ずっと前から茜色の空をきみと一緒に見たかった

 街の喧騒の中、くたくたのショルダーバックを持ちながら、碧央は結愛を本気で好きになりはじめた頃にある作戦を考えていた。恋の駆け引きというやつだろうか。人間あまりにも押しがありすぎると引いてしまうこともある。その気持ちになった瞬間、突然、いなくなるというものだ。ずっと声をかけたり、笑顔で手を振ってアピールし続けてきたが、どんな態度にも結愛はクールすぎた。反応が薄い。こういうガードが堅い人には、引きが大事だろうと考える。無関心でいる時間を設けることだ。今まで毎日会ってた人が急にいなくなったらなんでいないんだろうと心配するかを試したかった。碧央は、そう考えつつも大学の講義が面倒になったっていうシンプルな理由だったりもする。単位を落とさない程度に休みを多くとった。

 その間、何をしていたかというと、飲食店の洗い物担当のバイトをひたすらこなしていた。姿恰好が目立ってしまって、お店の売り上げに貢献できそうと絶賛されたが、あえての裏方にまわる。バイトくらいは静かに過ごしたい。大学でちやほやされるくらいでちょうどいい。むしろ、好きでもない人から声をかけられるのを避けるためだ。それでも、碧央のキラキラオーラは裏方でも目立つようで、同じ裏方で働くパートのおばちゃんに、ホールへ行けと急かされた。それでもかたくなに、皿を洗い続けては、食器洗浄機と仲良くなった。使い方をマスターしたのだ。碧央は機械と友達の方が気が楽だと思ってしまう。大学よりもバイトで仕事をする時間が長くなった時もあった。むしろ、お金稼いでいた方が親にも心配かけないし、明日のご飯の心配もない。1人暮らししながらの大学通学は厳しいものがある。物価は高いし、家賃光熱費を払うだけでこずかいは微々たるもの。大学費用のみ親に頼っていたが、ほぼ社会人と同じじゃないかというくらい稼いでいた。そうしないと、生きていけない。学食が安くて救われることもある。そこまで食事に欲求は無い方だが。

 そろそろ、結愛の中での自分の存在は大きくなったであろう時期に碧央は思い出したように登校する。講義が始まるぎりぎりの時間に後ろから入室した。息を荒くして、席に座る。まだ講師は来ていなかった。ほっと一安心していると、隣に結愛がこちらを見ていた。何を思ったのか、クスッと笑っている。碧央は疑問符を浮かべて、後頭部をかく。寝ぐせを気にしていた結愛はそこじゃないよと無意識に手を伸ばして丁寧に直した。ちょっとした優しさに碧央はポッと頬を赤らめる。バシッと触れた結愛の手をつかんだ。

「今、授業中でしょ」

 いつも授業中、居眠り常習犯の碧央は言う。結愛は憤慨する。碧央に言われたくない。結愛は頬を膨らませた。そんなやり取りでも本当は嬉しい。未だ気づいていない結愛の想いだ。


 ノートを広げ、真剣に授業を聞く。単位を落としてはいけないと実際焦っている碧央だった。結愛は、不機嫌なままもう顔は見ないとずっと講師の方を見ていた。そんな怒っている結愛の姿を見るだけでも良いなと感じる碧央だった。
 ランチタイムになり、ざわざわと人が集まるラウンジの自動販売機の前でスマホを見ながら、飲み物を買おうとしている結愛を見かけた。
 
 碧央はたまたま隣の席に座って声を掛けられて仲良くなった女子とともに学生食堂に向かおうとしていた。すれ違いざまに、碧央は結愛の前にある自動販売機のボタンを押した。ガコンと落ちて来たのは、ペットボトルのロイヤルミルクティーだった。お金を入れた後で、勝手にボタンをおされたことに少しイラッとした結愛だったが、商品を見て、ほっと胸をなでおろした。結愛のすきな飲み物だったからだ。振り向いて、碧央の姿を目で追いかけると、舌をぺろっと出してすぐに前に体を向けて行ってしまった。なんだかもやもやした。

碧央は込み入った話をしているわけじゃない。毎日どこかで1回は結愛に会うようにしていた。どんなにいろんな女子から話しかけろうとも、結愛に会うのは忘れないようにしていた。目が合う時もあればすれ違うだけで終わる時もある。それでいいと思っていた。肉食系の碧央にとって優しすぎる。本当に空中に浮かぶシャボン玉を壊さないように丁寧に扱った。他の女子はいつも通りに対応している。相手任せで自分の意思は伝えない。
 
 そんな中、大学の外、芝生が広がったベンチの近くで人で行き交う中パンッと音が響く。 碧央は、軽くかわしていた好きでもない女子に平手打ちで頬が叩かれた音だ。
 結愛はその姿を廊下の窓越しに見る。目が合った。なんでたたかれているのだろうとふしぎそうな顔で見ている。立ち去っていく女子を見送ってからたたれた自分の頬を撫でた。

「俺、さらにイケメンになってない?」
「なってないから……」

 結愛に近づいて、静かに問いかける。

「俺ってどう見える?」
「女たらし?」
「……ふーん、だろうな」
「反論したい?」
「合ってるようで合ってないな……」

 こんなに話すのはいつ振りだろうか。会話を長くできて心を弾ませたかったが、見られたくない姿だった。後頭部をガリガリかいて結愛の前から立ち去る。

 結愛は立ち去ろうとする碧央に手を伸ばして、声を発した。

「ねぇ、聞いていい?」
「?」

 碧央はとぼけた顔をして立ち止まる。まさか声をかけられるとは思っていなかった。ズボンのポケットに手を入れた。

「どうして、女の人に困ってないのに、マッチングアプリ何か使ったの?」

 結愛の顔を見ずに外を見て話し出す。

「俺にだって人を選ぶ権利あるだろ」

 碧央は、そう吐き捨てて行ってしまった。女性たちに囲まれる碧央の心境がぼっち生活が長い結愛には理解不能だった。どうして、大切に接することができないんだろう。適当な対応に納得できない。自分自身へ対する対応もどこかおかしいと結愛は感じていた。

 碧央は、結愛に嫌な場面を見せてしまったことに下唇をかんで悔しがった。いいところばかりを結愛を見せたいと思うのは無意識の行動からか。見せたくないところを見せたのだから穴にあったら入りたいそんな気持ちが膨れ上がる。それでも、結愛以外の女性から話しかけられても嫌われたくない一心で愛想よく対応してしまう。誰からも好かれたいって思うのは誰しもが思うだろうか。

 碧央は、ベンチに座って天をあおいだ。飛行機雲が東の空に長く続いていた。

 碧央は、本来ならば、結愛と一緒に過ごしたいという気持ちがあったが、嫌われたらどうしようという気持ちが強く出て、通常の女子との接し方ができなかった。ガードがかたいっていうのは知っている。でも、その壁をぶち壊して、本当に必要な人を思われるくらいになりたいとそう思っていた。
 頭の片隅に結愛の存在はあったが、結局は言い寄られた女子とともに過ごす時間が多かった。名前を覚えられないのに、話しかけてくれる。いい言葉をかけてくれる。そんな甘い誘惑に負けて、相手に合わせて行動する。ずるい考え方だ。本命は脳内に揺れ動き、キープで心のオアシスはつかんでおく。好きだと言われ続けてるのなら、そのまま活かす。飽きられたら、別な子を受けいれるだけだ。
 寂しくて、心の穴を埋めたくて片時も人肌から離れたくない。良い顔して、恨まれない生き方をすり抜けているが、結局はどんなにかっこよくても付き合ってみたらいやだという女もいる。見た目で判断するから悪いと人のせいにする。自分から好きになれない女は名前も覚えられない。なんとなく、感覚で生きている。あだ名や苗字で呼んで適当にごまかしている。いつになったら、心が満タンに満たされるのかと夢見て過ごす。それで1日終わってしまうんだ。


◇◇◇


 クラクションが鳴り響く、街の喧騒の中、大学で声をかけられたサークルの先輩とともに交差点を腕をつかまれながら歩いていた。交際しているつもりはなかった。ただ一緒にいて、少しだけ隣にいるだけで心地よくて、たまたま一緒の目的があったからだった。クレープが好きだから一緒に食べに行こというただそれだけの目的だった。

「碧央は、何の飲み物が好きなの?」
「俺は、何でも飲めるけど、あえてコレと言ったら、コーラ。炭酸系かな」

 碧央は人によって、好きな物を合わせている時があった。健康志向の人にはお茶と言い、何でも食べる人にはジュースやお酒と言ったりする。大学生でも20歳は超えているから飲み会も時々参加している。

「そうなんだ。私もジュース色々飲むけど、レモンの炭酸ジュース飲むよ」
「キリンレモンとか?」
「あーー、知ってる。美味しいよね」

 そんな雑談を繰り広げながら、クレープ屋をめざしていると、道路の反対側に結愛がこちらを向いて、歩いているのが見えた。自分に興味持ち始めたのかと自意識過剰
な気持ちになりつつ、隣にいた彼女をよそに、横断歩道を走って渡ろうとした。


 数分後、悲鳴が響いた。

 平和な時間を過ごしていたと思っていた。まさか、一瞬にして世 界が変わるとは思っていなかった。結愛の体は歩道にある花壇のそばに投げ出されていた。知らないサラリーマンのおじさんに心配される。

「あの、大丈夫ですか? けが、されてますよ。救急車呼びましょうか?」
「え……」

 はっと目が覚めると、救急車のサイレンが鳴り響いている。自分の体以上に横断歩道で流血している男性がうつぶせで横たわっていた。通りかかった救急車は彼のためのものではない。今にも死にそうな患者が運ばれている。ここにいる碧央を運ぶ救急車はまだ誰も呼んでいない。現実を受け入れられない碧央と一緒にいた彼女が結愛に近づいた。

「あんた、何してるの!? 私の碧央が死んだらどうしてくれるの! 碧央じゃなくて、あんたが死ねばよかったのよ。碧央、目を覚まして、今救急車呼ぶから」

 大きな声が街に響く。心配して声をかけてくれたサラリーマンの男性はいつの間にか立ち去っていた。名前の知らない彼女のスマホの持つ手が震えていて、救急車を呼ぶこともできずに動揺していた。碧央に近づいて容態を確認して、着ていたワンピースの服が血だらけだ。
 
 結愛は、彼女の代わりに救急車を呼んで立ち去った。
 

――――真っ白な世界に移動したみたいだ。
 碧央は、歩道を歩く結愛を見つけて、すぐに右折してきたトラックに轢かれそうになるのをどんと体を押して、身代わりに助けた。想像以上に強く押していたため、花壇に足をぶつけていたが、かすり傷で済んだ。その分、碧央の代償は大きかった。全身を強く打ち、頭から血を流していた。意識が朦朧としている。

「ここは、どこだろう」
 真っ白なシャツにズボン。こんなコーディネートしたことない。何もない世界。死んでしまったのだろうか。真っ白だと思ったら、すぐに切り替わって、花畑がたくさん見えた。色鮮やかで綺麗な場所だった。平和な空間でいられるものならずっといたい。遠くで何年前かに亡くなった祖父母が手招きしている。直感でまだあっちにはいかない方がいいだろうと考える。後ろからは、さっきまで一緒にいた彼女が名前を呼ぶ。その声が結愛だったらいいのになと淡い期待を寄せる。今呼ばれなくても、生きていれば、きっと会えるかと納得させて、生きることを望んだ。

 はっと目が覚めると、病室の上、酸素マスクをつけられて、心電図の音が響いた。

「碧央!! 碧央!! 良かった。目が覚めたのね」
 交際を申し込まれた彼女が呼ぶ。未だに名前は思い出せない。事故を起こしたからではない。覚えていないだけ。その隣には母がいた。

「碧央もいつもむちゃするから。良かったわね。目が覚めて……」
「…………」
 
 目が覚めたばかりで話すことはできなかった。頭が殴られたようにガンガン痛む。

「ギリギリのところだったらしいわ。頭ぶつけてたからね。でも、大丈夫そうね」
「よかったですね」

 母と彼女は安心して、ずっと碧央の様子を見つめていた。まだ生きていることに信じられなかった。体は動かせるが、まだ頭は痛む。包帯をぐるぐるに巻かれていた。


◇◇◇
 
 (私は彼女じゃない。そんなのわかってる)
 救急車に碧央が運ばれてすぐに結愛はそわそわとした。助けてもらったのにお礼一つも言えてない。安否も分からない。自分が碧央の命を奪ったようなものだ。街で買い物に行く途中だったがそれどころでは無く、すぐに家に帰り、シャワーを頭から被って心を落ち着かせた。結愛は自責の念に駆られ続ける。

 彼女の言葉が胸に突き刺さる。

『あんたが死ねばよかったのよ』という言葉が何度も頭をめぐる。どうして、自分なんかを助けたのか。そのままにしておけば、トラックにはねられたのは自分だった。助けてくれなんて頼んでない。ぎゅっと両肩を抱きしめて、シャワーを浴び続けた。足の擦り傷がじんじんしていた。大したケガじゃないはずなのに。

 本当にどうして余計なことをするんだと安心して眠ることができなかった。
「あんた、誰?」

 病室のベッドの上、碧央は、横に立つ女性に話しかける。それは、交通事故にあった時のかなり心配していた彼女に向かって話す。その近くで聞いていた母は大きな口を開けて驚いていた。

「碧央?! 忘れちゃったの? 私の事。まさか、事故で記憶喪失?」

(そもそも、事故以前に名前覚えてない。本当のこと言っただけなんだけどな)

 碧央は本当のことを恐れて言えなかった。

「碧央、あんた、心配してくれた彼女の名前忘れるってどういうことよ。薄情だねぇ……本当にひどいよ。ねぇ」

「あー、いえ。でも、事故で頭打ったから記憶が飛んじゃうってこともあるじゃないですか。私は会ってからまもないし、そういうこともありますよね」

「あら、まぁ、何とも寛容なのねぇ。こんな優しい彼女がいるなんて、あんたにはもったいないわね」

「うっせーよ……覚えてないだから仕方ねぇだろ」

 包帯を巻かれた頭をおさえて、碧央はふて寝する。彼女は、気持ちを切り替えて、手をパンとたたく。何かをひらめいたようだ。やけに楽観的だ。

「もし、よければ、何か食べ物買ってきますか? お母さま、ずっと看病してて何も食べてらっしゃらないのでは?」

「あらあら、よく気が付いて……実はそうなのよ。救急隊の方から連絡あってから慌てて出て来たもんだから全然食べ物を食べられなくて、コンビニにでも行って買ってきましょうか。碧央は、病院食あるから大丈夫ね。さて行きましょう」

 碧央の母親は名前も知らない彼女と仲良く、病院内にあるコンビニへ買い物に行く。ふぅーっとため息をついて、スマホ画面を見る。いつかのマッチングアプリの結愛のプロフィール欄をチェックしていた。もう彼氏としてなる見込みは少ないかもしれないのに結愛の写真を見て心満たしていた。結愛に何にもすることができないもどかしさが頭をよぎる。このまま医者の治療により、1ヶ月は入院しないといけないらしい。結愛にちょっかいをかけることもできないと思うと、枕を濡らしてしまう日々が続いた。

 碧央の脳内は結愛一色になっていた。
 ―――約1ヶ月後
 
 金木犀の香りが辺り一面に広がっていた。大学の校門から玄関に入る途中にたくさんの木々でいっぱいになっていた。芝生を整えた後の香りもする。病院にずっと入院していて体がなまっていた。ひとたび動くだけで筋肉痛があちこちに出て来る。それでもここに来るのは理由があった。真面目に勉強するためだけではない。ある人に会うためだ。

 講義室に予定時刻より早めに入って待機していた碧央は、結愛の姿を見つけると、久しぶりに会って話に花を咲かせていた鈴木 義春と大石三郎をそっちのけで追いかけていく。

「おいおいおい、久々に俺らに会ったのに、女の方が良いってこと? あいつはオスだよな、マジで」
「オスの割りにあの娘には草食系対応らしいよ。珍しいよな。いつもガツガツ肉食系なのに……」
「……? へ? あいつが。嘘だろ。いつもほいほいかっこいいね碧央くんって言われてついていくあいつが。女に手出さないってか。おかしいだろ」
「案外、そっちの方が本命だったりすんじゃね?」
「……体より気持ちってこと。ほー、イケメンはいいね。ゴキブリホイホイ並みに女子が寄り付くんだから。俺にも分けてほしいよ。あーー、彼女ほしい」
「三郎も、マッチングアプリしてみればいいだろ。お互いに納得して興味とか一緒だからいいんじゃねーの」
「あれは、無理だ。体育会がダメってなったら、会った瞬間でさよなら」
「えー、それはたまたま相性の問題だと思うけど? ていうか、やったんね。マッチング」
「絶対、碧央にはいうなよ!」
「なんでよ。別にいいやん。言っても……」
「何か、ひやかされそうで嫌だ」
「繊細くんやね。さぶちゃんは」
 ノートを広げて、授業の準備をする2人だったが、碧央は全然に戻ってこない。それも珍しいことではない。

 講義室から廊下が見えた瞬間から結愛の存在に気づいた。

「結愛、大丈夫か?」

 今まで呼び捨てで呼んだことない。しばらく会ってない。でも呼んで見たかった。夢の中での妄想が広がって、結愛の存在が大きくなっていた。呼び捨てで呼ばれた結愛は目を見開いて驚いていた。あまりにもびっくりして結愛はぺたんと腰が抜けて立てなくなる。碧央を幽霊のように思えたらしい。

 碧央は同じ目線でしゃがみ、結愛の頬の涙を指で拭った。
 授業はすでに始まっていたが、さぁ行きましょうと授業を受ける状態ではなかった。少し気持ちが落ち着くまでラウンジで飲み物を飲むことにした。碧央は、結愛が好きであろうミルクティのペットボトルを差し出すと素直に受け取った。涙は落ち着いて静かに

「ありがとう」

 その言葉だけ言って、何も言わずにしばらくぼんやり2人で同じ方向向いて過ごしていた。
 電子黒板に図式説明を表示させる教授をよそに、碧央と結愛はそっと静かに途中から入室した。一番後ろの座席でノートを広げて、何と言ってるかわからない経済学を学ぶ。内容なんて全然頭に入らない。それは、お互いの気持ちが通じ合った気がしたから。 密やかに隣同士1本1本の指を絡めて、手を繋いだ。肌のぬくもりが伝わっていく。指先のネイルがカラフルだったことに今気づいた。些細なことを見つけて、嬉しくなる。こんな近くにいるなんて信じられない。本当はずっと前からこうしたかったんだ。

 教授がパソコン画面に夢中になっている間、ノートで2人の顔を隠して、暑いキスを交わした。初めて出会った時のキスとは全く違う。想像以上に柔らかい唇にお互いの熱が伝わった。優しくてあたたかい。ほんのりアロマのような匂いが漂う気分だ。やっと手にいれた宝物をめでるようにいつまでも唇を密着し続けた。2人の場所だけ異空間になり、時間がとまったようだった。


◇◇◇


「ねぇ、信じて良いんだよね」
「え? 何を?」
「……うん。そのぉ……付き合うってこと」
「俺、結愛が1番良いって会った時から思ってたから。顔も全部。体の相性も」
 その言葉を聞いて、結愛は耳まで顔を赤くしてはにかんだ。そうしつつも

「一言、余計!」

 結愛は碧央の頬をパチンと軽く叩く。愛のむちが嬉しかったりする。たくさんの人が行きかう大学校門で碧央は結愛を熱く抱擁した。碧央は自分から好きになった人と付き合えるのが心底嬉しすぎてぐるぐるまわった。恥ずかしさが増しつつもみなに披露されたみたいで逆に嬉しくなっている結愛だった。

 大学終わりに自然の流れで2人は碧央のアパートに向かっていた。今まで一度も行ったことはない。当たり前だ。今日、初めて付き合うという儀式のようなキスをしている。まともに話すのも今日が初めてでアパートなんて行く機会もない。そんな結愛には慎重に対応していた碧央だったが、好きになられた年上彼女は平気な顔して家に連れ込んでいる。それは口が裂けても結愛には言えない。寂しさを埋めるためだなんて。

 もう名前を覚えられない彼女を作るのはやめた。好きになられても断る勇気を出す。もう、本命の彼女がいると。

「あ、ごめん。髪痛いよね」

 ベッドの上、事後の2人は腕枕をしながら天井を見上げると、結愛の長い髪を腕で引っ張っていた。

「ううん。大丈夫」

 寝返りを打ってベッドの宮に置いていたヘアゴムでまとめる。薄暗い結愛のうなじが気になった。半分起こした体をふとんの中に引き寄せる。

「え、ちょっと待ってよ。まだ髪結んでる」
「いいから。気にしないでもう一回しよ」
「えー、ちょっと……やめっ……」
 容赦はない。入院生活が長くてご無沙汰していたのもある。我慢できない。

「真愛?」
「その偽名、もう忘れて。呼ばないでよ」
「はいはい。わかりました」
 
 何度も熱い抱擁をかわす。2人は裸のまま磁石のように離れない。愛に満ち満ちていた。最上級の幸福とはこのことを言うのかと、事を済ますとそのまま深い眠りについた。幸せな時間がそのまま夢で見られるといいのにと願いながら。
 バイト先のファストフード店で結愛は今日は休みだったが、碧央と一緒に向かい合わせにハンバーガーセットを頼んでいた。ざわつく店内で2人はポテトのLサイズをシェアしていた。碧央の注文したハンバーガーセットのサイドメニューは、白い肌にニキビが出るからとサラダセットにしていたが、結局結愛のポテトに手を伸ばす。どっちが女子なのかわからなくなる。結愛はどんなにたくさん食べても太らない体質のようでうらやましく思った。

「もっと食べていいよ。お腹空いているんでしょう」
「あと1本だけ。せっかく腹筋で作ったお腹が台無しになるからさ」
「そう言いながら、また手が伸びてますよ。何故か知らないけど、足も伸びてるけど……」
 
 結愛は足元を見ると、碧央の足が結愛の靴にくねくねと動いていた。

「片時も離れたくないもんねぇ」
「……足くっつけなくてもよくない? 隣にいるでしょう」
「……俺、まともに付き合ったことなくてさ。どうやって、接すればいいの?」
 
 結愛は開いた口がふさがらない。いつも女に苦労したことがない碧央の口から言う言葉かと信じられなかった。

「嘘を言わないでよ。噂は聞いてるよ? 大学の美人という美人を食い散らかしたえげつない男だって」
「は? 嘘だよ。そんなの。外野を信じちゃうの? 俺より噂の方を?」
 
 猫の目のようにキラキラとさせて結愛を見る。信じられるはずがないが、その場に合わせて適当に交わす。

「まぁ、半分聞いて半分聞き流すね」
「……絶対信じてないねぇ」
「さーてね。このハンバーガー食べたら出ようよ」
「俺の話はスルーなの? そして、どうしてそわそわ?」
「…………」
 
 さっきからモジモジなのかそわそわなのか結愛の行動が落ち着かなかった。

「トイレ?」
「違うよぉ。ここ、バイト先だから早く出たいだけ」
「あー、先輩に俺とのラブラブを見せたいってことね」

 そう言いながら、肩を組んで結愛のバイト仲間にみせびらかそうとしたが、結愛の強烈なパンチをお見舞いすることとなる。


「いたたたた……」

 ファストフード店の外にあったベンチで頬をおさえながら、たまたま持っていた保冷剤で冷やしているとそれでもにやにやと笑いがとまらない。結愛はため息をつく。

「自業自得だよ。やめてって言ってるのに、やめないから」
「痛いけど、嬉しい」
「はぁ?」
「……つい数日前は全然会話なんてしてないしさ。こうやって、話せるなんて俺は幸せ者なり」
「なり? どこぞのキャラクター?」
「著作権違反でそれは言えません」
「急に法律の話?」
「……まぁ、俺は皮膚丈夫だから気にするなって。んで? どこ行くんだっけ」
「買い物だよ。ずっと使ってたスマホリングが調子悪くてさ。買い換えようと思っていた」

 指パッチンを鳴らして、スマホリングを指さした。

「俺、それ使ってなかった。そしたらさ、お揃いにしようよ」
「お揃い?」
「ペアルックみたいな?」
「古いなぁ……」
「結愛といっしょのもの持てるなんて、失神並みじゃね?」
「…………やっぱそろえるのやめようかな」
「やめるなよぉ」

 そんな話をしつつ、結愛は碧央の腕にしがみついて街中に繰り出して行った。
 スクランブル交差点でたくさんの人が行きかう中、ぶつかりそうになるのを必死で避けながら、進む。都会の喧騒は割と嫌いじゃない。集団の中に紛れられるから。碧央は、左腕に結愛がくっついてるのをドキドキしながら、歩いていた。ヤンキーに肩をぶつけられてもいつもなら、イライラするが、今日は気にもしない。それくらい嬉しかった。ずっと女性から好かれることはあっても、自分から好きになることは少なかった。四六時中一緒にいたいと思ったのは初対面の時から。気まぐれに始めたマッチングアプリで可愛いなっとビビッと来た結愛の写真に即座に反応した。偽名を使っているのはお互いに承知の上だったが、まさかパパ活をしているだなんて、サラリーマンの男性に話しかけるまで気づかなかった。

「あれ、美紗紀ちゃんだよね? もしかして、彼氏?」
 
 横断歩道を渡り終えると、碧央の後ろに隠れた結愛は、ぷくぷくと太った今にもワイシャツのボタンが取れそうなめがねをかけたサラリーマンの男性にジロジロと見られる。

「…………ち、違います! 」
(え、俺、彼氏じゃなかったのか?)

「そうだよね。まさか、彼氏ができたら規約違反だよ。来週の水曜日、いつもの所で待ってるからねぇ」
 結愛にとっては常連で太客。逃したら、生活費が削れる。適当にごまかそうと逃げ切ったが、碧央にはそう聞こえなかった。

「結愛、さっきの人、知ってる人??」
 立ち去った後、街路樹のベンチ付近で問いかけた。

「え、あ、全然、全然。知らない人だよ! 誰と勘違いしてるんだろうね」
「あー……。だよな。結愛には俺しか合わん」
「あーはいはいはい。そういうことにしておこう」
「え、ちょっと。どういうこと。そっけないなぁ」
 急に冷める結愛に逆に燃える碧央だった。ツンデレな性格もありだなって感じた。

「雑貨屋ってデパートの中の方があるの?」
「……もう、大丈夫」
「え? スマホリング揃えるって言ってたよね」

 歩道を歩いていると、駐輪場の奥の方でタトューを左腕に刻まれた体格のいい男性がこちらを睨んでいる。結愛はその人に気づいて反対側の方に歩き始めた。下を向いて歩いていたため、知らない人のバックに当たったり、肩にもぶつかる。さらに、勢いよく自転車を漕ぐ男性に危なく、ぶつかりそうになった。碧央は慌てて、結愛の体をつかんで、端に寄せた。

「急に、どうしたんだよ」
「人に紛れてるから大丈夫かと思った……」
「な、何の話?」
「ごめん、もう帰るね」
「ちょ、そんなこれから一緒にご飯食べようとしてたんだって」
「……そんな気分じゃない」
「そ、そんなって……わかった! 外が嫌なら、俺の家行こう」

 結愛は下を向いて、落ち込んでいる。さっきまでご機嫌だったのに、誰を見て、こんなに嫌な顔をするのか。声をかけられたあの知らないおじさんか。碧央は、いろんなことを考えて、結愛のことを心配した。

「何か美味しいもの作るからさ、一緒にいてよ」
「…………」

 致し方ないなという表情して、少し離れて歩いた。結愛は何を考えているのだろうともやもやした気持ちになる。今は、とにかく、元気になってもらおうと、自宅アパート近くのスーパーで食材の買い出しに向かった。まるで夫婦みたいだなとウキウキしながらカートを押すが、結愛はあまり喜んでいなかった。1人浮かれ気分になっていて、しゅんとなってしまう碧央だった。