一人暮らし初日から、この家はなんだかおかしかった。
「ん……?」
 昨日までは、母親が引っ越しの手伝いに来ていて、泊まっていた。どうにか体裁が整って地元に帰っていき、完全にひとりになるのはその夜が初めてだった。
 実家には、妹と弟がいて、祖父母も一緒に暮らしている。今のご時世では、大家族に分類されるだろう。田舎だから、夜にはしーんと静まりかえるが、それでも人の気配がすぐ近くにあったものだ。
 東京の一人暮らしは、違う。学生が多く暮らす街だから、夜中になって酔っ払って歩いている若い男の声が聞こえた。なのに、家の内側にはひとりきり。
 だからか、なかなか寝つけなかった。昨夜までは、母が何度も話しかけてきて「眠いのにいい加減にしてくれよォ」とあくびを嚙み殺して生返事をしていたのだが、今日は静かなのに、眠れない。
 それでもどうにか、夜中の一時を回る頃にはうとうとしていた。このままいけば、上手く眠れる。
 そう思ったとき、ぴちゃん、と音がした。小さいのに、やけに癇に障る音だ。雨か? と目を擦り、窓の外を見るが、そんな気配はない。なのにまだ、ぴちゃんぴちゃんと音がする。
 面倒ではあったが、台所や風呂の水回りを確認する。蛇口はきちんと締まっていて、水が漏れている気配はない。
「……んだよ」
 空耳にしては、やけにはっきりと聞こえる水音に、俺は苛立ちながらも気にしないフリで、再び眠ってしまおうと頭から布団をかぶった。

 それから毎日、音がした。無視し続けていたが、バイトを終えて帰宅した俺は、あまりのことに持っていたバッグを落とした。
「なんだよ、これ……」
 床のあちこちに、水が溜まっている。ここはアパートの三階、最上階だ。上の部屋の住人が何かやらかして、水漏れを起こしたということもない。一番可能性があるのは雨漏りだが、今日の降水量はゼロだ。
 どこから来た水だ? 
 一番近くにあった水たまりに触ってみる。ただの水というよりは、なんだか粘ついているように感じられて、慌てて引っ込めた。
「そうだ、写真」
 拭き取る前に、写真に収めておこう。今日はもう遅い。明日にでも、管理会社に連絡をして確認してもらう。そのときに、実際の現場の様子を見てもらうためにも写真を撮っておこう。スマートフォンを向ける。すべての箇所を撮り終わり、さて拭き掃除をするかと床を見ると、すでに水は蒸発して消えていた。
 翌日、管理会社の人間に立ち会ってもらって確認してもらったが、異常はなかった。
 異常としか思えない事態は、ほぼ毎日続いている。

 寝不足か? と、下世話な笑みを浮かべて話しかけてきたのは、大学の学部は違えど、バイト先が同じである男子学生だった。
「そんなにひどい顔してるか?」
 彼の思うような楽しい理由による寝不足ではない。頬に触れると、ここ最近でげっそりと痩せて、生気のない顔になっているだろうことがわかる。男は笑って、「ゾンビだよ、ゾンビ」と、ひとりで大ウケしている。このノリがバイト先でも続くのだから、俺はあまりこの男のことが好きではない。
「まぁ、悩み事があんなら話してみろよ」
 ニヤニヤしている。ガチな相談なら絶対にしたくない男だが、俺が抱え込んでいる「悩み」というのは、ひとりで抱え込んでおける類のものではない。誰かに話せばラクになれるというものではないが、笑い飛ばしてもらったら、「やっぱり俺の勘違いだったわ」で終了する。
 なので、俺は話した。夜になると、水の音がすること。三日に一回は、床に水たまりができること。
 男は笑い、「おもしれぇじゃん。今日遊びに行くわ」と、宣言した。許可を取らずに「行くぞ」というあたり、やはり好きにはなれないとムッとするが、考え直す。
 母が泊まっているときには、何もなかった。ということは、あの異変は、俺がひとりになった途端に起きる。こいつに泊まってもらえれば、今日だけでも安眠ができるかもしれない。
 そう思った俺は、頷いた。連絡先をここで初めて交換した。お互いにバイトがないので、コンビニで酒とつまみを買って宅飲みをしようという話になった。酒は二十歳になってから、という細かいことを言うつもりはないが、俺は酔うと眠くなるタイプだ。大学進学して、初めて知った事実である。
 いるも水音に悩まされてあまり眠れないのだが、なるほど、酒に頼ればよかったのか。
 俺よりだいぶ老け顔の男は、二十歳以上のチェックも顔パスで、酒をゲットした。家に連れて帰る。
 水たまりができていてほしいな、と思ったのは初めてだ。不思議なことが起きると言っておいて何もなければ、俺は嘘つき扱いをされる。
「開けるぞ」
 夜は七時。まだ活動時間中で、隣の住民はふたりとも、まだ帰ってきていない様子だ。そういえば、この現象が起きるのはこの部屋だけらしい。管理会社の人間が、「他の部屋は何事もないようですが……」と、首を捻っていた。
 部屋はいつも通りだった。何の変哲もないワンルームのアパートは、大柄な男にとってはやや手狭なようだ。卓袱台の上に酒とつまみを並べて、身を縮めて座っている。
 それから一時間、たいした中身のない話をした。
「全然何もないじゃねぇか」
 と、頭を小さく小突かれた。ちょっと痛い。ガハハ、と豪快に笑っていた男の顔が、急速に表情を失っていく。
「ん? どーした?」
 すでに舌が上手に回らない。もう眠くて仕方がない。まだ九時前だというのに。
「なぁ、お前今、なんか言ったか?」
「はぁ?」
「なんか、女の声みてえなのが……」
 残念なことに、両隣は男子学生だ。このアパートに住んでいる女性を、俺はひとりしか知らない。アパートの大家である、四十代くらいのおばさんだ。テンションが上がらない。
 俺がそう言うと、「いや、ババアの声じゃねぇな。もっと若い……」と、声を低めた。
 しばしの沈黙、耳を澄ます。部屋の外の音しか聞こえない。男も同様だったらしく、「気のせいだったみてぇだな」と笑った。
「起きてるのに寝ぼけてんなよ」
「ワリィワリィ。ちょっと眠気覚ましたいからよ、シャワー貸してくれよ」
 俺だって眠いのに。下着やタオルを貸せと言われたので、仕方なく出す。そのまま浴室に送り出し、俺はベッドに寝そべってうとうとしていた。
 心地よく眠れそうだ、と思っていた俺の意識を覚醒させたのは、情けない男の悲鳴だった。男でも、あんな高い声が出るんだな。俺はもはや、水の音よりも男の声の方が怖い。
 慌てて起き上がって、シャワールームへ。
「うわっ」
 扉を開けると、浴室の床で暴れまわるシャワーによってずぶぬれにされる。おい! と怒鳴りつけ、水を止めた。
 男は全裸の状態で、うずくまっていた。明るい色の髪に、大量のピアス。いかつい見てくれと違って、仔猫みたいに震えていた。
「おい、どうしたん……」
「女がいる!」
 顔を向けないようにして彼が指し示した方を見る。何もない。ちょっと湯垢がついた壁が見えるだけで、「おい。いったいなんだってんだよ?」とイライラしながら聞いた。冗談にしてはタチが悪いぞ。俺が怖い思いをしているところに、笑えないジョークだ。
「女、女だよ。黒くて長い髪の女が、俺のことを睨んでる!」
「気のせいだって。何にもいないよ」
 俺の言葉は届いていない。いる! いる! と、お化けがいるらしい場所を指さす男に呆れる。
「ここは事故物件とかじゃないって、管理会社の人も大家も言ってたよ」
「でも、いる!」
 こんな場所に一秒でもいたくないと、男は脱ぎ捨てた服を身に着けた。下は穿いたが、上はほとんど裸の状態で出ていく。
「なんだよ、アレ……」
 呆然とする俺は、後始末を何もしていかなかった男に腹を立てた。

 それからというもの、俺は彼とは顔を合わせていない。大学にも、バイトにも来なくなってしまったからだ。
 男と親しかった人間曰く、「なんか、ノイローゼ? みたいな?」だそうだ。精神的に参ってしまって、どこへも行けずに家に引きこもっているらしい。
「へぇ」
「お前も一時期、やつれてたことあったけどさ。今は元気そうでよかったな」
「ああ」
 俺の部屋で起きていた異変は、ぴたりと止んでいた。水滴が落ちる音は聞こえなくなり、原因不明の水たまりができていることもない。おかげで安眠ができている。
 ――と、いう話を、二年に上がって知り合った友人にした。雨漏り云々の話が出たついでだった。
 彼はじっと俺の顔を見て、「家に行ってみてもいいか?」と、真剣な表情をしていた。雰囲気に気おされて、「いいけど」と応えた。
 本当に「行くだけ」「見るだけ」という感じで、コンビニに寄ろうかと提案したが、断られた。
 俺の部屋を見た彼は、目を細くして、何かをよく見ようとしている様子だった。
「残ってるね」
「残ってる?」
 この友人の言うことには、この部屋にはかつて、幽霊がいたのだと。けれど今はいない、と。水音や水たまりは、その幽霊の仕業である、と。
「黒くて長い髪の、女の幽霊がいたね」
 そこで俺は、詳しいことを話した。知人がやってきたとき、女の声が聞こえると言ったことも、風呂場に黒髪の女がいると怯えていたことも、今は何をしているかもわからないことも。
 友人は、神妙な顔で頷いた。
「たぶん、憑いていったんだ」
「付いて?」
 女の幽霊は部屋に憑りついていたが、地縛霊というわけではなかった。かつて、この部屋に住んでいた男に恨みを抱いていた。だが、男は家にほとんど寄り付かない生活をしていたらしく、ここで待つことにした。そこに引っ越してきたのが俺だった。
「たぶん君の友達、その男に似ていたんだろうね」
 茶髪で、ピアスで、笑い声が豪快で、女遊びの激しいと噂の男だった。ああ、そりゃあ確かに、女に恨まれそうな男の特徴を捉えているな、と思う。
「人違いなのにね。かわいそうに」
 淡々と、表情も声音も変えずに言う彼の抱いた同情は、果たして人違いで憑かれたあの男に対してのものなのか、それとも勘違いしている幽霊に向けられたものなのか、俺には判別がつかなかった。