その老婆は、目の前にいる親族が誰か判別できないくらいボケている。



「おや、おはよう。美子(ミコ)ちゃん。よう眠れだか?」

「ひいおばあちゃん……。何度も言ってるでしょ?わたしの名前は、美子じゃなくて――」

「うんん? 美子ちゃん、眠れなかったんかぁ? 部屋、好かんかったか……?」

「……う、ううん……、あの……おはよう、ひいおばあちゃん」

「うん、おはよう。あいさつできてえれぇなあ、美子ちゃん」

「……うん……」



茶の間に来た少女は、曾祖母にあたる老婆のボケに、寝癖のついた頭を抱えた。

座布団の上に座る老婆は、おいでおいでと手招き少女を近くに来させると、パンひと切れくらいの軽さの手で少女を撫でた。美子ちゃん、美子ちゃん、と少女ではない名前を連呼しながら。

「美子ちゃん」とは、少女の母の名前だ。

老婆は曾孫のことを小さかったころの孫と勘違いしている。

少女は昨日、曾祖母の家に来たときから訂正しているが、そのときだけ急に言葉が通じなくなったみたいにコミュニケーションエラーを起こす。まるで、現実を見て見ぬふりしているみたいに。



「ほれ、美子ちゃんも茶ぁ飲みんさい。今日も冷えるでな」



人違いしている老婆に悪気はない。

少女は仕方なくツッコミを我慢した。

いつまでも子どもじゃないんだ。もう少ししたら小学3年生になり、低学年の中ではいちばんのお姉さんになる。ここはオトナの対応をしてあげよう。



「ふぅ、ふぅ……ごくん。ほわぁ〜……あったかあい」

「しゃっしゃっしゃっ。今、沸かしたもんだで。ごはんもすぐ出てくるで、待ぁててな」



赤い半纏を着て防寒対策ばっちりな老婆は、ほくほくとした血色感のある笑顔を向ける。一風変わった笑い声が弾むたび、白い息が泡のように浮いていった。

両親と一緒ではなく、たったひとりでこの家に来た少女を、老婆なりに気にかけているのだろう。

お茶みたいにあたたかなやさしさ。だから少女は曾祖母のことが好きだった。自分を「美子ちゃん」と勘違いしても当然許してあげた。



「今日の朝ごはんってなあに?」

「なんじゃったっけなあ……。ごはんと、お味噌汁と……すぅー……焼き魚だが何だが」

「ふーん、わかってるね」



文句なしの朝ごはんのメニュー。

作ってくれるのは、曾祖母の娘、つまり少女の祖母だ。

山奥にある昔ながらの一軒家に、祖母と曾祖母のふたりで暮らしている。昨日からは、曾孫を入れて3人暮らしだ。

茶の間の裏手にある台所から、トントントンとリズミカルな包丁の音が聞こえてくる。少女は料理中の母を思い出し、自然と鼻歌がこぼれた。


お茶をすすりながら、少女は辺りをぼんやり見渡した。

茶の間の真ん中にどすんとかまえる囲炉裏には、黒いやかんが心地よさそうに煙を吹かせている。

後方には、少女の背丈くらいの棚があった。木製の重厚な造り。近づいてみると、ちょっときつめのにおいがする。

棚の上にはいくつもの写真が立てられ、ガラス張りの上段には食器類がしまわれている。

下段の引き出しも覗いてみる。中にあるのは……紙類だ。手紙やハガキや本が、ぱんぱんに詰まっていた。

何の本だろう。興味本位で手に取った。



「これは……ポエム?日記?……手紙のほうは、えっと……し……しん、あ、い、なる……うぅ〜ん……び……み?みき?」

「ぃやめんしゃいっ!!!!!」



突如、落雷のごとく厳しい叱責が落とされた。

それが老婆によるものだと、少女ははじめわからなかった。

今まで聞いたことのない、爆発的な声量。歯が数本欠けていながら、はっきりとした口調。それに何より、少女をじっと捉える形相が、鋭いツノを生やした鬼そのもので。

少女はうっかり涙目になった。足元に老婆の唾がかかったような気がした。

あのやさしい曾祖母は、どこへ行っちゃったのだろう。



「勝手に触っでええもんでねが!!!」

「ごっ、ごめんなさ……っ!」



少女は急いで手に取ったものをすべて引き出しに戻した。

おずおずと振り返ると、老婆も元の状態に戻っていた。
やさしい笑みが、今はとても気味が悪い。



「あ、あの……ひいおばあちゃん……?ご、ごめんね……?」

「美子ちゃんや」



おいで、おいで。骨の形が浮き彫りになった手が、少女を呼んでいる。

少女は反射的にあとずさった。

わたし、「美子ちゃん」じゃない……。ちがうもん……。わたし……わたしは……。

そう思いながらも、怒られたばかりで口答えなんかできない。

びくびくしながら冷めたお茶の前に正座すると、老婆は垂れ下がった瞼から黒光りした眼球を覗かせた。



「そろそろ美子ちゃんにも話さんといけねが」

「は、話……?」

「神様の嫁入りについでだ」

「…………え?」



神様?嫁入り?

どういう話?ファンタジー?

身がまえていた手前、少女は少し拍子抜けしてしまう。

小説なら大好きだから喜んで話を聞くけれど。



「この村はな、むかぁし、近くの集落と合併してでぎでな」

「しゅ、しゅー……ら、く?なあにそれ?」

「この村よりももぉっとちいちゃなどごろざね」



ここよりも小さいと聞いて、少女の頭にまたはてなマークが浮かんだ。

だって、この村でさえかなり小さい。今まで両親と住んでいた東京の町とは全然ちがう。人口も町並みも比べものにならない。

なのにもっと小さいだなんて。想像もつかなかった。



「わたしゃ、ここがまだ集落だったころに生まれでな。みぃんな親戚みでぇに仲よぉ住んどった」



終始、おだやかな語り口だった。

老婆の歯の抜けた空洞から、鳥の鳴き声のような息の音が漏れる。



「わぁしらの集落にはのぉ、言い伝えがあっでのぉ」



――山のふもとにある湖には、水神様が棲んでいる。


それは、老婆が産まれるずっとずっと、ずっと昔、集落が形成される前から存在する民間伝承である。

長年語り継がれてきたということは、誰もが信じてきたのだろう。水神様の御身など一度たりとも見たことないくせに。



「神さま……!」



ここにもひとり、疑いなく信じた者がいる。

少女の目はきらきらと輝いていた。ファンタジー好きの血が騒いでいるのだ。



「水神様を信じたもんにゃ幸福が、バカにすりゃぁ不幸が降りかかるぅゆわれどっでなぁ。集落に住むもんはみぃんな、水神様を祀っで、平和を守ぉとった」



言わずもがな、老婆も当時はその水神様とやらを信じていた。みんながそうだと言っていたから、そうなんだとあっさり受け入れた。もしもカラスは白だと言われたら、きっと白だと思っていたはずだ。



「だでも、台風や地震が起こったどぎば、みんなてんてこ舞いしたもんだ。こりゃあ水神様がお怒りだゆうて、湖んどこまで行っでな、みんなでお祈りばしたとに」



少女は前のめりになって聞いた。



「おいのりしたら、いいことおこるの?」

「いいこと起こるどぎもあっだがなあ……なぁんにも変わらんこともあっだ」

「えー、おいのり意味ないじゃん」

「お祈りだけじゃあどうにもならんどぎはなぁ、水神様に嫁さん送っで、機嫌直してもらっでだんよ」



分度器の縁ほどに背中を曲げた老婆は、年輪の描かれた首を天に伸ばした。どこか遠い目をして、天井の黒ずんだシミを見つめる。



「18のべっぴんな生娘ば選ばれでな、お祭りみでぇに輿入れやっとった」



茶の間の隣にある仏間から線香の気配が漂う。



「わぁしの姉さんも、お嫁さんなっただ」

「神さまとけっこんしたの!?すごおい!」

「……なんもすごぐねが」

「すごいよー!だって相手、神さまだよ!?」



老婆と少女。どちらも顔は笑っているのに、気持ちは正反対だった。



「水神様の嫁なるゆうのはなぁ、冷でえ湖ん中で一生を過ごすゆうこどだ」



それのどこがすごくないんだろう。少女にはよくわからなかった。

神様の世界に引っ越したってことではないのだろうか。だとしたら、それってなんか異世界転生みたいだ。やっぱりすごい!

少女はごきげんに水神様のいる異世界を思い描いていた。



「姉さんがいのぉなってすぐくれぇに、集落ば合併しでなぁ、神様に輿入れせねぐなったが……」



神さまの最後の嫁が、曾祖母の姉。その事実を少女はどうしてもロマンチックに受け取ってしまう。

少女が寝ていたときに見ていた夢よりも、格別にすてきな昔話。

もっと知りたくて根掘り葉掘り聞こうと思った矢先、台所から割烹着をまとう熟年の女性が現れた。



「朝ごはんできたわよお」

「あ!おばあちゃんー!おはよう!」

「おはよう。いい子に待ててえらいねえ」



少女の祖母にあたる女性の手には、たった今炊き上がったツヤツヤのごはんがある。少女のお腹がぐううと鳴った。



「ひいおばあちゃんがね、神さまのおよめさんの話、聞かせてくれてたの!」

「神様……?」



それを聞くや、女性は呆れ顔で老婆を見やった。



「ちょっと母ちゃん、まぁたそんな作り話してたのお?」

「作り話だがねえ。集落の言い伝えだ」

「母ちゃん16んとき上京して、人生のほとんど東京(あっち)でしょう。あっちいたときはそんな話、一回も聞いたことなかったよお?」

「えー、そうなの?」



純粋に驚く少女に、そうよお、と女性は食事を並べながら、あからさまに眉を八の字にした。



「こっちの家に隠居するようになってからなのよお。こんなボケるようになったの」



だから心配になってあたしもこっちに住むことにしたのよお。と、若干ぷりぷりしながら言う。



「真面目に聞かないでいいからねえ?」

「なんばゆうね。大事な話だがや」

「神さまの話、おもしろかったよ!」



嘘偽りのない、少女の本音。少女は先ほどの老婆への恐怖をすっかりなくしていた。



「もっと教えて、ひいおばあちゃん!」

「……美子ちゃんば、ほんどにええ子で、頭ばやわらけぇんだぁ」



ゆるやかに三日月を描く老婆の口の中は、わずかに汚れていた。