次の文章は、某山岳系WEBメディアのライターが、高所登山からクライミングまでマルチにこなす新進気鋭のクライマーとして注目されていたT氏にインタビューを行った際の音源を書き起こしたものである。
インタビューが行われたのは2018年の夏。
記事に採用された部分は割愛する。以下は公開されることのなかった部分である。
*
――今日は貴重なお話を伺えました。お時間いただきありがとうございます。
こちらこそありがとうございました。僕みたいにまだ実績が少ない若手は、こうやって取り扱ってもらえるだけでありがたいですよ。
――あの、記事とは関係ないことをもう少し伺っても大丈夫でしょうか。
というと?
――私の知り合いのライターが、「山にまつわる怖い話」をテーマに本を出そうとしてまして、もしTさんにもそういう体験があれば是非お聞かせいただけないかと。
そういう本、最近人気ですよね。
――ああいう本に出てくるのって、いわゆる普通の登山愛好家とか猟師さんとかがほとんどなんで、Tさんみたいに第一線で活躍されるクライマーの話ってあんまりないんですよ。もし、何か心当たりがあれば。
うーん、それってあくまで心霊系ですよね。滑落とか、九死に一生みたいなのならいくらでもあるんですけど。
――できれば不思議な体験と言うか、心霊系がありがたいです。
全然海外のクライミングとかじゃない、日本の低山の話でもいいですか。
――もちろんです。是非お聞かせください。
5、6年くらい前、N県で友人と渓流釣りに行った時の話で。これって具体的な県名とか出さない方がいいですか?
――書き起こすとき伏字にするんで大丈夫ですよ。
良かった。で、そのN県にあるオヒツ谷って言う谷で。これは僕らが勝手にそう呼んでるだけで、地形図とかにも正式な名前は出てないんで載せてもらっても大丈夫です。
僕は沢登りもするんですけど、その日は釣りメインでやりたいなって話になって色々調べてたんです。渓流釣りで入る沢って難しくて、他に人が入ってるととにかく釣れない。入りやすい沢は地元のおじいちゃんとかが引っ切り無しに来るし、難しい沢になると今度は沢登りのパーティーがやって来る。で、地形図を見ながらちょうど良さそうな沢を探すんです。
――簡単には入れないけど、沢登りとしての登攀価値はないようなレベルの沢を探すと。
そうですそうです。で、見つけたのがそのオヒツ谷で。なんというかパッとしないところにあるんですよ。沢を詰め切ったところに目ぼしいピークがあるわけでもなし、並走する登山道もないから入渓もちょっとめんどくさいし。ネットで調べても情報がほとんど出てこなかったんで、これはいいんじゃないかって話になって、一泊二日の日程で入ったんです。
――そこで奇妙な体験に遭ったと。
サクッとその部分の話だけした方がいいですか?
――いえ、出来れば全体の遡行を通してお話いただければ。必要な部分だけ取捨選択して書き起こすと思うんで。
分かりました。で、結構この沢がアタリだったんですよ。
入渓して割とすぐに15mくらいの滝があって、まずここでポンポン釣れて。
ただ、この滝が魚止めかもしれないなぁ、なんて言いながらその滝を登攀したんです。巻こうかとも思ったんですが、この先イワナがいなかったら呆気なさすぎるんで、せめて直登しとこうと。で、僕がリードで水際を登っていったんです。そんなにグレードが高いわけではなく、簡単に登れちゃって。後続の友人もさくっと登って。改めて滝上で竿を出してみると、居付きのイワナがちゃんといて、そこからもぽんぽん釣れるんです。
後から調べたら、このあたりは木地師とか炭焼きとか、杣人って言うんですかね、山仕事を生業にしてた人がいたらしく、昔々に滝の上まで岩魚を放したのかもしれないです。
――杣人からしたら貴重なタンパク源ですもんね。食糧確保に必要だったのかもしれないですね。
そうですね。
で、そこからの遡行は大して面白いこともなく。定期的にいいサイズのイワナがかかるけど、沢としては難しい箇所はなく。小滝と短いゴルジュ(筆者注:沢の両側が崖のように切り立った廊下状の地形)が出てくるくらいで。14時ぐらいになって、ちょうどいい河原があったんでそこでタープを張って幕営しました。
僕らは基本的に釣ったイワナはリリースするんですけど、沢で泊まる時はいいサイズの奴だけ2、3尾くらいキープするんです。その日も1尾は刺し身にして晩ご飯にして、残りは一晩焚き火で焼き枯らしにして、朝ご飯のお茶漬けの具にしようとしたんです。
――美味しそうですね。
イワナは刺し身が本当に美味いんですよ。寄生虫が危ないとか言われますけど、今のところ大丈夫です。
で、沢の夜ってすぐ暗くなるんで、20時くらいには晩酌も終わりにして、寝袋に入りました。
酒も入ってすやすや寝てたんですが、夜中にパッと目が覚めちゃって。寝袋から這い出て、少し離れた茂みで小用を済ませて、なんとなく焚き火のそばに腰掛けたんです。火はもうほとんど消えてたんで、もう一回薪を焚べて、なんとなく火を眺めてたら、やけに周囲が明るいことに気づいたんです。
――焚き火に照らされて明るい、という訳ではなく?
ヘッドライト点けてなくても周りが見えるくらい明るいんです。足元に自分の影が出来るくらい。パッと振り返ると、真後ろの空に満月が出てたんです。沢って、地形的に狭まってるから星空とかもあんまり見えないんですけど、ちょうど月が出てるタイミングで。街でいるとあんまり感じないですけど、山の満月って本当に明るいんです。ああ、これは見事だなと思って、せっかくだから月見酒というか、もうちょっと飲み直そうかと余ってた日本酒をちびちび一人でやってたんです。
――風情がありますね。
ねえ。一人で飲むのも味気ないんで、友人を起こそうとも思ったんですが、さすがに気が引けて。そんな感じで一人で飲んでたら、足元に自分以外の人間が立ってる影が伸びてるんです。ああ、友人も起きてきたのかと後ろを振り返ると、誰もいないんです。見間違えかと思ってもう一回前を向くと、やっぱり人の影が立ってる。
――それは、大人の人影でしたか?それとも子供?
いやぁ、そこまでは分からないですね。そんな小さい子供のような感じはしなかったですけど。で、とにかく訳が分からないんで、そそくさと寝袋に戻って朝までやり過ごしました。
――何かその人影からコンタクトがあった訳ではなく?例えば声を掛けられたとか、変な動きをしたとか。
そういうのは無かったですね。僕もけっこうビビりなんで、詳しく観察するのも怖くて。すぐに逃げました。
――それ以降変わったことは?
周りが明るくなったらすぐ友人を起こしてその話をしたんですけど、酔っ払ってただけだろうと笑われて。絶対見間違いじゃないって言いながらも、特に実害があった訳でもないんで、まあ良いかって。で、朝ご飯にしようと焚き火のそばまで行ったら、焼き枯らしにしてたイワナがなくなってるんです。
代わりに、全く見覚えのないお櫃がポンと置いてあって。
――お櫃、ですか?
旅館とかでご飯が出てくる時、大きいお櫃に入って出てくるじゃないですか。あれの、漆とかも塗ってないすごい質素な、白木のやつです。なんだこれ?って蓋を開けてみたら、炊きたての白米が盛られてたんです。
――それは奇妙ですね。見間違いとかでなく、確実に手に取られてるんですよね。
そうです。友人が早起きして炊飯してくれたのかと思ったんですけど、ぐっすり寝ててそんなことしてないと。逆に友人は、僕が昨晩の話と合わせて驚かせようとしてるんじゃないかと疑ってきたんですけど、誓ってそんなことはしてません。で、何だか気味が悪いんで、焚き火の始末だけして、朝ご飯も行動食で済ませて。手頃な尾根に乗り上げて、藪漕ぎしながら下山してきました。
――その、お櫃のご飯は食べたりしなかったんですか。
食べないですよ、気持ち悪いし。好奇心は湧きましたけど、変な行動は取らない。リスクマネジメントです。
――さすがです。なるほど、それでオヒツ谷って名前を付けたんですね。
そういうことです。すみません、オチも何も無い話で。
――とんでもない、興味深いお話でした。私の友人もネタが増えて喜ぶと思います。仮に書籍化となった場合、この話は掲載しても…?
全然問題ないですよ。
――ありがとうございます。伝えておきます。
ああ、関係ないかもしれないんですけど、日本昔話でこれと似たような話があるんですよ。
――日本昔話、ですか?
下山してから色々調べてたんですけど、唯一似てるなぁっていう話がそれで。確か、『いぶりやま』っていうタイトルでした。
――すみません、存じ上げないです。
詳細は忘れましたけど、お坊さんだか尼さんだかが山で修行してると、空から握り飯が降ってくるような内容で。オチは忘れましたけど、何だか嫌な終わり方する話でしたよ。
――いぶりやま、後で調べてみます。
まあ、その山は福井県に実在する山らしくて。僕が体験したのはN県なんで、全然関係ないとは思います。
――では、長くなりましたが本日はありがとうございました。来年のデナリ遠征、くれぐれもお気を付けて。応援しています。
こちらこそ、ありがとうございました。
*
後日、ライターのもとに[参考までに]という件名で届いたメールに添付されていた画像を掲載する。
オヒツ谷から降りてきた後にT氏が書いたという遡行図である。

尚、T氏については、本インタビューのあった翌年、北米最高峰デナリの登頂に成功。現在は高所登山からクライミングに活動のメインを移行し、国内外の岩場で未踏ルートの開拓に励んでいる。
インタビューが行われたのは2018年の夏。
記事に採用された部分は割愛する。以下は公開されることのなかった部分である。
*
――今日は貴重なお話を伺えました。お時間いただきありがとうございます。
こちらこそありがとうございました。僕みたいにまだ実績が少ない若手は、こうやって取り扱ってもらえるだけでありがたいですよ。
――あの、記事とは関係ないことをもう少し伺っても大丈夫でしょうか。
というと?
――私の知り合いのライターが、「山にまつわる怖い話」をテーマに本を出そうとしてまして、もしTさんにもそういう体験があれば是非お聞かせいただけないかと。
そういう本、最近人気ですよね。
――ああいう本に出てくるのって、いわゆる普通の登山愛好家とか猟師さんとかがほとんどなんで、Tさんみたいに第一線で活躍されるクライマーの話ってあんまりないんですよ。もし、何か心当たりがあれば。
うーん、それってあくまで心霊系ですよね。滑落とか、九死に一生みたいなのならいくらでもあるんですけど。
――できれば不思議な体験と言うか、心霊系がありがたいです。
全然海外のクライミングとかじゃない、日本の低山の話でもいいですか。
――もちろんです。是非お聞かせください。
5、6年くらい前、N県で友人と渓流釣りに行った時の話で。これって具体的な県名とか出さない方がいいですか?
――書き起こすとき伏字にするんで大丈夫ですよ。
良かった。で、そのN県にあるオヒツ谷って言う谷で。これは僕らが勝手にそう呼んでるだけで、地形図とかにも正式な名前は出てないんで載せてもらっても大丈夫です。
僕は沢登りもするんですけど、その日は釣りメインでやりたいなって話になって色々調べてたんです。渓流釣りで入る沢って難しくて、他に人が入ってるととにかく釣れない。入りやすい沢は地元のおじいちゃんとかが引っ切り無しに来るし、難しい沢になると今度は沢登りのパーティーがやって来る。で、地形図を見ながらちょうど良さそうな沢を探すんです。
――簡単には入れないけど、沢登りとしての登攀価値はないようなレベルの沢を探すと。
そうですそうです。で、見つけたのがそのオヒツ谷で。なんというかパッとしないところにあるんですよ。沢を詰め切ったところに目ぼしいピークがあるわけでもなし、並走する登山道もないから入渓もちょっとめんどくさいし。ネットで調べても情報がほとんど出てこなかったんで、これはいいんじゃないかって話になって、一泊二日の日程で入ったんです。
――そこで奇妙な体験に遭ったと。
サクッとその部分の話だけした方がいいですか?
――いえ、出来れば全体の遡行を通してお話いただければ。必要な部分だけ取捨選択して書き起こすと思うんで。
分かりました。で、結構この沢がアタリだったんですよ。
入渓して割とすぐに15mくらいの滝があって、まずここでポンポン釣れて。
ただ、この滝が魚止めかもしれないなぁ、なんて言いながらその滝を登攀したんです。巻こうかとも思ったんですが、この先イワナがいなかったら呆気なさすぎるんで、せめて直登しとこうと。で、僕がリードで水際を登っていったんです。そんなにグレードが高いわけではなく、簡単に登れちゃって。後続の友人もさくっと登って。改めて滝上で竿を出してみると、居付きのイワナがちゃんといて、そこからもぽんぽん釣れるんです。
後から調べたら、このあたりは木地師とか炭焼きとか、杣人って言うんですかね、山仕事を生業にしてた人がいたらしく、昔々に滝の上まで岩魚を放したのかもしれないです。
――杣人からしたら貴重なタンパク源ですもんね。食糧確保に必要だったのかもしれないですね。
そうですね。
で、そこからの遡行は大して面白いこともなく。定期的にいいサイズのイワナがかかるけど、沢としては難しい箇所はなく。小滝と短いゴルジュ(筆者注:沢の両側が崖のように切り立った廊下状の地形)が出てくるくらいで。14時ぐらいになって、ちょうどいい河原があったんでそこでタープを張って幕営しました。
僕らは基本的に釣ったイワナはリリースするんですけど、沢で泊まる時はいいサイズの奴だけ2、3尾くらいキープするんです。その日も1尾は刺し身にして晩ご飯にして、残りは一晩焚き火で焼き枯らしにして、朝ご飯のお茶漬けの具にしようとしたんです。
――美味しそうですね。
イワナは刺し身が本当に美味いんですよ。寄生虫が危ないとか言われますけど、今のところ大丈夫です。
で、沢の夜ってすぐ暗くなるんで、20時くらいには晩酌も終わりにして、寝袋に入りました。
酒も入ってすやすや寝てたんですが、夜中にパッと目が覚めちゃって。寝袋から這い出て、少し離れた茂みで小用を済ませて、なんとなく焚き火のそばに腰掛けたんです。火はもうほとんど消えてたんで、もう一回薪を焚べて、なんとなく火を眺めてたら、やけに周囲が明るいことに気づいたんです。
――焚き火に照らされて明るい、という訳ではなく?
ヘッドライト点けてなくても周りが見えるくらい明るいんです。足元に自分の影が出来るくらい。パッと振り返ると、真後ろの空に満月が出てたんです。沢って、地形的に狭まってるから星空とかもあんまり見えないんですけど、ちょうど月が出てるタイミングで。街でいるとあんまり感じないですけど、山の満月って本当に明るいんです。ああ、これは見事だなと思って、せっかくだから月見酒というか、もうちょっと飲み直そうかと余ってた日本酒をちびちび一人でやってたんです。
――風情がありますね。
ねえ。一人で飲むのも味気ないんで、友人を起こそうとも思ったんですが、さすがに気が引けて。そんな感じで一人で飲んでたら、足元に自分以外の人間が立ってる影が伸びてるんです。ああ、友人も起きてきたのかと後ろを振り返ると、誰もいないんです。見間違えかと思ってもう一回前を向くと、やっぱり人の影が立ってる。
――それは、大人の人影でしたか?それとも子供?
いやぁ、そこまでは分からないですね。そんな小さい子供のような感じはしなかったですけど。で、とにかく訳が分からないんで、そそくさと寝袋に戻って朝までやり過ごしました。
――何かその人影からコンタクトがあった訳ではなく?例えば声を掛けられたとか、変な動きをしたとか。
そういうのは無かったですね。僕もけっこうビビりなんで、詳しく観察するのも怖くて。すぐに逃げました。
――それ以降変わったことは?
周りが明るくなったらすぐ友人を起こしてその話をしたんですけど、酔っ払ってただけだろうと笑われて。絶対見間違いじゃないって言いながらも、特に実害があった訳でもないんで、まあ良いかって。で、朝ご飯にしようと焚き火のそばまで行ったら、焼き枯らしにしてたイワナがなくなってるんです。
代わりに、全く見覚えのないお櫃がポンと置いてあって。
――お櫃、ですか?
旅館とかでご飯が出てくる時、大きいお櫃に入って出てくるじゃないですか。あれの、漆とかも塗ってないすごい質素な、白木のやつです。なんだこれ?って蓋を開けてみたら、炊きたての白米が盛られてたんです。
――それは奇妙ですね。見間違いとかでなく、確実に手に取られてるんですよね。
そうです。友人が早起きして炊飯してくれたのかと思ったんですけど、ぐっすり寝ててそんなことしてないと。逆に友人は、僕が昨晩の話と合わせて驚かせようとしてるんじゃないかと疑ってきたんですけど、誓ってそんなことはしてません。で、何だか気味が悪いんで、焚き火の始末だけして、朝ご飯も行動食で済ませて。手頃な尾根に乗り上げて、藪漕ぎしながら下山してきました。
――その、お櫃のご飯は食べたりしなかったんですか。
食べないですよ、気持ち悪いし。好奇心は湧きましたけど、変な行動は取らない。リスクマネジメントです。
――さすがです。なるほど、それでオヒツ谷って名前を付けたんですね。
そういうことです。すみません、オチも何も無い話で。
――とんでもない、興味深いお話でした。私の友人もネタが増えて喜ぶと思います。仮に書籍化となった場合、この話は掲載しても…?
全然問題ないですよ。
――ありがとうございます。伝えておきます。
ああ、関係ないかもしれないんですけど、日本昔話でこれと似たような話があるんですよ。
――日本昔話、ですか?
下山してから色々調べてたんですけど、唯一似てるなぁっていう話がそれで。確か、『いぶりやま』っていうタイトルでした。
――すみません、存じ上げないです。
詳細は忘れましたけど、お坊さんだか尼さんだかが山で修行してると、空から握り飯が降ってくるような内容で。オチは忘れましたけど、何だか嫌な終わり方する話でしたよ。
――いぶりやま、後で調べてみます。
まあ、その山は福井県に実在する山らしくて。僕が体験したのはN県なんで、全然関係ないとは思います。
――では、長くなりましたが本日はありがとうございました。来年のデナリ遠征、くれぐれもお気を付けて。応援しています。
こちらこそ、ありがとうございました。
*
後日、ライターのもとに[参考までに]という件名で届いたメールに添付されていた画像を掲載する。
オヒツ谷から降りてきた後にT氏が書いたという遡行図である。

尚、T氏については、本インタビューのあった翌年、北米最高峰デナリの登頂に成功。現在は高所登山からクライミングに活動のメインを移行し、国内外の岩場で未踏ルートの開拓に励んでいる。
