【1話だけ大賞受賞・完結】炎華繚乱 偽の姫は予言の皇子と玉座を目指す

 彼女の手を握る炎俊(えんしゅん)の指先の熱に、朱華(しゅか)は狼狽えた。闘神──怪力の力を持つ芳琳(ほうりん)とはまた違う、男ならではの力強さも落ちつかない。それに、彼は今、何と言っただろう。

「見に行くって──今から!? どこに!?」
「我が領地、永州(えいしゅう)だ。早く。暗くなる前に」

 炎俊が当然のように述べた、領地、という言葉についてはまあ分かる。

 四つの宮の皇子たちを競わせて次代の皇帝を選ぶのが昊耀の倣い。とはいえ、古の御代ならまだしも、皇子たちが軍を率いて戦うようなことはもうしない。
 身内の争いで尊い血を流すくらいなら、国を富ませるような方法で行われるべきだと、いつの頃からか考えられるようになったらしい。そして落ち着いたのが、皇子たちのそれぞれに領地を与え、いかに富ませるかを見る、という今のやり方だ。

 そこで炎俊に割り振られたのが、永州という地らしい。でも、問題はそこではなくて──

「その永州ってどこにあるのよ。私、帰ったばかりなのに!」

 皇子の領地は皇都からそう離れてはいないはず。とはいえ、皇子の外出には面倒な手続きや準備が必要ではないのだろうか。朱華も、気の張るお呼ばれの後でゆっくり休みたいところなのに。
 でも、炎俊はこともなげに笑う。

「何のための遠見の目だと思っている?」

 つまりは、実際に移動するのではなく、遠見で()()()()、という意味らしい。

「でも。行ったこともないところを()()なんて──」
「大丈夫だ」

 炎俊の手に力がこもり、朱華の頬が熱くなった。自信たっぷりに請け合う、頼もしい──そして綺麗な笑みに絶句するうち、彼は続ける。

「陶家の屋敷の場所は分かるな? 皇宮との位置関係も。皇宮の外に広がる皇都の街並みを越えて、建祥門――北の城門の向こう。街道を辿って進め。鳥になったような気で」
「う、うん……!」

 皇宮。都。城壁を出て、北へ。
 炎俊に言われるがまま、朱華は遠く、遠くへと()を向けた。それこそ大空を飛ぶ鳥のように。
 これほどに遠くの景色を視ようとしたのは初めてだったけれど、そこに視るべきものがあると教えられれば、視線を届けるのは容易かった。

 目の前の庭を見渡すのと同じことだ。木の枝に止まった小鳥、葉の影に隠れた蝶――一度そこにいると気付けば、見過ごしようもない。それと同じように、今まで見ていなかった世界があると、炎俊の言葉が教えてくれた。

(あ、面白い……!)

 眼前を覆った幕が次々と取り払われて、世界が広がっていくかのようだった。目の前の池も睡蓮も茶も菓子も、もはや意識になく、朱華の《目》は遥かな外を追う。壮麗な皇宮を出て、下々が暮らす街並みを通り過ぎて。城門を出た先は、朱華が直に見たことがない景色だ。

 皇都へ入ろうとする者、これから出て行こうとする者。城門が閉まる日没が間近だからか、皆急いでいる。
 あるいは荷を背負い、牛や馬に車を曳かせて。馬車や牛車の荷台に積まれたか樽やら箱やらは何かしらの商品だろうか。薄汚れた衣服で汗を拭う御者の横を、金持ちの物見遊山なのか瀟洒な輿が通り過ぎる。

 遠見では音を聞くことはできなくても、城門の辺りの喧騒や賑わいはよく分かった。皇都は旅の始まりか終わりの場所だから、(たむろ)する人々の顔は明るく、彼らのしきりに動く口が紡ぐのが明るい言葉だろうと容易に思い浮かべることができるから。

 朱華のそれを握る炎俊の手に、少し力が篭った。市場で目移りして、ふらふらとさ迷って迷子になりそうな子供を御するかのよう。

「青い(かめ)を積んだ牛車がいるのが視えるか?」
「ええ。白い髭のおじいさんと――孫かな。ふふ、男の子が草の葉を振り回して……」

 とはいえ、浮かれている自覚はあるから、子供扱いでも今はそう気にならない。むしろ、炎俊とふたりで皇都の城門辺りを散策しているような感覚は楽しかった。同じ《力》を持つ者と同じ光景を視るのも、彼女には初めてのことだった。

「南方の酒を仕入れた帰り道かな。完全に暗くなる前に、最寄りの村まで進むつもりだろう。彼らが進む方向が永州だ」
「白い石碑が続いている方?」

 街道の脇に、人の腰の高さほどの石碑が立っている。その方向に《目》を向ければ、肉眼ならば見えるか見えなくなるか、くらいの距離にまたひとつ、同じような白が見える。そして視界の果てるあたりに、またひとつ。
 街道に沿って並ぶ石碑の表面には、数字が順番に彫りつけられている。皇都から離れるほど大きくなる数字は、まるで――

「これは、目印なのかしら?」
「そうだな、旅人にとっても、遠見にとっても。石碑に目が追いついたら、次を探せ。そうして辿るうちに永州に着く」
「分かったわ」

 炎俊の言葉は本当だった。城壁の外の世界はあまりに広くて、漫然と見渡すだけではどこに焦点を当てれば良いか分からなくなってしまっただろう。でも、街道に加えて石碑という標があれば分かりやすい。
 旅人や商人を追い抜いて、川を越え丘を登り、豊かな緑や道端の花、草を食む牛や羊の群れも目に留めつつ、途中の小さな村や町の暮らしもちらりと眺めて――そうして、石碑の数が二十を越えた頃に、朱華はやっと辿り着いた。

「『永』の字の旗が立つ城門――この先が、永州、なのね?」

 尋ねると、炎俊が手を握ったまま笑う気配がした。すぐ傍らにいるのに、今の朱華には遠い。彼女の《目》は、遥かな地を見ているから。炎俊もきっと同じだろう。

「そうだ。日没にはまだ間があるな。我が領を案内してやろう」

 肉眼でも遠見でもない幻の光景が、朱華には見える気がした。一歩先を進む炎俊が、彼女の手を引いて振り返りながら微笑むのだ。もしかしたら、夫婦での小旅行とか散歩とか、そんなものに相当するのかもしれなかった。

 朱華と炎俊は、しばらくの間永州を「旅」した。
 もちろん、遠見の目をその地に遊ばせたというだけで、ふたりの肉体は皇宮の一角にとどまったままだけど。
 見たことのない花の香や、皇都とは違う訛りの声、木々の葉が揺れる音、その地に吹く風──そんな、目に見えないものまで感じた気がして――とても、楽しかった。

「あの畑では何を育ててるの? 穀物……麦かしら」
「ああ、そなたは収穫など見たことがないのか。そうだな、麦は夏に実るものだ」
「あれは、漁船かしら。これから出るところ? もうすぐ夜なのに?」
「篝火で魚をおびき寄せる方法があるそうだ」
「へえ……どんな魚が取れるのかしら」
「庶民の料理は、私も食したことがないな。今度取り寄せるか……そのうち実際に行くことができれば良いが」
「うん……」

 実際に歩いている訳ではないとはいえ、長い時間遠見の力を揮い続けるのは心身の負担になるものだ。朱華の相槌は、溜息混じりの力ないものになった。

「まあ、今日はこのくらいで良いだろう」

 彼女の疲れを読み取ったのか、炎俊はそっと手を離した。

(……戻らないと。目の、焦点を合わせて──)

 軽く目を閉じ、息を整え、意識を永州からこちらに戻す。そしてまた目を開けると――満足げに微笑む炎俊が、間近に微笑んで朱華を見下ろしていた。
 ずっと握り合っていた手が解かれる。温もりが去ってしまうのが、なぜかとても寂しかった。

「私がやろうとしていることのひとつが、あの石碑だ。遠見の力が弱い者でも、()()があれば場所の特定が比較的楽になる。時見については、例えば暦に従って違う色の旗でも掲げておくとか──」

 炎俊はとても大事な話をしようとしている。皇太子候補として、彼がどのような政策を考えているか、効率的な力の使い方について。力の弱い者のための施策は、佳燕(かえん)が欲しているものでもあるはずで、そこも詳しく聞かなければ。

「ねえ」

 でも、真っ先に朱華が追及したいのはまた別のところだった。

「さっき、実際に行く、って言った? 妃でも、後宮の外に出られるの!?」

 性急に遮られて、炎俊は軽く目を見開いた。

 永州を()している間に、辺りはすっかり暗くなっていた。
 濃紺の空には星がちりばめられ、それが池の水面にも映って銀砂の煌めきに囲まれているよう。その、仄かな明かりに浮かび上がる炎俊の顔は、昼間とも閨の暗さの中とも違った風情がある。どこか色気さえ漂わせる整った顔が、不思議そうに傾いた。

「むしろ、来てもらわねば困る。私は妃を後宮で遊ばせておくつもりはないのだ」
「だって私……花街でも陶家でも自由に出歩くなんてできなかったんだもの!」

 戸惑いと憧れ、期待と疑いの間で揺れる朱華の想いを、炎俊が理解できたとは思えない。今までの人生で籠の鳥同然だったからこそ、炎俊に示された広い世界に惹きつけられるのだ、と。
 でも、とにかく。朱華の夫はにこりと笑うと彼女の頭をぽんと撫でた。例によって犬や猫の仔を撫でるような手つきではあるけれど、とりあえずは優しい仕草だった。

「ならば良かった。これも褒美のひとつになるのかな」
 興奮を鎮めるため、朱華(しゅか)はほったらかしにしていた茶器を口に運んだ。茶はとうに冷めきっていたのが、かえって好都合だった。

 すっかり乾いていた喉を潤して、ようやく落ち着いたところで、しみじみと言う。

碧羅(へきら)宮で、大姐(おねえさま)がたに言って差し上げたの。我が君様のお求めにお応えできるなら光栄、って。……正直、売り言葉に買い言葉だったんだけど、言っておいて良かったと思うわ」

 朱華に自由をくれるなら。彼女を閉じ込めていた鳥籠の扉を開けて、広い世界に連れ出してくれるなら。

「嬉しいことを言ってくれる」

 永州(えいしゅう)までの遠見は、炎俊(えんしゅん)にとってもそれなりの大事だったらしい。疲れを取ろうというのか、残っていた砂糖菓子を口に放り込みながら、彼は笑った。
 珍しいほど素直な朱華の言葉が、嬉しかったりもするのだろうか。菓子を噛み砕く軽やかな音が響いた後、炎俊は熱っぽく語り始めた。

「今は永州で試験的に施行しているだけだが、上手く行ったら昊耀(こうよう)の全土に広げるよう、皇上(こうじょう)に進言するつもりだ。貴族の家々は、自領を統治する術を秘匿しているからな。だから効率が悪いのだ」
「……どういうこと?」

 炎俊にすべて食べられてしまう前に、菓子をひとつ確保しながら、朱華は首を傾げた。
 遠見や時見の目印として石碑を置いておく、というのは良い考えに思えるけれど。名家と呼ばれる方々は、これまでその方法を思いつかなかったのだろうか。

「そうだな。例えば──」

 知らなかったのか、と言いたげに目を瞬かせながら、炎俊は続ける。語りたくてたまらない話題らしい。

「罪人が逃げ込みそうな洞窟だとか谷間だとか。ここまで増水したら危ない、という堤防に、春の訪れを告げる花が蕾をつける枝──そんな知識を集積しておけば、治安の維持にも民の営みにも何かと便利であろう? だが、古くからその地を収める家は他者には漏らしたがらないから──」

 旦那様が楽しそうなのを、妻としては喜べば良いのかもしれないけれど。朱華は、どこまでも続きそうなご高説を、ずっと聞いてはいられなかった。頭を抱えて、卓に突っ伏しながら、呻く。

「……あんたが嫌われてる理由もよく分かったわ」
「碧羅宮での話か? 義姉(あね)上がたは何と?」
「今よ、今! 貴族の昔からのやり方に口出しするなんて、嫌がられるに決まってるでしょ!」

 炎俊が言った秘訣とやらは、たぶん、それぞれの一族が子孫だけに教える情報だ。余所者にはそれを教えないことによってこそ、彼らは権力を保っているのだろうに。彼の政策は、先祖代々受け継いできた財産を取り上げるのも同然、反発があって当然だった。

「だが、効率的な統治によって領地が栄えれば、貴族も利益を得るではないか」

 朱華にも分かるていどのことなのに、炎俊は怪訝そうに眉を寄せている。彼の不満げな顔に、朱華は思わず指を突き付けて喚いていた。

「少しずつとか根回しとか、色々あるでしょ! あんたのことだから、上の皇子様がたや大姐(おねえさま)がたにも、きりきり働け、とか言ったんじゃないでしょうね……?」
「そうだが?」

 そんなはずはないでしょうね、の意味を込めての問いかけだったのに。何も分かっていない顔つきのまま、炎俊はあっさりと頷いた。

 (()()()()と一蓮托生なの……)

 遠見の《目》を酷使しただけではないどっと疲れが押し寄せて、朱華は目を閉じて額を抑えた。暗く閉ざされた視界にある思い出が浮かんできて、そっと息を吐く。

「そういえば、あんたって昔からそうだったわ……!」
「何の話だ?」
「人の気持ちが分からない、って話!」

 まだ、ふたりともが花街にいたころのことだ。妓楼の店先の掃除を命じられた炎俊が、頑なに首を振って従わなかったことがあった。

『明後日には雨が降るのだから必要ない』

 時見で知ったのだろうから嘘ではなかったのだろう。でも、もちろん妓楼の者には怠けようとする口実にしか見えなかった。それで叱られても殴られても、炎俊は頑として「無駄なこと」をしようとはしなかったものだ。
 ……たぶん、貴族や皇族の反発を避けたり妃たちを懐柔したり、も、炎俊にとっては「無駄」なのだ。

(……だから私、もっと上手くやらなきゃ、って思ったんだったわ……)

 朱華のほうが年下だったのに。炎俊を放っておくと危なっかしい、と思ってしまったのだ。もっと人が耳を傾けたくなるような話の作り方や持って行き方や立ち居振る舞いを、考えてやらなければ、と。

 あの時の使命感というか義務感が蘇って──抗えないのを悟って、朱華はもう一度溜息を吐いた。降参、の意味だ。

「分かった。どうせ、もう逃がしてはくれないのよね? あんたを皇帝にしてあげる。そのために尽力してあげるわ。その代わり、皇后になったら贅沢三昧させてよね!?」
「うん。そなたの願いも忘れていない。──朱華」

 炎俊は、優秀ではあるのだ、本当に。律儀でもある。朱華が口にした願いを真に受けて、忘れないでいてくれるていどには。

(どうせ、呼び方ひとつで機嫌を取れるなら安いもの、とでも思ってるんでしょうね……)

 なのに、嬉しいと感じてしまうのは。胸が高鳴って、頬が熱くなってしまうのは。絶対に、不覚、というやつだった。

(夫婦なんだもの。名前を呼ばれたくらいでいちいち照れてたら、身が持たない……!)

 不本意に上がってしまった熱を、首を振って追い払って──朱華は、思い出した。昼間のお茶会の後での出来事、佳燕(かえん)芳琳(ほうりん)と話したことを。

「ねえ。永州で試してるのって、時見や遠見だけ? 水竜や……闘神の力については、何かやってないの?」
「考えていないわけではないが──どうした、急に」

 炎俊にとっては急な話題だっただろうに、それでも生真面目に応えてくれた彼は、やはり律儀だった。冷静な表情も、いつも通りだったけれど──朱華の報告を聞けば、さすがに少しは驚くのではないだろうか。

「私も、碧羅宮でちゃんと()()をしてきた、ってことよ」

 第一皇子の妃の凰琴(おうきん)と、言葉で殴り合ってきただけではない。もっと実りのあることを話せた方々も、いるのだ。

(あんたのやってることに興味を持ってくれる姫君なんて、貴重でしょう?)

 得意な思いに、頬が緩むのを感じながら、朱華は胸を張って告げた。

「あんたの話を詳しく聞きたい、って方々がいるの。皓華(こうか)宮の佳燕様と、辰緋(しんぴ)宮の芳琳《様──星黎宮(うち)にお招きしても、良いかしら!?」
 黒を基調に、絢爛な装飾が施された星黎(せいれい)宮は、その名の通り、星が散りばめられた夜空を思わせる、荘重かつ美しい宮殿だ。

 東の碧羅宮は、青。南の辰緋宮は、赤。西の皓華宮は、白。そして北の星黎宮は、黒。
 皇太子候補の四人の皇子に与えられる宮は、それぞれの方位に対応する色で飾られている。宮の主の立場に相応しく、皇帝と皇后の住まいに次いで皇宮の中でも格式高く、壮麗な──とても、特別な殿舎だ。

 その特別な宮のひとつに、今は「(とう)家の雪莉(せつり)姫」が迎えられている。それも、ただひとりの妃として。相手が市井出身の炎俊(えんしゅん)皇子なのがやや危ういが、陶家にとってはたいへんな名誉である。
 陶家に仕えた(ほう)にとっては、妓楼育ちの下賎の娘を鍛え、躾けた甲斐があるというものだった。「雪莉姫」の監視役──表向きは相談役──として、彼女も星黎宮に入る気満々だったし、妃の側近兼皇子の外戚への窓口には、敬意が払われるものと疑っていなかった。

 だが──

「なぜです。なぜ、この私が()()()についていて差し上げられぬのですか!?」

 なぜか、最初の夜に星黎宮に送り届けて以来、峯はあの娘に会えていない。豪奢を極める宮の内部をじっくり眺めることが許されないのは不満だし、何より、あの生意気な娘を野放しにしておくことなど思いもよらない。

「碧羅宮へのお招きも、勝手に承諾されたと──お衣装や髪形のお手伝いをしなければならなかったし、心構えもお伝えしたかったのに……!」

 あの娘が、碧羅宮での妃たちの茶会に出席したと聞いて、峯は卒倒するような気分を味わった。
 遠見の力に加えて、あの娘の見た目の良さも機転も認めざるを得ないが、時に反抗的な顔つきをするのをかねてから懸念していたのだ。
 (そう)凰琴(おうきん)を始めとした手強い妃たちの機嫌を損ねぬよう、立ち回りには最新の注意を払わねばならないのに。陶家の姫としていかに振る舞うべきか、改めて叩き込んでおきたかったのに。

「陶妃様の身の回りのことは、何もかも私が滞りなく整えさせていただいております。ご実家の方々のお手を煩わすことはございません」

 なのに、紫薇(しび)とかいう若い侍女は、きっぱりと言い切って峯を宮の中に通そうとしないのだ。皇子に仕えるだけあって顔かたちは整って、所作も優美そのものだが、だからこそ傲慢さや冷ややかさも感じられて気に入らない。

(年寄りだと思って侮っているのか。陶家の後ろ盾は、炎俊皇子にとっても大事だろうに……!)

 峯が睨んでも、紫薇の微笑は揺らがない。皇子に仕える侍女に怒鳴りつけることなどできないのを、見透かされているのだろう。

「ですが、馴染んだ者がいなくては、雪莉様もお寂しいかと……!」
「陶妃様とは、もう親しくお言葉を交わしていただいております。年が近い者同士、気安いと思ってくださったのかもしれません」
「お若い方々だけでは目の届かないこともおありでしょう。うるさいとはお思いでしょうが、年寄りもいたほうが──」
「炎俊殿下の思し召しでもございますので。おふたりきりで過ごされたいのでしょう」

 必死の思いで食い下がっても、皇子の意向を持ち出されてはなす術がなかった。ぎり、と歯軋りして押し黙る峯に、紫薇は勝ち誇ったように──彼女にはそう見えた──微笑んだ。

「ご心配は無用です。碧羅宮ではお話が弾んだとのことで、辰緋宮と皓華宮のお妃がこの宮を訪ねてくださることになりましたから」
「まさか、そのような──」

 星黎宮に、というか、炎俊皇子にわざわざ近づこうとする妃がいるとは信じがたくて、峯は目を瞠った。

(それは、何かを企んでのことなのでは? 碧羅宮の方々は見過ごしてくださるのか?)

 あの娘が何かしでかせば、陶家にも累が及びかねない。否、むしろあの娘は報復として陶家を道連れにしようとしているのかも。何より──

(これ以上の勝手を許せば、()()が台無しではないか……!)

 疑い焦るあまり、峯は目の前の紫薇のことを束の間忘れていた。

「……ということですので、今日のところはお引き取りくださいませ。御用があれば、陶妃様からご連絡なさいますでしょう」

 思い出したのは、有無を言わせぬ笑顔で帰れ、と言われてからのことだった。

(小娘が……!)

 かつてあの娘にしたように、鞭で打って思い知らせてやれれば、と思うが──無論、できない。峯にできるのは、不信と不満と苛立ちとを、声と眼差しに込めてあて擦ることくらいだ。

「炎俊殿下が、雪莉様をそれほどお気に召してくださるとは光栄でございます。お立場も評判も考えられぬほどに、陶家の気遣いを退けるほどに独り占めされたいとは! そのようなご意向にも従わねばならぬとは、仕える方々もご苦労なさいますな!」
「私は、炎俊様に忠誠を誓っておりますので。その炎俊様が選んだ御方にお仕えすることも、心から嬉しく思っております」

 紫薇は、さらりと述べると文句のつけようもないほど優雅な所作で一礼した。嘘を言っているようには見えないが──揺るぎない声は、かえって峯に疑念を抱かせた。

(この女は例の予言を信じているのか? 皇宮の中でもまともに信じる者はごく少ないのに?)

 雪莉姫を嫁がせた陶家でさえ、大穴に賭けた、くらいのつもりであるのに。炎俊皇子に忠誠を誓う者がいるなど、にわかには信じがたかった。
 それだけではない。不審な点はまだほかにもある。

(炎俊皇子は、本当にあの娘をそれほど気に入ったのか? 外戚に陶家の力を望んだのではなく? 下々の生まれ同士で、よほど馬が合ったのか?)

 考えるほどに、何かがおかしい、と思った。だが、それらの疑問を紫薇にぶつけたところで、正直な答えが返ってくるはずもない。

「もったいないお言葉です。では──雪莉様を、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「はい、もちろんでございます」

 なので、峯はこの場では大人しく引き下がることにした。丁寧に拱手の礼をすれば、紫薇は安堵したように返礼した。

(調べねば。この女のこと、星黎宮の内情について。下賎の小娘の思い通りにさせてなるものか……!)

 陶家は栄えなければならないし、雪莉姫は高い地位に上らなければならない。……そのためには、手段を選んではいられない。

 決意を胸に、峯は星黎宮を後にした。
 碧羅(へきら)宮での茶会から数日後──佳燕(かえん)芳琳(ほうりん)星黎(せいれい)宮に招く話は整った。客人を迎えるために、朱華は鏡台の前に座らされている。鏡越しに見る紫薇(しび)は、なぜかとても機嫌が良さそうだった。

星黎(せいれい)宮に、ほかの宮からお客様を迎えるなんて。こんな日が来るとは、思ってもみませんでした……!」

 流れるような手つきで朱華の髪を梳きながら、日ごろは控えめな侍女は、歌うような調子で言った。

「そ、そう……?」

 まるで、友だちがいない子供に遊び相手ができて安心したかのような、大げさな物言いに、朱華は首を捻ってしまう。

(でも、そうかな……大姐(おねえさま)がたのあの調子だと、皇子同士もそんなに仲良くなさそうだし……)

 紫薇だって、炎俊の母親や姉のような目線で言っているのではないだろう。
 主の勢力は、使用人の立ち位置にも影響するものだ。妓楼でも、誰が売れっ子だとか落ち目だとかで勢力図は変わってくる。後宮ならなおのこと、主の立場が不安定だと、使用人は肩身が狭いどころか命の危険を感じることだってあるかもしれない。

「あんなご主人で、貴女たちも大変だったんじゃ……?」
「それは──でも、皇上(こうじょう)の予言を信じておりましたから。それに、大した力もない身を、この宮に置いていただいた御恩がありますし……」

 紫薇は大きく首を振ったけれど、言い訳のように述べた言葉はかえって朱華の懸念を裏付けた。空気を読んだり方便を使ったりをしない炎俊のこと、星黎宮の使用人たちは、これまで不安な思いをしていたのだろう。

(皆のためにも、もっとしっかり、って言っておかないとね)

 後でお説教を、と心に留めてから、朱華は鏡の中の紫薇に微笑みかけた。
 お客様を迎えるための身支度は、いつもよりも時間が掛かる。この機会に、この侍女ともっと話をしておきたかった。

「ねえ、紫薇にも何かの力があるの?」
「宮女をしていた母が、さる尊い御方のお情けを受けたとのことで──といっても、本来ならとうてい皇宮に留まれるほどの力ではなかったのですが」
「ふうん……」

 何の力か言わないのは、簡単に人に明かさないのが礼儀なのだろうか。紫薇の母君も、何やら委細ありげで立ち入ったことは聞きづらいし。
 紫薇が髪飾りを選ぶ間、朱華は次に何を言うべきか、しばらく考え込んだ。

「えっと。星黎宮も、ずっと妃が私だけってわけには行かないと思うんだけど、紫薇は──」
「とんでもないことですわ! 私には分不相応なことです」

 口では強く否定しながら、紫薇はどこまでも優しい手つきで朱華の髪に絹で造った躑躅(ツツジ)の花飾りを挿した。燃えるような花の色は、やはり彼女に似合う、と思う。

「私のような者は、これ以上生まれてはいけませんもの。私は、侍女としてお仕えするだけで十分幸せなのです」

 朱華の髪を整え終えた紫薇は、今度は彼女の正面に回って微笑んだ。次は、化粧に入るのだ。顔に触れる紫薇の指先は、ひんやりとして心地好い。

(私のような者って……ずいぶん卑下するのね。力の有無や強弱で人の価値を決めるなんて……)

 言いたいことも聞きたいことも、まだまだあったのだけれど。唇に紅筆が近づくと、口を開くわけにはいかなくなってしまう。だから、紫薇とのやり取りは中途半端なところで終わってしまった。

      * * *

 佳燕と芳琳は、ほぼ同時に星黎宮に到着した。西の皓華(こうか)宮と南の辰緋(しんぴ)宮と、それぞれ北の星黎宮との距離は違うのだろうけれど、楽しみにして時間んぴったりに参上してくれたのだろうな、と感じる。迎える朱華としては嬉しいし、おもてなしにも気合が入る。

 二台の轎子(こし)から声が響くのも、ほぼ同時だった。ひとつは淑やかに、もうひとつは弾んで軽やかに。

雪莉(せつり)様、お招きいただき、誠にありがとうございます」
「雪莉様には赤が似合うのですね。とてもお綺麗です! 辰緋(しんぴ)宮にもおいでいただきたいですわ」

 佳燕の微笑は今日も優美だったし、率直な賞賛をくれる芳琳は可愛らしい。先日とは違った楽しい会になる予感に、朱華の頬も緩む。

(辰緋宮はやっぱり赤いのかな? 南の色だものね……)

 まだ見ぬ第二皇子の宮の煌びやかさを思い浮かべながら、朱華は歓迎の想いを込めて、丁寧に拱手した。

「おふたりとも、ようこそお出でくださいました。炎俊様も、お待ちしていらっしゃいましたのよ」

 これは、お世辞なんかではない真実だ。何しろ、下々のように力を振るうのを嫌い、市井育ちの皇子を見下しているとばかり思っていた妃たちの中から、話を聞きたいという方々が名乗り出てくれたのだ。炎俊は、それこそ初めて友だちと遊びに出かける子供のように、明らかにうきうきとしていた。

(でも、()()調子で捲し立てたら、おふたりが怯えちゃいそうだから──)

 最後まで楽しく和やかな席にできるよう、一応の()は打っておいたのだけれど、果たして成功するかどうか。少し緊張しながら、朱華は客人ふたりに微笑みかけた。

「庭に、席を用意しましたの。広いところのほうが、気兼ねをしなくて済みますでしょう?」

 佳燕と芳琳を案内したのは、先日、炎俊と永州(えいしゅう)の遠見をした四阿(あずまや)だ。睡蓮の花がまだ盛りなのが理由のひとつ。そしてもうひとつは、力の使い方の話をするなら、呪の施されていない屋外が都合が良いからだ。

 さらには、ほかの皇子の妃と炎俊が会うことで、醜聞の種になってはいけない。
 帝位を狙う競争相手とはいえ、義理のきょうだいで家族同然の間柄なのだから、本来は会ったところで何の問題もないはずなのだけれど──なるべく隙を見せないに越したことはない。壁もない、傍から丸見えの四阿で不貞なんてとんでもない、ということにしておいたほうが良いだろう。

 庭が近づき、水と緑の瑞々しい香りと気配が感じられるようになったころ──朱華の背後から聞こえるふたつの足音が、少し重く、遅くなってしまった。佳燕と芳琳の、小声での囁きも聞こえる。

「……私、緊張してきましたわ」
「私も。炎俊様は、これまでは式典の時などに遠目にお見かけするだけでしたから……」

 皇族のくせに積極的に平民を登用し、妃までもこき使う気満々だという炎俊に、教えを乞おうというのだ。控えめな佳燕や、幼い芳琳が怯えるのも無理はない。
 客人の緊張を解すべく、朱華はくるりと振り向いて明るく言った。

「我が君の評判は、想像がつきますわ。恐ろしい、厳しい方だと思われていらっしゃいますのね? でも、心配はご無用ですわ。お願いしていた()()()は、お持ちしていただけましたのよね?」
「え、ええ」
「もちろんですわ……!」

 佳燕と芳琳がこくこくと頷いたところで、視界に眩しい光が差した。戸外に出たのだ。太陽の光が木々の緑を輝かせ、池の水面を渡る爽やかな風が、心地好い涼気を届けてくれる。

 麗しい風景の中、凛と立って妃たちを迎える炎俊もまた、見た目には麗しい貴公子だった。

「佳燕義姉(あね)上、芳琳義姉上。親しくお話する機会をいただき、嬉しく思っております」
「こ、こちらこそ……」
「星黎宮にお招きいただき、光栄ですわ」

 礼儀正しい微笑と口上に、佳燕と芳琳もややぎこちなく挨拶を返す。朱華がしつこく言い聞かせた甲斐あって、第一印象はそう悪くないようだ。……では、次の手を打つ時だ。

「おふたりから、炎俊様にお土産があるそうですの。ね、佳燕様、芳琳様!」

 朱華の目配せに応えて、佳燕と芳琳は侍女に携えさせていた包みを炎俊に()()した。

月餅(げっぺい)でございます。餡に南国の果物と、香辛料も使っておりますので、珍しくて華やかな味わいかと──」
「桃の(シロップ)漬けの蛋糕(ケーキ)です。辰緋宮には、桃林がございますから」

 説明しながら、ふたりの視線は不安そうに朱華を窺っていた。それぞれの宮で自慢の甘味を持参して欲しい、と言われたものの、こんなもので良いのだろうか、と思っているのだろう。でも──

「ありがとうございます。私は、甘いものに目がないのです」

 朱華が思っていた通りだった。
 炎俊は、輝くような満面の笑みでお土産の菓子を受け取った。最初の社交的な微笑とは打って変わった、心からの嬉しそうな笑顔だ。声も、明らかに弾んでいる。

「そ、そうでしたの……?」
「あの、本当に美味しいのです。お気に召すと良いのですが……!」

 怖と思って構えていた相手の、子供のように無邪気な姿を見せられて、佳燕も芳琳も自然な笑みを浮かべていた。

(厳しい皇子様が甘いもの好きだなんて、思わないもの。隙を見せると落差(ギャップ)で気を許してもらえるのよ……!)

 花街で見て覚えた手管が成功したのを見て取って、朱華は内心で快哉を上げた。炎俊に勧められて席に着く佳燕と芳琳の所作からは、ぎこちなさが消えていて──今日は、楽しい会になりそうだった。
 卓上に積み上げた菓子を摘まみつつ、炎俊(えんしゅん)()()を始めた。

佳燕(かえん)義姉(あね)上は、時見の力が弱いとか。まったく見えないのですか、それとも見えたのがいつ、どこのものごとなのか分からないということですか」
「両方、でしょうか……お恥ずかしいことですが。見えるものもぼんやりとしていることが多いですし……優れた方はいつ、どこの過去や未来を見たのか分かるものだと聞きますが、私にはそれも区別がつかなくて」

 あるいは、()()、とも言えるだろうか。
 炎俊の冷静な問いかけは医者のようだし、不安げにおずおずと答える佳燕は、重い病気ではないかと怯える患者のようだった。……膝の上にきっちりと手を揃えた佳燕に比べて、言葉の合間合間に菓子を口に放り込み、話を聞きながら咀嚼する炎俊は、医者としてはだいぶ不真面目だっただろうけれど。

「訓練としては、毎日違いがあって、身近なもの、かつ記録が取りやすいものを見るのが良いでしょう。花の蕾が開いていくのとか、朝食の献立とか。記録と照らし合わせれば、いつのものを見たのか分かりますから。未来見については、見たもののほうの記録が必要になりますね」
「はい」
「慣れれば、()()()も掴めてくるでしょう。そうすれば、より遠くの地、より離れた過去や未来を見ることができるようになっていくはず。私が会った平民出身のものたちは、そうでした」
「心強いお言葉です」

 態度はともかく、炎俊の言葉は説得力があって、朱華にとっても興味深いものだった。

(時見や遠見の力があっても、何が見えたか分からない人もいるんだ……!)

 朱華にとっては、遠見の感覚は実際の視界に映るものを見るのと変わらない。遠近の感覚は教えられずとも分かるし、首を傾げたり目線を上げたり下げたりするのと同じ感覚で、見る角度を変えることもできる。でも、どうやらそれは普通のことではないらしい。

(でも、言われてみればそうかもね。昨日と今日と明日とで、庭の眺めがそう変わるものでもないし……遠見のほうが()()を合わせるのは難しそう……?)

 芳琳も真剣に聞き入っているのを見れば、自分にはない力の持ち主の見え方や感じ方は、やはり新鮮なのだろう。今日は、思った以上に有意義な会になるのかもしれない。

「あとは、見ようとする対象への思い入れも重要です。見慣れたもの、愛着があるもののほうが見やすいようです。なので、佳燕義姉上なら、翰鷹(かんよう)兄上を練習台になさると良い」
「え、我が君様を……?」
()()も、よくご存じでしょうし」
「目印と、仰いますと──」
黒子(ほくろ)の位置とか。明確な(イメージ)を持ったうえで、()()をじっくり見よう、という意識を持つと見えやすいようです、遠見でも時見でも」

 佳燕が、耳まで真っ赤に染まった。夫君の寛容皇子の、黒子の位置を熟知する機会は、当然あるに決まっているけれど──昼日中に、義理の弟に出されたい話題では絶対にない。

(まったく、せっかく良い感じだったのに……!)

 炎俊の無神経さが発揮されつつあるのを察知して、朱華は素早く口を挟んだ。

「佳燕様は、第三皇子殿下と仲睦まじくていらっしゃるとか。お召し物も、佳燕様が選ばれるのかしら。模様なんかも目印になりそうですわね……!」
「え、ええ。翰鷹様にお話して、お願いしてみようと思います」

 幸か不幸か、頬を染めているのは佳燕と朱華だけ、芳琳はよく分かっていないようで首を傾げている。まだ幼いから、第二皇子とは夜伽とかそういう話にまだなっていないのかもしれない。

「衣だと、日によって違うだろうに。まあ、それも記録すれば良いが……」

 炎俊は、せっかく効率的な方法を提案したのに、と言いたげに呟いた。少々不満そうな表情が、けれど、すぐにぱっと晴れる。

「あとは、兄上に触れるのも良いでしょう」
「え」
「視覚以外の感覚でも覚えておく、ということです。そうすると焦点が定めやすいですし、遠見や時見の間は身体のほうがぼんやりしがちなものですから、支えにもなります」

 良いことを思いついた、と言わんばかりに胸を張る炎俊に、朱華は内心で頭を抱えた。せっかく和やかな空気が戻りつつあったのに、佳燕はまた赤面して俯いてしまった。それに──炎俊の言葉は、先日の遠見での小旅行を思い出させる。

「私、支えにされていたの……?」

 永州(えいしゅう)を遠見で覗いた時のことだ。意識と視点を彼方に飛ばしていた間、ふたりはずっと手を取り合っていたのだ。夫婦で手を繋いでの散策のよう、だなんて──甘いことを考えていたのに。今の言い方だと、炎俊は単に支えが欲しかっただけのようだ。

「私がそなたを支えていたのだ。ずいぶん強く手を握っていたではないか」

 抗議を込めて軽く唇を尖らせると、炎俊は当たり前のような顔でさらりと言った。

「な──そっちから握ってきたんじゃない……!」

 「(とう)家の雪莉姫」にあるまじき、砕けた言葉遣いで皇子に噛みついてしまったことに気付いたのは、言い終わった後だった。慌てて口を押えるけれど、もう遅い。

(やっちゃった……?)

 佳燕も芳琳も、朱華の大声に目を丸くしている。怪しまれてしまったかも、と一瞬恐れたのだけれど──ふたりの妃は、顔を見合わせるとふふ、と笑い合った。

「炎俊様と雪莉様も、仲がよろしいのですね……」

 うっとりとした眼差しで見つめてくる芳琳に、あらぬ誤解をされていることに気付く。気安い言葉遣いをしても咎められないくらい、炎俊に愛されていると思われたらしい。佳燕も、微笑ましそうに目を細めてうんうんと頷いている。

「い、いいえ、芳琳様! ちょっと、ふたりで遠見をしただけで」

 羞恥に頬を染めるのは、今度は朱華の番だった。誤解を解くべく振り回した手は、でも、炎俊に掴まれてしまう。

「遠見で、我が領地の視察をしたのですよ。こうして──近づいていたほうが話しやすいですし」

 わざわざ朱華に顔を寄せた炎俊は、たぶん、実際にやってみせたほうが分かりやすい、と思っただけだ。もちろん、そんな情緒のなさは客人にはバレていない。だから、芳琳はいっそう頬を緩ませて、ほう、と熱い溜息を吐いた。

「佳燕様も雪莉様も、とてもとても羨ましいですわ……」

 どうも、芳琳にはただの惚気(のろけ)だと思われたらしい。

(誤解……していただいたままのほうが良いんでしょうけど。は、恥ずかしい……)

 炎俊の手を振り払っても、指先の熱はなかなか去ってくれなくて、朱華の頬も熱いままだ。平然とした顔をしているのは炎俊だけ、女は三人とも何かしらの理由で赤面している、おかしな席になってしまった。

 ともあれ──朱華と佳燕の寵愛のされようを見て、芳琳はますます発奮したらしい。恐らくはまた割ってしまわないように、茶器を慎重に卓に置いた後、怪力の少女は、小さな拳を固く握って炎俊に訴えた。

「私は、見ることに関わる力ではないのですが。闘神などという物騒な力でも、女の身でも、何か我が君様のお力になれないでしょうか!?」
「もちろんです」

 炎俊が躊躇うことなく頷いたのは、お世辞や気休めではない。そういうごまかしはしない奴だと、朱華はもう知っている。
 事実、炎俊はまたしても滔々と語り始めた。

「闘神の力は、何も戦いのためだけに使うものではないのですから。例えば──」

      * * *

 佳燕と芳琳は、笑顔で星黎宮を辞去した。
 お土産にいただいた菓子を食べ過ぎた分、軽い夕餉を済ませた後──朱華は、炎俊と(ねや)に寝転がっていた。呪によって遠見の視界を閉ざされている居心地の悪さ、心もとなさにも、もう慣れてきた。……内衣(したぎ)姿で、炎俊の温もりを感じることにも。

(外からも絶対見えないらしいから。内緒話にはこれが一番だから)

 自分に言い訳しながら、柔らかい寝具に眠気を誘われながら。朱華は、悪戯っぽく炎俊に笑いかけた。灯りを落とした暗闇の中、彼の顔だけがほんのりと白く浮かび上がって見える。

「ほかの宮のお妃たちに分かってもらえて、良かったわね。私のお陰よ?」
「うん。そなたには感謝しているが……」

 炎俊の声に、戸惑うような響きが聞こえて、朱華は半身を起こした。

「何よ。文句でもあるの?」
「いや。義姉上がたは、力を使って何かすることを蔑んでいらっしゃると思っていた。これまで私が何を説いても、耳を傾けてくださらなかった──興味を持ってくださらなかったのに。朱華。そなた、どんな術を使った?」

 炎俊は真剣に疑問に思い、悩んでいるらしい。闇の中に煌めく彼の目は、驚くほど──というか呆れるほど真っ直ぐだった。

「いや……好きな人の役に立ちたいって、普通の感情でしょう?」
「では、そなたは私を好きなのか? とても、役に立ってくれている」

 言いながら、炎俊も身体を起こした。朱華を抱き寄せたのは、暗い中ではどこに顔があるかよく分からないから、目を合わせて話すためだけだろう。こいつに人並みの欲がないのは、これまで毎晩のようにぐっすり安眠することができていることからも明らかだ。

 でも、だからといって、逞しくしなやかな身体を間近に感じて、動揺しないわけにはいかない。

「ど、どうだろう……目的のため、自由になるためっていうのも、大きいけど」

 鼓動が早まり、呼吸が乱れているのを悟られるのは、恥ずかしかった。精いっぱい、口では強がってみたのだけれど──やはりというか何というか、炎俊は朱華の動揺なんて気付いた様子もなかった。

「兄上がたにも、諸侯や高官にも私を好いてもらいたいものだ。そうすれば、色々と上手くいくのではないか?」

 しみじみと的はずれなことを言われて、朱華は思わず脱力した。そうして、自分の体重で炎俊を押し倒す。

「朱華?」
「あんたはまず、情緒の勉強が必要そうね……」

 苦笑しながら、朱華はぽんぽんと炎俊の頭を撫で、解いた髪を指で梳いた。まるで、子供の寝かしつけをしているような気分だった。
 (そう)凰琴(おうきん)は、自身が昊耀(こうよう)国の皇后になれるものだと信じて疑っていなかった。
 だって、彼女は第一皇子龍基(りゅうき)の第一の妃、碧羅(へきら)宮の女主人だ。皇族の中から選び抜かれた四人の皇子を競わせて次代の皇帝を決めるのが昊耀の習いとはいえ、年長の者のほうが有利なのはいうまでもない。

 彼女の夫、龍基は見目良く背高く、複数の力を備えた申し分のない皇太子候補だ。力の中には水を操る水竜もあるから、凰琴との相性も良い。彼女たちの子も強い力に恵まれるはずで、きっと碧羅宮を受け継いでくれる。──少し前までは、そんな、輝かしい未来を思い描いていたのに。

 なのに、今宵、夫の酌をする凰琴の手は、微かに震えている。
 碧羅宮の妃はひとりではなく、彼女の座を狙う女もいる。その中の誰かが、後宮の出来事の噂話の()()で、彼女の不始末を夫の耳に入れたかもしれないと思うと恐ろしいのだ。

「近ごろ、星黎(せいれい)宮が賑やかなようだね」
「……っ、は、はい……申し訳ございません……」

 とても、怯えていたから──龍基に声をかけられて、凰琴は鞭打たれたように身体を跳ねさせた。手元が狂って酒が零れてしまったのを咎めもせずに、龍基は杯を干す。

「なぜ謝る? 炎俊(えんしゅん)がやっと妃を迎え、社交の意味を知ったのなら喜ぶべきことだ。これまでは仲間外れにしているようで心苦しかった」

 夫の言葉を信じることなどできなかった。星黎宮に居座っている第四皇子、炎俊の機嫌を伺う妃がいなかったのは、凰琴の意図を受けてのこと。そして、彼女は夫の言葉や態度の端々からそのように命じられていると汲み取ったのだ。

 皇帝の予言は外れなければならない。炎俊は帝位に就いてはならない。それが、龍基の望みであるはずだった。

(お心を変えられた? まさか……!)

 ここ最近、辰緋(しんぴ)宮の芳琳(ほうりん)と、皓華(こうか)宮の佳燕(かえん)が頻繁に星黎宮を訪ねているのは把握していた。より正確に言えば、市井上がりの炎俊と、あの生意気な(とう)雪莉(せつり)を。
 芳琳も佳燕も、天遊林(てんゆうりん)では立場が弱く、孤立しがちな妃だった。
 取るに足らないと言えばそれまでだけど、でも、その取るに足らない者たちが、龍基と凰琴との意に背いた行動をしているのだ。夫は絶対に不快に思っているだろうし、だからこそ叱責を恐れていたというのに。

 青褪めて白い顔になっているであろう凰琴を見下ろして、龍基は優しく微笑んだ。

「しかし、年下の者たちだけで楽しそうだと、私のほうが仲間外れの気分になってしまう。炎俊たちが何をしているか──そなたは、知っているのかな」
「それ、は」

 これは罠だ、と凰琴は直感した。

 彼女は、星黎宮で何が起きているかあるていど知っている。炎俊が、佳燕たちに力の使い方を教えているのだと。
 でも、そう答えれば、夫の意に沿わぬ行動をする妃がいるのに統率できていないことになる。凰琴の立場では許されない失態だ。

 だからといって、知らない、とも言えない。第一皇子の第一の妃ともあろう者が、天遊林で何が起きているかを把握していないなんて。それもまた、決して許されないことだ。

 だから、彼女に残された道は──

「……もちろん、我が君様の御心に適うこと、でございましょう。炎俊様も雪莉様も、お友だちの方々も。皆様、ものの道理を弁えて、お立場に相応しい振る舞いをなさるに()()()()()()()

 あるべき状態をちゃんと理解していると、夫に伝えなければ。そして、口先だけでなく、実際に()()させなければならない。

「うむ、そうだろうな。さすがは凰琴だ。頼りにしているぞ」
「恐れ入ります……!」

 炎俊や雪莉が調子に乗っているなら、立場を()()()()()。龍基の妨げになる振る舞いはさせない──凰琴の決意表明は、夫を喜ばせたらしい。
 にこやかな笑顔と言葉で、凰琴の両肩に重圧を乗せた龍基は、機嫌良く杯を重ねてから寝台に向かった。

 夫が安らかな夢の中にいるのを確かめてから、凰琴はそっとその隣から抜け出した。そして、慌ただしく上衣を着せかける侍女に、鋭く命じる。

()()()を呼び出しなさい。今、すぐに!」

 ぐずぐずしているわけには、いかなかった。夫を失望させたら、彼女の立場も安泰ではないのだから。
 一刻も速く、炎俊たちの()()を阻止しなければならなかった。
 佳燕と芳琳を招いての勉強会のようなものは、片手に余るくらいの回数を重ねてますます楽しくなっていっている。

 佳燕は、炎俊の助言に従って訓練を重ねた結果、時見の精度が上がっているらしい。練習の過程で、夫の翰鷹(かんよう)皇子との触れ合いも増えたそうで、会うたびにこちらまで照れてしまいそうな惚気話を聞かせてくれる。

『我が君様と一緒だと、どこまでも遥かな時の流れを見渡すことができそうな気がしますの。きっと、これまでは緊張していたのも良くなかったのですね……』

 怖い大姐(おねえさま)がたの品定めの目を浴びながらでは、委縮してしまうのも無理はない。でも、今の佳燕なら、もっと自信を持って堂々と臨むことができるのではないだろうか。

 芳琳も、夫君の第二皇子との関係は良好らしい。

『闘神の力が恥ずかしい、という感覚は、殿方には気付いていただけていなかったそうですの。これまでのお詫びに、と仰ってくださって──今度、視察に同行させていただくことになりました!』

 第二皇子、志叡(しえい)殿下は、複数の妃の力関係の調整が重要であること自体は承知していたとか。朱華(しゅか)が予想した通り、幼い芳琳はまだ夜伽に侍ることができず、力も社交の場で披露するには向かない。ならば、ということで、怪力の彼女の活躍の場を、建築や治水の分野で探してくださるらしい。
 可憐な姫君が先陣を切って活躍したら、現場の職人や工夫たちも、きっと張り切ることだろう。

(きっと今日も、ご夫君がたの惚気を聞かせてくださるわ。楽しみね……!)

 朱華自身は、炎俊とは甘いやり取りはとんとない──それどころか、子供に人との接し方を教えているような有り様だから、余所の夫婦の可愛らしい様子はなおのこと聞きたいものだった。

 身支度を手伝ってくれる紫薇(しび)も、ほかの宮からの客人を迎えるのに慣れたようで、毎回、違った趣向で朱華を飾るのに熱中しているようだ。

「皓華宮から届いた贈り物です。今日は、こちらになさいますか?」

 そう言って紫薇が差し出したのは、珍しい夜光(やこう)の珠で造った(かんざし)だった。佳燕が御礼とお近づきの印に、とあつらえてくれたものだ。

「ええ。佳燕様と芳琳様とお揃いに、ってお話しているの」

 ふたりとも、ただでさえ甘いもの好きの炎俊のために、種々様々の菓子を手土産にしてくれているのに。佳燕には気を遣わせてしまった、と思う。

(私からも、何かお返しをしないとね。予算とかは、炎俊に聞けば良いのかしら?)

 友だちとお揃いのものを贈り合うのも、朱華にとっては初めてのこと。ふたりに似合うものを、と考えるとどうしようもなく胸が弾む。

「おふたりにも本当の名前を教えられないのは、申し訳ないわね……。仕方のないことなんだけど」

 ……ほんの少しだけ残念なのは、暗闇で光を放つという、青白い夜光珠の簪が、雪の結晶を(かたど)っていることだ。雪莉、の名前から考えてくれたのだろう。その名前の姫君はもう亡くなっていて、偽者がその名を使っているだなんて、佳燕は知る由もないのだ。

「ご心中はお察し申し上げます。でも、あの……貴女様は、表向きには陶家の雪莉様でいらっしゃいます」

 溜息を洩らした朱華に、紫薇はどこまでも優しく言い聞かせた。

「ええ。……紫薇は、ずっと(ほう)の婆の相手をしてくれてるのよね。うるさくてしつこいでしょうに……申し訳ないし、いつも感謝してるのよ」

 炎俊が黙ってくれているだけで、決して露見してはならないことだとは、朱華も承知している。今も朱華にあれこれと指示しようと接触を試みる峯──陶家の手先を、紫薇が通さないでいてくれるだけで十分だと思わなければならない。

「もったいないお言葉でございます」

 鏡越しに礼を言うと、紫薇は慎ましく目を伏せた。
 雪の結晶をどこに挿すかでしばらく試行錯誤しているようだ、と朱華は思ったのだけれど。紫薇は、何か違うことで悩んでいたらしい。鏡に映る彼女の唇が強く結ばれた、かと思うと、意を決したようにおずおずと開かれた。

「あの。ご実家のご意向を、知りたいとはお思いにならないのですか……? 炎俊様は、不要との仰せなのですが。あの方は、その、そういう機微が不得手でいらっしゃいますから……」



3-7

 紫薇(しび)の歯切れ悪いもの言いに、朱華(しゅか)は眉を寄せた。

「何? あの婆、そんなにしつこいの? 何か……脅されてたり、とか……?」

 思えば、(ほう)に会わなくて済むなら好都合と、紫薇に任せきりにしてしまっていたかもしれない。名家の一員であることをこよなく誇りに思っているらしいあの婆のことだから、侍女への当たりがきつくてもおかしくない。

(ただでさえ、私の手綱が外れて苛立っているんでしょうし、ね)

 気付いた上で目を凝らせば、鏡に映る紫薇の表情は強張っているようにも見えた。いくら落ち着いているように見えても、朱華といくつも変わらなさそうな若い女性に、海千山千の峯の相手は辛かったのかもしれない。

「……陶家が私に言うのは、さっさと懐妊しろとか、炎俊(えんしゅん)を帝位に近づけるためにあれをしろこれをしろ、って辺りだと思うの。聞くまでもないし、正直言って聞きたくないことでもあるけど」

 たぶん、聞くまでもないと思っているのは炎俊も同じだ。無駄が嫌いな彼のことだから、分かり切ったことを聞く必要はないと断じているのだろう。
 一般論を言うなら、それでも会って機嫌を伺っておくべき相手というのはいるけれど──陶家については、朱華もわざわざ会いたいとは思わない。でも──

「……紫薇が大変なら、一度私が会ってみる? ほかの宮の方々とも仲良くなったし、()()()()だって言ってやる?」

 陶家の望みは、要は自家の「雪莉姫」が皇后になること、だ。峯は、そのための()を授けようとしているのだろう。

(でも、そんなの要らないわ。心配無用、余計なことはするな、って釘を刺してやっても良いかも……!)

 卑劣な策を巡らせるまでもなく、炎俊は自分の力で帝位を掴めるはずだ。朱華には未来を知る遠見の目はないけれど、傍で見ていれば信じられる。
 碧羅(へきら)宮で、凰琴(おうきん)や取り巻きたちも不穏なことを言っていたし──陶家も、一度は予言を真に受けて「雪莉姫」を妃として差し出したのだから、動じず見ていろ、と言っておきたい。

 朱華の胸に、闘志の炎がめらめらと燃え上がりかけたのに気付いたのか、紫薇が狼狽えた声を上げた。

「い、いえ……! そのようなことをして、朱華様にもしものことがあれば、炎俊様に申し訳が立ちません……!」
「そう? 本当に大丈夫?」

 殴り込みに行くのを縋りついて止めようとするかのような慌てように、朱華は少し苦笑した。

「もしものこと、だなんて大げさね。陶家の連中が『雪莉姫』に何かするはずないでしょう?」

 今の朱華は、炎俊の寵愛を受けている、ということになっている。もはや、陶家にいた時のように鞭で折檻したりなんてできないのだ。

 もちろん、妓楼上がりの平民の小娘を自家の姫として扱うなんて、不本意に違いないだろうけれど。それでも、ややこしいけれど朱華は表向き雪莉姫なのだと、ほかならぬ紫薇が言ったばかりだ。

「ええ……そう、でした」

 それを思い出してくれたのか、紫薇はぎこちなく微笑むと目を伏せた。

「余計なことを申しました。本当に……少しだけ、心配になっただけなのです」
「なら良いけど……」
「申し訳ございません。手が止まってしまっておりました。すぐにお支度をいたしましょう」

 紫薇の話題の打ち切り方は、少し強引にも思えた。けれど、すっぴんで客を迎えるわけにもいかないのも確かだから、朱華は大人しく化粧されるのに任せた。
 ただ、紅筆が唇を塞ぐ前に、言っておきたいことがある。

「貴女も、私を本当の名前で呼んでくれるのね。嬉しいわ」

 紫薇も、炎俊と同じく彼女のひみつを分かち合う大切な仲間のひとり。朱華と呼んでくれるのも、心配してくれるのも、とても嬉しいことだった。
 その日の集まりも、妃たちの華やかな笑い声が弾けて庭の花にいっそうの彩りを添えた。

「佳燕様、素敵な贈り物をいただき、ありがとうございました……!」
「とんでもない。雪莉様も芳琳様も、とてもよくお似合いですわ」
「せっかくの夜光の珠なのですから、暗いところでもつけてみたいですわね。蛍を見る会などいかがでしょう?」
「まあ、素敵……!」

 佳燕は、名前の通りに(ツバメ)の簪。珠を薄く削って造った翼の細工は繊細で、髪の色を透かすほど。青白い球の色が、佳燕の艶やかな黒髪を引き立てるようだ。
 芳琳の簪は、芳しい花にちなんで桂花(キンモクセイ)だ。小さな花を(まり)のように集めた飾りは華やかかつ可愛らしく、芳琳の初々しい雰囲気によく似合っていた。

「炎俊様、雪莉様のお姿はいかがでしょう?」
「うん? うん。似合っているのではないか、雪莉」
「ふふ、お菓子ばかりに夢中になっていては嫌われてしまいますわよ?」

 佳燕も芳琳も、最初のころは炎俊に対してとても構えた様子だったのに。今なら、冗談めかしたやり取りもできるようになったらしい。言われた通りに朱華を褒めた炎俊に、佳燕は満足そうに頷いている。

(甘いものを食べてるところを見ると、子供みたいだものねえ)

 特に佳燕から見ると、本当に弟のように見えるのかもしれない。そして、年下の芳琳のほうも、炎俊にだいぶ慣れ親しんでくれたようだ。

「炎俊様! 実は、我が君様からご伝言がございますの」
志叡(しえい)兄上から? 義姉(あね)上がたをお招きしていることに対して、何かお咎めでも?」

 例によって土産の菓子をしっかりと手に取りながら、炎俊は真面目そのものの面持ちで尋ねた。

(そ、そういえば、おふたりのご夫君がたは面白くなかったりするのかしら。炎俊に嫉妬したりとか……?)

 炎俊にとっては目上にあたる、第二皇子を怒らせてしまったのかと、朱華の背に冷や汗が浮いた。でも──芳琳は、輝くような笑顔のまま、ふるふると首を振った。

「その逆ですわ! 志叡様は、ここのところ私がやけに楽しそうだと──ですので、仲間に入れて欲しいとの仰せなのです!」
「仲間……? あの、皇子殿下を星黎宮(ここ)にお迎えするということになりますか……? それとも、辰緋(しんぴ)宮にお招きいただけるのでしょうか」

 お叱りの伝言でなかったからといって、完全に安心することはできなかった。
 気軽におしゃべりを楽しめるのも、仲良くなった妃同士だからこそ。皇子様のおもてなしなんて、朱華の手に余る。かといって、辰緋宮には芳琳以外にも怖い大姐(おねえさま)がたがいるはずで。

 朱華の顔が強張ったのに気付いてくれたのだろう、芳琳は、今度は彼女に向けて首を振った。

「もちろん、雪莉様にご心労をおかけするつもりはありません。皓華(こうか)宮の翰鷹(かんよう)様と佳燕様もお招きして、船遊びでもいかが──ということなのですが……!」

 芳琳のきらきらとした眼差しを受けて、佳燕は軽く首を傾げた。

「とても嬉しいお誘いですわ。翰鷹様にもお伝えしますが……」

 佳燕がすぐに頷かず、朱華と炎俊を視線で窺ってきた理由は、分かる。

 皇族ともなると、兄弟だからといって気軽に遊びに出かけて良いのだろうか、と思ってしまう。それは、手続きとか護衛とかの問題だけではなくて。四つの宮を預かる皇子たちは、特に──

(皇太子の座を争う競争相手、なのよね……?)

 弟たちを集めておいて何か──とまで考えるのは、行き過ぎかもしれないけれど。ただでさえ悪目立ちしている炎俊に、何かしら釘を刺すとか嫌味を言っておくとか、とにかく楽しくない目的があったりはしないだろうか。

 朱華の疑問と不安を読み取ったのだろう、芳琳は力強く頷いた。

「ご懸念は承知しております。ですから、心行くまで時見でお確かめくださいませ。我が君に企みなどないこと、お分かりいただけると思いますので……!」

 炎俊に訴える真剣な面持ちからは、幼くても後宮の権謀術数の中で生きる妃のひとりなのだと伝わってくる。芳琳の必死さと真摯さも見えるからこそ、朱華としては裏のないお招きだと信じたいのだけれど。

(そうか、時見なら……!?)

 芳琳に言われて、炎俊は軽く目を伏せた。どこかぼんやりとした顔つきになるのは、今、ここではない、少し先の未来を見ているからだろう。もしも、刺客に襲われるとかの可能性があれば、炎俊には分かる。志叡皇子も当然それは分かっているから、見え透いた目名はしないだろう、とも期待できる。

 しばらくして、炎俊は目を上げた。焦点を結んだ目が芳琳と、それに朱華を順番に捉えて、微笑む。

「……確かに、楽しそうな催しになるようです」
「炎俊様。では……!?」

 勢い込んで問いかけた芳琳に、炎俊はしっかりと頷いた。

「兄上たちに雪莉を紹介しなければ、とも思っておりました。ぜひともお招きにあずかりたいと、志叡兄上にお伝えください。もちろん、翰鷹兄上ともご一緒できればとても嬉しく思います」
「はい。炎俊様の時見と併せて、お伝えいたしますわ」

 危険がないと保証されたからだろう、佳燕も晴れやかに微笑んだ。

「最初の遠出は、兄上の発案になってしまったな。まあ、いずれふたりきりで行く機会もあるだろう」

 炎俊は、朱華に広い世界を見せてくれると言ったのを覚えていてくれたのだ。そうと気付いて、朱華の頬が熱くなる。

「うん……ええ……!」

 煌びやかでも高い塀に囲まれた後宮を出て、(そと)の空や風を味わえる。それも、佳燕や芳琳や──炎俊と一緒に。

(そうよ。本当に……楽しそう……!)

 具体的に思い浮かべると、じわじわと期待と喜びが込み上げてくる。朱華に時見の力がなくて、かえって良かった。何が見られるか、何が起きるかの楽しみを、当日まで取っておくことができるのだから。
 三つの宮の間で慌ただしく書簡が行き交い、行楽の日取りは滑らかに決定された。

 いよいよ夏の盛りを迎える季節ということもあって、舟遊びの納涼の会にしよう、ということになった。

 行き先は、都の近くを流れる運河だ。天遊林(てんゆうりん)からは、皇子たちは騎上して、妃たちは轎子(こし)に乗って船着き場を目指す。皇宮から現れた壮麗な行列に、商人も旅人も皆、畏まって道を開けるだろう。
 そして、第二皇子志叡(しえい)の整えた船に乗り込んで、まずは流れに逆らって上流を目指す。民の暮らしを眺めたり、仙境さながらの山間(やまあい)の景観を堪能した後、帰りは運河の流れに乗って船を駆けさせて、疲れを感じる前に皇宮に戻る──と、大ざっぱにはこのような計画になる。

 もちろん、船上では人の目や耳を気にすることなく歓談することができるし、それぞれの宮の厨師(ちゅうし)は、腕によりをかけた料理や菓子を用意してくれるだろう。水辺や山に咲く花や住む鳥は、天遊林の丹精された庭園とはまったく別の趣があるだろうし、通り過ぎる農村の住人と話がつけば、新鮮な野菜や果物を味わうこともできるかもしれない。深窓の姫君である佳燕(かえん)芳琳(ほうりん)はもちろんのこと、妓楼と(とう)家に閉じ込められて育った朱華(しゅか)にとっても、初めての体験が詰まった日になるのは間違いない。

(──つまりは、とても楽しみということね!)

 第二から第四皇子と、その妃たちが揃って出かける、その当日──心が弾むあまり、朱華は化粧を終えた紫薇(しび)の指先が頬から離れるや否や、跳ねるように椅子から立ち上がっていた。子供のようなはしゃぎように、紫薇がおっとりと苦笑を浮かべる。

「朱華様──どうぞ、お気をつけになって。崩れにくい髪形にはしましたが、大事な(かんざし)を水に落としたりなさいませんように」
「お淑やかに、ということよね。分かっているわ……!」

 今日も、妃三人はお揃いの夜光の珠の髪飾りをつけて行こうと約束している。佳燕が心を砕いて贈ってくれたものを、出かけた先で失くしてしまうわけにはいかない。

「今日もとてもお綺麗ですわ。二の君様も三の君様も、見蕩れられることでしょう。もちろん、炎俊(えんしゅん)様はしっかりと守ってくださるでしょうが」
「三の君様──翰鷹(かんよう)様は佳燕様ひと筋なんでしょう? 二の君様も、どうもきっちりした方みたいだけど」

 紫薇の褒め方も心配も大げさで、朱華は笑って首を振った。翰鷹も志叡もすでに妃がいるから無用の心配だろうし、そもそも弟の妃を奪うなんて醜聞だろう。

「……でも、仲睦まじいところを見せておいたほうが良いのかしら、ね? ()()炎俊も妃を娶って、しかも上手くやってるんだ、って」

 妃たちの間では、正論ばかりの炎俊は怖がられ嫌われているようだった。兄君たちも、煙たがっていてもおかしくない。人並みに夫婦生活を送れるということ、社交では朱華が支えることを見せておけば、今後のためにもなるかもしれない。

(恥ずかしいけど……頑張らないと……!)

 佳燕様や芳琳様を見れば、些細な仕草や言葉の端々から、ご夫君がたを心から愛しているのが伝わってくる。あのふたりを見習って、炎俊を慕い、案じる健気な姫君を演じなければ、と。朱華は拳を握って気合を入れた。でも──

「……はい。それがよろしいかと思います」
「紫薇?」

 紫薇の相槌に、妙に力が入っていない気がして、ゆるゆると拳を下ろす。よく見ると、忠実な侍女の整った面は、憂いに沈んでいるようにも見える。

「ごめんなさい、はしゃぎ過ぎちゃったかしら。貴女も来られれば良かったのに……」
「もったいないお気遣いです。私は、喜んで留守番を務めさせていただきますので」

 炎俊と朱華が出かける間、紫薇は星黎(せいれい)宮を守ってくれるという。陶家やほかの宮からの遣いが来たとしても、上手くごまかしてくれる、ということだ。

 当然のように、にこやかに引き受けてくれたから、疑問を抱くことなく当日を迎えてしまったけれど──

「本当に……? えっと。今からでも一緒に──炎俊に頼めばどうにかならないかしら」

 紫薇も同行したかったのかもしれない、と思って、朱華はおずおずと提案した。でも、紫薇は静かに首を振る。

「実は──私、時見の力を上手く制御することができないのです」
「制御、できない……?」
「朱華様や炎俊様、生まれながらに強い力を持ち、しかも呼吸と同じように操る方々には想像もできないのでしょうが」

 いつもと変わらず穏やかで上品な紫薇の微笑に、どこか暗い翳りを浮かべて、紫薇は語った。

 紫薇の持つ時見の力そのものは、強い。何年も何十年も隔てた場面を見ることもできるほどに。
 でも、()()見るかを選ぶことができない。むしろ、見たくないもの、恐ろしいことのほうが彼女の視界を襲うのだとか。

 親しい人の老いた顔に、恐ろしい病や怪我に見舞われる姿。いつかの時代の戦いや、毒を呑んで倒れた者や、無念を抱いて死んだ者。嵐でも火事でも、大勢の人が玩具のように流されたり燃えてしまったり──

「時たま、そういう者が生まれるのだそうです。嫌なものを見るたびに泣いたり叫んだりして暴れるものですから、多くは閉じ込められるか打ち捨てられて一生を終えるのです」

 紫薇が侍女として隙のない振る舞いをすることができているのは、厳重な呪で守られた皇子の宮にいるからだ。星黎(せいれい)宮の中にいる限り、過去や未来の災いの光景が彼女を襲うことはない。

「──ですから私は星黎宮(ここ)を出ては生きていけません。だからこそ、炎俊様も私を信用してくださっているのです」

 そういえば、紫薇は庭園でのお茶会にはいつも姿を見せいなかった。今さらながらに気付いて絶句する朱華に、紫薇は小さく笑って目を伏せた。

「楽しい日ですのに、おかしなことを申してしまいましたね。どうぞお気になさらずに」
「紫薇……」

 だから置いて行っても構わない、だなんて思うことはできなかった。だからといって、安易な慰めや同情はかえって紫薇を傷つけるだろう。朱華は、必死に言葉を探した。

「何か、お土産を探すわ。話もいっぱい聞かせてあげる。貴女が良ければ、だけど! ……迎えてくれる人がいるということは、嬉しくて安心するものよ。きっと、炎俊もそう思ってると思う」
「朱華様」

 紫薇が軽く目を見開いたのが、不快や戸惑いによってではないか、とても怖かったのだけれど──やがて、彼女は柔らかく微笑んだ。

「……ありがとう、存じます」