大学時代の先輩である長田常雄に呼び出された加藤勝は、大阪難波行きの快速急行に揺られていた。
 生駒山に掘られた長いトンネルを越え、大阪奈良府県境を跨ぐと一気に風情を変える車窓を眺めながら、長田と会うのも約6年ぶり、彼の結婚式以来になるな、などと考えていると、本来なら通過するはずの河内小阪駅で電車が停車した。乗客達が怪訝そうに周囲を窺っていると、程なく車内アナウンスが流れた。
『…お客様にご連絡いたします…現在布施駅にて車両と人の接触事故が発生した為、運転を停止しております…お急ぎのところ誠に申し訳ありませんが、再開まで今しばらくお待ちください…』
 加藤は頭を抱えた。午前中の用事が長引いた関係で、約束の時間ちょうどに難波へ着く予定だった。取り急ぎ、到底間に合わない旨をLINEで連絡すると、すぐに既読がついた。
『了解!しゃあないな。適当にぶらついとるから、着いたら連絡して』
『すみません、了解です!』
 大学時代の長田は、いい加減なようでその実規律に厳しく、遅刻などもってのほかだったが、卒業から10年以上経つと随分と丸くなるものだった。ワンダーフォーゲル部に入部し、ひたすら登山に明け暮れ、早く激しく過ぎていった大学4年間のことを思い出していた。
 加藤は鞄の中をまさぐり、長田から持ってくるように頼まれたものを忘れていないか再確認した。綿の布に包まれたそれは、きちんとそこにある。それにしても、10数年前に手に入れたこんなものが、まだ自分の家に残っていたことに驚き、そしてそれを今更になって長田が欲しがる理由も分からなかった。
 20分程で電車は再び動き出した。乗客達も安堵の顔を浮かべている。
『電車復活しました。あと15分くらいで着くと思います!』
『意外と早かったな。ごめん、腹減って死にそうやったから、ここで飯食ってる』
 長田からの返信の直後、Googleマップの位置情報が送られてきた。難波駅から徒歩圏内のラーメン屋だった。
『了解です、ここに向かいます』
『飯は食ってきたんよな?』
『軽く済ませてきました』
『ほな合流したら喫茶店でも入ろか。食べ終わったらラーメン屋の前で待っとるわ』
『了解しました!』
 そんなやり取りをしている間に、電車は鶴橋を越え、大都市に掘られた長い地下道を進んでいた。難波までもう間も無くだった。

 久しぶりに訪れた難波は多くの人々でごった返していた。人々の隙間を縫うように、足早に指定されたラーメン屋へと向かった。
 店の前に到着すると、ちょうど店内から長田が出てきた。結婚式で会った時より若干太っているように見えたが、元から老け顔だったせいもあってか学生時代とそう変わっていない。むしろ実年齢よりも若く見えた。
「長田さんお久しぶりです。すみません、遅くなってしまい」
「文太郎、久しぶりやなぁ。すまんな、忙しいやろに急に呼び出して」
 『文太郎』とは、兵庫県出身の登山家・加藤文太郎に因んで名付けられた加藤のあだ名だった。
「久しぶりに文太郎って呼ばれましたよ」
「むしろ本名覚えとらんわ」
 長田はそう言って笑いながら、嬉しそうに加藤の肩を何度も叩いた。
「あっちにタバコ吸える喫茶店があるから、そこ行こ」
「タバコはまだやめてなかったんすね」
「健康に一番悪いのはストレスやからな。健康のために続けとる」
 そんな会話を交わしながら、数分歩いたところで古びた喫茶店に到着した。店内は狭く、客数は少ないが副流煙が充満していた。
 硬いソファ席に腰掛けると、左耳に異様な数のピアスを付けた店員が無愛想に水を持ってきた。
「ブレンドを」
「僕もブレンドで」
「食べ物はいらんか」
「そんな腹減ってないんで、大丈夫です。長田さんは?」
「俺もラーメンライス食ってきたからな。ほな以上で」
 ピアスの店員は伝票に走り書きした後、一言も発さずキッチンへ消えていった。
「まだそんな学生みたいなもん食べてるんですか」
「サービスで出てきたからな。それより、最近はどうしてたよ。元気にやっとったか」
 長田はタバコを燻らせながら呟いた。長田の仕草の一つ一つが加藤には懐かしかった。
「ぼちぼちです。仕事は順調ですけど、結婚相手が見つからないです。長田さんは?」
「俺もぼちぼちやなぁ。本業はまぁ変わりないけど、今執筆を進めてる本があって、そっちが結構楽しいわ」
「アウトドアショップで働いて、山の本も書いてるってすごいですよね。ワンゲルのOBで一番山続けてるんじゃないですか。あれも読みましたよ、鈴鹿のマイナールートを集めた紀行集」
「あんなもん、自費出版で100部刷って、売れたん雀の涙やぞ。大赤字や。それに一番山続けてるんは森田やろ」
 長田と同期で、加藤が入部した時代に部長を務めていたのが森田尚夫だった。当時から体力・技術共にずば抜けており、卒業と同時に富山県警に就職し、山岳救助の第一線で活躍している男だった。
「森田さんは別格なんでランク外です。僕なんか山に何も関係ない印刷屋ですよ」
「なかなかな、山に関係する仕事に就けるんは一握りや。プライベートでは登ってるんやろ?」
 長田が灰皿でタバコをすり潰すのと同時に、今度は鼻にピアスを付けた金髪の店員がブレンドコーヒーを運んできた。
「ごゆっくりどうぞ」
 コーヒーをテーブルに置く所作、一礼して去っていく姿は意外にもきちんとしていた。
「…バイトの採用基準にピアス必須とあるんかもしれんな」
 店員がキッチンに消えるのを見届けてから、長田が冗談めかして呟いた。加藤も笑いながら、コーヒーをひと啜りした。苦味と酸味のバランスが取れた、美味しいコーヒーだった。
「意外と美味いですね」
「俺タバコで舌がバカになっとるから良し悪しが分からんのよ。何飲んでも美味しい」
 そう言いながら、2本目のタバコに火を点けた。
「それで、文太郎は山続けてるんか?」
「奈良に住んでるんで、大峰の方はちょくちょく。でもハイキングレベルです」
 長田はそれには相槌を打たず、コーヒーをずずっと啜り、少し押し黙った後口を開いた。
「…それで本題やねんけどな、頼んでた物って今あるか」
「持ってきましたよ」
 電車内でも忘れていないか確認した、綿の布で包まれたそれを鞄から取り出し、長田へ差し出した。長田は恭しく布を開き、中身を確認して満足そうに微笑んだ。
「ありがたい。よくもまぁこんな昔のもんを捨てずに持っててくれたもんや」
「しかしまた、何でそれが必要だったんですか」
「今執筆してる本のな、資料になる可能性があるんや」
「今回はどんな本を?」
「ありきたりやけど、いわゆる山にまつわる怖い話やな。何番煎じか分からんくらい出尽くしてるジャンルやけど。色々インタビューしたり資料集めてるうちに、ちょっと内容が共通するような体験談がポツポツ出てきてな。で、もしかしたら文太郎に持ってきてもろたこれも、その絡みのものかもしれん」
「僕はそんな呪われてそうなもの、10数年も持ってたんですか」
 加藤の言葉に、長田は大袈裟に笑いながら首を横に振った。
「いやいや、これはどっちかというとお守り的なもんよ。まあ詳しくは、出版されたら買って読んでくれ」
「情報提供者としてタダで献本してくださいよ」
「これだけやと足りんな。もし怖い体験談も提供してくれたら考えようやないか」
「残念ながら心霊的なことは全くないですね。釈迦ヶ岳でクマと出会ったぐらいです」
「まあ実際そんなもんよなぁ。でもそれも、今までこのお守りを持ってたおかげかもしれんぞ」
 綿の布に包まれたそれを自分の鞄にしまいながら、長田は冗談っぽく言った。
「じゃあこれから気を付けなきゃいけないですね」
「そうやなぁ。ところで、文太郎はこれをもろた時のことって覚えとるか」
「避難小屋で泊まってる時一緒になったおじいちゃんから貰った、としか覚えてないですね。うちの地元で伝わる登山のお守りやから、君にやるわ!みたいな流れだった気はします」
「そうよなぁ。同席してた俺も全然覚えとらんもん。まあ、もし何か思い出したら連絡してくれるとありがたい。どの辺の地域から来てたかとか分かるとめっちゃ助かる」
「分かりました。頑張って思い出します」
 長田はおもむろに次のタバコに火を点けた。
「せや、俺の1個下に飯島っておったやろ。あいつ離婚したらしいで」
「え、初耳です」
 そこから二人の会話は、どんどん山からかけ離れ、学生時代の思い出話へと向かっていった。

 喫茶店から出る頃には少し陽が傾き始めていた。
「すまんなぁ、ちょっと会って話すだけのつもりが、めっちゃ長引いてもうた」
「いやぁ楽しかったですよ、久しぶりに。森田さんとかにも声かけて、来年みんなで集まりましょうよ」
「剱岳合宿でもするか」
「剱は…今は登れないかもしれないです」
「しっかりトレーニングしとくように。ほな、今日はありがとうな。俺この後心斎橋の古本屋に寄ってから帰るから、ここで解散ということで」
「はい、こちらこそありがとうございました。ごちそうさまでした」
「コーヒー1杯だけやからな。今度は夜飲みに行こう。ほな、お疲れさん」
「お疲れ様です!」
 軽く手を上げて立ち去る長田に一礼し、後ろ姿が人混みに紛れ見えなくなるまで見送ってから、加藤は駅に向かって歩き出した。

 加藤のもとに長田の妻・洋子から、彼が行方不明になったとの連絡が来たのはその1週間後のことだった。電話口での話をまとめると、加藤と会った5日後、午前中に買い物に行くと出ていったっきり、音信不通になってしまったという。仕事にも出勤しておらず、家族と職場関係以外で最後に会った人物が加藤だったらしく、何か心当たりがないか、もしくは何か変わった様子がなかったか、一縷の望みをかけて電話してきたのだった。
「お力になれずすみません…。ただ、最後に会った時の長田さんには全然変な様子はありませんでした。いつも通り、楽しそうに冗談ばっかり言ってました」
『そうよね、ごめんね、急に。文太郎くんもびっくりしたよね』
 電話口の声は憔悴しきっていた。洋子もまた長田と同期のワンゲルOGで、加藤もよく知った人物だった。明朗快活でひたすら元気な女性だったが、電話越しに交わされる言葉にはその面影はなかった。
「あの、長田さんは今本の執筆されてましたよね…もしかしたら、取材でどこかの山に向かって、そこで何かトラブルに遭ってる可能性もあるんじゃないですか」
『でも山に行く時は私に山行計画書出してから行くし、取材で出かける時も行き先は絶対教えてくれてたから…』
 確かに、山に対しては異常に慎重だった長田が、どんな低山であろうと届け出を出さずに入山するとは思えない。しかし、それ以外に何か手がかりがあるようにも思えなかった。
「とりあえず今からそちらに伺っていいですか?長田さんが書いてた原稿とか、集めてた資料に何か手がかりがあるかもしれないです。警察にも提出した方がいいです」
 長田の家は兵庫県西宮市にあった。電車の乗り継ぎが上手くいけば2時間以内で辿り着ける。加藤が行ったところで何か力になれるとも思えなかったが、憔悴しきった洋子の身が心配だった。
『わざわざ来てもらうんは悪いから、パソコンの中のデータだけメールで送るね。一応警察の人にも渡してはおるんやけど』
「…分かりました、でも何か手伝えることがあれば西宮まで出るんで、いつでも言ってください」
『ありがとうね、文太郎くん』
 口頭で自分のメールアドレスを伝え、二言三言会話を交わし通話は終了した。
 本の出版までもう少しというところまで来ていた長田が、自らの意思で失踪するとは思えなかった。また、彼ほどの男が不用意に山で遭難するとも思えない。何らかのトラブルに巻き込まれた可能性が高いように思われた。
 長田はひたすらタフな男だった。心配ではあったが、心のどこかで「すまんすまん、心配かけたな」と言いながらひょっこり帰ってくるだろうという漠然とした予感があった。
 数分後、加藤のもとに洋子からのメールが届いた。メールには、迷惑をかけて申し訳ないという本文と共に、8個のワードファイルが添付されていた。加藤はそれらを自分のPCに保存し、更新順に並び替え、一番上のファイルをダブルクリックした。