帝のおわす都から東の方角に数えて、6番目に位置する東六ノ国。
小さな小さな国で、しかもその治める土地のほとんどは山地である。
緩やかな斜面に棚田があることにはあるが、収穫できる米は僅かで、領民の腹をいっぱいに満たすことなど到底できず、主食は芋に頼っている。
山に入れば山菜のほかに、蜜柑や山葡萄といった果物もなってはいるが、決して豊かとはいえない──
そんな東六ノ国に、隣の東七ノ国より突如同盟の申し入れが舞い込んできた。
そういう訳で、東六ノ国を治める東雲家と家臣の面々は、床に広げた東七ノ国からの書状を睨みながら、上を下への大騒ぎをしている最中だ。
「同盟と申しても、これでは従属ではないか。暁月家当主の三男とうちの姫の縁組というのは、要するに体のいい人質ということであろう」
「そもそも、東七ノ国は何が狙いなのだ? あちらの領地は広大で、しかも肥沃な平野が大半を占めているというのに……」
「そうよなあ。うちみたいな小国、毒にも薬にもならんはず」
『うーん』と首をどれだけ傾げようとも、答えが転がり落ちてくるわけでもない。
空気が煮詰まって重くなるのみだった。
殿様が何か言ってくれはしまいかと、皆が一斉にその顔色を窺ったときだった。
襖の向こう側から声がかかった。
「密偵が戻りました」
「おお、すぐにこちらに通せ」
近隣の国には常時密偵を送っている。
この書状が届いてすぐのタイミングで、東七ノ国に遣っていた密偵を呼び戻していたのだ。
「東七ノ国の目的は分かるか?」
「はい。『東六ノ国は得体が知れなく不気味だから、とりあえず忠誠を誓わせておきたい』ということのようです。それから『どうも諜報活動に優れているらしいから、それを利用しない手はない』とも」
殿様は頭を抱えた。
「何と! 戦乱に巻き込まれぬよう、ひっそり目立ずを信条としてきたというのに、そこに目をつけられるとは!」
「殿、どうされますか?」
家老が尋ねると、殿様はうな垂れて声を絞り出した。
「夏梅を、ここへ……」
※
呼ばれた理由を知らない夏梅は、のほほんとした表情で現れた。
その緊張感のなさが、よけいに皆の心を苦しめた。
「夏梅、そなたに縁組の話が参った」
「ええっ、私はまだ16ですが⁉︎」
「16なら十分であろう。それに長女のそなたがこの話を受けなければ、妹たちに回さなければならん」
「それはつまり、お断りできないお相手ということ?」
「暁月家の三男だ」
夏梅は白目をむいた。
「暁月家とは、東七ノ国の?」
「宗三郎という名だそうだ」
「なーんと面白い冗談でしょう!」
引きつり笑いが廊下まで響いた。
「冗談などではない」
殿様は床の書状を拾い上げ、夏梅に差し出した。
夏梅はそれを受け取ると、目を大きく見開いて読み始めた。
「父上……私眩暈がしそうです」
「眩暈を起こしてぶっ倒れるのは構わん。ただし、変化は保ったままでだ」
「無茶です!」
「無茶でもやるしかない!!」
「そんな……」
しかし、幼い妹たちにこの役目を押し付けることはさらにできない、とも分かっている。
不安と恐怖で窒息しそうだったが、どうにか声を押し出した。
「……承知しました」
安堵のため息が何重にもなって聞こえた。
ことさら殿様は力が抜けたようだった。
「ですが……」
夏梅は書状から顔を上げ、皆を見やった。
「万一バレてしまったときには?」
再び緊張が走る。
皆して青い顔になった。
「バレてしまったら……だと?」
「そうです。如何しましょう?」
「そ、それは……」
夏梅はひと言も聞き漏らすまい、と耳に神経を集中させた。
「臨機応変に対処せよ!」
父親に突き放され、絶望するよりほかはなかった。
「まさかの丸投げにございますか……」
「ぐっ……! ええーい、その場の雰囲気や緊迫具合によっても、判断は変わるであろう。嫁にいくのだから、これから先は自分の頭で考えなさい」
「そんなあ……」
※
こうして暁月家に嫁入りすることが決まった夏梅は、輿に乗せられ隣の国へと運ばれた。
夏梅が輿の真ん中で丸くなっている間、暁月の城では祝言をあげる準備が整えられていた。
「夏梅姫、そろそろ……」
「分かったわ」
輿かきに声をかけられた夏梅は、しゃんと背筋を伸ばして変化し、己れの未来を祈った。
しかし、城の中へと入ると、自己紹介もそこそこに、あっという間に祝いの席に座らされてしまった。
あまりの急展開にあっけに取られた。
そんな状況にあっても、夏梅は隣に座る人物のことが気になった。
夫となる宗三郎に違いない。
意を決して横目で宗三郎を盗み見ると、とても落ち着いた様子で座っていた。
今どんな気持ちでいるのだろうか。
この祝言に戸惑いも嫌悪も抱いていないように見受けられるが、諦めの境地なだけかもしれない。
横顔の輪郭はすっきりとしている。
その尖った鼻先に視線がいったとき、夏梅の鼓動は途端に速くなった。
意味もなく恥ずかしくなってしまい、慌てて正面を向いた。
そこからは勧められるがままに、ご馳走をたらふく食べ、お酒もぐいぐい飲んだ。
酔いと一緒に疲れが身体を駆け巡る。
「おおい、花嫁はもう限界だぞ」
「寝所に案内してさしあげろ」
こうしてあっさりと寝所に連れて行かれて、気がつけば新婚夫婦のみにされていた。
本来ならば緊張しなければならないところだが、夏梅には確かに限界がきていた。
これ以上この姿を保っていることはできなかった。
ドロン!!
しまったと思ったが、もう遅い。
「た、狸!?」
宗三郎が驚き震えた。
「狸、お前は夏梅に化けていたのか? して、本物の夏梅はどうした?」
「私は誓って本物です!」
狸の姿のまま、泣きながら訴えた。
が、まともに聞いてもらえたかどうか怪しいところだ。
「モフモフじゃあ!」
「きゃあああああーー」
宗三郎は目尻を極限まで下げ、夏梅のことを抱き上げたのだった。
END
小さな小さな国で、しかもその治める土地のほとんどは山地である。
緩やかな斜面に棚田があることにはあるが、収穫できる米は僅かで、領民の腹をいっぱいに満たすことなど到底できず、主食は芋に頼っている。
山に入れば山菜のほかに、蜜柑や山葡萄といった果物もなってはいるが、決して豊かとはいえない──
そんな東六ノ国に、隣の東七ノ国より突如同盟の申し入れが舞い込んできた。
そういう訳で、東六ノ国を治める東雲家と家臣の面々は、床に広げた東七ノ国からの書状を睨みながら、上を下への大騒ぎをしている最中だ。
「同盟と申しても、これでは従属ではないか。暁月家当主の三男とうちの姫の縁組というのは、要するに体のいい人質ということであろう」
「そもそも、東七ノ国は何が狙いなのだ? あちらの領地は広大で、しかも肥沃な平野が大半を占めているというのに……」
「そうよなあ。うちみたいな小国、毒にも薬にもならんはず」
『うーん』と首をどれだけ傾げようとも、答えが転がり落ちてくるわけでもない。
空気が煮詰まって重くなるのみだった。
殿様が何か言ってくれはしまいかと、皆が一斉にその顔色を窺ったときだった。
襖の向こう側から声がかかった。
「密偵が戻りました」
「おお、すぐにこちらに通せ」
近隣の国には常時密偵を送っている。
この書状が届いてすぐのタイミングで、東七ノ国に遣っていた密偵を呼び戻していたのだ。
「東七ノ国の目的は分かるか?」
「はい。『東六ノ国は得体が知れなく不気味だから、とりあえず忠誠を誓わせておきたい』ということのようです。それから『どうも諜報活動に優れているらしいから、それを利用しない手はない』とも」
殿様は頭を抱えた。
「何と! 戦乱に巻き込まれぬよう、ひっそり目立ずを信条としてきたというのに、そこに目をつけられるとは!」
「殿、どうされますか?」
家老が尋ねると、殿様はうな垂れて声を絞り出した。
「夏梅を、ここへ……」
※
呼ばれた理由を知らない夏梅は、のほほんとした表情で現れた。
その緊張感のなさが、よけいに皆の心を苦しめた。
「夏梅、そなたに縁組の話が参った」
「ええっ、私はまだ16ですが⁉︎」
「16なら十分であろう。それに長女のそなたがこの話を受けなければ、妹たちに回さなければならん」
「それはつまり、お断りできないお相手ということ?」
「暁月家の三男だ」
夏梅は白目をむいた。
「暁月家とは、東七ノ国の?」
「宗三郎という名だそうだ」
「なーんと面白い冗談でしょう!」
引きつり笑いが廊下まで響いた。
「冗談などではない」
殿様は床の書状を拾い上げ、夏梅に差し出した。
夏梅はそれを受け取ると、目を大きく見開いて読み始めた。
「父上……私眩暈がしそうです」
「眩暈を起こしてぶっ倒れるのは構わん。ただし、変化は保ったままでだ」
「無茶です!」
「無茶でもやるしかない!!」
「そんな……」
しかし、幼い妹たちにこの役目を押し付けることはさらにできない、とも分かっている。
不安と恐怖で窒息しそうだったが、どうにか声を押し出した。
「……承知しました」
安堵のため息が何重にもなって聞こえた。
ことさら殿様は力が抜けたようだった。
「ですが……」
夏梅は書状から顔を上げ、皆を見やった。
「万一バレてしまったときには?」
再び緊張が走る。
皆して青い顔になった。
「バレてしまったら……だと?」
「そうです。如何しましょう?」
「そ、それは……」
夏梅はひと言も聞き漏らすまい、と耳に神経を集中させた。
「臨機応変に対処せよ!」
父親に突き放され、絶望するよりほかはなかった。
「まさかの丸投げにございますか……」
「ぐっ……! ええーい、その場の雰囲気や緊迫具合によっても、判断は変わるであろう。嫁にいくのだから、これから先は自分の頭で考えなさい」
「そんなあ……」
※
こうして暁月家に嫁入りすることが決まった夏梅は、輿に乗せられ隣の国へと運ばれた。
夏梅が輿の真ん中で丸くなっている間、暁月の城では祝言をあげる準備が整えられていた。
「夏梅姫、そろそろ……」
「分かったわ」
輿かきに声をかけられた夏梅は、しゃんと背筋を伸ばして変化し、己れの未来を祈った。
しかし、城の中へと入ると、自己紹介もそこそこに、あっという間に祝いの席に座らされてしまった。
あまりの急展開にあっけに取られた。
そんな状況にあっても、夏梅は隣に座る人物のことが気になった。
夫となる宗三郎に違いない。
意を決して横目で宗三郎を盗み見ると、とても落ち着いた様子で座っていた。
今どんな気持ちでいるのだろうか。
この祝言に戸惑いも嫌悪も抱いていないように見受けられるが、諦めの境地なだけかもしれない。
横顔の輪郭はすっきりとしている。
その尖った鼻先に視線がいったとき、夏梅の鼓動は途端に速くなった。
意味もなく恥ずかしくなってしまい、慌てて正面を向いた。
そこからは勧められるがままに、ご馳走をたらふく食べ、お酒もぐいぐい飲んだ。
酔いと一緒に疲れが身体を駆け巡る。
「おおい、花嫁はもう限界だぞ」
「寝所に案内してさしあげろ」
こうしてあっさりと寝所に連れて行かれて、気がつけば新婚夫婦のみにされていた。
本来ならば緊張しなければならないところだが、夏梅には確かに限界がきていた。
これ以上この姿を保っていることはできなかった。
ドロン!!
しまったと思ったが、もう遅い。
「た、狸!?」
宗三郎が驚き震えた。
「狸、お前は夏梅に化けていたのか? して、本物の夏梅はどうした?」
「私は誓って本物です!」
狸の姿のまま、泣きながら訴えた。
が、まともに聞いてもらえたかどうか怪しいところだ。
「モフモフじゃあ!」
「きゃあああああーー」
宗三郎は目尻を極限まで下げ、夏梅のことを抱き上げたのだった。
END