「3学期からみなさんと一緒に過ごす、新しいお友だちの紹介です。さあ、入っできでください」
なまりが色濃く残る標準語による指示で、ガラガラと教室の扉が開かれた。
現れたのは、赤いランドセルを担いだ少女だ。
「は、はじめまして! 東京から来ました。小林美波です。かわいいものと本がすきです。よろしくおねがいします」
左右のバランスの悪いツインテールを揺らし、少女、美波は、教室にいるみんなに向けて頭を下げた。パチパチパチ!明るい拍手が美波へ送られる。
「東京だってー!」
「都会だべ。すげええぇぇ」
「おようふくかわええなあ」
「ランドセルもなんかぴかぴかしてねが?」
「よろしくー!!」
みんなは口々に盛り上がる。それにしては、音のボリュームはそこまでうるさくない。「みんな」と言っても、人数は10人しかいないからだ。しかも、全学年で。つまり全校生徒数が、美波を入れてたったの11人なのだ。そのためほとんどの時間を学年関係なく、この教室で過ごす。
東京で生まれ育った美波にとっては、新鮮で、それでいて不自然に思えた。
何もかもちがう。
人も、話し方も、窓から見える景色も。
山をふたつみっつ越えた先に、こぢんまりと形成された小さな村。小学校はたったひとつ、ここだけ。
村の人口は、美波が転校前に在籍していた小学校の全校生徒数にも満たない。
その分、村人全員が顔見知りで、特に同世代はもはや幼なじみの域を超え、血のつながりがないだけの兄妹のように育つ。
都会ではなかなか芽生えない、強くて堅い特別な絆があった。たとえ秘密を言ったとしても、村の外にはけっして漏れることはないだろう。
唯一無二の輪が、すでにできあがっている。
そこに入っていくのは、新しく輪をつくることよりも断然むずかしい。
美波の心の中は、いろんなドキドキがひしめいていた。そんな不安定な心音をかき消す勢いで、村育ちの子どもたちは美波にぐいぐい話しかけた。
「はいはーい! 何年生ですかー?」
「なんで転校してきよったんー?」
「村のどこば住んどんだ!?」
「こっち来たことあっだべか?」
「そのおようふく、どこのぉ?」
「ランドセル見して〜!!」
「とーきょーってどげんとこざね!」
「芸能人と会ったことあっか!?」
「スカイツリーは!?」
「本、あたしも好きだぁ。何好き?」
全校生徒10人から一斉に飛び交う質問。
距離感が近くて人懐っこい彼らの心は、いつでもオープンだ。玄関の鍵すらかけたことがない。
美波は少しほっとした。
担任の先生にあたる頭のはげた中年男性が、手を叩いて、活気ある子どもたちを一旦静まらせた。
「みんなで言ったら聞き取れんでしょう。小林さんと仲良くなりとう気持ちはわかりますが……」
「あ、でも、わたし、ちょっとだけならしつもんわかりました!」
「おっ、すごかねえ! 何ば言ってました?」
「何年生ですかとか、なんで転校してきたんですかとか。あとは、ランドセル見せてとか、何の本がすきですかとか!」
ずばり当てられた子どもたちは、そろって「おお〜」「当たっとう!」と無邪気にはしゃいだ。
美波は鼻を高くして、聞き取れた質問すべてに答えてあげた。
「わたしは、小学2年生で、もうすぐ3年生になります。おばあちゃんとひいおばあちゃんの家にひっこしてきたので、転校しました。ランドセルはママとえらんだやつで、よこのししゅうもかわいいの! あと……あっ、本はね、えっとね……異世界とかのファンタジーがだいすき! です!」
「たくさん答えてくれてありがとう。みなさん、小林さんのことよう知れましたね?」
担任の先生は無理なく転校生紹介を締めにかかった。
あらかじめ美波の家の事情を知らされている立場だからこそ、これ以上質問が殺到して詮索するのは危険だと判断したのだ。
美波の内情――正確には、この村に住むことになった経緯は、あまりおおっぴらにするような内容ではない。
『東京神隠し事件』
あのニュースは、この村でも連日話題になった。
ある日突然、行方不明になった母。怪しい痕跡のある家。あれから3週間が過ぎてなお、目撃情報はひとつもない。
まさに、神隠し。
わずか8歳の一人娘は、家で母の帰りをひたすら待ち続ける。いったいどんな心境だろうか。考えるだけで、誰しも同情心を抱く。
一度、家を離れたほうが、子どものためかもしれない。事件の捜査で美波と関わる刑事も、事件の詳細を記事で読んだどこかの大人も、そう思っていた。美波の父も例外ではなかった。
転校は、父の提案だった。
ただ、父は仕事の都合上、同行することはできない。だけど美波だけでも行ったほうがいい。そのほうが美波のためだ。そんな父の言葉を、美波はふたつ返事で受け入れた。
美波は空気が読める子だ。
だが、当然ながら、頭の中まで読むことはできない。
何がどうして自分のためになるのか。今でもよくわかっていなかった。
でもパパがそこまで言うってことは、そうなんだろう。もはや刷り込みも同然に納得した。
だから美波にとって今回の件は「おばあちゃんとひいおばあちゃんの家にひっこしてきたので、転校しました」それ以上でも以下でもない。
心残りがあるとすれば、急に転校が決まったせいで友だちにお別れを言えなかったことだ。冬休みに遊ぶ約束をいっぱいしていたのに。
今度手紙を送ろうと、曾祖母に封筒と便せんを貸してもらったのは昨日のことだ。手紙に書きたいことが多く、便せんが足りなくなりそうだ。
「小林さんの席はあっこです。何かわからんこたあっだらいつでも聞いてくださいね。それでは、朝の会はこれにてしまいに――」
「なあ!村のどこに家ざあるだね!? オラんち、近いだか!?」
「美波ちゃん! とーきょーのこと教えてー!」
担任の先生のさりげない気遣いもむなしく、ホームルームがちゃんと閉会するより早く、美波の周りにわっと子どもたちが集まった。有無を言わさず第2回質問タイムが始まってしまう。
はてさてどうしたもんかと人知れず悩む先生をよそに、子どもたちは和気あいあいと会話を弾ませる。
美波も、気兼ねなくなんでも話した。だんだん場に慣れ、少しずつ口調は軽くなり、表情もやわらかくなる。
次第に美波からの質問が増えていった。
みんなの名前、学年、誕生日。先生のこと、授業のこと、学校近辺のこと。それから……。
「ねえねえ! ここらへんにみずうみがあるってほんと?」
「みずうみ?」
「あんだ! うら山の神社の近く!」
「だでもあっこって……」
「そこに水神さまってひとがいるの!?」
美波は食い気味に声を張り上げた。
とたんにほかのみんなの反応が悪くなる。
「すいじんさま……?」
「なんだそれ」
「ようわかんねが……そのみずうみなら、近づかんほうがええよ?」
「え?なんで?」
「なんでだも……」
「だって……」
「ねえ……?」
さっきまでの元気はどこへやら。みんな著しく口数が減り、気まずそうに顔を見合わせる。
いつの間にか担任の先生は問題なしと見定め、1時間目の授業の支度のためいなくなっていた。
曇天模様のような空気が流れる。
渋々口を割ったのは、最年長である6年生の少女だった。
「ちょっと前にな、あの湖からガイコツがいっぺえ出てきたんよ」
「が、ガイコツ……!?」
「美波ちゃんも行ったら骨になっちまうかもしれねだ」
意識的にひそめられた声。不穏にこわばった顔つき。
新入りを脅そうとしているわけではない。
6年生の少女を筆頭に、村から出たことのない子どもたちはみんな、心の底から戦慄していた。
美波もはじめこそ驚いたものの、やがてはっと腑に落ちた。
……なるほど、そういうことか。
曾祖母が語ってくれた、水神様の話。
おそらく、彼女の言う「ガイコツ」もそれに関係している。
湖から発見されたという白骨死体は、水神様に輿入れしたお嫁だろう。
神様の暮らす世界に転生したから、この世での肉体は不要になった。だけど、魂は、どこか遠いところで生きている。
みんなは水神様の話を知らないから、怖がっているのだ。
「わたしそこ行ってみたい! だれかあんないしてくれない?」
「えー……」
「やだよ、こえぇもん!」
「おれもむりー」
「あんなとこ行くもんか!」
満場一致で「NO」の返答。学校や村の案内ならいつでもウェルカムだとフォローまで入れられる。行きたいのは湖なのに! 駄々をこねても、誰ひとり聞く耳を持たなかった。
担任の先生が教科書や資料を持って戻ってくると、それっきり例の湖について口に出すことすらしなくなった。まるで禁忌に触れないようプログラミングされているかのように。
それでも美波はあきらめきれなかった。
家に帰ってから、縁側でお茶をすする曾祖母にそのことを愚痴ると、曾祖母は黙って重い腰を上げた。
「ひいおばあちゃん……?」
「……」
「まさか……つれてってくれるの!?」
「……湖ば行ぐだけんね」
「わあーー! ありがとーーお!!」
畑仕事をしている祖母が家に帰ってくる前に、ふたりは湖を一目見に出かけた。
仲良く手をつないで、霧がかった神社のたたずむ裏山へ入っていく。
草木に覆われた山道を、美波はルンルン気分でスキップする。
「水神さまに会えるかなあ?」
「わぁしゃ会ぅたこたぁながよ」
「神さまってやっぱりふしぎな力とかあるのかなあ」
「あっだらすごかねぇ」
「うんっ、見てみたーい!」
曾祖母の歩く速度は亀と匹敵するくらい遅い。赤くたそがれた一本道が、永遠に伸びている。
けれども美波は急かしたり焦ったりしない。案内してもらえるだけでありがたいのだから。
それに、凹凸のある地面に自分の足跡が一歩ずつ刻まれていくのは、快感だった。この足跡の数だけ、神様に近づいている。美波はにやけを隠せない。
締まりのないピンクのお口は、おしゃべりが止まらなかった。
「あのね、わたしもね、おまじないつかえるんだよ!」
「しゃっしゃっしゃっ! まじないとはたまげだもんだ。美子ちゃんはすげぇのお」
「だからわたしは美子じゃなくて美波だってばぁ!」
「……んあぁ? なんだってぇ?」
はーあ、と美波はため息をついた。
「おまじないはね、本を見たらすぐにできるようになるよ。意外とかんたんなの。ひいおばあちゃんも今度やってみる?」
「美子ちゃんの考えだこたぁ、わぁしにゃぁむずかしゅうで……」
「ひいおばあちゃんもできるよ! ぜったいできる!」
「まじないだか?」
「そう! なんでもねがいごとがかなっちゃうの!」
美波は出かけるときに持ってきたカバンの中から、一冊の本を取り出し、曾祖母に見せてあげた。
『みんなでハッピー! プリンセス・アイのおまじない100』
角度によって色を変えて光る加工が施されたタイトルの下には、きゅるんとした瞳のプリンセスのイラストが描かれていた。
厚みのあるページをぱらぱらとめくり、『#89』の項目を開く。
「ほら、これ! 紙にまほうじんをかいて、水につけるだけ! ねっ? かんたんでしょ?」
カバンの中にはほかにも、お絵かき帳と筆箱が詰めこまれている。いつでもおまじないは実行可能だ。
「わたしね、ママがなんかね、しょんぼりしてるの見ちゃったの。そのときにね『異世界行きたい』って言ってるのを聞いてね、だからね、夜にこっそりおまじないしてあげたの。ママが元気になりますようにって! そしたらね、つぎの日、ママ、元気になってたの! すごいでしょ!? ねがいごとがほんとにかなったんだよ!? しかもね、それだけじゃないんだよ! 学校から帰ったら、ママがいなくなってたの! あのときはほんとにびっくりしたなあ。ママ、本当に異世界行っちゃったんだ~って」
断言しよう。美波には、母のいない寂しさはあれど、母を喪った悲しみはない。
美波はその幼い頭でちゃんと理解している。
母は、帰ってこない。きっともう二度と。
異世界に行った者が元の世界に帰還できる割合は、小説の中でも少ないほうだ。
寂しくないと言えば嘘になる。
会えるものならもちろん会いたい。
だけど。
願いが現実になった衝撃のほうが、はるかに大きかった。
「学校でもね、異世界に行った子いるんだよ。あ、前の学校のことね」
「ほぉん」
「なんかね、夏休みの間に異世界に行っちゃったんだって。たぶん、みんな、こっそり行ってるんじゃないかな。どこかべつの世界に!」
とある生徒が異世界に行った、というのはあくまで噂なのだが……。
その噂が出回ったのは、まごうことなき事実だ。
「だからね、わたしもね、ママのいる異世界に行くんだ!」
学校は楽しい。
新しいクラスメイトは明るくて、親しみやすい。
おばあちゃんも、ひいおばあちゃんも、やさしくて好き。
ここでの生活も、わりとおもしろい。
でも……異世界はもっとおもしろいにきまっている!
本当は美波もずっと興味を持っていた。
ここ以外の世界は、どんなふうなんだろう。
わたしはどんな自分になれるんだろう。
ライトノベルを読み、母の物語を聞き、想像はどんどんふくらんでいった。
そして母が行方をくらましたことで、美波は気づいてしまう。
想像は、現実になりえるのだと。
問題は……母がどうやって異世界転生したのか。
魔法陣のおまじないで唱えてみたものの……結果は、このとおり。美波は現実世界にいる。場所が悪いのかと、家だけでなく学校でもチャレンジしたが、水道管が詰まっただけだった。
方法を見いだせないまま、あれよあれよと転校が決まった。
無事に引っ越した翌朝。曾祖母から神の嫁入りについて聞かされたとき、これだ! と思った。
神々の住まう場所なら、きっと未知の領域とつながっている。
そこから異世界に飛ぶことができるかもしれない。
神様にお願いしたら、母と同じ世界に行くことだって不可能じゃないはずだ!
「美子ちゃんや楽しそうだぃね」
「楽しいよー! だって異世界に行けるかもしれないんだよ!?」
「そぉがい、そぉがい」
「あっ、せっかくだし、ひいおばあちゃんも行く!?」
「湖だか?」
「異世界に!」
「いせが……? そりゃぁどこばあんね」
「どこ? うーん……どこだろう。わかんない! だって異世界だもん」
美波は急傾斜の坂を難なくのぼり進める。
曾祖母のペースがさらに落ちたことに気づくと、曾祖母の両手を引いて支えてあげた。
棒切れのような曾祖母の指先は、とうにかじかんでいた。
「もしかしたらひいおばあちゃんのお姉さんもいるかもよ!」
「……姉さんだ?」
「そっ! 神さまといっしょに、ママのいる世界を見てたりして~」
坂をのぼりきっても、美波の元気は消費されるどころか増すばかり。
「……そらぁええ話だぁ」
曾祖母は息を切らしながらも、まなじりを弱々しくほぐしていく。
「わぁし、ずっと後悔してだんよぉ。姉さんだけつれぇ思いばさせとに、ひとりだけこの世にいでまって……」
「じゃあいっしょに行こ! お姉さんもよろこぶよ!」
「そぉだぃね……」
白い息が、枯れ葉を散らした。
「一緒なら怖ぐねが」
風がいちだんと冷たくなった。
廃れた茶色と腐りかけた緑色しかなかった景色に、ふと、透明な光が差しこんだ。
思わず美波は駆け出す。
「うわあ~~っ!」
眼前に広がるは、予想以上に大きな湖だ。
この村唯一の小学校と大差ない面積を有する湖は、沈みかけた夕陽を反射させ、きらきらと光の粒をまたたかせている。
湖のさらに奥には、苔の生えた石畳の階段があり、祠のある神社に続いている。
「ひいおばあちゃん! 水神さまのいるみずうみってここ!?」
「おう、そうざ」
美波よりひと足遅くたどりついた曾祖母が、疲労まじりにうなずく。
美波は興奮のあまりきゃっきゃっと走り回った。
湖の水面にところどころ藻やごみは浮かんでいるけれど、妖しい影や波紋はない。
眠っているような静けさだ。
だからよけいに美波の声がよく響く。
「神さまいないね」
「やっぱいねが」
「じゃあ、おまじないしてしょうかんしなくちゃ!」
「まじないだぁなんやんね」
「ひいおばあちゃんもやるんだよ!」
美波の願いは、母が今いるであろう世界に行くこと。
それを叶えるには、ただ神様の世界に移動するだけではだめだ。神様に直接依頼しなければ。
だからこそ美波は、この湖に来なければならなかった。
ここでおまじないをして水神様を喚び出すことさえできれば、あとは願いを聞いてもらうだけ。
そうして晴れて美波も“異世界転生”の仲間入りだ!
「ひいおばあちゃんも書こう! はい、ペンと紙!」
湖のそばでお絵かき帳を広げた美波は、白紙のページを破いて隣に置いた。ダイヤモチーフのチャームのついた黒ペンも添える。
「おっきなまぁる書いて~、お星さま書いてっと。はい、まほうじんかんせーい!」
ぼうっと立ち尽くした曾祖母に気づかず、美波は真剣におまじないの手順を踏む。ものの3秒で書き上げた魔法陣の部分を、ハサミで正方形になるように切り取った。
「これをね、みずうみに入れたらねがいごとするんだよ」
「んなごとせんでええが」
立ち上がった美波は、服についた砂を払い落としながら振り返る。
「ひいおば――!」
――ボチャン……!
突然、湖が水飛沫を上げた。
魔法陣の紙が、中空を舞う。
曾祖母の足元で、ぶくぶくと音が際立つ。湖の水面が沸騰したように泡をあふれかえらせていた。
荒々しい波が、湖全体に行き渡る。
わんわんと山中の生物が鳴き出す。この山を統べる水神様を、呼び起こすかのように。
曾祖母はただでさえしわしわな顔面を、さらにしわを増やしてほころんだ。
おもむろに一歩踏み出す。
――チャプン……ッ。
しばらくして、湖は沈黙した。
そこにはもう、人っ子ひとりいない。
end



