にえのあしおとに関する伝承 (出典:地方伝承調査報告書「中四国沿岸部における災害と怪異の伝承」より)

ついに、白石は、篠宮悠生の家に足を運んだ。

白石の足取りは慎重でありながらも確かなもので、胸の内には計り知れない期待と疑念が渦巻いていた。

篠宮家は、東京の郊外の静かな住宅街にひっそりと建っていた。

古びた家屋の扉を叩くと、すぐに中から穏やかな声が返ってきた。

「どうぞ、お入りください。」

応接間に通されると、そこには篠宮悠生の両親が待っていた。彼らは温かく白石を迎え入れ、すぐにお茶を出してくれた。

「九条さんのことを、少しお話しさせていただけますか?」

と白石が静かに切り出すと、篠宮夫妻はお互いに視線を交わし、ゆっくりと頷いた。

白石の問いかけに、彼らの顔にはわずかな緊張が走るものの、決してその視線から不安を感じさせることはなかった。

「九条さんは、私たちの家にとっても特別な存在です。」

篠宮の母親が語り始めた。

彼女の声は静かで、どこかしら神聖な雰囲気を纏っている。

「彼は、悠生の最も親しい友人でした。彼と悠生は、いつも一緒にいました。それが、あんなことが起きるまでは…」

彼女は一瞬目を伏せ、言葉を詰まらせるが、すぐに顔を上げて微笑んだ。

「私たちは、九条さんを心から尊敬しています。」

篠宮の父親が続けた。

「彼がどれほど才能に恵まれ、どれほど多くの人々に影響を与えたか、私たちも良く知っています。

九条さんが創り出す彫刻は、ただのアートではありません。それは魂の叫びです。」

その言葉は、まるで信仰のように響いた。

「それに、彼がどんな過去を背負っているかを知っている人間は、少ないのではないでしょうか。」

母親は軽くため息をつくと、続けた。

「私たち家族は、九条さんをずっと応援してきました。悠生が亡くなった時も、彼は一番辛かったはずです。

でも、彼はそれを表に出すことなく、黙々と自分の世界に入り、彫刻を作り続けました。私たちにとって、九条さんは本当に大切な存在です。」

その声には、まるで神聖視しているかのような崇拝が感じられた。

白石は、彼らの言葉に耳を傾けながら、どこかで違和感を覚えた。

篠宮家があまりにも九条を崇拝し、無条件で支持していることが、逆に不自然に感じられた。

しかし、彼はその疑念を表に出すことなく、穏やかな表情を崩さずに話を続けた。

「それでは、悠生さんが亡くなった後、九条さんはどのようにその経験を作品に反映させたのでしょうか?」

と、白石は慎重に質問を投げかけた。

篠宮夫妻はその質問を受けると、少しだけ表情を硬くした。

父親が口を開く。

「九条さんの作品は、私たちにとってはどれも大切なものです。特に、『亡き友』は…それは、悠生との思い出を形にしたものです。

彼がどれほど深い悲しみの中でそれを作り上げたか、私たちは知っています。ですが、それが外に出ることはありませんでした。それには理由があるのです。」

「理由ですか?」

白石は興味深げに訊ねる。

「それは、あまりにも個人的すぎるものだからです。」

母親が続ける。

「悠生の死を彫刻という形で表現したことが、九条さんにとってどれほど大きな意味を持っていたか、私たちは分かります。

しかし、それを公にすることは、彼の心の中の最も大切な部分を他人に見せることになる」

その言葉には、篠宮家がどれだけ九条を守ろうとしているのかが滲み出ていた。白石はそれを理解しつつも、彼の中に湧き上がる疑念を抑えることができなかった。

「九条さんがどんな心境でその作品を作ったのか、そしてその作品がどんな影響を与えたのかを、私たちは理解しています。

けれども、それを何も知らない他人に語られることは、九条さんにとっては本当に辛いことなのです。」

父親は静かに言った。

白石はその言葉に圧倒されながらも、さらに一歩踏み込んで尋ねた。

「九条さんが過去に何かを隠しているとしたら、それは何なのでしょうか?」

篠宮夫妻は、一瞬顔を見合わせ、無言のうちにその言葉を受け止めていた。

「そんなことを知ってどうするんですか?」

父親が低い声で問いかけた。その言葉には、まるで白石の意図を測ろうとする冷徹な目線があった。

「九条さんの失脚を狙っているとでも?」

その疑念が、白石の胸に突き刺さる。篠宮夫妻の言葉に、静かな威圧感が含まれていた。

父親の目が鋭く光り、母親もまた、薄く唇を引き結んで白石を見つめていた。

明らかに、彼らの意図は一線を越えられないところに来ている。それはまるで、彼ら自身が九条を守るために全てを懸けているかのようだった。

白石は一瞬言葉を失ったが、すぐにその不安を振り払い、冷静に答えた。

「私はただ、九条さんの作品に対する理解を深めたいだけです。彼がどのような背景を持ち、どんな想いで彫刻を作り続けているのか、ただそれを知りたかったんです。」

「それが理解ですか?」

母親が冷ややかな目で白石を見つめた。

「理解というものは、ただの好奇心で知るものではありません。あなたが知ろうとしているその背景には、他人の痛みがあるのです。

九条さんにとって、悠生の死は、それ以上でもそれ以下でもない。あなたがそんなことを掘り下げることは、彼を傷つけるだけです。」

その言葉には、まるで警告のような響きがあった。白石は心の中でひと呼吸おいたが、言葉を続けた。

「私は、九条さんがどれだけ心の奥底に深い傷を持っているのか、どんなに孤独だったのかを理解したいんです。それが、私の仕事です。」

篠宮夫妻はお互いに視線を交わし、その目には、白石に対する警戒心とともに、どこか悲しみが浮かんでいるようにも見えた。

しかし、決してその表情を崩すことなく、彼らは静かに黙り込んだ。

「理解するのは簡単なことではない。」

父親はついに口を開き、その声には重さがあった。

「九条さんが背負っているもの、そして彼が抱えている痛み。

あなたがそれを理解したいのであれば、それはあなたの覚悟と責任で行動することになる。私たちが望むのは、彼の傷が外に漏れることではない。」

母親も静かに続けた。

「彼を追い詰めるようなことをするつもりなら、私たちはもう、あなたと話すことはない。」

その言葉は、単なる警告ではなく、彼らの決して崩さない信念のように響いた。

白石はその言葉を胸に受け止めながらも、心の中で決意を固めていた。

彼の中で、九条の過去がますます謎めいたものとして迫り、答えを知るためにはどんな代償を払わなければならないのか、その覚悟が生まれていた。

「分かりました。」

白石は静かに答えると、立ち上がり、篠宮夫妻に一礼した。その目には、決して引き下がらない意志が宿っていた。

九条は、黙々と新しい彫刻に取り組んでいた。静かなアトリエの中、彼の手元で細やかな作業が続く。

目の前には美しい女性の像が姿を現し始めていた。曲線が柔らかく、輪郭は優雅で、彫り進められた表情には静かな気品が宿っていた。

まるでその像が、呼吸をし、命を吹き込まれたかのように感じられる瞬間だった。

だが、その美しさに圧倒されるたびに、九条の胸には何か重いものが湧き上がってきた。

それは憎しみであり、悔しさであり、自分自身への激しい自責だった。

手が震え、顔を歪めながらも、彼は彫刻刀をさらに深く像に突き立てた。

「これじゃダメだ。」

九条は低く呟き、その目は怒りに満ちていた。

彼の目の前にある「美しい」と賞賛されるものが、どうしても許せなかった。

「こんなもの、完成させるわけにはいかない。」

九条は怒りに身を任せ、彫刻刀を強く握りしめ、女性像の肩に鋭く一撃を加えた。石が粉々に砕け、女性の姿は無惨に崩れ落ちた。

見る間に、繊細な顔の輪郭は消え去り、細部は壊れ、形が失われていく。九条の目はそれを見つめ、彼の中の破壊衝動が満たされていくのを感じていた。

だが、その瞬間、彼は恐ろしいほどに空虚感を覚えていた。壊してしまった彫刻の残骸を見つめるその目に、冷徹なものが浮かんでいた。

どれほど自分を苦しめても、手に入れたいものが手に入らないその事実に、彼は身をひねらせるように痛みを感じていた。

「新しいものを作ろう。」

そう呟き、九条は一度壊した彫刻を無視して、新たな石を取り出した。しかし、手を動かし始めても、その手が震えていることに気づく。

目の前の石に何度も彫刻刀を押し当てるが、形を作り出すことができない。作れば作るほど、目の前のものが醜く歪んでいくように感じた。

形が不自然で、バランスが崩れ、まるで自分自身の内面の醜さがそのまま形となって現れたかのようだった。

「こんな…こんなものじゃない。」

九条は息を荒げ、手を止めた。彫刻刀を握りしめ、目の前の歪んだ石を睨んだ。しかし、その目には怒りと共に、深い絶望の色が浮かんでいた。

「亡き友」よりも輝いている作品への嫉妬、他者の目を引きつけるその美しさが、今もなお彼の心に刺さり続けていた。

そして、さらに苛立ったのは、そのようにして作り出した彫刻を、自分の手元に眠らせて、誰の目にも触れさせない自分自身であった。

「でも、見せられない。」

九条は冷たく呟き、力なく手を下ろすと、再びその彫刻を見つめた。自分の中でまだ癒えていない傷が、見せたくないという欲望を強くさせていた。

自分の友を表現した作品を評価させたくない。本物の篠宮悠生を知らない人間が「亡き友」を賞賛することを許せない。

その胸の中に、憎しみと共に湧き上がる感情があった。それは、決して美しいとは言えない、けれども圧倒的に強い感情だった。

九条はアトリエの隅に立ち、無造作に手を動かして石を削った。音は静かな室内に響き、ひび割れたかのように冷たく、鋭かった。

彫刻刀が石を削る音が、まるで自分の心の中で交錯する感情そのもののように感じられた。彼はもう目の前の石に向かうことができなかった。

手は止まり、ただ無意味に彫刻刀を握りしめているだけだった。

「亡き友」——あの作品が彼の全てだった。篠宮悠生を失った後、初めて生み出したその彫刻は、九条にとって過去の死を超えて生きるための唯一の手段だった。

友情の証であり、鎮魂歌であり、愛であり、悔しさであり、すべてがその一つの像に込められていた。

あれ以上のものを作り上げなければ、悠生の思いを無駄にしてしまうかもしれないと感じていた。

『亡き友』のおかげで、他の人の想いを形にするきっかけができたのだから。

だが、一方で、彼の心には強い葛藤があった。『亡き友』を超えたくないという気持ちがあるのだ。

あれ以上の作品を作ることができるのだろうか?もし、それを超えてしまったら、悠生の存在が薄れてしまうのではないかという恐怖。

亡き友を超えることが、悠生の死を踏みにじることのように思えてならなかった。

「こんなものを作ってどうする?」

九条は自嘲気味に自分に問いかけ、再び彫刻刀を握りしめる。

石に触れると、その硬さが伝わってきた。

だが、その硬さに対する怒りと恐怖の入り混じった感情が、彼をただ無駄に疲れさせるだけだった。

彼の目の前にあったのは、ただの石の塊でしかない。しかし、その塊に込められるべきもの、彼の心の中のすべてが今もまだ形にならずに渦巻いていた。

悠生を失った後、あの彫刻で再び作り出された「美」——それは死者への敬意を込めた美しさだった。

そして、その美しさを超えてしまうことができれば、彼は本当に前に進めるのだろうか?それとも、進んではならないのだろうか?

彼はまたひとつ、手を止める。彫刻刀を石から引き抜き、その先端をじっと見つめた。

思いの全てが胸を締めつける。彫刻を作ることで、友の思いを伝え、さらには自分自身をも癒すことができると信じていた。

しかし、もしその思いが無駄になったらどうしよう?もし次に美しい作品を作らなければ、亡き人々の思いが伝えられない。

みんなの想いは報われない。でも、「亡き友」こそ、全ての人々に賞賛されて愛されてほしい、自分ではなく、悠生のために。

両極端の二つの思いがせめぎ合っていた。

「超えなければならない…」

九条はそう呟いた。

だが、その言葉に続く自分の心の中の声が、かすかに響く。超えた先に待っているものは、もしかしたらもっと深い痛みなのかもしれないと。

事実、「亡き友」を超えた作品は「永遠の鎮魂」のみであった。

被災地の全ての人々の想いを代弁した作品だ。自分だけでなく、数多の人々の想いが込められている。

だからといって……「亡き友」を容易に超える評価の数々は、とても残酷に見えた。

「それでも、やらなければならない。」

九条は力を込めて言った。

そして、再び彫刻刀を握り、石に向かって手を動かし始める。

だが、どんなに力を込めても、どんなに自分を励まそうとしても、そこに現れるのは無惨なまでに歪んだ像だけだった。

美しさを求める気持ちと、亡き友を超えたくないという気持ちが、まるで二つの異なる世界のように彼の中で激しくぶつかり合っていた。

その結果として現れるのは、恐ろしいほどに醜い彫刻であった。それでも、彼は諦めなかった。超えなければならないという強迫観念が、彼を支配していた。
テレビ画面には、霧が立ち込める幻想的な夜の展示会場が映し出されていた。美術館の外観はライトアップされ、その周囲には人々の行列が続いている。

画面下部には大きな文字で「九条朔夜展、夜間イベント大盛況!」と書かれていた。

キャスターの落ち着いた声が流れる。

「現在、四国の山奥にある響霧町美術館で開催中の『九条朔夜彫刻展』ですが、特別な夜間イベントが話題を集めています。幻想的な霧の演出が加えられた展示会場は、昼間とは全く違う雰囲気を楽しめると大好評です。」

画面は会場内部に切り替わり、霧が漂う中、彫刻たちがまるで霞に浮かび上がるように佇んでいる様子が映し出された。

訪れた来場者たちは、作品に見入る者、カメラを構える者、友人同士で感想を語り合う者、それぞれに楽しんでいる様子だった。

続いて、リポーターが現れ、息を弾ませながら説明を始めた。

「ここ響霧町美術館では、特別展示として九条朔夜さんの初期作品『亡き友』も公開されています。

この作品は長らく展示されていなかったため、初めて目にするという方も多いようです。」

画面には「亡き友」の彫刻が映される。

その彫刻は、赤いジャージを抱えた悲しげな青年の姿がリアルに再現されており、ライトアップによってさらに荘厳な雰囲気を醸し出していた。リポーターがさらに続ける。

「この作品を直接見るために、多くの方が遠方から訪れています。美術館周辺では臨時バスも運行されており、普段は美術館に足を運ばない方々も来場されています。」

あるテレビ局のリポーターは、臨時バスの待合所でインタビューを行い、展示会に期待を寄せる来場者たちの声を拾い上げた。

「この記事を読んでどうしても見たくなりました!夜間の霧の演出って、写真だけでも幻想的で、実際に見たらどうなるんだろうってワクワクしてます。」

「九条さんの哲学にすごく共感しました。彫刻がただの形じゃなくて、人生そのものを表しているっていう考え方が、すごく響きましたね。」

「九条さんの作品は、生と死を超越しているんです。普通の人間が完全に理解できるわけないじゃないですか。

だから体調が悪くなるのも当然です。それは、私たちがまだ未熟だから!作品が私たちを成長させてくれているんです!」

画面には、臨時バスを待つ列の様子や、親子連れ、若いカップルが笑顔で話している光景が映し出される。

最後に、キャスターがまとめるように言葉を添えた。

「九条朔夜さんの展示会は、その美しさだけでなく、訪れる人々にさまざまな感情を呼び起こしているようです。

この話題はまだまだ続きそうですね。それでは、次のニュースに参りましょう。」

テレビ画面は切り替わり、別のニュースへと移るが、九条の展示会の霧と彫刻の映像が観る者の心に不思議な余韻を残していた。

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(画面がざらつき、白石が机に向かって電話をかける様子が映っている。部屋は薄暗く、画面外ではテレビがついており、ニュースキャスターの声がかすかに聞こえる。)

白石:
「もしもし、美術館の担当の方いらっしゃいますか?夜間イベントについてお話ししたいのですが……はい、白石です。以前もお話ししましたが……」

(沈黙。受話器越しに低い声が何かを伝えている。白石の表情が険しくなる。)

白石:
「地元の方が関わっている?……それは知りませんが、現状を考えればイベントの中止を検討すべきです。奇妙な症状を訴える方が……」

(受話器越しの声が急に鋭くなる。白石は口をつぐみ、深く息をつく。)

白石:
「余計な詮索はするな、ですって……。そちらの判断は理解しましたが、それでも、このまま進めるのは危険です。私は止めるべきだと思います。」

(受話器の音が切れる。白石、肩を落として受話器を置く。)

白石(独り言):
「佐藤さん……お願い、出てくれ……。」

(通話音が繰り返されるが、応答はない。白石の眉がさらに寄る。)

白石:
「なんで……なんで出ないんだよ。」

(画面が再びざらつき、白石が無力感に満ちた表情でソファに崩れ落ちる。テレビの音が徐々に大きくなる。)

ニュースキャスター(オフスクリーン):
「……夜間イベントは予定通り開催されるとのことです。一部からは疑問の声が……」



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「これは……まずい……。」

白石の視線は霧の中でぼんやりと浮かび上がる彫刻群に向けられていた。

彫刻たちは美しさと神秘に満ちた姿で立ち並び、まるで霧そのものが彼らを引き立てるために存在しているようだった。だが、白石にはその奥に潜む危険が見えていた。

このイベントによって大量の被害者が出る――そう確信していた。

霧に隠された空気の密閉性、換気の不足、夜間という視界不良、そしてこの展示室に訪れると起こる吐き気やめまいといった症状。

それらが来場者に与える影響を、白石はすでに理解していた。

「後遺症まで残る人が出るかもしれない……」

彼は冷たい汗を拭いながら、小さな声で自分に言い聞かせるように呟いた。

白石は自分の中に渦巻く感情を抑えきれなかった。確かに、彼が書いた記事は九条朔夜の展示会を大きく世間に広めるきっかけになった。

そして今、九条の名は遠く県外にまで広がり、展示会の来場者は増える一方だ。

だが、それは果たして正しいことだったのか?

「知らない方がよかった……。いや、違う……知らなければならなかった。でも……」

頭の中で葛藤が膨らむ。九条の作品の美しさに魅了されたのは、彼自身だった。

それを世間に伝える使命感もあった。だが、その美しさの裏に潜む危険性を知った今、白石は自分が手を出してはいけないものに触れてしまったのではないかと感じ始めていた。

「これは僕の手を離れてしまった……拡散されすぎたんだ……」

目の前で笑顔を浮かべる来場者たちの姿が、一層重くのしかかった。彼らの中には、このイベントの代償を知らない者がほとんどだろう。

いや、それを感じ取っている者もいるのかもしれない。だが、それでも彫刻の魅力に引き寄せられるのだ。

「止めないと……」

止めなくとも、ここまで大きな被害が出れば中止になる。警察も来るだろう。なら、なぜここまで大事にした?なぜ──

「終わらせようとしてるんだ?」

録画映像記録:2025年2月15日 午後6時5分
映像提供者:匿名



映像は暗闇の中、緊迫感あるざわめきと揺れるカメラワークから始まる。夜間の九条朔夜展のイベント会場だ。

展示室内に響くのは、人々の小声の会話と、どこか不穏な空気を漂わせる不協和音のような音楽。カメラは焦点を定めることなく揺れ続け、突然、大きな声が響き渡る。

「全員!いますぐここを出てください!」

画面に映るのは白石である。

「いますぐです!ここにいてはいけません!」


白石は何かに怯えたように展示品を振り返りながら、叫ぶように人々に指示を飛ばしている。展示室内の来場者たちは戸惑い、ざわめきが一層大きくなる。

「何が起こったの?」「なぜ出なきゃいけないの?」という混乱した声が、あちこちから上がる。

カメラは彼の後ろ姿を捉える。白石は展示会場中央に置かれた、美しい彫刻を一瞥し、目を見開いたまま後ずさる。

彫刻の周囲には、濃い霧が漂い、赤い光が微かに揺れている。

「出るんです!」白石の声はさらに切迫し、震えている。「聞こえていますか?外に出て!」

彼は手近な壁やテーブルを叩きながら、来場者一人ひとりに視線を送り続ける。

周囲の人々も次第に状況の異常性に気づき、ざわざわと出口に向かい始めた。

「何が起きてるんだ?」

カメラに映る一人の男性がつぶやく。だが彼の質問に答える者はいない。

白石の叫び声が、そのすべてをかき消す。

「今すぐ出てください!時間がないんです!」

声を絞り出すようにそう叫び、白石は自ら人々を誘導するために走り回る。

カメラは再び焦点を彫刻に戻す。そこには揺らめく赤い光が刻一刻と強くなり、霧がまるで生き物のように展示品を包み込んでいく様子が映る。

一人の若い女性が白石に声をかけようとするが、白石は振り返る間もなく遮った。

「いいから外に出て!あれを見てはいけません!」

白石の手は震え、指差した先は彫刻だ。

映像の最後、カメラが白石に向けられた瞬間、彼の肌は汗で濡れながらも異様な覚悟に満ちている。

「誰か外から助けを…」という彼の言葉を最後に、録画は突然終わる。

最後のフレームは白石が出口を指さしている姿。その後、カメラが落とされたように視界が揺れ、暗転する。



備考:映像の提出者は匿名を希望し、その後連絡が取れなくなっている。
録音日時:2025年2月15日 夜間

場所:展示会終了後の控室にて

九条朔夜展を訪れた男性(30代)が、展示会から数時間後に錯乱状態となり、意味不明な言葉を羅列し始めた。

この記録は、展示会関係者の一人がスマートフォンで撮影したものであり、後に解析された際、奇妙な一致が確認された。以下は録音の内容を文字起こししたものである。



男性(荒い息):「水が、ああ、水が全部飲み込んでいく……逃げても無駄だ。無駄なんだよ!でも僕は知ってた、ずっと知ってたんだ。あれは嘘だ、嘘だってわかってたんだよ!」

彼の声は震え、時折笑い声ともすすり泣きともつかない音が混じる。その目は焦点を失い、何か遠くを見つめているようだった。

男性:「瓦礫の下にいたんだ、みんな死んでた。僕も死んでた……でもね、死んでるのに生きてるんだ。

おかしいよな?おかしいだろう!でもそれが正しいんだ。『自分でなんとかしろ』って……だから僕、僕……」

突然彼は手を振り回し、椅子から転げ落ちた。その後、壁に体を押し付けるようにしながら、震えた声で続けた。

男性:「赤い花をくれたんだよ。『これが友達の証だよ』って……どうしてだ?どうして僕は受け取ったんだ?」

ここで、彼の声は急に低くなり、呟くような調子に変わった。

男性:「水が冷たい。冷たいけど燃えてる。燃えてるけど冷たいんだ……あれは僕の家族の匂いだ。塩の匂い。

違う、違う、あれは海だ……瓦礫の下で、僕は目を開けたんだ。でも何も見えない。何も、何も……」

急に彼は目を見開き、まるで何かを悟ったように叫んだ。

男性:「そうだ!僕は花だ。赤い花だ。咲いてるけど死んでるんだ。

死んでるけど咲いてる!僕は彼だ!彼は僕だ!……九条さんが言った。『全てはひとつだ』って……全部、全部繋がってるんだよ!」

彼はその後、自分の頭を壁に打ち付けるような動きを繰り返し、スタッフによって抑えられた。
日時:2025年2月15日 夜間の電話取材

場所:自宅にて

本日、バス停で九条朔夜展についての取材をした来場者から突然不明瞭な電話がかかってきた。以下はその録音記録である。



証言者(震えた声):「誰かいる…いるんだ、家の中に。ずっと見てる。ずっと……見てるんだ。」

証言は途切れ途切れだが、息を荒げる音がひどく不安を掻き立てる。電話越しに聞こえる雑音の中に何か奇妙な音が混じる。

耳を澄ますと、それは水滴が床に落ちる音に似ていた。

インタビュアー:「落ち着いてください。家にはあなた以外に誰かいるんですか?」

証言者:「いない、いない!いや、いる!立ってるんだ、廊下の端に……赤い何かを着てる。ジャージかな?わからない。でも目が、目が…じっとこっちを見てる!あの目は、あの目は……」

彼はここで息を詰まらせ、電話越しにすすり泣きのような音が聞こえた。

インタビュアー:「落ち着いて。誰かを呼びますか?警察に連絡を——」

証言者(遮るように):「違う!警察なんかじゃどうにもならない!あいつは…“ここにいる”だけなんだ。ずっと。“赤い、赤い、赤い”……。」

突然、彼は奇妙な言葉を繰り返し始めた。その声には、ただの恐怖を超えた何かが含まれていた。

証言者:「赤い!赤い!赤いんだ!壁が、床が、全部赤くなる!血じゃない、血じゃない、これは何だ……いや、あれは“赤い花”だ。

そうだ、赤い花が咲いている……誰が植えたんだ……おかしい……狂ってる、狂ってるんだ!」

彼の声は次第に高くなり、叫び声に近い響きに変わった。

その間、電話の向こうから奇妙な音が断続的に響いていた。水滴の音、水中で誰かがもがくような音、そしてその中に混じる、低く押し殺したような笑い声。

証言者:「もういないはずだ!いないはずなのに!どうして…どうしてここにいるんだ!“赤いお花はお友達の証”だって……そんなこと……僕は知らない!知らない!」

突然、電話は途切れた。再び連絡を取ろうとしたが、証言者は応答せず、翌日、彼の家に連絡したところ、精神的に不安定な状態で病院に搬送されたとのことだった。


後日談:
証言者の家の調査結果によれば、異常な痕跡は発見されなかった。

ただし、リビングルームのテーブルの上に赤い花びらが一枚だけ落ちていたという。それがどこから来たものなのか、彼の家族は誰も答えることができなかった。

また、証言者の叫び声の中にあった「赤いお花はお友達の証」という言葉は、九条朔夜展の来場者が共通して発する不可解なフレーズとして、複数の証言に登場している。
白石は、九条のアトリエの前に立っていた。足元の冷たい石畳を踏む音が、静かな夜の街の中でひときわ響く。

アトリエの窓から漏れるほのかな光が、何かを示唆しているような気がしてならなかった。彼の心の中には、長い調査の中で積み上がった数々の疑問が渦巻いていた。

だが、その足元に、何かが引き寄せられるように感じられた。視線を下ろすと、目の前にひとりの少女が立っているのが見えた。

その姿は、どこか懐かしさを感じさせるものだった。少女は、小柄で、黒い髪を肩まで伸ばしており、その目はどこか遠くを見つめるようにぼんやりとしていた。

赤い花の存在を思い出し、白石の胸が少し高鳴った。

「あのときの…澪ちゃん?」

声をかけると、少女はゆっくりと顔を向けた。目が合うと、その表情は驚きもなく、どこか穏やかなものだった。

「…おじさん!まえに九条せんせのお店にいたひとだ!」

白石は少し戸惑いながらも、冷静を装い、言葉を続けた。

「どうしてここに?」

少女はしばらく白石を見つめた後、にっこりと微笑んだ。

その笑顔には、どこか懐かしさが漂っているように見えた。白石はその笑顔に、何か引っかかるものを感じた。

少女は、少し恥ずかしそうに言った。

「みおは、九条せんせのおともだちだから。」

その言葉が、白石の胸に衝撃を走らせた。友達? その少女が言う「友達」が、どんな意味を持つのか──

「おうちにいるときは、ゆうちゃんになるの。」

少女は、ぽつりとそう言った。

その言葉が、白石の中で何かを決定的に繋げた。篠宮悠生は、ただの友人ではなかった。九条にとっては、彼が心の拠り所であり、人生の中で最も大切な存在だったはずだ。

そして今、この少女が言った「ゆうちゃん」という言葉。どうして、こんなにも自然に出てきたのか──そのことが白石には不気味なほどに感じられた。

「君、篠宮悠生のことを知ってるのか?」

白石の声は、少し硬くなっていた。

少女はその問いに、少し首をかしげた。

「篠宮悠生…っていうの?」

彼女の目は、しばらく白石を見つめた後、わずかに困惑した様子を見せた。

「でも、ゆうちゃんって呼ばれるのが、好きだったから…」

その言葉に、白石は冷や汗を感じた。どこか無邪気なその少女の言葉の裏に、何かが隠されているような気がした。

しかし、それを追及することが今はできない。白石は一瞬、胸の中で葛藤を覚えた。だが、最終的に彼は冷静さを取り戻し、口を開いた。

「…君は、九条に何を教わったんだ?」

少女はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。

「昔からいっしょの、おともだちのゆうちゃんだって。小学校も、中学校も、高校もいっしょ!おとなになったみたいでうれしいの」

その言葉に、白石は深い疑念を抱いた。これはただの偶然ではない。

「あかいおはなは、おともだちのあかしだって!」

白石は頭を抱えた。こんなに小さな少女に、なんて重荷を与えているんだ。

「君、一人じゃ危ない。お母さんはどこに?」

「おうち!」

そう指差したのは九条のアトリエであった。

そう言い残し、白石は急いで足早にアトリエの方へ向かう。背後から少女の視線を感じながらも、その問いの答えを知るためには、今すぐにでも九条と向き合う必要がある。



白石がアトリエの扉に手をかける直前、背後から足音が近づいてくるのを感じた。振り返ると、そこには少女の母親らしき女性が立っていた。

その目には、何か決意のようなものが宿っており、その表情には警告の色が濃かった。白石は心の中でひと息つきながらも、無意識にその足を一歩踏み出した。

「あなたが調べていること、無駄にしないほうがいいわ。」

彼女の声は冷たく、鋭い刃のように白石に突き刺さった。その声には、聞き覚えがあった。

「佐藤さん……」

何かを言うべきか悩む間もなく、女性は静かに続けた。

「九条朔夜は、ただのアーティストじゃない。彼が何をしているのか、あなたにはわからない。」

その言葉が白石の胸に響く。だが、彼は冷静に答えた。「僕が知りたいのは、彼が何を隠しているのかです。」

「それは、知ってはならない。」

母親の声が低く、警告の色を強めた。

「あなたがどれだけ掘り下げても、真実は見えてこない。無駄なことをしているだけよ。」

白石はその言葉に反応せず、静かに前を見据えた。彼は心の中で確信を持っていた。これ以上引き下がることはできない。

そして、この警告が彼にとっては、逆に真実に迫るための手がかりになると感じていた。

「すみませんが、僕は行かせてもらいます。」

白石はそのままアトリエの扉に向き直り、強く押し開けた。

扉の向こうには、予想以上に冷たく、静かな空間が広がっていた。薄暗い中で、冷気と湿気が絡み合うような不気味な空気が漂っている。

白石の心拍数が少しだけ上がったが、それでも彼は一歩を踏み出した。

奥に続く廊下を進むうちに、壁の間から微かな音が聞こえてきた。その音は、まるで何かがひっそりと動いているような、不安を掻き立てるものだった。

白石はその音の方向に目を凝らし、ゆっくりと足を進める。
そして、やがて彼は地下へ続く階段の前にたどり着いた。何度も躊躇いそうになったが、すぐにその扉を開けた。

階段を降りるごとに、空気がどんどん冷たくなり、足元には湿った土の匂いが漂う。下へ下へと進むにつれて、次第に息を呑むような圧倒的な空気が感じられるようになった。

地下室にたどり着くと、目の前には思いもよらぬ光景が広がっていた。広大な空間の中に、無数の箱や缶が積まれている。

その箱の一つ一つには、記号や数字のようなものが書かれているが、白石はそれに注意を払う前に、すぐに目を奪われたものがあった。

箱の一角に、無数の小さな袋が並べられている。袋の中には、灰色がかった粉末が詰められているのが見える。白石の目は、その光景に釘付けになった。

冷や汗が背筋を走り、彼はその袋の一つを手に取ると、袋の中身が指先に触れた。暗がりの中でも、無数の粉がゆっくりと指の間からこぼれ落ちるのがわかる。

彼の心臓が速く脈打ち、恐怖がじわじわと胸に広がった。

「記者さんは、不法侵入をしていいのかな?」

白石はその声にピクリと反応し、振り返った。暗がりの中から、すぐに見覚えのある人物が現れた。九条朔夜が立っていた。

彼の目は冷徹で、白石をじっと見つめている。顔には表情はないが、その目には何かを決意したような、重いものが宿っていた。

「彼女たちが教えてくれたよ。忠告を無視するなんて常識のない人だと」

「ここは…」

白石は言葉を探しながらも、自然に立ちすくんでいた。彼の心臓は早鐘のように響き、足元がふらつきそうになる。

「あなたが調べていること、私にとっては全て知りすぎたことになる。」

九条は静かに、しかしその声は不気味に響いた。彼はゆっくりと歩を進め、白石に近づいてきた。

「こんな場所に足を踏み入れた時点で、もう戻れない。」

白石は足を踏み出すことができなかった。九条の存在が、まるで鉄のように重く感じる。冷徹な目でこちらを見据える彼の視線に、白石は言葉が詰まってしまう。

「どうしても、知りたかったのか。」

九条は低い声で呟いた。冷ややかな空気が漂い、白石の背筋が震える。

「でも、それがあなたにとって、幸せなことだとは思えない。」

白石は一瞬、立ちすくんだままだったが、意を決して言葉を続ける。

「僕が調べているのは、あなたの作品についてです。でも、なぜその中に…」

言葉が途切れる。あの袋に詰められていた灰色の粉末、その正体が何であるか、やっと白石は理解し始めていた。

それを聞く勇気が、彼の中で静かに恐怖へと変わっていく。

「それを知る必要はない。」

九条の目が鋭く、白石の胸を突き刺す。

「あなたが気にしていること、考えていること、全部、無駄なんだ。」

白石は冷たい汗をかき、足元がふらつくのを感じた。逃げるわけにはいかない。

「なぜ、遺灰を使って…」

白石は必死に声を絞り出した。

「被災で…亡くなった人々の…」

「あなたにはわからない。」

九条は静かに答えた。その声は、ただ冷たく、無感情だった。

「あなたが何を知ろうとしても、それは決して伝わらない。」

どこかで恐ろしい感情が彼を支配し始め、何かの決断を迫られていることを白石は感じ取った。

彼の目の前には、過去の秘密が広がり、九条が何かを隠し持っているその事実が、あまりにも恐ろしいものに思えてきた。

「あなたが本当に知りたいのは、私の作品の背後にある何かだろう。」

九条はその言葉で、白石の問いに答えるように語った。

白石はかろうじて声を絞り出した。

「でも、それでも僕は知りたい。」

九条は目を細めて笑った。笑顔には感情がない。ただ冷たい、計算された微笑みにしか見えなかった。

「それが、あなたの望みなのか?」

彼の声が低く響く。白石はその問いに答えることができなかった。心の中では、何度も答えを出そうとしていた。しかし、答えはすぐに消えていく。

九条の存在が、そのすべてを飲み込んでしまうような感覚だった。

「でも、私が許可しなければ、あなたは何も知ることはできない。私の作品に触れることさえ、許されない。あなたは、ただの観客に過ぎない。」

白石はその言葉に反応しなかった。彼の中で、調べ続けるか、引き下がるかという選択肢が狭まっていく。目の前の九条に立ち向かうことができるのか、それとも…

「さあ、インタビューをしようか。あなたは記者であって、強盗じゃないだろう」

白石は、その言葉に押しつぶされそうになりながらも、冷静さを保とうと必死に心を落ち着けた。

目の前の九条は、彼がこれまで感じてきたどんな恐怖よりもずっと不気味で、危険に満ちている。だが、同時にその冷徹さに引き寄せられもしていた。

「あなたが何をしているのか、何を隠しているのか、知りたいんです。」

白石は言った。彼の声は、震えることなく、確かな決意を持って響いていた。

「ただ、それだけです。」

九条は少し肩をすくめ、手を広げるような仕草を見せた。

「あなたがここで知ることが、あなたにとってどれほどの重荷になるのか、覚悟しておけ。」

九条の目が、一瞬、鋭く冷たく光った。

「私は、あなたが求める答えを与えるだろう。しかし、その後、あなたはもう二度と、人間に戻れない。」

その言葉が、白石の心に重くのしかかった。答えを求めることが、こんなにも危険なことであるとは予想していなかった。

しかし、今さら引き返すことはできない。自分がここまで来てしまった以上、答えを得るしかないのだ。

「それで、あなたは幸せなのですか?」

白石はついに聞いた。九条は、ゆっくりと頷きながら、冷静に言った。

「私はあなたの質問に答えよう。ただし、私はあなたに警告しておく。

私の作品を知ることは、すべてを理解することだ。だが、それがあなたにとって必ずしもいい結果をもたらすとは限らない。」

その言葉に、白石はしばらく黙った。心の中で、答えを求め続ける自分と、引き返すべきだというもう一つの声が激しくぶつかり合っていた。

しかし、今はもう後戻りできない。それが恐ろしいことであっても、彼は前に進む決意を固めていた。

「私は、答えを聞きます。」

白石は静かに言った。

九条は、その言葉に対して何も言わず、ゆっくりと歩を進めて白石に近づいてきた。その動きの一つ一つが、まるで何かを計算しているかのように感じられた。

「では、始めよう。」

九条は短く言い、静かに椅子を引いた。

白石は、その言葉に従って、慎重に椅子に座った。空気は張り詰め、地下室の冷気が二人を包み込んでいた。

ここからどんな答えが出るのか、白石はただ静かに耳を傾けるしかなかった。

レコーダーの小さなランプが点滅し、録音が始まる。

「2025年2月15日、午後9時。九条朔夜氏のアトリエにて、今からインタビューを開始します。」

その手元のレコーダーをしっかりと握りしめ、目の前にいる九条に視線を向けた。彼の目の前に広がる冷徹な空気に、心の中で数度深呼吸をしながらも、白石は無理に平静を保とうとした。

九条はじっと白石を見つめていた。静かな空間が二人を取り巻き、沈黙が圧倒的な重みを持って漂っている。

白石の心拍数が少しずつ速くなっていくのを感じたが、今はそれに屈しないと決めていた。彼はその震えを感じ取られないように、何度も深く息を吐いて、次の言葉を続けた。

「九条朔夜さん、あなたの作品は、世間に大きな反響を呼びました。ですが、私はその背後にある深い部分—あなたの想い、そして秘密に触れたくて、今日ここに来ました。

九条さん、あなたがこの地下で何をしているのか、そしてなぜそんな作品を作り続けるのか、それを知りたいんです。」

静寂が続く。白石は少し息を呑み、次の言葉を選ぶ。

「でも、あの遺灰は…それは、何を意味するんですか?何が隠されているんですか?」

「遺灰は、ただの物じゃない。」

九条の声に微かな響きが加わる。

「それは、亡き人たちの一部だ。私がそれを使うことで、彼らを記録し、記憶に留めようとしている。」

白石の息が一瞬詰まる。彼はその言葉に引き寄せられ、さらに掘り下げた質問をする。

「あなたの作品にそれが使われることは、果たして本当に記憶を保つためのものなんですか?それとも…別の意味があるんじゃないですか?」

九条の声が冷たさを増す。

「あなたが求めているのは、私の内面を理解することではない。それは、私がどれだけ答えても、あなたにはわからない。」

白石は少し沈黙を置いて、次の質問を投げかける。

「でも、あなたが壊した美しい彫刻…それは、あなた自身が作り上げたものですよね。どうして壊してしまったんですか?」

「私は、美しさを追い求めることをやめた。」

九条の声に、冷徹な決意が感じられる。

「美しさを求めることが、どれほど虚しいことかを知ってしまったから。」

「虚しさ…」

白石はその言葉に思いを巡らせながら、慎重に話す。

「でも、どうしてその虚しさを他人に押し付けようとするんですか?あなたの作品は、誰かを傷つけている。

それに、あなた自身は体調に影響が見られない。あなたの作品に有毒性があることを知って、制作をしていたのではないですか?」

「傷つけることが必要なんだ。」

九条の声が鋭くなる。

「痛みを感じることで、人は覚醒する。私はそれを証明しているだけだ。」

録音されたその一言が、白石の心に鋭く突き刺さる。彼はそれをどう解釈すべきか悩みながらも、さらなる問いを続ける。

「あなたがそんなことをしてまで守りたかったものは、いったい何ですか?篠宮さん…彼との関係はどうだったんですか?」

その言葉を聞いた瞬間、九条はしばらく黙っていた。無音の間が続き、まるで答えを渋っているかのようだった。

「篠宮悠生は、私にとって…」

やがて、九条の声が響いたが、それは深い沈黙を破っただけの短い言葉だった。

「私の支え、そして私の…罪。」

その言葉に続いて、静かな吐息が録音に残る。白石はその言葉を重く受け止め、次の言葉を求めるが、九条は何も言わず、ただ目を伏せるようにしていた。

「今、あなたの話題でニュースは持ち切りです。なぜ、あんなことをしたんですか。まるで生き急いでいる、あんなことをしたら、あなたの作家人生が終わってしまいます」

その後、レコーダーにはしばらくの沈黙が続き、やがて九条の低い声がまた響き渡った。

「その通りです。私は全てを終わらせるんです。これまで続けてきたことも全て、台無しにしたいんです。もう……」