一九八五年の五月に僕は高校を中退した。街には五月らしい日差しが少年少女の肌を密着させていた。しかし僕は自分が恥ずかしい存在なのだという思いこみからか、夜の街をぶらつくことが増えていった。
 街には高いビルがなく、地元の商店がまだ元気だった頃である。
 高校を中退した当初はミュージシャンを目指して東京に行こうと意気込んでいた。しかしそれには金もかかるし、成功する保証もない。才能もなければセンスもない。しかもそんなところに無謀《むぼう》に飛び込むほど僕はバカではなかった。
 家は七人家族で父、母、叔母、叔父、兄、自分、妹の大家族だったのも、僕の神経をすり減らす一因《いちいん》になった。一つ付け加えると、久野一族の顔は面長で、受け口という特徴があり僕はそれも高校を中退した原因だと思っている。
 そんなおり、夏ごろから下血が始まり、止まることなく流出していった。血はサラサラで白い和式の便器を赤く染めた。病院に行って検査もしたが異常はなかった。神経のすり減ったストレス状態だと、下血を起こすことを後ほど知った。
 何か楽しいことがしたいと言う一心で、看板屋の面接を受けた事がある。結果は良くなかったが、提出した絵がどのように評価されていくのかというドキドキを初めて味わった。
 兄は僕の絵に否定的で音楽性についても批判的だった。叔母も懐疑的《かいぎてき》な意見を述べ、僕の自信をみるみる打ち砕《くだ》いていった。
 僕は一七歳で嫌というほど孤独で、なんの道標《みちしるべ》もなく、ただ人生のレールを破壊するモンスターへと化していった。グレたわけではないが古い過激な思想に没頭《ぼっとう》し破壊《はかい》しえるものは次々と破壊していった。
 まず、中学校の部室を全壊《ぜんかい》させて、友達を驚かせた。それはひどく古い建物であったから、壊《こわ》してもいいという身勝手な考えからだった。そして母に矛先《ほこさき》を向け、包丁を母の背中に突きつけ金庫から十万円引き出させた。母にはそれからも強くあたり、吸い取れるだけの金は吸い取った。母の顔は暗く、まるで惨《みじ》めなものだと思った。その金で何をする訳でもなく、使っても喫茶店のコーヒー代と、備え付けの麻雀《まーじゃん》ゲームで遊ぶくらいしか使い道がなかった。もちろん恋人がいる訳もなく、毎日訪ねてくる同級生と家で麻雀をして、夜は喫茶店で麻雀ゲームと麻雀漬けの每日だった。 
 一九八五年は不思議な年だった。僕が高校一年生から二年生に進級するのに進級試験を受けるしかなかった。蜩《ひぐらし》の声を聴く頃には、僕はやせ細り栄養状態を疑《うたが》われても仕方がないほどだった。見た目は骸骨《がいこつ》が歩いてるようだと友達に言われた。また妹からは惨めな秋刀魚《さんま》と、うまいこと形容された事もあった。
 「与一はいつ死んでも仕方ないよ」「由紀ちゃんに言われなくても人はいつか死ぬんだから、死ねばいいのさ」妹は僕の痩せてこけた頬を見て僕をからかうのが日課だった。「由紀ちゃんもそんなこと言ってないで、ちゃんと食べないと、与一みたいになるんだからね」母の間髪《かんぱつ》入れぬ一言に妹は顔をくしゃりとゆがめた。「まったく最近の子はませて困ったねぇ」仕事をしないで、まる一日新聞とテレビを交互《こうご》に見ている父を軽蔑《けいべつ》するように母が言った。「お父さんもなんか言ってあげて。与一が不良になったらどうするんですか?」父はちらりと僕の方を見て、またテレビに目を向けた。
 父は寡黙《かもく》な人で僕等にぜんぜん興味がなく、おおよそどこで喜怒哀楽を使用しているのか分からない人だった。僕はそんな父を軽蔑《けいべつ》し、父のような人生にはならないと、いつも心に決めていた。しかし今の僕は、高校にも行かず、仕事もせず、まるで似通った親子のような生活を送っている。「奈落《ならく》の底まで落ちるか」左手をみつめながら父の顔をまじまじと見た。そこには無能で虚《うつ》ろな目があるだけだった。
 いつもの喫茶店に入ってコーヒーを頼むと、僕は恐る恐るストレートで飲んだ。初めてのブラックは頭がびっくりするぐらい苦かった。麻雀ゲームはいつでもできるし、少し家族のことを考えてみた。当たり前のように過ごしている家族が、実は意思疎通《いしそつう》のできていない集団だと思い知らされる頃には、コーヒーは冷めていた。
 喫茶店は古い建物で僕が生まれる前からあるとマスターが言っていたのを思いだす。
 そこは地獄ようで天国でもあった。麻雀ゲームの光がまぶしくて、僕は冷めたコーヒーを流し込んだ。「今日はもう家に帰ろう」天井をみつめ、タバコのヤニで汚れきった壁に囲まれていることに嫌気がさして、僕は会計を済《す》ませて家路についた。家に帰ると家族は寝ていて居間には誰もいなかった。冷えきった居間は呼吸を止めた要塞《ようさい》のようだった。
 東北の秋は駆け足で冬に向かっていく。十月と言えども、寒さが身にしみる季節だ。冷えた指先に息を吹きかけながら「このままではだめになる」と自分に問いかけ「僕の人生は終わってしまう」という自然な答えに辿《たど》り着くのにそう時間はかからなかった。
 静かな焦《あせ》りが胸元で音を立てて崩れていき、その時、柱時計が十時を知らせた。不吉な鐘《かね》の音は胃に響く重いものだった。
 今日はもう考えるのをやめたかった。考えても頭を悩ませるだけだ。だから被害妄想的《ひがいもうそうてき》な考えになるのだ。自分でも分かっているのに、頭の中は違和感だらけだ。その違和感が何か分からないまま、僕はこれからも生きていかなければならないと思うとゾッとした。
 頭の中の違和感に気がついたのはいつ頃だったろうか?ひどく頭を痛めたときに気づいた、高校に入学して間もない頃だったろうか?疑問は尽きない。それに気づかずに人生を送ってきたことを後悔《こうかい》しても今さら始まらない。
 僕がそんなことで頭を悩ませているとき、台所《だいどころ》で物音がした。引き戸を開けてのぞいてみると、父が冷蔵庫の中を物色《ぶっしょく》していた。「早く寝ろよ」「うん」そんな短い会話のあと父は立ち去り、 惨《みじ》めな父のパジャマ姿は見ていて腹立たしかった。クズ野郎がと思いながらも、自分も父と同じ立場にいることが恥《は》ずかしかった。身にならない夜食など誰がとるものかと、内心思ったが心とカラダが連動しないように、僕は冷蔵庫に向かい、無意識にチーズを手に取っていた。電球の薄明かりの下で何の喜びもなく食べるチーズは思ったより美味《うま》かった。
 襖《ふすま》の向こうには叔母が寝ている。兄は仙台の大学に今年進学したばかりだ。叔母の寵愛《ちょうあい》を受けて育った彼は甘え上手で、学校でも人気者だった。僕は炬燵《こたつ》で考えを巡《めぐ》らせながらいつの間にか眠りに落ちていた。
 次の日の朝、僕は妹に頭を蹴《け》られて目を覚ました。由紀子は無邪気《むじゃき》に笑いながら「いいなあ。与一は学校行かなくて」とあっけらかんとして僕の胸に引っかかることをズバッと言う。悔《くや》しいが、妹に返す言葉がみつからない。「妹の分際《ぶんざい》で」僕は捨てぜりふを吐いて部屋をあとにした。部屋に戻ってゆっくり寝直そうとしたが、突然、頭がセミの鳴き声のようにジリジリと鳴りだした。幻聴《げんちょう》が聞こえてくる時のいつものアレだ。僕は階段のところで耳をふさいで、しゃがみこみ、時が過ぎるのを待つしかなかった。頓服《とんぷく》を飲まなければ。冷や汗をかきながら台所に行って、母に「いつもの症状がでた」としゃべると、頓服を急いで持ってきてくれた。「ゆっくり深呼吸して。焦らなくていいから」と母は冷静だが僕はそれどころではなかった。
「最悪だよ。よりにもよって寝ようとしてるときに」
「また何か悩んでるの?」
「悩んでいるさ、自分の生き恥を家族に見せるのも苦痛だ」
「何も悩まなくてもいいから」空気を読めない母の言葉に僕は腹がたった。
 とりあえず頓服を飲んだら落ち着いたので僕は部屋に行って気の済むまで寝た。
 
 年が明けて、僕は測量助手《そくりょうじょしゅ》の仕事を始めた。新しい道路ができる山の中を測量で回った。駆け巡《めぐ》ったという方がより現実に近いかもしれない。僕は狂ったように山を歩いた。指示されてもいないのに遠くの方まで駆けていっては、会社の人に怒鳴られた。
 そういう訳で僕は人生設計ができておらず、ただ日銭《ひぜに》にありつく每日だった。仕事を始めたら、幻聴はなくなったが、単に悩むだけの時間を仕事に費《つい》やせたのが良かったのだろう。
 測量助手の仕事は楽しかった。こういう人生もいいなと思った。やはり仕事をするっていいもんだなと思い始めていた。
 そう思って仕事にいそしんでいた春先の土曜日。僕はたまたま休みで、いつもの喫茶店で麻雀ゲームをしていた。十分《じゅうぶん》遊んだので帰途につくと、家の前に見たこともないナンバーの車が止まっていた。外国車のようなナンバープレートだな。家に上がると客室から、母と知らない人の声が聞こえてきた。玄関を上がった僕に気づいた母が「与一、ちょっと来てみて。あんたにお客さんだから」 僕は恐る恐る部屋に入った。ネクタイにスーツ、よく日焼けした不気味なおっさんが座っていた。「与一君ですか?自衛隊地方協力本部二戸《にのへ》地域事務所の山川と言います」山川は満面の笑みで言った。
 「何て言いました?なんの用ですか?」僕は最初何を言ってるのか理解できずにいると「自衛官を募集しているところから来ました」自衛隊?なんで僕のところに?僕の心の機微《きび》に気づいた山川が「新卒の方の自衛官を募集しておりまして。与一くんが今年新卒だから、挨拶《あいさつ》にあがりました」山川は笑顔を崩《くず》さないままだった。
「いやいや、僕は自衛官になんてなりませんよ。だって軍隊じゃないですか」
「今の自衛隊は昔のような軍隊ではないからね。今じゃ自衛隊は二年もいれば資格が三、四個とれますよ」
「そんなの信じられるわけないじゃないですか。二年で資格がそんなに取れるんですか?訓練とかするでしょ?日本になにかあったらどうするんですか?」素直に山川に不審《ふしん》な気持ちをぶつけると「今の日本では有事《ゆうじ》はありえません。訓練も午前中だけで午後は体力づくりです。」山川はニコリともせず僕を睨《にら》んだ。その堂々とした態度に、この人は怖い人だと僕はさっした。佇《たたず》まいも、鋭い視線も、平気で人を殺せる人だと思った。僕の返答を待っている。何か言わなければと思うと言葉が思うように出てこない。
「自衛隊って頭のおかしい人が行くとこですよね」僕は空白を埋めるように堰《せき》を切ったように、しゃべった。一瞬沈黙が訪れる。山川は何も言わず僕を見たままだ。母は母で僕に黙れという目線を送っている。なんか白けるなと思い僕は「じゃあ」と言って部屋をあとにした。部屋を出ると由紀子が駆け寄ってきて「誰か来てるの?」と目を輝かせて聞いてきた。僕は妹を無視して自分の部屋に閉じこもった。「俺の嫌いな顔だ。あいつ。なにしに家に来た。絶対自衛隊になんか入らないからな!」

 その頃山田伸宏《やまだのぶひろ》は、学校でひどいイジメにあい生きることに希望をなくしていた。冬休み前には学校に行かなくなり、無気力でとても何か出来る力は残っていなかった。彼の希望通りの人生には到底なれていない。望むべきは今すぐにでもこの青森から逃げ出したかった。
 彼にはそれがとてつもなく、大きなチャレンジでアグレッシブな精神のもとになされる事柄《ことがら》だと思われた。
 登校もしない、友達もいない、手のひらを見ればくたびれた四十代のサラリーマンのような手に思われた。「雑魚《ざこ》が寄ってたかって」と捨て台詞《ぜりふ》を吐くことは日常茶飯事《にちじょうさはんじ》で、家族に辛く当たっては家族を苦しめた。祖母はそんな孫が不憫《ふびん》でならないと泣き暮れたが、そんな思いを知ってか知らぬか、祖母から金をせびって、伸宏はパチンコ屋の常連《じょうれん》になっていた。 
 タバコをふかしサングラスをかけ、貧乏ゆすりをしながらパチンコをする姿はいっぱしのチンピラだった。しかし伸宏は気弱で人当たりが柔らかく、尖《とが》った見た目とは違っておとなしく、パチンコをしていた周りの大人達も戸惑《とまど》った。「お前、ぜんぜん怖くねぇなぁ」「格好《かっこう》だけはいいっちょ前の格好して」などと言われ放題で、ここでも何かされると思ったが、大人は伸宏にそれほど興味を示すことなく、内心ホッとした。
 伸宏は祖母に申し訳なく仕事をまじめに探そうと思った。しかし心は正直で仕事をしてもまたいじめられると思った。とにかくこの街を出なければ俺に未来はないと思えた。
 年の瀬に一つの事件が起きた。仲のいい友達の佐藤が自殺した。首吊り自殺だった。伸宏には佐藤が自殺した理由に思い当たる節《ふし》があった。
 佐藤は伸宏と同じようにいじめられていて、それを苦にしての自殺だったと、のちに学校側が公表した。ショックを受けた伸宏は怒りがおさまらず、佐藤と自分をいじめていた不良グループに殴《なぐ》り込みをかけようと覚悟した。しかしいざ敵《かたき》を取ろうと思うと怖くて足がすくんだ。
 伸宏は小さい頃に父親を亡くし、母親は家にあまりおらず、伸宏の身の上の世話は祖母が献身的《けんしんてき》に行なっていた。祖父は何も言わなかったが、内心伸宏に腹を立てているに違いないと言うのが、おおまかな伸宏の見立てだった。 
 これまで十七年間生きてきていいことなんか一度もなかった。地元の祭りにも準備に手間がかかるからと言う母親の一方的な理由で参加させてもらえなかった。母はそれで気が済んだかもしれない。しかし伸宏はそのことに対する母の態度を許すことができなかった。「一生恨《うら》んでやる」伸宏はそう心に誓《ちか》った。
 友人の死から立ち直れず、そしてまた毎日パチンコに明け暮れる日が続いたが、いつの間にか周りの大人とも会話できるようになり、少しずつコミュニケーションが取れるようになっていった。伸宏は毎日平台《ひらだい》ばかり打っていたが、金がないし時間を潰せればそれでいいと思った。
 
 永見栄吉《ながみえいきち》は喧嘩をするのが好きだった。人を殴ればスカッとする。高校もそれが原因で退学した、札付《ふだつ》きのワルだった。山形では名の知れた暴走族に属し、特攻隊長として名をはせた。一九歳の時に暴走族は引退したが、何かと後輩の相談に乗っては、指導していた。
 仕事は高校を中退してから家の近くの工務店で日銭《ひぜに》を稼ぎ、夜遊びに明け暮れた。飲み明かしては仕事をサボり、高校の同級生から金を巻き上げ、その金でまた酒を飲んだ。仕事も休み休みになり、会社から、まじめに働く気がないなら、会社を辞めてもらうと最後通告を受けた。喧嘩っ早い栄吉は社長を殴《なぐ》りたい気持ちをグッと抑え、二度と仕事場に現れることはなかった。
 会社を辞めた栄吉はムシャクシャしていた。通りすがりのヤンキーを睨《にら》みつけては「やんのかおらー!」と喧嘩をふっかけた。誰か一人しめあげないと、どうにも気が済まない。そういう自分勝手な思いで、喧嘩相手を探していると、屈強《くっきょう》で強そうな男がこちらに向かって歩いてくる。「おい、やんのか?」栄吉は目いっぱい強がった。「お前高校生?それとも暴走族やってんの?」無駄に元気そうな奴だなと思い「こちとら、族の特攻隊長やってんだ!見りゃ分るだろ!」と凄《すご》んでみせた。
「元気がいいなあ。お前、未成年だろ?酒の臭いがプンプンするな」男は栄吉の肩をつかんでぐっと力を入れた。永吉は身動きが取れず、こいつは強いと、わずかにひるんだ。「なんかあったらここに連絡をくれ」男はニヤリとして、栄吉の肩をポンと叩き、栄吉を置いてきぼりにして去っていった。名刺を見ると自衛隊山形地方協力本部『藤田ひふみ』と書いてあった。「なんじゃこりゃ?」栄吉は不思議に思いながら作業着の上着の内《うち》ポケットに名刺をしまい、何か白けて、今日は家に帰ろうと、気持ちはだいぶ落ち着いていた。
 そして数日たったある日、会社を辞めさせられてまだ腹立たしい気持ちでいると、いいことを思いついた。あの時会った男の名刺に記載されている電話番号に電話をしてみることにした。冗談半分のつもりで「もしもし。藤田って人いる?」栄吉は出来る限りぶっきらぼうに言った。「この前、藤田さんから名刺をもらった永見って言うんだけど」
「少々お待ちください」しばらくして「もしもし藤田ですが、どういったご用件でしょうか」
「俺だよ、なんかあったら電話して来いって言っただろ」
「えーと、ああこの前酒飲んでいきがって歩いていた」
「そう、永見だよ」
「覚えててくれたんだな。それで自衛隊に興味持ったか」
「持ったつーか、あんた自衛隊なの?」と驚いた栄吉に、藤田は、はりきった声で「よし!一回君に会いに行くよ。住所と名前をフルネームで教えてくれ」と圧倒してきて、栄吉は、思わず住所と名前を言ってしまった。
 
山川が帰ったあと僕は母に「最悪な気分だ」とボソッとつぶやいた。
「でもよく話を聞くといいと思うけどな、母さんは」
 「自衛隊って出来損《できそこ》ないが行くところだろ。僕に合う訳がない」と強く当たった。
「そんなことないわよ。自分勝手に腹をたてるのをやめなさい」
「偉そうだな。自衛隊なんて入る気ないから」
「いいと思うけどな。与一に体力をつけて強くなってもらったら、もっと自分に自信が持てるよ」見当違《けんとうちが》いな母の意見に「僕は自分に十分自信があるけどな」と独り言を言った。家に居るのも限界を感じていたし、自衛隊なら衣食住は、ただだと聞いている。
「自衛隊って筆記試験と適性検査があるみたい」母が夕食を作る手を休めずに言った。
「やっぱりそうきたか」僕は想像通りの母の返答に笑い抑《おさ》えきれなかった。
「少しは勉強をしておいたほうがいいかも」と僕に念を押し「黙れ」という僕の返事を待ってるようだった。
 それから山川は何度も家に来て僕を自衛隊に勧誘《かんゆう》した。山川の意見に折れる頃には、夏の日差しが意気揚々《いきようよう》と街を照らしていた。

 それぞれがそれぞれの不安を胸に陸上自衛隊の門を叩《たた》いたのは年が明けた一月二十七日だった。僕は宮城県多賀城駐屯地《たがじょうちゅうとんち》に行くため前乗りで二十六日に岩手駐屯地に宿泊した。
 僕は地元の同窓の金子と二戸《にのへ》地域事務所の山川と三人で、車で二時間かけて岩手駐屯地を目指した。その前に家族との別れの時が来た。母は始終泣いて会話にならなかったので由紀子に「母さんを宜しく頼むぞ。父さんにも宜しく言っといてくれ」と僕は寂しそうに言った。
「うん。分かった。与一も元気でいろよ」僕は由紀子とハグをして、泣いている母ともハグをした。父は見送りに現れなかった。「じゃあ行ってきます」僕は手を振って精一杯家族サービスをした。
 まずはどういう奴らが自衛隊にやって来るのか、それが不安だった。一方でどんな狂った奴らが来るか楽しみでもあった。
 岩手駐屯地に着く頃には、とっくに日は暮れていた。部屋に着くと鉄のベッドが二つあった。毛布はもうセットされていて、枕元にかけ布団が置いてある。随分《ずいぶん》と殺風景《さっぷうけい》な景色に見えた。白い壁に水色の鉄のベッド、毛布は緑色ときている。いかにも自衛隊らしくて笑える。
  食事を済まして、部屋に戻ると何もすることがなく、金子とこれからの生活について語り合った。
「訓練は厳しいと思う?」と金子が切り出す。
「僕はそうでもないとふんでいるよ」
「いやに自信たっぷりだな。なんか根拠でもあるのか?」
「根拠も何も山川が言ってたから、信じるしかないだろ」と力を込めて言うと「そんなの嘘っぱちに決まってるよ」金子が語気を強める。
「そう思いたいならそう思えばいい」僕もそう思っていたが、今は山川の言葉を信じるしかないのだ。二人は会話が弾《はず》む訳でもなく永遠とこれからの生活の不安に打ちのめされていた。自分の思うような生活にはならないだろうと言うのが二人の出した結論だった。
 二十二時の消灯ラッパが鳴った。聞いたこともない、もの悲しいメロディが部屋の中に響き渡る。消灯ラッパが終わる頃には僕は興奮で笑いを抑えきる事ができず、ゲラゲラ声を上げて笑った。ビックリした金子は不安そうに何度も僕の顔を見ていた。狂ってるとでも思われたかな?僕は興奮《こうふん》を落ち着かせようと、カッターナイフでベッドの縁《ふち》の部分に『久野』と彫って満足した。
 明日になればもっといい方向に向かっていくだろう。そういう思いでいたら、いつの間にか眠りに落ちていて、慌《あわ》ただしい起床ラッパにびっくりして、起き上った。実にいい眠りだった。
 午前中に盛岡駅に集合し、新幹線で仙台に向かった。岩手からは、僕と金子を含めた六人で、ヤンキーらしき者は誰一人乗車してこなかった。皆、僕と同じくらいの年齢に見えた。新幹線の車窓には一面の雪景色が鮮《あざ》やかだった。
 重い空気の中僕らは無言で仙台を目指した。車内アナウンスが冷たく響きわたり、盛岡から乗車してきた浜口二曹《にそう》が話の起点を作ろうと、それぞれの顔色を伺《うかが》っていた。         
 仙台に着く頃には睡魔《すいま》に襲われた全員が『仙台』のアナウンスを聞いて、慌てて下車した。そこから仙石線《せんせきせん》に乗り換えて目的地の多賀城駐屯地を目指し、浜口二曹の後ろを歩いていく。
 昔の兵隊もこんな気持ちだったろうか?いや、昔の兵隊の方が僕らに比べたら、死ぬ覚悟を持って出兵していただろう。僕らはただの落ちこぼれで行き場をなくした野良犬のように、何かにしがみついて生きていくしかない、得《え》てして謎の生物のようなものなのだ。
 多賀城駐屯地に着くと見るからにガラの悪そうな連中が僕らに一瞥《いちべつ》をくれた。こちらも黙っていられなかったのか、一人がガンをとばして応戦している。僕もそれにならいガンをとばした。
 これはヤバいなという奴がもう人の輪の中心になっていて、こいつは面白そうだと雄叫《おたけ》びをあげたい気分だった。この男が何かやらかすのは目に見えている。こいつと同じ部屋だと盛り上がりそうだ。
 そこへ班割り《はんわ》りの紙が貼りだされ、僕は一区隊四班《いちくたいよんはん》になった。
 多賀城の風は冷たく、 僕は心と体が冷めていくのを感じた。

 永見栄吉は多賀城駐屯地《たがじょうちゅうとんち》に着くと気持ちが高ぶってきた。ここで三ヵ月訓練ができると思うと興奮《こうふん》した。藤田との約束で絶対喧嘩をするなと言われている。しかし周りの連中を見ていると誰もが族上がりのような顔をしている。
「腕が鳴るなあ」と思っていると早速向こうから喧嘩の誘いが来た。
「お前、何こっち見て睨《にら》んでんだよ。ガンとばしてんじゃねぇぞ」
「俺に言ってんのか?」
「てめぇしかいねぇじゃねぇか!」
「いい度胸《どきょう》してるじゃねぇか。お前をやるのに時間はかかんないんだよ」そう言って栄吉は因縁《いんねん》をつけてきた奴の胸倉《むなぐら》をつかんですごんだ。
「やんのか、おら!」相手が少しひるんだ所につけこみ、栄吉はさらに相手を追いこんで殴《なぐ》ろうとした。
「そこ何やってるんだ!」すぐに上官の激《げき》がとんだ。栄吉はすぐに謝罪したが、相手の新兵《しんぺい》は憮然《ぶぜん》として納得していない様子だった
 まもなくして班割りが発表され、栄吉は一区隊四班に決まった。ここで問題を起こしても何もプラスにならないことは重々承知《じゅうじゆうしょうち》している。そんな考えをよそに、ワルそうな連中が次から次へとやって来る。とにかく目の前のことをこなしていくしかない。栄吉はそう決心したが、部屋に入ると、いかにも不良というタイプの新兵《しんぺい》が栄吉に声をかけてきた。
「俺、吉田。君は?」
「永見だ。三ヵ月間仲良くしようぜ」
「そうだな。しかしここは荒《あら》くれ者しかいないのか?」
「俺もさっきひと暴れして、上官に怒られたばかりだ」
「マジかよ?荒れてるなぁ。永見君は何歳?」
「二十歳だ。君より年がいってるかもしれないな」
「俺はまだ十八歳だから君よりは若い。まあここでは年齢は関係ないと思うけどな」吉田は思案《しあん》げに栄吉をみつめた。
「ここには訳ありの奴しかいないと言うことか」栄吉はそうつぶやくと、吉田が握手を求めてきたのでそれに応じて笑顔を返した。

 山田伸宏は自衛隊というとんでもない場所に足を踏み入れたことを早速《さっそく》後悔《こうかい》していた。悪人ばかりとは、まさにこのことで、伸宏から見たら皆不良に見えた。しかしここで怯《ひる》んでいては、せっかくの自分を変えるチャンスを逃してしまう。
 祖父に自衛隊を勧められて、入隊のための手続きはぜんぶ祖父がしてくれた。受からないだろうと高《たか》をくくっていた試験にも合格してしまい、みるみる入隊の手はずとなり、今日を迎えたというわけだ。そう言ったことから自らの意思で入隊した気持ちはなく、他の同期《どうき》に比べたら熱量も冷めていた。とにかく祖父を恨《うら》み、今度祖父に会ったら文句のひとつでもつけてやろうと、全くもってやる気がなかった。
 班の割り振りも伸宏にはピンときていなかった。一区隊四班などと言われても、こんな悪い奴らと共同生活すると思うと怖さしかない。しかしここで虚勢《きょせい》を張らずして、どこで虚勢を張ると言うのだ。伸宏は自分を奮《ふる》い立たせ、なんとかこの三ヵ月、無事に過ごせることを、神に祈るしかなかった。

 僕は多賀城駐屯地の新兵たちの異様な光景に気持ちを揺さぶられていた。あちこちで小競《こぜ》り合いが起きている。それを必死の体《てい》で止めに入る自衛官の人たち。僕は舐《な》められないようにいようと堂々としていた。
 とりあえず僕は一区隊四班を目指して移動した。部屋に入り、当たりを見回すと、一斉に視線を感じて一人一人を確認するように見る。そしてある男のところで視線が止まった。奴だ。僕は深呼吸してどうにか奴より優位に立とうとした。すると男の方が僕の視線を感じたらしく「永見だ」と手を差し伸べてきた。「久野です。宜しくお願いします」僕は念のため敬語を使った。
「君、何歳?」永見がこちらを窺《うかが》って「俺より若そうだな」と余裕の仕切りをしてくる。
「十八歳です。まだ誕生日を迎えたばかりで」とわざとらしく僕は永見に笑顔を向けた。
「じゃあ俺より二歳下か」
「二十歳ですか。じゃあ僕より人生の先輩だ」僕は心にもないおべっかを使い何とか永見をいい気分にさせてやった。「こいつ偉そうだな」と内心思いながら「なんで永見君は自衛官になったの?」 
「強くなりたいだけのことだ」
僕は単純な永見の言葉を聞いて「こいつバカだろ。筋肉増強剤でものんでおけ」と思いながら笑いをこらえていると「何が可笑《おか》しい」と永見は苛《いら》ついてベッドの縁《ふち》を蹴飛《けと》ばして怒りをあらわにした。僕はそれを見て腹を抱《かか》えて笑った。そんな僕の姿を見て永見は憮然として、吉田に何か話しかけていた。
 僕は自分のネームがついたベッドを探した。ネームをみつけて、二段ベッドの上段に荷物を置いた。「二段ベッドの上かよ」と思いながら下の同期の顔を見ると顔面蒼白で、いかにもこの場所には不釣《ふつ》り合いな顔をしていた。「久野といいます」永見がやったように僕は彼に手を差し伸べた。「山田です」聞き取るのがやっとの声で対応してきた男は、気弱そうな目をしていた。「何で自衛官になったんですか?」
「じいちゃんの勧《すす》めで入隊しました」山田はとても信じられない『じいちゃんの勧め』という単語を発した時には、僕も呆《あき》れて次の言葉が出てこなかった。
「とりあえず、宜しく」僕は自分よりポンコツな奴をみつけて、手を叩《たた》いて喜びたかった。こいつは絶対いじめの対象になるぞと思い、内心笑いが止まらなかった。「まあ気軽にやろうぜ」僕は急に自信満々になった。山田のおかげでこれからの三ヵ月を楽しく過ごせそうだ。僕はひとしきり笑いを抑《おさ》えると、永見が意地悪《いじわる》そうな目で僕を見ていることに気づき、僕は永見に笑顔を向けてやった。
 しばらくして班長が部屋に入ってきた。見るからに強靭《きょうじん》そうな体つきはいかにも自衛官らしい。
班長は佐野といい、見たところ二十五、六歳に見えた。声は荒々《あらあら》しく四班の一人一人の名前を読みあげた。皆、かったるそうに返事をしていたので僕もそれに習いダルそうな返事をした。「注目!今日から四班の班長を務めることになった佐野三曹《さんそう》だ!今日から三ヵ月間お前らをいっぱしの自衛官にするのが俺の任務《にんむ》だ。ついてこれない奴はビシバシ鍛《きた》えあげて一人前の自衛官にしてやる。心配することはない。ここから逃げるのは不可能だ。お前らがくたばるまで面倒見てやるから安心して訓練に取り組め。分かったか!わかったら返事」佐野三曹が《すご》むと「はい!」という、さっきとは打って変わって大きい声が部屋に響き渡った。
「とりあえずそのうっとうしい髪を切って来ること。床屋は駐屯地内《ちゅうとんちない》にある。五厘《ごりん》で頼むぞ、新兵さん。散髪が終わったら班長に報告すること。バリカンは用意してあるから迷ったら俺のところに来い。すぐ五厘にしてやる。」佐野は意地悪《いじわる》そうに笑うと「さあすぐに行動に移せ!上官《じょうかん》の命令は絶対だからな!」佐野は上機嫌《じょうきげん》だった。僕はあっけにとられていたが、山田は体が震えていた。この先山田はやっていけるのだろうか?しかし僕に他人を心配する暇はない。僕はすぐさま佐野のもとに行き「五厘お願いします」とゴマをするように言った。
「久野か!よく来たな。お前が散髪第一号だ。」佐野は楽しそうにバリカンで髪を切っていった。「よし、いっちょ上がり!」ものの十分もかからずに佐野は僕を丸坊主にした。僕の切られた髪の毛が僕を興奮《こうふん》させ、洗面所に行って自分の姿を見るとちょっと滑稽《こっけい》だった。痩せこけた頬が異様に坊主頭をきわだたせた。
 それにしてもこのやせ細った体はどうにかならないものか。今一番の課題は痩せ細った体を鍛えることだ。山川は自衛隊に入ると訓練の程よい疲れで、ご飯をモリモリ食べるからあまり心配しない方がいいとは言っていたが、僕の体質はそう簡単に変えることはできないだろうと、色々考えを巡《めぐ》らせていると、山田がスポーツ刈りになって洗面所に現れた。
「五厘じゃなくちゃダメなんじゃないのか」僕は少し驚いて山田に声をかけた。「別にいいだろ。俺は明日には自衛隊辞めるから」
「辞めることが出来る根拠《こんきょ》がどこにあるんだ」僕は語気《ごき》を強めて山田に迫《せま》った。山田は僕をかわすように髪をセットし始めた。なんとも呆《あき》れた奴だ。僕は山田を無視して部屋に戻った。永見も五厘にしている。他の連中も皆、頭が青い。班長は一人一人の頭をチェックして合格サインを出していた。部屋の中で和気あいあいと談笑していると、山田伸宏が入ってきた。髪は短いが五厘ではない。佐野がすかさず「山田二等陸士《にとうりくし》!」と語気を荒げた。
「貴様!なんだ、その髪型は!」
「こっちへ来い」
山田はそれに従《したが》い佐野のもとへ行った。佐野はバリカンを持っていて、これから五厘にされることは目に見えていた。
 山田は怯《おび》えているように見えた。人を見世物のように扱《あつか》う佐野という男を許すことが出来ない様子だった。これから何が行われるのか、部屋の連中は固唾《かたず》を飲んででその時を待った。佐野のバリカンが部屋に響き渡ると、どこからともなく歓声が上がった。僕も盛り上がった。正直山田には同情できなかった。五厘にしなかった山田の落ち度は明白である。僕は山田をバカにし、心の底から軽蔑《けいべつ》した。
 そして佐野は躊躇《ちゅうちょ》なく山田を丸坊主にし終えると満足げに笑った。山田は身動き一つしなかったが表情はこわばっている。しかしここで佐野が意外な一言を放つ。
「お前ら連帯責任《れんたいせきにん》な」初めて聞く言葉に動揺《どうよう》を隠しきれない同期たちがざわついている。
「じゃあ、腕立て伏せ用意!」腕立てをするのか?僕は戸惑いながら腕立ての準備をする。山田を見て笑っているどころではなかったのだ。
 班長の号令《ごうれい》に合わせて腕立てをするのは教育期間ではよくあることで、連帯責任も自衛隊ならではのものであることを、その時初めて知った。佐野はすべて考えて物事を進めているのだ。これが自衛隊だというつもりなのか、部屋の連中がくたばっていくのを楽しそうに眺めている。ひとしきり腕立ての儀式が終わると、僕らは佐野に解放され、佐野は事務室に帰っていった。
 僕らが山田伸宏に詰め寄ったとき、終礼《しゅうれい》の号令が隊内に響き渡った。こうして始まった自衛隊の生活は不穏《ふおん》な空気を放《はな》ちながら一月のどんよりした空のように暗い影を落とした。

 入隊式を終えて、明日から本格的な訓練が始まる。僕らは晴れて自衛官になった。晴れの姿を見てもらおうと、家族が来た者もいれば、恋人が来た者もいた。僕は誰も来なかったが別にそれはそれで構《かま》わなかった。山田伸宏のところにも誰も来ていなかった。
 彼はあの一件以来地獄のような毎日を送っていた。制服や作業服にネームや紋章《もんしょう》、階級章(かいきゅうしょう)の縫製《ほうせい》も全くできなかった。呆れて区隊付《くたいづき》が山田に代わってそれぞれの縫製を終わらせてくれた。そのたびに僕らは連帯責任を取らされ、いい加減山田に腹を立てているものも少なからずいた。
 そういう訳で山田は部屋のお荷物になった。僕も同じ部屋の者として山田のことをカバーしたかったが、それにも限度があり僕もそろそろ山田に限界を感じていた。入隊初日に言っていた自衛隊を辞めるという野望は今のところ無謀《むぼう》と言わざるをえなかった。僕は僕でなんとなく、自衛隊の生活に慣れて、友達もちらほらでき始めた。永見ともそれなりにいい関係を築いていた。永見には吉田という子分的な存在がおり悠々自適に過ごしている。
 入隊して一ヶ月後に射撃訓練が行われた。初めは空砲《くうほう》によるものだったが次は実弾《じつだん》の射撃訓練という日を明日に控《ひか》えていた。
 佐野はその日の午後から妙にピリついてていた。前年の一九八六年に、射撃訓練中に銃の乱射事件《らんしゃじけん》が発生した。僕もニュースで聞いたことがある。いじめが原因ということで、僕も山田に不穏《ふおん》な空気を感じ始めていた。山田は班のおもちゃだった。罵声《ばせい》を浴びせても、蹴《け》っても山田は抵抗しなかった。
 山田がポンコツを印象付ける一件が、銃の分解結合《ぶんかいけつごう》の訓練の時に起きた。銃を分解し結合させていた山田の銃は不自然だった。  佐野が不審そうに銃を調べ、山田のズボンのポケットに手を入れると、銃の部品が三つ出てきた。山田に銃の分解結合を間違うように仕向けたのは紛《まぎ》れもなくこの僕だった。班長は気づいていただろうか?僕は山田の顔を思い出すと今でも笑ってしまう。
 この話は直ちに教育連隊《きょういくれんたい》に広がって、他の中隊《ちゅうたい》の連中も山田を一目見ようと四班の部屋の前に人だかりができていた。それを見た佐野が慌てて部屋の前に来て他の班の連中をかき分けて中に入ってきた。「なんだ。この騒ぎは?」佐野はだいたいの察し《さっし》はついてるように見えた。
 すかさず永見が「他の隊から山田二等陸士の顔を見に来たと申しております」そして永見は佐野の耳に口を当てると「大事にならなければいいですね」と辛口《からくち》を叩《たた》き佐野を部屋に残して外に出た。実際、永見は愉快だったに違いない。山田という遊び道具を与えられた上に山田は想像以上の働きをした。まるで永見の術中《じゅっちゅう》にはまったように山田は次から次へとやらかしていった。
 初めは楽しんでいた佐野も徐々に追い込まれていく。山田という爆弾を抱えて前期教育を無事に過ごせるほうが奇跡だ。無事に済まなければ、班長という立場は危《あや》うくなりそうだ。しかしあの忌《い》まわしい事件が起きるまで僕はひそかにこうなることを確信していた。何故なら永見と吉田が山田を殺すように誘導《ゆうどう》していたのは、この僕だからだ。

 ここまで文章を一気に書き上げて僕は目頭を押さえた。顔を洗ってすっきりしたかったので、そのあとの物語を頭の中で整理しながら洗面所へ向かった。
 鏡に映る自分を見て三十歳を目の前にしてこんなにくたびれているのかと、ため息をついた。後ろで何か物音がした。猫のシンが僕を追って部屋から来たのだろうと思った次の瞬間、僕は後頭部《こうとうぶ》を鈍器《どんき》で殴られたような衝撃《しょうげき》で後ろに倒れた。永見だ。彼が来たのだ。やっと来たか。「遅いよ」と僕は笑って言った。
 永見の姿を捉《とら》えたあと、僕は永見の肩に手をついて何とか立ち上がった。
「ずいぶん遅かったな。今まで務所にいたのか?」
「昨日まで居たよ。出所《しゅっしょ》してお前に復讐《ふくしゅう》をしに来た」
「復讐って、そんな優雅《ゆうが》なものかね。僕は銃乱射を企《たくら》んでいた山田のことをお前に教えてやっただけのことだよ」僕は可笑しくて《おかしくて》笑いが止まらなかった。復讐なんてたいそうな。永見は黙って聞いていたが、僕の肩を鷲掴《わしづか》みにして「お前のせいで人生の全てが狂ったんだよ!お前が何をしたのか分かっているのか!」
「分かってるよ。僕は君の命の恩人《おんじん》でそれ以外でも何でもないよ」僕がひょうひょうとしゃべるのが永見の感情に触《ふ》れたらしい。僕は永見のパンチを右頬に受けた。
「山田を殴り殺したように僕も殴り殺せばいいじゃないか。吉田はどうした?務所で狂って死んだか」僕は永見との掛け合いを楽しむように、吉田の近況を聞いた。
「お前は何でも知っているな。吉田は務所に入ってすぐに山田に詫《わ》びるように首を吊って死んだよ。あいつを巻き込んだことを今でも後悔《こうかい》している」全て僕のリサーチ済みの情報を永見は垂れ流しているに過ぎない。佐野に僕の住所を教えたのも全て僕の思い通りだ。そして永見が佐野に僕の住所を聞くのもシナリオ通りである。
「今日は僕を殺しに来たんだろ。殺してすっきりすればいい。僕はいつ死んでも誰も悲しむ奴なんていない」
「お前の人生も終わってんな。何のために自衛隊に入隊した」
「出世するためさ。だから僕は幹部候補生になってこの地位を築き上げた」
「自分だけ出世とは腹くそ悪い奴だ」
「君にも出世の道があったかもしれない。それを棒に振ってまで山田が憎かったのか?」
「貴様《きさま》何度も何度も山田の名前を口にするな」
「おめでたい奴だ。君はこの世で一番恵まれた人生を送っているよ。山田を殺して、吉田に自殺までさせて、悪人ここに極《きわ》まるとはこのことだな」永見は無言で僕の次の言葉を待っていた。
「ここでいいことを、一つ教えてやろう。山田は銃乱射など目論《もくろん》ではいなかった。全て僕のでっち上げさ。僕は君が嫌いだった。威張《いば》っていて横柄《おうへい》で、そんな君の全てが嫌いだった。君はまんまと僕の術中にはまったのさ。驚くことではない。君を殺す。待つことはできない」
 永見が驚いた表情を見せた瞬間、僕の拳銃《けんじゅう》が永見の心臓を射抜《いぬ》いた。人の死ぬ瞬間を見るのは実に楽しい。これで永見を殺した。十年越しの復讐《ふくしゅう》がここで完結した。僕はとりあえず精神安定剤《せいしんあんていざい》を飲んだ。気持ちを落ち着かせようと深呼吸する。そうだ、その通りだ。母さんに言われた通り、深呼吸をする。すると不思議と心が落ち着くのだ。
 永見の死体を見ながら飲む酒は美味かった。「山田の死は無駄ではなかった」そう思っていた方が僕は幸せなのだから。
 
 ひと眠りした後、僕は永見の死体の処理に取り掛からなければならかった。この大男《おおおとこ》を解体して岩手山のどこかに埋めようか考えていると、殺したはずの永見がこちらを見て笑っている。
「君は僕がさっき殺したというのに、もうお目覚めか」
「あいにく防弾《ぼうだん》チョッキを着ていて君の弾《たま》は僕の心臓を貫通《かんつう》しなかったようだ」永見は防弾チョッキに銃弾《じゅうだん》が埋めこまれているのを自慢げに見せた。
「久野。お前には地獄に落ちてもらう」
 そう簡単にいくかな。僕がニヤニヤすると、永見は苛立《いらだ》った様子でこちらに近づいてくる。僕は迷わず拳銃の引き金を引いたが、永見の拳銃が音を立てて僕の頭を貫通した。
 心のどこかで死を意識しながらやっと死ぬ事が出来る。僕は疲れていたのだ。永見の復讐は成功した。永見の勝ちだ。もう僕は人生を終わらせる。短いながらもいい人生だった。できることならもう一度母さんと由紀子に会いたかった。それだけが心残りだが、僕は全て諦《あきら》めた。死ぬ間際《まぎわ》になって心が暖かくなったような気がした。あの世で待っているから、あまり早くにあの世に来ないでくれよ。そして僕の魂は抜け殻《ぬけがら》になった。

久野与一が精神病院に入院して数日がたった。久野はすでに廃人《はいじん》なっており、二十歳でこの状態は異常に思われる。何もしゃべらず、ご飯も三口《みくち》ぐらいでやめてしまう。久野はやせ細って生きているのがやっとだった。
 担当医もお手上げだった。何かあると「永見に撃たれた」とわめきだし「僕は自衛隊の幹部候補生《かんぶこうほせい》だぞ」と自衛隊の頃の話をしているのか「永見!」と言ってはひとしきり暴れる。それが理由で独居房《どっきょぼう》に入れられると、白い壁と対話することを余儀《よぎ》なくされる。
 家族は面会に一度も現れたことがない。家庭もうまくいってないのだろう。久野の精神が崩壊《ほうかい》したのも家族との不和があったからだと思われる。
 久野は自分が書いたという小説をひと時たりとも離すことはなかった。自分の生きた証《あかし》だという思いが強そうだ。
 久野は十八歳で自衛隊に入隊し、二十歳の時に精神に異常をきたしこの病院に運ばれてきた。自衛隊の最後の階級は陸士長《りくしちょう》である。自衛隊ではどのような暮らしぶりだったのか分からないが、高校を中退したあと精神病院への通院歴《つういんれき》があり、処方箋《しょほうせん》から見て、統合失調症《とうごうしっちょうしょう》と分かった。
 通院していた精神病院の医院長に久野の状態を聞いても、「覚えていない。記憶にない」としか答えは返ってこなかった。家族に久野のことを聞いても「あまりあの子に接してこなかったので、いつも何を考えているのか分からず怖かった」と母親として久野に対しての愛情がなかったことが窺《うかが》える。多分久野は孤独に違いなかった。友人関係がなかったことも分かってきた。「中隊にも友人はいなかったのですか?」そう尋《たず》ねても中隊の幹部は「分かりません」の一点張《いってんば》りだった。久野の交友関係を洗っても久野に対する話は誰もしたがらなかった。
 
 一九八八年十月その日は三中隊の射撃訓練だった。もちろん久野も参加している。予定通りに射撃訓練は進み久野の番がきた。銃を構えて弾倉《だんそう》を装填《そうてん》する。的《まと》を狙って撃とうとみせかけ乱射しようと試みたが、その行動に気づいた周りの隊員によって久野は取り押さえられた。ニュースになるような事件にはならなかったが、その責任は重く久野は懲戒免職《ちょうかいめんしょく》の処分を受け、この病院に送られてきた。
 久野はそれからも自信に満ちた目で医師の診察を受けた。
「あなたはなぜ銃を乱射しようとしたのですか?」医師がそう問いかけても久野は憮然《ぶぜん》として
「天命ですよ。僕には神がついているから、神の指示に従ったまでです」
「あなたは特定の人を狙って撃ったのですか?」
「僕に殺された奴らは本望《ほんもう》だったろう。そう思わないか?」と意味不明なことを言う。久野は銃を乱射して次々に人を殺したという妄想に憑《と》りつかれていた。何が動機で何が目的かは分からない。久野を追っても、いつも久野はそこにはいなかった。まるで空気のように久野を捉《とら》えることは至難《しなん》の業《わざ》だった。
 久野はその間《かん》も自分が書いた小説を面会に来た私に見せてくれた。
「永見じゃないか。久しぶりだな。下界《げかい》の暮らしはどうだ?」
「久野よりはまだマシなほうかな」
「それより僕の小説は面白いだろう。出版したら売れると思はないか?」久野は満面の笑みで僕を見ながら「君のことも書いておいたよ。前期教育のヒーロー様の話も」
「楽しみにしてるよ」私はそっけない返事をした。
「いやに余裕じゃないか。君もいつか殺してやるかな!覚悟しておけよ永見!」
 久野との面会はいつも久野の暴言《ぼうげん》と感情の高ぶりによって中止された。いつも職員立ち合いにのもとでの面接で、そしていつも久野が興奮《こうふん》して面会は終わってしまう。そのようなことが数年続いたが、やがて久野は衰弱《すいじゃく》して死んでしまった。亡くなったとき家族は誰一人、久野の死に顔を見にこようとはしなかった。全くもって惨《みじ》めな話である。
 私が久野を追って数年。久野のことはいろいろと分かってきたつもりでいる。久野は孤独を埋めるために自分の殻《から》に閉じこもり、けして自分の殻を破ることなく死んでいった。私も前期教育のとき久野の危《あや》うさに薄々《うすうす》気づいていた。そして私に対する恨《うら》みは相当大きなものだったことも久野の小説を読めば一目瞭然《いちもくりょうぜん》である。久野が死んだ今、自衛隊の闇を暴《あば》くのはそう簡単なことではないだろう。しかし自衛隊の闇を掘っていかなければ、これからもあらゆる事柄《ことがら》の事件がおこるはずである。
「久野の死は無駄ではなかった」いつかそう言える日が来ることを私は願っている。私は久野の短い一生を完成させる責務がある。私は彼の生涯を悲しいだけの物語にはしたくない。そう思いながら彼の写真を眺《なが》めた。

久野の死後その遺骨と小説は家族が引き取ったが、その後どのように処理されたのかどうか今のところ分かっていない。