家のなかで独りでいると,台所から妻に呼ばれたような気がして慌てて台所に行ったがそこに妻はおらず一日中家のなかを妻の名前を呼びながら探すことがあった。

 そんなある日,箪笥のなかにある妻の下着や洋服を見て,見たことのない洋服を引っ張り出し,鏡の前で自分にあててみた。

 そこには亡くなった妻が笑顔で立っていて,ようやく声だけしか聴こえなかった妻を見つけた喜びで涙と鼻水が止まらなくなった。

 ゆったりとしたワンピースに袖をとおし,カーディガンを羽織ると妻が残した化粧品を手に取り,口紅を円を描くように塗った。まるでサーカスのピエロのような化粧になったが,鏡のなかの妻は嬉しそうに笑い若いころに一緒にドライブをしたときのような楽しい気分になった。

 それから毎日,妻に会うために妻の下着をつけ,洋服を着て,しっかりと化粧をして鏡の前で何時間も過ごすようになった。


「ねぇ,あなた,しっかりとご飯食べてるの? ちゃんとお風呂入ってる? 髭は毎日剃らないとダメよ。みっともないから」


「ああ,わかってる。ちゃんとご飯を食べるし,お風呂も入るよ。髭は休みの日はそのままにさせてくれよ」


 こうして夫婦の時間を過ごせる喜びを噛み締め,いままでずっと家のことを任せきりにしていたことと仕事ばかりで家族との時間を取れなかったことを何時間も詫びた。

 しばらくして口紅を使い終わると,近所のコンビニに行って口紅やそのほかの化粧品を買うようになったが,バイトの店員たちが嘲笑うかのような表情で接客するのが気に入らず何度か店長に文句を言った。

 すれ違う子供たちの驚くような表情や大人たちの警戒する様子が不愉快で,コンビニやスーパーに行っても最低限の買い物だけを済ませた。


「なあ,聞いてくれよ。コンビニ店員たちが失礼でさ,あいつらちゃんと接客の教育受けてるのだろうか? それに小学生たちが俺に向かってオカマとか叫んでるんだ。まったく,親の顔が見てみたい」


「あらあら,それはひどいわね。でも,そんなの気にしなくていいのよ。こうして毎日夫婦で会話ができるだけでも幸せなんですのも」


「そうだよな。本当にお前には苦労と迷惑をかけてきたからな。息子も成人したし,これからは二人で楽しく暮らしていこうな。定年して初めてわかったんだけど,こうやって家族と過ごす時間をとっていなかったことをずっと後悔していたんだ」


 鏡の前で話しかけながら,これまでの人生を振り返るように昼夜関係なく何時間も楽しかった思い出や子供の成長について語り合った。

 しばらくして小さな町のちょっとした有名人になった女装姿の年寄りはいつの間にか姿を消し,コンビニやスーパーの従業員たちですら思い出す者はおらず,ゆっくりと静かにその存在を忘れられていった。

 そんな小さな町では数年前から締め切られて誰もいないはずの空き家の奥で,ボソボソと楽しそうに会話をする声が聞こえると近所の人たちの間で話題になっていた。