「小説を書くためには、自分の感覚を限りなく鋭敏にしなくちゃいけない。例えば、主人公がヒロインに告白する。要素だけ取り出せばそれだけの場面を、いかに緻密に精彩に、読者の想像の世界に浮かび上がらせることが出来るかが重要なんだ。主人公の声色、手の震え、背中を伝う汗、ヒロインの表情の変化、瞳に映る光、頬を撫でる空気、遠く聞こえる喧騒。世界の全てを言葉だけで組み立てるのが小説を書くということだ。そのためには、書き手自身が世界全部を知覚するべきなんだよ。例えば、身の毛もよだつ怪談を読んだ日の夜。窓の外の空気の揺らぎが瞼越しに気がかりになったことは? 普段は気にも留めない物音に、やけにびくびくして寝付けなかったことは? 本気で小説を書くのなら、それくらいの鋭敏な感性を常に持つべきなんだよ」
 また始まった、と私は内心呆れながらラノベを閉じて、ペットボトルのカフェオレを飲んだ。結華はいつも話が長かった。課題のチャート問題集は開いただけ。シャープペンも持たず、相手の話に対する相槌もそこそこに、小説論や作家論をしゃべり続ける。確固たる小説論を持つ自分、そういうナルシズム。ただし、芝居がかった言葉回しをアドリブで続け、噛まずに話し続けられるくらいだから、頭の回転の速さは認めざるを得ない。
「そんなん絶対生きづらいでしょ」
「小説の糧になるなら生きづらかろうと本望だね」
「いきってんじゃねーよ、口ばっかり達者で」
「書いても無い奴に言われたくないな」
「私は読む専。向いてないもん」
「そうやって、尊大な羞恥心と臆病な自尊心で逃げられるのも今だけだよ、君だって、偉大な文芸部の一員なんだ!」
 決まった、とでも言いたげな結華に背を向けて、私は本棚へと近づいた。
 生徒数の減少に伴い使われなくなった、廊下の一番奥の空き教室。名目上は進路指導室となっているそこは、下校時刻直前に先生が見回りに来る以外ほとんど誰も訪れないのをいいことに、『文芸部』の部室と化していた。『文芸部』と大層に結華は言うけれど、計六人の友人グループが各々好き勝手に課題を進めたりおやつを食べたり、思い出したように誰かが作品を書いたとき戯れに回し読みするだけの、同好会とすら呼べない代物だった。
 文庫、ハードカバー、漫画、シナリオ執筆の解説書、現代文の指定図書、赤本、青チャート、いつのかわからないテストの解答、持ち主不明のライトノベル……ちょっぴり本好きの高校生、をそのまま具現化したようなラインナップが雑多に敷き詰められている、かつてはプリントの残部や出席簿が置かれていたのであろう備え付けの本棚の片隅に『それ』はひっそりと息をひそめていた。
 読み終わったラノベをしまう時、うっかりそれを取り落としたこと、しゃがんだ瞬間に前方に視線をやったこと、『それ』が視界に飛び込んできたこと、手を伸ばしたこと。どこまでが偶然だったのかは、今はもうわからない。そういえば、今のようにごっこ遊びではない文芸部が、大昔には本当に存在していたらしいというのは、誰から聞いた話だったっけ。
 平成四年夏号、と書かれたそれは真っ黒な背表紙がやけに目についた。窓際の机に戻ると結華の目の前に、ずい、とそれを差し出す。
「『怪談特集』」
 数秒の沈黙。あーえーいーうーえーおーあーおー。呪文みたいな演劇部の発声練習が遠く響いている。物珍しそうに結華が瞬きを繰り返し、私は日に焼けてくたびれたページをパラパラとめくる。十数頁の短編が全部で六作品。数十年前、私達と同じような青春を送った誰か。
「えっ、マジで鳥肌立った。なんでこんなのがここにあんの。しかも一冊だけ」
「結華がホラーがどうこう言うから、見つけてもらいたがってきたんだよ、この本が」
「えーマジか。でもタイミングよすぎじゃね? 仕込んだでしょ」
「それが出来たら未来予知じゃん!」
 その後すぐ判明することだが、この本がここに置いてあったのは最近この本を見つけて取り出した人がいたからで、別に呼び寄せたわけでも何でもなかった。けれどもその時は、そんな「怪奇現象もどき」に大げさに怖がる二人の時間が楽しかったのだ。本当は怖くもないくせに大げさに騒ぎ立てて、怖がっているのに怖がっていないふり、をする。
「怪談書いてみたらいいじゃん」
 私の提案も、そんな一瞬のノリにすぎなかった。
「え、私が?」
 結華は思いのほか驚いた顔をしていた。あんなことを言っておいて、自分が怪談を書く、という発想はなかったらしい。そういう奴だった。
「ちょうど夏だし、次に集まるときにでもさ。格好のネタがあるわけだし?」 
 そう言うと、互いの視線は自然と、机に開かれた正体不明の部誌に集まる。てっきりあーだこーだ言って煙に巻くものだろうと思っていたのだが、結華は案外、
「悪くないね、それ」
といって、机に転がっていたクルトガを握り、鞄から大学ノートを取り出したのだった。
 結華の『創作ノート』には物語のかけらが散らばっている。私ですら滅多に中身を読ませてもらったことは無い。少なくとも一年以上は書き溜めているから、表紙は黒ずみ縁には折り癖が付き、随分年季が入っている。けれどそれが当時の私には、宝石のかけらや原石の詰まった宝箱のように思えた。惜しむらくは、その大半がかけらのままで終わってしまうことだったけれど、ともかく、書きたいという熱意に突き動かされる結華を、いつもほんのちょっぴり妬ましい気持ちで眺めていた。
「感覚が研ぎ澄まされて眠れなくなるような怖い話、期待してるから」