろう。
そうだ、もう少しゴロゴロしたら夕飯の買い出しに行かなきゃ。今晩は何にしようかな。寒いから鍋でもいいかも。居間にこたつはないし、私の部屋で鍋パとか……しないか、花蓮様は。
眠気のせいか思考があっちこっちに飛ぶ。
(ねむ……ちょっとだけ……)
睡魔を自覚してまもなく、意識は溶けた。
「――ちこ、いーちーこっ! いっちゃん!」
ハッと瞼を開ける。直後、私は「ひっ!」と小さな悲鳴を上げた。迫力のある美人顔が私を覗き込んでいる。
「なんでこんなところに寝てんの?」
「え……あれ……?」
どうして花蓮様が、とぼんやりとしつつも起き上がった外を見た私は唖然とする。明るかった空はとうに日が暮れていた。少し昼寝するつもりががっつり眠ってしまったようだ。当然ながら、買い物も夕飯も済んでいない。
「すみません! 今から買い物行ってきます!」
「いいよ、もう遅いし今日は外に食べ行こ」
「ごめんなさい……」
「謝罪はいいから。ほら、さっさと準備をする!」
「はい!」
ピシャリと命令する様はご主人様ならぬ女王様のようだ。私は急いで階段を駆け上り部屋から上着を取ってくる。帰宅したばかりだったらしい花蓮様はすでに玄関で待っていた。
「お待たせしました!」
「はーい。それじゃ行くよ」
そうして連れて行かれたのは徒歩五分のファミレスだった。他の生徒に見られたらどうしよう、と無駄に怯える私に花蓮様は『この近くでうちの生徒見たことないから』と教えてくれる。それにバレたところで適当にごまかすわよ、とも。
それから私はハンバーグドリア、花蓮様はシーザーサラダとアヒージョをタッチパネルに入力する。お腹が空いているのにそれだけ? と思ったのもつかの間、花蓮様は赤ワインを追加した。しかも、デカンタだ。
(え、お酒飲むの?)
一応未成年の私がいるのに、とは思ったが声には出さない。そんなことは花蓮様には関係ないのは短い付き合いでもなんとなくわかった。
「あー、うま……」
ワインを飲むなり花蓮様はしみじみと呟く。
「お酒ってそんなに美味しいものですか?」
「これ自体の味は別に。でも、今の私が求めてるのは味じゃなくてアルコールだから問題ないの。要は酔えればいいのよ」
どうせ飲むなら美味しい方がいいのでは? その疑問は顔に表れていたのか、花蓮様は「お子様」とクスッと笑う。
「市子のお母さんは飲まないの?」
「家ではあまり。外ではよく飲んでるみたいですけど」
そういうとき、帰りはたいてい深夜か明け方だ。酔った母はいつも以上に愚痴っぽくなるから、あまり好きじゃない。
「ふぅん。そういえば、お母さんとは連絡とってるの?」
ドリアを食べようとしていた手がピタリと止まった。
「その反応はとってないんだ」
図星だ。この三日間で母と連絡を取ったのは一回だけ。初日の夜に花蓮様の家に到着したことを報告すると、『迷惑かけないようにね』とだけかえってきた。向こうからは一度も来ていない。
「しけた顔しちゃって」
「そんなことないです」
食い気味に否定するが、すぐに「嘘」と指摘される。
「寂しい、悲しいって顔に書いてあるよ。慰めてあげようか?」
「……どうやって?」
「『連絡がなくてもお母さんは市子のこと大切に思ってるよ』って言ってあげれば満足する?」
口調は優しいのに言葉は刺々しい。少なくとも私にとっては切れ味抜群だ。
私が家を出た理由を知る花蓮様もそれがわからないはずがないのに。
「……なんでそんなことを言うんですか」
「なんか、市子を見てるといじわるしたくなるのよね」
さすがにひどい、と凹むとすぐに「冗談よ」と返ってくる。
「ま、高校生の親の連絡頻度なんてそんなもんなのかな。私は親がいたことがほとんどないからわからないけど」
さらりと花蓮様は告白した。
「いないって?」
「言葉のとおりよ。子どもの頃に両親が離婚して母親に引き取られたけど、再婚相手の義父と上手くかなくて祖父母に引き取られたの。そのふたりももう亡くなったけどね」
さらりと告げられた意外な事実に、私はなんと答えたらいいのかわからなくなる。
大変でしたね、と口にするのは簡単だが、私なんかに言われてもだるいだけだろう。結局花蓮様がそれ以上何も言わなくて自然と話題は終わった。
それから特にどちらも話すことなく黙々と食事は続く。そうなったら気まずいかと思っていたけれど、意外と大丈夫だった。なぜだろう、と考えたところで私は気づく。
――似てるのだ。
和室にいるときと今、なんとなく空気感が同じだと思った。
花蓮様の前だとなぜか呼吸がしやすい。
不思議な沈黙が流れる中、花蓮様はかなりのハイペースでワインを飲んでいく。
酔いが回り始めたのか、少しとろんとした瞳と薄ら紅潮した頬が色っぽくて、なんだか見ている私がドキドキする。
(本当に美人だなぁ……)
正面から見て改めて綺麗な人だと実感する。芸能人と言われてもなんの違和感もないし、むしろ画面の中にいる方がしっくりくる。つくづく教師らしくない人だ。
「花蓮様はなんで先生になったんですか?」
頭に浮かんだ疑問はぽろりと口から溢れ出た。当然、花蓮様は訝しんだ。
「何、急に」
「いえ、なんとなく……」
「子どもの頃に憧れた先生がいて、私もなりたいと思ったの」
意外にも真面目な答えが返ってきた。しかし、感心したのもつかのま、「――って言うのは表向きの理由で」と続く。
「別に大した理由じゃないよ。就活するのがだるかっただけ。ノリで教員免許取ってノリで教採受けたら合格したの。で、そのまま今に至るってわけ」
適当すぎる答えに唖然とする。教師はそんなに簡単になれる職業ではないはずだ。大学で必要な単位を取って教育実習を受ける必要があるのに、『ノリ』だけでやり切れるものなのだろうか。
「就活って、先生になるより大変なんですか?」
「さあ? 人によって大変の基準は違うからね。私にとってはそうだったってだけ。……なーに、不満そうな顔ね。適当すぎて驚いた?」
こくん、と頷くと花蓮様は小さく肩をすくめる。
「別に私だけじゃないと思うよ。そもそも、大人って言うほど大人じゃないからね」
「どういう意味ですか?」
「市子は、大人ってなんだと思う?」
少し考える。
「自分で生活できるくらい稼げるようになったら……?」
「それも正解だろうけど、私にとっては違うかな」
花蓮様は柔らかく笑う。
「じゃあ、花蓮様の思う『大人』ってなんですか?」
「昔より愛想笑いの作り方と、嘘のつき方が上手になること」
わかる?
と聞かれるが、やっぱりよくわからない。
「市子は、どんな大人になるんだろうね」
考えてみるが、すぐには浮かばない。でも――。
「私は……花蓮様みたいな大人になりたいです」
自然とそう思った。
表と裏の顔の差が激しくて、『面倒』が口癖で、生徒を飼うなんてとんでもないことを言う大人だけど、少なくとも花蓮様は私が知る大人たちの中で誰よりも自由で綺麗だ。
でも、花蓮様は私が憧れることを許してくれなかった。
「無理よ」
ざわめきの満ちる空間でその言葉はやけにはっきり聞こえた。ひゅっと息を呑む私に花蓮様は苦笑しつつ続ける。
「市子は私みたいになれないと思う」
「そりゃ、私は花蓮様みたいに美人じゃないけど……」
そこまではっきり言わなくてもいいのに。シンプルにショックを受ける私を見つめ、花蓮様は「そうじゃなくて」と続ける。
「だって市子、いい子だもん。本当、今どき珍しいくらい真面目だし」
だから無理、と悪戯っぽく花蓮様が笑ってこの話題はここで終わった。
なんとなく、褒められたようには感じなかった。
釈然としない気持ちを抱えながらも食事を終えた後は 、二十四時間営業のスーパーでひきわり納豆を買ってから帰宅する。
家に着くと先に風呂に入るように言われた。花蓮様はこの後自分の部屋で飲み直すらしい。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
二階へ消えていく後ろ姿を見ながら私の頭に浮かんだもの。
『無理よ』
あの一瞬、花蓮様の雰囲気が冷たくなったように感じた。
(それに……なんとなく、ごまかされたような気がする)
考えすぎかもしれない。でも、なんだか妙にあの会話が耳に残っている。
(……花蓮様は、どんな高校生だったんだろう)
大人の定義を話したばかりだからか、逆にそんな疑問が浮かんだ。同時にそんなことを考えるようになった自分に少しだけ驚く。
ほんの一週間前まで私たちの間にはなんの接点もなかった。私は花蓮様を知っていたけれど、あくまでたくさんいる教師のうちのひとりとしか認識していなかったし、花蓮様にとっても私は大勢の生徒の中のひとりに過ぎなかっただろう。
今までは別にそれでよかった。でも、今は違う。
今の私は宮苑花蓮という女性が気になって仕方ない。
知りたいのだ。
彼女のことを、もっと、たくさん。
ひとりの人にこんなにも強い興味を抱いたのは――惹かれたのは、生まれて初めてのことだった。
『今年は寝正月!』と気合を入れていたとおり、年末休みに突入した途端、花蓮様は徹底的に自分の部屋に引きこもった。
冷蔵庫に入れておいた料理はいつの間にか空になってシンクに置いてある。
たまに家の中で顔を合わせてもいつもどおりダサいスウェット姿で、学校の人気者の面影はこれっぽっちもない。
私はそんな花蓮様を見ると私は少しだけ嬉しくなった。
――花蓮様の裏の顔を知っているのは、私だけ。
そう思うと妙な優越感を感じたのだ。
そんな自分に気付いたのはファミレスの夜がきっかけだった。
あれから三日経つけれど、私は気づけば花蓮様のことを考えている。
今、部屋で何をしてるだろう?
今日のお昼ご飯、美味しかったかな。
夕ご飯くらい一緒に食べたいな。
家に来た初日に基本的には干渉しないと言われたから、心の声を伝えることは絶対にしない。花蓮様の部屋を訪ねるなんて論外だ。
だからこそ気まぐれに部屋を出てくるチャンスは逃せない。
居間にいても、和室にいても、二階のドアが開く音がすると私はすぐに立ち上がる。偶然を装って花蓮様の近くに行くためだ。
会話はあったりなかったりでそのときによるけれど、あの人の顔が見られるだけで自然と顔は綻んだ。
理由はわからないけれど、今の私は花蓮様のことが気になって仕方ないのだ。
ただ、平気でお腹を出してボリボリかくのはどうかと思うけど。
私も私で基本的にのんびりと過ごしている。
三十日の昨日は徒歩圏内にある本屋で気になった小説と漫画を適当に買い、和室でゴロゴロしながら読書を楽しんだ。
そして、花蓮様の家に来てから六日経った大晦日の夜。
私と花蓮様は珍しく一緒に夕飯を食べていた。どうしても鍋が食べたいという花蓮様のリクエストに応え、今は私の部屋のこたつにふたりでいる。
ちなみにトマトチーズ味で、もちろん鍋の素を使った。
「そういえば、うちに来てから友達とは連絡とってるの?」
締めのリゾットを作るべく冷飯の入った茶碗を持っていた私はぴたりと手を止めた。
「その反応はないんだ。やだ、さみしー」
「……花蓮様って、さりげなくグサッとくることを言いますよね」
母との連絡の話のときも思ったが、笑顔で言うだからタチが悪い。しかも図星なのだからなおさらだ。
「正直なのがウリだから、私」
「正直っていうよりデリカシーがないの間違いじゃ……」
「は?」
「ごめんなさいなんでもありません」
「ならいいけど。リゾット早く作って」
「わかりました」
ご主人様に逆らってはいけない、と心の中でふざける。
こんな茶番のようなやりとりも花蓮様が相手だとすごく楽しい。
「はい、できましたよ」
「ありがとー」
お椀にリゾットをよそって渡すと花蓮様はウキウキとした様子で受け取る。花蓮様が休みに入って初めてのふたりでの夕食。一応は、だけど私の部屋に花蓮様がいるという状況がなんとも不思議でくすぐったい。
「そういえば、明日は誕生日だね」
「あ……そういえばそうですね」
今日は大晦日であと二時間もすると年が明けて、私は十八歳になる。
「元旦生まれってなんかいいね。縁起が良さそう」
花蓮様はそう言ってくれるが、私はあまり自分の誕生日が好きではない。
一月一日生まれだから市子。その父の適当さを嫌でも思い出してしまう日だから。
「何か欲しいものとかある? 高いものじゃなければプレゼントしてもいいけど」
スマホで大手通販サイトを開く花蓮様に私は慌てて首を横に振る。今こうしてここにいるだけで十分なのにこの上プレゼントなんてもらえない。
「そ?」
「はい、お気持ちだけで十分です」
そう言った直後、「あっ」とある考えが降ってきた。
「……ひとつだけ、欲しいものが浮かびました」
「何?」
「明日、『おめでとう』って、言ってくれますか?」
花蓮様は面食らった顔をする。次いで「いいよ」とニヤリと悪戯っぽく笑ってくれた。
それから私は洗い物をするためにいったん台所に向かう。洗い物をしながら、今頃こたつでのびのびしているだろう花蓮様のことを考える。
冬休みも残り一週間を切った。すでに終わりの折り返し地点にいるのだと思うと、とてつもなく寂しく感じてしまう。
でも、花蓮様はどうだろう?
自由で奔放な花蓮様だが、その心の内はなかなか見えない。こうして私を預かってくれるくらいだから、少なくとも嫌われてはいないのだろうけれど。
改めて振り返ると私と花蓮様の関係はとても不思議だ。友人でも親戚でも家族でもない。でも、ただの教師と生徒はふたり鍋を囲ったりしない。
私が今花蓮様に抱いている感情に名前をつけるとしたら、『憧れ』だろうか。でも、それがしっくりこない自分もいる。
「おかえりー。洗い物ありがとね。そろそろ紅白始まるよ」
「あ、もうそんな時間……何かおつまみかお酒持ってきます?」
「んー、お腹いっぱいだから今はいいかな。市子もこたつに入りなよ」
「はい」
この家に来て初めてこたつを使ったのだが、今ではすっかりその魅力に取り憑かれている。こたつ布団をかけてぬくぬくするときの心地よさと来たらない。
花蓮様はこの部屋に来てから一歩も動いていない。花蓮様曰く、人はこたつをダメにする魔物らしい。ものすごくわかる。
「あ、この曲よく聞きますよね」
「テレビに出まくってるよね。正直聞き飽きた」
「ああ。確かに」
「最初は新鮮だったんだけどねー。ていうか、今の時代、紅組白組で分けて文句とか言われないのかな」
「どうなんでしょうね」
私たちは特に中身のある話をするでもなく、年に一度の歌番組をぼうっと見る。その中でわりと好きな女性歌手が出てきて、私は「あっ」と声を上げる。
「好きなの?」
「はい。曲はそうでもないんですけど、声が特徴的で」
「へぇ」
興味なさそうにしていた花蓮様だが、やがて「浅いなぁ」とぽつりと呟いた。見ると不機嫌そうに少しだけ眉を寄せている。
「好きだ、愛してる、ずっと一緒にいたい、見つめていたい――。聞き飽きた言葉のオンパレード。確かに歌声はいいけど曲がクソね」
「そこまでいいます?」
「市子も言ってたじゃない」
「クソとまでは言ってません」
そんな軽口を交わしながら、何とはなしに思った。
「花蓮様」
「んー?」
「……恋って、どんな感じですか?」
こたつに肘をついてテレビを見ていた花蓮様が「うわっ」と声を上げる。
「何そのガキくさい質問」
「なんとなく、気になって」
巷に溢れる恋愛ソングに私は共感したことが一度もない。音楽自体の好き嫌いはあるが、歌詞を聞いて胸がじんとしたり、泣きそうになったりという感覚がわからないのだ。
「女子高生なんだから、恋のひとつやふたつしてきたんじゃないの?」
無言で首を振る。
私は恋を知らない。恋愛ソングと同じで、男の子を見てカッコいいなとか素敵だなと思うことはあってもそれだけだ。別に異性が嫌いなわけじゃない。ただ、なんとなく特に興味が持てないまま今日まできた。
でも、花蓮様は私と違う。恋多き女性に違いない――そう、思っていた。
「悪いけど質問には答えられないかな。だって私、恋なんてしたことないもん」
何をふざけたことを言ってるんだろう、と思った。
「恋をしたことないって、じゃあ彼氏がいたこともないんですか?」
「まさか。ないわけないじゃない、私よ?」
「……聞いた私が馬鹿でした」
からかわれたのだとわかってムッとしてしまう。当たり前だ。モテの権化だろう花蓮様に恋人がいたことないはずない。
「怒らないでよ、別にからかったつもりないんだけど」
「はいはい、もういいですよ」
「だから拗ねないでってば」
花蓮様はクックと肩を揺らして笑う。
「……恋、ねえ。一般的にはこの歌の通り、誰かに対して会いたいとか、顔が見たいとか、笑顔が見たいとか。そう思う相手がいたら恋なんじゃない?」
「……花蓮様は今、そんな人がいるんですか?」
――あなたは今、恋をしてますか?
「いないし、作る予定もないかな」
その答えになぜかホッとする。
「どうして?」
聞くと、花蓮様は「さっきから質問ばかりね」と苦笑する。
「いらないから。それに私はみんなの花蓮様だから、誰かひとりのものになるわけにいかないのよ」
そして前半ははっきりと。後半はやけにふざけた口調で答えたのだった。
その後私はお風呂に入るためにいったん離脱する。三十分後に再び部屋に戻ると意外な光景がそこにはあった。
花蓮様が、眠っている。
テレビはつけたままで、ちょうど紅白が終わったばかりのようだ。今年は紅組と白組のどちらが勝ったか教えてもらおうと思っていたのに、花蓮様は声をかけるのをためらうほどに気持ちよさそうに寝息を立てていた。
気持ちはわからなくもない。
年末、こたつ、満腹ときたら眠くならないはずがないのだ。とはいえ朝までこのままというわけにはいかないので、様子を見て起こした方がいいだろう。
すやすやと寝息を立てる花蓮様を横に、私はぼうっとテレビを見つめた。
画面の中では、年末の恒例行事である除夜の鐘の中継が流れている。
ゴオンゴオンという鐘の音を聴いていると雑念が消えていくような気がするのが不思議だった。煩悩を払うために鐘をつくというけれど、案外効果があるのかもしれない。
(なんか、今さらだけど変な感じ……)
去年の今頃は、ベッドでスマホをいじっていたらいつの間にか年が明けていた。でも今年は、ろくに話したことのなかった教師の家にいる。
一年前の自分に今の状況を説明しても絶対に信じてもらえない。それくらい私と花蓮様は関わりがなかったのだ。
ふと、先ほどの恋愛ソングを思い出す。
――恋とは何か。
花蓮様は言った。
『誰かに対して会いたいとか、顔が見たいとか、笑顔が見たいとか。そう思うようになったら恋なんじゃない?』
そのときはわからなかった。でも、今は――。
(え……ちょっと待って……違う、そんなわけ……)
花蓮様の綺麗な寝顔を見る。そして、気づいてしまった。
――私がそう思う相手は、花蓮様だ。
キスしたいと思ったことはない。でも、グロスを塗った濡れた唇にドキッとした。
抱きしめたいとも、抱きしめられたいと思ったこともない。でも、くびれた腰に目を惹かれた。
花蓮様の笑顔が好きだ。だって、とても綺麗だから。
花蓮様が食べるところが好きだ。だって、とても美味しそうに食べてくれるから。
休みに入ってからも、引き篭もる花蓮様と何度も話したいと、顔が見たいと思った。だからこそ気まぐれに部屋を出てくると嬉しくて、意味もなく待ち構えていた。
それもこれも、全部。
(好き、だから……?)
わからない。だって私は恋なんて知らない。誰かを好きになったこともない。でも、この感情に名前をつけるとしたらそれしか浮かばなかった。
どうしよう。全力疾走した直後のように胸が痛い。
耳鳴りがして、除夜の鐘の音がどこか遠くに聞こえる。視界が一気に狭くなって花蓮様の寝顔しか見えなくなる。
何がしたいとか、どうなりたいとか、そんな具体的なことは何も考えていなかった。ただ、勝手に体が動く。吸い寄せられるように指先が花蓮様の唇に向けて伸びる――。
「だめよ」
ぱちっと花蓮様の瞼が開く。
「あっ……!」
反射的に手を引こうとした私の手を花蓮様が掴む。
「それ以上は、だめ」
花蓮様は体を起こしてじっと私を見つめる。その瞳からはなんの感情も読み取れない。
逃げ出すことはもちろん、手を引くこともできなかった。その場に固まる私の手を花蓮様はパッと離す。
直後、だらんと私の手がこたつ布団の上へと落ちた。
一気に我に返る。それと同時に背筋がさあっと冷たくなった。顔から血の気が引くのがわかる。
今は、こたつの温かさも感じない。
――どうしよう。
今ならまだごまかせる?
別に何をしたわけじゃない。触ってもいない。唇の横が汚れていたとか、寒そうだから布団をかけようとしたのだとか、いくらでも言い訳はできる。
でも、私は何も言わなかった。私は、そんな気遣いの気持ちで手を伸ばしたんじゃない。
――触れたい。
さっきの私は、それだけを考えていたのだから。
「市子」
凪いだ海のような声だった。初めて耳にする落ち着いた声色に、私は目の前の美しい人が大人の女性であると痛感する。
「市子は私が好きなの?」
違う。言いかけた言葉を最後まで言うことはできなかったのは、きっと、嘘でも否定したくなかったから。
「……わかりません」
無性に泣きたかった。でも、ここで涙を流すなんてそれこそ面倒なやつだと思われる。だから私はキュッと唇を引き結んで無言を貫いた。唇も、肩も、全てが小刻みに震える。
「別に、怒ってないんだけどね」
そんな私をやはり、花蓮様は静かに見据えていた。
「なんにしても、あまり私に心に寄せない方がいいよ。私は、悪い大人だから」
何を言っているのだろう。花蓮様が悪い大人なら、私の知る他の大人は全員悪人だ。だから涙を浮かべて私は首を横に振る。それを見た花蓮様はふっと唇を緩ませた。
「市子は本当にいい子だね」
いい子? お世話になった先生によこしまな気持ちを抱いて、触ろうとした私が?
そんなこと、あるわけない。
「さてと。いい時間だし、風呂に入ってもう寝るわ」
花蓮様は静かに立ち上がる。そして何も言えない私の頭をさらりと撫で言った。
「誕生日おめでとう、市子」
そのとき初めて私はいつの間にか年が明けていたことを知る。
「それじゃ、おやすみ」
パタン、とドアが閉まる。階段を降りる足音と軋む板の音が聞こえなくなって、私は糸が切れたようにこたつの天板に突っ伏した。
『おめでとう』
祝いの言葉を口にした花蓮様は、無表情だった。
翌朝、私は家に戻ることを母と花蓮様に伝えた。
冬休みが終わるまであと一週間近くあるけれど、もう昨日まで同じように過ごせる自信はなかったから。
電話口の母が「もう帰ってくるの?」と溢す一方、花蓮様は私の突然の申し出に特に驚く様子もなく「あっそ」と答えただけだった。
「忘れ物はない?」
「はい」
スーツケースを手にした私を花蓮様は玄関の外まで見送ってくれた。その格好はいつも通り。最高にダサくて最高に綺麗な花蓮様は、昨日までと何も変わらない。
――ああ、そうか。
昨日のことは、なかったことにされたんだ。
「気をつけて帰りなよ」
「……はい。本当にお世話になりました」
「市子」
歩き出そうとする私を花蓮様は呼び止める。
「最後に私の秘密をひとつ、教えてあげる」
花蓮様はとびきり綺麗に微笑む。
「私、本当はルームシェアなんてしたことないの」
そして、立ち尽くす私を残して家の中へと消えていった。
年明け早々予定より早く帰宅した私を、母はうんざりした顔で迎えた。億劫そうに眉間に皺を寄せる姿に私は悲しいとも辛いとも思わなかった。
――ああ、帰ってきたんだ。
ただ、そう実感した。
「さっき、宮苑先生からも連絡があったよ。ホームシックにかかったんだって? 市子がそんなに家が好きだったなんて、驚いちゃった」
「え……?」
「だからって急に予定を変えたら先生も困るじゃない。冬休みが明けたら改めてお礼とお詫びをしておきなよ」
花蓮様は、私が家が恋しくて帰った、滞在中は何も問題はなかったと報告したそうだ。急に帰宅した私が母に怪しまれないように、違和感がないように先回りしてくれていた。
本当に、表の顔の花蓮様は隙がない。
「それじゃあ、私は出かけるから」
入れ違いに母が出ていく。
母から誕生日を祝う言葉を聞くことは、ついぞなかった。
それから冬休みが終わるまでの間、私は繰り返し花蓮様のことを考えた。
『最後に私の秘密をひとつ、教えてあげる。私、本当はルームシェアなんてしたことないの』
花蓮様はなんであんたことを言ったのだろう。なぜ、そんな嘘をついたのだろう。
(わからない)
そうして迎えた三学期。学校に向かう私の足取りは酷く重かった。
学校に行けば花蓮様がいる。そう思うと嬉しいのに怖くて、怖いのに嬉しい。相反する感情に頭痛までした。
(まずは、謝らないと)
あの夜、変なことをしてごめんなさい。せっかく家に呼んでくれたのにろくな説明もなく逃げ出してごめんなさい。そう伝えて、改めて聞いてみる。
ルームシェアをしていたなんて嘘をついて、私を預かった本当の理由を。
始業式のために体育館に行くと、花蓮様は他の教師と並んで立っていた。
その立ち姿はやはり遠目に見ても抜群に綺麗だ。
背中まで伸びた艶やかな茶色の髪も、雑誌の表紙からそのまま飛び出てきたようなスタイルも、何もかもが冬休みに見た姿とは違う、大人の女性。
終業式の間中、私の目は花蓮様だけを捉えていた。
あまりに熱心に見つめていたからだろうか。ふと、花蓮様がこちらを見たような気がした。
『あっ!』と心の中で声を上げる。視線はすぐに逸らされたけれど、勘違いなんかじゃない。今、確かに花蓮様と目が合った。
たったそれだけのことに胸が締め付けられたように痛む。でも、それ以上に嬉しかった。
式が終わり、生徒たちがばらばらと体育館を出ていく。その流れに乗って歩いていた私は、少し先に見慣れた背中を見つけた瞬間、考えるよりも先に口を開いていた。
「宮苑先生!」
ぴたり、と足を止めた花蓮様のもとに駆け寄る。思いの外大きな声で名前を呼んだせいか他の生徒がちらちらとこちらを見ていたけれど、かまわなかった。
振り返った花蓮様の前に立った私はぎゅっと拳を握る。他の生徒がいるからここで謝罪はできない。でも、何か言わないと。
「三年の木村さん……よね?」
不思議そうにこちらを見つめる様子に、心臓がヒヤッとした。
「私に何か用?」
その呼び方に。隙ひとつない笑顔に。
呼吸が、止まったような気がした。
「木村さん?」
「……なんでもありません」
「そう? ならいいけど」
ふふっと笑った花蓮様はくるりと背中を向けて歩き出す。
今度はもう呼び止めることはできなかった。
その後、私は担任に気分が悪いと言って早退した。後ろめたさはなかった。仮病ではなく、本当に気持ちが悪かったのだ。そしてそれは、自宅マンションの玄関を閉めた直後に限界が来た。
「っ……」
ジンジンと目の奥が熱い。何かが頬を伝っていく。足元にポツリと落ちた雫を見て私は自分の涙を自覚した。
――木村さん。
他人行儀に私を呼ぶ花蓮様の声が耳を離れない。
何が、ただの教師と生徒ではない『不思議な関係』だ。
(私たちは、初めから他人だった)
始業式の後、私を見つめる花蓮様の瞳には何の感情も見つけられなかった。冬休みを共に過ごした人とは別人のような顔は、皆が知る宮苑先生の顔だった。
何を自惚れていたんだろう。
どうして『謝らないと』なんて思えたんだろう。
きっと花蓮様は私からの謝罪なんて必要としていない。一月一日のあの日を最後に花蓮様が私を『市子』と呼ぶ必要はなくなった。
でも、それは当たり前のことだ。
花蓮様は何も悪くない。それなのに悲しいと感じるのは全て私の都合だ。
あの人を好きになってしまった、私の心の問題。
『なんか文句ある? 木村さんと違って私は大人なんだから問題ないでしょ』
寒空の下、紫煙と共に言われた言葉を思い出す。あのときは名字で呼ばれてもなんの違和感もなかったのに、今は苦しくてたまらない。
『市子ー、いっちゃーん!』
そんなふうに呼ばれることも、きっとない。
私が逃げたから。初めて知った恋という感情が自分で制御できなくて、抱えきれなくて、嫌われることが怖かったから。
そして、その『怖い』という気持ちを私は捨てきれなかった。
二月になると三年生は通常授業もなく自由登校になる。私のようにすでに進路の決まった人が学校に行くことはほとんどない。でも、私は変わらず登校した。
朝八時から夕方四時まで図書室の窓側の席に座って本を読んだり、必要のない勉強をしたりしながら過ごす理由はただひとつ。
――図書室からは、花蓮様のいる数学準備室が見える。
一日図書室にいて花蓮様を見られるのは一度あるかないか。換気のために窓を開けるときやカーテンの開閉をするほんの数秒、私は花蓮様を見ることができる。
それだけじゃない。
もう一度「木村さん」と呼ばれるのが怖くて数学準備室を訪ねることはできないくせに、もしかしたら花蓮様がいるかも、と毎日時間をずらして学食に行ったり、トイレもわざわざ数学準備室の近くまで行ったりする。していることはほとんどストーカーだ。
気まぐれでいいから「市子」と呼んでほしい。
一瞬でもいいから、私を見てほしい。
そんな私はさながらご主人様にかまってほしくてたまらない飼い犬だろうか。
でも、可愛がられるような犬じゃない。
臆病で、弱くて、ご主人様の何の役にも立たない駄犬だ。
そうして前にも後ろにも進めないうちに日は過ぎ、三月。
卒業式の日がやってきた。
(……自分でも引くくらい感動しなかったな)
図書室の窓辺の席に座った私はぼうっと天井を眺める。
国公立受験組は卒業式の日も塾で勉強だと嘆いていた。一方、すでに合格が決まっている人たちは駅前のカラオケに集合するらしい。
私も誘われたが、乗り気になれなくて断った。気を遣って声をかけてくれただけなのだろう。誘ってきた子は『そっか、わかった』とあっさり言っただけだった。
(前の私なら、絶対に行ってた)
ひとりになるのが怖くて、人と違うことが怖くて、群れから外れたくない。だからきっと一も二もなく誘いに飛びついていただろう。
でも、今の私はあまりひとりになることが怖くない。
相変わらず愚痴っぽくて自由人な母に苛立ったり、もどかしい気持ちを抱くことも減り、『そういう人なんだ』と受け入れた。でもそれは私の心が広くなったのでも寛容になったのでもない。
ただただ、どうでもよかっただけだ。
私は他に考えることがあったから。花蓮様のことばかり考えてしまうから。
(今思うと、いい夢を見てたみたい)
始業式の日を最後に花蓮様とは一度も話していない。だからこそ、あの人と一緒にいたときの思い出は鮮烈に私の中に残り続けた。
花蓮様と過ごしたのはたったの一週間。でも、私にとっては今まで生きてきた18年間全てを合わせたよりもずっと濃い一週間だった。
『市子は私が好きなの?』
あの夜から二か月。私はまだその答えを伝えられずにいる。
でも、一方的に目で追いかけ続けた日も今日で終わり。
私は席を立ち図書室を出ると、この二か月行けずにいた数学準備室に向かう。泣いても笑ってもこの学校に来るのは今日で最後。なら、最後に花蓮様の顔を見たかった。
遠くからではなく、正面から。
それなのに、緊張して訪れたそこに花蓮様はいなかった。他の数学教師によると少し前に出ていったという。ならばと職員室にも行ってみるがそこにもいない。でも、帰ったわけではないという。
(もしかして……)
ある場所が頭に浮かぶ。そして予想通り、花蓮様はそこにいた。
皮肉なくらい雲ひとつない快晴に登っていく煙。吐き出す唇は赤く色づき、その横顔はいつまでも見ていられるくらい艶っぽい。
誰もいない体育館裏。
予想通り、他に誰もいない体育館の裏側に花蓮様はいた。
「まだ帰ってなかったの?」
花蓮様の喫煙姿に魅入っていた私は、淡々とした声にハッとする。
「……気づいてたんですか?」
観念して建物の影から姿を現すと、花蓮様は全く動揺することなく呆れたように肩をすくめた。
「市子とは違うからね。いちおうルールを破ってるんだから、警戒は怠らないわ」
――市子。
名前を呼ばれた。ただそれだけのことにどうしようもなく胸が震える。
「今もそうだけど、私のこと見すぎ」
「えっ」
「何、気づかれてないと思った?」
「……はい」
頷くと小馬鹿にしたように鼻で笑われる。
「わかるわよ。市子、ことあるごとに私のこと探してたでしょ。食堂とか廊下とか」
「じゃあ、私が図書室から数学準備室を見てたのも……?」
「いや、それは知らない」
食い気味に返ってくる。
「え、もしかして二月になっても学校に来てたのってそれが目的だったりする?」
「えっと……」
「そこは否定しようよ」
しまった。どうやら墓穴を掘ってしまったようだ。今更否定もできずに心の中で慌てふためく私を花蓮様はとても気持ち悪そうに見た。
「行動だけ見たら通報ものだからね?」
自覚があるだけに恥ずかしさと申し訳なさが一気に込み上げる。でもそれ以上にこのやりとりが楽しくてたまらない。だって、こんなふうにもう一度花蓮様と軽口を叩き合える日が来るなんて思ってなかった。
「こら、何ニヤニヤしてんの」
「すみません」
口元が緩むのを堪えられない。冬休みを共に過ごした花蓮様が目の前にいる。それだけでこの二か月間のモヤモヤが一気に吹き飛んだ。
(……好きだなぁ)
やっぱり、私はこの人が好きだ。
そうしみじみと思う。
でも、そこに性的な感情はない。
唇に触れたいとは思ったけれど別にキスはしたくないし、素肌に触れたいとも思わない。それでもやっぱりこの感情に名前をつけるなら『恋』なのだと思う。
「花蓮様」
「んー?」
初めて会話を交わしたときと同じ。私なんかにまったく興味がなさそうに煙を吐き出した。
「好きです」
ぼんやりと空を見つめていた視線がこちらに向く。
「好き、ね……」
花蓮様は咥えていたタバコを地面に投げて、ヒールの踵でぐしゃりと踏み潰す。
「市子はさ、本当に馬鹿正直で、真面目で、いい子だよね」
驚いた様子は微塵もなかった。告白の返事にしてはよくわからない反応に戸惑う私に花蓮様は淡々と続ける。
「最後の最後でなんで言っちゃうかなぁ。せっかくこれ以上はやめておいてあげようと思ったのに、わざわざ自分からとどめを刺されにくるなんて」
「……花蓮様?」
「市子が私を好きなことなんて知ってたよ。だって、私がそうなるようにしたんだから」
とどめ? 好きになるようにした?
意味がわからない。
「せっかく告白してくれたんだから返事はしないとね。ありがとう。でもごめんね」
にこり、と。
「私、あんたのこと嫌いなの」
花蓮様は、とても晴れやかに微笑んだ。
「嫌い……?」
「そう。大っ嫌い」
笑みが深まる。目を丸くして何も言えない私を見た花蓮様は、落としたばかりの吸い殻を再び足で踏みつける。
「『何を言われたかわからない』って顔してるね」
その通りだった。花蓮様は、何を言っている?
同じ家にいたときならともかく、今はもう自分が花蓮様にとって特別な存在だなんて思っていない。一方で、嫌われていると感じたことは一度もなかった。
(でも、違った……?)
全部、私の勘違いだった?
「嫌いなら、なんで私を預かったんですか……?」
「嫌いだから預かったの」
花蓮様はふふっと唇の端を上げる。
「だって私は、あんたがボロボロに傷つく姿が見たかったから」
そして、告白が始まった。
お母さんが有名人だから、あんたのことは入学したときから知ってた。
あ、ちなみにお母さんのことは好きよ? 画面越しでもわかるくらい底の浅い感じとか特に。市子の話を聞いてからはもっと好きになったかな。
でも、市子、あんたは最初から嫌いなタイプだと思ってた。だっていつもつまらなそうな顔をして、『私は可哀想』って雰囲気出してたから。見てて本当に気分が悪かったの。
で、あの日あんたの話を聞いたのを聞いたらもっと嫌いになった。
ひとりが嫌だ?
自由人の母親にうんざりしてる?
仕方なく優等生をしてて、本当は自分が大嫌いで、何もかもどうでもいい?
――バッカじゃないって思ったわ。
そんなに恵まれておいて何言ってんのコイツって、本気で殴りたくなった。だってあんたは他の人が……昔の私が欲しかったものを全部持ってるのにって。
お手伝いさんがいるような生活を送って、私立の高校にも通ってる。大学は推薦で合格が決まってて、年間百万以上する学費を出してくれる親がいる。
それで、全部がどうでもいい?
甘ったれたこと言ってんじゃないよ。あんたは知らないでしょ?
両親がいないせいで学費もろくに払えず周りから白い目で見られる悔しさも、お金のためにどーでもいい男たちに媚び売ってバイトする惨めさも、最初から私立に行くなんて選択肢がない人がいることも。
あんたはお母さんのこと自由人だとか自分に興味がないとか散々言ってたけど、本当に興味がなかったらクソ高い金を出して大学に行かせないから。
それなのにぐちぐちぐちぐち、悲劇のヒロインぶって鬱陶しい。
だから、ルームシェアを解消した、家事が必要だって口実まで作ってあんたを預かろうと思ったの。あんたにとって心地よい居場所と人間を与えようってね。
一度心を預けたのに、それが突然なくなったらきっと、あんたはすごく傷つくだろうなと思ったから。
それなのに市子ったら、何も知らずに私に懐くんだもの。あれには笑ったわ。
それに、なんだっけ。私みたいな大人になりたい?
やめてよ、気持ち悪い。
私は死ぬ気で努力して今の私になったのに、あんたみたいな甘ったれた人間が私みたいになれるわけないでしょ?
ねえ、市子。私と一緒にいるのは心地よかった?
自分が私にとって特別な人間だと思って、優越感を感じた?
ごめんね。ぜーんぶ嘘なの。でも、私は忠告したわよ。
『それ以上はだめ』
『私は悪い大人だからあまり心を寄せるな』
って。それなのにあんたはまんまと私を好きになって、ストーカーまがいのことしてほんとウケる。終いには自分から傷つきに告白しに来るなんて、馬鹿みたい。
この二か月はそれなりに楽しかったわよ。
私のことを探して、見つけたら嬉しそうな顔をして、喜んで。私と話せないと凹んで、傷ついた顔をして。
私のことばかり考えてるあんた、最高に滑稽だった。餌が欲しくて、遊んでほしくて尻尾を振る犬みたいだった。私、そんなにご主人様っぽかった?
ついでにもう一つ。
最後だから、私が教師になった本当の理由を教えてあげる。
市子みたいなガキがアオハルしてるところを見たかったからよ。
私は、あんたたちみたいな生意気なガキが大っ嫌い。
そんな子たちが友達がどーした、親がどーしたってくだらないことで悩む姿が滑稽で面白くてたまらなかった。もっと見たいと思った。
だから、教師になったの。
それなのに、生徒は私を『花蓮様』だなんて呼んできゃーきゃーしてるんだから笑っちゃうわよね。
「その中で一番馬鹿だと思ったのは市子、あんたよ」
耳に心地よい声ですらすらと告白する姿はまるで歌っているようだった。
花蓮様の視点で語られる私は、自分が思っている姿とはまるで違った。それなのに、納得させられてしまった。
私だって、自分なりに一生懸命生きている。確かに金銭的には恵まれていても悩みがないわけじゃない。
そう言い返すことが、私にはできなかった。
「あはっ。やっぱりショックだった?」
心の底から楽しそうに、嬉しそうに花蓮様は笑う。明らかにこちらを馬鹿にする視線に、笑顔に、遅れて怒りが込み上げる。カッと目の前が真っ赤になって、体が震える。
『なんか、市子を見てるといじわるしたくなるのよね』
あの言葉は冗談でもなんでもなかった。花蓮様の、本心だった。
「最低……」
「そうね」
「信じられない、酷すぎる」
「ごめんね。でも騙される方も悪いのよ?」
何を言っても届かない。当然だ。花蓮様は初めから私を傷つけたくて仕方なかったのだから。
「これにこりたらもう少し人を見る目を養うことね。じゃないと市子なんてあっという間にぱくって食べられちゃうよ」
あなたがそれを言うの?
私を傷つけた、あなたが?
話は終わりだと言うように、花蓮様はこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。そして思いついたように「あっ」と声を発すると、手に持っていたものを私の胸に押し付けた。
「これあげる。誕生日プレゼントと卒業祝い」
それはタバコの空き箱とライターらしきものだった。後者は私が知っている使い捨てのものではない。ところどころ錆びた四角いケースには妙な重みがある。
「もうひとつ。卒業する可愛い生徒に、先生から最後のアドバイスをあげる」
可愛いなんて、微塵も思っていないくせに。
「この先いろんな男と出会うだろうけど、そのタバコを吸う男だけはやめときな。そんな癖のあるタバコを選ぶような男はろくなもんじゃないから」
――私みたいにね。
からかうように唇をニヤッと緩ませる。ここまで散々言われてもなおその笑顔を綺麗だと思ってしまう私は、花蓮様の言う通り本当の馬鹿者なのだろう。
「それじゃあね」
花蓮様は私の耳元に唇を寄せる。
「卒業おめでとう、木村さん」
甘ったるい声で囁いた花蓮様はふっと微笑み足取り軽く歩き出す。その背中が見えなくなるまで私は一歩も動くことができなかった。
「あ……」
スパイシーで、でも少し甘い。
その香りだけが、花蓮様が確かにここにいたことを証明していた。
「あれ? いっちゃんってタバコ吸わないよね。なんでこんなの持ってるの?」
テーブルの上に置いていた銀のケースを見て不思議がる恋人に、私は夕飯を作る手を止める。
「昔お世話になった人にもらったの」
「……元カレ?」
訝しむ声に「違うよ」と苦笑する。
「女の人。なんとなく懐かしくなって久しぶりに出してみた」
「へえ。ジッポーライターなんて渋い趣味してるね。しかもすごく使い込んでる感じがするし。でも、なんでそれをいっちゃんに?」
「なんでだろうね? 私もわからない」
これに恋人は「なんだよそれ」とクスッと笑った。スーツの上着をハンガーにかけるその背中にぎゅっと抱きつく。
「何、甘えたい気分?」
「……うん」
嬉しそうにクックと笑う彼の腰にギュッと手を回して、少し汗ばんだワイシャツに顔を埋める。そうして香るのは、あの体育館裏で最後に感じたのと同じ匂い。
『卒業おめでとう、木村さん』
あれから同じ季節が何度も通り過ぎた。
花蓮様の言ったとおり、大学、社会人……と過ぎていく仮定で私は色々な人と知り合った。
そこから恋に発展した人も、しなかった人もいる。
顔がパンパンに腫れるまで泣いたこともある。
でも、私はすぐに立ち直ることができた。
だって私は、十八歳のときに一度、心を真っ二つに折られたから。この先一生、そのとき感じた痛みや悲しみを超えることはないとわかっていたから。
今でもときどき、花蓮様と過ごした幻のような一週間を思い出すことがある。
最低な理由で私を預かった花蓮様だけど、私といるときにタバコを吸うことは一度もなかった。そんな無言の気遣いに気づいたのは、何年も経ってからのことだった。
「ねえ」
「ん?」
「私、この香り好きだよ」
「いっちゃんは変わってるな。でも、俺も気に入ってるから嬉しい」
「だからって吸いすぎには注意だからね。結婚式場も禁煙だから、我慢しないと」
「わかってるって」
私は明日、この人と結婚する。
結局、私が最後に選んだのは、私を『いっちゃん』と呼ぶ、初恋の人と同じ香りを纏った人だった。
彼と軽くハグをして、唇を重ねる。すると、香りはいっそう濃く漂った。
これから先、この香りを嗅ぐたびに私は思い出すだろう。
私の先生で、初恋の人で、ご主人様。
残酷で、性格が悪くて、とても自由。
でも、どうしても嫌いにはなれなかった。
誰よりも綺麗に笑う、あの人を。
(了)