「保津川に、何か思い入れがあるんですね」
猫神様は確認するように言うと、体の向きを変えてそこに近づいていく。
雨上がりの川はわずかに増水して、せせらぎも普段より大きく聞こえた。
周りを囲む山の木々もしっとりと濡れて、土の湿った香りが辺りに立ち込めている。
そんな景色を緋彩さんはキョロキョロと見渡してから、今度はどこか不安そうに口を開く。
「思い入れと言いますか、その……まだはっきりとはわからないのです。なんとなく、その名前に惹かれるような気がしただけで。もしかしたら、あの人との思い出とは全く関係がない可能性も……」
眉尻を下げ、自信なさげに話す緋彩さん。
きっと彼女の中では、猫神様や私を連れ回していることに申し訳なさを感じているのだろう。
すみません、と小さく呟く彼女の姿はとても弱々しい。
そこへ「緋彩さん」と、猫神様が優しく声を掛ける。
「私たちへの遠慮は要りません。今はただ、あなた自身のことに集中してください。それに、あなたの心が強く惹かれる場所には、きっと何か大切なものがあるはずです。たとえ記憶はなくても、あなたの魂がそれを覚えてるんです」
緋彩さんの心が反応する場所に、何かがある。それは間違いない。
前世から引き継がれた、彼女の想い。
その心が導く先に、大切なものが待っている。
猫神様は私たちを背に乗せたまま、川の上流に向かって進んでいく。
正式名称を桂川というこの川は、保津川を初めとして他にも複数の呼び名があった。
上桂川に大堰川、葛野川など。
場所や時代によって呼び方が変わるこの川の中でも、保津川下りが行われる場所——保津峡という美しい渓谷に囲まれた区間は保津川と呼ばれている。
「あっ。舟が見えました。あれって保津川下りですか?」
私が指を差した先に、一隻の小舟が川を下っていた。
「ええ、そのようですね。天気の悪い日は中止になることもありますが、今日は安全と判断したんでしょう」
猫神様が言って、緋彩さんは食い入るようにその舟を見下ろす。
屋根のないオープンボートで、人が二十人ほど乗っていた。船頭は三人で、それぞれ竿やオールのようなもので舟を操っている。
「緋彩さん、何か思い出せそうですか?」
私が隣から聞くと、彼女は困ったように眉根を寄せた。
「何か……とても近いところまで来ているのに、あと少し足りない気がします。もう少しで、何かに届きそうな気がするのですが……」
消え入りそうな声で彼女がそう言い終えたとき、ふと、視界の端を通り過ぎるものがあった。
釣られて目を向けると、渓谷に沿ってカラフルな列車が走っていた。
赤や黄色などの派手な色で塗装されたそれは、ちょうど紅葉の景色に溶け込むようなデザインだ。
「あれは……」
列車を見つめる緋彩さんの瞳が、大きく見開かれる。



