『例の件、ありがとうございました』『私としてもあまり深追いするのは良くないのかもしれないと思って、これ以上はやめておきます』
Nさんからの返信に、正直ホッとした。これ以上なんて言ったら良いかわからないため、ネコがお辞儀しているスタンプを送る。すぐに既読がつき、タヌキがお辞儀しているスタンプが送られてきた。私は小さくため息をつきながらスマホを横に置き、ノートパソコンを開く。仕事に戻ろう。
結局、Yさんが話してくれた「〈音まわりの若いヤツ〉が送信元不明の音声データを削除しなかったらしいこと、そしてその結果」をNさんに言うのはやめた。事細かに説明することに、なんとなくブレーキがかかったと言える。「触れないほうがいい」と断言したYさんに従ったわけじゃないけど、あくまで噂だろうし今以上Nさんがこの件に意識を向けない方が良いと思った。
シチュエーションCD脚本の初稿を打ち進めながら、ふと作業用の音が足りないなと、既に開いているWordの隣にもうひと窓開く。歌詞のある音楽を聴きながらの作業はできないタチなので、こういう時は雑談配信のアーカイブか、好きで何度か視聴済のゲーム実況を流すに限るのだ。
YouTubeのホーム画面にいくつものおすすめ動画が並んでいる。登録チャンネルから選ぶのもいいけど、見たことのない切り抜きを流すのもわりと嫌いじゃない。中指でマウスをくるくる撫でながら適当にスクロールしていきながら、Rさんの言葉を思い出していた。
『ショートも切り抜きも上がった事があるらしいのに、すぐ削除されるらしい。ファンでしたって言うオタクがいても、誰もイラストにできないらしい。例の歌は卒業配信で歌ったらしいけど、聞いてて不安になる歌だったらしい。……とにかく『らしい』尽くしの、伝説のVなんですって』
世界にはこんなにも動画があふれているのに、何ひとつ痕跡が残っていない二週間限定のVtuber。普通ならば、すべてを計算ずくで行った、むしろ頭の切れる人による仕掛けだと考える。一部で囁かれ続け、しかしながらタブーとされるなんてコンテンツとして勿体なさ過ぎやしないだろうか。
「どんな子だったんだろうなあ」
気づけば口からこぼれ落ちていた。姿かたちさえ誰の記憶にも、動画にも、イラストにも残っていない子。いや、「仔」かもしれない。
「女の子なのかなあ、男の子なのかなあ。あーそれか、人外な上に性別とかないのかも。いいね、魅力的」
結局、作業用に流す動画を決められないまま、マウスから手を話して仕事へ戻った。打ち込んでいるうちに流したいものが浮かんだら流そう。ノイズになったら意味がないし。
「背丈とかどのくらいかなあ。ちっちゃい仔でも可愛いよね。少年ぽいけど少女みたいな、そういう危うさ? があってもいいし。魅惑的なお姉様みたいな感じでも……」
止まらない妄想は口から流れ続け、それでも手元は動き続ける。
カタカタカタ。カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ【みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに】
我に返り、Wordに埋め尽くされた『歌』を見た私はすぐにすべてを削除した。物語も半分以上過ぎていた脚本もすべて一緒に削除して、イチから書き直した。頭の中で『触っちゃいけねぇモンってのがある』とYさんが警告する。
考え過ぎてはいけないんだ。そういうモノ、なんだ。これは。きっと。
そう思い、忘れようと決めた。
──そして実際、忘れていた。Nさんから相談を受けたのも、Yさんに話を聞いたのも、それとなくZさんに聞いてみたのも、RさんがVtuberのママになったのも、全部全部、今から二年前の話だ。
NさんとRさんとの付き合いは今も続いているけどアレの話は出ないし、ありがたくも今も時々仕事でご一緒するYさんも逞しいエンジニアのままだ。そういえばZさんとは最近ご一緒していないけど、この前アニメのEDでお名前を見かけた時、あの日、手元でぐにゃりと歪んでいた差し込み用タバコを思い出した。それなのに、「きつねのおこおこ」については綺麗さっぱり忘れていた。
なぜ今さら思い出したのかというと、もちろん『モキュメンタリーコンテスト』の文字列を見たから──ではない。そもそも今コンテストを知ったのは、仲良くしていただいている先輩シナリオライターさんに誘われたからだ。では、なぜか。
2024年末、楽しそうだし書いてみようかな。家出系のミステリーと掛けたら面白そうだな、練ってみようかなとネタを考え始めた矢先に送られてきたからだ。
送信元不明の、音声データ。本文にはあの歌が添えられていた。基本登録外のアドレスからは最初弾かれるはずなのに、堂々と仕事用のメールボックスに鎮座していた。それを見た瞬間にすべてを思い出していた。
どうしてこのタイミングで? 誰かがイタズラで? 私には何もわからない。聴く勇気はまだない。どんな声で歌っているのだろうという好奇心はあふれて止まらないけど、聞いてしまったら戻れない気がした。あれが歌の音声データだってなんでわかったのかなんてわからないけど、でも、わかった。だってこんなにも聴きたいから。惹かれて惹かれてたまらないから。
今、私はダウンロードボタンもしくは再生をクリックしそうになることを必死で抑えている。
だからまだ大丈夫。理性的。つかまってない。つかまるってなんだろう。わからないけど。でも大丈夫。きっと大丈夫。
それでも、「今すぐ書かなくては」と思った。「みんなに知ってもらなくては」と。だからこうして書いている。楽しい楽しい、きつねのおこおこ。
あの日からずっと口ずさんでしまう。みちるがかける。かけるとみちる。仕事中でも、掃除機をかけていても。こうこうひかる。怖いものなんて何もない。きつねのおこおこ。えいえんに。みんなも楽しい、きつねのおこおこ。
ねえ。皆様のところにも、送信元不明な音声データは届いていませんか。
二週間しか活動しなかった伝説のVtuberのこと、どなたかご存知ありませんか。
『きつねのおこおこ』了