深山(しんざん)に埋もれる集落に住む者たちは,自然とともに生き,自然のなかで天寿を(まっと)うしてきた。それがこの地で産まれた者たちの宿命で,昭和中期まではその定めに逆らう者は皆無だった。

 日本経済が右肩上がりになり大学進学が当たり前の時代になると,集落で暮らす若者たちも東京や大阪の大学に進学した。

 当時,年寄りたちは若者が都会の大学に行くことに疑問をもたなかったが,堰を切ったように集落から若者が消え,僅か二十年で年寄りしか住まない限界集落へと姿を変えた。

 十年以上前から年の瀬が近づくと,村役場に総務省からの質素な手紙が届くようになった。それは村が限界集落として指定されていることの通知で,郵便局長であり診療所の院長である名ばかりの村長は,御国からの通知を家にある神棚の宝くじの横に供えた。

 集落は過疎地域持続的発展支援特別措置法(過疎法)に基づき過疎地域に指定されているため,毎年御国から村の口座に一定金額が振り込まれた。

 しかし正しい金額もその制度も理解している者も,集落には皆無なため,振り込まれる度に独り身の村長の自宅が豪華になるばかりだった。

 村のために税金が使われることは一切なかったが,医師である村長の家が豪華になってもそれを気に留める者もいなかった。

 山に囲まれた道は冬の寒さでアスファルトがひび割れ,降り積もる枯葉と雪でガードレールは錆びたが,山の景色に埋め尽くされた。

 しかし自給自足に近い生活が当たり前の年寄りたちにとって,道が荒れようと枯葉が積もろうと生活に大きな変化はなく,どんな状況になってもそこは生まれ育った里でしかなく,自然が与える苦労は当たり前だった。

 若者のいない集落では雪搔きをする者も限られ,冬から春にかけてはどこの家も閉ざされた粗末な造りの屋内で最低限の生活を送った。

 そんな集落ですらNHKだけはきちんと観ることができるので,年寄りたちの冬の唯一の娯楽は家に篭ってテレビを観ることだった。