かつて炭鉱で栄えた小さな寂れた町の小料理屋で葛城瑠璃(かつらぎるり)がカウンター越しにコップに入った安酒を時間をかけてゆっくりと呑みながら,女将が作った漬物(おこうこ)をつまんだ。

 (よわい)五十にしてようやく落ち着いた雰囲気を滲ませていたが,時折みせる女の顔はあきらかに素人のそれではなかった。


「なぁ,なぁ,あたしなぁ,お酒はやめるって決めてたんやけどなぁ,何度も何度も,二度とお酒は口にしないって決めてたんやけどなぁ。でもなぁ,いっつも新しい男と出会うのが酒の席やねん。これはもう運命って諦めるしかないんちゃうやろか。だから私はなぁ〜んも悪くないんよ。み〜んな,神様のせいやねん。私はお酒やめたいのに」


 女将は黙って瑠璃が楽しそうに話すのを聞いていた。瑠璃はいつも一人で酔っ払っては,自分は京都の由緒正しい家の出身だったこと,好きな男に騙されて高校を中退してから舞妓として修行をしていた時の話や,その後京都のクラブで知り合った男と駆け落ちした話,金がなくなり大阪や兵庫で何年も好きでもない男たちと過ごした話を繰り返した。


「なぁ,なぁ,私,もうオバちゃんやろぉ。昔みたいに男が向こうから寄ってくる歳じゃないねんかぁ。寄ってくるのはこの世に未練があるもんばっかり。この世に未練がない男っておらんのやろかぁ? こんな男ばかり寄ってきて怖いし寂しいなぁ〜って」


 小さなガスコンロの上で焼かれる干物が脂を垂らし,真っ白い煙が換気扇に吸い込まれてカタカタと音を立てた。


「なぁ,女将。女将も若い頃はモテてたんやろぉ? 私,そんなんわかるんよぉ。視えるねん。しかもその男たち,ずっと女将のことを思って側にいるし。女将,その歳でも十分すぎるくらい女の色気が出てるから,いまでも新しい男たちが寄ってくるんちゃうん?」


 女将は黙ったまま静かに冷蔵庫からタッパーに入った煮物を出すと,小鍋に移して火にかけた。


「まぁ,酸いも甘いも経験しているような女将がこんな北関東の山奥でひっそりと小料理屋をやってるのは,人には言えない,訳ありな……過去になんかあったからなんやろなぁ」


 女将は何も言わずに黙って鍋に入った煮物を菜箸で優しく転がし,横で煙をあげる干物を別の箸でひっくり返した。


「なぁ,女将。私なぁ,好きな男がいたんやけど,私の不貞が原因で捨てられたんよぉ。一緒にいるときは楽しかったし,これが幸せなんかなぁっなんて思ったりもして……それなのに,ついつい魔が差してなぁ。自業自得なんやけど……」


 干物を大皿に乗せると小さなタッパーから大根おろしを摘み,皿の端に乗せて薄く切ったカボスを添えた。


「あの人だったら謝れば許してくれると思い込んでた……なんでなんやろなぁ……浮気したのは私なのに,あの時はあの人が悪いって心の底から思ってた……なんでなんやろぉ……」


 煮込みを深皿に移すと山椒の葉を散らし,皿の縁を布巾で綺麗にした。


「そんでなぁ,女将。それ以来,私はずっと,後悔してるんやわぁ。なんであの時,どうでもいい男とあんなことしたんやろぉとか,私は心の底から本当に一人の男が好きやったんやなぁとか」


 小さな流しで手を洗い,手拭いで丁寧に手を拭くと冷蔵庫から瓶ビールを取り出した。

 手拭いで瓶を包んで慣れた手つきで栓抜きをチンっと鳴らして栓を抜くと泡がこぼれる前に小さなコップに冷えたビールを注ぎ,瑠璃の前にそっと置いた。


ーーなぁ,瑠璃ちゃん,そのあんたが視えるって男たちは怖い顔してんの?ーー


 瑠璃の身体が小さく跳ね,目の前のコップを見た。


「男たち? ああ……女将の話? そもそもなんで……女将はそんな平気な顔をしておれんねん?  そんだけの数の男たちを背負って平気でおれんのが凄いわぁ」


 コップに注がれたビールの泡がパチパチと小さな音を立てた。


「私だったら耐えられへんと思うわぁ。一人や二人どころじゃない,十や二十なんて普通だったら耐えられへんちゃうん?」


 女将が食器棚からコップを取り出し,ビールを注ぐと瑠璃を見下ろすようにして一気にコップを空けた。


ーーなぁ,瑠璃ちゃん。私はそうゆうの一切視えないし,何も感じないんだけど,瑠璃ちゃん,あんたが全部視えてるんだったら,その男たちに伝えといてくれないかな?ーー


「な,なにを……?」


ーーあんたが私の後ろに視てるっていう,その男たちに,これからもよろしくってーー


「え……?」


ーー私は昔からずっと寂しがり屋さんなの。だから一人でも多く,私の身体を求めた男たち,私を抱いた男たちには死んでも……私に殺されても……私から離れないで,私を一人にしないでってお願いをしてきたの。その男たちが約束通り私を一人にしていないなら,みんな私との約束を守ってるってことだから。そもそも私にはなにも視えないから,なにもわからないのよーー


「ええけどぉ……でも,女将……女将が愛したって男はとっくにおらんらしいよ? もうずっと昔に,その男,大勢の女たちを殴ったり蹴ったり……何人も無理矢理犯したって……人殺しもしてるってみんな言うてる……だからとっくに地獄に堕ちたって……」


 女将は変形した指を器用に使って再びコップにビールを注ぐと,煽るように飲み干した。


ーーうん……知ってる。だから私も地獄に行くのよ。私も何人もの見ず知らずの男たちを殺したから。あの人のところへ行くために何人もの男たちを一生懸命殺したから。だから,あの人のところへ行くまでは,私に殺された男たちに,私を恨む男たちに,最後まで,私が地獄に堕ちるまで私を一人にしないでってお月様の下でお願いしたの。ねぇ,瑠璃ちゃん,ちゃんと伝えといてね。よろしくねーー


 空になったコップが薄らと濁り,大勢の顔も名前もわからない男たちが女将の後ろに黙って立っているのがコップに写り込んでいた。