バスに揺られ、病院に着く。今日はもちろん、診察日ではない。
病院という場所は、基本的には人を拒絶する場所だと思う。病人を受け入れるが、あたたかさはない。白くて、冷たい。健常者は場違いで、足を踏み入れるのをためらう。特に、後ろめたい気持ちがある今の僕は。
顔見知りの看護師や冴木医師に見つかったら、いろいろと事情を聞かれる。面倒だが、頭が痛いとかお腹が痛いとか言うのもまずい。総合病院は、目が回るほど忙しいのだ。
出くわしたら「人違いです!」と叫んで、ダッシュで逃げようと決めて、僕は売店の近くで待機することにした。先日出会ったのと同じ時間帯だ。不自然にならないように、商品を時折手にする。
来るだろうか。いいや、来ないかもしれない。どうだろう。もしかしたら、東棟のコンビニに行っているのかもしれない。分身ができない僕はおとなしく、こちらに来る方に賭ける以外なかった。
そして、果たして彼女はやってきた。
ボサボサの髪の毛に、寝ぼけ眼をこすりながら。だらしなく皺が寄ったパジャマは白で、上衣の丈が長くて、ワンピースにも見える。そのままベッドの上に眠っていたら、彼女のかわいらしさも相まって、おとぎ話のお姫様にも見えるかもしれない。
僕の隣に来ても、彼女は反応しなかった。そっくりだが、本当に別人なのだ。先日、声をかけてきた見知らぬ男だということにも気づいていない。
ようやく会えたのだから、声をかけなければ。
でも、どうやって?
クラスメイトの美希が相手でも、自分から話しかけるのは、かなり勇気が必要だった。
今隣にいるのは、何の関係もない少女だ。下手な声かけは、不審者扱いされてしまう。実際、コンビニ店員がちらちらこっちを伺っている気がするし。
いや、それでも僕は善良な男子高校生。外見から疑われる要素はない、はず。
自分の姿を見下ろす。学校帰りなので、制服姿だ。校則どおりの着こなしは、威圧感もない。
それでも、第一声は悩んだ。おかしなナンパ野郎だと思われたくない。
僕はようやく、篤久の気持ちがわかった。可愛い女の子に自分から話しかけるのは、変な汗をかく。
糸屋の不思議な噂を耳にして、彼が縋りついたのも、今なら理解できる。
ただ、僕は実行はしない。あの女の思うツボのような気がするから。
悩んでいるうちに、彼女は雑誌を手にしてレジへ向かう。支払いは一瞬で、帰ろうとする後ろ姿に、僕は「ええい!」と勢いで、声をかけた。
「あ、あの!」
ワンピースのようなパジャマの裾が、翻る。彼女の足下を見つめて、僕は、
「あの、僕、濱屋美希さんのクラスメイトで……その、君があんまり濱屋さんに似ているから、気になって……」
と、しどろもどろになりつつ、こちらの事情を語った。
彼女からは、反応がない。院内は冷房が利いて、本格的な夏が来る前の今は、寒いくらいだ。なのに、背中にはじんわりと汗をかいていて、シャツが肌に張りつくのが不愉快だった。
ずっと下げていた視界の端に、スリッパが映り込んだ。角度からいって、彼女が音もなく接近してきたのだと気づき、おずおずと顔を上げる。
笑っていた。学校の美希と同じ顔だと言ったが、全然違う。向こうが鮮やかな大輪の八重咲きの花ならば、こちらはひっそりと温室の隅に咲く、可憐な花。
どちらがより美しいかなんて、不毛な議論だ。けれど、少なくとも僕の目には、目の前の少女の方が、好ましく映る。
「美希ちゃんの、友達?」
ふわっとした明るい声に安堵する。僕はうんうん頷いた。
友達、はちょっと嘘だけど。
むしろ嫌われている方だ。姉妹関係がよければ、この嘘はすぐにばれてしまうだろうが、美希は「あいつの話を学校でするな」と言った。
彼女は、「美希の友達は自分の友達」とでも思っているようだった。どこの誰とも名乗っていない僕の手を取るのが、無防備すぎた。談話室にそのまま引っ張っていかれて、座らされる。
「君は……」
僕の問いかけに、にこっと笑った彼女は、自分の名前を告げる。
「私は、濱屋美空。美希ちゃんとは双子なの」
~~~~~~~~
購入した赤い糸を少し拝借して、糸子から受け取った五円玉の穴に通した。なんとなく、御利益がありそうだと思ったからだ。
それを美空に手渡すと、嬉しそうに微笑んで、「ありがとう」と言った。
「あ、お金……」
「いいよ、そんなに高いものじゃないし」
「そう?」
美空は穴を通して景色を眺めている。彼女と会うのはもちろん院内に限られるのだが、出会ったばかりの頃は出歩くことも多かった。最近はもっぱら、病室のベッドの上にいる。顔色もこころなしか、よくない。
大丈夫か、と聞けば、大丈夫、としか返ってこないだろう。だから僕は、あえて体調や病状については何も聞かない。そろそろテストが始まりそうだとか、そういう他愛のない話に終始する。
僕との会話の合間も、美空はぎゅっと五円玉を握りしめていた。美希との仲直りを祈っている。僕は彼女の手に自分の手を重ねた。
「紡くん?」
「その、美空さんの願いが叶うように、僕の分の念もこめておこうと思って」
美希が白い糸を買い、美空との縁切りを願っていることを、彼女に伝えるつもりはない。長期入院中の彼女を、悲しませるわけにはいかない。赤い糸の力の方が、美空と僕の願いの力の方が強いと信じるほかなかった。
僕を見つめる美空の目は、きらきらと輝いている。涙の膜が張っている。なぜ泣くのか。悲しいのではないだろう。僕の献身に感動しているとすれば、嬉しいことではあるが。
暗くなった窓の外は、いつしかポツポツと雨が降っていた。本降りになるまで、それほど時間はかからなかった。桜の葉がしとどに濡れて、色が濃くなっていく。
静かな夕方の時間を過ごしている。病室にはたまたま、他の入院患者はいなかった。
いつもは残りの三人のうち、少なくともひとりは部屋の中に残っていて、僕たちが仲良く喋っているのを、ひやかしたりなんだりしてくるのに。
病院内では、多くの人が動いている。ゆっくりと患者や付き添いの家族が歩き、医師や看護師は、急患の対応でドタバタしている。廊下の喧噪をよそに、美空の病室は本当に、静寂に包まれていた。
経験がないから、想像で判断するしかないが、これはもしかして、「いいムード」というやつではないのか?
病人相手に何を考えているんだ、とか、人が入ってきたらどうする、とか、ごちゃごちゃと常識に囚われた自分自身がツッコミを入れる。
だが、僕を潤んだ目で見上げて、「紡くん」と名を呼ぶ彼女に、我慢ができなくなる。
唇を触れあわせようとするその瞬間、静寂は突如として、破られた。
ドタバタと廊下を走る足音が近づいてくる。通り過ぎるかと思いきや、この部屋の前でピタッと止まる。ノックもなしに扉が開き、看護師が入ってきた。
「濱屋さん!?」
青ざめた彼女は、美空の姿を確認した途端、へなへなとへたり込んだ。
「よかった……無事だったの……」
不穏なことをほのめかす彼女の発言を聞きとがめ、僕は立ち上がり、「なにかあったんですか?」と尋ねた。
僕ともすっかり顔見知りになった看護師は、ああ、と一息ついてから、絶望じみた声を上げた。
「こ、交通事故で運ばれてきた女の子が、濱屋さんだったの……! 抜け出して、事故に遭ったと思って……」
美空と似た女の子。交通事故。
僕は美空を振り向いた。断片的にもたらされた情報が導き出すのは、たったひとつの事実。
事故に遭ったのは、美希だ。さっき店で会ったばかりなのに。
一度も美空の見舞いに来たことがないから、看護師は美空に双子の姉妹がいることを知らない。
だから顔を見て、慌てて病室を訪れたのだった。
緊急事態に、美空も驚き、言葉を失っている。ここは僕が代わりにふんばらなければならない。看護師に再び向き直り、「それで、その事故に遭った子っていうのは……」と、話を促した。
最悪の事態を想像した。看護師は、首を横に振った。その意味するところは、言葉で語ってもらわないと、わからない。
「手術室には入ったけれど……私も、まだ」
命のやりとりは、続いている。
美希のことは、手術をしている医師に任せるしかない。僕は、美空の精神状態に気を配ろう。
「み……」
僕は振り向いて、絶句する。美希の容態を心配して、震えているとばかり思っていた。彼女は僕の予想を裏切る。
悪い意味で。
美空は、微笑んでいた。白く色のなかった頬には、赤みが差している。不安のあまりに顔に浮かぶ色ではない。ならば怒りか。理不尽な運命に対して、彼女は怒っているのかと思うが、笑顔との整合性がとれない。
頬に走る朱は、歓喜。
信じられない思いで、僕は彼女をじっと見つめる。美空は僕の存在など忘れたかのように、恍惚とした表情で言った。
「これで一生、一緒にいられるね」
手のひらの中の五円玉を、ころころとこね回して、彼女は目を閉じた。
病院という場所は、基本的には人を拒絶する場所だと思う。病人を受け入れるが、あたたかさはない。白くて、冷たい。健常者は場違いで、足を踏み入れるのをためらう。特に、後ろめたい気持ちがある今の僕は。
顔見知りの看護師や冴木医師に見つかったら、いろいろと事情を聞かれる。面倒だが、頭が痛いとかお腹が痛いとか言うのもまずい。総合病院は、目が回るほど忙しいのだ。
出くわしたら「人違いです!」と叫んで、ダッシュで逃げようと決めて、僕は売店の近くで待機することにした。先日出会ったのと同じ時間帯だ。不自然にならないように、商品を時折手にする。
来るだろうか。いいや、来ないかもしれない。どうだろう。もしかしたら、東棟のコンビニに行っているのかもしれない。分身ができない僕はおとなしく、こちらに来る方に賭ける以外なかった。
そして、果たして彼女はやってきた。
ボサボサの髪の毛に、寝ぼけ眼をこすりながら。だらしなく皺が寄ったパジャマは白で、上衣の丈が長くて、ワンピースにも見える。そのままベッドの上に眠っていたら、彼女のかわいらしさも相まって、おとぎ話のお姫様にも見えるかもしれない。
僕の隣に来ても、彼女は反応しなかった。そっくりだが、本当に別人なのだ。先日、声をかけてきた見知らぬ男だということにも気づいていない。
ようやく会えたのだから、声をかけなければ。
でも、どうやって?
クラスメイトの美希が相手でも、自分から話しかけるのは、かなり勇気が必要だった。
今隣にいるのは、何の関係もない少女だ。下手な声かけは、不審者扱いされてしまう。実際、コンビニ店員がちらちらこっちを伺っている気がするし。
いや、それでも僕は善良な男子高校生。外見から疑われる要素はない、はず。
自分の姿を見下ろす。学校帰りなので、制服姿だ。校則どおりの着こなしは、威圧感もない。
それでも、第一声は悩んだ。おかしなナンパ野郎だと思われたくない。
僕はようやく、篤久の気持ちがわかった。可愛い女の子に自分から話しかけるのは、変な汗をかく。
糸屋の不思議な噂を耳にして、彼が縋りついたのも、今なら理解できる。
ただ、僕は実行はしない。あの女の思うツボのような気がするから。
悩んでいるうちに、彼女は雑誌を手にしてレジへ向かう。支払いは一瞬で、帰ろうとする後ろ姿に、僕は「ええい!」と勢いで、声をかけた。
「あ、あの!」
ワンピースのようなパジャマの裾が、翻る。彼女の足下を見つめて、僕は、
「あの、僕、濱屋美希さんのクラスメイトで……その、君があんまり濱屋さんに似ているから、気になって……」
と、しどろもどろになりつつ、こちらの事情を語った。
彼女からは、反応がない。院内は冷房が利いて、本格的な夏が来る前の今は、寒いくらいだ。なのに、背中にはじんわりと汗をかいていて、シャツが肌に張りつくのが不愉快だった。
ずっと下げていた視界の端に、スリッパが映り込んだ。角度からいって、彼女が音もなく接近してきたのだと気づき、おずおずと顔を上げる。
笑っていた。学校の美希と同じ顔だと言ったが、全然違う。向こうが鮮やかな大輪の八重咲きの花ならば、こちらはひっそりと温室の隅に咲く、可憐な花。
どちらがより美しいかなんて、不毛な議論だ。けれど、少なくとも僕の目には、目の前の少女の方が、好ましく映る。
「美希ちゃんの、友達?」
ふわっとした明るい声に安堵する。僕はうんうん頷いた。
友達、はちょっと嘘だけど。
むしろ嫌われている方だ。姉妹関係がよければ、この嘘はすぐにばれてしまうだろうが、美希は「あいつの話を学校でするな」と言った。
彼女は、「美希の友達は自分の友達」とでも思っているようだった。どこの誰とも名乗っていない僕の手を取るのが、無防備すぎた。談話室にそのまま引っ張っていかれて、座らされる。
「君は……」
僕の問いかけに、にこっと笑った彼女は、自分の名前を告げる。
「私は、濱屋美空。美希ちゃんとは双子なの」
~~~~~~~~
購入した赤い糸を少し拝借して、糸子から受け取った五円玉の穴に通した。なんとなく、御利益がありそうだと思ったからだ。
それを美空に手渡すと、嬉しそうに微笑んで、「ありがとう」と言った。
「あ、お金……」
「いいよ、そんなに高いものじゃないし」
「そう?」
美空は穴を通して景色を眺めている。彼女と会うのはもちろん院内に限られるのだが、出会ったばかりの頃は出歩くことも多かった。最近はもっぱら、病室のベッドの上にいる。顔色もこころなしか、よくない。
大丈夫か、と聞けば、大丈夫、としか返ってこないだろう。だから僕は、あえて体調や病状については何も聞かない。そろそろテストが始まりそうだとか、そういう他愛のない話に終始する。
僕との会話の合間も、美空はぎゅっと五円玉を握りしめていた。美希との仲直りを祈っている。僕は彼女の手に自分の手を重ねた。
「紡くん?」
「その、美空さんの願いが叶うように、僕の分の念もこめておこうと思って」
美希が白い糸を買い、美空との縁切りを願っていることを、彼女に伝えるつもりはない。長期入院中の彼女を、悲しませるわけにはいかない。赤い糸の力の方が、美空と僕の願いの力の方が強いと信じるほかなかった。
僕を見つめる美空の目は、きらきらと輝いている。涙の膜が張っている。なぜ泣くのか。悲しいのではないだろう。僕の献身に感動しているとすれば、嬉しいことではあるが。
暗くなった窓の外は、いつしかポツポツと雨が降っていた。本降りになるまで、それほど時間はかからなかった。桜の葉がしとどに濡れて、色が濃くなっていく。
静かな夕方の時間を過ごしている。病室にはたまたま、他の入院患者はいなかった。
いつもは残りの三人のうち、少なくともひとりは部屋の中に残っていて、僕たちが仲良く喋っているのを、ひやかしたりなんだりしてくるのに。
病院内では、多くの人が動いている。ゆっくりと患者や付き添いの家族が歩き、医師や看護師は、急患の対応でドタバタしている。廊下の喧噪をよそに、美空の病室は本当に、静寂に包まれていた。
経験がないから、想像で判断するしかないが、これはもしかして、「いいムード」というやつではないのか?
病人相手に何を考えているんだ、とか、人が入ってきたらどうする、とか、ごちゃごちゃと常識に囚われた自分自身がツッコミを入れる。
だが、僕を潤んだ目で見上げて、「紡くん」と名を呼ぶ彼女に、我慢ができなくなる。
唇を触れあわせようとするその瞬間、静寂は突如として、破られた。
ドタバタと廊下を走る足音が近づいてくる。通り過ぎるかと思いきや、この部屋の前でピタッと止まる。ノックもなしに扉が開き、看護師が入ってきた。
「濱屋さん!?」
青ざめた彼女は、美空の姿を確認した途端、へなへなとへたり込んだ。
「よかった……無事だったの……」
不穏なことをほのめかす彼女の発言を聞きとがめ、僕は立ち上がり、「なにかあったんですか?」と尋ねた。
僕ともすっかり顔見知りになった看護師は、ああ、と一息ついてから、絶望じみた声を上げた。
「こ、交通事故で運ばれてきた女の子が、濱屋さんだったの……! 抜け出して、事故に遭ったと思って……」
美空と似た女の子。交通事故。
僕は美空を振り向いた。断片的にもたらされた情報が導き出すのは、たったひとつの事実。
事故に遭ったのは、美希だ。さっき店で会ったばかりなのに。
一度も美空の見舞いに来たことがないから、看護師は美空に双子の姉妹がいることを知らない。
だから顔を見て、慌てて病室を訪れたのだった。
緊急事態に、美空も驚き、言葉を失っている。ここは僕が代わりにふんばらなければならない。看護師に再び向き直り、「それで、その事故に遭った子っていうのは……」と、話を促した。
最悪の事態を想像した。看護師は、首を横に振った。その意味するところは、言葉で語ってもらわないと、わからない。
「手術室には入ったけれど……私も、まだ」
命のやりとりは、続いている。
美希のことは、手術をしている医師に任せるしかない。僕は、美空の精神状態に気を配ろう。
「み……」
僕は振り向いて、絶句する。美希の容態を心配して、震えているとばかり思っていた。彼女は僕の予想を裏切る。
悪い意味で。
美空は、微笑んでいた。白く色のなかった頬には、赤みが差している。不安のあまりに顔に浮かぶ色ではない。ならば怒りか。理不尽な運命に対して、彼女は怒っているのかと思うが、笑顔との整合性がとれない。
頬に走る朱は、歓喜。
信じられない思いで、僕は彼女をじっと見つめる。美空は僕の存在など忘れたかのように、恍惚とした表情で言った。
「これで一生、一緒にいられるね」
手のひらの中の五円玉を、ころころとこね回して、彼女は目を閉じた。
