「あの日……私は、いたずらをしてしまったんです」
「いたずら?」
思いのほか平和な言葉の響きに、私はちょっと安心した。
というのは一瞬だけで、
「悪質ないたずらです。あれだけは、決してやってはいけなかった。私は……とても大事な文を破ってしまったんです。おそらくは国の要人から送られてきた文でした」
「文……」
国のお偉いさんから送られてきた手紙。
それがどれほど価値のあるものなのかはわからないけれど、おそらく当時はとても大事なものだったのだろう。
「猫の習性で、紙を見るとつい触ったり上に乗ったりしてしまうんです。その際に文は破れてしまって……。その惨状に最初に気づいたのは、例の女性でした。彼女は私に何か言葉をかけた後、私を屋敷の外へ追い出しました。そのとき私は、彼女が怒ったんやと思いました。それから帰る場所を失った私は、二度と彼女に会うことができなかったんです」
言いながら、猫神様はとても寂しそうに肩を落とす。
彼が会いたかった人というのは、やはりその女性のことなのだろう。
「屋敷を追い出された私は、しばらく野良としての生活を余儀なくされました。けれどそれほど日が経たないうちに、また別の貴族に拾われました。当時は貴族の間で猫を飼うことが流行ってたのかもしれません。私はそのままそこで飼われて、最後まで何不自由なく暮らすことができました。あの時代に、あれだけ贅沢な暮らしができた私は間違いなく幸せ者だったでしょう。でも……私の心にはずっと、あの女性にもう一度会いたいという気持ちがありました。いま思えば、なぜ自分から会いにいかなかったのか。彼女が怒ってるかもしれない、嫌われたかもしれないというちっぽけな不安のために、私は自分の思いにフタをしてしまってたんです。本当は、すぐにでも彼女に会いにいきたかったのに……」
自分の気持ちを蔑ろにすると、後から悔やむことになるのは自分自身。
猫神様はそれを、身を持って痛感していたのだ。
「現世で長い年月を生きた私は、やがて猫又のあやかしとして生まれ変わりました。ご存知の通り、半人前のあやかしは基本的に幽世から出ることは許されません。私はそれを律儀に守りました。もしもあのときに、私が掟を破ってでもこの現世へ来ていたら、もしかしたらあの女性にもう一度会うことができたかもしれません。けれど私はそれさえもしませんでしたから、この最後のチャンスすらもふいにしてしまったんです」
彼の後悔は、ここにもあった。
自分の気持ちに素直になって行動を起こしていれば、彼はその人と再会することができたかもしれない。
「やがて一人前の猫又となった私は、ようやく現世へやってきました。けれどその頃にはもう彼女どころか、彼女の一族の痕跡すら見つけられない状態でした。長い年月が経って、何もかもが変わってしまいました。それでもなんとか彼女の生きた証を見つけようと、私は探し続けました。そうしてやっと得られた情報に、私は愕然としました。……彼女は、あの文の一件のせいで屋敷を追われ、移り住んだ先で重い病にかかり、ひとり寂しくこの世を去ったそうです」
最後の方は、声が掠れていた。
どれほどの後悔が彼を襲ったのか、私には想像すらつかない。
「私が破ってしまったあの文……あれは、それだけ重要なものやったんです。彼女が私を屋敷から追い出したのはきっと、私が殺されてしまうのを危惧したんでしょう。彼女に命を救われた私は、そのことにすら気づかず、彼女のために最後まで何もできませんでした。彼女の優しさの上に胡座をかいて、何も知らずに天寿を全うしたんです。せめて最後に顔を見せに行っていたら、彼女の寂しさも少しは和らいだかもしれません。自分の気持ちに素直になって、彼女に会いにいけばよかった。後から悔やんでも、もうどうにもなりません。それが、私の心残りなんです」
千年経った今でも忘れることはない、猫神様の思い。
それは彼の心に暗い影を落とし、葵さんのような迷えるあやかしへの執着に繋がっていたのだ。
つ、と頬を何かが伝って、私は我に返った。
気づけば私は、一筋の涙を流していた。
完全に無意識だったので、自分でもびっくりする。
慌ててそれを手で拭っていると、猫神様はまた申し訳なさそうに私を見て言った。
「すみません。せっかく美味しいお料理を食べたところやったのに、こんな暗い話……」
「い、いえ! もともと私が質問したので」
ずっと長いあいだ、寂しい思いを抱えてきた猫神様。
彼の気持ちを思うと、私も胸の奥がギュッと苦しくなってしまった。
「桜さんは、優しい人ですから。そうやって私の心に寄り添って、一緒に泣いてくれるんですね。……でも、だからこそ私は、少し怖いんです」
「怖い?」
「桜さんは、あの人に似てるんです。相手のことばかり気遣って、自分を犠牲にする人ですから。その優しさのせいで、いつか自分の身を滅ぼしてしまうのではないかと」
猫神様がこうしていつも私を心配していたのは、きっと、その人とのことがあったからなのだ。
「あなたには、もっと自分を大事にしてほしいんです。今回のように、危険が伴うこともありますし。……いや、そもそも。私があやかしとの接点をつくってしまっているのが悪いのかもしれません。桜さんの身の安全を考えるなら、私はいっそ、あなたとはもう会わない方が……」
もう会わない方がいい。
そんな彼からの発言を受けて、私は言いようのない不安に駆られた。
彼ともう会えなくなるなんて、そんなのは絶対に嫌だ。
「そんな……そんなことないです!」
たまらず身を乗り出して私が言うと、その拍子に、私のすぐ隣に置いてあったスクールバッグに体が当たって、ぽとりと何かが落ちる音がした。
見ると、御座の上には猫のキーホルダーが落ちていた。
いつも私がバッグに付けている、白猫のキャラクターが描かれたものだ。
「そのキーホルダー、いつも付けてますよね」
すかさずキーホルダーを拾う私に、猫神様が言った。
その表情は、先ほどよりもわずかに和らいでいる。
「あ……はい。私、昔から猫が好きで。特に白猫がお気に入りで」
自分で猫を飼ったことはないけれど、なぜかずっと猫に惹かれていた。
特に白猫を目にするたび、心を鷲掴みにされる感覚があった。
「白猫ですか。……撫でてみますか?」
「え?」
私がキョトンとしているあいだに、猫神様はポンッと例の白煙をあげて、小さな猫の姿になった。
前にも何度か見たことのある、赤い模様が所々に入った白猫。
思えば私が猫神様と初めて会った日も、彼はこの姿で、あの先斗町の奥へと案内してくれたのだ。
鼻と耳がピンク色で、全身の白い毛はふわふわで……その愛らしい姿を目にした瞬間、私の心臓は愛おしさで跳ね上がる。
「先日、『アニマルセラピー』というものを知りました。人は動物との触れ合いを通じて、癒しや安心感を得る効果があるそうですね。私の体でよければ、どうぞ触れてみてください。桜さんの心も、少しは和らぐかもしれません」
言い終えるが早いか、猫神様はその可愛らしい四つの足で御座の上をトコトコと歩き、私のもとへ来てくれる。
そして、
「膝に乗っても?」
黄金色のくりっとした目でこちらを見上げて、小首を傾げる。
「はっ、はい……ぜひ!!」
願ってもない申し出である。
こんなふわふわで愛らしい生き物が、私の膝に乗ってきてくれるなんて。
私は猫神様が乗りやすいように、膝を少し崩して座った。
そこへ彼は肉球を乗せ、尻尾を体に巻き付けるようにしながら全身を乗せてくる。
小さくてあたたかい存在が、私の膝の上で丸くなっている。
私はごくりと喉を鳴らして、おそるおそる彼の白い背中へ手を伸ばす。
そっと撫でてみれば、さらさらとしたやわらかい毛の感触と、彼のあたたかな体温が指先から伝わってくる。
(ああ……。なんて幸せ)
思わず顔をとろけさせていると、猫神様は気持ちよさそうに目を細めながら、
「桜さんのにおいは、あの人に似ています。とても……なつかしい」
「え?」
猫神様はゴロゴロと喉を鳴らして、リラックスしたように体を斜めに横たえる。
私がこうして体を撫でることで、昔のことを——千年前の彼女のことを思い出しているのだろうか。
(私も……なんだか懐かしい感じがする)
今まで猫を飼ったことはないけれど、もしかしたら、私も前世では猫を飼っていたのかもしれないな、と思う。
川のせせらぎに包まれながら、心地よい初夏の夜気に、私たちはいつまでも身を委ねていた。
◯
貴船でのことがあってから、一週間が経った。
ここのところ、迷子のあやかしと遭遇する機会はめっきり減っている。
迷子がいない、というのは、それ自体は良いことなのだけれど、
(猫神様、今どうしてるかなぁ……)
暇さえあれば、私はずっと彼のことを考えていた。
街中で迷子のあやかしに遭遇すれば、私はいつも猫神様のもとへ案内していた。
その流れで、私は自然と彼に会うことができた。
けれど迷子がいなければ、私は彼に会う口実がない。
何の用もないのに、急に押し掛けたら迷惑なんじゃないかと思うと、私は彼に会う機会をなかなか見つけることができなかった。
今日も今日とて、学校の帰りに四条河原町に寄って、晩御飯の買い出しに向かう。
その道すがら、迷子のあやかしはいないかと四条通を無駄にウロウロする。
(いやいや。私ってば、なんて不謹慎なことをしてるんだろ)
できれば迷子に遭遇したい、なんて。
浅ましい考えを持ってしまったことに自己嫌悪し、頭を振る。
今日もこの街は平和だし、さっさと買い物を済ませて家に帰ろう——そう思っていると、
「残念やなぁ。猫神様、今日もおらんなんてなぁ」
不意に、そんな会話が耳に入った。
すぐさま声の聞こえた方を見ると、四条通を歩く人混みの中に、あきらかにあやかしの姿をした二人組がいた。
片方は全身緑色の肌に、背中には亀のような甲羅。
頭の上にはお皿のようなものがあるので、あれは……河童かな?
隣を歩くのは、赤い傘に一本足が生えたあやかし。
多分、から傘お化け……だよね?
二人は談笑しながら人混みを流れていく。
そんな彼らの後を、私は慌てて追いかける。
「あの、待ってください! いま猫神様のお話をしてませんでしたか!?」
「わっ。何やこの子!? 人間さんか……?」
私が急に背後から声をかけたことで、二人のあやかしは驚いていた。
そうして私をまじまじと見るなり、「人間さんに話しかけられるなんて何十年ぶりかなぁ」なんて呑気に話している。
「あの。あなたたちは、もしかして……猫神様に会いに来たんですか?」
そう改めて私が聞くと、二人は互いの顔を見合わせてから、
「うん、そうやねん。わしら昨日からこの辺りに来てて、久々に猫神様のところに顔出そうと思ててんけど、昨日も今日も留守で」
「猫神様が二日もここを離れるなんて珍しいよなぁ。お嬢ちゃんは猫神様の知り合いなんか? あの人がどこに行ったか聞いてる?」
「あ……。い、いえ……」
どうやら二人はすでに先斗町のあの場所を訪れたようで、そこに猫神様はいなかったようだ。
彼がどこに行ったのか、なぜここを離れているのかは私も知らない。
二人は残念そうにしながら、軽い挨拶の後、再び人混みの中へと消えていった。
(猫神様、どうしたんだろう……)
彼がここを離れる理由。
何か思い当たることはあっただろうかと頭を巡らせたとき、私はふと思い出す。
——桜さんの身の安全を考えるなら、私はいっそ、あなたとはもう会わない方が……。
一週間前のあの日。
貴船の川床で、猫神様はそんなことを口にしていた。
(まさか……)
嫌な予感がして、心臓がドクン、ドクンと激しく揺れる。
まさかとは思うけれど、彼は私の身を案じて、本当にもう会わないつもりなのだろうか。
彼が私と一緒にいると、あやかしとの接点をつくってしまうから。
それを避けるために、彼は私から遠ざかろうとしているのではないだろうか?
「い、いや……」
彼にもう会えないなんて、絶対に嫌だ。
「猫神様……!」
居ても立っても居られず、私はその場から駆け出した。
人混みを掻き分け、四条通をまっすぐ東へ走る。
そうして鴨川に架かる四条大橋の手前を左へ曲がり、細長い小路へ駆け込む。
町家が両脇に並ぶその古風な通りは、先斗町だ。
猫神様がいるあの場所へ続く道は、このどこかにある。
「猫神様……。猫神様!」
あの空間への入口を探して、私は小路をひた走った。
右側の、どこかの角を曲がれば、あの場所へと辿り着けるはず。
しかし、結局その角を見つけることができないまま、私は先斗町の通りを走り抜けてしまった。
肩で息をしながら、もと来た道を振り返る。
(どうして……)
入口が見つからない。
猫神様の場所へ辿り着けない。
諦めきれない私は、もう一度その場から駆け出して、今度は逆方向からあの入口を探した。
何度も何度もそれを繰り返すうちに、やがて西の空に日は落ちて、辺りには赤い提灯の光が灯り始める。
夜になり、通りには人の数も増えてくる。
私の足はとっくの昔に限界を超えていて、もはや歩くことさえままならなくなっていた。
ふらふらと覚束ない足取りで、息を切らしたまま先斗町を何度も行き来する私は、周りから見ればかなり異様だっただろう。
時折、露骨に怪訝な目を向けてくる人もいたけれど、私は気にしなかった。
猫神様に会いたい。
今はただ、その思いだけが私の足を動かしていた。
「猫神様……」
うわごとのように彼を呼びながら、私は歩き続けた。
しかし、もはや疲れ切った足はうまく持ち上がらず、私は通りの真ん中で躓いてしまった。
「あっ……」
体がバランスを崩し、地面が目の前に近づいてくる。
来る衝撃に備えて、私は咄嗟に目を固く瞑った。
しかし、
「桜さん!」
そんな声とともに、私の体を包み込んだのは、あたたかい感触だった。
ハッとして目を開けると、視界に飛び込んできたのは、美しい白。
すかさず顔を上げると、目の前にあったのは、私が求めてやまなかった彼の顔だった。
「ね……猫神様……」
白く長い髪に、黄金色の瞳。
そして頭の上にぴょこんと立つ、可愛らしい猫の耳。
彼が、そこにいた。
倒れかけた私の体を、その全身で包み込むようにして支えてくれていた。
「どないしたんですか、そんなに息を切らして。何か怖いことでもあったんですか?」
猫神様は私の体を正面から抱きとめたまま、心配そうにこちらの顔を覗き込む。
私は彼がここにいることへの驚きと、唐突にやってきた安心感とで情緒がぐちゃぐちゃになって。
鼻の奥がつんとして、勝手に溢れてくる涙を止めることができなかった。
「猫神様ぁ……っ」
人目もはばからず、私は幼子のように泣きじゃくりながら、彼の胸にしがみついた。
「わ、私……もう、猫神様と、会えないんじゃないかって、思って……」
何度も何度もしゃくり上げながら言う私に、猫神様はポンポンと優しく頭を撫でてくれる。
「すみません。しばらく留守にしてましたから、不安にさせてしまったようですね」
「そ、そうです。猫神様が……私とはもう会わない方がいいんじゃないかって、前に言ったから……」
そんな私の言葉で、彼はようやく私の心中を理解したらしい。
「心配させてすみません。でも、私はどこにも行きませんよ。この現世で、せっかくあなたと会えたんですから」
「……本当に?」
私は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、彼の黄金色の瞳を見つめる。
彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべて、優しい声で私に語りかける。
「ええ。それに、桜さんは優しい人ですから。たとえ私がいなくても、迷子のあやかしを見つけると放っておけなくなるでしょう。どうあがいても、あなたはきっと、あやかしと関わり合いになってしまう。なら、あなたの身の安全を守るためにも、やはり私はあなたと離れることはできません。やから今後も、どうぞよろしくお願いします」
そんな彼の言葉を受けて、私は心の底から安心した。
これからもずっと、彼と一緒にいられる。
(よかった……)
気が抜けた瞬間、まるで思い出したかのように、私のお腹は「ぐうぅー……」と卑しい声で鳴いた。
あきらかに猫神様の耳にも届く爆音だったので、私は思わず顔を真っ赤にさせる。
「ふふ。お腹、空きましたよね。よかったらお夕食も召し上がってってください。心配をかけてしまったお礼です」
猫神様はそう言って、ようやく私の体を解放した。
離れていく温もりに、私は少しだけ名残惜しさを感じてしまう。
猫神様が案内する先には、例の場所への入口があった。
先斗町の途中にある曲がり角。
いつのまに出現したんだろうと、私は不思議な気持ちになる。
「そういえば、留守のあいだはどこに行ってたんですか?」
私が聞くと、彼は少しだけ何かを考える素振りをしてから、
「幽世の方で、ちょっと調べ物をしてました」
「調べ物、ですか?」
「ええ。……結果的に、とても良いことを知りました。貴船さんのおみくじの言う通りでしたね」
貴船さんのおみくじ、と聞いて、私は一週間前にやった『水占みくじ』のことを思い出す。
そういえばあの日は、私も猫神様も大吉を引いたのだ。
「そうだったんですね。それで、その『とても良いこと』って何だったんですか?」
「今はまだ、内緒です」
「ええ?」
珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべる彼に、私は呆気に取られる。
彼が内緒にすることって、一体何だろう?
「いずれ、お話しする機会もあるかもしれません。やから、それまで待っといてください」
そう言って私を見つめる猫神様の顔は、どこか憑き物が落ちたように晴れやかな笑みを浮かべていた。
きっと、それほど彼にとって素敵なことだったのだろう。
いつか話してくれるといいな、と私も思う。
やがて私たちの足は、例の狭間の空間まで辿り着いた。
猫神様が入口の引き戸を開けると、中からはすでに美味しそうな匂いがして、私はまた幸せな気持ちに包まれるのだった。
「なぁなぁ。今度の宵山、一緒に行かん?」
「ええよー。浴衣で行く?」
放課後。
二年一組の教室では、あちこちから友達同士で盛り上がる声が聞こえてくる。
私はそれらに聞こえないフリをして、スクールバッグを肩にかけて早々に廊下を目指す。
「あっ。ねえ、待って。天沢さん!」
時折こうして、ひとり寂しそうにしている私に声をかけてくれるクラスメイトがいる。
手入れのされたセミロングの髪を揺らしてこちらにやってきたのは、クラスのムードメーカーである柚葉さんだ。
「天沢さん。よかったら今度の宵山、天沢さんも一緒に行かへん?」
教室の出口付近で私を捕まえた柚葉さんは、にっこり笑ってそう提案してくる。
宵山というのは、この京都で行われる祇園祭のメインイベント・山鉾巡行の前夜祭のようなものだ。
四条烏丸の辺りは歩行者天国になり、屋台もたくさん並ぶので、多くの人々で賑わうお祭りである。
誘ってくれるのはすごくありがたいし、もちろん行ってみたいなって気持ちもある。
けれど私は、どうしても人と関わることに不安を感じてしまう。
「ありがとう。でもごめんね。その日はちょっと用事があって……」
せっかくの友達を作るチャンスだけれど、やっぱり私は、彼女たちとうまくやっていける自信がない。
たとえ一時的に仲良くなれたとしても、いつか何かの拍子に嫌われてしまうんじゃないかと思うと、その一歩を踏み出す勇気が出ない。
だからごめんね、とはぐらかす私に、柚葉さんは探るような目でこちらを見つめて、
「もしかして天沢さん、当日は彼氏と一緒に行くん?」
「…………へっ?」
思わぬ質問が飛んできて、私は目を点にした。
(か、彼氏……?)
一体何を言い出すのかと呆気に取られる私に、柚葉さんはどこか熱のこもった様子で問い詰めてくる。
「天沢さん、すんごいイケメンの彼氏がおるやろ? 年上で、背が高くて、いつも着物を着てて」
そこまで言われたとき、私はもしやと思った。
年上で背が高くて着物を着たイケメン。
もしかしなくても、それは間違いなく猫神様のことだろう。
あやかしである彼の姿は、周りには見えていないはずだけれど、人間の姿のときは、柚葉さんの目にも見えるはずだ。
これまで私は何度も猫神様と一緒に行動してきた。
そして場合によっては彼が人間の姿になることもあったので、きっとその瞬間を彼女に見られたのだろう。
「あー……。えっとね、その人とは別にお付き合いしてるとかじゃなくて」
「えっ、そうなん? じゃあお兄さんとか? それともただの知り合い?」
「うん。知り合いのお兄さん。色々とお世話になってて」
とりあえず誤解は解いたものの、これ以上深掘りされてはたまらない。
早くこの場を逃げ出したいと焦る私に、柚葉さんはぐいぐい質問を重ねてくる。
「あんなイケメンとどこで知り合ったん? 彼女とかおるん? あたしに紹介してって言うたら紹介してくれる?」
ものすごい食いつきだった。
もしかすると、お祭りのお誘いはただの会話のきっかけで、本題はこちらだったのかもしれない。
「ご、ごめんね。私ちょっと急いでるから、もう行くね!」
これ以上詮索されてはたまらない。
私は冷や汗をかきながら苦笑いして、そそくさとその場を逃げ出した。
◯
校舎を出ると、灼熱の太陽が肌をじりじりと焦がす。
七月の中旬。
長かった梅雨ももうじき明ける予定で、今日は一足お先に快晴が広がっている。
バスに乗って、いつものように四条河原町で途中下車する。
今晩の食材の買い出しと、それからちょっとだけショッピングを……と思ったけれど、今は祇園祭の真っ只中で、四条通は普段以上に人で溢れていた。
祇園祭は八坂神社の祭礼で、毎年七月一日から一ヶ月に渡って神事などが行われる。
そのあいだ、この京都の街中はお祭り一色で、人の数もとんでもないことになる。
(さすがに人が多いし、今日は食材だけ買ったらさっさと帰ろう)
祇園囃子が響く中、人混みに流されながらアーケードを抜け、四条大橋を渡る。
欄干の外へ目をやると、橋の下に見える鴨川の河川敷では多くの若者が腰を下ろして談笑していた。
中には制服を着た高校生らしき姿もあって、友達同士で楽しそうにしている姿が眩しい。
(私も、もし柚葉さんの誘いに乗っていたらあんな風に……)
先ほどの、柚葉さんとの会話を思い出す。
一緒に宵山へ行かないか、と彼女は誘ってくれた。
今回だけじゃなく、彼女は今までにも何度も私に声をかけてくれている。
猫神様の存在も気になっていたようだけれど、それを抜きにしても、クラスのムードメーカーである彼女はいつも私のことを気にかけてくれている。
もしも私が素直に「一緒に行きたい」と言えていたら、今ごろは私も、あの河川敷で楽しく談笑していたのだろうか。
(なんて、無いものねだりをしても仕方ないよね)
結局勇気を出せなかった私は、今もこうして一人で歩いている。
すべては自分が招いている事態で、自業自得だ。
余計なことは考えずに早く買い物を済ませよう、と視線を前に向けたとき、
(あれ?)
橋の途中、欄干の上に、一体のお人形が置いてあった。
市松人形だろうか?
全長三十センチくらいの、黄色い着物を着た、可愛らしい女の子のお人形。
それは欄干の上に腰掛けるようにして、橋の内側を向いている。
(誰かの忘れ物、かな?)
人の波に流されながら、やがて手が届く場所までやってくると、その人形の様子に私は違和感を覚えた。
市松人形だと思っていたそれは、「くあ……」と口を開けてあくびをしたのだ。
ご丁寧に右手を口元に添えて、いかにも女の子っぽい仕草で。
「えっ」
思わず、そんな声を漏らしてしまった。
直後、お人形(?)の女の子はこちらへ顔を向ける。
目が合った——ような気がした。
というのも、女の子の瞳は閉じられたままだったのだ。
目を閉じたまま、彼女は私の方へ顔を向けている。
人形が動いた? と思って最初はびっくりしたけれど、よくよく見てみると、肌の質感は人間のそれだった。
サイズこそ小さいけれど、この子はちゃんと生きているらしい。
もしかしたら彼女は、お人形っぽい見た目をしたあやかしなのかもしれない。
「あなた、あやかし……なの?」
私は人混みに流されないよう、欄干に体を寄せて女の子の目の前に立つ。
「うん? あやかし……? よく、わかんない」
女の子は小首をかしげながら、舌足らずな声で言った。
見た目通り、中身も幼いのかもしれない。
まるで幼稚園児を相手にしているような感じがして、私の胸のどこかでは母性本能らしきものが首をもたげる。
「もしかして、迷子になってたりする?」
「うーん……」
女の子は瞳を閉じたまま、ふわふわと頭を悩ませている。
こんなにも幼い雰囲気のあやかしは、今まで見たことがない。
これまで出会ってきた半人前のあやかしたちは皆、もう少し会話の成り立つ精神年齢だった。
半人前よりもさらに幼いあやかしが、四条通の真ん中でひとりぼっちになっている。
これはきっと一大事だ、と思う。
「ねえ。よかったら一緒に、猫神様のところに行ってみる?」
「ねこがみさま……?」
彼ならきっと何とかしてくれる。
この現世へ迷い込んだあやかしを、彼は助けてくれるはずだ。
「ほら。一緒に行こ? 怖くないから」
私がそう言って両手を差し出してみると、彼女もまた同じように両手を伸ばして、抱っこをねだる体勢になる。
(わ、なんだかかわいい……)
彼女の小さな体を、私は胸に抱きかかえる。
そうして猫神様の待つ先斗町の方へと、祇園囃子の響く中を進んでいった。
◯
四条大橋の袂を北へ曲がると、すぐに先斗町の入口がある。
その先は車の通れない小路がまっすぐに伸び、左右には日本情緒あふれる町家が並んでいる。
(今日は、すんなりと入口が見つかるといいな)
私はあやかしの女の子を腕に抱いたまま、通りをまっすぐ進んでいく。
この右側のどこかを曲がれば、猫神様のいる場所まで辿り着ける。
けれど、運が悪ければいつまで経っても入口を見つけられないこともある。
どうか早く見つかりますように、と願っていると、私の腕の中で「あっ」と女の子が声を上げた。
「ねこ」
彼女はそう言って、右手の人差し指を道の先へ向ける。
「猫?」
私も釣られてそちらを見ると、彼女が指し示す先には、いつのまにか一匹の猫が佇んでいた。
小路の奥、道の真ん中で、ちょこんと座ってこちらを見つめ返す白猫。
鼻と耳がピンク色で、体の所々に赤い線のような模様が入っている。
その愛らしい姿を目にした瞬間、私は安堵するとともに嬉しさが込み上げてきた。
「猫神様!」
間違いない。
あの白猫は猫神様だ。
どうやら今日は彼の方からこちらに気づいて出迎えてくれたらしい。
彼は「なぁーん」と猫の声で挨拶すると、すぐに体を翻して右側の路地へと入っていく。
私もその後を追って、同じように路地へ飛び込む。
暗くて細長いそこをまっすぐ進み、やがて突き当たりまでやってくると、
「いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
左側にある扉の手前には、すでに白い青年の姿になった猫神様が待っていた。
彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべて、私たちを歓迎してくれる。
「こんにちは、猫神様。あの……この子が、たぶん迷子になっていたので、連れて来ちゃいました」
「ええ。その子は確かに、迷子のあやかしですね。ここまで案内してくださってありがとうございます。どうぞ中へ。もうじきお夕食の支度もできますから」
彼に招かれて中に入ると、そこはまるで老舗旅館のような佇まい。
広い土間と上り框の向こうには、お客を迎えるためのスリッパが揃えてある。
淡い暖色の絨毯が敷かれたロビーを抜け、奥の座敷へ案内された私たちは、用意されていた座布団にそれぞれ腰を下ろした。
「さて。そちらのお嬢さんは……座敷童子のあやかしですね?」
大きな座布団の上にちょこんと座った彼女を見て、猫神様は言った。
「えっ。この子、座敷童子だったんですか」
てっきりお人形さんのあやかしだと思っていたけれど、そうか、座敷童子。
言われてみれば確かに子どもの見た目をしている。
ちょっと体が小さすぎるような気もするけれど。
「ここまで幼いあやかしが現世に来るのは珍しいですね。うっかり迷い込んでしまったわけやないでしょうし、よほど急ぎの用事があったんでしょうか」
座敷童子を見ながら、猫神様はうーんと唸っている。
「あの、もしかして。この子の体が小さいのって、それだけまだ幼いから……ってことなんですか?」
「ええ。座敷童子は一人前になっても見た目は子どものままですが、さすがに人間のサイズくらいにはなりますから」
やっぱりそうなんだ、と私は納得する。
このサイズはさすがに可愛すぎると思う。
そうこうしているうちに、猫神様は再びその場に立ち上がった。
「すみません。先にお夕食の支度を済ませてきますね。難しい話は、お腹がいっぱいになってからにしましょう」
そんな彼の言葉を受けて、私のお腹はまた卑しくも「ぐぅ」と鳴る。
台所の方からはすでに美味しそうな匂いがしていて、今日の献立は何だろう、と期待せずにはいられなかった。
◯
ナスの挽き肉はさみ揚げに、脂の乗ったカンパチのお造り。
大根とスルメイカの煮物と、冷たいお出汁に浸かった丸ごとトマト。
それからミョウガときゅうりの酢の物。
旬の食材をふんだんに使った猫神様の手料理が食卓に並び、私は今日も目を輝かせた。
ふわりと香る美味しそうな匂いに当てられて、思わず涎が出そうだ。
「さあ、いただきましょうか」
猫神様が言って、私たちは一斉に手を合わせる。
座敷童子の女の子にはテーブルが高すぎるので、彼女の前にはミニチュアのお膳台が用意された。
お料理も食べやすいように細かくして、プラスチック製の小さいスプーンも添えてある。
「いただきます!」
私がまず箸を伸ばしたのは、スルメイカと大根の煮物だった。
輪切りにされたスルメイカと、やわらかく煮込んだ大根を一緒に口に入れると、それぞれの素材の味がじわりと染み出てきて、噛むたびに旨味が増していくようだ。
「お、おいしい……」
やはりおいしい。
思わず顔がとろけてしまうのはいつものことだった。
「ふふ。お口に合って何よりです。座敷童子さんも」
そう言った猫神様の視線の先では、座敷童子の彼女が小さなスプーンで一生懸命にお料理を口に運んでいた。
食べるペースを見ていると、よっぽどお腹が空いていたらしい。
「このお嬢さんは、まだ目も開いてない状態なんですね。わざわざこの現世に来たいうことは、人間の生まれ変わりである可能性が高いですが……。おそらくこの世界で亡くなってから、まだ十年ほどしか経ってないんでしょうね」
「十年、ですか」
私にとっての十年はとても長いものだけれど、猫神様たちのようなあやかしにとっては、十年という時間はあっという間なのかもしれない。
この現世で十年ほど前に命を落とし、座敷童子のあやかしとして生まれ変わった女の子。
そんな彼女は、一体どんな心残りがあってこちらの世界へ迷い込んだのだろうか。
「そういえば、まだお名前を聞いてませんでしたね。座敷童子さん。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
猫神様がそう尋ねると、彼女は小さなスプーンを持った手を止め、ぼんやりと顔を上げる。
「なまえ……?」
ほわほわとした声で彼女が言って、不思議そうに首を傾げる。
「あなたのお名前、わかる?」
私も隣から尋ねてみる。
けれど彼女はしばらく考えた後、ふるふると首を横に振った。
「わかりませんか。……しかし、呼び名がないと少し不便かもしれませんね。しばらくの間だけ、仮のお名前を用意した方がいいかもしれません」
猫神様の言う通り、呼び名がないと何かと不便だ。
代わりの名前を用意するとしたら……何がいいかな?
「桜さん。よければ、このお嬢さんの仮のお名前を選んでくれませんか?」
「えっ。私がですか?」
「女性同士ですし、その方が可愛いお名前を決められるかと」
そう言われても、名付けのセンスなんて私にはないし、そもそも今まで誰かに名前をつけた経験もない。
自分で動物を飼ったこともないし、もちろん自分に子どもができたこともないし——と、そこまで考えたとき、
(子ども……か)
親が子に名前をつけるときは、どんなことを考えながらつけるのだろうかと、ふと思った。
(私の名前は桜だけれど、これはきっと、お花や春のイメージだよね)
桜の花のイメージは、私も好きだ。
長い冬が終わって、少しずつ暖かくなってくる春のイメージも。
草花が芽吹いて、動物たちも恋をする季節になって。
そこに、あの桃色の可愛らしい花びらが儚げに咲き誇る。
私の親もきっと、そういう春のイメージを持って、私にこの名前をつけたのだろう。
そう思うと、自分の名前がとても誇らしくて、大事な思いがここに込められているような気がしてくる。
私の隣に、ちょこんと座っている座敷童子の女の子。
この子にも、そんな名前をつけてあげたい。
たとえ短い間でも、彼女が気に入ってくれるような名前を。
(この子に似合う、可愛い名前……)
彼女は黄色い着物を着ている。
もしかしたら黄色が好きなのかもしれない。
そのイメージに合う華やかな名前、といえば、
「……向日葵ちゃん。は、どうですか?」
夏の太陽の下で、生き生きと咲き誇る黄色い花。
私が提案すると、猫神様は「良いかもしれませんね」と笑顔で同意する。
「ひまわり!」
と、当の彼女も嬉しそうに私を見て、その名前を呼んだ。
相変わらず瞳は閉じたままだったけれど、その小さな口元にはにっこりと笑みが浮かんでいる。
「決まりですね」
猫神様が言って、私はほっと一息つく。
かくして座敷童子の彼女は、向日葵ちゃん(仮)となった。
◯
食事を終えてお腹がいっぱいになると、向日葵ちゃんはそのまま座布団の上で眠ってしまった。
「おやおや。風邪をひきますよ」
猫神様は彼女の小さな体をそっと抱き上げると、起こさないようにどこかの部屋へと連れていった。
以前も茶々丸くんがここに泊まっていたことを考えると、客室として使っている部屋があるのかもしれない。
それから五分と経たないうちに、彼は一人で戻ってきた。
座卓を挟んで、彼は私の正面に腰を下ろす。
「よう眠ってますね。きっと疲れてたんでしょう」
「そうですか。今は祇園祭の時期ですし、人も多くて大変だったんでしょうね」
あの四条大橋で私と出会うまでに、彼女はどれほど彷徨っていたのだろうか。
あんな小さな体で、彼女は一体どこへ向かおうとしていたのか。
「向日葵さんがなぜこの現世へ来たのか、理由が知りたいところですが……あの様子やと、本人も忘れてしまってそうですね。きっと具体的なことは思い出せないまま、胸に残った感情に引っ張られてここまで来たんでしょう」
「記憶がない……。そういう場合って、猫神様はいつもどうしてるんですか? 本人が自分の目的を思い出すまで気長に待つんですか?」
「いや。今回は初めてのケースですから、どうしたものか……。彼女ほど幼いあやかしをこちらの世界で見かけたのは初めてですし、本人が目的を思い出せないというのも今までにありませんでした。先日の葵さんのように、あえて目的を隠して行動しようとするあやかしは居ましたけど」
どうやら今回は本当に稀なケースのようで、猫神様も悩んでいる。
「幽世の方で色々と調べてみれば、あるいはヒントを見つけられるかもしれませんが……あんまり嗅ぎ回ると、上の方々に目をつけられてしまいますから。情報収集は、この現世での方が安全かもしれません」
十年ほど前にこの世を去った人間の情報を、この現世で探す。
なんだか途方もないことのような気もするけれど、今はその方法しかない。
「わかりました。私も、できる限り自分で調べられそうなものを探してみます。その、学校の授業が終わってからになっちゃいますけど」
明日も平日で、授業は普通にあるので、動けるとしたらそれ以降の時間帯だ。
「もちろん、無理のない範囲でよろしくお願いします。いつも私たちを助けてくださって、本当にありがとうございます」
猫神様はそう言って、白く美しい顔を綻ばせる。
そんな嬉しそうな顔をされたら、それだけで私の心は満たされてしまう。
今日はもう遅いので、とりあえず明日から動き始めようということになった。
向日葵ちゃんの反応を窺いながら、彼女の過去の断片を探していく。
おそらくはこの世に未練を残した、彼女の思い。
それがどうか晴れますようにと、私は心の底から願ってやまなかった。