聞いてみますね、と言った手前、Nさんへ報告しなくてはならない。
Yさんが嘘をつくとは思えないが、それでも、人が狂ったり消息不明になったりなどと物騒な話なんて、狭い業界で行き渡らないはずがないのではないか。それとも歴の浅い自分にまで回ってこないだけで、ベテランの皆様方の中では有名な話だったりするのだろうか。
でも、だとすると、Nさんが知っていても不思議ではないはずであり、私なんぞに訊いてくるはずがないというのが自分の中での結論になった。詳細は省きつつも、「少し変な噂はあるようです」と結論だけ伝えて、万が一を考えて「もし音声データが届いても開けずに処分してください」と言えばいいか。いや、そうすると「どうして?」と聞き返される可能性が──
「お疲れさまですー」
「あっ、お疲れさまです」
「珍しいですね。眠かったりします?」
「あぁいえ。すみません、そういうわけじゃないんですけど」
Nさんとのトーク画面を開いたままだったスマホをしまい、立ち上がって会釈をする。
喫煙室から戻ってきたZさんは「や、座っていいすよ」と笑いながら、そばにある自販機のボタンを押す。派手な音を立てて転がり落ちてきたのはエナジードリンクだった。それを手に取ると、斜め前に座り「ふう」と息を吐いた。そのタイミングと同じくして言葉に甘え、長椅子に座り直す。
Yさんに話を聞いた食事会から、さらに一週間が経っていた。
シナリオディレクションという仕事のために入っている収録現場は、台本の半分まで進んだところで休憩時間となっていた。収録中はチェックに集中していたものの、そこから外れると気になるのはやはりNさんのことだ。Yさんから聞いた話をどうまとめてNさんに送ろうかを悩んだまま、時間が経ちすぎてしまっている。
それでも、休憩中といっても、役者さんやディレクターさんがいる場で考え事をしているのはよくない。ディレクターさんはまだコントロール室にいるが、他でもない役者さんが目の前(斜め前だが)にいる。現場が始まる際にテーブルに置いた差し入れを示し、「よかったら」とZさんに声をかけた。
Zさんは軽く頷くと「ありがとうございます。では遠慮なく」と手を伸ばす。個包装を開け、中のお菓子をひょいと軽く口へ放り投げた。
Zさんは事務所所属の男性声優さんで、時々顔出しの仕事もしているらしい。ディレクターさんを含めた雑談でそういった話が出ることもあるが、なにせ自分が全く詳しくないので申し訳なくなることもありつつも、前述の通り、声優=職人さんとして見ているということは、たしか何度目かにご一緒した頃に話の流れで伝えた気がする。Zさんの反応は、Nさんと似たようなものだったように思う。
「そういえば、この前話してた本って読みました?」
何を話しかけようかと考えていると、Zさんが口を開いた。彼は小説を好んで読むらしく、ただし私とは嗜好が違うようで、以前作家さんをお勧めしあったことを思い出した。
「ああ! 読みました。初めてのジャンルだったんですけど面白かったです」
「名前覚えきれました?」
「ええ。日本史だと思えば」
「あははっ」
「家に時代小説があるのは変な感じです。これ以上増やせないのに……」
「電子をうまく使うんですよ、そういう時は」
「紙の本が好きすぎて……」
「気持ちはわかります」
私が好んで読むのはホラー(心霊から人怖まで何でも)やミステリーなどの『ほぼ必ず人が死ぬ』ものであり、一部の友人には「あんたの本棚まじ怖い」と言われるほどだ。海外犯罪心理捜査官関連のノンフィクション著作も多くあり、「何かやらかして家宅捜索されたら納得されるラインナップだね」と笑われたこともある。
Zさんもこちらの方面も読むようだったけど、前回お勧めされたのは時代小説だった。
私は日本史──特に戦国や平安あたりは好きだった。でも趣味で読む小説となるとあまり食指が動かず、読書経験はほぼゼロのジャンルだった。それを知った彼が「読みやすくて絶対面白い」と勧めてくれたのは、読書が趣味ならば必ず耳にしたことのある作家さんの作品だった。日曜朝の本コーナーで紹介されたり、作家さんのインタビューも見たことがある。ツイッター……今はXか。あれでもよくおすすめに流れてくる。
時代小説に関しては完全な食わず嫌いに似たものがあったため、「人に勧められたから」という大きな理由を持って、初めて購入した。結果、かなり面白かった。趣味は完全な自分目線の世界で狭くなりがちなものだから、Zさんには感謝している。
「台詞まわしが独特で、声に出すのは大変だろうなと思いました」
収録現場ということもあり、そんな感想も口からこぼれていた。するとZさんは大きく頷き、「もし今後オーディオブックをやらせてもらうことがあったら、間違いなく大変でしょうね」と笑う。その瞬間、あの話が浮かんだ。勿論、Nさんから繋がった例のVtuberのこと。
そういえばZさんもNさんと同じ業界どころか同業種だった。何か。何か知ってはいないだろうか。話をどうにか自然にもっていけないだろうか。
「何気にナレーションとかでもあり得そうですよね」
「大河からバラエティーまで色々ありますからね。やってみたいなぁ。どんどん競争率は高くなっていくしなー……」
「ああ、確かに……声のお仕事も声優さんに限らずなところはありますもんね」
「そうなんですよねー。顔出しの役者さんで声も魅力的な方々とかいますし。俺も頑張んないと」
「まだまだ種蒔きは必要ですか」
「ですね。まだまだ」
視線は私と合わせたまま、手元では軽く電子タバコで遊びだしたZさんを見ながら、珍しいなとふと思う。
彼は相手が誰彼問わず、人と話す時はいつも半身を乗り出すようにしていて、話に集中している印象が強いからだ。ほぼ初対面の頃、一見爽やかで穏やかに見える外見とは裏腹に、心の炎は激しい方だと感じた頃からずっと変わらない。
とりあえず、こんなふうに、手元が落ち着かない姿は初めて見る。
「CMとかだと、最近はVtuberさんも出ますもんね。若い子に人気っていうか」
思いきってそう口にした時、Zさんの指が止まった。
それでも滑らかに唇は動いた。
「あー、勢いすごいですよね。周りでもわりと聞きますよ、ファンって人」
「やっぱり。私もイラストレーターさんからお勧めされて見るようになりました」
「歌が上手い人とかもいるんですよね。すげぇや」
「あ。じゃあZさんは『きつねのおこおこ』って知ってます?」
歌というワードを出してくれたところで突っ込むと、止まっていた指が一瞬ぴくりと動いて、機械的に動き始めた。
知ってる。Zさんは、何か知ってる。それなのに、
「いやぁわかんないですね。アレじゃないですか? ホラーブームに乗っかって令和版オカルトを作りたい人がいるとか」
彼から出たのは柔らかな微笑みと、否定の言葉だった。おまけに彼なりの説まで聞かせてくれる。
その様子にどこか不可思議な印象を抱きながら、その声がどこか遠くから──まるで膜が張った向こう側の空間から聞こえた気がした。収録中はヘッドフォンが必須だから、耳がおかしくなったかな。
「まぁそうかもしれませんね。ホラーブームは嬉しいですけど」
「この前久々に本屋行った時コーナーが作られてましたよ」
「ああ、私の行きつけも同じです」
「本屋の行きつけって。常連ならわかるけど」
いつものように笑い出したZさんを見て、軽い世間話の一環として流すことが出来たと察する。私のホラー好きは知られているはずだから不自然な点はない。よかった。戻った。……戻ったって言い方も変だけど、感覚として。
仕事上とはいえ、数年の付き合いがある目の前のZさんにこれまでと違う印象が湧きあがりつつも、深追いは良くない。ビジネスな関係であるからこそ、彼を不愉快にさせてはいけない。だってさっきの微笑みには、確かに、やんわりと拒絶の意思を感じた。
──いやでも、待てよ。私はただ『きつねのおこおこ』を知っているかと聞いただけだ。それなのに、どうしてZさんはホラーブームとか令和版オカルトとか言い出したのだろう? ……なんで?
楽しそうに話を続けるZさんの指は、差し込み用タバコをぐにゃりと歪めていた。