菜沙さんから渡された封筒の中身はまたも、住所書かれた紙だった。今度は鍵も同封されていたが。
例の住所は商店街近くのマンションの一室だった。
オートロック付きでセキュリティとしっかりしていたマンションだったので、入るのに少し緊張した。
「お邪魔します」
鍵を差し込み、部屋の中に入ったものの、返事はなく、電気は全て消えていた。
廊下を歩いていくと、左右に部屋が一つずつ。
さて、女性の部屋を勝手に覗いてもいいものか……。
思案してみた結果、鍵も渡された上に、本人に調査の依頼を受けているのだから、やるしかないでしょ。という考えに至ったので扉を開けることにした。
右手側の扉の向こうは寝室だった。
部屋の中にはベッドがあるだけ。そのベッドも枕も白で統一されていて、どこか病院の入院室を思い出す。
一部屋にベッド一つしかないので、その分だいぶ広く感じる。
特に探るような所もないので部屋を出て、今度は左にあった部屋へと進む。
「これは……」
天井から吊るされた、輪っかの作られたロープ。その真下には倒れている椅子。
まるで自殺現場を見ているようだった。
「死体がないのだけが幸いか」
周りも見てみるも、先程の寝室同様、ロープと明日以外は何も無い。
志崎詩音はミニマリストなのだろうか?
部屋を出て、突き当たりの扉を開けるとそこは広々としたリビングだった。
さすがにリビングには生活感が出ていて安心した。
リビングの横には部屋どうしが繋がるような形でパソコンが置かれた作業部屋のような場所を見つけた。
パソコンの横には写真立てと、髪ゴム、ストローの刺さったペットボトルなどを見つけた。
写真立てに飾られた写真は学校の窓際で撮った写真のようで、風がカーテンを揺らす風景が撮られていた。
しかし、そのアングルはカーテンや窓を主役として撮っている構図には見えず、まるで僕には見えない何かを撮っているように思えた。
その隣に置いてある髪ゴムは菜沙さんの言っていた、ラベンダー色の髪ゴム。
これを見て、志崎詩音は会わないなどと言っておきながら、なんだかんだ妹のことが好きだったんだなと胸がじんわりとした。
ペットボトルについても特に違和感はないようにおもえるが、呪いについてのこともある、もしかしたら志崎詩音は既に両腕が満足に使えず、わざわざストローをさしているのかもという考察もできる。
リビングの方へ戻り、テーブルの上を見ると、あるものが目に留まる。
机の上に置かれた一冊の冊子と、分厚い封筒と薄い封筒。
まずは分厚い封筒を開けると、中には一万円の札束が入っていた。
おそらく、五百万円ほど。
驚いたまま、薄い封筒を開けると、それは志崎詩音が書いたのだろう手紙――遺書が見つかった。
探偵さんへ。
私の勝手な行動に付き合わせてしまってすみません。
隣に置いてある封筒はもう見られましたか?
中には報酬金五百万円が入っています。
受け取ってください。
きっと、探偵さんは今、困惑していると思います。
まだ依頼されていた行方不明者を見つけられていないのに、と。
それは当然です。
もう彼は既に亡くなっていますから。
ですから、探偵さんがこの依頼を完璧終えることは不可能だったのです。
ですが、調査の終着点は決めていました。
それがここです。
横には、私の書いた一冊の小説が置かれていると思います。
その中に私と彼、『佐倉景』の全てが書かれています。
それを読めば全てが分かります。
読むか読まないかは、探偵さんにおまかせします。
今までの調査、本当にありがとうございました。
私たちを見つけ出してくれてありがとうございます。
以下、探偵さん以外の方へ宛てた遺言書とさせていただきます――
どうやら、僕の任務はこれで完了したらしい。
僕は薄い封筒と五百万円を手に取って、カバンに詰めた。
椅子に座り、その小説と向き直る。
これは、彼女、志崎詩音と、佐倉景にまつわる呪いと青春の話。
以下、小説の内容をそのまま添付したものです。
小説の内容について途中で言及したりすることはしません。
それ以上は、野暮ですから。
それだけ二人の物語は壮大で、恐怖で、甘酸っぱかった。
「ねぇ、君の名前はなんて言うの?」
教室の左角の席にいた男子生徒に声をかけた。
転校初日というのは多くの人から話しかけられるものであり、ここの時点で友達を如何に多く作って置くかというのが今後の学校生活、特に途中参戦した身として、とても重要になってくる。
向こうから話しかけてきた人とはある程度仲良くなった。
この時ばかりは特に使い道もない、なんなら変な人に絡まれることが増えるだけのこの容姿も役に立つ時があるんだなと思った。
『あんたは変だから。これを機にいい加減普通になりなさい。そのくだらないことを趣味なんて言うのはやめて』
引っ越しが決まってから散々聞いた母の声が脳の奥でこだまする。
大丈夫。今度は失敗しない。
後は彼と友達になればこのクラスの人は全員と知り合えたことになる。
初日の放課後でこれならかなりいいペースだろう。
私と入れ替わるようにこの学校を離れた子が居たようでその子のポジションにすっぽりとハマる感じに演じたのが功を奏したみたいだ。
みんなに愛されるキャラクターを演じるのは本当に面倒くさい。けど、仕方ない。割り切るしかない。
放課後、誰もいない席で私は彼の目の前の席の背もたれに前のめりにもたれ掛かるように座った。
ちょっと仕草がやんちゃかもしれないと思ったけど、今は彼しかいないし、少しくらい素を出したっていいと自分を甘やかした。
今までの猫かぶりでちょっと疲れてたし。
「……佐倉景っていいます」
「私は志崎詩音!よろしくね」
握手を求めるように彼の方へ左手を突き出すと、オレンジ色の夕日が差し込む窓から吹いた突風が私の髪と、彼の左腕の袖を揺らした。
その光景に私は息を飲んだ。
彼には左腕が無かったのだ。
やってしまった。配慮が足りなかった。
彼の左腕はは席と壁の狭い間に下ろされていて、ただ手を下ろしているだけだと思っていた。
その上、左利きの私は、無意識に左手で握手を求めてしまった……。
「僕とはあまり仲良くしない方がいいよ」
「えっ……」
私の配慮不足で気を使わせてしまったのだろうか?
申し訳ないことをした。
その事で私の頭はいっぱいいっぱいだった。
「ごめん、私の考え足らずで嫌な思いをさせちゃったよね……」
「あ、そのことはいいよ。慣れてるから」
彼は暗い性格なのだろうけど、私のためを思ってか、努めて明るい声音で言ってくれた。
「そっか。そう言ってくれると助かる。でも、今度からちゃんと配慮するね!だから、そんなことを言わずに私と仲良くしてくれると嬉しいなぁ」
明るく、柔らかい口調で言った。
男子にはこういう性格が好評だったし、多分これが正解なんだろうと勝手に結論付けた。
これで、きっと彼も首を縦に振ってくれて、私はようやく『普通』になれると思った。
「ごめんなさい。それはできません」
私の予想は裏切られることとなった。
「なんで?」
どこで間違えてしまったのだろうか。もしかして、許すとは言ってくれたけど実は酷く傷つけてしまっていたのだろうか。
神経質な問題というのは、他人からの無意識な言動が一番心にくるという話をどこかで聞いた覚えもある。
それ故、周りの人にはその人に対しての配慮が必要だという話も。
もし、私が彼を傷つけてしまっていたら、私は『転校初日からクラスメイトの地雷を踏み抜いてしまった人』になり、学校生活が終わってしまう。
……お母さん達が求めるような『普通』の高校生ではなくなってしまうかもしれない。
彼は昼休みの間や移動教室の間も一人のように見えたけど、同じクラスではなくても他クラスに知り合いが入れば、その噂はいずれ、部活で広まり、学年で広まり、果てには学校全体の噂になる。
しかも、十中八九尾鰭つきの。
それだけは避けなくちゃいけない。
「私のさっきの行動が気に触ったなら本当にごめんなさい。私、君と仲良くなりたいの」
そういうと彼は少し困った顔をして、目が隠れそうな勢いの重そうな長い前髪を触った。
「さっきのには本当になんとも思ってないんだ。誤解させてたならごめんなさい。仲良くできない理由は他にあって……」
良かった。
ひとまず、彼を傷つけた訳でもなさそうで無事学校全体から『非道な女』扱いされることだけは避けられそうだ。
しかし――
「他の理由って?」
なら、なんで駄目なんだろう。
頑なに拒み続ける理由がよく分からない。
この学校に来るまで人とのコミュニケーションなんてどうでもいいと思っていた私が思うに、こういう場合はその場は適当に「はいはい」と言っておいて、実際はいつも通り過ごす。というのが一番効率がいい。
きっと彼も分かっているはずだ。今日一日ずっと一人だったし。
そういう意味では、私は彼と近い存在なのかもしれない。
だからこそ、その理由が分からなかった。知りたくなった。
「……はぁ」
彼は折れずに自分の目を見つめ続けている私を見て、ようやく重い口を開いた。
「どうしても知りたいの?」
「うん。どうしても知りたい」
彼は表情は何かに揺らいでいるように見えた。
「……誰にも言わない?」
「言わない。約束する」
しばらくの沈黙が続いた。
彼は何かを言おうとしてはパクパクと口だけを動かし、葛藤している様子だった。
「私は、君を絶対に否定しない。だから、私を信じて」
その一言に彼はたった一言だけ「そっか」と小さく漏らして、私のに改めて向き直って言った。
「――呪われちゃうから」
私はその一言を聞いて椅子から飛び上がった。
彼は私の驚きように驚き、「ごめん、変なこと言ったよね。忘れて」と言ったが、それを無視して私は彼の肩をがっしりと両手で掴んだ。
「どんな呪い?!」
「え?」
状況が掴めずにキョトン顔の彼に私は告げた。
「私ね、オカルトマニアなの!」
お母さんから、『変な子』、『普通じゃない』、『黙ってさせえいれば』なんて嫌味を言われ続け、冷遇されてきたけど、私は心霊が大好きだった。
科学で証明できない、誰にも予想のつかないその現象は私が幼い頃からずっと私の興味を引き続けた。
それか、私には霊感というものが無かったから、一種の無いものねだりだったのかもしれない。
私が体験した事の無いことを知るのが面白かった。好きだった。
結局、それを異端とされてしまったわけだけれど。
「ねぇ、それでどんな呪いなの?」
さらに彼に迫る私を見て彼はフッと吹き出した。
「最終的に死んじゃう呪い。しかも、移るやつ」
無邪気な顔をしていう言葉じゃないのに、私の心はさらに踊った。
この時初めて私はお母さんが私を異端だと言っていた意味が自分でもわかった気がした。
後になって思うけど、もしかしたらお母さんは私のオカルト趣味のことを異端とだと批難したのではなく、私のその狂気じみた熱狂にそれを見出し、恐れていたのでは無いかと、少しだけ思う。
呪われると死ぬ、しかも、移る。
すなわち、彼といると私は命を危機に晒すことになるということ。
なのに、私は興奮していた。
私が画面越しでしか、話でしか、紙面でしか、聞いてこなかったことがいま目の前にあると思うとさらに感情が爆発してしまいそうだった。
「ねぇ、その呪い。解いてみない。私たち二人で」
「えっ?」
「それがいいよ!私と一緒に生きてよ!」
「でも、迷惑をかけるだろうし、呪いのことだって……」
「気にしない!むしろウェルカム!」
彼の顔にグイッと近づいて、改めて心から思う。
「私と一緒に居てくれますか?」
「――はい」
やはり、私はあまりにも異端だった。
自分の興味のために、命すら捧げることができる。
きっと生粋の異端であり、きっと普通の人間にはなれなかったんだ。
そして、彼がこの時に、私の提案に了承したのも、多分彼は限界だったからだと思う。
彼は呪いに掛かっていたとしても、普通の少年であったから。
人を拒絶し続け、一人であり続けることが彼にとって耐え難い苦痛だった。
そんな中、私が現れてしまった。
呪いの存在を知ってなお、一緒に居たいと言ってくれる。呪いを一緒に解こうと言ってくれる人が現れた。
これからはもう、一人ではない。
その誘惑に彼は抗えなかったのだろう。
「これからよろしくね!」
「うん」
今度は右手を出して、彼と握手を交わした。
これが私たち二人の物語の始まりで、歪で、だけど、世界一純粋な愛の話の始まりだった。
「それで、結局呪いっていうのはどういうやつなのか、改めて整理してみない?」
翌日の放課後、彼にそう言った。
昨日と同じように教室の中にはもう私と佐倉君以外の人はいない。
みんな早々に部活へ行くか、家へ帰った。
この学校は『秘境』と呼ばれるだけあって、山の上にあり、暗くなると坂道を下るのは面倒で学校にいるメリットもない。
学校で勉強する人は自習室を使うし。
「いいけど、ここでするの?」
「いいじゃん。早く知りたいし」
「まぁ、いいけど。でもさ、僕何をどう話せばいいか分からないよ?」
「え、なんで?自分のことじゃん」
「今までまともに人と話してこなかったから」
「あ、そっか」
人に呪いが移る以上、あまり人と交流するべきでは無いのか。
そもそも、それを理由に私も最初は仲良くしない方がいいと言われたわけだし。
なんだかその理由を聞くと、悲しくなってくる。
きっと今までずっと一人だったんだろうなぁ。
「じゃあ、私から質問していくからそれに答えていってよ。それならできるでしょ?」
「分かった……でも、志崎さんノートなんて広げてどうしたの?メモ取るの?」
「そうだよ?だって記録しとかないと後で見返せないし。何か問題があったりするの?呪いについて言及したらそれにも呪いが宿るとか?もしかしてこのノートが呪物になったりしちゃう?!」
「いや、なりはしないと思うよ。あって、痛々しい厨二病の設定ノート」
「それは大変だね」
「君のノートなんだけどね」
そんな馬鹿らしいやり取りに彼はクスッと笑った。
「ただ、そんな真剣に話を聞かれたことがないからなんだかおかしくて、緊張しちゃうだけ」
「なら、これから慣れていけばいいよ」
「え?志崎さんこれからもなんか書いていくつもりなの?」
不思議がる彼に私はさらに不思議そうな顔をして答えた。
「だって呪いを解くんでしょ?なら、これから分かること、いっぱい書くことになるじゃん」
その言葉に彼は驚いた様子を見せ、その後、安心したように息を吐いた。
「そっか。そうだよね」
多分、呪いを解くって私の言葉を本気にしてなかったんだと思う。
でも、今それが本気の言葉だったと納得したようだ。
「それと、私のこと、苗字じゃなくて名前でいいよ。詩音って呼んで」
「分かった。なら、僕のことも景でいいよ」
二人で顔を見合わせて少し笑った後、私は再びペンを持ち、ノートへ目線を下ろした。
「じゃあ景、呪いについて質問していくね」
「分かった」
「そもそも景のかかっている呪いってどういうものなの?」
「う〜ん、ずっと昔からあるものらしいから、詳しく話すとこんがらがるんだけど」と少し唸り声混じりの前置きをすると要点を掻い摘んで話し始めた。
「簡単に言うと、この呪いにかかった人は『世界から消されちゃうんだ』」
「というと?」
「まず、被呪者の四肢が時間の経過とともに少しずつ無くなっていく」
「景の左腕は呪いの影響ってこと?」
「そうだね。詩音が転校してくる数週間前くらいに無くなったんだ」
「え?でも、他のみんなは景の腕が片方のないのは昔からだって言ってたような気がするんだけど……」
確かに私はクラスメイトに景について聞いた時、そう言っていたのを聞いた。
「それがこの呪いの一番の問題点なんだ」
「どういうこと?」
首を傾げる私に彼は話してくれた。
「最後に見た被呪者の姿が、その人の今までの被呪者についての記憶を上書きするんだ」
さらに頭が?が浮かぶ私を見かねてか、景は左腕を前に突き出して、子供に諭すように言った。
「今、僕はみんなからしたら『佐倉景は左腕がない』っていう認識だろ?でも、僕はきっとこの先、右腕や足も失う。例えば右腕が無くなった時、その右腕と左腕を失った僕を見た人の記憶にある『佐倉景は左腕がない』っていう記憶は『佐倉景は左腕と右腕がない』っていう記憶に上書きされる」
「……というと?」
「つまり、僕が明日両腕がない状態になっても、その姿の僕を見た人はその僕の姿を前々からの姿だと誤認するようになってるってこと」
「なるほど」
ここまで簡単にしてもらってやっと理解出来た。
景は上書きと表現したけど、つまりは『塗り替え』。
今までの景のイメージを、最後に見た姿に過去の記憶を改竄し、統一してしまう。
「ってことは、記憶に矛盾が生じない?例えば、今日、景は授業でノートを取ってたけど、景の両腕が無くなるとみんなの中では景は『両腕がない人』のイメージになるんでしょ?でも、実際には景が腕を使って取ったノートが存在することになってちゃう」
「さぁ……どうなんるんだろう?残るとしたらノートを見た人はプチパニックだろうね。それこそ、呪物扱いだ」
彼は想像したのか、クスッと笑った。
その顔を見ると、やっぱり呪いに掛かっているだけで、中身は平凡な男の子なんだなとつくづく思う。
そんな景に私は身を乗り出してある提案をした。
「なら、改めて試してみようよ」
「え?」
「もし、字が残ることが分かったら、もしかしたら景のお父さんが何か残してくれている可能性が出てくるし」
「確かに……」
景のお父さんが日記でもつけていてくれれば、まだ不透明なこれからの景の状況やもしかしたら解呪の方法についても手がかりが見つかるかもしれない。
「でもどうやって?」
「景が手書きの何かを作ってみて、それが景が右腕が無くなった後も残っているか検証しよう。もちろん、右腕が無くなる前に呪いを解くのが一番だけどね」
「でも、何書くの?」
「せっかくだから、残った後にそれこそ呪物みたいな扱いになるものを作る方が面白いと思わない?」
「そんなうきうきな顔で言われても」
「思わないの?だって、自分が作ったものが後世まで大事に保管されて、噂がいつまでも語り継がれるんだよ?」
「大事に保管って言っても寺とかででしょ」
「興味無い?」
「……はぁ、分かった。やるよ、何すればいい?」
「話がわかるね」
こういうグイグイ来る人が苦手なのかな?こういう意見の押し合いになれば大抵折れてくれるな。
「なら、小説か絵はどう?呪いの本とか、呪いの絵とか良くない?!」
「その二つなら……小説かな」
「絵じゃなくていいの?」
「絵はド下手だから。もしかしたら呪い認定される前に子供の落書きとして処分されちゃう可能性すらある」
「それは……確かに困る」
「小説、どんなの書けばいい?」
「なんでもいいよ!景の好きなように書いて!」
「なんて投げやりな……」
「私、一応文芸部入ったから、分からないところあったら教えてあげるよ?」
「そうなんだ。じゃあ、その時はお願いしようかな」
「了解!」
少し和やかな空気が流れ、話は続いていく。
「話を戻すね。四肢が無くなった後は、僕の『名前』がこの世から消える」
「名前?どういうこと?」
「みんな、僕の名前を忘れるんだ」
「それも、さっきみたいな記憶の上書きってこと?」
「これはどちらかと言うと、消去が正しいかな。みんなの記憶から僕の名前が抜け落ちる。そして、僕の名前をどこかで見つけたとしてもそれを僕と認識できなくなる」
「景の名前が思い出せなくなるってことね」
「端的に言えばそうだね」
「なるほど……。認識できないっていうのは?」
「例えば――」
景は教卓の方へ行き、出席名簿を取り出して『一年二組 佐倉景』と書かれた部分を指さした。
「これを見ても、誰もそれが僕の名前だと認識できなくなるんだ」
「普通に分かりそうだけど?」
「なんて言えばいいだろうな……。字面を見て、文字の配列は読み取れるし、『さくらけい』と口に出して読むことはできるんだけど、それを僕と紐付けて考えることができなくなる。って言えばわかる?」
「なんとなく」
「なら良かった」
さっきから理解するのでいっぱいいっぱいだ。
景の例え話が上手いおかけで何とか理解が追いついている感じ。
それと同時に、私がずっと追い求めていたものが身の前にあるという事実に今までにないほど心が踊っているのを感じていた。
「景、教師とか向いてるよ」
教卓から角席に帰ってくる景に私が言うと景は困ったように笑った。
「なれる歳まで生きられたら良かったんだけど」
でも、そっか。その呪いのせいで景は死んじゃうんだ。
それだけが、私は悲しかった。
今まで会った人達の中で唯一、私の趣味を否定しなかった人だったから。
転校前は散々、キモイとか、変とか、異常者とか言われていたから、それが本当に嬉しかった。
「それで、名前が消えたらどうなるの?」
「いよいよ、後はこの世界から消えるだけ。僕の左腕が無くなったみたいに、いつの間にかシュッと消えてるよ。そして、残るのはみんなの中にある朧気な記憶だけ」
景は笑ったけど、その笑いは今までのとは近い、酷く乾いていて、自虐的だった。
きっとそういう笑みを浮かべていないと、口に出すのが耐えられないのだ。
私はそれをノートにメモしていく。
すると、そこである違和感が私を襲った。
「今の話だと、被呪者はみんな最終的には死んじゃうんでしょ?なら、なんで景はそんなに呪いに詳しいの?」
オカルト系の話や漫画ではよくある話だ。
本当にやばい場所や物についての伝承や噂は少ない。
なぜなら、それに関わった人はみんな死んでしまい、噂なんて残らないから。
景の呪いは掛かった人は皆死んでしまうし、更には周りの人の記憶も改竄してしまう。
なら、どうして景はそんなに呪いについて詳しく知っているのだろうか。
「僕の父さんがそうだったから」
「そう……ってことは呪いにかかってたってこと?」
「うん」
「なるほど、ってことは景の呪いって――」
「そう。父さんから移ったんだ」
人へ伝播する呪い。ってことは景のお父さんはもう……。
そう考えると少し暗い気持ちになる。
「お父さんについての記憶はもう曖昧で、名前も顔も思い出せないけど、呪いについて教えてくれたことは覚えてる。それと、『ごめん』って何度も言われたことも」
「そっか……」
教室に静かな空気が流れた。
山の中、夏の夕方の風は冷たく、私たちの頬を撫でる。
「『ごめん』ってことは景のお父さんは景に呪いが移るのが分かってたのかな?」
「どうだろ?今思うと、その節は確かにあったかも。というか、そもそも父さん自身も誰かに移されたわけだし」
「確かに……そういえば、そもそも呪いってどうやったら移るの?」
「分からない」
「分からないかぁ〜」
ノートの上にグデッと身体を倒れ込ます。
それが分からないと、不用意に景を連れ回すことができなくなる。
さすがに無関係の人を巻き込むことはできないし。
「血縁とかは?一族を代々呪うとかさ」
実際に景は自分の実の父から呪いを移されたわけだし。
「完全には否定はできないけど、おそらく違うんじゃないかなって思ってる」
「なんで?」
不思議がっていると景は少し話すのを躊躇った。
「重い話になっちゃうんだけど……」
「死んでしまう呪いにかかっている以上の重い話って何?」
「確かに……」
そう言うと景は緊張の糸が解れたような様子で話してくれた。
「僕とお父さんは血が繋がってないんだ」
「……確かに重い話だ」
しかも、呪いとは別ベクトルの。
「雪の振っていた日に捨てられた赤ん坊の僕を父さんが拾ったらしい」
「優しいお父さんだったんだね」
「うん。だから、雪を見るといつも赤ちゃんの僕を抱えたあの日を思い出すんだって言ってた」
優しそうな顔をする景を下から見上げて、血は繋がってないけど二人の愛は本物なんだと心から感じて、羨ましかった。
私は家では、異物扱いだし。
「でも呪いを移さないために『人と話すな』、『極力一人で居ろ』って言われた」
「お父さんに?」
「それもそうなんだけど、昔、お父さんに連れられて行った寺のお坊さんに」
「お坊さんに?」
心霊話にはお坊さんや寺が付き物で、話の中では大体のことはお坊さんが解決してくれるイメージがある。
それと同じくらい匙を投げるイメージもあるが。
「なら明日そのお寺に行ってみようよ」
「え?」
「場所分かるんでしょ?そのお坊さんは何か知ってるっぽいし。景にはもう時間が無いんだから、思い立ったが吉日ってやつでしょ」
「確かに場所は分かるけど……。分かった。明日は休日だし行ってみようか」
「なら、今日はもう解散で!」
ノートを片付け始める私を見て景は驚いていた。
「行動に移すのが早くない?」
「明日の準備しないとだし」
「なんか準備することあるの?」
「お寺に行く前にそこの下調べとか、景の呪いの詳細も知れたから似たようなものを調べたりしようかなって」
「……少しでも『女の子には色々あるんだよ』とかって言われることを期待した自分が恥ずかしいよ」
「景……恋愛漫画の読みすぎなんじゃない?」
「うるさい、オカルトマニア」
ワイワイと言い合いを続けている間に帰り支度が終わり、二人で階段を降りる。
コツコツと二人の足音だけが静かな階段に響く。
「詩音、ありがとう」
「何、急に」
「……今までずっと一人だったから、嬉しいんだ。呪いについても諦めてたし」
実際に父が呪いで亡くなっている景からしたら、呪いはもう逃れられないものという固定観念があってもおかしくない。
それを破ったのが私だったって話だ。
「別にいいよ。私も興味あったし」
「それに……」
景は少し恥ずかしそうにそっぽを向いて言った。
「放課後に駄弁るとか、休日に友達に会うとか、こういう青春みたいなの、ずっと憧れてたから……」
耳を真っ赤にして言う景に思わずフッと吹き出した。
「景、やっぱり恋愛漫画の読みすぎなんじゃない?」
「うるさい!……やっぱり言わなきゃ良かった」
「なんで?私は嬉しかったよ。だって、今までオカルトの話を人とできたことがなかったから」
「……そう」
景はまだやっぱり恥ずかしそうに向こう側を向いていた。
「私たち、もう『友達』だもんね」
その言葉が景の言った言葉からの引用だと気づいて「詩音!!」と言った時、真っ赤な顔の彼はやっとこちらを向いた。
学校の声の響く階段には、私たちの声だけが響いていた。
「……ちゃっかりお洒落してきてるじゃん」
「これは……友達と遊びに行くって言ったら血眼になったお母さんが服を見繕ってくれたというかなんというか」
寺に調査に行く当日、寺は景の家から少し歩いたところにあるそうで、私たちは一旦、景の家の最寄り駅に集合することになった。
「……似合ってない?」
白のシャツにカーキ色のスカートを自分でも見て、少し恥ずかしく思う。
お母さんに「明日友達と出かけてくるから」と言うと私がやっと同級生の友達を作って上手くやれるチャンスだと思ったお母さんが服やら、メイクやら何から何まで口出ししてきて、それを全て受け入れたらいつの間にか清楚な美少女の完成となってしまった。
実際、中身はとんでもないオカルトマニアな訳だが。
この時ばかりはいつも私に無関心な妹も乗り気で、紫色の髪ゴムを貸してくれた。
まだ妹はまだ小学六年生で、これは「少し子供っぽいんじゃない」というと妹はそれを頑なに否定し、「ラベンダー色の綺麗な色でしょ?」と言い、私は妹の善意を無駄にはできず、いつもは下ろしている髪もそれでひとつにまとめている。
「いや、びっくりしただけ。似合ってるよ」
「……耳、真っ赤ですけど」
「……夏のせいです」
「そういう事にしといてあげる」
景はというと白のTシャツに黒のズボンとシンプルな服装だった。
「景は義手とかつけないの?片腕って不便じゃない?」
「父さんも試していたけど、義手をつけると呪いのせいで義手が消えるからつけられないみたい。多分、義手も四肢の一部って判定なんだろうね」
「最悪だね」
「不便で仕方がないよ」
二人で話しながら私は景に導かれるがまま道を進み、歩き始めて十五分程したところで例の寺が見えた。
「あそこだよね?」
「そう。あのお寺が僕と父さんが子供の頃に来た場所だよ」
入口を見つけ、そこ目指して二人で歩き始めた時にふと思う。
「でも、その時に出会ったお坊さんをどうやって見つけるの?」
景の呪いについての説明が本当なら、お坊さんはもう景のお父さんの名前を覚えていないから、対応してくれたお坊さんをどうやって呼ぶのだろうかと疑問に思った。
「それは……ついてから考えよう。呪いの話を住職達の間で共有もらえたら後は後日僕が連絡を貰うとかでもいいし」
そう言いながら寺の門を越えようとした時だった。
「痛っ!」
景が左手腕を押さえながら、後ろに飛び退いた。
「大丈夫?!」
すぐに駆け寄り、景の痛がる部分を見たが、出血や異常は確認できない。
門の方に何かあるのかと思い、私も恐る恐る門に右足を突っ込んだが、特になんともなく、一気にその門をくぐり抜けるがやはり痛みは感じない。
「おーい、景。私の方は大丈夫みたい」
そう門の向こうで左腕を抑える景に向かって両腕で大きく手を振ろうとした時。
(あれ?)
左腕しか、上がらなかった。
「詩音は大丈夫なんだ」
景は私が元々、両手をあげるつもりだったとは知らずに、手を振り返してくる。
「君たちは……。もしかして佐倉景君かい?!」
お寺の建物の方から出てきた住職は私たちを交互に見た後に、景の腕を見て驚いてた。
「なにが起こったかと見てみれば、君が来ていたならば納得だ」
お坊さんは私の方を見て軽く礼をして、私たちに「ついておいで」と言い、本堂の方を歩いていった。
「景くんも、もうそこを超えても大丈夫だから」
そう言われて、恐る恐る門を超えた景だが、お坊さんの言う通り今度は景に異変は起きなかった。
その後、お坊さんについて行った私たちは本堂の奥の建物の中の和室に通された。
「びっくりしただろう。寺の中に入ったせいで、呪いが弾かれただけさ。しばらくすればいつも通りになるはずだよ」
「なるほど……ありがとうございます」
私の方はと言うと、もう右手も違和感なく動かすことができて、あの一瞬が嘘のようだった。
あれは、実は景と同じように私にも何かが憑いていたからなのだろうか?
「景、あの人がそう?」
コソコソとお茶を入れるお坊さんに聞こえないように言う。
「うん。口振りからして多分ね。あの日、父さんと一緒に会った人だと思う」
「なら、探す手間が省けたね」
お坊さんは私たちに湯呑みに入ったお茶を足すと私たちの前に座った。
「景君と会うのはもう十年ぶりくらいですね」
「はい。お久しぶりです」
「そちらの方は?」
「志崎詩音と言います。景とは……友達です」
そう言うと景は少し恥ずかしそうにしていた。
「そうですか。申し遅れました、私は庭瀬宗徳と申します。それで今日はどうしましたか?」
白々しいと思った。
何があったか分からないままなら、真っ先にこんな所へは案内しないだろう。
部屋の四隅には塩が盛られ、部屋には何枚も札が貼られているのが見える。
「実は、僕の身にかかっている呪いを解こうと思いまして」
景はそう説明すると庭瀬さんは景の左腕を一瞥した。
「……残念ですが、我々ではその呪いを完全に解くことはできません。景君のお父様の時と同様に」
「どうしてっ……」
「その呪いは強すぎるのです。もはや、人の手で対処するのはほとんど不可能になっています」
「そんな……」
景は俯いてしまった。
「何とかなりませんか?」
私がそう言うと、庭瀬さんは少し考えてから「気休め程度ですが、呪いの巡りが遅くなるように努力してみましょう。ですが、あくまで対処療法ですよ」と言い、別のお坊さんを呼ぶと、景はその人に連れられて別室へ言ってしまった。
「……志崎さんにはお伝えしなければならないことがあるため、残っていただきました」
部屋に庭瀬さんと私が二人きりになると、庭瀬さんがさっきまで景に向けていた優しい顔とは打って変わって怖いほど真剣な顔になった。
「景君の呪いについてどの程度知っていますか?」
「四肢が消え、名前が消え、最後に存在が消える呪い。それと、被呪者に対する他者の記憶が上書き、または消去されていくもの」
「そうですね。よくご存知で」
「景から聞いたので」
残念ながら、昨日調べてみたが景の呪いと似ている話は存在していたなかった。
被呪者が全員死んでいる上に、関わった人の記憶も改竄されるようじゃ、噂も残りづらいようだ。
「あなたは今すぐ彼から離れた方がいい。あの呪いは――」
「移るんですよね?」
私が間髪入れずにそう言うと、庭瀬さんは驚いた顔をした。
「覚悟の上ですよ」
「そうですか……歪な愛か、はたまた真実の――」
「あ、私たち、そういう関係じゃないので」
「……そうですか」
庭瀬さんはなんとも言えない顔をしていた。
尚更、では何故ですか?と聞かれなかっただけ助かったと思おう。
理由を言ってもどうせ理解されないし。
「その移るってやつなんですけど、一体どういう条件で移るんですか?」
庭瀬さんは話すのを少し渋り、部屋の中の札や塩を確認するような素振りを見せた後、やっと口を開いた。
「被呪者が強い思いを抱いた相手です」
「強い思い?」
「はい。愛情、友情、嫌悪。被呪者からの大きな感情を向けられることで被呪者の死後、呪いがその人に移ります」
「なるほど」
景のお父さんやかつての庭瀬さんが景に人と話すな、近づくなと言っていた理由が分かった。
人と仲良くなれば仲良くなるほど、その人に呪いを移してしまうからだ。
「だから、景を別室に移したんですね」
「……察しの良い方ですね」
庭瀬さんは既に景と面識があり、もし、彼の中に感謝でもなんでもいい、強い感情を抱かれてしまったら庭瀬さんが次の呪いの継承者になってしまう可能性があった。
「すみません。あなた達は立ち向かっているというのに、立派な大人の私がこうも保身的で」
「大丈夫です。というか、それがきっと普通です」
空気を変えるようにお茶に口をつけると庭瀬さんはお茶菓子の和菓子も勧めてきたのでありがたく受け取る。
「呪いって複数人に移るんですか?」
「さぁ、分からないとしか。ですが、景君のお父さんの前も、その前も一人しか受け継がれてないそうですよ。それが彼らの努力による賜物なのか、呪いの仕様なのかは分かりませんが」
「努力して一人に収めるくらいなら、完全に人との関わりを絶って、呪いを消滅させるとかしなかったんですか?」
「……景君のお父様はそうしようとしていました」
お菓子を食べていた私の手が止まる。
「彼は一族は代々呪いを継いできた。ですが、彼は呪いを自分の代で終わらせようと考え、人との関わりを避けて生きてきた……はずでした」
「でも失敗した」
「そうです。それは景君の存在でした」
庭瀬さんは思い出すように語り始めた。
「彼は景君がここから少し離れた河川敷の人目につかないところで発見したそうです。ですが、その日は雪が降るほど寒く、幼い景君は死にかけだった」
「ひどい……そんな捨て猫みたいな……」
「ですが、実際に起こってしまったことなので。大方、誰が生まれたばかりの子供を秘密裏に殺そうとしていたのでしょう」
「それを助けたのが、景のお父さん?」
「そうです。彼は一人で生きていくと決めていましたが、景君の命を見捨てることができなかった。彼を拾い、私たちの元へ駆け込みました。それから救急車を呼び、必死に温め、無事に景君は命は助かりました。
その時に私と景君のお父様は知り合い、呪いの症状などを解明したのもこれがきっかけです。その後、引き取り手が見つかるまで景君を育てると言い出し、引き取りましたが、結局彼は景君を自分の息子にしました」
「なんで……」
「簡単に言ってしまえば、情が移ってしまったのですよ。自分と同じ、ずっと一人だった景君に。きっと寂しかったのでしょう。一人で居続けることは人間には酷なことです。そんな中、景君という光が差し込んでしまった。彼はいけないと思いながら、それに縋ってしまったというわけです。……呪いがなくならないのも、きっとそういうことなんでしょうね」
何となく、気持ちがわかる気がした。
孤独は死ぬより辛く。一人は呪いよりも怖い。
私と景が仲良くなってしまったように、きっとそれは避けられないのだ。
「呪いの解呪方法については何も分からないんですか?」
「分かりません。ですが、心当たりはあります。以前、呪物として『両腕のない人が書いた絵画』を預かったことがあります。心当たりがありませんか?」
「……景と同じ呪いにかかった人の絵ってことですか」
「そうです。呪いで存在が消えても、その人が作り出したものは消えない。呪いは佐倉家の中だけで留めていたようなので、もしかしたら景君の家に、それについての文献が残っているかもしれません」
昨日景と話し、疑問になっていたことだ。
景にその実験として小説を書いてもらうつもりだったのに、あっさりとその答えが分かってしまった。
「お茶を飲み終わったら景君を迎えに行こうか」
そう言って、立ち上がって部屋を出ていった庭瀬さんの背にある塩は黒ずんだドロドロの物体に変わり、札の下の方は何かに焼かれたようにパラパラと崩れ落ちていた。
「念の為言っておきますが、あなたはまだ引き返せる。……この札は寺で一番強力なものでした。住職が数年かけて作るような本物の札です。寺にあるその全ての札がこうなってしまうほど、あれは強力なのですよ」
そう言われた私は、彼の目を見て逸らさずに言った。
「それでも私は、景と一緒に居たい」
それが呪いのそばに居たいからなのか、景のそばに居たいからなのか。私は庭瀬さんの後ろをついて行く間、ずっと考えていた。
※
「ありがとうございました」
「いえ、気をつけて帰ってくださいね」
私たちが寺を後にした頃にはもう六時が過ぎた頃だった。
「景の方は大丈夫だった?」
「うん。何人かのお坊さんに囲まれてお経を読んでもらった。……効果はいまいちよく分からないけど。詩音の方は?」
「色々話が聞けたよ」
「どんな?」
「景の家に解呪についての文献が残ってるかもって。呪いにかかって存在が消えた人でも、その人が書いたものや作ったものは残るらしい」
「え、なら僕が小説書く必要なくなったじゃん」
「えぇー、書こうよ」
「必要ないのに?」
「私が単純に読みたいし。あと、やっぱり呪物扱いして貰えるらしいよ」
「そっちが本音でしょ。……分かったよ。書きますよ」
「景君やさしいー!」
あんまりからかっていると景からデコピンを喰らった。
「じゃあ、帰ったら僕の家を捜索してみるよ。うちの家古いし、無駄に大きいから探すのに時間がかかりそうだな……」
「私も行く!」
そう言うと景はびっくりしたような顔をした。
「いやいや、今から来たら終電無くなるよ?ここ田舎なんだから」
「景の家泊まったら駄目?今景の家って景一人で住んでるんでしょ?」
すると、景はひどい顔をしながら私を見て「このオカルトマニアが」と呟いた。
「駄目です。家に帰ってください」
「え、なんで?!服とかはこれ着たままでいいからさ」
「そういう問題じゃないの!今日は帰る!明日また来ればいいから!」
「えぇー」
「分かった?!」
「分かりましたぁ」
そう言って、明日の約束を取り付けると私は電車に乗って帰路についた。
帰りの電車の中で、一人で思った。
一人で居続けることって私にはできるかな、と。
「こんなに広い屋敷探してもこれだけかぁ……」
私たちは机に置かれたいくつかの紙切れを見た。
「まさか、こんなに無いとは……」
「というか、景の家広すぎでしょ?!屋敷の隅から隅まで探してる間に私たち高二になったんだけど!」
「それは一冊一冊全部読んでたからっていうのもあるけどね」
景の家は今の令和の時代に置いて、誰がどう見ても『屋敷』と形容するほど大きく、立派な木造建築だった。
最初に私が景の家に行った時に「景ってお坊ちゃまだったの?」と聞いた程だ。
実際、景の家はなんと明治時代以降から財を築き続けてきた名家らしいく、この大きい家はその象徴たるものとなっていた。
さすがに家は当時のままではなく、何度も引っ越したし、戦後建て直したとも言っていたけど。
それでも、もうとっくに使われていない蔵や倉庫なんかも沢山あり、敷地はそこそこあった。
その中から一個一個確かめて行く作業は高校生二人では骨が折れた。それこそ約一年の月日を費やす程度には。
「よく固定資産税とか払えるね」
「先祖代々のお金がたんまりあるので。父さんが名義を僕にしてくれていた不動産のおかげで収入にも困ってないしね」
「余裕こいてたらお金無くなるよー」
「お金が無くなる前に命が無くなるので」
「……そうならないようにするために今私たちは頑張ってるんでしょ?」
「確かに」
まったく、ブラックジョークにも程がある。
景にはそういう傾向があった。
景はよく自分の命を軽く見る癖がある。
でも、そうしないと心が狂いそうなのも分かるから、私には何もしてあげることができないのが悔しい。
「じゃあ、改めてこれ見ていこうか。さぁ、詩音。読書の秋だよ」
「高一の夏から手分けしてずっと読んでるでしょ!」
「そうだった」
私たちの間に秋の木枯らしが吹いて、抜けていく。
景の家の裏の山は綺麗に紅葉を果たし、そして、もう時期冬を迎えようとしている頃だった。
「ほら、景座って!一緒に見るよ!」
広すぎる景の家の中、景が生活圏にしている部屋の机に本を広げて、隣の席に景を呼ぶ。
「ありがと」
そう言うと景は椅子に座った。
両腕の無い景に本を見えるため、資料を一緒に見る時はいつも私がページをめくる係だった。
「……あの、詩音ちょっと近いかも」
「まだ言ってるの?慣れなよ!」
私たちの楽しげに笑い声がだだっ広い家に響き渡る。
「いい加減見ていくよ。今のところこれしか手がかりがないんだから」
「そうだね。まずは……これは家系図、かな?」
紙は古く茶色がかっており、雰囲気がある。
文字も今とは違う、度々旧字が混じっていたりしていて、それはずっと昔からあったことを一目で分からされた。
「にしては……」
「空欄が多いね」
「そう!」
その家系図には延暦――つまり平安時代の辺りから空白がいくつか見られた。さらに、奇妙なのはその空白のしたにも名前が続いていること。
まるで、『その人の存在が消えてしまった』かのようだ。
「この空欄は多分――」
「うん。呪いのせいで名前を忘れられた人が居るってことでいいんじゃなかな?」
「それにしては、空欄がずっとない期間もあるような……」
「そればかりは分からないね。家系以外の人が呪いを引き継いでいた期間だったのか、被呪者の名前を忘れない生前のうちに書いていたのか。どっちかだろうね」
「じゃあ、書かれてないところは家系図の存在を知らなかった人か、死後書こうとして名前を忘れられた人のどちらかってこと?」
「考えられる要因が山程あるからなんとも言えないけど、僕のおじいちゃんの代まで書かれているからある程度家系図の存在は認知されてたんじゃない?」
「てことは、名前を書けない理由があったのか。というか、景のお父さんは名前書いてないんだね」
「うん。意外だった。それにこれの存在を僕は聞いたことがなかったし、もしかしたらお父さんも知らなかったのかも」
この資料が出てきたのは蔵や倉庫ではなく、部屋の書斎。
本に埋もれているような形で発見された。
なんでこんなところにあるか分からないが単純に見つからなかった可能性もある。
「お父さんがこれを知らなかったのか、それとも知っていて書かなかったのか」
「後者もあると思う。景のお父さんは元々呪いを自分で終わらせるつもりだったらしいし。後で書こうと思っていても慣れない子育てで忘れてたのかも」
「なるほど。ありえそう」
子育てって大変って聞くし、景のお父さんは景を拾うまではずっと一人だったらしい。
一般的な夫婦よりも子育てが大変であったことが容易に想像ができる。
「父さん、人間らしかったから」
「人間らしかったって?」
「そのままの意味だよ。子供の気まぐれに振り回されてたとことか、よくドジ踏んでから回ってたとことか、僕をどうしても愛してしまったところとか。父さんの存在が消えてても、名前が分からなくても、その温かさと愛されていた実感だけはずっと残ってる」
「そっか」
景はここじゃない、どこかを見ていた。
「結局、空白の偏りについては分からないままか」
「人のやったことだからミスもあるだろうし、深くは考えずに頭の片隅に置いておこう」
「賛成。いつまでも足踏みしてるわけにもいかないしね」
如何せん私たちには時間が無い。
景からの提案にウンウンと頷く。
「それで、そっちの写真は?」
景の目線が家系図の隣の一枚の写真に移る。
「家族写真……かな?」
「多分、そうだと思う。けど――」
一枚の写真は茶色に変色していた白黒写真だった。
恐らく、昭和辺りで撮られたもの。
それを家族写真と呼ぶにはあまりに不自然だった。
「そこの縁側に家族が集まってるはず……の写真だよね?」
写真の場所は今私たちがいる景の家の敷地にある縁側。
そこを外から中へカメラを向けて撮っている構図だ。
景の家のものだけあって縁側はかなりの長さがある。
しかし、その写真に写ってるのは三人だけ。
一人は縁側の右端に座ったおじいちゃん。もう一人は縁側から降りて立っている、五歳くらいの女の子。三人目は縁側の左端から大人二人分程空けて立っている若い男。
一人一人に距離があり、広い縁側とその三人の空いた距離は異常に見えた。
そして、家族写真の裏には――
「『みんな、消えてしまった。残ったのは、みんなの手紙だけだった。――文字だけだった』って。多分、呪いのせいだよね」
「存在が消えるっていうことは、きっとこういうことなんだと思う。どこにも自分の存在が残らない」
「じゃあ、これは人が写真から消えたってこと?」
「おそらくは。でも、呪いにかかった人が多すぎないか?」
写真の不自然な空白部分にはパッと見でも五人以上は入る。
今呪いにかかっているのは景一人。その前も景のお父さん、ただ一人だけだった。
そう考えると確かに被呪者が多すぎる気もする。
「複数人が呪いにかかったのか、呪いの進行が今より速かったのか。これも調査が必要かもね」
真面目に答える景に落ち込む。
「また、『引き続き調査が必要』案件ですか……」
「調べ物素人の高校生がやったんだから、そんなものでしょ。成果があるだけ良い方って思おう」
「はーい」
そして、最後に残った本を私は手繰り寄せ、景の見えるように広げた。
「最後はこれなんだけど――」
「破けてる?」
そう。本の中のページの一部が破けていたのだ。
「すごい昔の本みたいだね。いつのだろ?」
「重要なのはそこじゃない。これ、なんて読むか分からない?」
本を一度閉じ、題名を見せる。
「『呪い―始まり――』!?」
掠れていては見えないが、この家の物から『呪い』の字が出てくる時点で景のかかっている呪いについて書かれていることが期待できた。
中身も最初のページは『私がこの呪いができた理由を末代まで知らせなくてはならないと思った。』から始まる。
呪いがなぜ生まれたのか。それを知る貴重な資料だったのだが……。
「期待できたのにそれがこの有様か……」
実際の中身は最初の数ページを残し、中身はごっそりと持っていかれていた。
「最初の冒頭部分は呪いの核心に迫る話はしていないし、狙って抜いた可能性が高いかも」
「じゃあ、なんで本ごと持っていかなかったんだろ?燃やすでも、海に沈めるでも、本の外側と最初のページをわざわざ残したりなんてせずにどうとでもすればいいのに」
景はその問いにしばらく考え込んだ。
「呪いの存在自体は匂わせて欲しかったけど、呪いの核心部分は禁忌としたかったとか?」
「もしかしたらその部分の記述を見たら見た人も呪われちゃうとか?これって呪いの本だった?!」
「ちがっ……くはないとは言い切れないか」
結局、私たちが一年間家を明後日出てきたものはこの三個。
そのどれも、最終的な結論は「さらなる調査が必要でしょう」だ。
家系図で、なんであんなに空欄ができていたのかも。写真でなんであんなに大勢が居なくなったのかも。本の中身がどこにあるのかも。そもそもまだ残っているのかも分からない。
景の家とは別で、ホラーに詳しい住職などの専門家やライター、果てはユーチューバーまで。様々な人に景の呪いについて聞いてみたが誰も知らないみたいだった。
ちなみに景の話をメディアに載せたりするのは丁重にお断りさせていただいた。
私は結構乗り気だったが、景が「僕が死んだ後にそれを見た人が可哀想だ」とのこと。その動画や雑誌が呪物扱いされてしまうし、呪いの性質が分からない以上、あまりに顔を晒すのは止めようとの判断だった。
考えはごもっもとだったけど、誘いを断られるよう言われた時はしばらくむくれっ面で景と話してたと思う。
「でも、結局また振り出しかぁ」
景が椅子の背もたれを使い、グッと身体を逸らす。
実際、私たちの一年間の成果はゼロに近いと言っていいほど何も無かった。
「収穫は強いて言えば、景が写真からも消えるってことくらい?」
「そういえば、父さんが今までで自分の写真撮ってるところ見たことないかも」
「実際探してる時も出てこなかったもんね」
「僕の子供の頃のアルバムは沢山あるのにね」
「可愛かったなぁ、子供の頃の景。ねぇ、もう一回あのプードルと景が並んでた写真見せてよ!あれが一番可愛かった!」
「絶対嫌だ!」
「いいじゃん!もういい!先にアルバムを取れた方の勝ちってことで!」
そう言って私は席から勢いよく立ち上がり、アルバムのある景のお父さんが使っていた部屋へ足を進めた。
その時だった。
ドカッ!と人が倒れる大きな音がした。
振り向くと景が椅子から立ち上がり、顔から転けていた。
「景?!大丈夫?何してるのよ」
「ごめん詩音。ありがと」
景に肩を貸して、一度席に座らせる。
「ああ、鼻血出てるじゃん!テッシュどこだっけ?」
「そこの棚のに置いてある」
「え?どこ?」
「そっちじゃなくて……」
「場所分かるなら景自分で取りに行ける?」
「ごめんちょっと立てそうにないわ。取りに行くから代わりに父さんの部屋にある車椅子を取ってこれる?」
その言葉に私は不思議に思った。
「景。自分の車椅子お父さんの部屋まで置いてきたの?それじゃあ移動大変だったでしょ?けんけんで移動なんてしてたら足挫くよ?」
そう言うと景は悲しそうな顔をした。
その顔を見て察する。
これで二度目だ。
一度目は右腕の時。
その時と同じ顔。
「もしかして、今、左足無くなった?」
「――うん」
タイムリミットは迫っている。
後右足と名前だけ。
それが終われば、もう――。
気づけば景を抱きしめていた。
「詩音?!鼻血、服についちゃう!」
「うるさい。今はまだ、こうさせて」
景は驚いた顔をして、すぐに瞳には涙を浮かべていた。
「絶対、景は死なせない」
その言葉に景は声を上げて泣いた。
もう景には私を抱き締め返す腕もなかったから、私はその分景を強く強く抱き締めた。
※
景が泣き止むのを待ち、二人で晩御飯を食べその後は私は帰路についた。
景のお父さんが使っていた車椅子があるので、景はこれからはそれを使って暮らしていくとのこと。
元々、景の家は被呪者用に生活しやすいように仕掛けや器具が沢山あり、景はその状況でなら一人でも何とかなると「私、泊まるよ!」と提案私を一年前のように追い出してしまった。
まったく薄情な奴め。
すっかり寒くなってしまった道を腕を擦りながら歩いていると「あの!」と後ろから声をかけられた。
後ろを振り返ると知らない女性。
私のお母さんよりも少し年上かな?
「すみません、私財布でも落としましたか?」
「いや、そうじゃないの……」
女性は何か言いたげな雰囲気をしていた。
「あの、変なことを言ってる自覚はあるんだけどね」
おずおずと女性は前置きを入れて、息を吸った。
「私には霊感……みたいなのがあって、良くないものが黒い靄みたいに見るの」
「霊感ですか?例えばどんなところから見えますか?」
すると、女性は少し言い過ぎそうにしながら「……あなたがいつも一緒にいる彼の身体から」と言ったのを聞いて、本物の霊感だ!と思った。
多分、その黒い靄は景の呪いなのだろう。
すごい!存在を疑っていた訳では無いけどこんなにも身近に霊感を持っている人なんて!
「信じられないだろうけど……」
「私はあなたの話を信じますよ」
さすがに見ず知らずの人に質問責めをする訳にはいかないので、あくまで落ち着いて話した。
この一年で私は成長したんだ。
呪いの話を人に聞く時、私がオカルト話にすぐ飛びつこうとする度に何度景に捕まえられて説教を受けたと思ってるんだ。
女性は平然と話を受け入れた私を意外と思ったのか、驚いた顔をしていた。
「それで、わざわざ話しかけてきたってことは何か話があるのでしょう?」
女性はハッとして、「そう!話があるの」と続けた。
「これは決して冗談ではなくて、あなたの身に関わることだから真剣に聞いて欲しいのだけど――彼から出てる黒い靄があなたにも移ってるの」
深刻な面持ちで告げた彼女に私の心臓が急にバクバクと音を鳴らし始めた。
「このままだとあなたの命が危ないの!」
景から私に黒い靄が移るってことは、私に景の呪いが移っているということ。
『被呪者が強い思いを抱いた相手です』
庭瀬さんが前に言ってくれた言葉通りなら、景は私に強い思いを寄せてくれたということ。
強い信頼か、それとも――
『歪な愛か、はたまた真実の――』
急に顔が熱を持って赤くなったのを感じた。
もしかして、景って私の事……好きだったりするのかな?
さっきまで景を抱きしめていたことを思い出して少し恥ずかしくなる。
そんな思いで抱き締めたんじゃないのに。そう、身体が勝手に動いただけで変な意味は無かったし……!
『それでも私は、景と一緒に居たい』
庭瀬さんに言ったその言葉の理由が、当時の私には呪いのそばに居たいからなのか、景のそばに居たいからなのか、結論を出すことはできなかった。
でも、今なら言える。
私は『景と居たい』から呪いを解く方法を探している。
最初出会った時は、逆だったかもしれない。
でも、景と出会って、私を否定しない人と出会って、私は人と一緒に居ることの幸せを知ってしまった。
それを教えてくれたのは、過程はどうあれ、紛れもなく、景だった。
孤独という地獄から救ってくれたのは、景だった。
まだ、景が好きなのかどうか、この数十年間一人でいた私にはまだはっきりとは分からなかったけど、きっと私にとって景は――。
「これ以上はあなたにも危険があるかもしれないから彼と関わるのは終わりにした方がいい」
その切羽詰まった女性の声に引き戻される。
「そうですか……」
そうは言っても、急に真面目に話そうとしても、どうしても顔が少しにやけてしまう。
「気を使ってくれてありがとうございます。全部知ってますよ。彼のことも、その黒い靄のことも。でも、これでいいんです」
景と居ることで呪いが移ったとしても、別にそれでいい。
今の私にはもう、呪いが移って死ぬよりも、この先何十年を孤独で過ごす方が怖いから。
自分一人で生きるよりも、景と一緒に生きていきたいから。
だから、私に呪いが移ってたっていい。
私は私が幸せだったと思うように生きたいから。
「私は、大丈夫ですから。お気になさらないでください」
女性は何か怖いものでも見たかのような真っ青な顔で急いで去っていってしまった。
一体何を見たんだろうか?
私は背後を見たが、何も無かった。
「霊感が鋭い人しか見えない何かがあったのかな?」
そう思うことにして、私は駅へと歩を進めた。
「卒業おめでとう。景」
「詩音もね。おめでとう」
ついに高校の卒業式が終わってしまった。
解呪の手掛かりは依然として無いまま。
景の車椅子を押して外に出てみるが人混みのせいで身動きが取れないし、景の声も聞こえずらくなってきた。
「静かなとこに行こっか」
「詩音は親に会わなくていいの?」
「いいのいいの。お母さん達もどうせまた景と居るんだろうって察すると思う」
「そっか。家で僕の話してるんだっけ?」
「結局高一から卒業までほぼ毎日景の家に通ってたからね。少しは話とかないと心配されちゃう」
景の乗る車椅子をキコキコと押して、校舎の中に入っていく。
同級生やその親たちはみんな外で楽しく騒いでいるからか、中は電気もついておらず、暗くて静かだった。
外は卒業生を祝福するかのような陽気な日差しがあったのに、校内はひどく冷たく、無機質だった。
「どこ行く?」
「どこでもいいよ」
「なら、一年の教室行こ。私たちが初めて会った場所」
一年生の教室は一階にあるから、車椅子でも行きやすい。
「ずっと車椅子押してくれてありがとね」
「どういたしまして。これからもいっぱい押してあげるね」
「……そうだね」
その微妙な間の意味を私は分かっていた。
景のタイムリミットが刻々と近づいていっている。
つい先日には、景の右足も無くなってしまった。
後は名前が消えて、最後には――。
「暗いって景!大丈夫、呪いを解くために今まで私たちは頑張って来たんでしょ!」
務めて明るい声を出した。
だけど、現象はその逆で、解呪の手掛かりは無く、何度も除霊をしてもらいに行くも匙を投げられるか、除霊してもらったとしても効果なしがほとんどだった。
「景は絶対に死なせないから」
何度言ったか分からないその言葉に、景は何度流したか分からない涙を流す。
「ありがとう、詩音」
※
教室に到着し、ドアを横に引いてみたところ、心配していた鍵は開いていた。
多分、卒業式の準備で先生たちは忙しくしていたから、施錠を忘れていたのだろう。
「ラッキー」なんて言いながら中に入り、景の車椅子を教室の左足角の机に止め、私はその前の席に後ろを向いて座った。
「この景色も久しぶりだね」
景は私を見て、その後、隣の窓を見た。
私が窓を開けると春の心地よい空気が、暗い教室の中に入り込んできた。
白のカーテンは風に揺れ、目が合う私たちの髪もそれに合わせて靡く。
「詩音はこれからどうするの?」
「これからって?」
「大学行くんでしょ?」
私は親の希望で地元の国立大学に行くことが決まっていた。
「受験勉強なんてしてるところ見たこと無かったのに、いきなり大学受かったなんて言われてびっくりしたんだから」
「そういえば、当日まで景に大学行くこと伝えてなかったんだっけ」
教室の中に笑い声が満ちた。
この空気が私は大好きだった。
「家から通うの?」
「ううん。家からだと大学遠いから、近くにアパートの一室を借りて一人暮らしする予定」
「そうなんだ」
「だから、景もついてこない?」
「え?」
唐突な提案に景は素っ頓狂な声を上げた。
「景は大学に進学も、就職もしないんだよね」
「まぁ、働かなくても不労所得で生活は困らないからね」
「なら!」と私は追い打ちをかけた。
「今の景の家に比べたら随分と小さい部屋になるけど、私と一緒にいてくれるなら、今まで通り生活もサポートできるし、呪いについてもより調べることができるかも」
「……詩音はいっつも事前相談無しでそういうこと言ってくるのどうにかしようよ」
「もう今更治らないの知ってるでしょ?」
「知ってるけど」
景は大きくため息をつき、少し顔を赤くして言った。
「詩音は……いいの?」
「いいのって何が?」
「だって、それ……同棲ってことでしょ?」
景は気まずそうに私に聞いてきたから私は思わず笑ってしまった。
「景、恋愛漫画の読みすぎなんじゃない?」
「うるさい!」
二年前のやり取りを思い出して、私たちは顔を見合せて笑った。
お互いの笑いのせいで、互いにツボに入り、笑い声はしばらく続いた。
楽しかった。
涙が出てきて、腹筋がつりそうになった頃、お互いの笑いがようやく収まった。
「でも、本当にいいの?」
すると、景は今度は真剣な声で言った。
「詩音はまだ、引き返せるかもしれないんだ」
「……もしかして、景が死んだあと、私に呪いが移ることを心配してるの?」
「……」
返事はなかった。きっとそういうことなのだろう。
多分景は心の底ではずっと悩んでいたのだ。
私と一緒に居てもいいのか。
解呪の見通しが無い今、呪いが移ることは最終的に死ぬことを意味している。
最初は、気の迷いだったかもしれない。
お父さんが亡くなって、景は一人になって、その時からずっと、景は孤独の中で呪いの恐怖と戦いながら生きてきた。
そんな中、呪いを一緒に解こうと手を差し伸べてくれる人が現れた。
それがいけないことだと分かっていながらも景はその手を取ってしまった。
一人が苦痛だったから。
孤独が怖かったから。
一時の気の迷いで私を受け入れてしまった。
そして、お互い孤独だった私たちは今までの時間を取り戻すような楽しい時間を過ごした。
そして、限界が迫ってふと我に返ってしまったんだ。
自分と同じ目に合わせてしまってもいいのか、と。
でも、そんな答え、私は当の昔から決めていた。
「いいよ。私はそれでも。だから、景と最後まで一緒に居たい」
私はあの時と同じように景に手を差し出した。
「本当に……いいの?」
「うん。全部、一緒に背負ってあげる」
景はまた、涙を流した。
まったく、最近の景は泣いてばかりだ。
「景、私と一緒に生きてくれますか?」
「……はい。喜んで」
私の差し出した右手に景の手の重みを感じた。
「ふふっ。景、泣かないで」
私は差し出した右手で、景の涙を拭った。
「ねぇ、景。思い出に写真を撮らせて」
「……でも、そのうち僕は写真から消えるよ?」
「そうかもしれないけど、景が生きているうちは、それは思い出として残ってくれるんでしょ?それに、景の姿が無くなったって、私の中では写真の中にずっと景が居続けてるから」
「なにそれ」
景はクスッと笑い、「いいよ」と言ってくれた。
私はスマホの内カメラを使い、景と机を挟み、肩を寄せ合う。
背景には、窓から見える桜と、風に揺れる白のカーテン。
「はいチーズ!」
シャッター音が鳴り響き、撮れた写真を確認すると景に見えた。
「いいね」
そうやって微笑んだ景の顔をずっと見ていたかった。
そして、強い意志がまた、さらに固まる。
絶対に景は――。
「――絶対にけいは死なせない!」
私はアパートの一室で、パソコンにかじりつきながらそう叫んだ。
けいの名前が消えてからいったいどれくらいが経っただろうか。
もう、私は『佐倉景』の文字を見ても、後ろの車椅子に座る彼を連想することさえできなくなっていた。
けいの名前が消えてから、私は大学には行かず、部屋に籠り切りになった。
もうけいはギリギリだったから。
だけど、結局なんの進展も無しにここまで来てしまった。
「もうすぐ消えるかも」
そう、今朝けいに言われてしまった。
「今までの腕や足が消えた時とは違う。なんとなく自分に迫ってる状況が分かるんだ。死に対する人間の本能が働いてるのかな?」
けいは私を動揺させないようにできる限りなんでもないように、まるで今日の朝ご飯の話でもするように、平穏に話し続けた。
いつも通りのけいの表情とは逆に私の身体からは血の気が引いた。
そこからはずっとこうだ。
景の呪いを解くためにひたすら何かをした。
インターネットを使って呪いを調べ、呪いに詳しい人に半ば無理やり話を聞いてもらい、ついにはインターネット掲示板にもその話を書き込んで知識人を呼び込んだ。
しかし、どれも解呪の成果は得られなかった。
「詩音、僕のせいで申し訳ないとは思ってる。でも、一度休もう。もう何日も寝てないでしょ」
あれだけ好きだったけいの優しい声も、もはや私の耳には届いていない。
「大丈夫。絶対、助けるから」
まるで私の方が死にかけなんじゃないかと思うほどしゃがれた声が出た。
ずっと泣いていたからだ。
「詩音」
「絶対助ける。これからもずっと、けいと一緒に――」
「詩音!!」
けいの大声でようやく我に返る。
パソコンの画面の反射に映る自分は目は赤くはれ、クマもできていて、人に見せられたような顔ではなかった。
「詩音、今日は一緒に寝ようよ」
「……でも、まだ昼だよ?」
アパートの部屋のカーテンからは強い春の日差しが射し込んでいて思わず目をすぼめる。
そっか、卒業式の日から一年経ったんだ。
「詩音と、落ち着いて話したいんだ」
そのけいの安らかな顔に嫌な予感がした。
まるで、何かを受け入れてしまったみたいな。
諦めてしまったみたいな。
「もしかして、けい……もう時間が……」
「うん。だから、最期は詩音と一緒に昔みたいに話したい」
「そんな……最期なんて言わないで……」
「……ごめんね」
けいはすごく申し訳なさそうに顔を歪めた。
そういえば、けいの顔をこうやってはっきり見たのっていつ以来だったかな。
私は呪いを解くことばかりを考えて、大事なことを見落としていたのかもしれない。
私の目標はけいを救うこと。
目の前の泣きそうなけいを放っておいて、何が『救う』なのだろうか。
「ベッドまで連れて行ってくれないかな?」
「うん……もちろん!」
私はけいのために努めて明るい声を出した。
そうすると、けいは微笑んでくれて、胸が熱くなった。
車椅子を押して、けいをベッドの上に寝かせてあげて、その隣に私も寝転ぶ。
「ベッドに横になるの久しぶりかも」
「ここ最近は、ずっとパソコンとにらめっこだったからね……ごめんね。僕のせいで」
「ううん。けいのせいじゃないよ」
それが私の本心だった。
「だって、けいといる時間は本当に楽しかったから。けいといると、孤独を感じなかったから。だから、何も苦じゃなかったよ」
行き過ぎたオカルト趣味。そのせいで私は誰にも理解されることなく、みんな私と距離を置いていった。
悲しかった。一人でいるのが寂しかった。
転校した先で、自分を偽ると周りにはたくさん人が集まってくれたけど、それでも私の心は満たされなかった。
まるで、みんなに囲まれている私を、暗いくて冷たい水の中からただ一人で眺めているみたいだった。
でも、けいは違った。
けいは私がいる冷水に飛び込んできてくれた。
けいはオカルト趣味も含めて私の全てを受け入れて、それと同時にけいの呪いも含めて、けいの全てを私は受け入れた。
そうして過ごしていく日々は、どんな時間よりも楽しかった。幸せだった。
呪いの恐怖なんて感じなかった。
……ただ、だからこそ、今けいが居なくなることが怖い。
今になって、呪いがどうしようもないほどに、怖い。
「高一の時に、詩音が話しかけてくれて本当に嬉しかったんだ。呪いのせいでずっと僕は一人で過ごしてきたから。詩音に受け入れてもらえて、僕の死んでいた時間は動き始めたんだ」
けいが私の方へ体を向け、私もそれに応えるようにけいの方を向いて、見つめ合った。
「でも、ごめんね。僕はやっぱり人と一緒に居るべきじゃなかった」
「違うよ。それは呪いのせいであって、けいのせいじゃない。一人で生きていかないといけない人間なんて存在していいわけない」
「でも、次は詩音が呪いに――」
「大丈夫!けいのおかげで呪いの過程も知れたし、どうせ人間は死ぬんだから、後か先かの話だよ」
けいの体は私たちが初めて会った時よりも、随分小さくなってしまった。
でも、その身体に秘められた使命は、普通の人間であるけいが背負うにはあまりにも大きすぎた。
「だから、安心して欲しい。私は呪いのせいでけいを恨んだりしないし、呪いに苦しめられることなんてない。だって、呪いの恐怖なんかよりも、けいとの日々の幸せの方が大きいから」
けいは静かに泣いていた。
涙を流しているけど、まるで一秒でも今を目に焼き付けたいというように、ずっと私の方を見ていた。
「……そろそろ時間かも」
そう呟いたけいの声に私の心臓がバクバクと速まる。
けいがどこにもいかないように、けいを抱きしめた。
「今まで、ずっと一緒にいてくれてありがとう」
違うよ。それは私が言うことなんだよ。
ありがとう。
何度言っても足りないくらい、感謝してる。
「文句も言わずに生活を助けてくれてありがとう」
そんなこと全然苦じゃなかった。
むしろ楽しかった。けいを一番知っているのは私だと言っているようで嬉しかったの。
「高校生の時も車椅子、いっぱい押してもらっちゃった」
そんなの、いくらでも押すよ。
これからも押させてよ。
今度、近所の桜並木を二人で歩こう。
ずっと外に出れてなかったから、いい機会じゃない。
「そして、ごめんね。呪いを移しちゃって。……また一人にしてしまって」
行かないで。
待って。
待ってよ。
まだ、二人で話したいこと、やりたいことがたくさんあるんだよ。
「……最後に、ずっと詩音に言えなかったことを言うよ」
静かで、暗い部屋の中はまるで、二人きりの世界にいるかのように感じられた。
その静かな空間にけいの、私の大好きな声が響いた。
「ずっと、好きだったよ。詩音」
「私も。大好きだよ」
そして、私たちは口づけを交わした。
それは永遠のように長く、瞬きをするように一瞬のように感じられた。
そして、口を離す。
けいの涙を流しながら微笑んだ顔は私が瞬きをした次の瞬間には、消えていた。
世界から、『佐倉景』が消えてしまった。