きゅんとした。
そんな言葉、使う日が来るなんて思ってもみなかった。
だけど、その言葉が1番妥当。
いわゆる一目惚れだった。
「へぇ、あの杏胡が一目惚れねぇ」
嵐はしみじみと呟いてカフェラテを1口飲んだ。
杏胡は自信満々にその整った顔に笑みを浮かべた。
天女のようだと嵐は思う。
杏胡はもちろん、自分の可愛さに気づいている。
「なんとしてでも私の虜にしたいの」
「そーゆーナルシなとこ嫌いじゃない」
誰にも靡かない天使、というレッテルを貼られた美少女の杏胡が一目惚れなんて、学校中の大ニュースだ。
「で、誰なの。相手は」
「花柳 柚」
「は、」
ハナヤナギユズ。
嵐はその姿を思い浮かべて頭を抱えた。
(学年トップクラスでモテるイケメンの渋谷くんかと思ったらあのガリ勉かぁ、)
学年1位という成績を入学以来誰にも譲らず、
休み時間はずっと教科書と睨めっこ。
眼鏡をかけていて前髪が長く、顔は見えない。
それが花柳 柚というクラスメイトだった。
「はーい!花柳くんを図書委員に指名しまーす」
クラスのムードメーカーの発言で、クラスメイトの目が一気に柚に向いた。クスクスと笑っている声もする。
「花柳くんて本好きでしょ?」
「いいか?花柳」
「はい」
「じゃああともう1人。誰かいないか」
先生の呼び掛けにクラスメイトは目を逸らして誰もが目線を下げた。挙手する人もいない。
放課後に残らないといけなくて、実は体力も使う。
しかもガリ勉で真面目な柚と2人きりとなると誰も立候補しないだろう。
(これは、絶好のチャンスなのでは?)
「はい」
杏胡は真っ直ぐと綺麗に挙手した。
そして微笑む。
「誰もいないなら私が入ります。いいですか?先生」
クラスメイトがざわつく。
「八積、ほんとにいいのか?」
先生は面食らった顔をしたが、頷いた。
杏胡は満足して、柚に向かって微笑んだ。
柚はただ無表情に会釈を返しただけだった。
杏胡の心はもやもやする。
(なんで効かないの)
周りの男子はこの天使の微笑みに撃ち抜かれてきたのに。
なんで、あの花柳 柚という男は撃ち抜かれないの。
なんで、平気なの。
「花柳くん、よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
(だんまりかぁ)
杏胡もため息をつきたくなるが、そうもいかない。
頬を叩いて立ち上り、本の山を眺める。
体力が大量に消費されるといわれても無理は無い量だ。
杏胡は自分の頬を叩く。
「花柳くん、やりましょう」
「そうだね」
柚はそういって眼鏡を外して、前髪を輪ゴムで結んだ。
切れ長の瞳に綺麗な高い鼻。色素が薄く透き通って見える瞳がとんでもなく綺麗だ。
「八積さん、どうかした?」
「あ、いいえ。すごく綺麗な顔をしてらっしゃるなと思って」
「ありがとう」
「どうしていつもその格好を?」
「眼鏡は勉強する時だけ。前髪は切るのめんどくさくて」
柚はイメージと違い、やんちゃそうに口角を上げた。
しかも、思ったより喋る。
てっきり人と話すのが苦手だと思っていたが、コミュ力は学年の王子・渋谷 千秋に勝る。
杏胡の心臓は大きく跳ねた。
これがまさしく恋というやつなのだろう。
「やっと終わりましたね」
「だね。思ったより多かった」
「帰りましょうか」
柚は小さく頷いて前髪を下ろし、眼鏡をかけた。
いつもの花柳 柚の出来上がりだ。この変貌ぶりに、なんだか見ちゃいけないものを見てしまったような気持ちになる。
だけど、これを見たのは自分だけだと思うと頬が緩む。
(今まで落とす側だった私が恋に落ちてるなんて)
窓に映る自分の天使すぎる顔を見てため息をつく。
「途中まで送るよ」
「大丈夫ですよ、近いので」
やんわり断ると、柚は眉を下げた。
「じゃあ駅までは一緒に」
「ありがとうございます」
そこまで言われたら杏胡だって断れない。
柚は歩くペースを杏胡に合わせてくれた。
女の子に慣れていそうな感じだ。意外とモテるのだろうか。
(いや、歩道側を歩いてる感じモテる訳ではなさそう)
ふいに隣から香る柑橘系の匂いに心臓がバクバクする。
少ししか会話をしていないのに、気がつけば駅だった。
「じゃあここで。送っていただきありがとうございました」
杏胡は多くの男子を虜にしてきた自信の笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。
(やっぱり、なんにも響いてないわあの人)
赤面すらしない顔にため息をつきたくなった。
「嵐、花柳柚やばいわ」
お風呂上がり。髪を乾かしながら、嵐に報告の電話をかける。
『なにがよ』
「私の天使の笑みにドキリともしてないみたい。
嵐、私の何がダメ?」
『いや、杏胡は天女並の可愛さよ。欠点なんてない』
「だよねそれはしってるんだけど。けど響かないのよあいつ」
『私もう寝たいんだけど。切っていい?』
杏胡は小さく舌打ちして電話を切ってベッドに投げた。乱暴に髪を掻き上げた。
もう寝よう。肌に悪い。
「わ、花柳くん。なにやってるんですか」
あまりの驚きに手に持っていたホースを落としそうになった。
花の水をやりに中庭に出ると、柚が座り込んでいた。
登校してくる生徒もいないような朝早くに。
「あ、八積さん。おはよう」
柚はひらりと手を振った。
「おはようございます」
「なにしてるかだっけ。ほらこれ」
柚は手に持っているモノをこちらに見せた。
「猫、ですか」
「あたりー。どっかから入ってきたみたいでさあ。最近面倒見てるの」
「はぁ、」
「で、名前付けてあげようと思って」
茶色の子猫は杏胡を見てにゃーと可愛らしく鳴いた。
すると柚がこちらを見て、目を細めた。
「アンズなんてどうかな」
「アンズですか。いいと思います」
「八積さんの下の名前の漢字ってこれでしょ?」
柚は地面に〝杏〟と書いた。杏胡の心臓はまたバクバクと暴れだした。いつか心停止でも起こしてしまうのではないか。本気で心配になる。
「八積さんの名前綺麗だなって思ってたから。おかげで思いついちゃった。ありがとね」
柚はにっこり笑って猫を地面に置くと校舎の方に帰って行った。
猫は━━アンズは杏胡を見てまたにゃーと鳴いた。
最近、授業に集中できない。
容姿端麗、性格良し、成績優秀な八積 杏胡で居ないといけないのに。
杏胡はそっと斜め前の席に目を向ける。
少しだけ目が合わないかななんて思ったりして。
(あっ)
柚がプリントを後ろに回すために振り向く。
ちらりと一瞬だけこっちを向いて微笑むように目を細めた。
杏胡の体温がぐっと上がる。
「八積さん?」
「あ、ありがとうございます」
パッと目を逸らし、前から回ってきたプリントを受け取って、折りたたむ。
(私が撃ち抜かれてるじゃないの)
「図書委員は帰りに学級文庫を整理してから帰るように」
「八積さん可哀想だよ先生」
渋谷が口を尖らせた。杏胡は渋谷に笑いかけて
「大丈夫ですよ」と呟いた。
渋谷は周りの女子に「渋谷くん優しい」なんて言われて口元を緩めている。実にちょろい男だ。
むしろ、先生ありがとう。
本を並べる柚を横目に杏胡の頬が緩む。
「せっかく短縮授業なのにね」
柚は残念そうに息を吐く。
「そうですね」
(こっちとしてはありがたいが)
杏胡はほんのり微笑んだ。
廊下で足音が近づいてきてさっと仕事に戻る。
「八積さんてさー、控えめだけど実は渋谷くんとか狙ってそうだよね」
「それな!男たらしというかさー」
(聞こえてますけど)
廊下から聞こえる陰口に頭が痛くなる。
顔が良すぎて妬みを言いたくなる気持ちは分かるが、
もう少し影で言ってくれないだろうか。
「なんかあたし好きになれない」
「彼氏とか取られたら焦るわー」
(あなたの彼氏とか興味ないし)
そのとき、すっと声が小さくなった。
耳が塞がれていると気づくまで数秒だった。
「花柳くん?」
花瓶に映る彼の目は鋭い。睨んでるみたいだ。
近くにあった花瓶に映る杏胡の頬はほんのり桜色に染っている。
杏胡は少しだけ嫌味を言ってきた女子に感謝した。
「あんなの気にしなくていいよ。八積さんは素敵な人だからね」
柚は、杏胡の耳からパッと手を離すと安心させるように目を細めて笑った。
(知ってるよそんなの)
嵐にだったらそう返すだろうが、ぐっと飲み込んだ。
「そういえばアンズね、うちで飼うことにしたよ」
帰り道、柚は遠くを見て猫の話をした。
数日前、にゃーと鳴いていた茶色の子猫を思い出す。
「この前の猫ちゃんですね。元気ですか?」
「すごい元気だよ。いっぱい引っ掻かれてる」
柚は心から幸せそうに笑う。
胸がきゅーと痛くなる。やっぱり、重症みたいだ。
「今度遊びに来る?アンズ見においでよ」
「はい。ぜひ」
杏胡は、その〝今度〟が来ることを願った。
恋というものは、こんなにも心臓を暴れをさせるものなのだろうか。
恋というものは、こんなにも相手に想いを伝えたくなるものなのだろうか。
すぐ側から香ってくる柑橘系の爽やかな香りに心臓がうるさい。
駅のホーム。午後五時三十二分。
次の電車が来る3分前。
「花柳くん」
「んー?」
上目遣いにこちらを見る透き通った瞳が杏胡を映す。
少しだけ深呼吸をする。
「私、花柳くんが好きです」

