走り去った電車から残された淡《あわ》い光の中に,あの人が立っているような気がした。そんなことはないと頭ではわかっているのに,目の前にいるように思えた。

 もう逃げちゃ駄目だと自分に言い聞かせて,あの人の前に立った。暗闇の中でぼんやりと見える昔と変わらない笑顔が懐かしかった。私のことを覚えているのか,私を気持ち悪いと思わないでいてくれるのか,そんなことはどうでもよかった。

 二度とないチャンスを逃したくなかった。あの人に私の心を伝えたかった。

 同じ毎日を繰り返し,職場でもプライベートでも誰とも接することのない私を優しく抱き締めて欲しかった。特別な私だけの話し相手になって欲しかった。

 私はゆっくりと手を差し伸べた。

 優しい笑顔のあの人は私の手を包み込むように握りしめてくれた。

 その瞬間,私の身体は勢いよく引っ張られ,しばらくホームの端を引きずられたかと思うと走り続ける電車とホームの間に挟まれ,吸い込まれるように線路へと転落した。

 すべてがスローモーションになって,自分の身体か幾つにも千切れていくのが見えた。痛みはなかった。ただ,目の前で起こっていることが現実なのかわならなかった。

 電車が急ブレーキを掛けながら悲鳴にも似た音をけたたましく鳴り響かせた。大嫌いな甲高い車輪の音だった。

 バラバラになっていく私の身体をあの人は優しく抱きしめてくれた。嬉しかった。私の思いがあの人に伝わったと思った。あの人が私を受け入れてくれたと思った。

 退屈で苦しい毎日から私を解放してくれるんだと思った。