冬休みが近づくころ、私はもう、『文芸部』ではなかった。私から参加を拒否したのか、「恐怖」のセンスのない私を皆が仲間外れにしたのかは覚えていないがどっちでもいい。フェードアウトしたことに変わりはなかった。
 自然と結華とも距離を置くことになったが、部の活動自体が沈静化したわけではないらしかった。結華は休み時間のたびに(ときには授業中でさえ)誰とも話さずノートに何かを書き続け、頻繁に部室に足を運んでいた。
 放課後、一人部室を覗き込んだとき、そこが無人だったことに私は少し驚いた。静かに体を滑り込ませて薄暗い室内を見渡す。心なしか空気が淀んで、冷え込んでいる気がする。ほんの数か月前まで、私と結華は毎日のようにここで他愛もないお喋りをしていた。進まない課題、甘ったるいジュース、結華の早口。無為できらめく時間を過ごした空き教室は、同じ場所だとは信じられないほど鬱蒼として、静かでおぞましい負の匂いが立ち込めていた。少し目を凝らせば部屋中に「活動」の痕跡があった。椅子の台座の裏にこびりついた血痕。体育館シューズの空き箱にしまわれた剃刀。ベランダの隅に積もった虫の死骸。恐怖のために消費されたそれらの小道具を見つけるたび思わず息を飲む。教室のドアの向こうで誰かが私の反応を覗いている気がする。激しい音と共にドアがこじ開けられ、そこには満面の笑みを浮かべた美波先輩が立っている。
「怖いでしょ? やっぱり怖がってるじゃない。やっぱり君も文芸部の一員なんだ。君にも恐怖の才能があるんだよ、さ、仲間の元に帰ろう。読ませたい話が山ほどあるんだ」
 芝居がかった言い回しで私に迫る美波先輩の顔は、いつしか滲み、ねじ曲がり、結華の笑顔になっている。気づけば部員が私を囲んでいて、全身をすさまじい力で掴む。そんな妄想が頭をよぎっては無暗に後ろを振り返ってしまう。そこには誰もいない。カーテンだけがゆらゆらと揺れて、部屋の明るさをシームレスに変える。裏地の裾に焼け焦げた跡がちらちらと見え隠れする。叫び出したい自分の精神状態を俯瞰して、必死に深呼吸をして悲鳴を飲み込みながら、限界が近づくのを冷静に実感する。一刻も早くこの現状から逃げ出さないと、引きずり込まれてしまう。
 叩き壊しそうなほどドアを乱暴に開けて外に出る。広い廊下には誰もいなかった。
 美波先輩が最初に見つけてきた呪いの部誌。その真相を聞き出して化けの皮を剥ぎ、結華を正気に戻したい。それだけじゃない。呪いにあてられ二番煎じに耽る他の部員はたかが知れているけれど、美波先輩は違う。呪いの部誌なんてものを語って聞かせたパイオニアなのだ。今、一番怖くてリアリティあふれる、新しい実話怪談を書くためのネタならある。今の部活の現状そのものだ。結華の大事なネタをかっさらって、モルモットにして。あまつさえそれをネタにしようなんて、絶対許せなかった。
 広い廊下を逃げるように走り抜け、わずかな物音や人影に肩を震わせながらどうにか探し出した美波先輩は、図書室の窓際の席で参考書を広げて頬杖をついていた。わずかに垂れる後れ毛がシャツの襟を撫でる後ろ姿は、制汗剤のようにクリーンな「青春」のイメージそのもので殴りたくなった。わざと足音を立てて近づき、不機嫌を隠すこともなく詰め寄る。
「すみません、あなたに聞きたいことがあるんですけど」
 隣の席の人が迷惑そうにこちらに視線を寄越すのを感じたけれども構っている暇はなかった。
「聞きたいこと……何……?」
「答えてもらわなきゃ困ります。皆が怖がりになったのは、全部あなたのせいなんだから」
 美波先輩は私の剣幕を理解していない様子で「みんながこわがり……」と呟いた。そして、その眠たげな様子のままで続けた。
「あーあの部誌のこと? 結華ちゃんから聞いてないの?」
 結華の名前が出たことに一瞬言葉が詰まる。
「結華も聞きに来たんですか」
「うん。同じように、因縁とかあるんでしょって」
「なんて答えたんですか」
「何にもないよー、って」
 美波先輩はにっと唇を釣り上げ、鼻から短く息を吐いた。こめかみが引き攣る。
「先輩が知らないだけなんじゃないんですか」
「作った人に聞いたもん。うちのお母さんここのOGなんだー。お母さんが書いたやつも載ってるよ。旧姓だとやっぱバレないもんだね」
 あっさりと結論を言い渡され、なんと返していいかわからないまま立ち尽くしてしまう。
「自殺した生徒がいたのも、呪いも、全部私の作り話。残念でーした!」
 無言の私にぽんと投げかけられたその声。
「そんなわけ無いでしょう。不謹慎ですよ」
「そんな不満そうな顔で言われても説得力ないって」
 不満なわけではない、と返したかった。
 私の表情に浮かんでいたのは不満ではなかった。もうこれで、あの部誌のせいにできなくなってしまった。あの本には何の力も曰くもなかった。美波先輩が、たまたま家で見つけた部誌を小道具に、怪談を作って部員に聞かせて。それに影響された部員たちの間で、何となく怪談を書くのが流行って。それから。怖い話を求め続ける部員たちは、美波先輩は、結華は。ドアの向こうの気配は。私は。
「なにも不幸が起きたりしてないなら、それに越したことありません」
「まあねー」
 あまりにも軽やかな美波先輩の口ぶりは、死ぬほど私の神経を逆なでした。舌打ちしたい衝動を抑える。
「いやー結華ちゃん、よっぽどその部誌になにかあると思ってたみたいでさ、ものすごーくがっかりしてたの。それこそなんでお母さん死んでないの、くらいのこと言われてびびったわー。思えば最近の結華ちゃんの狂った感じ、いいネタになりそうじゃない? 書いてみないの? 気になるなー、私、そっち系の怖い話も大好きだから!」
 これ以上、美波先輩と話す気にはなれなかった。これ以上話すべきことは無かった。能天気にしゃべり続ける美波先輩を無視して踵を返す。廊下を引き返し、向かうのは部室だ。結華は今ごろそこにいるだろう。きっとそこで机に向かっている。怖い話を求めている。