バスを降りた瞬間、霧谷絋一は全身を包み込むような湿った空気に驚かされた。見渡す限りの鬱蒼とした木々と、足元に広がる土の道。
 ゴールデンウィーク目前。東京は4月末だというのにすでに半袖で過ごす人も見かけるほどの陽気だというのに、シャツ1枚では少し肌寒さも感じる。灰色の雲が低く垂れ込める空を仰ぎ見て、彼は深く息をついた。

 ここが黒煉村――
 電車を乗り継ぎ、バスに乗り換え、東京から5時間以上の長旅の末にたどり着いた。
 といっても、黒煉村自体にはバスは通っていない。行政上、黒煉村は現在楠宮市の一部ということになっており、楠宮市の中心街から茶裟根山へ向かうバスの終点で降りた。
 ここから例の門傑神社までは、歩いて30分弱かかる。
 珍しく早起きをしたということもあり、霧谷はすでに疲れ切っていた。

 バス停には彼以外の人影はない。山道を何度もくねりながら進んできたせいか、周囲に村の気配すら感じられない。辺りは不気味なくらい静かで、風が草木を揺らす音だけが微かに響いている。

 霧谷はスマホを取り出し、地図アプリを確認する。
 とりあえずの目的としているのは、千璃ぬるのブログに掲載されていた門傑神社と、黒煉村民俗資料館だ。
 その2つを回って、17時の最終バスに乗って東京に帰る予定だ。
 何かめぼしい情報が見つかるかもわからないのに、こんな遠くまで来てしまったことに、今さらながら霧谷は深くため息をつく。

 「はあ……行くか」

 呟いてみたところで、返事をしてくれる人はいない。そうだ、と思い出し、スマホでSNSアプリを取り出すと、お麩にメッセージを送っておく。「もうすぐ黒煉村到着。まじ山」

 スマホをポケットに戻すと、肩にかけたリュックのベルトを掴み直し、足を踏み出す。

 道中は想像以上に険しかった。舗装されていない山道は歩きづらく、足元の小石が滑るたびにバランスを取るのに苦労する。それでも霧谷は黙々と歩き続けた。足音以外に何も聞こえない静寂が、次第に心を落ち着けていく。

 黙々と歩き続け、霧谷はようやく一つ目の目的地である門傑神社の鳥居の前までたどり着いた。

 鳥居は赤黒く錆びつき、長い年月を物語るようにところどころひび割れていた。その奥に続く石段は苔むしている。今は誰も管理をしていないのかもしれない。
 霧谷は肩で息をしながら鳥居の前に立ち、汗を拭いながら小さく息を吐いた。

 「これが……門傑神社か。」

 リュックを無造作に地面に置くと、中から千璃ぬるのブログをプリントアウトした紙を取り出す。目を細めながら見比べて、撮影されたであろう場所を探ししていく。
 霧谷は写真に写っていた風景と鳥居を照らし合わせる。写真はどうやら神社の外側から撮られたもので、鳥居や奥の石段が写り込む構図だった。少しだけ角度を変えて立ち位置を調整し、同じ構図が取れそうな場所に立ってみる。

 「ここか……」

 スマホを構えながら試しに何枚か撮影する。
 季節は違うし、神社はすっかりさびれてしまっているが、確かに千璃ぬるのブログと同じ構図の写真が撮れた。
 スマホの写真を見ながら、霧谷は身震いしてしまう。
 「聴いたら死ぬ催眠」に近づいている恐怖、ではなく、純粋なる高揚。手がかりをもとに謎を解いていく、宝探しのヒントの暗号が解けた時にも似た興奮だ。

 しかし、写真はどれも暗く、写りが悪い。今日の天気のせいだろう。ただでさえ憂鬱な天気なのに、気分が滅入ってしまう。いったんそのことを頭から振り払い、鳥居の下をくぐって境内へと足を進める。
 小さな境内の中には、梅の木が何本も植えられていた。ほとんどはもう緑さな境内の中には、梅の木が何本も植えられていた。ほとんどはもう緑色の葉をたたええていたが、1本だけ遅咲きの木があった、
 境内の隅に植えられたその梅の花は、ちょうど満開に近い状態だ。淡いピンクの花がここだけ咲き誇っている。季節外れの狂い咲き。まるで、今日霧谷がここへ来ることを予知し、歓迎しているようだった。

 「……写真撮るなら、やっぱり中だな。」

 先ほど覚えた違和感が、再び頭をもたげる。
 なぜ千璃ぬるは、わざわざ神社の境内の外から写真を撮ったのだろう。梅の季節なら、境内に入って梅の花をじかに撮るほうが自然ではないだろうか。
 単に気分ではなかったのか、急いでいたのか。
 それとも――神社には入れない何らかの理由があったのか。
 霧谷は境内の中央に立ち、ゆっくりとスマホを構えた。記事にする際の素材の写真を撮っておかねばならない。
 鳥居越しに梅の木々を収める角度を探し、少しずつ位置を調整する。何枚か撮影して画面を確認すると、ようやく満足のいく写真が撮れた。

 写真を確認し終えると、霧谷はふと境内の奥に鎮座する拝殿に目を向けた。

 「いちおうお参りしておくか」

 拝殿の前に立つと、ポケットから硬貨を取り出して賽銭箱に入れ、手を合わせて目を閉じる。
 ――「聴いたら死ぬ催眠」を手に入れて、それでも俺は死にたくない。

 祈り終えて目を開けると、霧谷は自分の後ろに気配を感じた。振り返ると、そこには一人の老婦人が立っていた。背筋がしゃんと伸びた、小柄なその女性は、軽い布の帽子を被り、手に籠を持っている。

 「誰かおめは」

 老婆は皴しわの顔にさらに皴を寄せ、霧谷を睨みつけている。

 「あ、すいません。お参りを……」

 「おめ、余所もんだべ。何の用じゃ」

 あからさまな敵対心に怖気づいてしまいそうになってしまう。しかし、この過疎化が進んだ村で村民と出くわすなんて、難しいかもしれない。霧谷は勇気を絞り出して老婆へ訪ねた。

 「あの、この辺りで、漢字の『六』がつく苗字の家ってご存じありませんか?」

 老婦人はしばし考え込むように目を細め。

 「おめ、六人部(むとりべ)の客か。あの家ならもう誰もいねど。みんな死んだ」

 「六人部……」

 霧谷は心の中で拳を握りしめた。やはり黒煉村にはその名前が存在していた。

 「まんず迷惑だ、死ぬ前も死んだ後も、変な人間ばっが村さば来て。あんたも、もう六人部の娘っこはおらねださげ、はよかえんなしゃい」

 「六人部の娘っこ」と老婆は言った。千璃ぬるは女性、なのだろうか。
 老婆は霧谷を無視して拝殿へお参りをしようと進んでいく。

 「あ、あの!六人部さんの家はまだ残ってますか?」

 霧谷は何とか老婆に声をかけるが、老婆は面倒そうにしっしと手を振る。

 「ば~~~~~~~かか、おめは、そごさ見えてっぺ。誰もあの家さば近づきたくもね、行政もなんもしてくれねがら、家ばずっとそさあんなだ」

 老婆が嫌そう目を細めに視線を向けた先には、黒々とした瓦屋根を持つ、一軒の家があった。

 いや、「家」というにはあまりに巨大で異様だった。高い塀に囲まれ、手入れされていない庭の木が鬱蒼と茂っている。その合間から見えるその建物は、どこか時代錯誤な風格を持ちながらも荒れ果てていた。瓦屋根はところどころ剥がれ落ち、蔦が壁を這い上がり、苔むした木材が湿気で腐りかけている。
 それでもなお、その異様な威圧感は失われていなかった。

 あれが、千璃ぬるの住んでいた家。
 六人部家。