『噂で聞いたことあるという方はおひとりいらっしゃいました。ただ詳細はわからないらしくて、その方にもあまり触れない方がいいと言われたので、Nさんもこれ以上気にしない方がいいかもしれません』
「……こんなもんでいいかな……」
打ち込んだ文章を数回読み返して、送信を押す。
Zさんとの収録からさらに五日経ち、仕事もだいぶ落ち着いたのでようやくNさんへ報告することにした。生産性のない内容になってしまったと思いつつ、これまでもスタジオでの怖い話などは聞いてきたし、「触れない方がいい」というひと言で察してくれることを願った。
「わーもう来てる! すみません、お肉受け取ってもらっちゃって」
「いえいえ、まだまだ来ますしお気になさらず」
野菜を大量に積んだお皿を両手に乗せたRさんが向かいに座り、私はスマホをカバンにしまう。
今日は数ヶ月ぶりに会うイラストレーターのRさんと、コスパの良すぎるしゃぶしゃぶ食べ放題屋さんに来ていた。昨年知り合ったRさんはとにかくタフな人で、突然時間が空いた時にダメ元で連絡してみると「行きまーす!」と飛んできてくれる。
そんな彼女が先月、Vtuberの『ママ』になった。知り合った頃から「いつかなりたい」と語っていたため、いつものお礼とお祝いを兼ねて食事に誘ったのだ。
ちなみに、Vtuberの『ママ』というのは、いわゆるその……見た目の造形というかデザインというか、何と言えば誰の地雷も踏まなくて済むかはわからないけど、とにかく『生みの親』であるイラストレーターさんのことだ。ファンの方々がそう呼んでいるのを、Vの世界に触れる中で知った。
とは言っても、私自身は、歌声が好きだなと思ったVさんたちの歌ってみたを聞いたり、好きなゲームの実況を見たり。雑談配信をラジオ代わりにして作業中に流してみたりと、その程度でしかない。深いところまでは知らない。上澄みの楽しいところで楽しめる人間なのだ。知らなかった楽曲やゲームに出会えるのが面白いとも言える。
「どうですか、ママ生活は」
鶏肉に火が通ったことを確認し、手元に引き寄せながら訊ねると、Rさんは「へへへへへ」と独特な笑い声をあげながら右手の人差し指を立てた。
「フォロワーの増えっぷりがヤバいです」
「影響大きいんですねぇ」
「思ってた以上です。頑張らなきゃ」
「頑張ってた結果が、念願の今なんでしょう?」
「んーでもやっぱVは多いから……あー、それにぃ……」
Rさんのお箸が止まり、炭酸の入ったグラスを一気に飲み干す。すごいなと思いながらも話の続きを待った。
「こないだ絵師仲間で作業通話してたんですけどね? あ、牛いっていいっすか。もうなくなっちゃう」
「どうぞどうぞ。まだ全然頼むんで」
「じゃー遠慮なく。……でね、そう。その中のひとりが言ってたんですけど」
「はい」
「『きつねのこ』って知ってます?」
「え?」
今度は私の箸が止まった。Rさんは牛をお湯に潜らせ頬張りはじめたところだった。
きつねのこ? きつねのおこおこ、じゃなくて? よく似た別案件……?
瞬間的に頭の中で疑問が飛ぶ。飛びつくにはまだ早い。Rさんは『きつねのおこおこ』とは言っていない。もしかしたら全然違うネタかもしれない。
無言を否定と受け取ったのか、Rさんは箸を軽く浮かせて続ける。
「なんかぁ、V業界から流れてきた噂らしいんですよ。あたし全然知らなくて。だからムスメちゃん……あっ、Vでのムスメちゃんね? へへへ、あの子に聞いてみたんですね。初配信は見れたんだけど、その後忙しくて追えてなかったし」
Vtuber。きつねのこ。きつねの、おこおこ。
「……それで?」
「知らないらしいです。でも、配信中に似たようなコメントがあったことはあるって。なんだっけかなー……なんか月っぽいやつ……欠けるとか満ちるとかそういうの」
欠ける。満ちる。……月っぽい。
みちるがかける。かけるとみちる。こうこうひかる。
「しかも、延々とそういうコメを流し続けてきたんだって。そんなの荒らしじゃないですか? だから他のリスナーが『やばいからやめろ』って注意したけど全然やめなくて、結局ムスメちゃんが非表示にしてブロックしましたって。……あれ、聞いてます?」
「……聞いてます。牛、追加しますね」
「わーい」
嬉しそうなRさんの声がなんだか遠い。私は自分の声が喉の奥に引っかかるような感覚に陥りながらも、どうにか外に押し出した。
「……そのVtuberさん、なんて名前なんですか?」
「それがさ! あっすぐタメ語になっちゃう、すみません」
「……全然構いませんよ」
枯れそうになる私の声を気にすることなく、Rさんが身を乗り出して続ける。
「誰も覚えてないんですって」
「…………え?」
「それだけじゃないんですよ」
Rさんはおいでおいでをするように手を動かし、私は誘われるがまま彼女と同じように身を乗り出して、耳を向けた。ナイショ話をするテンションだったからだ。
そしてRさんは、思ったとおり声量を抑えて囁いてきた。
「ショートも切り抜きも上がった事があるらしいのに、すぐ削除されるらしい。ファンでしたって言うオタクがいても、誰もイラストにできないらしい。例の歌は卒業配信で歌ったらしいけど、聞いてて不安になる歌だったらしい。……とにかく『らしい』尽くしの、伝説のVなんですって」
そういう『伝説づくり』をしたVだったのかもね、と笑いながら、Rさんは元の場所に戻った。つられて私も座ったけど、なんだか嫌な汗が止まらない。知ってる。冷や汗って言うんだ、こういうの。でもどうしてだろう。私はその『V』について何も知らないのに。ただ、知ろうとしているだけなのに。
「あっ来た来た〜!」
『ニジュウイチバンテーブル、ドウゾオトリクダサイ』
踊るようなRさんの声とほぼ同時に機械的な音声が聞こえ、横を見ると配膳ロボットが立っていることに気がついた。私寄りに立っているものだから、自然と私が生の牛肉が並べられたお皿を手に取り、テーブルに置く。一連の動きをしながらも、背中を伝う汗が止まる気配がなかった。
「ありがとうございますー。はい、ピッ。お戻り〜」
「……Rさん」
「はい?」
「その伝説のVって、どのくらい活動してたんですか?」
「あれっ気になります?」
「ええ、まあ……」
「それがね? また伝説って呼ばれる所以なんでしょうけどぉ。……二週間なんだって」
「二週間……!?」
「それもムスメちゃんが言うには、ですけどね。彼女たちの間でもわりとタブーらしくて、リスナーさんたちにも深入りダメって言われてるみたいで。ソレについて話すのもダメっていうか。オカルト的なもんかもですね。話すと呼び寄せる的な?」
みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに
Rさんの声が遠ざかるのと反比例するように、頭の中で不思議なリズムを刻みながら、メロディーを知らないはずの歌が流れていった。
みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに みちるがかける かけるとみちる こうこうひかる きつねのおこおこ えいえんに