……いつの間にか、うとうとしていたようだ。今日も熱帯夜で、常時クーラーで部屋を冷やしているから、窓は開けていない。なのに僕は、エアコンから吹いてくるのではない、生温い自然の風を頬に感じて、覚醒した。
窓。開いていない。閉まっている。カーテンすら、開いていなかった。今日はくしくも新月で、悪夢の夜よりも暗い。
じゃあどこから風が吹いてくるのか。僕は窓から視線をはずし、ゆっくりと振り返る。
……いる。
黒い塊だった。もぞもぞと動き、僕の傍に這い寄ってくる。手も足も、骨と皮だけのように細い。なのに、身体全体は大きい。ハァハァという、荒く、獣じみた息づかいに、僕は悲鳴をあげそうになる。
美しい。なんて、美しいんだ。
僕の感動に呼応するように、顔を上げた。目、らしいものや鼻と思われるもの、息を吐き出す口的なものが、人間と同じ数だけくっついている。吐く息は薔薇の香水みたいにかぐわしい。媚薬だろうか。もっと嗅ぎたい。ハァハァと呼吸が荒くなる。
立ち上がった肉塊は……姉さんの腹は、膨れていた。ああ、なんて神秘的なんだろう!
当然、腹の中にいるのは僕との間の子である。
『つうううううむううううううぐうううううううう』
強い風が吹いたような、轟音。耳を塞いでも、音は消えてなくならない。
「姉さん! 姐さん!」
叫ぶと、うねうねと不思議な動きを続けていた姉は、ぴたりと止まった。そして咆哮。
きゃああああああああ、という甲高い嬌声に似た叫び声は、僕に認識されたことを喜ぶ、女の愉悦の声だ。
ああ、なんて愛おしい。僕のことを心から愛し、絶叫している。
僕は持っていたはさみを取り落とした。もう必要ない。縁切りのための白い糸も、もういらない。解くのに難儀していると、姉が近づいてきて、指を取った。直視する。生きていた頃よりもずっと魅力的で、美しい姉さん。彼女の指が動き、僕を白い糸から解放する。
『つむぐはぁ、生きてるあたしを、受け入れなかったぁ。だから、死んだのぉ。死んだら、自由! つむぐもいっしょに、イこ?』
「姉さん……」
『ねぇ、イこうよぉ。つむぐぅぅ、アイしてるのおおお』
この人は、僕と心中しようとしている。不変なる死へと、僕を導こうとしている。
僕の周囲がそれぞれ破滅していった運命は、すべて、僕を絶望の淵に立たせることが目的だった。すべては姉の呪いだったのだ。絶望と死は、近い場所にあるから。
姉の髪が僕に向かってくる。太い縄状になり、襲いかかる。
首が絞められる。死にたくないとは思わなかった。だらりと腕を下げて、僕は姉にされるがまま。
「ね、ぇさ……あい、してる……あい、じでう……!」
こんなになるまで僕を愛してくれた姉さん。生きているうちに、受け入れてあげればよかったと心から思う。セックスをして、子どもを産んでもらって、またセックスをして。そういう獣みたいな愛のある生活を送りたかった。
薄れていく意識の中、篤久が嗤っている。
お前も結局、女で身を亡ぼすんだな、と。
美空なのか美希なのかわからない美しい少女が軽蔑の目でこちらを見下ろしている。遠藤は悲しそうだ。
私たちのことを気持ち悪いと言ったのに、あなたも同じじゃない。
そして糸子。姉の髪よりも細く、その名の通り絹糸のような髪の毛の美女は無表情であった。
囚われてしまったのね。それではさようなららららららららららら
別れの挨拶は不協和音の節で間延びする。ららららら、歌っているのは糸子じゃない。姉だ。
『つむぐ。あいしてる。だから、私の中で生きよう?』
大きな口。人間には不可能なサイズだが、今の姉は人知を超えた生物だ。僕の頭を丸飲みする。
ぶちり、ぐちゅり。
すさまじい音とともに、僕の意識は、命は途絶えた。
(了)
窓。開いていない。閉まっている。カーテンすら、開いていなかった。今日はくしくも新月で、悪夢の夜よりも暗い。
じゃあどこから風が吹いてくるのか。僕は窓から視線をはずし、ゆっくりと振り返る。
……いる。
黒い塊だった。もぞもぞと動き、僕の傍に這い寄ってくる。手も足も、骨と皮だけのように細い。なのに、身体全体は大きい。ハァハァという、荒く、獣じみた息づかいに、僕は悲鳴をあげそうになる。
美しい。なんて、美しいんだ。
僕の感動に呼応するように、顔を上げた。目、らしいものや鼻と思われるもの、息を吐き出す口的なものが、人間と同じ数だけくっついている。吐く息は薔薇の香水みたいにかぐわしい。媚薬だろうか。もっと嗅ぎたい。ハァハァと呼吸が荒くなる。
立ち上がった肉塊は……姉さんの腹は、膨れていた。ああ、なんて神秘的なんだろう!
当然、腹の中にいるのは僕との間の子である。
『つうううううむううううううぐうううううううう』
強い風が吹いたような、轟音。耳を塞いでも、音は消えてなくならない。
「姉さん! 姐さん!」
叫ぶと、うねうねと不思議な動きを続けていた姉は、ぴたりと止まった。そして咆哮。
きゃああああああああ、という甲高い嬌声に似た叫び声は、僕に認識されたことを喜ぶ、女の愉悦の声だ。
ああ、なんて愛おしい。僕のことを心から愛し、絶叫している。
僕は持っていたはさみを取り落とした。もう必要ない。縁切りのための白い糸も、もういらない。解くのに難儀していると、姉が近づいてきて、指を取った。直視する。生きていた頃よりもずっと魅力的で、美しい姉さん。彼女の指が動き、僕を白い糸から解放する。
『つむぐはぁ、生きてるあたしを、受け入れなかったぁ。だから、死んだのぉ。死んだら、自由! つむぐもいっしょに、イこ?』
「姉さん……」
『ねぇ、イこうよぉ。つむぐぅぅ、アイしてるのおおお』
この人は、僕と心中しようとしている。不変なる死へと、僕を導こうとしている。
僕の周囲がそれぞれ破滅していった運命は、すべて、僕を絶望の淵に立たせることが目的だった。すべては姉の呪いだったのだ。絶望と死は、近い場所にあるから。
姉の髪が僕に向かってくる。太い縄状になり、襲いかかる。
首が絞められる。死にたくないとは思わなかった。だらりと腕を下げて、僕は姉にされるがまま。
「ね、ぇさ……あい、してる……あい、じでう……!」
こんなになるまで僕を愛してくれた姉さん。生きているうちに、受け入れてあげればよかったと心から思う。セックスをして、子どもを産んでもらって、またセックスをして。そういう獣みたいな愛のある生活を送りたかった。
薄れていく意識の中、篤久が嗤っている。
お前も結局、女で身を亡ぼすんだな、と。
美空なのか美希なのかわからない美しい少女が軽蔑の目でこちらを見下ろしている。遠藤は悲しそうだ。
私たちのことを気持ち悪いと言ったのに、あなたも同じじゃない。
そして糸子。姉の髪よりも細く、その名の通り絹糸のような髪の毛の美女は無表情であった。
囚われてしまったのね。それではさようなららららららららららら
別れの挨拶は不協和音の節で間延びする。ららららら、歌っているのは糸子じゃない。姉だ。
『つむぐ。あいしてる。だから、私の中で生きよう?』
大きな口。人間には不可能なサイズだが、今の姉は人知を超えた生物だ。僕の頭を丸飲みする。
ぶちり、ぐちゅり。
すさまじい音とともに、僕の意識は、命は途絶えた。
(了)
