予想通り部室に結華はいた。けれど、ドアを開け足音を立てながら背後に近づいても全く私に気づかなかった。毛先がパサつき、背は丸まり、シャツの襟には汗を滲ませながら一心不乱に机に向かっている。そっと肩を叩くと、この世の終わりみたいな悲鳴をあげて振り返った。充血した目で見つめられてなぜだか泣きたくなった。私の出せる限り一番優しく柔らかい声音で、結華、と呟く。うまく笑えているだろうか。
「もう、ホラーじゃなくてもいいんじゃない」
「なんで?」
「ちょっとお腹いっぱいっていうか」
「私まだ書いてないんだけど」
「そうだったっけね」
「人のこと焚きつけておいて何そのテンション」
 結華の机を間に挟んで、前の人の椅子を勝手に借りて向かい合う。目線の高さが同じになる。補習終わりの午後、昇降口にある自動販売機のラインナップについて駄弁った、なんてことない土曜日を思い出す。
「前に結華が言ってたみたいに、怖がれる感性が私にはないっていうか」
「……あぁ、そういうこと」
「うん。結華も皆も、本当にすごいと思う。でも、他にもいろいろジャンルが──」
「必死になってるお前らと違って、私は冷静ですよって方向ね。理解理解」
 その言葉を即座に理解するのは難しかったけれど、とてつもない悪意がこもっていることだけは分かった。喉が張り付く。血がさっと体の下の方に下がっていくのを感じる。ドアの向こうの誰かが笑いをこらえている気がする。
「パニックホラーとかでもあんじゃん。みんなが取り乱してる中で状況を分析して、作戦を考えよう! みたいな解説役。ああいうキャラってベタに人気だよね。大体途中で死ぬけどさ」
「そ、んなんじゃないよ」
「たしかにそろそろ逆張りのタイミングだしね。でも流石においしいポジションすぎてウケなくない?」
 いい加減にしろよ馬鹿じゃねえの、と、咄嗟に怒鳴りたくなってその瞬間、結華の書き続けている創作ノートが眼に留まった。息を飲んだ私に気づいたのか、結華が肘をどける。



 ベッドの上で目が覚めると、部屋の窓を覗き込んでいる人影が見える
 コンセントの入っていないテレビの中からうめき声が聞こえる
 電話ボックスを巨大な虫が覆っていて出られない
 イヤホンから流れる音楽の途切れた途端に男の息遣いが聞こえる
 廊下を曲がった向こうに影が伸びている。近づいてくる
 リビングの窓から知らない男がじっと見つめていることに、家族みんな気づいてない
 祖父が遺影の中で腐っていく
 爪と指との間に、いつまでも引っ張れる長い髪の毛が伸びている
 にきびをつぶした痕から体液がとまらなくなって腐っていく
 死体が私を目で追っている
 ベッドの近くの窓の向こうに何かいる。かぎを開けようとしてる
 書いたものすべてが、翌日血だまりになっていて読めない
 排水溝に爪が詰まっている
 怪談を聞いた帰り道、必ず同じ路地でケガをする
 真冬のプールの中に沈んだ死体になって、だんだんボウフラに包まれていく
 友人みんなが私にそれぞれ呪いをかけて、どんな風に死ぬか賭けをしている



「書けよ」
 硬直した私の目の前から結華の声が落ちてくる。乱暴な言葉遣いの割に声色は静かだ。
「ネタならいくらでもあげる」
 いらない。
「一応書き留めてるけどさ。キリが無いんだ。ずっと、ずっと考えちゃうから」
 無理だってば。
「怖いって何だろう。何が怖いんだろう。どうすれば怖くなるんだろう」
 私はそういうの、向いてないから。
「眼に入るもの、聞こえるもの、考えること。もう、なんだって怖いよ」
 出来る人だけやればいいんだって。
「あんたもそうでしょ」
 ドアの向こうの美波先輩と、結華と。いっぱいの目が私を見ている。
 全てを拒絶したいのに、体は凍り付いてまぶたすら動かせない。
 視界の隅、カーテンの隙間から一瞬だけ覗いた部員の顔には、確かに泣き笑いが張り付いていた。