「なんだこれぇ?」
「ちょっYさん、声が大きいです」
「いいだろ別に。誰も聞いてやしねぇよ」
そう言いながら、Yさんは片手に持った何杯目かもわからないジョッキを高らかにあげ、ほれ見てみろよと言わんばかりに顎をクイとあげた。十人ほどが集った居酒屋の一角で、それぞれが思い思いに盛り上がっている。半数以上の人たちはすでにアルコールで出来上がっており、Yさんの言うとおり、誰が何を話しているのかなんて気にしていなさそうだ。
Nさんから例の話を聞いて五日後。
以前何度かお世話になったことのあるディレクター──音響監督のYさんにお招きいただき、Yさんのお仲間が集まる食事会に初めて参加していた。美味しい食事とお酒が大好きなクリエイターたちの集まりらしく、なるほど仕事の話はカケラほどもしていない。逆に熱すぎるほど仕事について語り出すターンはあったものの、すでにメイン料理も終わった今はほとんどの人たちが趣味の話へと移っていた。
ぐびりと喉を鳴らして黒ビールを流したYさんは、「そんで? これがなんなの」と続きを促してくる。
Yさんは業界歴二十年以上のベテランで、音に厳しく常に追求を怠らない人だ。車や音まわりなど好きな物事に関しての博識ぶりは、とにかくただ「すごい」としか言えない。内容が全くわからないながらも、Yさんの話はどれもこれも興味深く、聞いていて楽しい上に勉強にもなるということで、仕事でご一緒できる度に「今日はどんな話を伺えるのだろう」と前のめりになっているのが正直なところだ。
そういう理由もあって、Nさんから例の相談を受けた時、真っ先に浮かんだのがYさんだった。ベテランで長年色んな人たちと仕事をしている彼ならば、小耳に挟んだことくらいあるのではないか。
Nさんから送られてきたスクショを見せていたスマホをしまった私は、届いた六杯目のジンジャエールを口にしてから続ける。
「だから、何なんだろう? って話です」
「難儀なこと言うね〜」
最初の乾杯から全く顔色を変えないまま、Yさんのジョッキはあっという間に空になった。一体どうなってるんだこの人は。
「若い方とお仕事した時とか、なんかこう……チラッと聞いたことありませんか? 私は童謡っぽいなと思ったんですけど、ググッても出てこなくて」
「うーん……童謡ね〜……」
「ぽくないですか? 『みちるがかける、かけるとみちる、こうこうひかる、きつねのおこおこ、えいえんに』。リズム的にも遊んでるというか」
「……ん? もう一回言ってみ。こうこう、なんだって?」
画面が見えてなかったのかな、やっぱり酔ってるのでは? と内心ツッコミつつも、「『こうこうひかる、きつねのおこおこ、えいえんに』です」と繰り返す。
Yさんは空のジョッキをドンとテーブルに置いて腕を組み、何やら考え出した。時々首を右に左にと揺らしながら、何かを思い出そうとしているのはわかる。
「……みちる……かける……ひかる……えいえんに……。……えいえんに……?」
小声で何度も呟き、ウウンと唸った。「なんか思い出しそうなんだよな」と眉間に皺を寄せて、完全に身体が固まっている。方々で盛り上がっている仲間たちの声は聞こえず、目の前にいる私の姿は見えていない。Yさんがそのくらい集中しているのはわかった。
聞いたのはこちらなのだから、焦らせる必要はない。とりあえず時間を潰すため、空いた皿を重ねてテーブルの端に置いた。グラスやジョッキも同じく端に寄せると、ちらほらとテーブルに落ちている小さなパセリなどが見えてきた。それを割り箸で摘み上げ、空いた皿に乗せておく。
「あーわかった。思い出したわ」
そのタイミングでYさんが顔を上げた。「おう、片付けてくれたのか」と軽くお礼をしてくれた上で、「思い出した思い出した」と身を乗り出してくる。
「知ってるんですか、これ」
「やー知ってるというか、ちらっと聞いたのを思い出したんだよ」
「どんなお話です?」
Yさんが眉間に皺を寄せた。何回か見たことがある表情だ。不快な思いをしている時のYさんの顔。
「……なんか嫌なことですか?」
「あー……そういうわけじゃねぇんだけどさ」
追加された黒ビールのジョッキに手をかけながら、またウウンと唸って続ける。
「なーんか、音まわりでヤな感じの噂を聞いてよ」
「音まわりの噂……?」
「そー。多分そのフレーズだったと思うんだよなあ」
「……さっきの、童謡みたいなやつですか?」
「オレは童謡とは思えねぇんだ。まずキツネってのがな」
「……キツネだと、何かあるんですか」
「オレがトシだからかもしんねぇけど、おキツネさまって言やぁ霊獣だろ。神様の使いってやつ。それにお稲荷さんだってある。お遊びで扱っちゃいけないモンだよ」
「それはまあ、確かに……」
「でな。なんかほら、昨今流行ってるだろ。ぶいちゅーばーってやつが」
「ああ、Vtuber。わかります」
Vtuber業界は、近年著しい成長を遂げている産業だ。上場している企業から個人まで幅広い層があり、ファン層もおそらく同じくらい限りはないのだろう。
かくいう私も楽しませてもらっている一人だ。ファンというには烏滸がましいほどニワカもいいところだけど、歌がうまかったり、ゲーム実況が面白かったり、専門的な知識を持っていたりと各々の魅力が確かにある。毎回欠かさず見るというほどの情熱はないけど何人かはチャンネル登録もしているし、応援の気持ちを込めて、メンバーシップ登録もしてみた。なお、コメントはほぼしたことがない。インターネットで育っていないのもあって、おいそれと書き込める気持ちになれないからだ。
でも、今このタイミングでYさんからVtuberというワードが出てくるのは想定外だった。よく考えれば、配信番組などの音まわりの仕事もしている方なのだから、関係なくはないといえばそうなのかもしれない。顔の広い方でもあることだし。
Yさんはまたもやジョッキを空にして店員さんに追加を頼みながらも、それに全くそぐわない表情を浮かべてこちらを見る。
「前に仕事した若いヤツが、ちょろっと言っててさ」
「……さっきのDMと関係があるんですか?」
「や、微妙に違う。それを歌って卒業したVtuberがいるっていう噂だよ」
「歌って卒業……」
卒業というのは、活動を辞めることとイコールらしい。
というか、やっぱり歌なんだ。
納得しかけてところで、目の前にYさんの手が遮るように現れた。手刀のようにして私の視線を奪う。
「ただそいつのチャンネルは残ってねぇし、ファンだったって騒ぐヤツらも名前を思い出せないときた。なんなら外見についてさえも記憶が曖昧らしい。例の歌とやらも、卒業当日は勿論、それまでの配信も切り抜きひとつ残ってやしねぇんだ。だから現実だったのかさえ確認しようがない。どう考えてもおかしいだろ、令和の時代によ」
「それは……変ですね」
確かにおかしい。ファンを自称する人たちがそのVtuberの名前すら思い出せないのも不可解だけど、人間の記憶はいつだって曖昧とも言える。ただ、それよりもっとおかしいことは、動画の切り抜きすら残っていないという点。インターネットに何でも漂う現代で、何ひとつ残らないことなんてあるはずがない。何年も前のテレビ番組ですら、Youtubeに上がっていたりするのに。
──あ。と、そこで気づく。
自分だって歌詞だと思い込んでググったではないか。それでもヒットせず、『もしかしたら?』さえ出てこなかった。だからこそ人に聞くしかないと思ったのだ。つまりそれは、データとして何ひとつ残っていないということ。
「なのにさあ、音まわりの若いヤツらの中で、それっぽいデータがいきなり送られてきたって話があるわけ」
「えっ」
「なんで忘れてたんだとか言うなよ? トシだからってだけじゃねぇんだ」
「……というのは……?」
「長いこと業界にいるけど、触っちゃいけねぇモンってのがある。なんでわかるかって言われても勘でしかないけどな。アレはソレなんだよ。アイツらにもそう言った。削除して忘れろってな」
「……皆さん、素直に従うものですか?」
まだまだ新人だと自認する私が言うことではないが、これまで関わってきたクリエイターの方々は好奇心の塊のようなタイプが多い。とにかく満足しない。自分の技術を磨き続けるだけではなく、新たな知見を求めていたりする。貪欲なのだ。
Yさんは大袈裟にため息をついて、首を振る。
「いーや。長い付き合いのヤツらはそうしてくれたみてぇだけど、又聞きしてきたような若い連中の一部には、データをダウンロードしたヤツがいたらしい。オレが聞いたとこだと、二人な」
「……それで……?」
聞いていいものか悩んだが、聞くしかない。息を呑むように投げかけると、おそらく二桁に突入した黒ビールのジョッキに手をかけ、Yさんは明後日の方向を見た。そのまま静かに目線を落とすと、「年寄りの言うことは聞くモンだ」と悔しそうに呟いて、続ける。
「一人は狂い、一人は消息不明だそうだよ」