<記録開始>
あれは確か三週間くらい前のことでしたかね。夜のことです。
たまたま██県の田舎――と言っても市街地からやや離れた程度ですが――を車で走ってた頃の話です。私、タクシーの運転手をしてたので、そういった普段であれば行かないようなところにも行くことがあるんですよ。
あの時もそうだったんですがねえ。
本当に突然便意がやってきて、最初のうちはまだ我慢できるってことで堪えてたんですけど、いよいよもって無理になったので近場にある公園の公衆トイレに駆け込んだんです。
公衆トイレはまあ想像できると思うんですけど、本当に汚いし臭いし最悪で。
それこそ窓のフレームに使われている木材にカビみたいな苔みたいな緑色の何かが生えてたり、手洗い場の隅の方に虫の死骸とか蜘蛛の巣とかそういったものがあって。照明も薄暗いものだったのでまあ気味が悪くて。
でも、漏らすよりかはマシだと、そう言い聞かせて個室に入っていったんです。
個室のドアノブって言って分かります? 長方形の鉄のプレートみたいなやつ。あれもなんかヌメってしてるというか、湿ってて。いやもう本当に早く用を足して退散しようって思ってたんですよ。思ってたんですけども。
どうしても、こう焦ってると出るべきものが出なくって。額に脂汗が浮かんでも、こっちがどれだけ踏ん張っても何も出てこなかったんです。そうやって暫く格闘してどれくらいが経った頃かな。
疲れたので、一旦腹から力を抜いたんです。
んで「ふう」ってため息ついて、ちょっと上の方を見上げて。まあ上を見ても照明とその周りを飛ぶ羽虫しかいなくて、ああこいつらってこのまま光に飲まれて死ぬんだなって思いながらぼうっと過ごしてたんですけど。
まあ、きっかけとかなくですね、思い出しちゃったんですよ。こうずるずると連鎖的――芋づる式って言うんですかね? まあ、そんな感じで思い出してしまって。思い出したのは同僚の言葉なんですけど、それがその、例の公衆トイレにまつわる怪談だったというか。
いつもならなんとも思わない、むしろ笑って一蹴するくらいのものだったんですけど、その時は夜で現場にいるってこともあってやけに恐ろしく思えてしまって。思わず便意も引っ込んで。
怪談の内容ですか。ありがちな「霊が出る」とかそういうのだったと思います。てか、言わなくても分かるでしょ。……まあとにかくそんな感じのやつで、「個室に入ってると女の霊が出る」みたいなことを同僚は言ってましたね。
だから私、必死に背後を着にしたり、死角に意識回そうとしてたんですよ。どっからでもかかってこい、みたいな感じですかね。まあそんな感じで周りをキョロキョロしながトイレの個室で固まってました。
でまあ、何もないことが分かって、それで一安心してまた用を足そうとしたんです。
便意は引っ込みましたけど、実物は引っ込んでませんから。このまま腹の中に留めておいたら後々爆発するだろうなあってのは目に見えてたんで。
そこから十分くらいが経った頃かな。やっぱり何も出なくて、一旦トイレを出ようとしたんですよ。
こりゃ便秘だから明日下剤でも買おうって考えて、個室の鍵を開けようとしました。でも、その時になんか変な――明らかに場違いな声が聞こえてきたんです。
それはとても若い女性――それこそ小学生くらいの子の話し声でした。
声は公園の真ん中らへん、ちょうど公衆トイレの近くですね。まあその辺りから聞こえてきていて、少しくぐもってました。
「――ってさ」
「――と?」
「――ぶだって」
こんな感じで、声の最後の部分は分かるんですけど、その前部分が全く分からないというか。
言ってることは分かるんですけど、上手く頭の中で響かないんです。
だからまあ、なんかおかしいなって、そう思って。
そもそも、小学生、それも女子小学生がこんな時間に出歩くことがおかしいんですよ。普通だったら親に留められると思うし、そうでなくてももう深夜だったので寝てるはずなんです。
寝てなくても――それかもしくは寝起きだったとしても――声には眠気が混じってるはずなんです。
私も小学生の娘がいるから分かるのですが、あの年頃の子供は絶対にああいったことをしません。
というか、そもそも親がさせないんです。「危険だから」とか理由をつけて、外に出そうとすらしない。仮に出たとしたら探しに行くし、場合によっては警察沙汰になることだってある。子供もそれを理解しているはずなんです。
だからこそ、ひときわ違和感があったというか。外からはざわめきも何も感じ取れず、ただ少女らの声が「あった」んです。
抑揚のない、眠気交じりですらない――下手をしたらそういう合成音声だと錯覚してしまいそうな声がぽつんと存在していました。
私は、気付けば彼女らの話し声に聞き入っていました。
便意だとか撤退だとかそういったことは考えることもなく、ふっと、引き込まれるように彼女らの声を聴いていました。
そうすると音に慣れてくるというか、不明瞭だった部分が分かるようになってきて。
「――いにそんなことないよ」
「――かなあ? 誰もいなかったらどうすんの」
「――やいや、いるって」
そして、その声に混じって砂を蹴りつけるようないくつもの足音が聞こえてきました。
それらの足音は徐々にこちら側――公衆トイレの方に近づいてきていて、この時点でもう少女らはいわゆる「女の霊」であり、私を襲いにかかろうとしていることは読み取れたのです。
でも、逃げられませんでした。個室から出たら、外にいる彼女らと出くわしてしまうと、そう考えたからです。
もしかしたらもう直前まで迫っているのかもしれないという不安が心臓の鼓動を早くして、私から冷静な思考力を奪っていきました。
「――ろそろだね」
「――つも通りだよ?」
「――ってるよ」
声が近付いてきます。私はそれを黙って聞いていることしか出来ませんでした。
せめてもの抵抗とばかりに脱いでいたズボンを履こうとしたのですが、それすら手が震えすぎてしまって上手くいかず。結局のところ何もできなかったんですよ。
そうこうしているうちに、声が公衆トイレの入り口から聞こえてきました。ここまで来ればもう、声にブラーはかかってなくて、彼女らが言っていることは全て鮮明に聞こえていました。
「じゃあ、いつも通りに行くよ?」
「本当に大丈夫? 失敗しない?」
「大丈夫だって。きっとうまくいくから」
発言から「何か」を実行しているということが分かりましたが、その内容が分からず辟易していました。
こうなってしまうと恐怖ではなく、「いっそのこと一思いに!」という思いが先行していて、怖いのかなんなのか分かんなくなっていました。
「本当に中にいる?」
「あーちょっと待ってね」
ガサゴソという物音が聞こえ、ドアの下から視線を感じます。
でもそこには何もありませんでした。
おぞましい怪物も、意味ありげな手のひらも、何もありませんでした。
「大丈夫、いるっぽい」
「よかったー」
「失敗したらやばいもんね」
そして声は更にこちらに近づき、ドアの向こうから聞こえてきます。
耳を澄ますと声だけではなく、ねちゃねちゃとした粘着質な――まるで湿った肉がひしめき合っているような――音が聞こえてきました。
ドアの向こうにいるのは間違いありません。どうにかしようとは思ったのですが、冷静さを欠いた脳味噌では何も考えられず、どうにもできませんでした。
「じゃあ、いくよ」
「わかった」
「せーの」
コンコンコン、とドアが三回ノックされ、外から聞こえてきたのは。
「花子さん、遊びましょ」
聞きなじみのある文言でした。
小学生の頃に必ず聞いたことがある、まじないの言葉。「花子さん」というおかっぱ頭の少女の霊を呼び出す儀式的呪文。
最初こそ納得しかけましたが、次第に違和感に気付きました。
まず、花子さんを呼び出す場合、いくつかの条件があります。それは「霊が内側にいる状態で、人が外から呼びかけを行う」というものなのですが。
私が置かれていた状況は、その正反対のものでした。つまり、私が花子さん役として振る舞う必要があるのだと直感で理解しました。
そして、それを助長するように、娘が話していた言葉を思い出しました。
「トイレの外から呼びかけられたら、絶対に反応しないといけない」
端的に言えば、そういった内容のものでした。その発言が状況や直感と噛み合って、私に行動を起こさせました。
「は、はぁい」
やけに間延びした裏声で答えます。私は大人の男ですから、こうでもしないと高い声が出せません。むしろ、これでも低い方なので、誤魔化せるか不安でした。
「あ、反応したよ!」
「よかったあ」
「これで成功だな」
でも向こうではそんなことお構いなしに話をしていて、それで私はまあ誤魔化せたんだなと思ったわけなんですが。
現実はそんなわけありませんでした。
このままやり過ごせるかも、と思っていた次の瞬間です。
「花子さん、出てこないの?」
彼女らのうちの一人はそう言いました。そこで「ああもう全部お見通しなんだ」って悟って。
でも外に出るわけにもいかないから、言い訳ともとれない言い訳をして。
「う、うん。ちょっとね」
「ちょっとってなに?」
「お、お腹が痛くて」
意味不明だと思います。そもそも幽霊に腹痛なんてあるわけないのに、それを理由にするなんて。
今思えば、これを言った時点で、あのトイレに入った時点で「詰んで」いたんだと思います。
「でも、幽霊ってお腹痛くならないよ?」
「そうだよね。私もそうだもん」
「私も。だってお腹が痛くなる原因がないからね」
ああ、ヘマしたなって。
「もしかして、花子さんじゃないの?」
「違うの?」
「でもさっきは花子さんだよって」
やらかしちゃったなって。
「花子さんを騙ったの?」
「なんでそんな失礼なことしたの?」
「なんで? 失礼だと思わないの?」
ドアが三回ノックされます。
三回ノックされて、ノックが叩くという行為に変わり。
しまいには、体当たりじみた強硬に出るようになっていました。
「出て来てよ」
「出て来てよ」
「謝ってよ」
私は個室の中で震えているだけでした。
あれほどまでに恐怖を、絶望を感じた瞬間はありません。
「出てきなさい」
「出ろ」
「黙るな」
もう耐えられなくて。
「ごめんなさい」
気が付いたら、そう口にしていました。涙を流して、ずっと震えていて。このままじゃもう駄目だと分かったからこそ、せめて許してもらおうとしました。
「よくできました!」
軽快な声が外から聞こえてきます。ああ許されたんだって思ったのもつかの間で、いつの間にかトイレの外にいることに気付きました。
ドアは、個室はと思考を巡らせましたが、すぐに答えは出ませんでした。
そしてそれから数秒遅れでやってきた肌の擦れる音と、自分から見て遠ざかっていく公園とタクシーを見て、ああなんだそういうことかと、許されることはなかったんだなあって悟りました。
今、こうして引き摺られているのはそういうわけです。
幸いにも、痛みとかはありません。
でも、これはいつまで続くんだろうなと思うと腹の虫がおさまらないというか。トイレに行っただけでここまでされることにイラっと来たというか。
せめてあいつの姿だけでも見ようと思って視界を上げたんですけど。
やっぱり、知らない方がいいこととか、理解しちゃダメなこととか、そもそも関わっちゃだめなことってあるんですね。私はそれを知らずに破ってしまっていた。だからこそ、だからこそです。
娘と同僚の顔が歪に溶け合った怪物に引きずられているという、もう悪夢の方がマシな状況に叩き込まれたんでしょうね。
罰と言いますか。そういう表現が似合うのだと思います。
光に誘われることすらなく、不条理に死ぬのが私の罰です。
<記録終了>
あれは確か三週間くらい前のことでしたかね。夜のことです。
たまたま██県の田舎――と言っても市街地からやや離れた程度ですが――を車で走ってた頃の話です。私、タクシーの運転手をしてたので、そういった普段であれば行かないようなところにも行くことがあるんですよ。
あの時もそうだったんですがねえ。
本当に突然便意がやってきて、最初のうちはまだ我慢できるってことで堪えてたんですけど、いよいよもって無理になったので近場にある公園の公衆トイレに駆け込んだんです。
公衆トイレはまあ想像できると思うんですけど、本当に汚いし臭いし最悪で。
それこそ窓のフレームに使われている木材にカビみたいな苔みたいな緑色の何かが生えてたり、手洗い場の隅の方に虫の死骸とか蜘蛛の巣とかそういったものがあって。照明も薄暗いものだったのでまあ気味が悪くて。
でも、漏らすよりかはマシだと、そう言い聞かせて個室に入っていったんです。
個室のドアノブって言って分かります? 長方形の鉄のプレートみたいなやつ。あれもなんかヌメってしてるというか、湿ってて。いやもう本当に早く用を足して退散しようって思ってたんですよ。思ってたんですけども。
どうしても、こう焦ってると出るべきものが出なくって。額に脂汗が浮かんでも、こっちがどれだけ踏ん張っても何も出てこなかったんです。そうやって暫く格闘してどれくらいが経った頃かな。
疲れたので、一旦腹から力を抜いたんです。
んで「ふう」ってため息ついて、ちょっと上の方を見上げて。まあ上を見ても照明とその周りを飛ぶ羽虫しかいなくて、ああこいつらってこのまま光に飲まれて死ぬんだなって思いながらぼうっと過ごしてたんですけど。
まあ、きっかけとかなくですね、思い出しちゃったんですよ。こうずるずると連鎖的――芋づる式って言うんですかね? まあ、そんな感じで思い出してしまって。思い出したのは同僚の言葉なんですけど、それがその、例の公衆トイレにまつわる怪談だったというか。
いつもならなんとも思わない、むしろ笑って一蹴するくらいのものだったんですけど、その時は夜で現場にいるってこともあってやけに恐ろしく思えてしまって。思わず便意も引っ込んで。
怪談の内容ですか。ありがちな「霊が出る」とかそういうのだったと思います。てか、言わなくても分かるでしょ。……まあとにかくそんな感じのやつで、「個室に入ってると女の霊が出る」みたいなことを同僚は言ってましたね。
だから私、必死に背後を着にしたり、死角に意識回そうとしてたんですよ。どっからでもかかってこい、みたいな感じですかね。まあそんな感じで周りをキョロキョロしながトイレの個室で固まってました。
でまあ、何もないことが分かって、それで一安心してまた用を足そうとしたんです。
便意は引っ込みましたけど、実物は引っ込んでませんから。このまま腹の中に留めておいたら後々爆発するだろうなあってのは目に見えてたんで。
そこから十分くらいが経った頃かな。やっぱり何も出なくて、一旦トイレを出ようとしたんですよ。
こりゃ便秘だから明日下剤でも買おうって考えて、個室の鍵を開けようとしました。でも、その時になんか変な――明らかに場違いな声が聞こえてきたんです。
それはとても若い女性――それこそ小学生くらいの子の話し声でした。
声は公園の真ん中らへん、ちょうど公衆トイレの近くですね。まあその辺りから聞こえてきていて、少しくぐもってました。
「――ってさ」
「――と?」
「――ぶだって」
こんな感じで、声の最後の部分は分かるんですけど、その前部分が全く分からないというか。
言ってることは分かるんですけど、上手く頭の中で響かないんです。
だからまあ、なんかおかしいなって、そう思って。
そもそも、小学生、それも女子小学生がこんな時間に出歩くことがおかしいんですよ。普通だったら親に留められると思うし、そうでなくてももう深夜だったので寝てるはずなんです。
寝てなくても――それかもしくは寝起きだったとしても――声には眠気が混じってるはずなんです。
私も小学生の娘がいるから分かるのですが、あの年頃の子供は絶対にああいったことをしません。
というか、そもそも親がさせないんです。「危険だから」とか理由をつけて、外に出そうとすらしない。仮に出たとしたら探しに行くし、場合によっては警察沙汰になることだってある。子供もそれを理解しているはずなんです。
だからこそ、ひときわ違和感があったというか。外からはざわめきも何も感じ取れず、ただ少女らの声が「あった」んです。
抑揚のない、眠気交じりですらない――下手をしたらそういう合成音声だと錯覚してしまいそうな声がぽつんと存在していました。
私は、気付けば彼女らの話し声に聞き入っていました。
便意だとか撤退だとかそういったことは考えることもなく、ふっと、引き込まれるように彼女らの声を聴いていました。
そうすると音に慣れてくるというか、不明瞭だった部分が分かるようになってきて。
「――いにそんなことないよ」
「――かなあ? 誰もいなかったらどうすんの」
「――やいや、いるって」
そして、その声に混じって砂を蹴りつけるようないくつもの足音が聞こえてきました。
それらの足音は徐々にこちら側――公衆トイレの方に近づいてきていて、この時点でもう少女らはいわゆる「女の霊」であり、私を襲いにかかろうとしていることは読み取れたのです。
でも、逃げられませんでした。個室から出たら、外にいる彼女らと出くわしてしまうと、そう考えたからです。
もしかしたらもう直前まで迫っているのかもしれないという不安が心臓の鼓動を早くして、私から冷静な思考力を奪っていきました。
「――ろそろだね」
「――つも通りだよ?」
「――ってるよ」
声が近付いてきます。私はそれを黙って聞いていることしか出来ませんでした。
せめてもの抵抗とばかりに脱いでいたズボンを履こうとしたのですが、それすら手が震えすぎてしまって上手くいかず。結局のところ何もできなかったんですよ。
そうこうしているうちに、声が公衆トイレの入り口から聞こえてきました。ここまで来ればもう、声にブラーはかかってなくて、彼女らが言っていることは全て鮮明に聞こえていました。
「じゃあ、いつも通りに行くよ?」
「本当に大丈夫? 失敗しない?」
「大丈夫だって。きっとうまくいくから」
発言から「何か」を実行しているということが分かりましたが、その内容が分からず辟易していました。
こうなってしまうと恐怖ではなく、「いっそのこと一思いに!」という思いが先行していて、怖いのかなんなのか分かんなくなっていました。
「本当に中にいる?」
「あーちょっと待ってね」
ガサゴソという物音が聞こえ、ドアの下から視線を感じます。
でもそこには何もありませんでした。
おぞましい怪物も、意味ありげな手のひらも、何もありませんでした。
「大丈夫、いるっぽい」
「よかったー」
「失敗したらやばいもんね」
そして声は更にこちらに近づき、ドアの向こうから聞こえてきます。
耳を澄ますと声だけではなく、ねちゃねちゃとした粘着質な――まるで湿った肉がひしめき合っているような――音が聞こえてきました。
ドアの向こうにいるのは間違いありません。どうにかしようとは思ったのですが、冷静さを欠いた脳味噌では何も考えられず、どうにもできませんでした。
「じゃあ、いくよ」
「わかった」
「せーの」
コンコンコン、とドアが三回ノックされ、外から聞こえてきたのは。
「花子さん、遊びましょ」
聞きなじみのある文言でした。
小学生の頃に必ず聞いたことがある、まじないの言葉。「花子さん」というおかっぱ頭の少女の霊を呼び出す儀式的呪文。
最初こそ納得しかけましたが、次第に違和感に気付きました。
まず、花子さんを呼び出す場合、いくつかの条件があります。それは「霊が内側にいる状態で、人が外から呼びかけを行う」というものなのですが。
私が置かれていた状況は、その正反対のものでした。つまり、私が花子さん役として振る舞う必要があるのだと直感で理解しました。
そして、それを助長するように、娘が話していた言葉を思い出しました。
「トイレの外から呼びかけられたら、絶対に反応しないといけない」
端的に言えば、そういった内容のものでした。その発言が状況や直感と噛み合って、私に行動を起こさせました。
「は、はぁい」
やけに間延びした裏声で答えます。私は大人の男ですから、こうでもしないと高い声が出せません。むしろ、これでも低い方なので、誤魔化せるか不安でした。
「あ、反応したよ!」
「よかったあ」
「これで成功だな」
でも向こうではそんなことお構いなしに話をしていて、それで私はまあ誤魔化せたんだなと思ったわけなんですが。
現実はそんなわけありませんでした。
このままやり過ごせるかも、と思っていた次の瞬間です。
「花子さん、出てこないの?」
彼女らのうちの一人はそう言いました。そこで「ああもう全部お見通しなんだ」って悟って。
でも外に出るわけにもいかないから、言い訳ともとれない言い訳をして。
「う、うん。ちょっとね」
「ちょっとってなに?」
「お、お腹が痛くて」
意味不明だと思います。そもそも幽霊に腹痛なんてあるわけないのに、それを理由にするなんて。
今思えば、これを言った時点で、あのトイレに入った時点で「詰んで」いたんだと思います。
「でも、幽霊ってお腹痛くならないよ?」
「そうだよね。私もそうだもん」
「私も。だってお腹が痛くなる原因がないからね」
ああ、ヘマしたなって。
「もしかして、花子さんじゃないの?」
「違うの?」
「でもさっきは花子さんだよって」
やらかしちゃったなって。
「花子さんを騙ったの?」
「なんでそんな失礼なことしたの?」
「なんで? 失礼だと思わないの?」
ドアが三回ノックされます。
三回ノックされて、ノックが叩くという行為に変わり。
しまいには、体当たりじみた強硬に出るようになっていました。
「出て来てよ」
「出て来てよ」
「謝ってよ」
私は個室の中で震えているだけでした。
あれほどまでに恐怖を、絶望を感じた瞬間はありません。
「出てきなさい」
「出ろ」
「黙るな」
もう耐えられなくて。
「ごめんなさい」
気が付いたら、そう口にしていました。涙を流して、ずっと震えていて。このままじゃもう駄目だと分かったからこそ、せめて許してもらおうとしました。
「よくできました!」
軽快な声が外から聞こえてきます。ああ許されたんだって思ったのもつかの間で、いつの間にかトイレの外にいることに気付きました。
ドアは、個室はと思考を巡らせましたが、すぐに答えは出ませんでした。
そしてそれから数秒遅れでやってきた肌の擦れる音と、自分から見て遠ざかっていく公園とタクシーを見て、ああなんだそういうことかと、許されることはなかったんだなあって悟りました。
今、こうして引き摺られているのはそういうわけです。
幸いにも、痛みとかはありません。
でも、これはいつまで続くんだろうなと思うと腹の虫がおさまらないというか。トイレに行っただけでここまでされることにイラっと来たというか。
せめてあいつの姿だけでも見ようと思って視界を上げたんですけど。
やっぱり、知らない方がいいこととか、理解しちゃダメなこととか、そもそも関わっちゃだめなことってあるんですね。私はそれを知らずに破ってしまっていた。だからこそ、だからこそです。
娘と同僚の顔が歪に溶け合った怪物に引きずられているという、もう悪夢の方がマシな状況に叩き込まれたんでしょうね。
罰と言いますか。そういう表現が似合うのだと思います。
光に誘われることすらなく、不条理に死ぬのが私の罰です。
<記録終了>