四日目、魔法石は徐々に以前の輝きを取り戻している。まるで香水瓶のように、揺らすと中に揺れる光が貯まっていくのが見えた。

「もう大分いい感じなのです。もう盗まなくても、一回くらい魔法を使えるのです」
「え? 一回……いや、でも、私らいむのこともゆずるのことも解決しないと……一回じゃ足りないよ」

 ミルキーの言葉に、私は戸惑う。バレたらと思うと怖いのに、もう盗みは必要ないと言われると、この閉塞感をどこに向けていいかわからなかった。
 せっかく盗むことで、自分の檻を壊す感覚を得たというのに。

「むむ、けど……盗みでチャージできるエネルギーが、見るからに減ってるのです。……もしかしてりんごちゃん、盗み、楽しくなってるのです?」
「そっ、んなこと……あるわけないよ! 私、朝ごはん食べてくる!」

 ミルキーの指摘に心臓が跳ねる。私は、目的のためにしかたなくやっている。そんな建前を無視して犯罪を楽しんでいるなんて、認めたくなかった。
 動揺したまま食卓につくと、ゆずるが先にご飯を食べていた。私は隣に座り、ちらちらと視線を向ける。

「りんご姉……?」
「な、なに、ゆずる」
「いや、なんか落ち着かなそうだったから……そわそわしてる?」

 ゆずるが顔をしかめるのを見て、しまったと思った。この数日間の癖が抜けていないようで、つい近くに座った彼から何か盗れないかと思ってしまったのだ。そんな自分に動揺する。

「なんでもない。……えっと、ゆずる。そのお財布のキーホルダー、変えた方がいいよ」
「?」
「そんなでっかいマスコット、鞄から覗いてたら掴んで引っ張られてそのまま盗まれちゃうよ」
「え……」
「その紐掴めば本体掴むより手の動き少なくて済むし、見つかってもそれが可愛かったから触りたかったって言い訳出来ちゃうし……」
「……なんかりんご姉、詳しい?」
「!?」

 慌てて誤魔化そうとしたのに、薮蛇だった。しかしゆずるはハッとしたように言葉を続ける。

「もしかして、何か盗まれそうになった?」
「だ、大丈夫だよ」
「そう? ならいいけど、もし何かあったら言いなよ? 犯罪とか、クソみたいな行為なんだから。それ相応の罰を与えなきゃ」
「……そう、だよね」

 ゆずるの言葉は、私の胸に深く突き刺さる。油断すると何か盗んでしまいそうな指先で、パンを千切って口に運ぶ。あまり味がしなかった。

「……ふむふむ。りんごちゃん、なら他の方法でエネルギーチャージするのです!」
「他の方法……?」
「なのです!」

 部屋に戻りもう盗みはしないと告げると、ミルキーが教えてくれた次の方法に動揺する。
 けれど盗みが癖になってしまっては困る。他の方法があるならそちらに縋りたかった。

 家を出て、いつもの通学路から逸れた、人通りの少ない河川敷。
 私は段ボールに捨てられた、薄汚れた子犬を見つめる。

「……ねえ、本当にこんなことするの?」
「大丈夫。魔法のためなのです」
「でも……」
「りんごちゃんが言ったのです。一回の魔法じゃ足りないって。りんごちゃんには、叶えたい願いがある……そのために必要な犠牲なのです」

 ミルキーが見つけた、他の方法。罪のない小さな命を、自分のエゴのために犠牲にしてしまう罪悪感。子犬のつぶらな瞳を見ていると、そんな恐ろしいことは出来そうにない。
 けれど盗みなんかよりリスクのある行為を成し遂げたなら、私はどれだけ満たされるのだろう。そんな甘い誘惑が胸の内にあった。

「……っ、やっぱり、出来ないよ……」
「そうなのです? この子犬は、きっと誰にも拾われずそのうち死んでしまうのです。ひと思いに楽にしてあげるのも優しさなのです」
「そんなの……」
「ふーん? まあ、無理にとは言わないのです。そろそろ遅刻してしまうのです」
「……、……うん」

 私は逃げるようにして、その場を立ち去る。一度振り向くと、子犬が尻尾を振っているのが見えた。
 学校に着いても、子犬のことが頭から離れなかった。そしてぼんやりとした思考の端で、つい友達の物を盗みそうになって、私は動揺する。

 すっかり癖になってしまっている。ダメだと思えば思うほど、余計にしたくなった。
 もう元には戻れない。この衝動を抑えるには、より強い罪悪感と恐怖で押さえ付けるしかない。
 覚悟はまだ決まらない。それでも私は放課後、また子犬の所に行くことにした。

「……ねえ、ミルキー。本当にこの子を痛め付けたら、魔法石にエネルギーがチャージされるんだよね?」
「うんうん、きっとたくさんエネルギー確保できるのです! そうしたら、らいむちゃんのこともゆずるくんのことも解決するのです!」
「そう、だよね……? 無駄じゃないよね? この子も野垂れ死ぬより、私の役に立てた方が嬉しいよね?」

 夕陽の影になった高架下、河川敷に降りた私は、朝の子犬の元へ向かう。
 必死に言い訳を、理由を並べ立てて、私は自分の行動を正当化しようとした。

「……」

 足が悪いのか箱から逃げることも出来ない汚い子犬を抱き上げて、私はふらふらと川縁へと向かう。
 この子をここに流したら、私は幸せになれる。私の願いのために、死んで欲しい。そんな傲慢な感情と、生き物を手に掛ける罪悪感に葛藤する。

「……ごめん」

 手の中の小さな温もりと、何をされるのかもわからずこちらを見上げる瞳。まっすぐに見つめる黒い目に映った私は、ひどく怖い顔をしていた。
 それを見た瞬間、自分が鬼や悪魔になったような気がした。そしてやっぱり出来ないと、私がやめようとした時だった。

「りんご、ちゃん……?」
「え……らいむ……!?」
「何、やってるの……」

 懐かしい声に振り向くと、そこには驚いた顔をしたらいむが居た。
 しばらくぶりに声をかけられた喜びと、純粋な驚き、そして、やめる決意をしたとはいえ、子犬を川に沈めようとした場面を見られた動揺。その上私の声に驚いた子犬が手を噛んだものだから、私はうっかり犬を落としてしまった。

「あ!?」
「っ……ショコラ!」
「え……?」

 らいむが慌てて駆け寄ってきて、犬を助けようと迷わず川に飛び込む。
 ショコラ、それはこの子の名前だろうか。らいむは、この子を知っていたのだろうか。久しぶりに私と目を合わせてくれたのに、そんなことよりも子犬のことしか意識にない様子のらいむ。
 ぼんやりとしたまま、状況を処理しきれない私は、川に流されながらも何とか子犬を捕まえたらいむを見つめる。

「……っ、りんごちゃ……助けて……!」
「……、らいむ……やっと、私のこと見てくれたね」

 子犬を庇い、足のつかない深い川で流され溺れながらも、私に向けて手を伸ばすらいむ。そのまっすぐな視線を受けて、私は久しぶりに満たされた気持ちになった。

 ようやくこっちを見てくれた、名前を呼んでくれた。私はその喜びで一杯になった。

「なっ……!? 今は、そんなこといいから、助け……」

 なのに、らいむはそうじゃないらしい。そのすれ違いが悲しくて、私はいっぱいいっぱいの中で説明する。
 だって、あんなに無視されたのだ。今を逃せば、次いつその機会が訪れるかわからなかった。

「そんなこと? 私、らいむに無視されてどれだけ悲しんでたかわかる? 私だって、らいむを裏切ったみたいになって悔しかった。私だって、らいむと見た夢を愛してた……なのに、なのに、しょうがないじゃない……」
「っ……りん……」
「だからね、私、魔法少女になったの。魔法で何とかして、家のしがらみも、らいむとの夢も、全部叶えてみせるよ。そのために、その犬には死んでもらわないと困るの……ねえらいむ、そんな子助けなくていいよ、私たちの幸せの糧になるんだから……、……らいむ?」

 気付くと、辛うじて見えていたらいむも子犬も、目の前から消えてしまっていた。
 夕陽に照らされ赤く煌めく川に、らいむ達の気配は感じられない。その光景に現実味がなく、私はミルキーを振り返る。

「ねえ、らいむは……? 子犬は?」
「……生命反応はもう僅かなのです」
「うそ……らいむ……らいむ!?」

 我に返った私は慌てて助けようとするけれど、泳げない私が入ったところで、何の役にも立たない。私は泣きながらミルキーに縋った。

「どうしよう!? ミルキー、なんとかして!」
「そうですねぇ、魔法を使えば何とかなるかもしれないのです」
「じゃあ……!」
「でも、もう手遅れなのです。引き上げたとして死体なのです」
「そん、な……らいむ……らいむ」

 取り返しのつかないことをしてしまった。私はその場に崩れ落ち、泣きじゃくる。するとミルキーは、ぽつりと呟いた。

「……どうしてもと言うのなら、死んだらいむちゃんを生き返らせるって手もあるのです」
「そんなこと、できるの!?」
「ただし、人一人生き返らせる魔法を使うには、十人は殺さないとダメなのです」
「え……?」

 ミルキーの言葉に、私は思わず絶句する。絶望からの希望、そこからの深い絶望。感情の波に追い付けず、溺れてしまいそうだ。

「……子犬一匹に躊躇するりんごちゃんが、十人の犠牲を払ってでも一人を救いたいです?」
「それは、でも……」
「らいむちゃんを諦めたら、もうらいむちゃんのことで悩まなくて済むのですよ?」
「けど……私は……」
「いいのですよ。もう誰も責めないのです。これはただの事故。りんごちゃんはただの目撃者。……ただ、またらいむちゃんを裏切ることになるだけなのです」
「……!」

 私はらいむを裏切ってあんなにも後悔して、それをどうにかしようとして盗みまで働いた。それなのに、さらにらいむを裏切るなんて、出来るわけがない。

「……待ってて、らいむ……私、今度こそ……」

 ふらふらと家への道のりを辿る間、私の頭の中は、誰を殺すかでいっぱいだった。