2007年8月1日

東京の夜は、光の海だといえる。渋滞している車のヘッドライト、街灯、ビルの窓から漏れる明かりが、何もかもを飲み込んでいく。私はどこか、この光景の異常さを感じる。私の知っている村には、こんな光はなかった。日が沈めば、ただ闇が支配するだけ。時々、月明かりが周囲を照らし出す以外は。

こんな場所にいれば、あの村の静けさと冷たさを忘れられると信じていた。しかし、どんなにざわめきの中に身を置いても、ふとした瞬間に背後から何かが私を引き戻そうとしているのを感じる。特に最近は、その感覚が強くなっている。

旧暦の暦を見た。あと一ヶ月と少し。時期が迫っている。壁に掛けた二つの暦。一般的な暦の横に、ひっそりと置かれた旧暦。八月の初めの仏滅に印がついている。まるで血の染みのように赤く。

私は毎晩、同じ夢を見る。深い森の中、古い祠の前で、何かを、いや、誰かを待っている。周りには赤い布が揺れ、遠くから音が近づいて来ている。目が覚めても、その余韻は消えない。枕元には、使い古された数珠が転がっている。四年前、あの場所から持ち出した唯一の私物だった。

2007年8月8日

先週の失敗が頭から離れない。図書館で出会った大学生は、これまで一貫して、古い祭事に強い興味を示していた。完璧な候補だと思っていたのに。民俗学の研究室で見かけた彼に、まず声をかけたのは三週間前。祭事の資料を探している彼に、さりげなく話しかけた。その目の輝き、そして彼の立場。学生という彼の自由が利く立場に、私は可能性を感じたのだ。

しかし、昨日、彼は突然警戒の色を示した。「古い祭りの話は面白いけど、あなたの話す村の場所が特定できない。それに、四年周期の祭りというのも、どこにも記録がない」と。あの時、もう少し慎重に話を進めていれば…。残された時間はあまりにも少ない。暦を見るたびに、冷や汗が流れる。

四年前、前任者がどうなったのか。彼の失敗を繰り返してはならない。私は、必ず…。

今の私には、三つの可能性がある。最近、知り合った会社員、別の大学の民俗学を研究する大学院生、そして古書店で見かける常連客。彼ら同士、互いに無関係の存在だが、それぞれが私にとって貴重な機会だ。

会社員と出会ったのは先月末。彼は廃墟写真に強い関心を持っていた。飲み屋で、さりげなく声をかけた。「山奥の廃村」という言葉に、彼の目が輝いたのを覚えている。

民俗学の大学院生は学会で見かけた。発表の内容は山村の伝承について。質疑応答の際、私の投げかけた「四年周期の祭事」という言葉に、妙な反応を示した。

古書店の常連とは、民俗学コーナーで偶然隣り合わせになった。彼が手に取った本は、祭祀と集落に関する古い研究書。さりげない会話から、彼の興味の深さを感じ取った。

頭の片隅には、いつも冷静に現実を直視している自分がいた。それは私が背負った、契約と責任の重さなのかもしれない。一度の過ちも許されない。前任者の最期を、私は知っている。彼は間に合わなかった。

2007年8月15日

カメラ好きの会社員との会話が、思わぬ方向に進んだ。今日、再び会うことにした。山村の風景写真に並々ならぬ興味を示す彼に、ある場所の話をした。人里離れた山奥の村。携帯の電波も届かない。古い祠、そして、鳥居が…。彼の目が輝きを増すのを見ながら、私の中で何かが震えた。

古書店の常連とは、たまに珈琲を共にする仲になった。彼は静かに、しかし熱心に山村の伝承について語る。時折、私の話に首を傾げることもあるが、興味は持続している。ただ、彼の博識さが、時として私の不安を掻き立てる。

大学院生は、どこか警戒しているように見える。質問が鋭く、特に「その村の場所」について、執拗に確認してくる。昨日は資料の出典について、詳しく尋ねられた。

月が変わるまでに、全てを終わらせなければならない。この時期になると、夜な夜な耳元であの特徴的な音が聞こえてくる気がする。否応なしに、私は、あの村への近づいているような幻聴が聞こえる。この都市の喧騒は、私の存在を隠してくれる。けれど同時に、その仮面の下で私の果たすべき役割を強く感じるのだ。

2007年8月20日

会社員との関係が、予想以上の展開を見せている。今日、彼は自分の撮影した廃村の写真を見せてくれた。古い木造校舎、朽ちた神社、古びた地蔵…。その写真を見ながら、私はゆっくりと話を誘導していく。彼の廃村への熱意は本物だ。彼には写真家としての才能があると持ち上げる。写真のことはよく分からないが、話を合わせる。

大学院生は遠ざかっていく一方だ。昨日、図書館で偶然出会った時、彼は明らかに私を避けるような素振りを見せた。机の上には、各地の村祭りの資料が広げられていた。その中に、旧暦と仏滅に関する資料も。

古書店の常連は相変わらず穏やかに話に付き合ってくれる。今日も例の棚の前で言葉を交わした。彼が手にしていた本は、山間部の失踪事件に関する研究書。

夢の中で、前任者を見た気がした。結局、彼は期限に間に合わなかった。とにかく私は同じ道を辿るわけにはいかない。私は朝起きたとき、それを再認識する。

2007年8月25日

大学院生との接点は完全に消えた。古書店の常連とも、自然と疎遠になっていく。今日、最後に彼と話をした時、彼は意味ありげに「山間の祭事と失踪事件の関連性」について語っていた。もしかして、私の表情に何か読み取ったのだろうか、いや、まさか…。

一方で、会社員は私の話に深い興味を示し続けている。純粋な好奇心に満ちた目で、耳を傾けてくれる。今日も熱心に「あの村」の場所について尋ねてきた。その無邪気な笑顔を見るたびに、もはや、彼しかいないと、私の心が囁いた気がした。

夕方、彼は自分の部屋で撮影した写真を整理しているという。同じ時間、私は自分の部屋で、別の準備をしている。でも、これは避けられない。私に失敗は許されないのだ。

夜になると、耳鳴りのような音が聞こえてくる。ただ、暦の日付だけが、容赦なく進んでいくのは理解できていた。

2007年9月1日

月が変わった。古書店の常連からは、もう連絡もない。最後に見た彼の本棚には、「祓」の文字が並ぶ古書が何冊も。全ては自然な流れのように見える。

会社員との段取りは、ほぼ整った。前回の失敗は、一瞬の焦りが全てを台無しにした。今回は違う。全てが計画通りに進んでいる。彼はすでに、山村での撮影の許可を会社から取ったという。暦を確認する。仏滅まで、あとわずか。
この焦りから逃げられることは永久にないだろう。毎晩、鏡を見るたびに、私の目が前任者に似てきているような気がした。

2007年9月15日
会社員は、予想以上に私の誘いに応えてくれている。今日、最後の打ち合わせをした。山村の写真を撮りに行くという名目は、これ以上ない完璧な口実となった。彼は新しいレンズまで購入したという。その情熱は、私にとって好都合だった。明日が仏滅。なんとか、このまま上手くいってくれることを祈るだけだ。
夜の部屋で、赤い布を取り出す。四年前、私がこれを着せられた夜のことを思い出した。

2007年9月16日

今日が、その日だ。旧暦八月最初の仏滅。彼はまだ何も知らない。山村の写真を撮りに行くつもりで、カメラバッグを念入りに準備している。新品のレンズが、朝日に輝いていた。でも、これは運命なのだと信じるしかない。私には選択の余地はない。もう一度の失敗は、すべての終わりを意味する。
箪笥から赤い布を取り出し、そっとバッグに忍ばせる。前任者が私にそうしたように。部屋の隅に置かれた数珠が、かすかに揺れている気がした。まあ、いい。今のところは順調だった。
ああ、これは私に課せられた宿命なのだから。暦の赤い印が、血のように滲んで見えた。