Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

 話は中学二年の三学期に遡る。
 その年も美咲は合唱コンクールで伴奏をすることが決まっていて、少し前から練習をしていた。当時の本来の音楽の先生は産休を取っていて代わりの先生が来ていたけれど、三学期から復帰してきた。その最初の授業のあとで、友人・彩加と教室に戻ろうとしていると呼び止められた。
 コンクールでの伴奏を少し弾いてほしいと言うので、最初の何小節かを弾いた。大丈夫だろう、と言われたので帰ろうとすると、こんなことを言われた。
「紀伊さん、七年前──小学校一年生のとき、自転車とぶつかって怪我したでしょ?」
「小学校一年のとき……? ……あっ、した!」
 美咲はあの日、家を出るのが遅くなってしまい、通学路を走っていた。車道横の歩道で少し狭く見通しも悪いところがあって、そこを通るときに正面から来た自転車の女子中学生とぶつかってしまった。痛かったし、中学生も心配してくれたけれど、美咲はそのまま学校へ急いだ。
「出勤してきたら女の子らが、小学生の女の子とぶつかってもぉたーどうしよう! って慌ててて、名札見たら平仮名で〝きい みさき〟って書いてたって」
 先生は小学校に電話して、その後、美咲のところに保健の先生がやって来た。美咲はいつも通り授業を受けていて、大怪我をしていることには気付いていなかった。
「もうすぐあの子が入学してくるんやなぁ、って……産休明け間に合って良かったわ」
 それが、美咲と篠山の出会いだった。
 美咲と彩加は篠山との距離が近くなり、いつの間にか敬語を使うこともなくなった。篠山は他の先生と比べても話しやすかったので、嫌っていた生徒も少なかったと思う。

 井庭がなぜか知っていたのは、美咲のその事故だ。
 篠山との話を彩加は聞いていたけれど、教室に戻ってから誰かに話した記憶はないし、ましてや当時は特に親しくはなかった朋之にも話すはずがない。
「篠山先生は──私の教え子やからね。ときどき相談も兼ねて、飲みに行ったよ」
 井庭のその発言で、美咲は粗方の事情を理解した。
 美咲が事故に遭ったとき。篠山が結婚して、子供が出来たとき。産休が明けてから、美咲を受け持つことになったとき。それから自身が代表を勤める合唱団に美咲が入ったとき。
 その話を井庭は篠山から聞いていて、そして今、朋之から伴奏に同級生を誘ったと聞いてピンときたらしい。
「篠山先生のとこをフェードアウトしたのは、あかんかったけどな」
「私がここにいること、篠山先生は知ってるんですか?」
「あ──山口君が同級生に声かけた、とは話したけど、誰とは言ってない」
 でも何となく気付いてるやろな、と井庭は呟いた。
 それから荷物の中から楽譜の束を出してきて、いま練習中のものを美咲に渡した。敬老の日のステージは、伴奏無しのアカペラにするらしい。予定しているのは一般に知られている曲や美咲も知っている簡単な合唱曲だったけれど、美咲はその日は雑用係で参加することになった。
「秋に近くのホールでコンサートあるんやけど、来れるかな?」
 美咲にはその日の伴奏を頼みたいようで、井庭は先に楽譜を渡してくれた。メンバーたちには今日の帰りに配る予定らしい。
 井庭から渡された楽譜は美咲の知らない曲だったけれど、特に難しそうなものではなかったし、コンサートの日も今のところ予定は入っていない。
「何それ? あ──次のやつ?」
 声をかけてきたのは、朋之だった。練習は一旦止めて休憩になったようだ。
「うん……コンサートのやつやって」
「これは……まだやってないやつやな」
「ごめん小山さん、これもやわ」
 井庭が慌てて美咲に楽譜を一つ持ってきた。
「去年もやったから抜けてたわ」
 追加された楽譜を見て、美咲は思わず息を飲んだ。
「井庭先生、これ……」
「ごめん、いきなり難易度高めやな。……小山さん、曲は知ってるやろ?」
 タイトルを見ただけで、メロディが浮かんできた。美咲が伴奏をした曲ではないけれど、歌った記憶はある。以前いたえいこんでは、プロのピアニストが伴奏した曲だ。美咲の他に何名か伴奏担当がいたけれど、少々難しい伴奏はいつも彼女が担当してくれた。美咲がヒールを履いて後悔したステージも彼女が伴奏の予定だったけれど無理になってしまい、美咲ともう一人に声がかかって一曲ずつ弾いた。
「帰ったらすぐ練習せなあかん……」
「いけるって。まだ時間あるし」
 朋之はそう笑っていたけれど、美咲に余裕はなかった。家でも家事が待っているので、ピアノを弾いてばかりではいけない。航を仕事に送り出してから、ゆっくりしている暇はなさそうだ。
 練習が終わってから、女性メンバーの何人かが声をかけてきた。もし歌うことになったらどこになるかと聞かれたので、以前はソプラノだったけれど高い声が出なくなったからアルトかも、と答えた。実際、美咲は若いときに高音は難なく歌えていたけれど、結婚してから久々に歌うと笑えるほどに音が出なかった。
「それじゃ小山さん、次──来れるときで良いから、練習しといて。じゃ」
「はい……お疲れ様です」
 メンバーが帰るのを見送ってから、井庭も公民館の職員に挨拶して停めてあった車で帰っていった。美咲はため息をついた。
「お疲れさん」
「わっ、びっくりした」
 最後まで残っていたのは朋之だったらしい。朋之は窓口に部屋の鍵を返してから、美咲と外に出た。
「紀伊さん、電車?」
「うん」
「じゃあ、送るわ」
「え? あ──ありがとう……」
 朋之が車で送ってくれるというので、美咲は助手席に乗った。美咲は朋之の帰宅経路の途中の方向が変わるあたりで良いと言ったけれど、朋之はもう少し近くまで行ってくれた。
「歩いたら暑いやん。転んで手怪我してもあかんし」
 ははは、と笑うので美咲も釣られて笑い、道の広いところで車を停めてもらった。
 もう十年ほど早くにこうなっていたら──、と思ったけれど。お礼だけ言って車を見送り、そのままマンションに帰った。
 美咲が井庭にもらった楽譜は、歌だけを見れば簡単だっただろう。しかし伴奏は歌とは別物で、特に最後に追加された楽譜は美咲の記憶通りの音符が並んでいた。
 メロディ自体は軽やかで秋らしく、三分もないけれど。
 利き手ではない左手は十六分音符の連続で、動きも大きいのですぐに外してしまう。右手はさほど難しくはないけれど、左に気を取られているとうっかり間違える。
 自分が歌っていたときの楽譜も出してきて、メモしていた強弱を確かめる。ピアニストの演奏を思い出して、滑らかに弾こうとする──そして、間違えてしまう。
「まだ練習始めたとこやろ? 弾けてるほうやと思うで」
 土曜日の午後、朋之が個人的に利用しているスタジオがあるというので一緒に行くことになった。彼は歌の練習のほかに、趣味でギターを弾いているらしい。
「いつからやってんの? 高校入ってから?」
「そうやな……友達に誘われて」
 持ってきたギターは一旦置いておいて、朋之は歌の練習を始めた。話す声が少し低くなっていたけれど、出せる高さはそれほど変わっていないらしい。彼が歌うのを聞きながら、美咲は脳内でピアノを弾いてみる。
「……どうかした?」
「え? あ──ううん。よし、私も練習……」
 彼の歌に聴き惚れていた、なんて言えるはずがない。
 美咲は姿勢を正してから練習を再開し、しばらくすると朋之が歌うのをやめた。同じところを繰り返している美咲の隣に立ち、楽譜の一点を指差した。
「ここ、おかしくない? 〝向こうから~こっちから~〟の次、〝あーあーああー〟のとこ」
 右手と左手を合わせて八音続けるのは、成功すると流れるように聞こえるけれど。失敗するとブツブツ切れて聞こえるし、左右の音の強さも変わってしまう。同じようなメロディが続いているから、違う音で覚えてしまうと修正が大変だ。
 美咲は指摘されたところを繰り返し、スムーズに弾けるようになってから楽譜を最初に戻した。鍵盤に指を乗せ、一呼吸置いてから一通り弾いてみた。まだまだ完璧とは言えないけれど、それでも一応、止めてしまうことなく最後まで弾いた。
「やっぱ凄いよなぁ、紀伊さん」
 朋之が気配を消して後ろに立っていた。
「そうかなぁ……」
「そやで。中学のときだって、楽譜もらって一週間くらいで弾けてたから、練習困らんかったし」
 そう言われると、そうだった気がする。何かの都合で隣のクラスと合同で女子だけ音楽の授業をしたときも、隣のクラスの生徒に『伴奏代わってほしい』と言われたことがある。
「明日は練習どうする? 行く? ちなみに俺は行けへんけど」
「明日は私も用事あるから……もうちょっと仕上げてから行くわ」
「了解。井庭先生に言っとくわ。俺ちょっと遊ぶから、適当にしといて」
 朋之がギターを弾き始めたので、美咲はピアノを音を小さくして練習した。

 それから数週間後の日曜日の午後。
 敬老の日のコンサートの前日、休憩のあとで美咲の出番があるというので練習に顔を出した。あれから美咲は伴奏の練習を続け、都合が合えば朋之とスタジオを借りて、なんとか楽譜を見なくても弾けるようになった。美咲が知っていた曲はもちろん、他のやつもだ。
「へぇ、二人で練習してたん? どう? 山口君、小山さんは」
「もう完璧です。目瞑っててもいけそう」
「それは無理、さすがに……こんなにピアノと向き合ったの久々やから手が痛い……」
 練習が始まる前にそんな話をしていると、ドアノブが回る音がした。メンバーが来たのだろう、と軽く思っていると、足音は近づいてきた。
「こんにちは、井庭先生。ああ、山口君も──、あら久しぶり」
 入ってきたのは、篠山だった。
 井庭と朋之は普通に挨拶を返していたけれど、美咲は声が出ずに固まってしまった。篠山は特に何も言わず、そのまま井庭と何か話していた。
「篠山先生──お久しぶりです……。あの……」
 美咲が話しかけると、篠山は振り返った。井庭は話を中断して朋之を連れて離れていった。
「あの、……すみませんでした。勝手なことばっかりして……」
 美咲は頭を下げたまま動けなかった。篠山の表情は見えないし、何も話さないので感情がわからない。怒られるのを覚悟して、じっと耐えていた。
「頭あげなさい。みんな見てるから」
 顔を上げるとやはり、篠山は怖い顔をしていた。
「あなたとは──美咲ちゃんとは、長い付き合いやからね。嫌な思いしたくないし、私がいつまでも引きずるの嫌いって知ってるでしょう。十年以上前やし、あの時のことは忘れます」
「すみません……」
「そのかわり、今後一切、うちの合唱団には入らないでください。それから、井庭先生に迷惑かけんように。それが条件です。──練習に来ないし連絡もつかなくなるし、心配したんよ。まぁ、元気そうで何より……」
 篠山は笑顔になり、握手を求められたので美咲は応じた。
 フェードアウトしてからのことを篠山が聞いてきたので、大学を卒業して就職し、数年前に結婚して今は地元を離れて専業主婦だと伝えた。
「山口君とは、同窓会で会ったの?」
「はい。佐藤さんって覚えてますか? 佐藤華子……」
「えー……はいはい、あの元気な子?」
「ハナちゃんが、旦那の母方の親戚やったんです。それで、同窓会しよう、ってなって」
 華子の手伝いを兼ねて参加した同窓会で再会し、裕人の美容室にも通いだしたと話した。そういえば最近は忙しくなって行けてないな、と思い出し、近いうちに予約しようと考えながらも、頭の中にあるのはこのあとに待つ伴奏だ。
 練習開始時刻になり、朋之が全員を注目させて連絡事項を伝える。裕人の成長に驚いたけれど、朋之も同じように立派な大人になった。子供のときの自分の目に間違いはなかったな、と思わず笑ってしまう。
「それから今日はえいこんの篠山先生が来られてるのと、あと──小山さんもいるので後でピアノに合わせます。まずは明日の曲を──」
 そしてメンバーが練習を始めてから、美咲は井庭と翌日の打ち合わせをした。篠山は練習を聞いたり井庭と話したりしながら、えいこんの近況を美咲にも教えてくれた。美咲が伴奏するのを聴いて、うちに欲しいな……、と笑っていた。
 九月下旬になってから、美咲はようやくHair Salon HIROを訪れた。伴奏を始めてから練習に時間を取られてしまい、日曜の午後はメンバーと会って、ステージ前の土曜は朋之とスタジオに行くこともあって、延ばし延ばしになっているうちに航にも「そろそろ行ったら?」と言われてしまった。
 前回がいつだったか、はっきり覚えていない。
 四人で飲み会をしてからは切った記憶がないので、朋之と会った日が最後だとしたら二ヶ月は経っている。
「そんだけ放置してたら、伸びるわな」
 美咲の髪を見て、裕人は笑った。どんな髪型にするか考えずに来てしまったので、まだまだ暑いか、涼しくなるか、天気の長期予報を思い出しながら一緒に考える。
「俺は紀伊は髪長いイメージやったけどな。癖毛やから中途半端にしたら跳ねそうやし……。ショートにしたことある?」
「あるよ。人生で二回くらい」
 それなら前と同じ感じで行くか、と笑ってから裕人は美咲の髪を切り始めた。今回は先にカットして、カラーは後らしい。
「そういえば……トモ君とこでピアノ始めたんやってな。こないだトモ君来てくれて、話してたわ」
「うん……久々やから緊張するけどね」
「でも、助かってるらしいで。トモ君だいぶ前から、ピアノの人辞めるからどうしよう、って言っててん」
 なんとか責任は果たせているようで、とりあえず安心した。敬老の日コンサートはアカペラだったので美咲は袖から見ていただけだったけれど、秋にはちゃんとしたホールでの伴奏が控えている。朋之が以前、『手を怪我したら大変』と言っていたけれど、篠山のところで伴奏をしていたときも演奏会前に『指挟んだらあかんから離れとき!』と、ピアノの準備をさせてもらえなかったことがある。ステージに立つのが近くなると、代わりがいない貴重な人材は危ないことから遠ざけられるらしい。
「あのさ──一個聞いて良い?」
「うん……なに?」
 裕人はハサミを持つ手を止めて美咲のほうを見た。
「中学のとき──トモ君のこと好きやったやろ?」
 予想外の質問で、美咲は顔をひきつらせてしまった。鏡に映る裕人を見て、口を少し開けたまま返事に困ってしまった。
「ま──まぁ……嫌いではなったけど……」
「佐方もそんな感じやったよなぁ……。あいつとは連絡取ってんの?」
「ううん。高校入ってしばらくはメールしてたけど、今は全然。大学のときにSNSで見つけて連絡したけど、一言しか返ってこんかったから、そんな人か、って思って」
「ふぅん……俺も高校一緒やったけど、二年でクラス離れてから知らんな」
 彩加の話題が出てきたので話が逸れた、と気を抜いていると、裕人は改めて朋之の話題に戻した。これは正直に言うしかないか、と美咲は言葉を探した。
「確かに──気にはなってたよ。彩加ちゃんもそうやったと思うけど……。でもあの頃、他にも何人か気になってたし」
「えっ、誰?」
「それは秘密ー。あ、高井君は入ってないから」
 高井佳樹と話すことは増えたけれど、ほとんどの女子から嫌がられていた彼に恋愛感情を持ったことはない。
「俺は入ってた?」
「さぁ? どうやろね」
「ちなみに──トモ君は、紀伊のこと好きやったみたいやで。俺もまぁ、クラスの中では上位やったかな。あ、俺が言ったこと、トモ君に言わんといてな?」
 全く想定していなかった発言に、美咲は再び口を開けたまま固まってしまった。けれど裕人はカットが終わったようで、交代でやってきたアシスタントにシャンプー台に案内されてそれ以上の話は出来なかった。
 アシスタントはシャンプーをしながら美咲に話しかけていたけれど、美咲は半分しか聞いていなかった。先ほどの裕人の発言が頭から離れずに、朋之の顔が浮かんできてしまう。
「さっきの話、ほんまやで」
 美咲が鏡の前に戻ると、裕人が待っていた。
「山口君とは──そんなに話せんかったけどなぁ……」
「あいつ、知り合い多かったからな。紀伊もしょっちゅう音楽室行ってたし……そもそも、誰かと付き合ってた子自体、あんまりおらんかったしな」
 恋人をつくる、ということが珍しかった当時、そんな話が出た途端に学年中で噂になっていた。それが嫌で何も言わなかったのか、あるいは単純にタイミングがわからなかっただけなのか。
 あの頃、朋之はどんなだったかな。
 と美咲が考えている間に、裕人はカラーの準備を始めていた。二ヶ月も放置していたから、全体を塗り直す必要があるらしい。
「ところで、話変わるんやけど……佐藤はあれから彼氏できたん?」
「佐藤? ……ああ、ハナちゃん? どうやろう、あれから連絡ないけど……まだなんちゃうかな」
「それならさぁ、俺の高校の先輩でフリーの人おるんやけど……紹介して良いかな?」
 裕人の高校時代のクラブの集まりがあって、彼女と別れたから新しい恋がしたい、と言っている先輩がいたらしい。会ったときに写真を撮っていると言うので見せてもらうと、それなりにイケメンだった。今は普通のサラリーマンで、住んでいるところも華子と近いらしい。
 美咲は帰宅してから華子に連絡し、近いうちに先輩と会ってもらうことになった。イケメンだったと美咲が言うと、華子は嬉しそうにしていた。
『やったぁ。あ、でも、性格が大事やからなぁ……』
「詳しくは聞いてないけど、今まで付き合ってた人は平均期間が長いみたいやで。優しいからよっぽどのことなかったら怒れへんとか、そうそう、大手で働いてて給料も良いんやって」
『ほうほう……。大倉君と同じ高校ってことは、頭も良いよなぁ』
 それから世間話を少ししてから、また会おうと約束して電話を切った。
 華子に幸せが来ますようにと願いながら、裕人にも連絡した。
※Hair Salon HIROにて。

 店に入るといつものようにアシスタントに案内されて、すぐにシャンプーをしてもらった。裕人が俺のところに来たのは、鏡の前に座って少ししてからだった。
「あのな……左、紀伊やで」
 入れ違いにはなるが美咲と会うかもしれないとは、予約のときに裕人から聞いていた。裕人にタオルを巻かれながら横を見ると、ドライヤーをしてもらっている女性がいた。アシスタントが間にいたのであまり見えず、彼女もドライヤーの音で周りのことは気にしていないらしい。
「ちょっと待っといてな、あいつ先してくるわ」
 裕人が俺にクロスをかけて美咲のところへ行くのを見てから、手元にあった雑誌を捲っていた。会話が聞こえたので、聞き耳を立てた。
 裕人と美咲は一緒に過ごした時間が長いので、いつの話なのかはわからない。佳樹の名前が出てきたということは、三年のときだろうか。
「塾でもうるさかったよなぁ。私、テストのやり直しか何かで居残りしてたら、こっちは早く帰りたいのに、隣からブツブツうるさいし、名前連呼してきたし……イライラしたわ」
「それ、覚えてるわ。紀伊が残ってるのビックリしてたよな。俺ら三年五組やって、五組、五組、五組、とか、他の学校の子にもクラス聞いてたよな」
「そうそう。それで、五組じゃなかったから、あかんわ、とか、意味わからんかった」
 佳樹は高校は裕人と一緒だったが、塾に入って最初のクラスは美咲と裕人よりも下だった。同じクラスで雑談ができる仲ということは、佳樹の成績が上がった三年後半の出来事だろうか。
 話しながら裕人は美咲の髪を整え、鏡のほうを見た。
「それで何やったっけ? 方べきの定理って」
 聞いた記憶はあるが、思い出せなかった。
 考えていると、美咲が答えを言った。
「円の上に点A・B・C・Dがあって、直線ABとCDの交わる、円の上にはない点Pとで、PA×PB=PC×PD、ってやつ」
「そんなんやったなぁ。全く使わんけどな」
 思わず声に出してしまった。美咲はやはり俺の存在には気付いていなかったらしい。
 美咲は数学が大の苦手だったはずだが、どうして覚えていたのかは不明だ。塾に入ってから一度だけ、全国規模の試験で数学で一位を取り、同じ学校の奴ら全員で驚いた記憶はある。塾長から〝数学の成績優秀者向けの特別講座〟の案内をもらっていたが、場所も遠かったし行ってはいないはずだ。
 美咲はカットが終わったので立ち上がり、店を出ていった。別れ際に鏡越しに手を振ってくれた。俺には嫁がいるが、思わずドキッとしてしまった。
「あいつの記憶力すごいやろ。俺も忘れてることいっぱい聞いたで」
 美咲を見送って裕人が戻ってきた。俺のこともいろいろ覚えているのではないか、と笑う。
「記憶もやけど、成績も極端やったよな。それくらいわかるやろ、ってやつ答えられんかったこともあったし、塾の試験の数学で、全国一位とかとってたやろ? あれビビったで」
「……あったなぁ! そうやそうや」
 美咲は一番上のクラスではなかったのに、一番上のクラスでも全国ランキングでは最後のほうに載ればラッキーくらいだったのに、そんな奴らを押さえて一位だったということは、ほぼ満点だったということだ。
「一番ビックリしたのは紀伊やろうけどな。聞いてみる? さっき、今度メシ行こうって誘ってん」
 返す言葉が一瞬わからなかった。俺が困っていると、裕人は続けた。
「同窓会ときもあんまり話さんかったし……そうや、トモ君、ピアノ弾ける人探してたやん。誘ったら?」
「あ、そうそう、それ同窓会ときから思っててん。あいつ上手かったし……聞いてみよ」
 美咲は結婚しているので、三人では来てくれないかもしれないと思ったので、同級生女子を誘ってもらうことになった。誰になるかはわからないが、俺と裕人が知っている人を選んでくれるはずだ。
「俺あとで連絡しとくわ。あ、店も決めとくで。個室が良いよな」
 全て裕人が決めてくれるようで、面倒なのでお願いすることにした。詳細は美咲ともう一人の都合を聞いてから決めることになった。
 美咲にピアノの話をするのはいつが良いだろうか。待ち合わせでは到着時間がわからないし、話す時間があるかもわからない。飲み会中では──他の二人に申し訳ない。ということは、住んでいるところが近いので帰りの電車だろうか。
 そんなことを考えて、いつのまにか俺は沈黙していたらしい。
「トモ君、何考えてるん?」
「え? あ──いつ言おうかと」
 鏡越しに裕人は不気味に笑っていた。
「俺の感やけどな──紀伊たぶん、トモ君のこと好きやったで」
「えっ、そうなん?」
 裕人はいつも、美咲の行動を観察していたらしい。美咲は俺と友人たちが騒ぐのをいつも冷やかに見ていたが、視線は俺を追っていたらしい。
「たぶんやけどな。聞かなわからんで。あとな──これも、俺の感やねんけどな」
「うん?」
「トモ君もあいつ好きやったやろ?」
 思わず俺は鏡の中の裕人をじっと見た。しばらく黙って見つめていたが、裕人はなかなか負けてくれなかった。
「そうやな……」
 仕方ないので観念して話すことにした。
「いつの間にかな」
「やっぱり? でも俺には教えてくれんかったよな」
「言うわけないやん。気になりだしてから、クラスも違ったし」
 俺が美咲を好きになったのは、学年が終わる頃だ。裕人は休み時間は寝ていたし、そもそもそんな話をする奴は周りにはいなかった。三年はクラスが離れたし、俺も一緒にいる奴が変わった。
「三年とき、クラスに紀伊のこと好きな奴がおってな」
 それは初耳だ。
「いろんなことしてアピールしたり、音楽の先生の耳にも入ったから合唱コンクールでそいつに指揮やらしたり、俺らも協力したりしてたんやけど、あいつ全然気付かんかってな」
「……鈍感やったん?」
「どうやろな。ほんまに気付いてなかったか、遊ばれてると思ってたか、……そもそも眼中になかったんちゃうかな。だからな、誰かを好きやったはずやねん。何もなかったら気付くで?」
 それが誰なのかはわからないが、裕人の感では俺が有力らしい。もっと早くに知っていれば美咲と付き合っていたかも知れないが、それはもう無理な話だ。
 だからせめて週末だけでも一緒に過ごせれば良いな、とそのときは思った。
「なぁなぁ美咲ちゃん、もしかしてあの人かなぁ? めっちゃイケメンなんやけど!」
 人通りの多い場所なので声は控えめだけれど、華子がはしゃいでいるのは一目瞭然だ。彼女が言う〝あの人〟は、裕人の隣を歩く男性だ。
 裕人の先輩・大塚遥亮(おおつかようすけ)を華子に紹介する日、裕人と美咲も最初だけ同席することになった。華子が住んでいる近くの駅で待ち合わせ、美咲と華子が先に到着していると裕人と遥亮の姿が見えた。九月末の土曜日で裕人は普段は仕事をしているけれど、この日は臨時休業にしたらしい。
 近くのカフェに場所を移し、昼食をとりながらしばらく四人で雑談をしていた。注文した飲み物がなくなる頃には華子と遥亮が打ち解けていたので、遥亮が飲み物をお代わりするのを見てから裕人は美咲を誘って店を出た。
「一応、中学の卒業アルバムの写真を先輩に見せててん。可愛いなぁって言ってたから……、いけそうやな」
「うん。あとは性格が合うか……」
 裕人も美咲も特に行きたいところがなかったので、そのまま帰ろうと駅のほうへ向かう。二人とも交通系のICカードを持っていたので切符は買わず、まっすぐ改札へ──向かいかけたとき裕人のスマホが鳴った。
「ん? LINE……トモ君や……え?」
 裕人が壁際へ寄ったので、美咲も後を追った。裕人が『電話できるか?』と聞くと大丈夫だと返事があったので、裕人は電話をかけた。
 長引くようなら先に帰ろうかと美咲は考えていたけれど、裕人は〝ちょっと待て〟と合図した。
 朋之は裕人に連絡していなかったけれど、なんとなく足がHair Salon HIROに向いたらしい。店の前でシャッターが閉まっているのに気付き、仕方ないのでまたなんとなく電車に乗った。
「それでおまえ、どこにいるん?」
 朋之が裕人に何の用事だったのかは、まだわかっていない。
「ふぅん……何かあったんか? 全然元気ないやん」
 出会った頃も、今も相変わらず笑顔のほうが多い裕人が珍しく真剣な顔をしていた。
「それなら俺いま近くにいるから行くわ。あ、紀伊も一緒やけど、ええか?」
 突然出てきた自分の名前に驚いて、美咲は思わず裕人のほうを見る。裕人は電話しながら歩き始め、美咲にも付いてくるように合図した。
 裕人は美咲と一緒にいる理由を簡単に説明し、朋之にも何をしに来たのか聞いた。裕人に連絡をしてきたのとは別件で、楽器屋に行こうと思っていたらしい。
 先ほど華子と別れたのとは別のカフェに到着すると、朋之が待っていた。出会った頃とも再会した頃とも違う、暗い顔をしていた。
 店に入って席についてから、裕人は改めて美容室を臨時休業にしたことを謝っていた。軽く雑談をしている間に、注文したアイスコーヒーが三つ運ばれてきた。
「それで、どうしたん?」
 裕人が聞くと、朋之はゆっくり話しだした。
「最近、嫁の家事が雑でな」
 社長の娘で金銭的余裕もあり、朋之の稼ぎで生活できたので初めは専業主婦をしていたけれど、家でできる趣味もないので短時間のパートを始めた。初めは帰宅してから頑張って家事をしていたけれど、徐々に掃除の頻度が下がり、夕食の品数も減った。
「それくらい良いんちゃうん? 働いて帰ってきてから家事ってしんどいで」
 裕人の言葉に美咲も同意した。美咲は専業主婦なので余裕があるけれど、それでもときどき手抜きはしたくなる。
「うん、それは別に良いねん。俺も完璧は求めてないし、やってくれてるだけありがたいで。俺、平日は仕事やし、週末も出掛けてるし」
 朋之は結婚前から合唱団に入っていて、週末に家を空けることは話していたらしい。時期によっては練習が長引いて帰宅が遅くなるので、そんなときは手抜きで良いといつも伝えていた。
 だったら何が悪いのか、と裕人は続きを聞いた。
「こないだ、いつもより早く帰ったら──あいつのクローゼットが開いててな」
 少し散らかっていたので片付けの途中なのか、と思いながらふと見ると、普段使っているものの奥に朋之の知らない高級ブランドの服や鞄がいくつも入っていた。
「俺の給料で買える金額じゃなくてな。社長に助けてもらってるわけでもなかったし……。通帳見たら残高ほとんどなかった」
 朋之の妻がパートを始めた理由は、生活費が底をつきそうだったからだと白状したらしい。高級ブランドの服を着てどこへ行くのかと聞いたけれど、単に着飾りたかっただけだと何度も主張した。
「俺──離婚しようと思う」
「えっ、奥さんは反省してないん? 許せへんの?」
「反省してるけど、前にも──カード使い込まれたことあってな。その時に、次はないぞ、って言ったから」
 朋之は妻を一旦実家に帰らせているらしい。住んでいる家は朋之名義だけれど社長がお金を出してくれたので、休み明けに今後のことを相談すると言った。
「ごめんな、こんな話」
「いや、ええよ。友達やし。いつでも相談のるで」
「うん。私も……力になれるかは、わかれへんけど。明日は……練習行くん?」
「あ──コンサート近いから、一応行くわ」
「トモ君、楽器屋行くとか行ってたよな? 一緒に行こか?」
 朋之はまだ楽器屋には行っていなかったので、裕人が付き添った。もちろん朋之を元気付けるためだ。ギターのアクセサリーをいくつか見たいらしい。
 美咲は家で航が待っているので帰宅し、久しぶりに二人で義実家に顔を出した。航が『美咲は華子と会っていた』と話しだしたので、同級生の先輩を紹介すると喜んでいた、と簡単に後を続けた。一緒に夕食をとってから帰宅すると華子からLINEがあって、無事に先輩と付き合うことになったと報告してくれた。
 朋之のことは美咲は誰にも話さなかった。裕人から『俺より会うこと多いやろうから気にしてやってな』というLINEが夜中に届いていた。
 翌日、美咲はいつも通りに練習に参加した。コンサートが近づいているので帰りが遅くなるかも知れない、と航には話しておいた。実際、秋のコンサートは出演する中で一番大きいステージのようで、この時期はいつも練習が増えるらしい。
 部屋に入ると既に朋之の姿はあった。けれどいつもの元気はもちろんなく、離れたところで椅子に座って項垂れていた。
「井庭先生……山口君のこと、聞きましたか?」
 美咲が聞くと、井庭は首を横に振った。
「何かあったんか? って聞いたんやけど……小山さんに聞いてくれ、って」
「え……」
 話は本人から聞いているけれど、どこまで話して良いかはわからない。そもそも朋之は何も悪くないので落ち込むことはない。と思うけれど、黙って大金を使われたことと離婚を決意したことで精神的に参っているのだろう。
 美咲は荷物を置いてから朋之のそばに行った。
「山口君、大丈夫? 昨日、寝れた?」
「あ──昨日な……ヒロ君とこに泊めてもらってん」
 美咲と別れて楽器屋に行ったあと、二人で飲みに行ったらしい。初めは今後のことを相談していたけれど、やがて朋之は酔いが回って裕人に愚痴をこぼし始めた。一人で家に帰らせるのは無理だと判断した裕人は家に連れて帰った。
「午前中に家帰ったら、前に嫁がおってさ。入れてくれ、ってうるさくて……せめて荷物を運びたいって言うから入れたんやけど、詰め終わっても出ていかんから口論になって……社長に来てもらった」
「大変やったんやなぁ……」
「金銭感覚がどうも合わんな……。社長も謝ってくれたけど、明日ちゃんと話すわ。家のことも決めなあかんし」
 さて練習するか、と朋之は立ち上がったけれど、すぐにふらついてしまった。バタッと音がして朋之は倒れた。
「えっ、山口君?」
「ははは……情けないな……」
 起き上がってはこないけれど、意識はあるらしい。
「おい、どうした? ちょっと休んどけ、今日は私がやっとくわ。小山さん、頼んだで」
 慌ててやってきた井庭は口早にそう言うと、メンバーを集めて練習を開始した。井庭はメンバーを朋之が見えないほうを向かせた。
 何か枕になりそうなもの、と部屋を見渡して、美咲はジョイントマットを見つけた。何枚か重ねてから持っていたタオルを巻いて、朋之の頭の下に入れた。
「ごめんな。ちょっと休んだら起きるけど……あとで……井庭先生に話しといてもらっていい? 簡単にで良いから。あ、みんなには黙っといてな」
「うん……わかった」
 美咲は井庭に断ってから一旦公民館を出て、近くの自販機で栄養ドリンクを買って戻ってきた。それを朋之の見えるところに置いてから、井庭に事情を簡単に話した。
「そうか……。山口君、結婚決まったときは嬉しそうにしてたんやけどなぁ。何年か前も落ち込んでて……。苦労してたんやろなぁ」
 朋之は体を起こし、壁にもたれて座っていた。美咲と井庭が話しているのを見ながら、栄養ドリンクを手に取った。
「子供はおらんかったよな。おったら親権で揉めるからな……」
 良いタイミングだっただろう、と井庭は続ける。
「小山さんも、まだやな?」
「はい……」
「あ、出来たら絶対言うてや。無理させられへんし」
 ありがとうございます、と美咲が返したとき、朋之は二人のところへ戻ってきた。表情はあまり変わっていないけれど、さっきよりはましだ。
「小山さんに聞いたよ。今日は元気出されへんやろし、耳だけ仕事しといて」
 今の朋之に歌う力はない。無理をしても音を乱すし、そんなときに練習してもあまり意味はない。
 朋之はメンバーが練習するのをじっと聴いていた。楽譜を見ながら強弱を確かめ、ときどき歌を止めては言葉が聞き取りにくいところを何度も練習させる。仕上がってきた頃に美咲の伴奏をつけ、最初から最後まで通す。
「あの……最初の〝おーい〟が、どうも〝ふぉーい〟に聞こえる。“しんちゃん”みたいやから、もっとはっきり。ごめん小山さん、最初から……」
 一部メンバーからの笑い声が消えるのを待って、井庭は指揮を構える。美咲は井庭が右手を上げるのを見てからピアノの音を鳴らす。前奏が終わって最初の〝おーい〟は──、さっきよりは綺麗に聞こえていたと思う。井庭も朋之も止めなかったので、そのまま最後まで弾いた。
 普段の練習は朋之が指導しているけれど、ステージに立つときに指揮をするのは井庭だ。朋之が上手く指示を出すので代表交代の話を冗談混じりにしたけれど朋之にはその気は今はないらしい。
「なぁ、紀伊さん……次の土曜日、付き合ってもらって良いかな? 来週にはたぶん歌えるから」
 練習が終わって美咲がピアノを片付けていると朋之が聞いてきた。
「あ──うん、良いよ」
 朋之は美咲に、スタジオでの歌の練習に一緒に来て欲しい、と言ったのだけれど。
「山口君と美咲ちゃんって付き合ってるの?」
 話の一部だけを聞いて勘違いしてしまった女性が数名。二人で話していることが多かったからか、そういう風に見えていたらしい。
「違いますよ。二人とも結婚してるし」
「俺が今日はこんなんやから、自主練に来てもらえるか聞いただけで……。同窓会なかったら中学の時の記憶で止まってたしな」
「うん。当時はそんなに仲良くはなかったし……」
 美咲と朋之が話すのを聞いて、女性たちは『勘違いしてごめんねぇ』と笑いながら部屋を出ていった。当時はそんなに仲良くはなかった──けれど、美咲は朋之が好きだったし、裕人が言っていたことが本当なら両片思いだったことになる。
 なんとなく朋之を見づらくなって、黙ってピアノを片付ける。蓋を閉じて最後にカバーを掛けて、自分の荷物を持った。振り返ると、朋之が荷物を持って美咲を見つめていた。
「……どうかしたん?」
「いや──、〝さん〟って付けたら他人行儀やなぁと思って……〝ちゃん〟もおかしいしな……」
「別に何でも良いよ」
「じゃあ──きぃ」
 字面だけ可愛くしたようだけれど、発音は旧姓と全く変わらない。なんじゃそりゃ、と笑いながら公民館を出る。
 朋之は今日は敢えて電車で来たようで、最寄りの駅まで一緒に帰った。別れてからHair Salon HIROの前を通ると裕人が客を見送っているところだった。あいつ大丈夫そう? と聞いてきたので、たぶんね、と答えた。
 嫁を紹介されたのは、就職して五年ほど経った頃だった。本社勤務になって社長と接することも増え、俺の仕事は評価されていたらしい。
「山口君はいま、彼女はいるんかな?」
「いえ……」
「それなら、私の娘とお見合いしてもらわれへんかな? 会ってみて、もし嫌やったら断ってくれても良い」
 高校、大学で付き合った女性は何人かいたが、当時は全く長続きしなかった。だいたい向こうから声をかけておきながら、離れていくのも勝手だった。俺に悪いところが無かったとは言いきれないが、不安にはさせないように接してきたつもりだ。
 それでも俺が毎週日曜に予定を入れていたからか、デートが出来ない、と何回も怒られた。中学の頃から歌うのが好きで、高校のときに偶然、合唱団メンバー募集の広告を見た。地元にもいくつかあるのは知っていたが、俺は敢えて違うのを選んだ。
 それが今のHarmonieだ。
 当時はただのメンバーだったが、先にいた人たちが何人か辞め、いつの間にか古株になっていた。意見を頻繁に、問題点を的確に発していたせいか、井庭に指導を任されるようになった。
 俺は合唱を辞めるつもりはなかったし、練習を休んでまでデートするつもりもなかった。それが噂で広がったのか──、やがてピタリと彼女が出来なくなった。
 だから社長が娘を紹介してくれると聞いて最初は嬉しかった。
 アルバイトの経験がなく大学を出てそのまま就職したらしいが、それは特に問題ではなかった。一般企業で事務をしていると言うし、仕事を嫌っている感じでもなかった。マナーもきちんとしているし、身なりも綺麗に整っているし、料理は苦手だと言っているがそれは徐々に慣れるだろうと思った。日曜は会えないことも理解してくれて、練習場所の近くに住んで良いと言ってくれて、やっといい人に出会えたかと思った。
 間違いだとわかったのは、嫁が専業主婦になってからだ。
 今までは自分の給料と社長からの小遣いを貰っていたらしいが、それは無くなった。その代わり、俺の給料で好きなものを買えと言ってクレジットカードを渡すと、何度も限度額を越えた。
「好きなもの買って良いって言ってたから」
「常識で考えろよ。使いすぎやぞ。家のローンも……社長が助けてくれたけど、まだ残ってるんやぞ。電気、ガス、テレビ、携帯……払えるんか?」
 嫁からはクレジットカードを取り上げた。これだけのことで離婚するのは早いと思ったので、次に同じようなことをしたら終わりだと約束した。
 嫁は反省したのか、しばらくは大人しく生活していたが──。
 通帳の管理を任せていたのが間違いだった。普通にしていれば余裕で生活できていたはずの貯金が、ほとんど無くなっていた。
 約束通り、俺は離婚の決意をして嫁を家から出した。
「山口君、うちの娘が申し訳ない!」
 社長室に顔を出すと、社長が土下座する勢いで椅子から立ち上がった。
「いや、社長は何も悪くないんで、頭上げてください」
 床に手をつこうとするのを何とか止め、ソファに座らせて俺も向かいに座った。
「娘がああなったのは、俺の責任や……贅沢させてきたから、抜けへんのやろうな。俺は離婚してくれて良いと思ってる」
「普段は何も問題なかったけど、お金の使い方が俺には無理でした。今日、離婚届を取って帰ります」
「ああ、わかった。書いたら持ってきてくれ。娘には俺が渡して、役所に出させる」
 住んでいる家は一人には広いので、マンションに引っ越して家は社長に返すことにした。人事にはもちろん報告するが、嫁に場所を教えるつもりはない。
 仕事はこのまま続ける予定だったので、社長と揉めたくはなかった。慰謝料を相場以上に払うと言われたが、それは断った。何も要らないと言っても聞いてくれなかったので、嫁が無駄遣いした分だけ請求することになった。
「あと、私のあとを継いでもらう話は──」
「それも、無かったことにしてください。俺はそんな器じゃないです」
 社長は、わかった、と短く言って最後にもう一度、俺に頭を下げた。

 社長に預けた離婚届に嫁は渋々サインしたらしい。役所に届け出るところまで、社長は見届けたらしい。
「しばらく気楽に暮らせよ。俺らもたまに遊びに来るし。な、紀伊?」
「えっ、私も? まぁ……たまになら……」
 俺は近くにワンルームマンションを借りて、荷物は少なかったので美咲と裕人が引っ越しを手伝ってくれた。俺は数日の休暇を申請して、裕人が休みの月曜日と重なった。
「それにしても、不思議やなぁ。俺、中学のとき……トモ君ともそんな仲良くはなかったよなぁ」
「そう、やな……。高井とよく一緒やったよな?」
「そやねん。三年とき一緒やって、紀伊もおったよな? あいつ、うるっさかったよなぁ」
 なぜか高井佳樹の話題になって、いま何をしているのか気になって裕人が同窓会で教えてもらったSNSを見た。けれど更新頻度は低いようで、『同窓会行ってきた』の報告で終わっていた。
「同窓会って四月やったから、五ヶ月前よなぁ? 連絡はしてないん?」
 美咲が聞いてきたけれど、裕人も俺も同窓会以来会っていないし、連絡をとる用事もない。裕人は佳樹と同じ高校だったけれどクラスは別で、俺はそもそも違う高校だった。大学も全員違うところで、接点はなかったらしい。
「あ──そうや、思い出した、あいつ出張で海外行くって言ってたわ。確か」
「そうや、言ってたわ。同窓会のあと……飲みに行ったとき聞いたな」
 俺と裕人は、ははは、と笑いながら佳樹の話を続けた。美咲も一緒に笑ったけれど、なぜか彼に会おうという話にはならない。
 俺が裕人と話す視界の隅で、美咲は俺の荷物の中から楽譜の束を見つけた。今までに貰ったものを全てまとめていて、順番に重ねてある。
 パラパラとめくって最後のほうで手を止めた──ということは、古ぼけて色褪せた楽譜を見つけたのだろうか。二十年ほど前に篠山がくれた藁半紙のコピーは、美咲にも見覚えがあるはずだ。
「そういえば俺もやけど、紀伊ってほとんどトモ君と話してなかったよな?」
 美咲は見ていた楽譜を置いて裕人のほうを見た。
「うん……大倉君とはよく話したけど……山口君と話すのはごく稀やった……」
「そうやった? 記憶のほとんどにきぃがおるんやけど」
 それは美咲も同意見で、中学といえば朋之が浮かんでくる。もちろん当時の親友だった彩加や篠山との記憶もあるけれど、一番多くの思い出があるのは裕人で、その次が朋之だ。彩加とは仲良くしていたけれど、性格が合わないなと思うこともあった。
「学校で席近いとき多かったし、塾も学校みたいなメンバーやったから……話の輪には入ってたね」
「ああ、そうか。塾で席自由やったとき、よく俺の前にいたよなぁ」
「いや──それは違う、逆。私はっきり覚えてるんやけど」
 学校の定期テスト前には塾で対策授業があって、クラスは学校別で席も自由だった。美咲はいつも彩加と一緒に早くに到着していて、まだ誰もいない教室で好きな席に座った。三人掛けの長机で、美咲は壁側に入った。
 自習したりしているうちに他の生徒達がやってきて、教室の外から知っている声がした。先頭で入ってきたのは朋之だった。どこに座るつもりだろう、と見ていると彼は美咲の後ろに滑り込んできた。
「しかもあの日……休み時間に立とうと思ったら、椅子のとこまで机が来てて立たれへんかったし」
 そんなことが何度かあったから、美咲はよく背中に朋之の視線を感じていた。学校で同じクラスだったときは美咲のほうが後ろに座っていた──けれど、授業中も雑談が絶えなかった当時は彼は後ろを向いて遊んでいた。
「そういうことやで、トモ君。知らんけど」
 裕人に言われて(うな)りながら、朋之はキッチンへ向かう。
「逆に私、二年のときの大倉君の記憶があんまりない」
「ええ……」
 クラスメイトの男子たちは休み時間は走り回って暴れていたけれど、裕人はいつも塾の宿題をしていた。テストのやり直し、天声人語の書き写し、数学の計算。そしてそれが終わったら、チャイムが鳴るまで机で眠っていた。
「あのとき俺らこんなんやったら、別の人生やったやろな」
 意味深に笑いながら裕人は床に置かれたローテーブルの前に座る。作業が一段落ついてあとは細かい片付けなので、朋之がコーヒーを入れてきてくれた。三人でテーブルを囲って話を続けた。
「なんか、トモ君と紀伊、楽しそうやよな」
「……そうか? いろいろ大変やけどな」
「たまにスタジオ借りて練習してんやろ? 俺もそんなんやってみたかったな」

 二日前の土曜日の午後、美咲は予定どおり朋之と一緒にスタジオへ練習に行った。初めは朋之は元気がなかったけれど、発声をしているうちに笑顔が戻ってきた。いつも朋之はギターを持ってきていたけれど、この日はそれはなかった。
『コンサート近いから集中するわ』
 一週間前の練習での自分の発言を思い出しながら、一通り歌ってみる。上手くいかないところを繰り返し、美咲のピアノの音と合わせてみる。
『きぃ、ごめん、今度こっちお願いして良い?』
 朋之は別の楽譜を出して、弾いて欲しいところを美咲に伝えた。
 ゆっくり出来る時間が減って大変ではあったけれど、美咲は久々の伴奏を楽しんでいた。同級生や恩師との付き合いがまた始まったことがとても嬉しかった。
『そうや、次のコンサート……篠山先生とこも出るらしいで』
『へぇ……まぁ、そうやろなぁ』
 歌のレベルを比べれば、向こうのほうが遥かに上だと思う。もしも次のステージがコンサートではなくコンクールだったら、間違いなく賞を取っていくはずだ。プログラムには指揮と伴奏の名前も載せられるので、美咲に気付く人が何人かいるかもしれない。
『気になる?』
『うーん……なれへんことはないけど……』
 もし美咲がフェードアウトしていなかったら、違う立場でステージに立っていた。井庭ではなく篠山の指揮を見て前を向いていた。
『俺は──きぃは仲間やって信じてるで』
 美咲は主にピアノ担当なのでなかなかメンバーと馴染めなかったけれど、パートごとにピアノと合わせたりしているうちに話をしてくれる人も増えた。朋之と同級生だと知って、そっちに興味を持った人もいた。
 メンバーは指揮を見るのはもちろん、ピアノの音も耳で追っている。美咲がぶれてしまっては歌もまとまらない。
 朋之のその言葉のおかげか、前日の練習では何かが違うと感じた。いつもより音が綺麗になって、井庭もメンバーの(まと)まりを褒めていた。ふと気になって朋之のほうを見ると、美咲にだけ見えるように親指を立てていた。

「次の日曜が本番やけど……ヒロ君は仕事よな?」
「うん。知らんかったから予約入ってるし……。あっ、そうやおまえら、あ──トモ君は別にええか、紀伊の髪のセットしたるわ!」
「えっ、良いの? 簡単にハーフアップくらいで考えてるんやけど」
「ええよ。自分でやりにくいやろ?」
 裕人や朋之と再会できて本当に良かったと思う。小山航と結婚して、佐藤華子と親戚になって、同窓会に出席して大正解だった。
 彼らと親しくしていることを美咲は航にはあまり話していない。朋之に誘われて合唱団に入ったことや裕人の美容室に通っていることは話しているけれど、美咲が家事をきちんとしているせいか航も聞いてこない。もちろん──二人のことが好きだったなんて、誰にも話していない。
 それでも時々、裕人の発言が意味深に聞こえるのは気のせいなのだろうか。美容室で聞いた過去の事実も気になって余計に考えてしまう。
「土曜日もピアノ頼むな」
「え? 土曜?」
「本番前の最後の練習、仕事の人もおるやろうから夜にやるって、言ってたよな?」
「あ──うん、聞いてる聞いてる」
 夕方の中途半端な時間からだったので、航の夕食は美咲が用意してから行くと行ってある。美咲は練習が終わってから、井庭や朋之と打ち合わせを兼ねて食べに行く予定だ。
 もしも中学のときに仲が良かったら、どんな人生を送っていたのだろうか。
 もしも十年早く再会していたら、何かが変わっていたのだろうか。
 もしも……それ(・・)を伝えてしまったら……。
※朋之が離婚を決意したとき。

 嫁にお金を勝手に使われて、もうダメだ、と思ったとき気付けば裕人に連絡していた。ギターのアクセサリーを買う予定があったので、無意識に電車にも乗って都会を目指していた。
 裕人に送ったLINEが既読になって、すぐに電話がきた。俺は意味不明なことを送っていたようで──、とりあえず大丈夫だと話し、裕人は偶然近くにいたので会うことになった。事情があって、美咲も一緒だった。
 カフェに入り、状況を説明した。離婚する、と言うと驚かれたが、俺の決意は変わらなかった。二人とも力になると言ってくれて、少し心が軽くなった。
 楽器屋にはまだ行っていなかったので、裕人が同行してくれることになった。俺は一人で大丈夫だったが、裕人なりの優しさだったのだろう。
「じゃあな紀伊、気つけて帰れよ」
「また明日な」
 駅の改札で美咲を見送って、楽器屋へ行った。ギターのピックがどうしても欲しかったので好みのものを探し、あとは弦も買った。ストラップも新しいのが欲しかったが、良いものがなかったのでやめた。
「トモ君がギター弾くん知らんかったな」
「高校入ってからやからな。中学ときは授業もなかったし……触ったことはあってんで」
 それでも当時はバスケ部だったので、放課後はだいたい運動していた。音楽といえば授業だけで、俺にそんなイメージはなかっただろう。
 裕人と飲みに行くことになって、俺は改めて離婚の話をした。これからどうしようか、と話しているうちに酔いが回ってしまい、弱音ばかり吐いていたらしい。
「俺もう、無理や……女なんか……」
「たまたまやって。社長の娘やし、お金あったんか知らんけど感覚おかしかったんやろ? そんな人ばっかりちゃうで」
「そうかなぁ……あいつは……普通なんかな……」
「あいつ? ──紀伊か? やめとけ、手出したらあかんで」
「ははは……わかってるって……あーあ……」
 その辺りから記憶が飛んでいる。翌朝、目覚めると裕人の家にいて、裕人の妻が朝食を用意してくれていた。謝罪と礼を何度もして、俺は自宅へ帰った。
 自宅に着いてからのことは、美咲に話した通りだ。
 二日酔いで辛いところに口論になって、頭が回らなかった。午前中には落ち着いたので、軽く腹ごしらえをしてから早めに練習に行った。
 しかしいつもの元気を出す力はなく、何も出来なかった。椅子から立ち上がろうとして、倒れてしまった。
 井庭が美咲に俺の介抱を頼んだのは、美咲が同級生で事情を知っていたからだろうか。
 美咲は枕を用意してくれて、それから栄養ドリンクを買ってきてくれた。特にお願いはしていなかったが、とてもありがたかった。俺が目を閉じている間に戻ってきたようで、メッセージをつけて荷物の近くに置いてくれていた。
 そんな美咲が可愛く見えて、いつまでも〝さん〟をつけて呼ぶのは嫌だなと思った。だからといって〝ちゃん〟をつけるのも違う気がした。
「じゃあ──きぃ」
「ん? そのまま?」
「いや……小さい〝ぃ〟」
 裕人は旧姓で呼んでいるが、それとは若干違う。発音の違いを説明するが、美咲は『一緒に聞こえる』と笑う。
「〝い〟ちゃうねん、〝ぃ〟やで」
「ははは、なんじゃそりゃ。好きに呼んで」
 美咲は何も言わなかったが、あだ名を付けたことは嬉しかったらしい。あだ名ではあるが旧姓に近いので俺も呼びやすく、裕人も違いに気付いていなかった。
 それから一週間後の土曜日には、俺はほぼ元通りに回復していた。美咲にスタジオでの練習に同行をお願いし、ピアノを弾いてもらった。相変わらず美咲はピアノにかじりついているらしく、会う度に上達していた。Harmonieに誘って本当に良かったと思う。
 秋のコンサートにえいこんが出ると言うと、不安そうな顔をしていた。コンクールではないので審査されるわけではないが、元いた団体で篠山に恩があるのもあっていろいろ複雑らしい。
「俺は──きぃは仲間やって信じてるで」
 本当は、もっと別の言葉で言いたかった。確かに仲間ではあるが、もっと親密な言葉を言いたかった。しかし美咲には旦那がいるので、迷った末にやめた。
 ただそれは、Harmonieにとっては正解だったらしい。
 俺の言葉が美咲の何かを変えたようで、翌日の練習ではまた更に上手くなっていた。帰ってから練習はしていないと言っていたが、確実に音がクリアになっていた。
「今日みんなすごいな? 家で猛練習した?」
「してない……うるさいって怒られる」
 井庭はメンバーに聞いていたが、家で大声を出せるはずはない。仕事や学校の時間があるので、夜に外で歌うのも迷惑だ。
「小山さんもいつもより安定感あったで」
 井庭が言うと、椅子に後ろ向きに座っていた美咲はメンバーに注目されて照れていた。はっきりとは聞こえなかったが、美咲は顔の前で手を振って『そんなことない』と言っていた。
 それでも美咲のピアノが上手くなり、メンバーが安心して歌っていたのは事実だ。肝心なのは歌うほうだが、ピアノの仕上がりにも大きく左右される。美咲に何か伝えたかったが井庭が話し続けているので、俺は美咲にだけ見えるように親指を立てた。美咲は気付いてくれたようで、口角が上がっていた。
 引っ越しの日に美咲が話した塾でのことは、直後に思い出した。なんとなく気まずくなって作業を止めて、コーヒーを入れにいった。
「なんか、トモ君と紀伊、楽しそうやよな」
「……そうか? いろいろ大変やけどな」
 裕人が言うことは、いつも正解だ。俺は確かに週末を楽しみにしていたし、離婚してからは自由になったので美咲との接触を増やした──もちろん、常識の範囲内でだ。美咲も好きなことが出来て楽しそうだったし、俺とも友人のように接してくれていた。
 しかしまだ俺も裕人も、美咲は俺のことが好きだった、という言葉を本人から聞いていない。美咲は旦那との関係は良好らしいので、壊すようなことはしたくなかった。