十八歳以上の男女は国が決めた人間と結婚しなければいけない。こんなバカげた法律を作った人は、ちゃんと地獄に落ちたでしょうか?
あれだけ恋愛をテーマにした映画やアニメ、漫画、小説などを国民に見させて自由恋愛を促進させていたくせに、いざ少子高齢化が進んで次世代の担い手が足りないと判断するや否や、自由恋愛を禁止する方向に舵を切って創作物の販売や閲覧ができないようにするだなんて笑っちゃうよね。
何年も、いや、それこそ何十年も前から出生率が下がっていることくらい危惧されていた気がするんだけど、この国のお偉いさんたちはなにやってたんだろうね?
好きな人と恋をして、好きな人と結婚して、好きな人と子供を作って、好きなように生きてきた大人たちが、好きなように私たちから恋する権利を奪う。私たちは好きでもない人と結婚して、好きでもない人と子供を作って、好きでもない人生を生きなければならない。ふざけんな。お前たちが解決できなかった問題を、どうして私たちが解決してやんなきゃいけないんだ。
そんな悪態を心の内で吐きながら、ホワイトボードの右端に書かれた日付を睨む。四月一日と乱暴に書かれた文字は、高校生活最後の年が幕を開けたことを示していた。そしてそれは、私が平和で過ごすことができていた最後の日を示す数字でもあった。
◇◆◇
竹林が、死んだ。
目の前で、三年三組に在籍する生徒二十七人の前で、あっさりと死んだ。
瞳から涙を、鼻から水を、口から涎を垂らして、「死にたくない」と連呼しながら命を落とした。
包丁で刺されたわけでも、鈍器で殴られたわけでもないのに、屍になってしまった。
担任である宮島によると、どうやら私たちの首に架けられたネックレスには小型の爆弾が植え付けられているらしい。
実際に竹林の死を目の当たりにするまでは、冴えない女教師の笑えないジョークだと思っていたから、啞然とするしかなかった。
「これで先生の言うことがわかってもらえたかしら?」
教卓に両手をついた宮島が、しんと静まり返った教室に、いつもと同じ声量で発した。彼女の問いに答える生徒は一人もいない。全員が息を吞んで、なにかやましいことでもあるみたいに床に視線を落として、ただじっと椅子に座っている。私はその例に反して、宮島から視線を逸らすことができずにいた。
「わかってもらえたようで嬉しいわ。先生はね、この国を恨んでいるの。好きでもない男の血が混ざった子を産ませて育てさせようとするこの腐った国が、憎くて憎くて仕方がないの。だから先生は、子供たちを殺すことで復讐してやることにしたの」
呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに、息をすることができなかった。口尻を上げて笑みを浮かべている宮島の表情が、あまりにも恐ろしかったからだ。「ブス」や「バカ」と私を毎日のように罵ってくる笠原よりも恐ろしい顔。
「噓をつくのは悪いこと。噓つきは泥棒の始まり。そうやって、嘘をつくことはいけないことだって教わって生きてきたわよね? 私もそうよ。それなのに、心に噓をついて好きでもない人と結婚しなくてはならないなんて、おかしいことだと思わない? 思うわよね? 思っていることにするわ。だから、貴方たちの本音を聞かせて欲しいの。結婚相手のこと、貴方たちは好き?」
最悪な質問だった。皆の前で国が決めた相手のことを嫌いだなんて言えるはずがない。言ったら最後、「好きになる努力が足りない」とかなんとか言われて罰を受けさせられるに決まっているからだ。
この国の科学者たちが知恵と汗を絞って作った高知能のAIが、国民一人ひとりの結婚相手を選定する。AIによって導き出された相手以外の人と恋をしてはいけない。もし恋をしたことが公にバレた場合は、罰則を受けなければならないとされている。私は罰則を受けたことがないからどんな罰を受けることになるのか知らないけど、不倫をした母親の友達は、性格や思考がまるで別人のように変えられてしまった。
家事を一切せずに外で遊んでばかりいた人が、刑務所から帰ってきたら家事を率先して行うようになったことから、洗脳されてしまったのだと考えている。好きでもない人のことを好きだったように脳を書き換えられてしまうんだ。
結婚相手のことが嫌いだなんて言ったら、絶対に宮島は国に報告するだろう。そしたら、警察から取り調べを受ける羽目になるのは間違いない。最悪、この恋心までなかったことにされてしまうかもしれない。そんなことは絶対に嫌だ。せめて、この好きな気持ちだけは侵されたくなかった。
震える唇を動かして、「好きだ」と答えようとしたその時だった――。
「ああ、好きだ。俺は美緒のことを愛している」
クラス一のイケメンである雅也が口を開いた。高身長で、顔立ちが整っていて、運動も勉強もできる女子の理想が具現化したような男。誰もが好きでもない相手と結婚しなくてはいけない世界で、雅也と美緒は両想いだった。本気で相手のことを愛していて、本気で相手と一生を共にしたいと思っている稀有な二人。皆からおしどり夫婦と呼ばれるほど仲が良かった。
「がっ、あっ、ぐるじい。な、なんで。ずぎって言ったのに、どおじて!」
そんな雅也が胸を抑えて、苦しみ始めた。悶えながら顔を真っ赤にして宮島を睨んでいる。
「雅也!!」
苦しみだした雅也を見て、窓側の席に座っていた美緒が、教室の中央で悶える彼の元に駆け寄る。
「ああ、言い忘れていたのだけど、好きでもないのに好きと言った場合も爆弾を起動させるわ」
宮島の言葉を裏づけるかのように、静かだった教室に爆発音が響き、雅也が倒れた。その姿を目の当たりにしたクラスメイトたちの悲鳴が沸き起こる。皆が泣き叫び、美緒が愛しの彼の名前を呼び続ける中、私はぽかんとしていた。
また、死んだ。友達がこんなにもあっけなく死ぬなんて、夢でも見ているかのような気分だ。
現実味がない。こんなのが現実であっていいはずがない。信じたくない。認めたくない。
「皆の体内には噓発見器を仕込んでいるの。嘘をついた場合も容赦なく殺すわ。さっきヒントをあげたじゃない。噓をつくことはいけないことだって。先生の言うことが聞けない生徒に育てた覚えはないのだけど」
現実逃避をしようとする私の心に追い打ちをかけるように、宮島が非情な現実を報せてくる。
なんだこの教師は、なんだこの女は、いくら国が憎いからってこんな外道なこと、していいはずがない。
確かに私もこの国が嫌いだ。大人たちが大っ嫌いだ。笠原と結婚するよう命令してくるAIなんて死んでしまえばいいと思っている。
だけど、こんなのはあんまりだ。悪いのは大人であって、私たちじゃない。怒りを向ける相手が間違っている。
「雅也……どうして……?」
声を発しなくなった雅也を見ながら、美緒が疑問を口にする。
「ふふふ、面白いわね。おしどり夫婦と呼ばれるくらい仲が良かったカップルが引き裂かれる姿を見るのは、とても面白いわ」
「どういうこと? 私のことが好きじゃなかったってどういうことなのよ!」
立ち上がった美緒が、宮島に向かって叫ぶ。
「簡単な話よ。彼は皆の目を欺くために貴方とのバカップル振りを演じていたのよ。彼には貴方以外に好きな人がいたの」
「そんな……!!」
「さっきの質問に話題を戻すわよ。結婚相手のことが好きかしら?」
絶望に暮れる美緒を無視する宮島を見つめながら、どうしてこんなことを彼女はするのかを考えていた。
ネックレスに爆弾を仕掛けたり、体内に噓発見器を仕込んだりする技術があるんだから、本当に国が憎いのなら政治家を殺す計画を立てた方がまだ目的を達成することができる気がする。それなのに復讐だとかなんとか言って、こんな意味のわからないことをしている。本当の狙いは別にあるんじゃないかと考えてしまうのは、おかしなことではないだろう。
「あたしは嫌いよ! 彼と結婚するくらいなら死んだ方がましだわ」
そんな私の思考を途切れさせたのは、空手部に所属する真木の怒声だった。
「私、貴方のそういうはっきりしているところが好きよ? 隠し事をしたりしないから、教師として接しやすいもの。でもいいのかしら? そんなはっきりと意志を表明してしまって」
可愛らしさで男子を魅了する美緒とは違い、真木はかっこよさで男女を魅了させるタイプだ。常に堂々としているから、私は密かに憧れを抱いている相手だった。現に今も怖気づいているようには見えない。彼女のような強さがあれば笠原の鼻につく物言いにだって言い返せるし、喧嘩に勝つことだってできたんだろうな。
「噓言ったら爆弾を起動されるんだろ? だったら本心を言うさ。それに嫌いなことを公言したらすぐに罰則を受けるわけじゃないのはわかってる。結婚相手以外の人と肉体関係を持ったとか、そういった不貞行為を働いた時に受けるんだ」
「やっぱり貴方は素敵ね。こんな時も堂々としている。なにより噓をつかないのはもっと称賛されるべきだと思うわ。貴方のその正直さに免じて私は爆弾を起動しないことにするわ。でも、彼女がそれを許すかしら?」
宮島が美緒の元に近付いたかと思うと、美緒の手に箱のようなものを乗せた。
「美緒さん。よく聞いて頂戴。今私が渡したのは、真木さんの爆弾を起動させるボタンよ」
「な、なんでこんな物を私に……?」
「そんなの決まっているじゃない。貴方の愛しの雅也君と隠れて付き合っていたのは他ならぬ真木さんだからよ」
教室中にどよめきが走った。いつも空手で強くなることばかり考えていて恋愛に興味がなさそうだった真木が、雅也と付き合っていたなんて信じられなかったからだ。コソコソと隠れていけないことをする。そんな行動とはクラスの中で一番無縁そうだった真木が、どうして。
「真木、今の話本当なの?」
「本当だって言ったらどうすんの? あんたはそれを押せんの? あたしを殺せんの?」
「あんたが雅也を誑かしたのか! 不貞行為を働かなかったら罰則を受けないとか言ってたくせに、がっつりやってるじゃない! この噓つき! あんたのせいで雅也は……雅也はっ!!」
「そうだな。あたしが空手一筋の女の子だと思っていたあんたからすると、噓つきに見えるのかもしれないな。でもそれは、勝手にあたしに抱いていた理想みたいなもんで、あたしからしたら言いがかりみたいなもんだよ。まだ会ったこともない四十過ぎのおっさんと結婚しなきゃいけないあたしの身にもなってくれよ。せめてバレてもいいから普通の恋がしてみたいって思うのは悪いことなのか? 自分の気持ちに正直に生きることは責められなくちゃいけないものなのか?」
「開き直らないでっ! 皆我慢して生きているのに、なんで真木だけが良い思いをしようとしているのよ!」
「好きな奴と結婚できる運命が決まっていたお前には、一生あたしの気持ちなんてわからないだろうな! 我慢してない奴が正論を語るなよ!」
こんな光景を見る機会がやってくるなんて昨日の私に言っても信じないだろうな。アイドルのような可愛い顔と性格で人気を得ていた美緒と、常に勝ち気で飄々としていることが多い真木。二人が鬼の形相で罵声を浴びせ合う光景なんて天地が引っ繰り返ったって起こらないと思っていたから。ある意味では、クラスメイトが爆弾で命を落としてしまったことよりも衝撃的だった。
「もういいっ! 雅也を誑かした罪をその身で味わえ!」
美緒がボタンを押してすぐに、パンという音が発せられた。
「え……?」
しかし、その音の発信源は教室の中央ではなく私のすぐ真横からだった。
「ああああああああっ!!」
笠原の左手首から先が全て吹き飛んでいた。爆風に混ざって彼の血が飛んで窓や天井を赤色で汚した。私の椅子や制服も飛沫によって、散弾銃で撃たれたみたいに赤く染まっている。どうやら、彼が付けていた腕時計が爆発したようだった。ネックレス以外にも爆弾が設置されているとわかって血の気が引いていく。
「ふふ、二人とも自分の気持ちに噓ついてないもの。正直者は生かされるべきだわ」
笠原の惨状を見て、心底嬉しそうに宮島は笑っていた。
「真木が死ななかった理屈はわかった。けどよ、なんで俺が被害に遭わなくちゃいけねぇんだよ!」
額や頬に脂汗を滲ませた笠原が叫んだ。もし五体満足の状態だったなら、彼は目の前の机を蹴り飛ばしながら激昂していただろう。納得がいかなかったり、気に障ることが起きたりすると、すぐに手が出るのが彼の悪いところだ。決まって鬱憤をぶつけられる相手は将来の結婚相手である私だったから、正直言ってざまぁみろって感じだった。
「ふふ、貴方みたいに自分の気持ちに整理が付けられていないような人間には、おあつらえ向きの罰だと思って。いつも理不尽に紗里さんに暴力を振るっていた貴方が理不尽な目に遭う。因果応報だと思わない?」
私の名前が宮島の口から出てびっくりする。宮島はこんなことまで把握しているのか。
「ふざけんな! 紗里は俺の婚約者だ。俺がどう扱ったっていいだろうが!」
笠原は私を人ではなく物のように扱う。対等な関係として接したことは一度もない。鞄を持てとか、ご飯を作れとか、飲み物を買ってこいとか、命令ばかりしてくる。私がなにかをしてあげることは当然のことだと思っているんだ。
笠原はバカだけど、AIはもっとバカだ。バカだから彼の暴力性を高く評価してしまった。彼の遺伝子を継いだ子供を産むことができれば、さらに屈強な存在が出来上がるとシュミレーションしてしまったポンコツだ。
「ふふ、頑張って大声を出してて可愛いわね。このままだと貴方、出血多量で死んでしまうけれど大丈夫かしら?」
「くそっ! おい、紗里! 今から保健室に行って包帯を持って来い! 持ってこないと殺すぞ!」
彼の言葉を受けて、体がビクッと反応してしまった。萎縮して、頭が真っ白になって、命令を聞くだけのロボットになってしまう。
椅子から立ち上がって、皆の視線を受けながら扉へと向かっていく。
「本当はもっと頭が良くなりたいのに、勉強をしても成績が上がらない。本当は真木さんのように腕っぷしが立つ男になりたいのに、強くもなれない。本当は女優のように美しい茉莉也さんと付き合いたいのに、付き合えない。どうにもならない苛立ちを紗里さんにぶつけて、弱い自分を隠そうと威張ることしかできない貴方にはおあつらえ向きの最期だわ」
宮島の言葉が、私の足を止めた。
「茉莉也って、隣のクラスの茉莉也さん?」
「おい、紗里! こいつの言葉に耳を傾けてる暇なんてないだろうが! 速く動けよ!」
「紗里さん。ここまで話を聞いてきた貴方なら、私の言いたいことがわかるでしょう? 私はね、自分の気持ちに噓をついて生きる生活って最悪の人生だと伝えたいの。本当に笠原君を助けることが貴方のしたいことなの? 助けることが本心と向き合った結果だと言うのなら、教室から出ていく貴方を止めたりしないけど、もし噓だった場合は……わかるわよね?」
宮島や笠原の声が遠くなって、呼吸が荒くなって、心臓の鼓動が速まって、引き戸の取っ手にかけた手から力が抜けていく。
私は、私は、私は――。
◇◆◇
夢や希望を抱くことを諦めるようになったのはいつからだっただろう?
毎日を無気力に過ごして残り長い人生に溜息をつくようになったのはいつからだろう?
勉強を頑張ったって、運動を頑張ったって、決められた運命には抗えないのだから意味がないと、心に蓋をして過ごすようになったのは、いつからだっただろう。
母親は本当に私への愛がなかった。私が転んで足を怪我した時も、熱を出して寝込んでいた時も、心配なんてしてくれなかった。面倒ばかりをかける娘を憎悪さえしていたかも。最低限の衣食住だけ保証して、それ以上の面倒は見てくれなかった。誕生日にプレゼントを贈られたこともなければ、一緒に旅行に出かけたこともない。一番近い場所にいる赤の他人。そんな人だった。
父親はギャンブル依存症だったのかな。競艇とか競馬とかそういうものに金を注ぎ込んでばかりいた。殆どの時間を家の外で過ごしているような人だったから、どんな食べ物が好きだったのか、ギャンブル以外にはどんな趣味を持っていたのか、なに一つ知らない。
関係性が希薄な両親。そんな環境で過ごした私が求めたのは、愛情だった。漫画や小説でしか見たことがない愛というものに触れてみたかった。「好きだ」とか「愛してる」とかそんな耳障りの良い言葉を一度でもいいから言われてみたかった。
小学生の頃は好意を抱く異性はできなかったけど、中学生になった時に好きだと思える相手を見つけた。川島稔という男の子で、冴えない男の子だった。皆はサッカーが得意なスポーツ少年とか、ギターを弾いて歌う音楽少年とか、なにか目立つ特技を持っている人に好意を寄せていたけど、私はなにも持っていないような彼に惹かれた。
誰に言われたわけでもないのに教室の隅に捨てられたティッシュを拾ったり、沢山の段ボールを運んでいる教師の運搬を手伝ってあげたりしている川島君が素敵だと思った。席替えが行われて彼と隣になった時は飛び跳ねてしまいそうなくらい嬉しかった。教科書を自宅に忘れてしまった時は彼に見せてもらったり、一緒に難しい問題を解いたりして楽しくないと思っていた授業が初めて楽しいと思えるようになったりもした。川島君と同じ高校に進学できるように受験勉強を頑張ったのも良い思い出だ。
好きだ。私は川島君が好きだ。皆が見ていなくても私だけは川島君を見ている。彼の恋人になりたい。彼の愛を独占したい。そんな風に愛を求めるようになった矢先に、自由恋愛禁止法が制定された。色々な創作物に触れることを禁止され、国が決めた相手と結婚しなくてはならないルールができてしまった。
自由恋愛禁止法が制定されてすぐに国から封筒が送付されてきた。履歴書みたいに将来の結婚相手の顔写真と名前、経歴が記された書類が入っていた。その時まで、同じ高校に笠原一鉄なんて男がいることすら知らなかった。笠原が川島君みたいに優しい男だったら初恋を諦められたかもしれない。一緒に愛を育んでいけたかもしれない。けど、笠原は愛とは縁遠い人間だった。
痛い。苦しい。吐き気がする。頭がくらくらする。笠原から暴力や尊厳を破壊されるような扱いを受けるようになって、心が折れてしまった。好きって気持ちを捨てたくなるような出来事ばかりが起きるから、生きるのが嫌になってしまった。
気持ちに蓋をして、嘘をついて、自分を騙してなんとか今日をやり過ごす。そんな付け焼き刃みたいな武装で心を守れる筈もなくて、日に日に心身共に痩せ細っていった。確かに宮島の言う通りなのかもしれない。本心に向き合っていないのは確かだ。
ああ、そうだ。私は世界が憎い。国も、両親も、笠原も、全部が憎い。愛を教えてくれなかった全てが堪らなく憎いんだ。せっかく高校でも川島君と同じクラスになれたのに仲良くできない世界なんて、ぶっ壊れてしまえばいい。こんな好きな人に好きといえない世界なんて、消えてなくなってしまえばいい。そうだ。ぶっ壊れちゃえ。
◇◆◇
「紗里!」
笠原が私の名前を呼んでいる。私を意のままに操られると思っている傲慢な声だ。
私に憎しみや絶望を教えた彼の懇願なんて聞いてやる必要なんてない。そうだ。そうだよ。
「死になよ」
「は?」
「そのまま苦しんで死んじゃいなよ。地獄に落ちて、自分の行いを反省しなよ」
「紗里のくせに生意気なこと言ってんじゃねぇーぞっ!」
「私に助けを乞わないと生きられもしないくせになに言ってんの?」
引き戸の取っ手から手を放して、笠原へと真っ直ぐに向き合う。
「私も真木と同じ考え。あんたと結婚するくらいなら死んだほうがマシ。だから、死んでよ」
自分でも驚くくらい低い声だった。
「紗里ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
笠原が私に暴力を振るおうと床に大量の血を撒き散らしながら近付いてくる。
「紗里さん。貴方の本心を聞かせてもらったわ」
そう言って、宮島は迷いなく笠原のネックレスを爆発させた。
美緒に渡したような箱型のボタンを持っている様子はない。もっと小型で使いやすいボタンを持っているんだろうと思うけど、今はどうでもよかった。私の目と鼻の先で笠原が命を落としたことのほうが大事だったから。
彼の首と胴体から溢れた大量の血が、白かった私の上履きを真っ赤に染めていく。それでも私は微動だにせず死体を見下ろしていた。無惨な姿を目の当たりにしているのに、自然と体はなんの反応も示さなかった。
「はは……」
やっと、死んだ。やっと死んでくれた。高校に入学してからずっと私を苦しめ続けた元凶がいなくなってくれた。安堵が、歓喜が、興奮が、己を包み込んでいる。こんなにも嬉しい気持ちになるなんて久々だ。長らく忘れていた高揚が私の心を躍動させてくれる。
「ははははははははははははははっ!!」
そうだ。宮島の言う通りだ。嘘をついて生きるのは最悪だ。笑いが止まらなかった。
「高野さん……」
腹を抱えて笑う私を見て、川島君が驚愕に包まれた顔をしていた。クラスメイトの死を喜んでいる私を軽蔑するだろう。嫌われてしまっただろう。泣きたいのに、落ちぶれたくなかったのに、嬉しさが込み上げてくる。
「よかったわ。紗里さんも私の伝えたいことがわかってくれたみたいね。これが私の最後になるであろう授業をちゃんと学びにしてくれて嬉しいわ。私はそれを伝えたかったの。ここで大事な情報を皆に開示するわ。噓発見器は私が貴方たちに仕込んだんじゃないの。国がどこかのタイミングで貴方たちに仕込んだのよ。今回、私はそれを利用して貴方たちの嘘を見破ったに過ぎないわ。私はどうしても国が決めた教えに抗う教えをしたかった。諦めたり噓をついたりすることを良しとする教育なんて最低でしょう?」
「そうだそうだ!」
「宮島先生の言う通りだ。こんな絶望しか生まないルールなんて間違っている!」
何人かの生徒が宮島に同調した。自由恋愛禁止法を嫌っていた生徒たちが、本音を曝け出し始めたんだ。
「こんな犯罪を起こした私は捕まるでしょう。死刑は免れないでしょうね。死んでしまった生徒にはあの世で謝るわ。だから、聞いて頂戴! 確かにこの世は苦しみで溢れているけれど、どうか諦めないで! 最後まで抗って生きてほしいの!」
ああ、先生は私たちに大切なことを伝えようとしてくれていたんだ。
我が身可愛さで保身に走る大人たちとは違う。この人は本気で、生徒を思って行動してくれていたんだ。
「素晴らしい!」
「諦めないぞ!」
拍手をしたり机を叩いたりする者まで現れた。先程まで静まり返っていた教室とは思えないくらい活気が溢れだした。
これが本来の姿なんだ。抑圧から解放された皆の活き活きとした表情が輝いて見えた。
「じゃあ、私も先生に抗うよ」
興奮していた皆は気が付かなかった。美緒が宮島に肉薄していたことに。いや、正確にはそれが危険な行為だと認識できなかった。
「なんと言おうと、どう正当化しようと、雅也を殺した先生は悪だよ」
「がはっ!」
ハサミで宮島の腹を刺した美緒は、宮島が持っていた黒色のボールペンを奪った。
「どういう仕組みなのかわからないけど、これでしょ? 爆弾を起動させるボタン」
「返しなさい……」
「嫌だよ」
宮島が手を伸ばすよりも先に、美緒はノック式ボールペンを親指で押した。その結果、死を免れたはずの真木が吹き飛んだ。
「雅也を誑かすからそうなるんだよ」
次に爆発させる相手を決めようとしているのか、教室にいる生徒を舐め回すように見つめる美緒。
その彼女の視線が、私に向いた。
「ひっ!」
恐怖に足が竦んだ時には遅かった。美緒を止める者はおらず、カチッという聞き慣れた音が発せられた。
なぜ彼女にボタンを押される前にペンダントを外そうと試みなかったのだろう。
非現実的な出来事が怒涛のように押し寄せたせいで、簡単なことすら思い浮かばなかった。
ペンダントを引っ張って壊そうと手を伸ばした時には、爆発が眼前で産声を上げていた。
一瞬にして視界が赤に染まって、ジェットコースターに乗車した時のような風と衝撃を味わって、そしたら後は終わりが広がっていた。意外にも痛みはなかった。ただ今自分がどうなっているのかを認識する機能が低下していることだけは確かで。
「高野さん、高野さん! しっかりして!」
誰かの声が、聞こえる。
もう命が尽きるというのに、聴覚だけはしぶとく生きている。
「死んじゃ嫌だよ! 高野さん!」
鼓膜を揺らす優しい声が、聞こえる。
もう命が尽きるというのに、心が聞きたいと叫んでいる。
「僕のことを見てくれていた高野さんが好きだったんだ。どうしてもっと早く告白しようとしなかったんだろう。僕に頑張れって言ってくれた君に生きる活力を貰っていたのに」
大切な人の泣く声が、聞こえる。
もうとうの昔に諦めていたはずなのに、それを待っている私がいる。
「高野さん、高野さん、高野さん!! 逝かないで!!」
ずっと欲しかった。ずっと焦がれていた。ずっと望んでいた。
どうしても聞きたかった言葉が、ある。
「僕は君が、高野紗里さんが、大好きでした。愛しています」
ああ、そっか。私は川島君と両想いだったんだ。最後の最後に、わかったんだ。
なら、充分だ。人生に悔いなんてない。偽らずに終わりを迎えられるんだもの、満足だよ。
ありがとう。川島君。私は世界で一番、幸せな女の子だ。
あれだけ恋愛をテーマにした映画やアニメ、漫画、小説などを国民に見させて自由恋愛を促進させていたくせに、いざ少子高齢化が進んで次世代の担い手が足りないと判断するや否や、自由恋愛を禁止する方向に舵を切って創作物の販売や閲覧ができないようにするだなんて笑っちゃうよね。
何年も、いや、それこそ何十年も前から出生率が下がっていることくらい危惧されていた気がするんだけど、この国のお偉いさんたちはなにやってたんだろうね?
好きな人と恋をして、好きな人と結婚して、好きな人と子供を作って、好きなように生きてきた大人たちが、好きなように私たちから恋する権利を奪う。私たちは好きでもない人と結婚して、好きでもない人と子供を作って、好きでもない人生を生きなければならない。ふざけんな。お前たちが解決できなかった問題を、どうして私たちが解決してやんなきゃいけないんだ。
そんな悪態を心の内で吐きながら、ホワイトボードの右端に書かれた日付を睨む。四月一日と乱暴に書かれた文字は、高校生活最後の年が幕を開けたことを示していた。そしてそれは、私が平和で過ごすことができていた最後の日を示す数字でもあった。
◇◆◇
竹林が、死んだ。
目の前で、三年三組に在籍する生徒二十七人の前で、あっさりと死んだ。
瞳から涙を、鼻から水を、口から涎を垂らして、「死にたくない」と連呼しながら命を落とした。
包丁で刺されたわけでも、鈍器で殴られたわけでもないのに、屍になってしまった。
担任である宮島によると、どうやら私たちの首に架けられたネックレスには小型の爆弾が植え付けられているらしい。
実際に竹林の死を目の当たりにするまでは、冴えない女教師の笑えないジョークだと思っていたから、啞然とするしかなかった。
「これで先生の言うことがわかってもらえたかしら?」
教卓に両手をついた宮島が、しんと静まり返った教室に、いつもと同じ声量で発した。彼女の問いに答える生徒は一人もいない。全員が息を吞んで、なにかやましいことでもあるみたいに床に視線を落として、ただじっと椅子に座っている。私はその例に反して、宮島から視線を逸らすことができずにいた。
「わかってもらえたようで嬉しいわ。先生はね、この国を恨んでいるの。好きでもない男の血が混ざった子を産ませて育てさせようとするこの腐った国が、憎くて憎くて仕方がないの。だから先生は、子供たちを殺すことで復讐してやることにしたの」
呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに、息をすることができなかった。口尻を上げて笑みを浮かべている宮島の表情が、あまりにも恐ろしかったからだ。「ブス」や「バカ」と私を毎日のように罵ってくる笠原よりも恐ろしい顔。
「噓をつくのは悪いこと。噓つきは泥棒の始まり。そうやって、嘘をつくことはいけないことだって教わって生きてきたわよね? 私もそうよ。それなのに、心に噓をついて好きでもない人と結婚しなくてはならないなんて、おかしいことだと思わない? 思うわよね? 思っていることにするわ。だから、貴方たちの本音を聞かせて欲しいの。結婚相手のこと、貴方たちは好き?」
最悪な質問だった。皆の前で国が決めた相手のことを嫌いだなんて言えるはずがない。言ったら最後、「好きになる努力が足りない」とかなんとか言われて罰を受けさせられるに決まっているからだ。
この国の科学者たちが知恵と汗を絞って作った高知能のAIが、国民一人ひとりの結婚相手を選定する。AIによって導き出された相手以外の人と恋をしてはいけない。もし恋をしたことが公にバレた場合は、罰則を受けなければならないとされている。私は罰則を受けたことがないからどんな罰を受けることになるのか知らないけど、不倫をした母親の友達は、性格や思考がまるで別人のように変えられてしまった。
家事を一切せずに外で遊んでばかりいた人が、刑務所から帰ってきたら家事を率先して行うようになったことから、洗脳されてしまったのだと考えている。好きでもない人のことを好きだったように脳を書き換えられてしまうんだ。
結婚相手のことが嫌いだなんて言ったら、絶対に宮島は国に報告するだろう。そしたら、警察から取り調べを受ける羽目になるのは間違いない。最悪、この恋心までなかったことにされてしまうかもしれない。そんなことは絶対に嫌だ。せめて、この好きな気持ちだけは侵されたくなかった。
震える唇を動かして、「好きだ」と答えようとしたその時だった――。
「ああ、好きだ。俺は美緒のことを愛している」
クラス一のイケメンである雅也が口を開いた。高身長で、顔立ちが整っていて、運動も勉強もできる女子の理想が具現化したような男。誰もが好きでもない相手と結婚しなくてはいけない世界で、雅也と美緒は両想いだった。本気で相手のことを愛していて、本気で相手と一生を共にしたいと思っている稀有な二人。皆からおしどり夫婦と呼ばれるほど仲が良かった。
「がっ、あっ、ぐるじい。な、なんで。ずぎって言ったのに、どおじて!」
そんな雅也が胸を抑えて、苦しみ始めた。悶えながら顔を真っ赤にして宮島を睨んでいる。
「雅也!!」
苦しみだした雅也を見て、窓側の席に座っていた美緒が、教室の中央で悶える彼の元に駆け寄る。
「ああ、言い忘れていたのだけど、好きでもないのに好きと言った場合も爆弾を起動させるわ」
宮島の言葉を裏づけるかのように、静かだった教室に爆発音が響き、雅也が倒れた。その姿を目の当たりにしたクラスメイトたちの悲鳴が沸き起こる。皆が泣き叫び、美緒が愛しの彼の名前を呼び続ける中、私はぽかんとしていた。
また、死んだ。友達がこんなにもあっけなく死ぬなんて、夢でも見ているかのような気分だ。
現実味がない。こんなのが現実であっていいはずがない。信じたくない。認めたくない。
「皆の体内には噓発見器を仕込んでいるの。嘘をついた場合も容赦なく殺すわ。さっきヒントをあげたじゃない。噓をつくことはいけないことだって。先生の言うことが聞けない生徒に育てた覚えはないのだけど」
現実逃避をしようとする私の心に追い打ちをかけるように、宮島が非情な現実を報せてくる。
なんだこの教師は、なんだこの女は、いくら国が憎いからってこんな外道なこと、していいはずがない。
確かに私もこの国が嫌いだ。大人たちが大っ嫌いだ。笠原と結婚するよう命令してくるAIなんて死んでしまえばいいと思っている。
だけど、こんなのはあんまりだ。悪いのは大人であって、私たちじゃない。怒りを向ける相手が間違っている。
「雅也……どうして……?」
声を発しなくなった雅也を見ながら、美緒が疑問を口にする。
「ふふふ、面白いわね。おしどり夫婦と呼ばれるくらい仲が良かったカップルが引き裂かれる姿を見るのは、とても面白いわ」
「どういうこと? 私のことが好きじゃなかったってどういうことなのよ!」
立ち上がった美緒が、宮島に向かって叫ぶ。
「簡単な話よ。彼は皆の目を欺くために貴方とのバカップル振りを演じていたのよ。彼には貴方以外に好きな人がいたの」
「そんな……!!」
「さっきの質問に話題を戻すわよ。結婚相手のことが好きかしら?」
絶望に暮れる美緒を無視する宮島を見つめながら、どうしてこんなことを彼女はするのかを考えていた。
ネックレスに爆弾を仕掛けたり、体内に噓発見器を仕込んだりする技術があるんだから、本当に国が憎いのなら政治家を殺す計画を立てた方がまだ目的を達成することができる気がする。それなのに復讐だとかなんとか言って、こんな意味のわからないことをしている。本当の狙いは別にあるんじゃないかと考えてしまうのは、おかしなことではないだろう。
「あたしは嫌いよ! 彼と結婚するくらいなら死んだ方がましだわ」
そんな私の思考を途切れさせたのは、空手部に所属する真木の怒声だった。
「私、貴方のそういうはっきりしているところが好きよ? 隠し事をしたりしないから、教師として接しやすいもの。でもいいのかしら? そんなはっきりと意志を表明してしまって」
可愛らしさで男子を魅了する美緒とは違い、真木はかっこよさで男女を魅了させるタイプだ。常に堂々としているから、私は密かに憧れを抱いている相手だった。現に今も怖気づいているようには見えない。彼女のような強さがあれば笠原の鼻につく物言いにだって言い返せるし、喧嘩に勝つことだってできたんだろうな。
「噓言ったら爆弾を起動されるんだろ? だったら本心を言うさ。それに嫌いなことを公言したらすぐに罰則を受けるわけじゃないのはわかってる。結婚相手以外の人と肉体関係を持ったとか、そういった不貞行為を働いた時に受けるんだ」
「やっぱり貴方は素敵ね。こんな時も堂々としている。なにより噓をつかないのはもっと称賛されるべきだと思うわ。貴方のその正直さに免じて私は爆弾を起動しないことにするわ。でも、彼女がそれを許すかしら?」
宮島が美緒の元に近付いたかと思うと、美緒の手に箱のようなものを乗せた。
「美緒さん。よく聞いて頂戴。今私が渡したのは、真木さんの爆弾を起動させるボタンよ」
「な、なんでこんな物を私に……?」
「そんなの決まっているじゃない。貴方の愛しの雅也君と隠れて付き合っていたのは他ならぬ真木さんだからよ」
教室中にどよめきが走った。いつも空手で強くなることばかり考えていて恋愛に興味がなさそうだった真木が、雅也と付き合っていたなんて信じられなかったからだ。コソコソと隠れていけないことをする。そんな行動とはクラスの中で一番無縁そうだった真木が、どうして。
「真木、今の話本当なの?」
「本当だって言ったらどうすんの? あんたはそれを押せんの? あたしを殺せんの?」
「あんたが雅也を誑かしたのか! 不貞行為を働かなかったら罰則を受けないとか言ってたくせに、がっつりやってるじゃない! この噓つき! あんたのせいで雅也は……雅也はっ!!」
「そうだな。あたしが空手一筋の女の子だと思っていたあんたからすると、噓つきに見えるのかもしれないな。でもそれは、勝手にあたしに抱いていた理想みたいなもんで、あたしからしたら言いがかりみたいなもんだよ。まだ会ったこともない四十過ぎのおっさんと結婚しなきゃいけないあたしの身にもなってくれよ。せめてバレてもいいから普通の恋がしてみたいって思うのは悪いことなのか? 自分の気持ちに正直に生きることは責められなくちゃいけないものなのか?」
「開き直らないでっ! 皆我慢して生きているのに、なんで真木だけが良い思いをしようとしているのよ!」
「好きな奴と結婚できる運命が決まっていたお前には、一生あたしの気持ちなんてわからないだろうな! 我慢してない奴が正論を語るなよ!」
こんな光景を見る機会がやってくるなんて昨日の私に言っても信じないだろうな。アイドルのような可愛い顔と性格で人気を得ていた美緒と、常に勝ち気で飄々としていることが多い真木。二人が鬼の形相で罵声を浴びせ合う光景なんて天地が引っ繰り返ったって起こらないと思っていたから。ある意味では、クラスメイトが爆弾で命を落としてしまったことよりも衝撃的だった。
「もういいっ! 雅也を誑かした罪をその身で味わえ!」
美緒がボタンを押してすぐに、パンという音が発せられた。
「え……?」
しかし、その音の発信源は教室の中央ではなく私のすぐ真横からだった。
「ああああああああっ!!」
笠原の左手首から先が全て吹き飛んでいた。爆風に混ざって彼の血が飛んで窓や天井を赤色で汚した。私の椅子や制服も飛沫によって、散弾銃で撃たれたみたいに赤く染まっている。どうやら、彼が付けていた腕時計が爆発したようだった。ネックレス以外にも爆弾が設置されているとわかって血の気が引いていく。
「ふふ、二人とも自分の気持ちに噓ついてないもの。正直者は生かされるべきだわ」
笠原の惨状を見て、心底嬉しそうに宮島は笑っていた。
「真木が死ななかった理屈はわかった。けどよ、なんで俺が被害に遭わなくちゃいけねぇんだよ!」
額や頬に脂汗を滲ませた笠原が叫んだ。もし五体満足の状態だったなら、彼は目の前の机を蹴り飛ばしながら激昂していただろう。納得がいかなかったり、気に障ることが起きたりすると、すぐに手が出るのが彼の悪いところだ。決まって鬱憤をぶつけられる相手は将来の結婚相手である私だったから、正直言ってざまぁみろって感じだった。
「ふふ、貴方みたいに自分の気持ちに整理が付けられていないような人間には、おあつらえ向きの罰だと思って。いつも理不尽に紗里さんに暴力を振るっていた貴方が理不尽な目に遭う。因果応報だと思わない?」
私の名前が宮島の口から出てびっくりする。宮島はこんなことまで把握しているのか。
「ふざけんな! 紗里は俺の婚約者だ。俺がどう扱ったっていいだろうが!」
笠原は私を人ではなく物のように扱う。対等な関係として接したことは一度もない。鞄を持てとか、ご飯を作れとか、飲み物を買ってこいとか、命令ばかりしてくる。私がなにかをしてあげることは当然のことだと思っているんだ。
笠原はバカだけど、AIはもっとバカだ。バカだから彼の暴力性を高く評価してしまった。彼の遺伝子を継いだ子供を産むことができれば、さらに屈強な存在が出来上がるとシュミレーションしてしまったポンコツだ。
「ふふ、頑張って大声を出してて可愛いわね。このままだと貴方、出血多量で死んでしまうけれど大丈夫かしら?」
「くそっ! おい、紗里! 今から保健室に行って包帯を持って来い! 持ってこないと殺すぞ!」
彼の言葉を受けて、体がビクッと反応してしまった。萎縮して、頭が真っ白になって、命令を聞くだけのロボットになってしまう。
椅子から立ち上がって、皆の視線を受けながら扉へと向かっていく。
「本当はもっと頭が良くなりたいのに、勉強をしても成績が上がらない。本当は真木さんのように腕っぷしが立つ男になりたいのに、強くもなれない。本当は女優のように美しい茉莉也さんと付き合いたいのに、付き合えない。どうにもならない苛立ちを紗里さんにぶつけて、弱い自分を隠そうと威張ることしかできない貴方にはおあつらえ向きの最期だわ」
宮島の言葉が、私の足を止めた。
「茉莉也って、隣のクラスの茉莉也さん?」
「おい、紗里! こいつの言葉に耳を傾けてる暇なんてないだろうが! 速く動けよ!」
「紗里さん。ここまで話を聞いてきた貴方なら、私の言いたいことがわかるでしょう? 私はね、自分の気持ちに噓をついて生きる生活って最悪の人生だと伝えたいの。本当に笠原君を助けることが貴方のしたいことなの? 助けることが本心と向き合った結果だと言うのなら、教室から出ていく貴方を止めたりしないけど、もし噓だった場合は……わかるわよね?」
宮島や笠原の声が遠くなって、呼吸が荒くなって、心臓の鼓動が速まって、引き戸の取っ手にかけた手から力が抜けていく。
私は、私は、私は――。
◇◆◇
夢や希望を抱くことを諦めるようになったのはいつからだっただろう?
毎日を無気力に過ごして残り長い人生に溜息をつくようになったのはいつからだろう?
勉強を頑張ったって、運動を頑張ったって、決められた運命には抗えないのだから意味がないと、心に蓋をして過ごすようになったのは、いつからだっただろう。
母親は本当に私への愛がなかった。私が転んで足を怪我した時も、熱を出して寝込んでいた時も、心配なんてしてくれなかった。面倒ばかりをかける娘を憎悪さえしていたかも。最低限の衣食住だけ保証して、それ以上の面倒は見てくれなかった。誕生日にプレゼントを贈られたこともなければ、一緒に旅行に出かけたこともない。一番近い場所にいる赤の他人。そんな人だった。
父親はギャンブル依存症だったのかな。競艇とか競馬とかそういうものに金を注ぎ込んでばかりいた。殆どの時間を家の外で過ごしているような人だったから、どんな食べ物が好きだったのか、ギャンブル以外にはどんな趣味を持っていたのか、なに一つ知らない。
関係性が希薄な両親。そんな環境で過ごした私が求めたのは、愛情だった。漫画や小説でしか見たことがない愛というものに触れてみたかった。「好きだ」とか「愛してる」とかそんな耳障りの良い言葉を一度でもいいから言われてみたかった。
小学生の頃は好意を抱く異性はできなかったけど、中学生になった時に好きだと思える相手を見つけた。川島稔という男の子で、冴えない男の子だった。皆はサッカーが得意なスポーツ少年とか、ギターを弾いて歌う音楽少年とか、なにか目立つ特技を持っている人に好意を寄せていたけど、私はなにも持っていないような彼に惹かれた。
誰に言われたわけでもないのに教室の隅に捨てられたティッシュを拾ったり、沢山の段ボールを運んでいる教師の運搬を手伝ってあげたりしている川島君が素敵だと思った。席替えが行われて彼と隣になった時は飛び跳ねてしまいそうなくらい嬉しかった。教科書を自宅に忘れてしまった時は彼に見せてもらったり、一緒に難しい問題を解いたりして楽しくないと思っていた授業が初めて楽しいと思えるようになったりもした。川島君と同じ高校に進学できるように受験勉強を頑張ったのも良い思い出だ。
好きだ。私は川島君が好きだ。皆が見ていなくても私だけは川島君を見ている。彼の恋人になりたい。彼の愛を独占したい。そんな風に愛を求めるようになった矢先に、自由恋愛禁止法が制定された。色々な創作物に触れることを禁止され、国が決めた相手と結婚しなくてはならないルールができてしまった。
自由恋愛禁止法が制定されてすぐに国から封筒が送付されてきた。履歴書みたいに将来の結婚相手の顔写真と名前、経歴が記された書類が入っていた。その時まで、同じ高校に笠原一鉄なんて男がいることすら知らなかった。笠原が川島君みたいに優しい男だったら初恋を諦められたかもしれない。一緒に愛を育んでいけたかもしれない。けど、笠原は愛とは縁遠い人間だった。
痛い。苦しい。吐き気がする。頭がくらくらする。笠原から暴力や尊厳を破壊されるような扱いを受けるようになって、心が折れてしまった。好きって気持ちを捨てたくなるような出来事ばかりが起きるから、生きるのが嫌になってしまった。
気持ちに蓋をして、嘘をついて、自分を騙してなんとか今日をやり過ごす。そんな付け焼き刃みたいな武装で心を守れる筈もなくて、日に日に心身共に痩せ細っていった。確かに宮島の言う通りなのかもしれない。本心に向き合っていないのは確かだ。
ああ、そうだ。私は世界が憎い。国も、両親も、笠原も、全部が憎い。愛を教えてくれなかった全てが堪らなく憎いんだ。せっかく高校でも川島君と同じクラスになれたのに仲良くできない世界なんて、ぶっ壊れてしまえばいい。こんな好きな人に好きといえない世界なんて、消えてなくなってしまえばいい。そうだ。ぶっ壊れちゃえ。
◇◆◇
「紗里!」
笠原が私の名前を呼んでいる。私を意のままに操られると思っている傲慢な声だ。
私に憎しみや絶望を教えた彼の懇願なんて聞いてやる必要なんてない。そうだ。そうだよ。
「死になよ」
「は?」
「そのまま苦しんで死んじゃいなよ。地獄に落ちて、自分の行いを反省しなよ」
「紗里のくせに生意気なこと言ってんじゃねぇーぞっ!」
「私に助けを乞わないと生きられもしないくせになに言ってんの?」
引き戸の取っ手から手を放して、笠原へと真っ直ぐに向き合う。
「私も真木と同じ考え。あんたと結婚するくらいなら死んだほうがマシ。だから、死んでよ」
自分でも驚くくらい低い声だった。
「紗里ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
笠原が私に暴力を振るおうと床に大量の血を撒き散らしながら近付いてくる。
「紗里さん。貴方の本心を聞かせてもらったわ」
そう言って、宮島は迷いなく笠原のネックレスを爆発させた。
美緒に渡したような箱型のボタンを持っている様子はない。もっと小型で使いやすいボタンを持っているんだろうと思うけど、今はどうでもよかった。私の目と鼻の先で笠原が命を落としたことのほうが大事だったから。
彼の首と胴体から溢れた大量の血が、白かった私の上履きを真っ赤に染めていく。それでも私は微動だにせず死体を見下ろしていた。無惨な姿を目の当たりにしているのに、自然と体はなんの反応も示さなかった。
「はは……」
やっと、死んだ。やっと死んでくれた。高校に入学してからずっと私を苦しめ続けた元凶がいなくなってくれた。安堵が、歓喜が、興奮が、己を包み込んでいる。こんなにも嬉しい気持ちになるなんて久々だ。長らく忘れていた高揚が私の心を躍動させてくれる。
「ははははははははははははははっ!!」
そうだ。宮島の言う通りだ。嘘をついて生きるのは最悪だ。笑いが止まらなかった。
「高野さん……」
腹を抱えて笑う私を見て、川島君が驚愕に包まれた顔をしていた。クラスメイトの死を喜んでいる私を軽蔑するだろう。嫌われてしまっただろう。泣きたいのに、落ちぶれたくなかったのに、嬉しさが込み上げてくる。
「よかったわ。紗里さんも私の伝えたいことがわかってくれたみたいね。これが私の最後になるであろう授業をちゃんと学びにしてくれて嬉しいわ。私はそれを伝えたかったの。ここで大事な情報を皆に開示するわ。噓発見器は私が貴方たちに仕込んだんじゃないの。国がどこかのタイミングで貴方たちに仕込んだのよ。今回、私はそれを利用して貴方たちの嘘を見破ったに過ぎないわ。私はどうしても国が決めた教えに抗う教えをしたかった。諦めたり噓をついたりすることを良しとする教育なんて最低でしょう?」
「そうだそうだ!」
「宮島先生の言う通りだ。こんな絶望しか生まないルールなんて間違っている!」
何人かの生徒が宮島に同調した。自由恋愛禁止法を嫌っていた生徒たちが、本音を曝け出し始めたんだ。
「こんな犯罪を起こした私は捕まるでしょう。死刑は免れないでしょうね。死んでしまった生徒にはあの世で謝るわ。だから、聞いて頂戴! 確かにこの世は苦しみで溢れているけれど、どうか諦めないで! 最後まで抗って生きてほしいの!」
ああ、先生は私たちに大切なことを伝えようとしてくれていたんだ。
我が身可愛さで保身に走る大人たちとは違う。この人は本気で、生徒を思って行動してくれていたんだ。
「素晴らしい!」
「諦めないぞ!」
拍手をしたり机を叩いたりする者まで現れた。先程まで静まり返っていた教室とは思えないくらい活気が溢れだした。
これが本来の姿なんだ。抑圧から解放された皆の活き活きとした表情が輝いて見えた。
「じゃあ、私も先生に抗うよ」
興奮していた皆は気が付かなかった。美緒が宮島に肉薄していたことに。いや、正確にはそれが危険な行為だと認識できなかった。
「なんと言おうと、どう正当化しようと、雅也を殺した先生は悪だよ」
「がはっ!」
ハサミで宮島の腹を刺した美緒は、宮島が持っていた黒色のボールペンを奪った。
「どういう仕組みなのかわからないけど、これでしょ? 爆弾を起動させるボタン」
「返しなさい……」
「嫌だよ」
宮島が手を伸ばすよりも先に、美緒はノック式ボールペンを親指で押した。その結果、死を免れたはずの真木が吹き飛んだ。
「雅也を誑かすからそうなるんだよ」
次に爆発させる相手を決めようとしているのか、教室にいる生徒を舐め回すように見つめる美緒。
その彼女の視線が、私に向いた。
「ひっ!」
恐怖に足が竦んだ時には遅かった。美緒を止める者はおらず、カチッという聞き慣れた音が発せられた。
なぜ彼女にボタンを押される前にペンダントを外そうと試みなかったのだろう。
非現実的な出来事が怒涛のように押し寄せたせいで、簡単なことすら思い浮かばなかった。
ペンダントを引っ張って壊そうと手を伸ばした時には、爆発が眼前で産声を上げていた。
一瞬にして視界が赤に染まって、ジェットコースターに乗車した時のような風と衝撃を味わって、そしたら後は終わりが広がっていた。意外にも痛みはなかった。ただ今自分がどうなっているのかを認識する機能が低下していることだけは確かで。
「高野さん、高野さん! しっかりして!」
誰かの声が、聞こえる。
もう命が尽きるというのに、聴覚だけはしぶとく生きている。
「死んじゃ嫌だよ! 高野さん!」
鼓膜を揺らす優しい声が、聞こえる。
もう命が尽きるというのに、心が聞きたいと叫んでいる。
「僕のことを見てくれていた高野さんが好きだったんだ。どうしてもっと早く告白しようとしなかったんだろう。僕に頑張れって言ってくれた君に生きる活力を貰っていたのに」
大切な人の泣く声が、聞こえる。
もうとうの昔に諦めていたはずなのに、それを待っている私がいる。
「高野さん、高野さん、高野さん!! 逝かないで!!」
ずっと欲しかった。ずっと焦がれていた。ずっと望んでいた。
どうしても聞きたかった言葉が、ある。
「僕は君が、高野紗里さんが、大好きでした。愛しています」
ああ、そっか。私は川島君と両想いだったんだ。最後の最後に、わかったんだ。
なら、充分だ。人生に悔いなんてない。偽らずに終わりを迎えられるんだもの、満足だよ。
ありがとう。川島君。私は世界で一番、幸せな女の子だ。