501号室に住んでた大家兼管理人のおじいさんはもう亡くなってる。調べた情報でも、人から聞いた話でもそうだった。だから、そこに人がいる可能性なんてないのだが。

「……今」

 僕はひっくり返った声で、マトマトに尋ねた。

「確かに、そこのドアが閉まる音、したよね?」
「……したなあ」

 マトマトもさすがにちょっと顔を青くしている。そして、そのままカメラを501号室へと向けた。
 流石に二人とも聞いている以上、気のせいということはないだろう。僕はそろりそろりとドアの前に近づいていく。
 もう人が亡くなって久しいからか、501号室には名前のプレートも何もかかっていなかった。遺族が処分したのか、それとも元々かけていなかったのか。ゆっくりとドアスコープをこちらから覗き込んでみる。が――いかんせん、こっちの部屋も暗いし、向こうの部屋も暗いのか何も見える気配はない。
 そもそもドアスコープというのは、反対側からはそう簡単に中が覗けないようになっていることが多いはずだ。仮に人がいても見えない可能性は十分にあったが。

「ど、ドア開けてみようぜ」

 マトマトが余計なことを言いだす。

「鍵かかる音しなかったじゃねえか!ならまだ鍵は開いてる、かもしんねえ!」
「いや、普通閉めるし、鍵かける音を僕等が聞き逃しただけじゃないの……」
「そうかもしれないけどそうじゃないかもしれない!ていうわけでタカ、ゴーゴーゴーのゴー!」

 お前、なんでそんなこと言いながら僕に開けさせようとしてんねん、しばいたろか。
 などと何故か心の中ではエセ関西弁でツッコミをいれつつ、僕は渋々501号室のドアノブを握ったのだった。なんだか、やけにひんやりしている。九月なのに、どうしてこんなにも氷のようにドアノブが冷たいんだろうか?
 どうせ開くはずもない――そう思っていても、僕はノブを握る手に力をこめていた。この時、チャイムを押すとか、ノックをするというのを一切考えられなかったのは多分、頭の中で「いるとしたら人間じゃない何かだろう」って考えがあったからだろう。

「うっ」

 ノブは――回ってしまった。鍵がかかっていない。これはマジで開いてしまうのか、と思った時だった。

「ぐっ……なんだこれ」

 少し開けただけで、魚でも腐ったような嫌な臭いがした。吐き気を堪えて、思わず反対の手で口を押える。これ、本当に中を確認しなきゃダメなやつ?と思う僕。いやだって、絶対これ、中はろくなことになっていないパターンだ。オバケも嫌だが、ゴミ屋敷も同じくらい嫌なのだから。ベクトルが違うと言えばそうだけども。
 ただし。

「あら」

 ガタン!と大きな音がして、少しだけ開いたドアが止まってしまった。見ればチェーンがかかっている。なんとこの中にいる人物、鍵は閉めたのにチェーンロックだけかけていたということらしい。
 鍵をかけるだけなら、外部からでもできる。しかし、外側からチェーンロックをかけるのは本来相当難しいことであるはずだ。ということは、これは本当に中に誰かがいる、ということではなかろうか。
 少し冷静になると同時に、僕は慌てた。みんなが把握していないだけで、普通に別人が住んでいる可能性もまったくゼロではなかったではないか。今、自分達はめちゃくちゃ失礼なことをしているような。

「なあ、マトマト、これマジで今別の人が住んでるんじゃ」
「え、まじ?」
「す、すみませんドア勝手に開けて!お邪魔しま……」

 お邪魔しました、と言おうとしたその時だった。



 ぬっ、と。



 白い手が、闇の中から伸びてきたのである。

「ひっ!?」

 腐臭が強くなった。僕がノブから手を離すより先に、ぐいっと内側から強く引っ張られた。勢いよくドアが閉められる。僕は思わずつんのめって倒れそうになってしまった。

「な、ななななな、な」

 今のなに、と言おうとしたのに声が出ない。思わず腰を抜かす僕の目の前で、がちゃん、と鍵がしまる音がする。そして、のし、のし、のし、と誰かが歩き去る音が聞こえた。間違いない、中に誰かがいたのだ。
 問題はそれが、人間か、生きているのかいないのかがまったくわからなかったということだが。

「すげえ」

 掠れた声でマトマトが告げた。

「すげえよ……めっちゃいい図、撮れた」
「や、やばいな。本当に人、住んでた、のか」
「ああ、住んでたんだ。でもって、生きた人間じゃねえんだぜ、きっと。そうに違いねえ。絶対そうだ、うん」

 そうだ、やっぱりそうだ、と彼は興奮したように繰り返す。自分がノブを握っていなかったからって、なんと能天気なんだろう。そして、どうしてそう言いきれるのだろう。

「え。マジ気づかなかったわけ、タカ?……お前見てなかったのかよ。ドアの向こうの景色」

 恐怖と好奇心で、ちょっと彼はおかしくなっていたのかもしれない。引きつったような笑みを浮かべている。

「真っ暗だった、マジで」

 そして、僕が見る余裕がなかった、ドアの隙間の向こうの景色を語った。

「本当に暗ぇの。真っ黒、真っ黒、まっくら、まっくら!まるで塗りつぶしたように不自然な闇だった。おかしいだろ、今、夜じゃないんだぜ?いや、夜だったとしても……こっち側の消火栓の光とかはあるだろ?それに多少は中が照らされてもおかしくないはずだろ?なのに、マジで真っ暗なんだ。塗りつぶしたみたいな黒なんだ。……あれが人間が住んでる部屋なわけあるか」
「ま、マジ、なのか」
「マジもマジ。これ、帰ったら急いで編集しねえと。絶対再生回数アゲアゲだって!」

 この期に及んでまだ再生回数の方を気にすることができるマトマトは大物なのかもしれない。いや、実際自分もまだ少し、今回の取材の動画に期待している気持ちはゼロではないが。そもそも、リクエストを無視してイモ引いて帰ることで、評判が落ちることを気にしているのも事実だが。

「お前、ここに来てから妙に肝据わってるよな。僕には真似できいないや……」

 と、そこまで言った時だった。



 ドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタドタ!



「ひい!?」

 ああ、こんな声ばっか上げてたらビビリと思われてしまうかもしれない。でも、仕方ないではないか。
 だっていきなり階段を駆け下りる音が聞こえたのだ。僕達の、すぐ背後からである。

「な、なんだっ!?」

 その人物は、六階から降りてきて、自分達の後ろを通り過ぎて下へ降りていったようだった。振り返った時、ちらっと黒い影が見えた。薄暗かった上、本当にギリギリのタイミングだったので男か女かもわからなかったが。

「すげえ!今絶対誰かいたぜ!こっちも幽霊かも!!」

 マトマトが嬉しそうに声を上げる。

「追いかけてみよう、タカ!今日はいい日だ、情報特盛ィ!」
「お、おいマトマト!マトマトー!!」

 こいつ、こんな向こう見ずなキャラクターだっただろうか。カメラを持ったまま影を追いかけて走り出すマトマト。こうなっては、僕も追いかけるしかない。
 正直、段々と逃げたい気持ちが好奇心を上回ってきている。あの影は上から来た。六階から現れたとしても、屋上からだったとしても、多分ろくなものじゃない。生きた人間なら、自分達に声をかけないのもおかしい。接触したらろくなことにならない可能性が高いというのに。

「いけいけいけいっけー!どんどんどんどん!」
「マジで待ってってば!やばいって!!」

 どっかの忍術学園のキャラクターでも乗り移ったんだろうか?ハイテンションで、黒い影を追いかけて下へと降りていってしまう。
 正直気が進まなかったが、エレベーターに乗るのも怖い以上、どっちみちいずれは階段を降りるしかないのも確かだった。だから途中までは仕方ないし、どうせ見失うだろうと思っていたのだけれど。

「待て、待てって、マトマト!」

 なんと彼は一階を通り過ぎて――さらに、地下への階段を降りてしまった。
 確かに、一度地下は確認したい気持ちもあったのは事実だ。だが、あの韮澤氏の証言などもあるし、元々やばい何か――あざはるさま、とやらは地下に埋まっていた可能性が高い。今も地下に、その温床となる呪物が存在する可能性が極めて高いのだ。だから手間暇かけて、あの男はエレベーターの出口を塞いだと言っていたのだから。
 そして、あの黒い影も明らかに地下一階へと降りていった。どう見ても、嫌な予感しかしないではないか。
 ところが。

「うえ?」

 マトマトの足が急に止まり、僕は彼の背中にぶつかりそうになった。なんだなんだと見て見れば、彼の目の前にはシャッターが降りているではないか。鉄柵の隙間は狭く、とてもじゃないが人が通れるような代物ではない。
 シャッターの向こうは完全な真っ暗闇で、ほとんど何も見えなかった。

「あれ?おかしいな……あいつ、こっちに逃げて来たはずなのに、通れないぞ?どこ行った?」
「いい加減にしろって、お前!」

 僕はマトマトの腕を掴む。

「もういいだろ!?人が通れないようなシャッターあるのに消えたってことは、明らかに人間じゃないんだって!これ以上はさすがにやばい、戻るぞ!絶対何か……」




 ずずずずずずず。




 何か。
 重たいものが動くような、嫌な音がした。それはRPGのゲームとかで、石像を引きずってギミックを動かす音に似ている、と思う。同時に僕はここでようやく、さっき501号室のドアを開けた時に嗅いだのと同じ、魚が腐ったような臭いをかぎ取ることになるのだ。

「何かいる」

 マトマトがそう言って、カメラを持っていない手でスマホを取り出した。そして、ライトモードにして、目の前に光を照射する。
 そして。

「ひいいいっ!?」

 僕は倒れそうになってしまった。シャッターの真正面。ああ、すまない、写真を撮る余裕がなかったのでそういうのを載せることはできないけど、でも信じてほしい。
 シャッターのすぐ前に、それ、がいたのだ。灰色の猿ような、謎の石像。その石像は両手を前に差し出したようなポーズをしていて――その手には、長方形の皿のようなものを持っているのだ。
 その皿の上、びくんびくんびくん、と痙攣しているのは、血塗れの、死にかけた魚。臭いの元はこれだとすぐに気づいた。

「や、やべえ」

 自分は、その景色をはっきり見ていない。それでもわかる。さっき、明らかに石像が動く音がしていたのだ。
 ということはライトを照射する直前、石像はシャッターの前に移動してきたのではないか。そう、僕達の方向へ――。

「逃げろおおおおおおお!」

 やばい。これはもう、完全にやばい何かだ。本能が激しく警鐘を鳴らしていた。
 僕は絶叫し、マトマトの腕を強引に引っ張って――上の階へと引き返したのだった。