夜な夜な、妖を狩る。
 朝な夕な、妖を狩る。
 それは宿命。その血を受け継いだ者の宿命。
 今日も何処かで(あやかし)の声が轟く。
 常人の耳には届かぬ唸り声が、地を這う様に低く響く。
 ひとつ、またひとつ。
 どこかで生まれては消され、また、生まれ。
 その声に気付けるのは、それを狩れる者達だけ。
 ――その血を受け継いだ者達だけ。


 そちらではない、と声がする。
 そちらに行ってはいけないと、来るのはこちら側だと、どこかから呼ぶ声がする。
(――誰?)
 この眠りを妨げる者は誰だろう?
(誰なの?)
 この世界を離れようとする私の意識を妨げるのは、一体、誰?
 夢現(ゆめうつつ)の中、弥神(やがみ)沙綾(さあや)はただ、混濁した中を彷徨(さまよ)っていた。
 強烈な二つの相反する力が、互いに互いのいる場所の方へと自分を引き込もうとしている。
(どうして?)
 どうして、こんな声が届くのだろう。
 私を必要とする人なんていないはず。
 私をこの世に引き止める存在などないはず。
 私もこの世に思い残すものなど何もないはず。
 ――それでも、誰かがしきりに沙綾に呼びかけてくる。声が聞こえる。
 戻って来い(・・・・・)と。
 それは清廉で不純なものが含まれない、美しすぎる声だった。
 一切の陰りがない、清らかな祈りであり、願い。
 何故、自分は呼ばれているのだろう。
(どうして、この声は私を呼んでいるの?)
 あまりの温かさに、心の比重がふわりと傾いた。
 誘われるように意識を向けた瞬間、その祈りの言霊の力が増幅し、やがて禍々しく(まと)わりついていた全てを薙ぎ(はら)う。
 暗い淀みが、忌まわしさが――周りに(うごめ)いていた無数の黒い影が、一気に浄化され散って行く。
 後に残ったのは暖かな粒子の降り注ぐ、無音の空間だけだった。
 そしてまた、呼びかけてくる声。
 『――戻って来い』
 その声と風光の眩さに連動され、救い上げられた。
 深い深い眠りの淵から意識が覚醒する(・・・・)
 暗い暗い闇の内から呼び起こされる感覚と共に、沙綾は呼ばれていた現実世界へと戻って来ていた。
 本能に促されるまま、静かに瞼が開いて行く。
 目に飛び込んで来たのは、白く塗りこめられた天井だった。
 十八年時を過ごして来た、自分の家の物とは違う。
 柔らかく厚い寝具の中に、沙綾は一人、ひっそりと横たわっていた。
 身体を包むこの感触も、いつもとは違う物だ。
(――ここは、どこ?)
 ぼんやりとした頭の中に、まずそんな疑問が浮かんできた。
 何があっただだろうか。どうしていただろうか。
 枕の上で少しだけ顔を傾けて、視界を少しだけ遠くまで広げる。
 人の活動がおさまっている、静寂に包まれた、陽の光のない空間だった。夜だ。
 周囲には誰の気配も無い。
 それ自体はついさっきまでの空間と何ら変わりはないが、だが生きとし生けるものの力が、生命を育んでいる大気が、ここは確かに違う世界だと告げている。
 沙綾が感じ取っているのは、間違いなく沙綾が今までの十八年と少しの間過ごして来た世界の空気と感触だった。
 ここは、まぎれもなく現実世界だと夢現ながら理解する。
 沙綾は横たわったまま数秒の間だけ、自分が還って来たのだという実感だけをかみしめた。
 どれだけの時間が経ったのだろうか。いや、そもそもどうして今、こうして自分は倒れているのだったか。
 あやふやで朦朧としている意識の中では全てがはっきりとしない。
 だが大分長い間、深く眠ってしまっていた気がする。
 理屈ではなく、脳の回復具合がそう告げていた。
 不思議な感覚だった。
 まだ頭の中に(もや)が掛かっているが、だがその一方で緩やかな心地よさが感じられる。
 安寧とでも言うのだろか。あるいは、陶酔か。時を忘れてしまいそうになる。
 このまま、まどろみの中に浸ってしまいたかったが、しかしそういう訳にもいかない。
 この世界に戻ってきたという事は、逃れようのない現実もまた再び襲い始まっていくという事なのだ。
 のろのろと重たい体を持ち上げると、腰まで伸びた髪が一房、肩を滑ってはらりと頬にこぼれてきた。
 艶やかで健康的に見える、それでいて柔らかさのある黒髪。
 その揺れ落ちる微かな感触に誘われて、自然な流れで視線を下に向ける。
 上半身を起こした体には、白一色の簡素な着物が着せられていた。
 始めに沙綾が身に(まと)っていた物ではない。
 始めどんな着物を身に着けていたかはまだ思い出せないが、沙綾の所持品にこのような物は無かったのだけは判断できる。
 つまりこれは借り物で、誰かが沙綾に着せたものだろう。
 悪趣味すぎると思う。白一色なんて、まるで死に装束のようではないか。
 悪い方にばかり捉えてしまうのは、自分が自分の置かれている立場を悲観しすぎているせいかもしれない――いや、間違いなくそうだろう。
 長いまつ毛の奥に隠された大きめの黒目がちの二つの瞳が開くと、視界が開けて情景が瞳の中に飛び込んで来た。
 十畳ほどの部屋だった。
 畳の香りが立ち込める室内に、かすかに漂って来る芳しい香り。
 これは何だろうかと顔を動かして見てみると、床の間に掛け軸と共に百合と桔梗の花が飾られていた。
 夏の暑さによる不快感を和らげるように凛とした姿で咲いている。
 見覚えのある部屋だった。
 もう何度も、と表現してもいい位にはここを訪れているかもしれない。
 正確には何度目になるだろう。
 一度目は婚姻が決まって、顔合わせをした時に訪れた。
 二度目は初めてこの部屋に泊まった時。
 そして三度目は――。
(この家のものになった時)
 そう、心を通わせる事も無くただ行為として彼と繋がった(・・・・)、あの時が三度目。
 だからおそらくこれで四度目になるはずだ。
 一つ一つ思い出していく度に、同時に胸がざわめいて行き、ざらざらとした気持ちが心を侵食する。
 考えたくも無い。だけど逃れる事も出来ない。
 これが今沙綾に望まれている唯一絶対の事なのだ。
 正しい血を引いている弥神家の人間として今いるこの場所に嫁ぎ、血を残し、骨を埋める――沙綾はただそれのみを求められている。
 そこに沙綾の意思など関係ない。沙綾という人間そのものの価値など見られていない。
 どうしようもない虚しさに、胸が押しつぶされそうになる。
 幼い頃から繰り返し味わって来た思いだが、未だに慣れない。
 何のために自分は生き、何故この世界に戻ってきたのだろう。
 どうしてあの声は自分を呼んでいたのだろう。
 いくら考えを巡らせても、最終的にはその疑問にまた戻って来てしまう。
 そしてその答えには辿り着けないのもいつもと同じだ。
 じっとりと身体にまとわりつく湿度と気温の高さに、額に少しづつ汗が滲んで来る。
 身体が生身の人間としての機能を取り戻していっているのを実感させられた。
 まだ、自分は生きているのだと。
 きっと自分はさっきまで生死の境界線の上にいた。
 あの声は沙綾を生の世界へと呼び戻していたのだ。
(――あれは誰だったの?)
 枕元には黒い燭台が置いてあった。
 中央では、たてられた蠟燭に灯された炎が音もたてず燃えている。
 暗い室内を照らす、唯一の仄かな灯り。
 ごく普通の家庭にも当り前に電気の引かれている今、時代錯誤と言えば時代錯誤だ。
 だがこの家の主達はことのほかこの情緒と雰囲気が好きな様で、三年ほど前に建てられたばかりらしいこの場にもその(おもむき)を持ち込んでいた。
 離れであるここはまだ建築されて間もない事もあり近代的な造りになっているが、本家の方はさらにその傾向が顕著だ。
 職人の手を尽くした風格を漂わせる造りの広大な家の中に、年代物の骨董品(こっとうひん)や書物が幾つも置かれている。
 この歴史を漂わせる造りにこだわりがあるらしい。
 それでいて必要な部分はしっかりと手が加えられており、年代による古臭さや暗さを感じさせない。
 決してこの家が経済的に困窮している訳ではないというのは明らかだった。
 設置されている燭台もこの国で名を馳せるその道の一人者の手により生み出されたものだと――つまり一般人にはおおよそ手が出ない程の値打ち物だと侍女から伝え聞いている。
 とは言ってもさほど骨董品に興味もなくもちろん目利きも利かない沙綾には、ただのどこにでもある簡易な燭台にしか見えず、話半分に聞き流していたが。
 沙綾にとってはその程度の認識の物でも、それが彼等にとっては価値を感じる物なのだろう。
 とにかく箸一つに至るまで、どこにどんな形で高級な品物が潜んでいるか分からない家の中だ。
 ゆっくりと身を起こした後、沙綾はくるりと首を左右に回して、置かれている状況を確認した。
 自分の身体と同じ温度に温まった、心地のいいぬくもりと身体の重みを吸収してくれる布団。
 身を包んでくれている毛布にいたるまで、全てが自分の家にある物とは段違いの品だ。
 そこまで使用されていないこの離れの部屋にどれだけの財をつぎ込んでいるのか。
 ここまでくると羨望を通り越して呆れという感情が湧いて来る。
 そう遠くない未来に自分の家になるこの場所を最後に訪れたのは、確か三か月程前だっただろうか。それ以来だ。
 ひたすら好奇や嫉妬、そして侮蔑に満ちた目に晒され、黙ってやり過ごすしかなかったあの日を、今も覚えている。
 おそらくその目は今も変わっていない。
 古い慣習に捕らわれたこの場所では、意識の変革など期待できない。
 この手厚くかけられている布団も、思いの一切込められていない見せかけだけのものだ。
 さしずめ、いずれ当主の妻になる者に対して一応の礼は取っておこう、といった所か。
 とにかく自分にとってはここはあまりいい思い出が無い場所だ。
 もっと直接的に表現をすれば、来たくなかった場所とも言える。
 天井近くの高い位置に掛けられている時計の針は、ちょうど()の刻を示していた。
 あと二時間で、日付が変わる。
 一瞬心にのしかかってきた思い気持ちを振り払って、何が起こっただろうか、何故自分はここに居るのかと再び記憶を探って行った。
 確かいつも通り学び舎に足を運んで、いつも通り学業の指南を受け終えて。
 日も落ちかけていたので、家路を急いでいた――その最中だったのだ。
 陽も沈みかけていて、早く家に着かねばと足早に歩を進めていた、その時。
襲われた(・・・・)
 自分の身に起こった事がようやく一つづつ、紐解かれていく。
(……っ)
 ずきり、と頭に痛みが走った。
 脳内に杭を打たれるような刺激に、再び布団の上に倒れ込みそうになるのを何とか耐え、やり過ごす。
 今しがた思い出した記憶が正しいものなのだと、思い知らされる。
 この痛みの源は、人間の全ての負の感情なのだ。
 人の持つ恨み、怒り、憎しみ――それを凝縮した存在こそが、(あやかし)
 常人には目にはうつる事のないそれは、人知れずあらゆる場所に漂っている。
 そしてやがて集まり一つの力となり、人の中に入り込む。人間の肉体や精神と一体化する。
 ひとたび()いたら、その人間の肉体が滅ぶまで――つまり命が尽きるまで、その人間から絶対に分離する事はない。
人憑(ひとづ)き)
 人でありながら妖に支配されているもの。人でありながら人ではないもの。
 人に取り憑いた妖は、そう呼ばれている。
 人憑きの抱く力は正常な人間を負の感情へと惑わし、影響を及ぼし、時としては天変地異をも引き起こす。
 それ故、それを祓う者――その力を持つ者が『祓い師』と称され、裏から守る者として民から崇拝されていた。
 身の回りに不穏な出来事が起こった時や近親者が変死体で発見された時、妙な動きをするようになった時。
 それらには妖が関わっている可能性が高く、人は自らの命を守る為、金を積み祓い師の力を借りる。
(どんな立場の人間であれ、命が最もゆずれぬ財である事は変わらない)
 祓い師がこの昌魏(しょうぎ)国で絶対的に支持を受け、尊ばれている所以である。
 沙綾も代々、祓い師の血を正統に継ぐ家系に生まれた人間だった。
 幼い頃から呼吸を繰り返すように自然に、妖の姿を目にしている。
 だが、人憑きに出くわすのは初めての経験だった。
 人憑きは、いわば妖の集合体だ。その存在自体で並々ならぬ力を持つと証明されているようなもの。
 ごく普通の妖は行き場を求め、しかしそれに憑依することも叶わず、常人には見えぬ霊としてただ宙に漂うだけである。
(私が会うなんて)
 その存在については肉親から聞いてはいたものの、実際にまさか目の前に現れるとは思ってもみなかった。
 よりにもよって祓い師としての能力を全く持たない自分の前に、だ。
 何故自分の前に現れたのだろう。
(あんな、人憑きが)
 頭の痛みが引いていくのと入れ代わるように、襲ってきた人憑きの姿が、ぼんやりと脳内に蘇ってくる。
 ――やはりあれは自分の目の錯覚ではなかったのか。もしくは、見間違いか。
 予想の範疇を超えた姿で目の前に立ちはだかった妖に、そう思わざるを得なかった。
 にわかには信じがたい。信じがたいが、だがあれは確かに人憑きだった。ああ見えても(・・・・・・)
 全身を纏っていた、禍々しい気。祓う力は無くても、沙綾はその力を感じ目にする事は出来る。
 だが、それだけだ。
 祓う力は無い上、想定外すぎる事態だった事も相まって、対抗する術など無く――結果、この有様だ。
(いいように、やられてしまった)
 はあ、と一つ沙綾は息をつく。
 このことが親兄弟に知られたら、また家に戻ったら何と言われるか、想像しただけで気が滅入って行く。
 きっと蔑みの嵐だろう。あるいは罵声か。
 もし人付きに出くわしたのが能力を受け継いでいる兄なら多少はマシだったのかもしれないのに、つくづく自分は運に見放されているらしい。
 またあの空間を、ただ息を殺してやり過ごすしかないのか。
 もういっそ目覚める前のあの暗闇の世界に戻ってしまいたい、という考えが頭の中を過った。
 この世界を捨ててあの世界に行けば、そうすれば、この全ての面倒な現実から逃れる事が出来る。
 何も縛られない、しがらみも何もない、あの世界へ。
 行って みたい、楽になりたい、と思う。
(――いけない)
 再び闇に飲み込まれそうになった気持ちを、何とか沙綾は振り切った。
 この気持ちこそは、妖を呼び寄せる。
 どんな形であれ沙綾は今、こうして生かされている。
 あの時、自分を呼び止める声があった。
 誰の物かは、今も分からない。だけど確かにあったのだ。
 生きろ(・・・)、と言う呼びかけが。
(生きなければいけない)
 誰かがそう望んでくれている、その声があるのならば。
 そう気持ちを立て直した時だった。
 夜のしじまの中、遠くから足音が聞こえて来た。
 騒がしさも無く、会話もその他の物音も一切聞こえない分、こちらに近付いてきているのがよりはっきりと分かる。
 ぱたり、ぱた、ぱたり。
 混ざりあうような音の量から判断するに、一人の物ではない。おそらく二人分だ。
 すぐ側まで迫り、やがて閉まっていた襖に影が映った。
 足音と共に映る影も位置を変えて行き、ある場所でぴたりと止まる。
 部屋の入口にあたる、円形に形どられた引手の前だ。
 ――彼だ。彼だろう。
 姿もはっきりと見えない内に、沙綾はその障子越しにある人物の正体を予測する。
 今ここを訪れる相手としたら、その人物しか思い当たらなかった。
 ごくり、と喉が鳴る。
 身体が硬直した。一度支配されたという経験が、そうさせるのだろうか。
 心臓の動きだけが激しくなり、生きた心地がしないまま視線を向ける。
 すっと静かに襖が開いてまず姿を現したのは、一人の女性だった。
 後ろで髪を一つに束ね、簡素な白の着物を身に(まと)っている。
「お目覚めですか」
 沙綾が意識を取り戻している事に気付くと、そう声を掛けて来た。
 続けて膝をつき正座の体勢を取り、手を畳に付けて美しく板に付いた所作で頭を下げる。
 決して華やかではないが、よく見ると整った顔立ちをしている所にもこの家の風格と威厳が現れている様な気すらした。
 この家の女中だ。
 ――そして、その後ろに無言で佇んでる男性が一人。
 予想していた通りの人物を前にして、布団を掴んでいる手元に僅かに力が入った。
 会いたい、とは言えない人物だった。むしろ彼は沙綾の気持ちを沈ませている要因とも言える。
 彼に道を開ける様にして、女中が襖の傍らで膝をついたまま身をどかした。
 その場に立ち止まった女中を置き去りにしたまま、その人物は足を進めて沙綾の元まで辿り着くと、ゆっくりと腰を下ろす。
 ちょうど沙綾の枕元に当たる位置で胡坐をかいて、向き合った。
 楽な体勢を取っているにも関わらず品性を欠かない悠然としたその姿勢は、凛とした雰囲気をまとっていて、ぴんと糸を張ったような緊張感をもたらした。
 能面のように表情を変えないのもまたこちらを拒絶しているように見える。
 これは別に特別に機嫌が悪いという訳ではない。彼の持つ性格から来るものだ。
 それがようやく分かるほどにはなっていたが、ここまで線を引かれるとやはり彼には馴染めそうにない。
 この家の次期当主という自覚がそうさせてしまうのだろうか。そうでありたいのか、そうせざるを得ないのか。
 いずれにしても、自分とたった一つしか歳が違うとは思えない。
 能城(のうき)透真(とうま)
 代々、妖狩りを生業としているこの能城家の嫡男であり、跡を継いでいく者。
 そして、沙綾の夫となるはずの人物だ。
 彼が態勢を整えた所で、ようやく女中が腰を上げて沙綾の元へと近付いてきた。
 透真と反対側の枕元で再び膝をつき、美しい正座をする。
 細い手を伸ばして来て、布団の上に転がっていた手拭いをすっと拾い上げた。
 恐らく熱さましとして沙綾の額に置かれていたものだろう。
 気を失っている間に、どうやらずり落ちてしまっていた様だ。
 備えられていた桶の水に浸して絞り、両手で沙綾に差し出す。
「どうぞ、お使い下さい」
 素っ気ない一言は自分の身を心から案じているとは到底思えなかったが、これは一応の好意だ。
 無下にするわけにもいかないので受け取り、頬に当てる。
 ひんやりとした感触が手に伝わって来た。夏の暑さの中には心地いい。
「ありがとうございます」
 しかし沙綾のその礼に対しても、女中はやはり興味も関心もなさげな態度だった。
「何かお召し上がりになりますか? ご所望であれば軽いお食事をお持ちいたしますが」
 淡々とした口調のまま型通りといった問いをしてきた女中に、沙綾は首を横に振る。
「いえ。大丈夫です」
 そう言えば学び舎から帰る途中で妖に襲われそれ以降あの闇の夢の中だったので、夕食を摂っていない。
 訊ねられて初めてそう気付いたが、それでも空腹は感じていなかった。
 口に何かを入れる気分にもなれない。
「そうですか」
 断りをいれた沙綾に対して役目を済ませたとばかりに無表情に言い放って、女中は透真の方を向いた。
「――透真様」
 そして、主へと次の指示をしてくれるよう促す。
 恐らく沙綾が眠ったままだったら、二人で様子を見に来た後この場を後にするつもりだったのだろう。
 沙綾が目覚めていたので事態が変わっていたので、このまま去ってもいいものかと判断に迷ったらしい。
 沙綾自体には何の感情も抱いていないのに、しっかりと透真に対して忠義を尽くしているのは流石だ。
 女中のその声に、透真は視線だけでこの場を預けるように指示した。
 命じられるまま次女は来た時と同じ静かな所作で沙綾たちに一礼し、この場を去って行く。
 やがて二人だけになった空間で、透真が口を開いた。
「ようやく目が覚めたか」
 感情がまるで見えない喋り方で、相手が語り掛けてくる。
 初手の挨拶としては無難なもので何の問題も無いはずの言葉だったが、責められているような気持ちが真っ先に出てきてしまう辺り、やはり自分はこの人物の事を苦手に思っているのだろう。
「ずいぶん厄介な術を掛けられていたようだな。――解くのに少し骨が折れたぞ」
 ぽつりと形のいい唇から零されていく声は極めて静かだった。
 沙綾としっかりと合わせている瞳は一見穏やかなものに形成されているが、その奥底からは一切の隙も感情の起伏も感じられない。
 威圧とも言える空気に、沙綾は唇を引き結んだ。
 透真の方も元々無駄な事を口にする人間ではなく、沈黙が訪れる。
 場が持たず、沙綾は頬を冷ましていた手拭いを桶の水の中に戻すという作業を行った。
 彼の言葉から察するに、自分は妖に何らかの術にかけられていて、彼がそれを解いてくれたという事らしい。
 彼としてはただその事実を述べているだけのつもりであるのだろうが、こちらに恩を売っているように思えてしまうのはこれまで接してきた経験の積み重ねからだろうか。
 とは言っても積み重ねと言える程の時はまだ共に過ごして無いし、彼の性格もまだ掴み切れていない状態ではある。
 さほど多くも無い、短い時間の上で人の全てが分かったとしたらその方が普通ではない。
「――誰にやられた?」
 数秒の沈黙の後、やがて透真からそんな問いが掛けられた。
 びくり、と沙綾は肩を揺らす。
 それは正確に答えられる筈もない問いだった。
 妖は、自分に適した人間を無作為に選び取りつく。取り憑かれた相手の素性などいちいち知る由も無いのだ。
 透真もその事は分っているはずで、つまり彼が訊いているのは、妖の様相。
 どのような妖にやられたか、だ。
 真意を探るのに労力が必要とされる、彼特有の話し方である。
「向かった時には完全に姿を消していたな。気配の痕跡を辿ろうとしたが、それも全て綺麗に消えていた」
 理詰めするように一つ一つ、透真は言葉を続けて行く。
 彼が襲われた沙綾の元に辿り着いた時には、あの妖は立ち去っていた、という事か。
 透真の気配を感じ取り、狩られる前に逃げたと見て間違いないだろう。
 透真の気配を察知し、いち早く逃亡した。
 そして跡を辿る事も叶わなかった――という事は、それだけ身を隠す術にも長けていたという事だ。
 自分の手から逃れる事に成功した妖がどんな類のものだったのか、彼が気になるのは当たり前と言えた。
「話せ」
 口を開かない沙綾に、透真が短く告げる。
 動くのは口だけで、他は身じろぎ一つしない――一見すると物静かにしか見えない人物だが、彼は妖を祓う時には全く別の顔を見せる。
 妖相手には、彼は微塵の容赦もしない。
(私は彼に、助けられた)
 不親切な説明ではあったが、間違いない。
 だから彼にはその問いをする権利は当然あるだろう。だが、分ってはいるがそれでもありがとうという言葉はどうしても紡ぐ気にはなれなかった。
 せめてこの行為ににもう少し彼の想いがあれば。これが心から自分を想っての行動ならば、自分もまた違った対応になるのかもしれない。
 でもこれは決して彼の本意ではないのだ。
 それを知ってしまっている以上、どうしても沙綾も歩み寄る事は出来なかった。
 沙綾はひたすら無言のままこの場をやり過ごす。
 しんとした空気の中、透真は答えを待っていた。
 沙綾はこくり、とまた喉を鳴らす。
 これは、言えない。
(絶対に言ってはいけない)
 例え能城家の次期当主で、巨大な妖狩りの力を持っている透真にも言えない事だ。
 むしろ、だからこそそれを口にできない。
 もし自分が真実を告げれば、間違いなく透真は祓い師として狩りに行く。
 沙綾にはそれが分っている。そしてその相手である妖は、間違いなく消される。
 相手が人憑きである以上、それは憑かれた人間そのものが消されるという事と同意なのだ。
 唇を結んで沈黙を貫いた。
 この行為は、裏切りになるのだろうか。
 妖胎児を生業としている彼に対してか、それとも自分自身の心に対してか。
 だが、それでも沙綾は確かに今、そう願ってしまっていた。
 あの妖の正体を今、彼には知られたくない――あの人憑きを始末して欲しくない、と。
 沙綾は視線を逸らし俯いた。
 しかし透真は引かず、さらに沙綾を問い詰めて来る。
傀儡術(かいらいじゅつ)だな。人の心に反してでも人を操り支配する。並の妖に出来るものではない」
 沙綾に掛けられていた術の名を告げ、透真は続けた。
「人憑きだな」
 そして結論を、短く告げる。
「ち、違……」
 違う、と動かそうとした唇は、透真の涼やかな視線に射抜かれて止められた。
 有無を言わさぬ迫力に、沙綾は塗り固めようとした嘘の発言を飲み込むしかない。
「――簡単に解ける術ではなかった。相当の使い手だ」
 透真がそう言うならば、間違いないのだろう。
 大抵の術ならば、彼の手にかかればたちどころに解かれてしまう。
 目の前にいる彼は、それだけの力と地位を持つ人物なのだ。
 だからこそ、沙綾の両親は彼との婚姻を望んでいた。
 力も持たない役立たずと思っていた娘が能城の妻になるよう望まれるなど、願ってもない幸運だと。
 今まで、血を守ってきた甲斐があったと父親は言い、間という間もなく自分達の縁談は決まった。
(確かに実を結んでいる)
 自分が彼に選ばれたのは、自分が祓い師としての持つ者同士の間に生まれた――つまり純血の血を持った人間だったからだ。
『お前を妻として迎える』
 迎えたい、ではなく迎える、と。
 他の選択肢は認めないとばかりにそう言って彼が沙綾の前に現れたのは、今から約六ヵ月前だった。
 血統をただひたすら守り抜いただけの家にすぎない弥神家を、国の中で頂点に君臨する能城家の次期当主ともなる立場の人間が訪れたという事実に、両親はまず驚愕していた。
 床に頭をこすりつけんばかりに平身低頭で彼を迎え入れ、そして訪問の目的であった婚姻の要求を断るはずもなく――沙綾は彼の指示通り妻となる道を選ばされていた。
 沙綾の意思など関係なく。
(初めから、私は弥神家に必要とされていなかった)
 もともと弥神の家も、違いの兄が継ぐと決まっている。
 幼い頃から能力を微力にしか持たなかった沙綾と比較すると、二つ違いである兄にはまだその血が濃く出ており、しかも第一子。
 正式な宣言されてはいないが、暗黙の了解として既に弥神家では認知されており、誰もそれを疑っていない。
 もっとも家では将来を期待されているその兄の能力値も、この目の前にいる人物と比べれば全く話にならない程度でしかないと、この六カ月の間で実感してしまっているのだが。
 ともあれ、両親にとっては処遇に困っていた沙綾が思わぬ形で家に利益をもたらす存在となったのだ。
 沙綾が嫁ぐ事で、厄介払いが出来た上、能城家と繋がりが持てる。
 『良かったわ。あなたが顔だけはまともで。祓い師の力も無い上にその上顔まで醜かったら、それこそ貰い手なんて無かったもの』
 私達が血を守って来た事に感謝してちょうだいと、母は言い放った。
 能力を持たない人間を弥神家に産み落としてしまったその事自体を最大の汚点と思っており、それが原因で父親との仲も急速に冷えて行ったらしい母親にとって、自分は憎しみの対象でしかない。
 視界にすら入らないで欲しい人間だったのだろう。
 何を言われようと反抗もせずにただ従うだけだった沙綾の性格も、はっきりした性格の母親にとっては鬱陶しかったのかもしれない。
(さっさと嫁いでくれて、きっと清々してる)
 沙綾とてまがりなりにも純血の祓い師の家系に生まれた人間である。
 いずれ両親にこういう利用のされ方をされると予想はしていた。
 しかしまさかその相手が能城家の次期当主になるなんて。
 沙綾は顔を上げて再び透真を見る。
 能力も、地位も名誉も、全てを兼ね備えている、時分とは対極の側にいる人間。
 ただ血筋の正しさだけが取り柄の能力も持たない自分を妻に望むなど、この人物も血迷ったのか。もしくは気まぐれか。
 そう始めのうちは思っていたが、どうやら彼は本気らしい。
 ――遥か昔、祓い師はごく当たり前に多く存在していた。
 しかし時の流れと共に力を持たぬ者の血が次第に混ざって行き、今やその存在は稀少となりつつある。
 ましてや純血を保っている家はごく僅かだ。
 他者の血を混ぜれば当然、力も弱まる。
 だからこそ、祓い師としての力を守ろうとする家は血に執着し、力を保つ可能性を高めておきたいと考えている。
 特に名家ともなればその傾向が顕著で、能城家とて例外ではない。
 だから、沙綾は選ばれた。
 確かな血を持つ者として、より強く、次の世代に血を残すために。
(――でも)
 欠片も祓い師の能力を持たない自分などよりも、たとえ正当な血は引かずとも、能力を持つ者を娶った方が強い血を残せる可能性は高いのではないだろうか。
 何より純血の血を引く人間は、数は少ないといえども他にも存在する。
 何故自分にこだわるのか、全く分からない。
 正直に言うと沙綾としては今でもすぐにこの話を白紙に戻したかった。
 今までの経緯がどうであれ、成長して独り立ちしたら、少しでも自由になれるかもしれないという淡い期待がどこかにあった。
 両親の選んだ相手との人生を歩まされる事になっていたとしても、その相手が運よく相性の合う相手であれば、もしかしたら幸せになれるかもしれないと。
 そのまま家から距離を置き、能力を持たないなりに平穏な人生を生きて行けるかもしれない――それだけを心の支えにして生きて来たのに。
 よりによってその相手がこの相手だと、もうこの先の希望も持てない。
 彼と意思の疎通が出来そうな気配は未だに無いし、他の女中にもこの待遇を続けられると思うと、気持ちが暗くなる。
 一生をこのまま終える――これもまた人生なのだろうか。
 世の中は思っているよりも大きく、不変であり不動だ。
 人一人の感情など、取るに足らない些末なものでしかない。
 そして人一人消えたとしても、せいぜい騒ぐのはその周囲だけで、その期間も巡りゆく長い時の中においては一瞬の出来事にすぎない。
 人は時間と共に忘れて行く。喜びも悲しみも。
 だからこそ、妖狩りは成立している。
 妖に憑かれた人間を狩る事を、許されている。
 むしろ外部からはこの平穏を守る存在として重きを置かれる存在なのだ。
 自分の身を案じる者によって、自分の利権を求める者が潤う。
 ――歪な関係だ、と沙綾は思う。
「……狩るのですか」
 震える唇から、問いかけが零れた。
 たとえ分かっていたとしても、それを訊きたい理由がある。
 答えは明らかなのに、どうして人はそれをわざわざ確認しにいくのだろう。
 人とはつくづく、よく分からない。
「人憑きだとすれば能城として放ってはおけない」
 予想していた通りの透真の答えは、沙綾の心を突き刺した。
 彼の立場を思えば、当然の事なのだろう。
 そして沙綾はそれに協力こそすれ、異を唱えられる立場ではない。
 沙綾はいずれ能城家に入る者であり、次期当主である透真の婚約者なのだ。
 理屈では分かっている。通常なら、何も言わず求められるがまま協力したかもしれない。
 しかし、この件に関しては単純にそう出来ない理由があった。
 彼との関係自体をまだ割り切れていないというのも勿論ある。だが、それだけではなく。
 自分が妖と対峙した時の事を思い出し、沙綾は口を閉ざした。
 ――記憶はもうはっきりしている。
 相手がどんな姿形をしていたのかも鮮明に浮かんでいる。
 だからこそ、言えないのだ。
 沙綾はひたすら声を殺した。その方法でしか、対応が出来ない。
 真実を告げてしまえば、間違いなく彼は動き出す。沙綾の望んでいない方向へと。
 そしてそれを止めれる自信が、沙綾には無い。
「……まあいい」
 数秒の沈黙の後、透真から返ってきたのはそんな一言だった。
 意外にもあっさりと追及の手を引かれて、沙綾ははじかれたように顔を上げた。
 拍子抜けして、くっきりと二重が刻まれた瞼をぱちぱちと二度ほどしばたたかせながら、透真を見る。
 手を伸ばせば届く距離。その近さで見ても彼はやはり全てが完全に整っており、美しい。
「言いたくないならそれでいい。こちらで探す。――だが」
 沙綾と視線を合わせて、透真が言い放った。
「しばらくの間、能城家(ここ)から出るな」
 無機質で、熱を持たない一言だった。
 追及を許されたと安心した直後、突如として言われた言葉に、沙綾は体中の血が一気に冷えて行くのを感じた。
 ここから出るな――つまり、この家に居ろ、と。
 彼はそう告げている。
 沙綾の行動を、自由を制限するという事だ。
「待ってください……!」
 沙綾は反射的に言葉を返していた。
 身を乗り出して先の台詞を紡ごうとするが、いざ発言しようとしても上手く言葉に表せない。
 自分は彼の様に自分で自分の行動に責任が持てる程の力も無い。
 反論出来る術も立場も持ち合わせていない。
「何の問題がある?」
 相変わらずの抑揚のない声で、透真はぽつりと訊ねて来た。
 問いなのかどうかすら疑問に思ってしまいそうな程の単調さだった。
「どのみちそうなる。時期が少し早まっただけだ」
 突きつけられる現実に、沙綾は呆然とする。
 確かにそうだ。すでに両家の間では自分達の婚姻は定められていて、この決定は覆ることはないだろう。
 そういう未来が来るのは時間の問題だ。
 だとしても。
「でも、そんな……! 学び舎もあります……!」
 急な提案は沙綾にとって受け入れがたい。
 沙綾は何とか考えを改めて貰おうと訴えたが、透真の意思は変わらなかった。
「必要ない。当分休学の申し入れはしてある」
 重ねて告げられた現実に、沙綾は逃げ道を完全に塞がれた事を実感する。
 普通ならそのような手配は簡単ではないはずだ。
「ですが……でも」
 有無を言わさずそれを実行した能城の力を改めて思い知り、沙綾は意味も成さない否定の単語を並べるだけになっていた。
 喉の奥が乾燥していく。
「沙綾」
 沙綾が発言する前に、それを遮って透真の声が再び響いた。
 決して口調を荒げはしないが、確かな重さを持って響く言葉。
(下の名前を、呼ばれた)
 ――本気だ。
 こうなった透真の決意は、揺るがない。その事を沙綾は婚約が成立してからの五カ月の間で、もう知っていた。
「今日俺が来なかったら、どうなっていた?」
 厳しい言葉が、刃になって沙綾の心をえぐっていく。
 一番痛い所を突かれ、反論の余地もなかった。
 現に沙綾はにこうして透真に助けられて、この場所に保護されているのだ。
「たまたま出先から戻る途中で、外に出ていた。運が良かったな」
 家の中にいたら気付かなかっただろう、と透真は呟いた。
 この能城家には余計な妖の立ち入りを防ぐ為、結界が張られている。
 結界には、近付いた妖を消滅させれるという利点があるが――しかし結界の中においては結界外からの気を感じにくくなってしまうという欠点も、また存在した。
 人の気、妖の気――通常祓い師はそれらを察知し、異変として感じ取る。
 が、結界内にいる時は、その情報が全て閉ざされてしまう。
「俺がこの(なか)にいたら、どうなっていた?」
 熱を持たぬ透真の問いに、沙綾はごくりと喉を鳴らした。
 そんな事、考えるまでもない。
 結界内にいたとしたら、透真は妖の気配も沙綾の危機も感じ取れなかった。
 そうなれば、沙綾を救出しにも来れなかっただろう。
 その結果は、考えるまでもない。
(命を落としていた)
 妖は人の負のエネルギーを好み、それを吸収し食って生きている。
 その人間の、生命力と共に。
 どれだけ食らうかはその妖次第だが、大抵の妖は丸ごと食らえるだけ食い尽くす。
 そして生命力を抜かれた人間は、抜け殻となる。
 残るのは肉体だけ。つまり、死だ。
(――私の心が汚れていた?)
 実際に人付きの妖に狙われたという事はその可能性が高い。
 これまでの人生において、負の感情の心当たりなど、沙綾にはあり過ぎる位あるのだ。
 自分が狙われたとしてもおかしくはない。
 救ってくれたのは、間違いなく透真だ。
 あの時――気を失う寸前、確かに自分を抱きとめる手があった。
 そして闇に堕ちる寸前、自分に呼びかける声を訊いた。
 沙綾、と。
 あの声は間違いなく現実世界の物で、彼の声だった。
 本来なら礼を言っても言い切れないはずだが、それでもそんな気になれないのは、彼のこの行為が利権絡みの物から来る物だと分かってしまっているからなのだろう。
 彼はいつも自分を助けてくれる。しかしそれはあくまでも婚約者としての義務だからだ。
 家に血を残す事を何よりの目的とし、人を救い守る為に、人の気持ちを犠牲にする。
 彼の行っている行為は、明らかに健全ではない。
 それは、沙綾が求めている物とは程遠いものに見えた。
(どうなってしまうの)
 このまま、この家の中だけに動きを制限されて、彼と正式に結婚する事になるのか。
 そして一生、このままの状態で彼と添い遂げて行くのか。
「……っ」
 ずきりと再び頭が痛みを訴え、沙綾は額に手を当てた。
 起きてすぐ感じた、あの痛みだった。ぶり返しだ。
 目を閉じ眉間に皺を寄せて、必死にそれが過ぎ去るのを待つ。
 暑さからだけではない汗が一滴、瑞々しい頬を伝って行き、零れ落ちた。
 布団の上に小さな染みが出来る。
「まだ残っていたか」
 透真の瞳孔が少しだけ大きく開いたように見えた。
 恐らく自分が気を失っている間に、彼は妖を全て浄化してくれていたつもりなのだろう。
 透真は沙綾の頭の位置に手を伸ばして来た。
「まあ、そのままでもじきに良くはなるが」
 後頭部にそっと手を添えて、そう呟く。
 今沙綾の中に残っているのは、ごくわずかの残骸のようなものだ。
 妖自体は祓ってくれているので、これ以上悪化する事はない。
 それでもその残骸の余波は確かに残り、沙綾に痛みを与え続けている。
(残骸だけで、こんなに痛むものなの?)
 脳の中心が突き刺され、ばらばらに破壊されそうだった。
 額に当てていた手が、がたがたと震え、唇がわななく。
 痛みから逃れたくて涙の滲む目で透真を見つめると、至近距離で視線がかち合った。
「動くな」
 思考が瓦解して、透真の指示にあっけなく従順に、沙綾は従ってしまう。
 顔をしかめ細めてしまった目の隙間から、透真が瞳を閉じて行く姿が辛うじて見えた。
 そのまま意識を集中させるようにしている。
 ――直後と言っていいだろう。
 触れられている場所から、彼の力が流れ込んで来たのが分かった。
 脳内に作用する、暖かな浄化の波動。
 その波動が少しづつ広がるにつれ、頭の痛みが引いていく。
 ゆるやかに、だが確実に楽になって行き――数十秒後、彼の手によって残骸までも取り除かれた時にはすっかり元の状態まで回復していた。
 苦しみから解放された安堵感に、はあ、と沙綾は一度だけ息をつく。
 体調が元に戻ったのを確認すると、透真の手はあっさりと沙綾から離れて行った。
 表情を見てみるものの、やはり一切崩れていない。
 まるで、やる事は済ませたと言わんばかりだった。
 やはり自分は彼に取ってその程度の価値にしか見ていない。
 そんな彼の手をまた借りてしまったという何とも言えない虚しさが、沙綾の中に押し寄せて来た。
 誰からも望まれず、ただ助けられて、自分一人では立つ事も叶わない。自分一人の面倒を見る事さえ出来ない。
 なんて無力なのだろうか。
 いじましい考えに引きずられそうになっていた時――突如として透真が次の行動を起こした。
 とん、と右の人差し指を沙綾の額に押し当てて来る。
 突然の行動に反応が遅れ、沙綾はただ身を硬直させて時間をやり過ごすだけになってしまった。
(……え)
 自分の身に何が起こったのか理解が追い付かないまま、その事象を見送る。
 次の瞬間には、体から力が抜けて行くのが分かった。
(……!?)
 宛てがわれた彼の指をめがけて生気が一気に集まり、吸い取られていく。
 良くない兆候だと気付いたのと同時に、ぐらりと上半身が揺らいでいた。
 このまま布団の上に倒れ込んでしまう――と覚悟した沙綾の身体を、透真が抱きとめる。
 いう事を聞かない体は、容易く彼に操られてしまっていた。
 全身の神経の活動が停止し、指一本さえ動かせない。
 一度かかってしまったから、分かる。
 ――これは傀儡術(・・・)だ。彼の。
 ついさっきまで掛けられていた妖のものと違う点は、体に一切害がなく、そして痛みを伴わない事だけ。
 身体が相手に操られている事は変わらない。
 何とか働いている頭が状況を拒否してどうにか身を引き剥がそうとぎゅっと透真の服を握りしめた。
 しかしまるで力の入らない上でのその行為は、抵抗の内にも入っていない。
 むしろ傍から見たら縋りついているようにしか見えないかもしれない。
 するりと透真の腕が沙綾の背中を滑った。
 腰の帯まで辿り着いて、それを解いていく。
(嫌)
 ゆるく結ばれていた帯は簡単に音もなく布団の上に落ちる。
 服が開き、封じられていた滑らかな白い肌が隙間からのぞいた。
 拒否して助けを求めたかった。
 ――しかし、立場と能力の違いの前に、声が出ない。
 声を上げれたとしても、ここは離れだ。自分達の他には誰も存在しない。
 存在してもこの家の次期当主である透真の邪魔をしに来る者は、間違ってもいないだろう。
「――あ……っ」
 完全に脱力しきった沙綾の体を、ゆっくりと透真が布団の上に横たえた。
 混ざり合うように、共に彼の身体が沙綾の上に絡んで来る。
 緩慢とも言える動きだった。
 乱れきった寝具の上で、掛け布団を体に巻き込みながら、透真が顔を近付けてくる。
 待って、という言葉を紡ぐより先に、彼の右手が沙綾の頬に当てられた。
 そのまま沙綾の頬を、慈しむように一撫でする。
 そのままするりとその上へと位置を動かし、今度は額を撫で上げると、前髪を覗いてむき出しになった額に唇を落として来た。
 軽く触れるだけのそれは、行為の始まりを告げている。
 その事を、沙綾はもう知っていた。
「や……」
 やめて、という言葉は、彼の中に呑み込まれた。
「ん……っっ」
 重なり合った唇に呼吸を止められ、鼻にかかった声とも言えぬ声が吐息となって漏れる。
 それさえも食らいつくしそうな勢いで、透真は沙綾の薄紅色の唇を味わって来た。
 深く深く。沙綾の最後の意識のひとかけらを消し去るように。
(嫌……)
 彼との行為は決して初めてではない。
 ただ心が拒否している以上、素直に受け入れられる筈もなく、拒否する気持ちが先に立つ。
 それでも、自分は彼を受け入れざるを得ないのだ。
 能城の家に嫁いで、そして能城の血を、継ぐ者を残す。それを自分が背負わされている以上。
 でも、何故だろう。
 結婚の約束は成立しているものの、まだ自分は正式な妻になった訳ではない。
 それなのにどうして彼は自分を抱いたのだろう。
 今も、抱こうとしているのだろう。
 口づけが繰り返され、互いの唇が赤く色づいていく。
 着物がはだかれ、すべらかな白磁の肌が彼の前に暴かれていった。
 余りににも自分にとっては理不尽で、目まぐるしすぎる。
 だけどそれを主張した所で、何も変わらないのだろう。
 しんとした空気の中に、二人の絡み合う音だけが静かに立つ。
 次代に、血を繋げるだけの行為。
 その血は、脈々と受け継がれていく。
 ――そして、夜な夜な、朝な夕な、彼等は妖を狩っていく。
(私の存在価値は何なの?)
 それが欲しいと沙綾は思う。
 自分が求めているのは能城家の飾りだけの妻の座などではない。
 自分そのものに置かれる、自分の価値なのだ。
(私はどうしたらその価値を残せるの?)
 答えを教えてくれる者など、周囲には誰もいない。
 今目の前にいる自分の婚約者である透真すら、自分に対して本音を話してくれた事も無い。自分を求めてはいない。
 悲しみにくれる沙綾の頭の中に、自分を闇の世界に呑み込もうとしていた人憑き(あやかし)の姿だけが静かに浮かんでいた。