「美波ちゃん。昨日のこと、もう一度教えてくれるかな?」
朝ごはんを食べ終えた少女、美波は、見るからに不満げな顔をした。
小学2年生である美波の前で、膝をついて頼んだグレーの背広を着た女性は、ごめんねえ、ととっさに困り顔をつくる。
美波は何も、突然の彼女の頼みにうんざりしているのではない。朝ごはんが焼いたパン1枚だけなことに機嫌を損ねているのだ。
母はいつも三食用意してくれていた。おなかいっぱいになって元気に「いってきます!」と学校に行く。それが美波の日常だ。
今日朝ごはんを作ったのは、父だった。食パン1枚を大皿に乗せて出され、ものの3口で食べきってしまった。育ち盛りの胃袋が、それで持つはずがない。
しかし、今、そんな文句を言える状況ではない。それくらい小学生でもわかる。きっと大人よりもずっと空気を読むのがうまい。
目の前にいる女性に、美波は仕方なさそうに目を向ける。天使の輪を艶めかせるショートカットが特徴的なこの女性は、昨晩家に来た刑事のひとりだ。名前は、よく覚えていない。だって、ほかにも何人も警察が来たから。
美波の隣の椅子に、疲れた顔をした父が腰かける。美波、と父の諭すような声。わかってるよと言わんばかりに美波は口を尖らせた。
「いいよ。学校に行く前に、おしえてあげる」
昨日、学校から帰ってきたら、家にいるはずの母がいなかった。
ただいまーと言っても返事がなく、はじめはかくれんぼしてるのかと思った。部屋の中が少し汚くなっていたから、隠れる場所を必死に作ったのだと、美波は思ったのだ。
きれい好きな父のために家は常に整頓されている。だけどそのときは、食べかけの昼食がリビングに出しっぱなしで、くしゃくしゃになった紙が書斎の机や床に散らばっていた。
美波は家中を探したが、母の姿は見つからなかった。やがてかくれんぼに飽きてきて、自分の部屋でお絵描きを始めた。
気づいたときには父が仕事から帰ってきていた。母は、まだ、どこにもいなかった。スーパーにでも行っているんだろうと、父は先に風呂に入ろうとした。が、入れなかった。
「浴槽にびっしりと紙が貼りついていました。紙にはどれも幾何学模様のような図形が書かれていて、何か新手の宗教にでも巻き込まれたんじゃないかと……」
「もようじゃないよ!まほうじんだよ!」
「あー、はいはい、魔法陣な」
それから父は母の携帯に電話をかけたものの、携帯は書斎で充電されたままになっていて、近所を直接探し回るしかなかった。
それでもいっこうに見つからず、最終手段として警察を頼ることにしたのだった。
「昨日の朝は、お母さん、どんなふうだった?」
「元気だったよ!」
「特に変わったこともなかった?」
「朝ごはん、ごはんとおみそしるとお魚をね、作ってくれてね。かみの毛もかわいくふたつに結んでくれてね。いってらっしゃい、がんばってね、って手ぇふってくれたよ!」
「そう……いいお母さんだね」
「うん!」
ほめられてうれしくなって、美波はうきうきで話し続ける。
「あのねあのね、ママはね、小説書いてるんだよ」
「小説……『異世界転生』っていうお話?」
「そうそれ! すごいでしょう!?」
聞き上手な刑事の女性に、美波の笑顔が無邪気に輝く。母が失踪したとは思えぬハイテンションだ。
小説の内容について饒舌にまくしたてると、ふと、あっ! とひらめいたように話を変えた。
「あたしもね、ママみたいに書いたの! これ!」
「なあに? 学校新聞?」
「本当におこった話なんだよ! ビッグニュース!」
「へえ、すごいね?」
「あとね、これはお絵かき用のノートで、こっちはおまじないの本。見て! きらきらなの!」
「わ、わあー、か、かわいいね」
「うん! かわいい! お気に入り! あとはあとは、日記帳でしょ、ドリルでしょお~……あれえ? ママの小説どこだろう」
椅子の背にかけていた、腐ったりんごのように赤く丸みを帯びたランドセルから、次々と中身を取り出される。サイズの大きな文字がわかりやすく刷られた本やノートは、だいぶ使いこまれていた。
「こら、美波。ランドセルの中身を散らかすな。もうすぐ学校だろ?」
「ちらかしてないもん。けいじさんに見せてあげただけだもん!」
ぶーぶー言いながら、美波は見せびらかした本類をランドセルに入れ直す。父の顔を見たら朝ごはんの質素さを思い出し、いっそう機嫌を損ねてしまう。
また刑事の女性に話を聞いてもらおうとしたが、ほかの警察に声をかけられ、タイミングを失った。
「手がかりあった?」
「隣の家から最近の様子について動画を提供してもらいましたが、収穫は特にありませんでした」
「そう……。周辺の監視カメラは?」
「それらしき人物は……」
シリアスなムードに、美波は自分の家なのになんとなく居づらさを感じてしまう。そそくさとランドセルを担いで学校に行く支度をした。



