時は大正。西洋文化が急速に流れ込む中、古き良き伝統がまだ根強く残る過渡期。
桜庭伯爵家は、その時代の中でも特異な存在だった。
明治維新の頃、桜庭家の先代が新政府に協力し、財政面や外交面で多大な功績を挙げたことで華族の地位を得た。その後、家は次第に財を蓄え、政治的にも重要な立場を築いていった。
しかし桜庭家には、もう一つの顔があった。
遠い昔から、この一帯の土地は霊的な力が強いとされ、数々の神秘的な伝承が残されている。桜庭家は、この土地を守護する一族としての役割も担ってきた。
記録によれば、家の祖先は霊的な存在や神々との契約を結び、この地の秩序を保つ使命を果たしてきたという。
それは迷信だと片付ける者もいれば、真実だと信じる者もいる。
だが、この地に長く住む人々の間では、桜庭家が不思議な力を持つ「守護者」であるという噂が絶えない。桜庭家の現当主も、そうした伝統を受け継ぎつつ、現代の政治や経済にも精通する実直な人物であった。
桜庭家の一人娘である澪は、そうした家の歴史と役割を幼い頃から教えられてきた。
けれども、彼女自身は特別な力を感じたこともなければ、神秘的な存在と出会ったこともない。ただ、屋敷の中や庭園を歩いていると、不思議な気配を感じることがたまにあるだけだった。それが何なのか、澪自身も説明できなかった。
「桜庭の名には、重みがある。それを忘れてはならない。」
澪はその言葉を聞くたびに、少し息苦しさを覚えた。
父の期待を裏切りたくない一方で、自分の人生は自分で選びたいという願いもあった。
◇ ◇ ◇
夜の帳が静かに降りるころ、桜庭家の大広間は華やかな喧騒に包まれていた。
艶やかなドレスに身を包んだ貴婦人たちと、きらびやかな装飾品を纏う紳士たちが笑いさざめく。
本日の夜会の主役である一人娘 桜庭澪 もまた、微笑みを絶やさず客人たちに言葉を返していた。
(はぁ……、本当にこういう場所は苦手だわ)
振袖の白地に描かれた淡い桜模様が、清楚さを引き立たせていると母が選んでくれたものだ。けれども、この煌びやかな夜会を心から楽しむ気持ちにはどうしてもなれない。胸に小さな重石があるかのように、どこか息苦しさを覚えていた。
「澪、次はあちらの仁科家の当主にご挨拶だ」
父の声に促され、隣を歩く。十八歳を迎えた私に婿を見つけることが父の今日の目的だというのは、火を見るよりも明らかだった。
知り合いの家々の息子たちと次々と挨拶を交わすものの、私の心はどこか遠い場所をさまよっていた。八人目の相手と話し終える頃には、さすがに気疲れしてしまう。
「お父様、少しのどが渇きました。休憩してもよろしいでしょうか?」
「澪、またそうやって逃げ腰になる。相手に失礼ではないか?」
父の視線には叱責が込められている。けれども、私はこの押し付けがましさに反発せずにはいられない。
「失礼と言われましても、結婚相手くらい自分で見つけたいのです」
「では、その“好きな相手”を今すぐ私の前に連れてきてみろ」
父は挑発するように笑う。もちろん、そんな相手がいないことを知った上で言っているのだろう。私は黙り込み、視線をそらした。
「……わかった。だが、自分の年齢をよく考えるのだ」
ため息まじりだが、父の声が少しだけ優しくなる。
父が私を案じていることは理解している。私が“行き遅れ”だと噂されることで、桜庭家の名誉が傷つくことも父が心を痛めている理由の一つだろう。
「わかっておりますわ、お父様」
そう答えながらも、私の心にはどこか割り切れない思いがあった。
いい人が見つからない、そう言ってしまえばそれまでだけど。心のどこかで、運命の相手がいるような気がして、恋愛しようとすると、なぜかこの人ではないという気持ちが湧き上がり、先に進めなくなるのだ。
(運命の相手なんているわけないし、もうそんな夢を見るようなことを言っている場合ではないのだけど……)
◇ ◇ ◇
広間を抜け出し、庭園へと足を向ける。夜風が振袖の裾をそっと揺らし、満月の光が庭全体を優しく包み込んでいる。深く息を吸い込むと、心が少しだけ軽くなったように感じた。
「澪様、お飲み物をお持ちしました」
振り返ると、湊がそこに立っていた。執事らしい黒い燕尾服を纏い、変わらぬ穏やかな表情を浮かべている。
「さすが湊、気が利くわ」
湊は私にとってただの執事ではない。幼いころから桜庭家で育った彼は、友人であり、兄のような存在だ。
「旦那様から大事な令嬢を護るよう命じられていますから」
冗談めかしてそう言う湊の顔を見て、私はふと思わず口をついた。
「ごめんね。私が結婚しないせいで、ずっと束縛してしまって」
「何をおっしゃいますか。私は好きで澪様に仕えているのです。むしろ澪様が嫁ぐ際には私もお連れください」
「お父様のお気に入りの湊を連れて行くわけにはいかないわ」
「では花嫁道具に忍んでいくしかありませんね」
「ふふっ。何を言ってるの」
湊の言葉にはいつも救われる。彼がいなければ、この日々を乗り越えられなかったかもしれない。
――しかし、その穏やかな時間は唐突に終わりを告げた。
湊が表情を引き締め、庭の一角をじっと見つめている。
「湊……?」
不安を覚えながら彼の視線を追うと、月明かりの下で青白い光が揺れているのが見えた。どこか人の形をしているように見える。
湊は即座に短剣を抜き、警戒しながらその光へと向かおうとした。
「お下がりください、澪様」
だが、その光は湊の動きを避けるように滑るように移動し、私の方へと近づいてくる。そして、目の前でぴたりと止まった。
「……?」
湊は光に向かって剣を振り下ろそうとする。
「待って、湊!」
私は咄嗟に湊を制し、その光を凝視した。青白い輝きは次第に薄れ、やがて一人の青年の姿が浮かび上がる。
銀髪とも白金ともつかない長い髪が月光を受けて神秘的に輝き、風に揺れる和装の裾が静かに舞う。その現実離れした美しさに、私は息を呑んだ。
「久しいな、澪」
静かで深みのある声だった。その声を聞いた瞬間、胸の奥に奇妙な感覚が走る。
(……知っている? でも、誰……?)
彼の顔をじっと見つめても、記憶の中には何の手がかりもない。
「……どなたですか?」
恐る恐る尋ねると、青年はわずかに驚いたように目を細め、それから静かに微笑んだ。
「……そうか。覚えていないのか」
その声には、どこか残念そうな響きがあり、寂し気な表情になぜか胸が締め付けられる思いがする。
「私は朧。君の契約者だ」
「契約者……?」
その言葉に、胸の奥にあった奇妙な感覚がさらに強くなる。だがその感覚は、湊が私の前に立ちはだかり短剣を構えたことで、かき消された。
「澪様に近寄るな! 一体何者だ!」
「待って湊、大丈夫だから……」
私は彼の肩にそっと手を置き、落ち着かせようとする。しかし、次の瞬間――
――ざわ……っ
背筋が凍るような異様な気配が庭の奥から立ち上り、音もなくこちらへ迫ってくるのが目に入った。禍々しい気配をまとっていて、私はその異質さに恐怖で足がすくみ、動けなくなる。
「……っ!」
「澪様、危ない!」
湊が叫び、私を強く抱き寄せる。彼の腕の中にいると少しだけ心が落ち着くけれど、それでも黒い霧から目を逸らすことはできなかった。
霧がもうすぐ私たちに届く――そう思った瞬間だった。
「下がっていなさい」
朧の静かな声が、夜風の中に響く。
彼は一歩、前へと進み出ると、袖を翻しながら手を軽くかざした。
次の瞬間――
月光が刃へと変わる。
鋭く煌めく銀白の刃が放たれ、黒い霧を一閃する。
霧は音もなく切り裂かれ、まるで夜の闇に溶けるように消えていった。
「なに……今の……?」
私は呆然とその場に立ち尽くした。湊の腕の力も強くなる。彼もまた、目の前で起きた非現実的な光景に混乱しているのだろう。
遠くから、屋敷の者たちが駆けつけてくる気配がした。
「この地の結界が弱まっている。君の力が必要だ、澪。また会おう」
朧は静かにそう告げた。
「待って……!」
咄嗟に手を伸ばす。
けれど、その手が届く前に、彼の姿は再び光に包まれ、ゆっくりと夜の中へ溶けるように消えていった。
「……っ」
光が完全に消え、そこにはただ、静寂だけが残った。
「なんだったの……」
思わずつぶやいた声は震えていた。
湊はなにも答えず、ただ朧が消えた方向を険しい目で睨みつけていた。
やがて、駆けつけた父や使用人たちに何があったのか尋ねられたけれど、なんと説明していいかわからず、ただ「何もない」と答えるしかなかった。湊も同様のようで、光を見たがそれ以上なにもわからないと答えていた。
父は納得していないようだったが、私と湊の「なにを見たのかわからない」という雰囲気に、それ以上の質問をしてこなかった。
私は父たちと会場に戻った。
誰もいなくなった庭園には、月明りが静かに辺りを照らしていた。
◇ ◇ ◇
――庭園のさらに奥、竹林の影にひとりの人影が佇んでいた。
鮮やかな朱色の着物に身を包み、風になびく少し長めの桃色の髪。その姿は華やかでありながら、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。何より目を惹くのは、黄金色に輝く瞳と頭に生えたふさふさとした狐耳――彼の姿は明らかに人ならざる者だった。
その青年は、先ほどから澪たちの様子を眺めていたようで、口元に含みのある笑みを浮かべながら、楽しげに呟いた。
「朧は相変わらずお堅いなあ。月だの結界だの、まるで昔話みたいじゃないか」
そう言いつつも、その黄金色の瞳は、会場へと戻ろうとする澪から決して離れない。ふと、隣に寄り添う湊へと視線を移す。
「ふうん……あの湊とかいう執事、もしかして澪嬢のこと……」
何かに気づいたのか、青年は面白そうに喉を鳴らして笑う。
「朧のライバルになるかな。まあ、その前に――僕も引き下がるつもりはないけど」
二人から視線を外し、夜空に浮かぶ月を見つめると、大きく伸びをする。
「いよいよ動き出す……か。でも、朧は僕がいなきゃ上手く回らないんだから、勝手に動きまわらないでくれよ」
そう呟くと、青年は気まぐれな笑みを残し、竹林の奥へと軽やかな足取りで消えていった――。
桜庭伯爵家は、その時代の中でも特異な存在だった。
明治維新の頃、桜庭家の先代が新政府に協力し、財政面や外交面で多大な功績を挙げたことで華族の地位を得た。その後、家は次第に財を蓄え、政治的にも重要な立場を築いていった。
しかし桜庭家には、もう一つの顔があった。
遠い昔から、この一帯の土地は霊的な力が強いとされ、数々の神秘的な伝承が残されている。桜庭家は、この土地を守護する一族としての役割も担ってきた。
記録によれば、家の祖先は霊的な存在や神々との契約を結び、この地の秩序を保つ使命を果たしてきたという。
それは迷信だと片付ける者もいれば、真実だと信じる者もいる。
だが、この地に長く住む人々の間では、桜庭家が不思議な力を持つ「守護者」であるという噂が絶えない。桜庭家の現当主も、そうした伝統を受け継ぎつつ、現代の政治や経済にも精通する実直な人物であった。
桜庭家の一人娘である澪は、そうした家の歴史と役割を幼い頃から教えられてきた。
けれども、彼女自身は特別な力を感じたこともなければ、神秘的な存在と出会ったこともない。ただ、屋敷の中や庭園を歩いていると、不思議な気配を感じることがたまにあるだけだった。それが何なのか、澪自身も説明できなかった。
「桜庭の名には、重みがある。それを忘れてはならない。」
澪はその言葉を聞くたびに、少し息苦しさを覚えた。
父の期待を裏切りたくない一方で、自分の人生は自分で選びたいという願いもあった。
◇ ◇ ◇
夜の帳が静かに降りるころ、桜庭家の大広間は華やかな喧騒に包まれていた。
艶やかなドレスに身を包んだ貴婦人たちと、きらびやかな装飾品を纏う紳士たちが笑いさざめく。
本日の夜会の主役である一人娘 桜庭澪 もまた、微笑みを絶やさず客人たちに言葉を返していた。
(はぁ……、本当にこういう場所は苦手だわ)
振袖の白地に描かれた淡い桜模様が、清楚さを引き立たせていると母が選んでくれたものだ。けれども、この煌びやかな夜会を心から楽しむ気持ちにはどうしてもなれない。胸に小さな重石があるかのように、どこか息苦しさを覚えていた。
「澪、次はあちらの仁科家の当主にご挨拶だ」
父の声に促され、隣を歩く。十八歳を迎えた私に婿を見つけることが父の今日の目的だというのは、火を見るよりも明らかだった。
知り合いの家々の息子たちと次々と挨拶を交わすものの、私の心はどこか遠い場所をさまよっていた。八人目の相手と話し終える頃には、さすがに気疲れしてしまう。
「お父様、少しのどが渇きました。休憩してもよろしいでしょうか?」
「澪、またそうやって逃げ腰になる。相手に失礼ではないか?」
父の視線には叱責が込められている。けれども、私はこの押し付けがましさに反発せずにはいられない。
「失礼と言われましても、結婚相手くらい自分で見つけたいのです」
「では、その“好きな相手”を今すぐ私の前に連れてきてみろ」
父は挑発するように笑う。もちろん、そんな相手がいないことを知った上で言っているのだろう。私は黙り込み、視線をそらした。
「……わかった。だが、自分の年齢をよく考えるのだ」
ため息まじりだが、父の声が少しだけ優しくなる。
父が私を案じていることは理解している。私が“行き遅れ”だと噂されることで、桜庭家の名誉が傷つくことも父が心を痛めている理由の一つだろう。
「わかっておりますわ、お父様」
そう答えながらも、私の心にはどこか割り切れない思いがあった。
いい人が見つからない、そう言ってしまえばそれまでだけど。心のどこかで、運命の相手がいるような気がして、恋愛しようとすると、なぜかこの人ではないという気持ちが湧き上がり、先に進めなくなるのだ。
(運命の相手なんているわけないし、もうそんな夢を見るようなことを言っている場合ではないのだけど……)
◇ ◇ ◇
広間を抜け出し、庭園へと足を向ける。夜風が振袖の裾をそっと揺らし、満月の光が庭全体を優しく包み込んでいる。深く息を吸い込むと、心が少しだけ軽くなったように感じた。
「澪様、お飲み物をお持ちしました」
振り返ると、湊がそこに立っていた。執事らしい黒い燕尾服を纏い、変わらぬ穏やかな表情を浮かべている。
「さすが湊、気が利くわ」
湊は私にとってただの執事ではない。幼いころから桜庭家で育った彼は、友人であり、兄のような存在だ。
「旦那様から大事な令嬢を護るよう命じられていますから」
冗談めかしてそう言う湊の顔を見て、私はふと思わず口をついた。
「ごめんね。私が結婚しないせいで、ずっと束縛してしまって」
「何をおっしゃいますか。私は好きで澪様に仕えているのです。むしろ澪様が嫁ぐ際には私もお連れください」
「お父様のお気に入りの湊を連れて行くわけにはいかないわ」
「では花嫁道具に忍んでいくしかありませんね」
「ふふっ。何を言ってるの」
湊の言葉にはいつも救われる。彼がいなければ、この日々を乗り越えられなかったかもしれない。
――しかし、その穏やかな時間は唐突に終わりを告げた。
湊が表情を引き締め、庭の一角をじっと見つめている。
「湊……?」
不安を覚えながら彼の視線を追うと、月明かりの下で青白い光が揺れているのが見えた。どこか人の形をしているように見える。
湊は即座に短剣を抜き、警戒しながらその光へと向かおうとした。
「お下がりください、澪様」
だが、その光は湊の動きを避けるように滑るように移動し、私の方へと近づいてくる。そして、目の前でぴたりと止まった。
「……?」
湊は光に向かって剣を振り下ろそうとする。
「待って、湊!」
私は咄嗟に湊を制し、その光を凝視した。青白い輝きは次第に薄れ、やがて一人の青年の姿が浮かび上がる。
銀髪とも白金ともつかない長い髪が月光を受けて神秘的に輝き、風に揺れる和装の裾が静かに舞う。その現実離れした美しさに、私は息を呑んだ。
「久しいな、澪」
静かで深みのある声だった。その声を聞いた瞬間、胸の奥に奇妙な感覚が走る。
(……知っている? でも、誰……?)
彼の顔をじっと見つめても、記憶の中には何の手がかりもない。
「……どなたですか?」
恐る恐る尋ねると、青年はわずかに驚いたように目を細め、それから静かに微笑んだ。
「……そうか。覚えていないのか」
その声には、どこか残念そうな響きがあり、寂し気な表情になぜか胸が締め付けられる思いがする。
「私は朧。君の契約者だ」
「契約者……?」
その言葉に、胸の奥にあった奇妙な感覚がさらに強くなる。だがその感覚は、湊が私の前に立ちはだかり短剣を構えたことで、かき消された。
「澪様に近寄るな! 一体何者だ!」
「待って湊、大丈夫だから……」
私は彼の肩にそっと手を置き、落ち着かせようとする。しかし、次の瞬間――
――ざわ……っ
背筋が凍るような異様な気配が庭の奥から立ち上り、音もなくこちらへ迫ってくるのが目に入った。禍々しい気配をまとっていて、私はその異質さに恐怖で足がすくみ、動けなくなる。
「……っ!」
「澪様、危ない!」
湊が叫び、私を強く抱き寄せる。彼の腕の中にいると少しだけ心が落ち着くけれど、それでも黒い霧から目を逸らすことはできなかった。
霧がもうすぐ私たちに届く――そう思った瞬間だった。
「下がっていなさい」
朧の静かな声が、夜風の中に響く。
彼は一歩、前へと進み出ると、袖を翻しながら手を軽くかざした。
次の瞬間――
月光が刃へと変わる。
鋭く煌めく銀白の刃が放たれ、黒い霧を一閃する。
霧は音もなく切り裂かれ、まるで夜の闇に溶けるように消えていった。
「なに……今の……?」
私は呆然とその場に立ち尽くした。湊の腕の力も強くなる。彼もまた、目の前で起きた非現実的な光景に混乱しているのだろう。
遠くから、屋敷の者たちが駆けつけてくる気配がした。
「この地の結界が弱まっている。君の力が必要だ、澪。また会おう」
朧は静かにそう告げた。
「待って……!」
咄嗟に手を伸ばす。
けれど、その手が届く前に、彼の姿は再び光に包まれ、ゆっくりと夜の中へ溶けるように消えていった。
「……っ」
光が完全に消え、そこにはただ、静寂だけが残った。
「なんだったの……」
思わずつぶやいた声は震えていた。
湊はなにも答えず、ただ朧が消えた方向を険しい目で睨みつけていた。
やがて、駆けつけた父や使用人たちに何があったのか尋ねられたけれど、なんと説明していいかわからず、ただ「何もない」と答えるしかなかった。湊も同様のようで、光を見たがそれ以上なにもわからないと答えていた。
父は納得していないようだったが、私と湊の「なにを見たのかわからない」という雰囲気に、それ以上の質問をしてこなかった。
私は父たちと会場に戻った。
誰もいなくなった庭園には、月明りが静かに辺りを照らしていた。
◇ ◇ ◇
――庭園のさらに奥、竹林の影にひとりの人影が佇んでいた。
鮮やかな朱色の着物に身を包み、風になびく少し長めの桃色の髪。その姿は華やかでありながら、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。何より目を惹くのは、黄金色に輝く瞳と頭に生えたふさふさとした狐耳――彼の姿は明らかに人ならざる者だった。
その青年は、先ほどから澪たちの様子を眺めていたようで、口元に含みのある笑みを浮かべながら、楽しげに呟いた。
「朧は相変わらずお堅いなあ。月だの結界だの、まるで昔話みたいじゃないか」
そう言いつつも、その黄金色の瞳は、会場へと戻ろうとする澪から決して離れない。ふと、隣に寄り添う湊へと視線を移す。
「ふうん……あの湊とかいう執事、もしかして澪嬢のこと……」
何かに気づいたのか、青年は面白そうに喉を鳴らして笑う。
「朧のライバルになるかな。まあ、その前に――僕も引き下がるつもりはないけど」
二人から視線を外し、夜空に浮かぶ月を見つめると、大きく伸びをする。
「いよいよ動き出す……か。でも、朧は僕がいなきゃ上手く回らないんだから、勝手に動きまわらないでくれよ」
そう呟くと、青年は気まぐれな笑みを残し、竹林の奥へと軽やかな足取りで消えていった――。
