これは僕が小学生だった頃の話。
 三年生だった僕の担任は、中園悦子《なかぞのえつこ》先生と言った。当時の年齢は、確か四十歳手前くらいだったと思う。いつも優しくてニコニコしている上、四十近い年とは思えないくらい若くて綺麗な見た目の先生で、みんなにも好かれていた。
 唯一欠点があるとすれば、運動会でちょっと熱心すぎるということくらいか。

『エツコ先生なあ。一生懸命なのはいいんだけど、自分が運動神経良かったからなのか運動音痴の気持ちがわかんねー人でさあ』

 三つ年上の兄は、そう言って笑っていた。

『頑張れば頑張るだけ足も速くなるし、努力次第でみんな運動神経良くなるとマジで思ってんの。いや熱心なのは嬉しいんだけど、休み時間も放課後もリレーの練習しようって誘ってくるのはちょっとキツかったかも。まあ、それで練習しまくって、実際足は速くなったんだけどさ』
『はははは、兄ちゃん、走るよりも教室で本読んでる方が好きだもんね』
『マジでそれな。まあ、運動が好きな奴らは喜んで参加してたけどな。先生、ドッジボールとかも付き合ってくれるし』

 多分、なんでもかんでも一生懸命すぎて、時々空回ることがあるというタイプだったのだろう。
 ちょっとウザったいと思う時もあったが、そもそも僕はじっとしているよりスポーツしている方が好きなやんちゃ坊主だったし、運動会の練習もまったく苦にならなかったタイプだったので問題はなかった。ああ、運動会の開会式で校長先生の話をじっと立ったまま聞かなければいけないことだけが苦痛だったけれども。
 さて、そんな悦子先生だが。
 彼女はクラス全員の誕生日を覚えていてくれて、そのたびにお祝いしてくれることでも有名だったのだ。学校の規則の問題でおおっぴらにケーキを買ったりなんてことはできなかったが、放課後こっそり生徒にプレゼントを渡していたのは有名な話である。他の先生たちも気づいていて黙認していたらしい。
 兄ちゃんは去年、五年生の時にエツコ先生が担任だった。それで、十月の誕生日にはずっと欲しかったクトゥルフ神話の分厚い本を貰ってご満悦だったという。――ゲーム機みたいなものを買って貰うことはなかったものの、彼女はクラスの子供達の好みを一人一人把握している様子だった。そうでなければ、兄ちゃんがずっと欲しくて我慢していたコアな本のことなんか知る由もなかったことだろう。

「兄ちゃん、僕もうすぐ誕生日なんだよね!エツコ先生何くれるかなあ?」

 十一月末。僕がそう尋ねると、兄は僕をまじまじ見つめて言ったのだった。

「お前は甘いものならなんでも喜ぶだろ。兄ちゃん知ってる。この食いしん坊め」

 ああ、当たっているのがなんとも悔しい。



 ***



 そんな話をしてすぐのことだった。エツコ先生が教室で、ちょっと恥ずかしそうにしながら告げたのである。

「実は、先生……大好きな人と、夫婦になることになりました」
「えええええ本当に!?先生結婚するの!?」
「すごい、おめでとう!」

 わああああ、と教室から歓声が上がった。僕もぱちぱちと拍手をしていた一人である。
 エツコ先生がずっと婚活をしていたのは有名な話だった。彼女の両親は少し考えの古い人で、彼女がこの年になっても結婚していないことを会うたびに詰られて辛い思いをしていたらしい。今どき結婚しない女の人も多いし、それこそ中高年の年齢になってから結婚する人だっているというのにだ。
 時々、本当に時々だけれど「結婚しないと、私って価値のない人間になってしまうのかしら」ということを彼女がぼやいていたことを僕達は知っている。大好きなエツコ先生が幸せになると聞いて、嬉しくない子供はいなかったことだろう。

「ありがとう、みんな」

 彼女は教室のテンションに驚きながらも、頬を染めて言ったのだった。

「実は、五年くらい前からこっそり付き合ってて、同棲もしていたんだけど。……本当に結婚するかどうかもわからないから、両親にも報告できなくてね。……でもやっと気持ちが固まったから。それもこれも、みんなが先生を助けてくれたおかげよ。本当に感謝してる」
「お幸せにー!」
「リア充爆発しろー!」
「遠藤、それなんか違うと思うぞ。ていうかよくそんな言葉知ってたなオマエ……」
「先生おめでとおおおおおお!」

 やいのやいのと騒ぐ仲間たちの真ん中で、僕は考えていたのだった。
 熱血で、教師命として生きているようなエツコ先生。そんな彼女と結婚するのは、どんな男性なのだろう。同じ教員なのだろうか。いや、この学校の先生と結婚するのならばきっとそう言うはず。ならば、僕達の知らない男性である可能性が高いとは思うが。
 そして授業が始まる前に。エツコ先生は僕のことをちょいちょい、と廊下に手招きして言ってくれたのだった。

「ねえ、新橋《しんばし》くん。……もうすぐお誕生日でしょう?私の家に来る気、ない?お祝いしたいのだけど」
「え、いいんですか!?」
「ええ。お兄ちゃんも一緒でいいわ。久しぶりに彼ともお話したいし」
「やったあ!」

 大好きな先生の家に、初めて招かれる。僕は心の底からわくわくしていたし、嬉しかったのだ。
 この時は、確かに。



 ***



 兄ちゃんと二人、先生が彼氏さんと住んでいるというアパートに向かう。いや、もう籍を入れているのだとしたら夫婦なのだから、“旦那さん”と呼ぶのが正しいか。そこらへんははっきりしなかった。
 蒼い屋根のアパートは少しだけボロかった。タチバナコーポ、という看板がかかった階段を、兄ちゃんと二人でゆっくり上がっていく。先生の家は二階の202号室。一段上がるたび、ぎし、ぎし、と嫌な音を立てて階段が軋んだ。

「!」

 先生の部屋の前に来た途端、兄ちゃんが何故か不自然に固まる。

「兄ちゃん、どうしたの?」
「あ、いやその……声が」
「声?」

 兄ちゃんは昔から耳がいい。僕はドア越しに部屋の中の声なんて聞こえなかったが、兄ちゃんはそうでもなかったようだ。彼は少し不審そうにドアを見つめていたが、やがて僕に笑顔を向けて「多分気のせいだ」と言った。
 一体、何が聞こえたというのだろう?

「先生、いますかー?新橋ですけどー」

 インターフォンを鳴らして、兄ちゃんが中に呼びかけた。するとすぐにバタバタと足音が響いて、がちゃりとドアが開く。
 現れたのは、エプロン姿のエツコ先生だ。

「来てくれてありがとう、二人とも!ごめんなさいね、もうちょっとでクッキーが焼けるのよ。中で待っていてくれないかしら」

 どうやら先生が僕達を家に招いたのは、それが僕への誕生日プレゼントでもあったかららしい。甘いものが大好きな僕の為に、手作りクッキーを振る舞ってくれようとしていたようだ。

「さすがは先生、よくわかってる!この分だとケーキも絶対用意してくれているな……!ハラヘッタ!」
「はいはい。食いすぎて腹壊すんじゃねーぞ、弟よ」
「わ、わかってるってば!」

 僕達は促されるまま玄関を上がる。綺麗好きな先生なだけあって、中はこざっぱりとしていた。ただ、正直僕達が住んでいるマンションと比べると圧倒的に部屋が狭い。リビングダイニング以外には、小さな部屋が一つしかないようだった。正直、夫婦で暮らすにはあまり向いていないだろう。将来子供が増える可能性もあるなら尚更に。
 案内されたリビングで、僕は固まることになる。

――え?

 長方形のテーブル。その短辺にどっしりと座っているのは――大きな人形だった。金色の髪、青いボタンの瞳。布で出来た頬に手足、そして青いチェックのズボン。それは誰がどう見ても、綿をつめた男の子の人形だったのだ。
 その人形の前に、ナイフやフォーク、箸、皿などが並べられている。まるで、今からその人形が食事をするかのように。

「ああ、ごめんなさい。紹介がまだだったわね」

 先生が人形の後ろに立つと、笑顔で紹介してきたのだった。

「彼が、私と夫婦になってくれる人……シンジロウさんよ。二人とも、よろしくね」

 僕は、言葉を失った。先生は何を言っているのだろう。そこにいるのは、誰がどう見ても人形だ。生きている人間では、あり得ない。なのに何故、先生はその人形を、旦那さんであるかのように自分達に紹介するのか。話しかけているのか。

「せ、先生、あの……」
「エツコ先生!旦那さんとはどのようにして出会ったのかお尋ねしてもいいですか?」

 僕が違和感を口にしようとした時、兄が不自然に僕の言葉をさえぎってきた。どうして、と目で尋ねる僕に、兄は首を横に振る。黙っていろと言いたいらしい。
 そんな僕達の様子に気付かなかったのか、エツコ先生は「おませさんなんだから」と頬を染めたのだった。

「そうね。ケーキとクッキーができたら……食べながら話してあげるわね」



 ***



 エツコ先生は語った。
 旦那さんと出会ったのは、婚活パーティでのことだったと。
 優しくて、エリートサラリーマンで。教師と言うエツコ先生の仕事にも理解を持ってくれて。この人しかいない、と彼女はそう確信したらしい。彼ならば、両親もきっと納得して結婚を許してくれるだろうと。

『夫婦になると宣言したけど、実はまだ婚姻届けは出していなくて。その、お父様とお母様への挨拶がね』

 彼女は困ったように笑って言ったのだった。

『大丈夫だとは確信しているわ。二人とも、何年も何年も私に結婚しろ、早く孫の顔を見せろと五月蝿かったし。それでも、愛する人との結婚を否定されたらどうしようって気持ちはあるでしょ?……けれど今日、二人が来てくれて確信したわ。あの人は子供も大好きだし、二人にもとっても親切に接してくれた。将来家族が増えても、きっとうまくやっていけるはずよ』

 心から幸せそうな彼女に、僕は何と言えば良かったのだろう。美味しいはずのケーキとクッキーも、正直味がわからなかった。大好きなエツコ先生がおかしくなってしまったとしか思えず、怖いのと悲しいのとで心がぐちゃぐちゃだったからだ。
 そして。
 家に帰った後で兄ちゃんが僕に告げたのだった――今日見たことは誰にも話すなよ、と。

「エツコ先生が、お人形を旦那さんだと思ってるってこと?でも、先生が心の病気なら、ちゃんと治療してもらわないといけないんじゃないの?」
「そうとも言い切れないから問題なんだ」

 心なしか、兄ちゃんの顔は青かった。

「俺さ。アパートの部屋の入口で……中から話し声が聞こえてくるのを聞いてるんだ。明らかに、男の声が聞こえてたんだよ」
「お、男って……まさか」
「中に入ったらもっとはっきり聞こえるようになった。間違いなく、あのぬいぐるみから聞こえてたんだ。けど、エツコ先生の呼びかけとはまったくかみ合ってなくてさ。ずっと同じことをぶつぶつ呟いてるんだよ。なんて言ってたと思う?」

 嫌な予感しかしない。それでも僕は尋ねてしまっていた。なんて言っていたの?と。
 すると。

「『出してくれ、ここから出してくれ。狭い、暗い。出してくれ、出してくれ、出してくれ』……なあ、どういう意味だと思う?」

 結局。
 僕達は、先生の旦那さんについて、誰かに話すことはなかった。エツコ先生はそのすぐあと、寿退社ということで教師をやめてしまい、その後どうなったのかはわからない。アパートの場所は知っていたものの、正直二度と近づきたいとは思えなかった。
 あれは、先生がおかしくなってしまったせいなのか。それとも兄ちゃんがおかしかったのか。
 もしくはどっちもおかしくなったわけではなくて、本当にあの人形に何かが憑りついていたのか。
 真相は僕が大人になった今でも、闇の中に葬られたままである。