じいちゃんが死んだ。

 母さんの実家であるじいちゃん()は、いかにもな田舎にあって、毎年夏休みに二週間くらい遊びに行っていた。
 父さんは仕事の都合で、三日間だけ滞在すると先に帰る。
 じいちゃんは歳のくせに遊ぶのが大好きで、夏休みの間は俺を川や山によく連れてってくれた。
 ばあちゃんは疲れてしまうからと付いてくることはなかったけど、一日中遊んで家に帰ると、畑で取れた野菜を使った美味しいごはんをたくさん用意してくれた。
 だから俺は小学生にしては珍しく、野菜が好きだった。東京の奴らが野菜を嫌いなのは、美味しい野菜を食べたことがないからだと思っている。
 じょーそーきょーいくにいいからと、母さんはこの二週間だけは、宿題もせずにずっと遊んでいても何も言わなかった。
 だから俺は、毎年夏休みにじいちゃん家に行くのを楽しみにしていた。
 
 ところが、そのじいちゃんが死んだ。知らせがきたのは、五年生の夏休み直前だった。
 母さんと父さんは慌ただしくしていたが、俺はただぼんやりしていた。じいちゃんが死んだ、ということの実感がなかった。
 死に顔を見ても、普通に眠ってるみたいで、「どっきりでした!」とか言って起きてくるんじゃないかと思っていた。じいちゃんならやりそう。
 でもそんなことはなく、あっという間に葬式は済んで、俺たちは一度東京の家に戻った。
 その後大人同士で話し合って、ばあちゃんは施設に移ることになったそうだ。ばあちゃんは家を離れることを渋ったが、一人で暮らすのは大変だろうと周囲に言われて、結局頷いたらしい。
 住む人のいなくなった家は、手放すしかない。
 夏休みの二週間。いつもなら楽しいその二週間を、今年は家の整理のために使うことになった。

 子どもの俺は、特にやることがない。好きに遊んでいていいと言われたけど、じいちゃんと遊んだ川も、山も、一人で行ってもちっとも楽しくなかった。
 山の途中に、小さな祠があった。この祠には、じいちゃんと一緒に来たことがある。
 供え物はじいちゃんが置いたものしかなくて、じいちゃん以外の誰も来ていなさそうだった。
 それでもじいちゃんは、この祠には大層優しい神様がいるんだと笑って、手を合わせていた。
 祠を見ていると、なぜだか無性に腹が立った。
「なんだ、こんなもの!」
 俺は祠を蹴っ飛ばした。小さく脆い作りの祠は、がらがらと音を立てて壊れた。
 神様なんているもんか。いるなら、どうしてじいちゃんを助けてくれなかった。あんなに熱心にお参りしていたのに。
 ぼろぼろと、怒りと共に涙が溢れてきた。
 じいちゃんがいない。
 その実感が、やっと襲ってきた。いつも遊んだ場所に、じいちゃんがいない。じいちゃんが大事にしていたものを壊したのに、怒ってもくれない。
 死んだ人は、なにも。なにも、してくれることはない。

 泣きじゃくる俺の耳に、突然低い声が滑り込んだ。
「あーあ、きみ、その祠壊しちゃったの?」
 びっくりして声の方を振り向くと、少し離れたところに、背の高い男が立っていた。その見た目がどうにも怪しくて、俺は眉をひそめた。
 男は長い白髪を、無造作に括っていた。白髪なのに老人ではなく、三十そこそこに見える。灰色の着流しをだらしなくくつろげて、足元は草履だった。
 どこもかしこも特徴的だったけど、特に目を引いたのは、口元の煙管(キセル)だった。じいちゃんに見せてもらったことがある。今はあんなもので煙草を吸う人は全然見ないのに、じいちゃんは「粋だろう?」と得意げだった。
「なんだよ、あんた」
「おれはこの山に住んでるもんさ。それより、その祠。直したほうがいいぞ」
「は? なんであんたなんかに指図されないといけないの」
「おれはきみのためを思って言ってるんだがなぁ。そのままだと、まずいことになるぞ」
「ならねーよ。こんな、じいちゃんしか来ないような祠。他の人が誰も来てなかったのに、今まで何にもなかったんだろ? だったら、大した神様じゃなかったんだ。どうせ、もうじいちゃんも来ないんだし。ほっといたって壊れたよ」
 ふてくされたような俺の言い草に、男はついと目を眇めた。
「武蔵に、何かあったか」
「たけぞー?」
「……この祠に来ていた者だ」
「ああ、じいちゃんのこと?」
 そういやそんな名前だったっけ、と思いながら、俺は下を向いた。
「死んだよ」
 それだけ言うと、俺は口を噤んだ。死んだ、という言葉を口に出したくなかった。
 それにしても、この男、本当に山に住んでいるのだろうか。田舎だから、人が死んだら近隣には知らせが回って、葬式にはほとんどの人が来ていたはずだ。じいちゃんが死んだことすら知らないのなら、大した仲じゃなかったんだろう。
 返事をしない男に苛立った俺は、顔を上げてぎょっとした。
 男は、大層衝撃を受けたような、悲痛な顔をしていた。葬式で泣いていたじいちゃんの友達すら、こんな顔はしなかった。
 この人はいったい、じいちゃんとどんな関係だったんだろう。
「あんた……じいちゃんの友達?」
 声をかけられて、ようやく男ははっとしたように俺の姿を目に映した。
「友……そうだな、そうだったかもしれん」
 不思議な言い方に、俺は首を傾げた。
「しかし、それなら尚更、きみを放って置くわけにはいかないな。悪いことは言わないから、早めに直しておきなさい」
「なんだよそれ。じいちゃんと何の関係があるんだよ」
「……きみを守るためだ」
「は? 意味わかんねーし」
 気味の悪さを感じ始めた俺は、その場から去ろうと男に背を向けた。
「待ちなさい」
「ッ!? ぶえっ!?」
 いつの間に近づいたのか、男は俺の肩を掴むと、煙草の煙を思い切り吹きかけた。
 目にも喉にも染みて、俺は激しく咳き込んだ。
「何すんだよ!」
「その場しのぎだが、無いよりましだろう」
「ふざけんな、この不審者!」
 吐き捨てて、俺は駆け出した。ちらと振り返ると、男はずっと俺のことを見ていた。

 家に帰ると、荷物の整理をしていたばあちゃんが、俺に箱を差し出した。
「これ、おじいちゃんが友樹にって」
「……俺に?」
 どうやら、じいちゃんの遺品らしかった。
 ごはんも風呂も済ませて、あとは寝るだけ、となってから、俺は布団の上で箱を開けた。
 父さんがいる間は父さんと同じ部屋だけど、父さんがいない時は、俺は一人で寝ていた。ちなみにばあちゃんと母さんが同じ部屋。
 箱の中身は、じいちゃんと一緒に作ったおもちゃや、遊びに使った道具なんかが入っていた。それを見て、またじわりと涙が滲む。一人部屋で良かった。
「ん? なんだろこれ」
 箱の底に、一冊のノートが入っていた。どうやらそれは日記帳のようだった。
 日記ならばあちゃんが持っていた方がいいんじゃないだろうか、と思ったけど、中身を読んでその理由はすぐにわかった。
 これは、俺用の日記だ。
 一緒に遊びに行った時、俺が好きでたくさん食べた木の実が成っている場所とか。一番大きいクワガタが取れる場所とか。川魚がたくさん釣れる場所とか。思い出と一緒に、俺のためと思われるメモがたくさん残されていた。
「じいちゃん……」
 日記からは、じいちゃんが俺といて本当に楽しかったことが伝わってきて、俺はまた鼻がつんとした。
 一ページずつ丁寧に読んでいくと、あの祠の記載があってどきりとした。あの祠は、じいちゃんが大事にしていたのに。俺が、壊してしまった。
 罪悪感からずきずきする胸を押さえながら、祠について読み進める。
 いわく。あの祠には、蛇神様が祀られている。蛇神様は村を守り、荒天を鎮め、畑を豊かにしてきた。しかし、その信仰は近年忘れ去られ、今ではほとんど参る者もいない。それでも蛇神様が村を見捨てないのは、じいちゃんがいたから。じいちゃんが蛇神様を祀ることで、蛇神様はじいちゃんの家族と、家族の住む土地を守護してきた。そしてじいちゃんが亡くなった時には、その子孫が信仰を受け継ぐことで、一族の守護を約束したらしい。
 だからあの祠を今後も大切にするように、そして子孫へ受け継ぐように、と日記には書かれていた。
「じいちゃん……ごめん」
 でも、蛇神様は、じいちゃんを救ってくれなかった。
 わかってる。じいちゃんが死んだのは、事故でも病気でもない。ストン、と穏やかに眠ったまま死んだって。
 でも苦しんでないからいいとは思えない。
 俺が中学生になるの、楽しみにしてたのに。老衰にしては、早すぎる。なんでだよ。なんで。
 暗い気持ちのまま、俺は眠りについた。

 体が動かない。金縛りだろうか。
 昔はオカルトに分類されたけど、今はもう科学的に解明されている。金縛りは、体が寝ているのに、脳だけ起きてしまった状態だ。五年生なら、そのくらい知っている。
 色々あったから興奮しているのかもしれない、と俺は寝苦しさに唸った。
 わかっていても、気分のいいものじゃない。早く解けるようにと、俺は意識して体を動かそうとする。
 ――守……が、解け……
 ――蛇……め、やっと……
(……なんだ……?)
 近くで声がする。ノイズが混じったような、不快な声だった。
 幻聴だろうか。金縛りの最中には、幻覚や幻聴の症状が出ることがある。
 無理やり瞼をこじ開け、視線だけで周囲を探る。
 途端、ぞっとした。
 俺の布団の周りを、何か黒い()()のようなものが取り囲んでいる。
 どっと全身から冷や汗が吹き出した。
 幻覚だ。そう思うのに、頭の中に警鐘が鳴り響いている。
 その黒いもやは俺に近寄ろうとしているようだったけど、布団の端に触れると、そのまま引いてしまった。どうやら、布団より内側には来られないらしい。
 それを疑問に感じていると、ふわりと煙草の匂いが香った。
 ――忌……い、蛇……
 ――守護……を、この……
(いなくなれ、早くいなくなれ……!)
 夜が明けるまで、俺はひたすらに祈っていた。
 どれだけの時間が経ったか。朝日が差し込む頃には、黒い影は姿を消していた。
 その頃には金縛りは解けていたけど、俺は疲労から、動けずにいた。
「何だったんだよ……あれ……」
 呆然と呟いた疑問に、答える者はいない。

「はー……」
 肺が空になるほどの溜息を吐いて、俺は川に足を浸した。
 冷たさが心地いい。ぼうっとした頭が冷えるようだった。
 いっそ潜ってしまいたいけど、大人がいない時に川に入ってはいけない。
 慣れた場所だからと、中には入らないことを条件に、俺は一人で川に遊びに来ていた。
(じいちゃんと一緒だったら、入れたんだけどな)
 思っても仕方のないことを考えながら、ぱしゃぱしゃと水を足で蹴り上げる。
 無意識で足を動かしながら、昨夜のことを思い返す。
 あれはなんだったのか。やっぱり、ただの幻覚だろうか。
 それにしては、妙な現実感があった。
 鳥肌が立って、腕をさする。
 気のせいだ。あんなもの。気のせい、気のせい。
 言い聞かせていると、水面がゆらりと波打った。
 魚だろうか、と思った瞬間、俺は水の中に引きずり込まれた。
「うわあああっ!?」
 足を滑らせたのではない。何かに()()()()
 足元を見ると、黒い何かが蠢いていた。
 恐怖に身が竦む。必死で川べりの岩を掴むが、川底から引く力の方が強い。
 このままでは溺れる。泣きそうな俺の頭に、じいちゃんの日記が浮かんだ。
『もし自分ではどうにもならない危険にさらされたら、蛇神様に助けを求めなさい。名前を呼べば、必ず助けてくれる』
 名は契約。じいちゃんが蛇神様に与えた名前。
 全力で水面から顔を出して、大きく息を吸い込む。

「ヤト様――――ッ!!」

 叫んだ直後、がぼ、と口の中に水が入り込む。手が岩から離れてしまった。
 もう駄目かもしれない、と思った時、白い何かに勢いよく引き上げられた。
「っげほ、うえっ」
 咳き込みながら、必死で酸素を取り込む。見ると、蛇のように俺の体に巻きついているのは、長い白髪だった。
「あーあー、だから早く祠を直せと言ったのに」
 溜息混じりにそう呟いたのは、昨日祠で出会った長身の男だった。
「……あ、んた……」
「大事ないか、小僧」
 男は長い白髪を操って、俺を水の中から引き上げたようだった。
 髪の長さは異常なほどに伸びている。
 とても人間にできることじゃない。
 つまり、この男が。
「ヤト様……?」
 そう呼ぶと、男――ヤト様は、懐かしいものを見るように目を細めた。
「あ、そうだ、川に、なんか、黒いのが……!」
「もういない。あれは逃げ足が速いからな。おれがいたら出てこないさ」
 しゅるしゅると、体から髪が離れていく。
 元の長さに戻った髪を、ヤト様はまた無造作に括っていた。
 聞きたいことはたくさんあるけど、まずは助けられたことに対してお礼を言わなくちゃ。
「あ、ありが、と」
「礼より、早いところ祠を直してくれ」
「なんでそんなに祠に拘るんだよ」
 ふてくされたような俺に、ヤト様は呆れたように息を吐いた。
「神の存在は信仰によって成り立っている。祠とは、その信仰を形にしたものだ。おれを唯一信仰してくれた武蔵はもういない。その上祠がなくなったとあっちゃ、おれが消えるのも時間の問題さ。現に今、おれの力はとても弱い。昨日きみにかけた(まじな)いも、一晩しかもたなかった」
 俺は目を丸くした。呪い。そうか、だから昨晩、あの黒いもやは俺に近づけなかったんだ。
 子どもに煙草を吹きかけるなんて、非常識な大人だと思ったけど、あれが俺を守ってくれた。
 そもそも、祠を壊したのはただの八つ当たりだ。それなのに、この神様は、律儀にじいちゃんとの約束を守って、俺を助けてくれた。
 なら俺も、じいちゃんに恥ずかしくないように、最低限の礼は返すべきだろう。
「……わかったよ。祠、直す」
 ヤト様は、ぱっと顔を輝かせて、嬉しそうにした。
 なんだよ、急に。壊したの俺なのに、そんな反応されたら。
「い、言っとくけど、俺工作下手だからな! 小学生に期待すんなよ!」
「構わんさ。信仰とは気持ちだ。上手い下手は関係ない。丁寧で、清潔であればな」
「……努力はするけど」
 果たして丁寧な作業ができるかどうか。俺一人で作ったら接着剤で組み立てとかになりそうだし、大人に手伝ってもらった方がいいかもしれない。
「でもさ、ヤト様。ここに祠を建て直しても、俺、お参りには来れないかも」
「なに?」
「じいちゃんが死んだから、家は手放すんだって。ばあちゃんは、母さんがいつでも見に行けるように、東京の施設に入れるんだってさ。だから、もう夏休みにここに来ることはないと思う。電車だけじゃ来れない場所だから、俺一人で来るっていうのも、多分無理」
 車がないと来られない場所に、小学生一人で来させる親はいないだろう。
 頼み込んだら母さんも付いてきてくれるかもしれないけど、もう家も家族もない田舎に来る理由が、母さんにはない。
 そうすると、祠を建て直したところで、それを維持してくれる人が誰もいない。果たして、それでも神様というのは存在できるのだろうか。
「ふぅむ……そうか」
 難しい顔で考え込んだヤト様は、思いついたように手を打った。
「わかった。なら、東京とやらに、祠を建て直してくれ」
「ええっ!?」
 ぎょっとして大声を上げる。場所を変えるって、そんなん有りなの!?
「ヤト様って、この土地を守ってるんじゃないの?」
「うーん……確かに、元は土着の神だからなぁ。力は落ちるかもしれないが……それでも、誰も信仰しない土地に居続けたら、いずれ消えることには変わらん。だったら、武蔵と交わした約束を守り、武蔵の一族を守っていく方が、まだ存在意義があるってもんだ」
「守るって……でも、あの、黒いやつ? あんなのが出るなら、この土地の人を守った方がいいんじゃないの」
「あれは別にこの土地のみに出るもんじゃない。むしろ、きみを狙って出てきたのさ」
「は!?」
 思いもよらない回答に、俺はすっとんきょうな声を出した。
 そんなことは日記にも書かれていなかった。どういうことだろう。
 困ったような俺を見て、ヤト様は苦笑していた。
「そうか、武蔵はそのあたりはきみに話していなかったんだな。好意的に解釈すれば、おれへの信頼と思いたいところだが……面倒くさがったんだろうなぁ」
 がりがりと頭をかくヤト様に、説明しろという視線を向ける。
「武蔵はな、(かんなぎ)だったのさ」
「かん、なぎ……?」
「今風に言うと、霊能者、とでも言えばわかりやすいかな」
「れいのうしゃあ!?」
「娘はその力をほとんど受け継がなかった。ところが、きみには武蔵と同じくらいの力がある。だから武蔵はきみのことを気にかけていたし、おれにきみを託したんだ」
「ま、待って、待ってよ。急にそんなこと言われても」
 混乱した頭に、ふっと浮かんだ考え。よせばいいのに、俺はそれをそのまま口に出してしまった。
「じいちゃんが……死んだのって、それ、関係あったりする……?」
 怯えたような俺の頭を、ヤト様がくしゃくしゃと撫ぜた。
「安心しろ。無関係とは言えないが、それは武蔵が若い頃に無茶をしたせいだ。何かに呪い殺されたわけではないし、きみが同じように短命であるわけじゃない」
「ほんと……?」
 縋るような目をした俺の背を、宥めるようにヤト様が軽く叩いた。
「今はまだ、難しく考える必要は無い。きみがおれを信仰してくれるなら、これまで通り、おれがきみを守ろう。きみ、名前は?」
「友樹……」
「そうか。友樹、いい祠を期待してる。東京に戻っても、よろしく頼む」
「……うん」

 じいちゃんが残した、一冊の日記。
 それは俺の運命を変えた。
 ヤト様との日々は、これからも続く。
 いや――ここから、全てが始まる。

 俺の巫としての日々が。